2023年10月13日金曜日

太平洋戦争のマリンの戦いで1943年11月に、撃沈された艦船のリスカム・ベイ空母の2人の水兵がアメリカ国旗で覆われて、沿岸警備隊の艦船レナード・ウッドから太平洋の海上に埋葬された。

太平洋戦争のマリンの戦い直後の1943年11月に、艦船のリスカム・ベイ(Liscome Bay)空母の2人の水兵がアメリカ国旗で覆われて、沿岸警備隊の船から太平洋の海上に埋葬された。USSリスカム・ベイ(CVE-56)で死亡した2人の下士官が、USSレナード・ウッド(APA-12)の乗組員によって海上に埋葬された。救助された乗組員のうち2人が死亡して、海に埋葬された海洋葬により、船、ボート、航空機などから死体を海洋に埋葬した。 

 1943年11月24日午前5時10分に、護衛空母で旗艦のUSSリスカム・ベイは、マキン付近に到着した日本軍の潜水艦I-175によってわずか23分間で撃沈された。I-175が発射した1本の魚雷が、リスカム・ベイの航空機爆弾備蓄庫を爆発した。リスカム・ベイは、魚雷の命中や破片の損傷から保護されない爆弾格納の最悪の場所に命中した。爆発は艦の半分を崩壊させた。機関室後部の前部隔壁より後方では誰も生存していなかった。爆炎が収まった時にはリスカム・ベイ」の後半部分の水兵は全員爆死した。 大爆発が艦全体を飲み込み、急速に沈没した。リスカム・ベイの攻撃が、マキンの戦いにおけるアメリカ軍の死傷者の大半を占めた。リスカム・ベイの約916名の乗組員のうち、約644名(将校53名、下士官591名)が死亡した。救助されたのは約272人であった。

 マキンの戦いが、太平洋戦争中の1943年11月20日から11月23日にかけて、ギルバート諸島ブタリタリ環礁で勃発した。アメリカ軍はマキンの完全占領には4日間を要して、地上軍兵力よりも海軍の死傷者の方がかなり多かった。日本軍は約395人が戦死して、アメリカ軍が約763人が戦死した。アメリカ軍にとっての損害の比率は過大であり、太平洋戦争後半はアメリカ軍の攻勢期でも、アメリカ軍側の人的損失が日本軍側を上回った数少ない戦いとなった。




2023年10月12日木曜日

第二次世界大戦にて連合軍のハンブルグ空襲によって、1943年7月27日夜中にアスファルトの路上は炎に包まれ、ハンブルグ市民が焼死した。約9000トンの爆弾が約4万人の市民を殺害して、主要工業港を灰燼に帰した。

第二次世界大戦にて連合軍のハンブルグ空襲によって、1943年7月27日夜中には、アスファルトの路上は炎に包まれて、多数のハンブルグ市民が焼死した。約9000トンの爆弾が約4万人の市民を殺害して、主要工業港を灰燼に帰した。全部で約13,000人の男性、約21,000人の女性、約8,000人以上の子供が犠牲になった。「ゴモラ作戦のコードネームで呼ばれたハンブルクの戦いは、1943年7月24日から7泊8日の空襲作戦だった。当時、航空戦史上最も激しい攻撃であり、後にイギリス政府高官から「ドイツのヒロシマ」と呼ばれた。地域絨毯爆撃のゴモラ作戦は、ハリスとチャーウェルがチャーチルを説得して立案した。空爆作戦も、すべてのドイツ人とイタリア人を憎むべき敵と見なした。

 イギリス空軍元帥サー・アーサー・トラヴァース・ハリスは、爆撃機ハリスとして 知られ、イギリス空軍内では「ブッチャー」ハリスとして知られた。彼は、第二次世界大戦中、ドイツ国内で何十万人もの罪のない女性、子供、老人を死に追いやった直接かつ意図的な軍事責任者であった。彼はニュルンベルクで被告とともに戦争犯罪の罪で裁かれるべきだった。チャーウェル子爵(リンデマン教授)は、ドイツの都市と市民に対する絨毯爆撃作戦の主席立案者であった。

