ドイツ軍は、ソ連のピャチゴルスクで約200人のソ連軍の捕虜を射殺した。ドイツ軍は通常に、親族が死体を埋葬に来るようにと、それまでソ連軍の捕虜の死体を寝かせたままにした。ドイツ軍は、ソ連軍がピャチゴルスクに接近した時に、ドイツ軍はドイツに避難させるという口実で捕虜にした数百人のソ連軍兵士や指揮官、民間人を街の外に連れ出して、機関銃で射殺した。
第二次世界大戦の東部戦線にて、1942年8月9日にドイツ軍は、ロシア南部の北コーカサス地方に位置するピャチゴルスクを占領した。アインザッツグルッペ Dの本部は1942年にピャチゴルスクにあった。ドイツ軍の占領はこの地域の多くのユダヤ人住民の殺害をもたらした。1943年1月11日にソ連軍が、ピャチゴルスクを解放した。
1942年8月9日、ドイツ軍の第一パンツァー軍は2週間足らずで480km以上侵攻して、コーカサス山脈のふもとのマイコップに到達した。マイコップ近郊の西部油田は8月8日から9日にかけてのコマンド作戦で占領された。ソ連赤軍は、油田を十分に破壊して、修復には約1年を要した。その直後の8月9日に、ピャチゴルスクが占領された。8月12日にはクラスノダールが占領され、ドイツ軍の山岳部隊がコーカサスの最高峰エルブルス山にナチスの旗を掲げた。
1942年7月末に、ドイツ軍の夏の攻勢の間に、第3軍がドン河下流から南、南東へと侵攻した。第1パンツァー軍がロストフ南方のマイコップまで侵攻する一方で、第4軍と第17軍はピャチゴルスクまで侵攻して、コーカサスまで達した。1942年12月の時点で、ドイツ軍は征服された領土と通行不可能な山岳地帯から撤退した。約13万人のドイツ軍兵と約34万人以上のソ連軍兵士とソ連市民が、恐ろしい攻撃の犠牲になった。行方不明の兵士の多くは、コーカサス山脈での行軍や戦闘で戦死した。