 作戦は、イギリス空軍爆撃機部隊(RCAF飛行隊を含む)とアメリカ空軍第8空軍によって実施された。イギリス軍は夜間空襲を行い、アメリカ空軍は昼間空襲を行った。7月27日真夜中少し前、約800機近くの爆撃機がハンブルクを空襲した。異常に乾燥した暖かい天候、爆撃が一箇所に集中したこと、空襲の初期に使用されたブロックバスター爆弾による消火活動の限界から、いわゆる"火災旋風(Feuersturm)"が発生した。最大風速240km/h、最高温度800℃の大火災が発生し、市街地の約21km²が焼失した。アスファルトの道路は炎に包まれ、ゴモラ作戦による犠牲者の大半はこの夜に発生した。犠牲者の多くは避難所にいた。7月29日の夜、ハンブルクは再び約700機以上の爆撃機による空襲を受けた。ゴモラ作戦の最後の空襲は8月3日に行われた。多くが跡形もなく焼滅して、死者数は不明である。

 ハンブルクは、空爆以前は特に親英的であり、ヒトラーに対する抵抗勢力を形成する地盤であった。ハンブルク空襲は、親英感情をすべて消え去り、ヒトラーへの抵抗も焼滅した。ドイツ国民は、ゲッベルスの「恐怖の空襲」のプロパガンダを信じ、恐ろしい連語軍の攻撃からドイツを守る傾向が強まった。空襲は、戦争を短縮するどころか長引かせた。

 1943年7月にヨーロッパ戦域のアメリカ空軍将校のカーチス・ルメイはハンブルグ空襲を指揮した。彼は1943年9月に、同地で第3航空師団長に任命された。1944年8月に太平洋戦線に転属して、日本全土に対するすべての空襲作戦を責任者として執行した。




2023年10月11日水曜日

太平洋戦争のフィリピンの戦いにて1945年7月1日に、ルソン島カガヤン州タペルで日本軍がフィリピン民間人を虐殺した。タペル村に続く小さな橋においては、日本軍が3人のフィリピン民間人を殺害した。

太平洋戦争のフィリピンの戦いにて1945年7月1日に、ルソン島カガヤン州タペルで日本軍がフィリピン民間人を虐殺した。タペル村に続く小さな橋においては、日本軍が3人のフィリピン民間人を殺害した。1945年11月23日に写真の男性であるペドロ・セローノは、日本軍に虐殺されたフィリピン民間人の8人の遺体を発掘して、虐殺後に発見した頭蓋骨8個を展示した。アメリカ軍の政府関係者に虐殺された場所を特定して、頭蓋骨は日本軍の戦争犯罪裁判の証拠として使用された。

 フィリピンの日本軍の戦争犯罪は、アメリカ軍主導により1945年10月開廷した山下奉文元大将のマニラ裁判から開始された。1946年7月4日にフィリピン共和国の独立後に、1947年4月までアメリカ軍主導で日本軍の戦争犯罪が裁判された。約1年半の間に、97裁判が開廷されて、215人の被告が起訴された。戦争犯罪の判決結果は、死刑は92人、終身刑39人、有期刑66人、無罪20人であった。マニラでアメリカ軍主導の戦争犯罪裁判は、1947年4月にフィリピンが独立した後の1947年4月に終結した。

 その直後の1947年7月から、フィリピン当局が残りのB級およびC級戦犯の裁判を引き継いだ。1947年から1949年にかけて、フィリピン共和国は、日本軍がフィリピンを占領していた時代に、戦争犯罪を犯した日本帝国陸海軍幹部155人に対し、73の戦争裁判を行った。その結果、1949年12月28日までに138人に有罪判決が下されて、79人に死刑判決が下った。73の裁判は、主にフィリピンにおける民間人の殺人、強姦、拷問から捕虜の非人道的扱いまで、猛威を振るった日本軍の戦争犯罪を対象とした。155人の日本軍の被告人のうち、149人が判決を受けた。日本軍の被告人のうち79人が死刑、31人が終身刑、28人が刑期の異なる判決を受けて、11人が無罪となった。1945年7月のカガヤン州の戦争犯罪を提訴されて、大村康雄(Yasuo Omura)中佐は、1949年9月12日に有罪の終身刑に判決されて、エルピディオ・キリノ大統領の1953年7月4日の恩赦で赦免された。




2023年10月10日火曜日

2023年10月7日にイスラエルのスデロットの警察署が、パレスチナのガザ地区のハマス武装勢力に制圧された。10月8日に警察署の外で、イスラエル警察がパレスチナのガザ地区の武装勢力の死体のそばに立って検死した。

2023年10月7日にイスラエルのスデロット(Sderot)の警察署が、パレスチナのガザ地区からハマスの武装勢力に制圧された。翌日の10月8日に警察署の外で、イスラエル警察がパレスチナのガザ地区の武装勢力の死体のそばに立って検死した。10月7日、ハマスの武装集団がガザ近郊のスデロットを攻撃し、イスラエル警察や一般市民と路上で銃撃戦を繰り広げ、町の警察署を占拠した。イスラエル警察の少なくとも20人が死亡した。ハマスの武装勢力は10月7日に国境フェンスを越えて襲撃し、周辺のコミュニティで数百人のイスラエル人を殺害した。

 2023年10月7日に勃発したガザ地区からハマスの奇襲攻撃は、イスラエルにとって過去数十年で最悪の死者数となった。最初の侵攻に約1,000人のハマス戦闘員が参戦した。ハマスの武装集団は、ガザを囲む国境フェンスを爆発物で突破し、オートバイ、ピックアップトラック、パラグライダー、スピードボートで海岸を横断した。多数の死者、多数の捕虜、そして猛攻撃への対応の遅れは、重大な諜報活動の失敗を指摘し、イスラエルが数十年に支配してきた人口密度の高い小さなガザ地区の領土の監視を配している長年の認識を根底から覆した。44人のイスラエル軍兵士を含む少なくとも約700人がイスラエルで死亡したとメディアは伝えた。イスラエル政府は正式にハマスに10月8日に宣戦布告した。イスラエルは過去40年間、レバノンやガザで大規模な軍事作戦を実施したが、正式な宣戦布告はなかった。

 10月7日から、ハマスの武装勢力は、女性、子供、老人を含む数十人のイスラエル人をガザ沿岸部に強制連行した。捕らわれの身や行方不明となったイスラエル人の親族が、霧の中で慟哭し、援助を懇願する様子が放映された。ハマスと小規模なイスラム聖戦集団は、イスラエル国内にて約130人以上を拘束し、ガザに強制連行したと主張した。イスラエルの治安部隊が、約400人のハマス武装勢力を殺害した。国連は、避難を余儀なくされたガザ住民の数は約123,000人を超えた。

 人口約230万人の小さな飛び地であるパレスチナのガザ地区は、ハマスの占領以来約16年間、イスラエルとエジプトによって封鎖された。ハマスに対するイスラエル軍の報復により、ガザの北東にあるベイト・ハヌーンの町の大部分を空爆で破壊するなど、約800以上の標的を攻撃したとイスラエル軍は発表した。パレスチナ保健省は10月8日に、子ども78人と女性41人を含む約413人のパレスチナ人が死亡し、約2,300人が負傷したと発表した。












Warning: Israeli police station stands by the bodies of militants outside the police station that was overrun by Hamas gunmen on Saturday, in Sderot, Israel, Sunday, Oct.8, 2023. Hamas militants stormed over the border fence Saturday, killing hundreds of Israelis in surrounding communities. (AP Photo/Ohad Zwigenberg)

2023年10月9日月曜日

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。戦死した夫の死体に抱きかかえて、若い未亡人は苦悶しながら嘆き悲しんだ(@ Don McCullin)。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

 1975年4月17日にプノンペン陥落して、クメール・ルージュによってクメール共和国(現在のカンボジア)の首都プノンペンが占領されて、カンボジア内戦は終結した。1975年4月初旬に、クメール共和国に残された最後の砦であったプノンペンは、クメール・ルージュに包囲されて、ポチェントン空港からの空中補給に完全に依存した。クメール・ルージュの制圧が目前に迫り、アメリカ政府は1975年4月12日に、アメリカ国民と同盟国のカンボジア人を避難させた。4月17日のうちに、プノンペン周辺の最後の防衛線は制圧されて、クメール・ルージュがプノンペンを占領して、クメール共和国政府は崩壊した。

 捕らえられたクメール共和国軍は、オリンピック・スタジアムに連行され、そこで処刑された。政府や軍の幹部は、処刑前に自白書を書かされた。クメール・ルージュはプノンペン住民に強制退去を命じて、4月30日までフランス大使館に避難した国外居住者を除き、プノンペンは空っぽになり、タイに移送された。外国人はフランス大使館の敷地内に押し込められた。約2週間後には外国人たちはタイ国境までトラックで運ばれ、追放された。外国人が去り、カンボジアのクメール・ルージュによる民主カンプチアで始まった恐怖政治の唯一の外部目撃者を失った。

 クメール・ルージュは、プノンペンを支配下に置いて、約200万人のプノンペン住民を地方の農村部に強制移住を強行した。家や学校で銃を突きつけられ、直ちに移動しなければ発砲された。病院でも患者は路上に追いやられた。家族はバラバラになり、子供たちは混乱の中で両親を見失った。首都プノンペンから続く道路は大渋滞となり、何千人もの人々が死亡した。友人や親族は死体を置き去りにし、わずかな持ち物を担いで足早に移住を強制された。




2023年10月8日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ドネツク州シヴェルスク(Siversk)近郊の前線で、K2大隊のウクライナ軍兵士が、塹壕に横たわるロシア軍兵士の死体の上から立って見下した。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ドネツク州シヴェルスク(Siversk)近郊の前線で、K2大隊のウクライナ軍兵士が、塹壕に横たわるロシア軍兵士の死体の上から立って見下した。1月28日に、フランスAFP通信はシヴェルスク近郊の前線の塹壕で死亡したロシア軍兵士の死体の写真を公開した。

 シヴェルスクの戦いは、 ロシア軍によるウクライナ侵攻中に、2022年7月3日に始まったウクライナ東部広域攻勢のドンバスの戦いの一環であった。ロシア軍は7月28日にシヴェルスクとその周辺への攻撃を中止した。8月を通じて戦闘は小康状態となり、ハリコフ反撃で、ロシア軍は9月8日以降は、シヴェルスクの周辺の陣地から撤退した。

 2022年7月以来、主にワグネル部隊からなるロシア軍の民間軍事会社が、ドンバスの重要な交通拠点であるバフムトを攻撃している。ワグネルは、約4万人の受刑者を含む約5万人の戦闘員を送り込んだ。アメリカ財務省は、2023年1月26日ウクライナで活動するロシアの民間軍事会社ワグネルを国際犯罪組織に指定した。

 ウクライナ軍の要塞は、クラマトルスク、スロヴィアンスク、トレツク、シヴェルスクへのロシア軍の侵攻を妨げた。前線は、シヴェルスクから数kmの地点にあった。この方面の他の住宅地と同様に、シヴェルスクもロシア軍の砲撃を受けた。

 2023年1月27日にドネツク州バフムト地区のチャソフ・ヤルの町も砲撃に見舞われた。2人が死亡、さらに5人が負傷した。車だけでなく、住宅や行政の建物も被害を受けた。1月28日に、ロシア軍がドネツク州コンスタンチノフカ市にミサイル攻撃を開始した。住宅地が火災に遭い、高層ビル4棟、ガレージ、ホテル、民間車両が被害を受けた。少なくとも3人が死亡して、2人が負傷した。コンスタンチノフカへの砲撃後、ウクライナ当局は、NATOに対し、首都キエフに長距離ミサイルの供給を呼び掛けた。

 逆に2023年1月28日に、ロシア国防省は、併合したルガンスク州ノボアイダル村の病院に対する襲撃で14人が死亡し、24人が負傷したと発表した。病院施設では軍関係者と地元住民が治療を受けていた。病院がHIMARSミサイルシステムから砲撃を受けた。ウクライナ当局は、ロシア国防省の声明にコメントしなかった。タス通信は、破壊された病院の写真を公開した。















Warning: A Ukrainian soldier of the K2 battalion stood over the body of a Russian soldier lying in a trench on the front line near the town of Siversk, Donetsk region on 28 January 2023.(Photo by AFP/Anatoly Stepanov)

2023年10月7日土曜日

長崎原子爆弾の1945年8月9日の炸裂により、爆心地から南へ約1.5kmの浦上駅付近にて、1945年9月初旬に、爆風により破壊されて焼失した路面電車が脱線していた。

 長崎原子爆弾の1945年8月9日の炸裂により、爆心地から南へ約1.5kmの浦上駅付近にて、1945年9月初旬に、爆風により破壊されて焼失した路面電車が脱線していた。長崎原子爆弾により2軸車約63両のうち約16両の電車が破壊された。

 長崎市の浦上を中心とした被爆地は、焼け野原になっていた。路面電車の残骸だけでなく、ひっくり返って焼けている自動車の残骸もあった。線路の両脇は瓦礫だらけであった。長崎市内の被爆地は、東西を山で囲まれた南北に細長い盆地であった。浦上駅は爆心地より約1kmの至近距離に位置した。駅舎は全壊し構内には多数の遺体が散乱した。国鉄職員の人的被害も甚大で、勤務中の職員ら約70人のうち即死者20人を含む65人が死亡した。

 長崎電気軌道株式会社(長崎電鉄)は、長崎駅・大橋間のおよそ約3kmに及ぶ区間が壊滅し、主要施設、建物、車両、従業員に大きな被害を受けた。旧市内の全線も数カ月にわたって停止するに至った。車両の焼失破壊は約21両におよび、電柱の倒壊折損約120本、電線及び軌道の焼失数箇所にして、従業員の死者百十余名に達した。電車の運転不能となり休業に至った。損失電車は保有車両56両のうち、可動車の約半数であり、従業員(動員学徒・女子挺身隊を含む)の死亡は総員約500人のうち23%を占めた。長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されてから3か月後の11月24日に、再び路面電車が長崎の街を走り出した。



2023年10月6日金曜日

ロシア革命後のロシア内戦にて1920年に、白軍の処刑部隊がボリシェヴィキの容疑者2人を射殺し、さらに2人を絞首刑にした。ペトログラード郊外で、白軍のオクラナ野戦師団が捕虜となったソビエト人容疑者を処刑した。

ロシア革命後のロシア内戦にて1920年に、白軍の処刑部隊がボリシェヴィキの容疑者2人を射殺し、さらに2人を絞首刑にした。ペトログラード郊外で、白軍のオクラナ野戦師団が捕虜となったソビエト人容疑者を処刑した。

 暴力が日常茶飯事となり、ボリシェヴィキ化した農民や労働者が支配権を握った地域では、地主や雇用主が強盗されて、拷問され、殺害された。白軍が優勢を保っている地域では、警察や兵士がボリシェヴィキの容疑者を見つけ出し、容疑したところでは、冷酷に虐殺した。白軍の処刑部隊は、ボリシェヴィキの容疑者2人を射殺して、さらにもう2人を絞首刑にした。ツァーリズムの無血打倒として始まったロシア革命は、今や何百万人もの民間人の犠牲者を出した。広大なロシアで、民衆が赤と白に分離していない地域はほとんどなかった。

 ロシアが内戦で引き裂かれた数年間に、赤軍と白軍の双方の残虐行為や暴力は頂点に達した。赤軍も白軍も至る所でテロを起こし、大勢の民間人を銃殺刑や絞首刑に処した。「ブルジョワジーが我らを抹殺することを望まぬなら、今こそブルジョワジーを抹殺すべき時だ」(1918年8月31日)とプラウダ紙は記載した。「我らの街から腐ったブルジョワジーを容赦なく一掃せねばならない。この連中は全員登録され、その中で革命階級の脅威となる者は抹殺されねばならない。今後労働階級の賛歌となるのは憎悪と復讐の歌だ!」。このような状況では、敗者は容赦ない勝者の慈悲を期待して降伏するか、逃げるしかなかった。

 ロシア内戦は、主に赤軍(共産主義者・十月革命側)と白軍(ロシア右派、共和主義者、君主主義者、保守派、自由主義者)の間で戦われた。2大戦闘員は、ウラジーミル・レーニンが率いるボリシェヴィキ主導の社会主義国家の赤軍と、ロシア軍の同盟軍だった白軍は、ボリシェヴィキ支配に対抗した。



2023年10月5日木曜日

バクリ前方のオーストラリア軍の対戦車砲で、日本軍の戦車9両が大破した。ムアール地区のバクリ近郊で、倒木に阻まれた日本軍の戦車は、燃えさかる残骸と化した。その手前には、オーストリア軍の対戦車砲により殺害された日本軍兵士2人の死体が横たわった。

第二次世界大戦の太平洋戦争が勃発した直後に、大東亜戦争にて1942年1月18日に、オーストリア軍の対戦車砲は、マレー半島を南下する日本軍の進撃を一時的に食い止めた。バクリ前方のオーストラリア軍の対戦車砲で、日本軍の戦車9両が大破した。ムアール地区のバクリ近郊で、倒木に阻まれた日本軍の戦車は、燃えさかる残骸と化した。その手前には、オーストリア軍の対戦車砲により殺害された日本軍兵士2人の死体が横たわった。

 1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃の後に、日本軍がマラヤを南下して、2月にはシンガポールを占領するに至った。1941年末にマラヤに配属されたオーストラリア軍第8師団は、そのほとんどが日本軍の捕虜となり、悲劇的な形ですでに損失した。シンガポールは、大東亜戦争おけるオーストラリアの安全保障の礎石であったが、日本軍によるシンガポールの陥落で礎石は打ち砕かれた。

 ムアール(Muar)の戦いでは、第二次世界大戦中のマレー作戦の最後の主要な戦いであった。1942年1月14日から22日に、ムアール川とゲメンサ橋の周辺で行われた。連合軍兵士は、ゲメンサ橋での待ち伏せと、ゲマスの町の北数kmで行われた第二次戦闘で、日本軍に大損害を与えた。オーストリア軍第8師団は橋での待ち伏せで、日本軍第5師団の約600人を殺害した。ゲマス北方の戦闘ではオーストリア軍の対戦車砲が日本軍の戦車数両を撃破した。この戦闘で、日本軍がマレー作戦で最も大きな損害を被った。

 待ち伏せ攻撃は連合軍には成功だったが、西海岸のムアルとバクリの防衛は完全に失敗した。インド軍歩兵第45旅団はほぼ全滅し、オーストラリア軍歩兵2個大隊にも大きな死傷者が出た。連合軍の戦死傷者は約3,100人に達して、日本軍は約700人が戦死亡して、800人が戦傷した。マラヤ作戦とシンガポールの戦いで、約1800人以上のオーストラリア軍兵士が戦死して、約1400人以上が戦傷した。シンガポール陥落で約15,000人以上のオーストラリア軍兵士が捕虜となった。




2023年10月4日水曜日

ハンガリーの首都ブタペストを包囲作戦で1945年1月23日に侵攻するドイツ軍の武装親衛隊兵士は、途上の雪道の道路の端には、殺害されたソ連軍兵士の死体が横たわった。

1945年1月18日から、ドイツ軍とハンガリー軍は、ハンガリーの首都ブダペストのソ連軍の封鎖解除するコンラート3号(Operation Konrad III)の包囲作戦を1月27日まで開始した。ハンガリーの首都ブタペストを包囲作戦で1945年1月23日に侵攻するドイツ軍の武装親衛隊(Waffen-SS)兵士は、途上の雪道の道路の端には、殺害されたソ連軍兵士の死体が横たわった。

 攻勢の初日の1月18日に、第4SSパンツァー軍団は、ソ連第4衛兵軍の防御陣地を突破して、防御陣地の奥深くまで侵攻した。1月19日に、退却するソ連軍を掃討して、ソ連軍の防衛線の連続性を突破して、ドゥナペンテレ村付近のドナウ川に到達した。1月20日、予備兵力の少ないソ連軍は、第3ウクライナ戦線に脅威的な状況が生まれた。

 1月21日、第5SSパンツァー師団は、ソ連第18パンツァー軍団を撃破して、北進を続けた。ドイツ軍はブダペスト郊外から南西28kmのヴァーリ川の氾濫原に到達した。1月22日に長く血なまぐさい市街戦の後に、ドイツ軍第1パンツァー師団はシュトゥルヴァイセンブルクを完全に占領した。ソ連軍は、ドイツ軍の第5SS師団と第3SS師団を反撃した。アドゥン村とイヴァンチャ村の間で、第5SS師団は大規模な地雷原に衝突した。ドイツ軍の増援偵察大隊はヴァリ川に到達したが、第5SS師団はソ連軍の砲兵隊に、激しい砲撃でヴァリ川に接近できなかった。

 1月23日、第5SSバイキング・パンツァー師団は、ヴァレー川北東岸の高台に設置されたソ連軍の対戦車砲の砲火を受けた。サン・ピエトロ付近での攻撃で撃退され退却するソ連軍部隊を追跡した。狭軌の鉄道路線の両側を突破して、ヴァレー川の対岸に到達した。第3SS師団は、ソビエト軍による猛攻の戦闘に巻き込まれた。

 1月24日、第5SSパンツァー師団と第3SSパンツァー師団は、ヴァリ後方のソ連軍陣地に大規模な戦車攻撃を開始した。戦線の幅20kmの区間でソ連軍の防御を突破した。1月26日、第4SS軍団は、ブダペストの大釜に25kmの距離まで接近した。ドナウ川まで進撃したドイツ軍戦車集団は、ソ連軍師団に補給線を遮断され、極めて脆弱となった。

 1月26日、ソ連軍第104ライフル軍団と第23戦車軍団は東岸からドナウ川を渡り、北からドイツ軍集団を攻撃した。1月27日、バラトンとドナウ川の間のドイツ軍集団には約250両の戦闘可能な戦車と突撃砲が残存した。ソ連軍には、約500両のソ連軍戦車とSAUが集中して、ソ連の大規模な反攻が始まった。南部、シャルヴィズとドナウ川の間の戦線区間で、ソ連軍はドイツ第3パンツァー師団の陣地に攻勢をかけた。北部では、ソ連第23戦車軍団が100両以上の戦車を投入し、ヴァリ川を強襲した。 第5SS戦車師団はソ連軍戦車の前進をしばらく阻止し、ソ連軍も大損害を被った。

 1945年1月28日夜に、コンラート3号作戦を諦めて、ハンガリー南部のドゥナフェルドヴァールでの攻勢に備える命令が下された。1月28日、第4SSパンツァー軍団は元の陣地への撤退を開始し、バラトン湖の北にあるバコニアンの森まで撤退し、コンラート3号作戦で占領したシュトゥルヴァイセンブルクを除くすべての領土を放棄した。

 コンラッド作戦はすべて失敗に終わり、1月の1ヶ月間の激しい戦闘で、第5SSパンツァー師団と第3SSパンツァー師団は、200人以上の将校を含む8000人近くの兵士を失った。 ブダペストでの戦闘は1945年2月13日、ドイツ・ハンガリー連合残党の降伏によって終結した。




2023年10月3日火曜日

1931年11月18日の江橋付近の激戦の後で、中国軍の大量の砲撃により、日本軍に戦死傷者が出た。日本軍兵士は、担架に戦死傷者を掲載して、後方の陣地に搬送した。

1931年9月18日に中華民国の奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した事件が勃発して、1932年2月18日に関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領をした。1931年11月18日の江橋付近の激戦の後で、中国軍の大量の砲撃により、日本軍に戦死傷者が出た。日本軍兵士は、担架に戦死傷者を掲載して、後方の陣地に搬送した。

 1931年11月18日の朝から、日本軍は三望峰の中国軍に対して総攻撃を開始した。日本軍が陣地の前線に1時間砲撃し、中国軍は大砲で応戦した。大砲の音が鳴り響き、朔北の荒野全体を震撼させた。8時、日本軍は中央を突破して包囲して総攻撃を開始した。10時、中国軍は陣地を維持できず、安康渓の地域に退却した。日本軍は戦闘機約12機、戦車約12両、大砲約30数門を追加し、激しい砲撃ですべての塹壕を破壊した。中国軍は、丸一昼夜、米も水もなく、空腹で、叫びながら、殺し合いの戦いを続けて、全旅団が半数ずつ死傷し、安康渓に撤退した。中国軍は3日間戦い続けて、約3000人以上の死傷者を出し、約2000人以上が死亡した。

 三望峰の戦いの最中、中国軍は各方面に援軍を要請した。北京からの指示は皆無であった。道安路の戦い以来、弾丸はすべて黒竜江省の古い在庫で、カビで濡れて使い物にならなかった。一昼夜の激戦で、中国軍兵士は10分の9を使い果たして、丸腰では戦争できない。多くの死傷者を出し、弾薬と食料を使い果たし、助かる見込みもなく、馬占山は中国軍部隊に撤退を命じた。日本軍は虹慶子から中国軍の後を追った。馬占山は省都を克山に移動するよう命じて、約500人の衛兵と700人の騎兵を率いて倫沙を保持した。

11月19日朝、日本軍の主力は省都から約24km離れた玉樹屯を占領し、激しい砲撃で省都を砲撃した。約5000人以上の日本軍兵士が斉斉哈爾に侵入し占領した。馬占山は軍隊を斉斉路から克山、八泉、海崙に撤退して、江橋の戦いは終結した。日本軍側は、11月4日から11月19日までの江橋抵抗戦にて、馬占山軍により、戦死は約31人、戦傷は約104人、行方不明は約13人、さらに約300人の凍傷患者が発生した。中国軍の損害は、不詳であるも約1,000から約3,000人と推定した。馬占山は、11月21日夕方に、海倫に到着した。望奎、海倫、克山、訥河の陣地に分駐した。




2023年10月2日月曜日

ホロドモールによる飢餓で餓死したウクライナ人の死体を焼却するために、毎夕方に1932年頃に運搬人が荷車に死体を満載して集団墓地まで引きずり輸送した。

ホロドモール(Horodomor)による飢餓で餓死したウクライナ人の死体を焼却するために、毎夕方に1932年頃に運搬人が荷車に死体を満載して集団墓地まで引きずり輸送した。ウクライナは、1932年から1933年頃に、ソ連によるホロドモール(ウクライナ語: голодомор)で、飢餓による殺戮が勃発した。1932年から1933年にウクライナ社会主義ソビエト共和国領内で発生した飢饉による大虐殺である。ウクライナの近代史上最悪の国家的虐殺のひとつである。死者数は約250万人から約750万人にのぼった。ヨシフ・スターリンがソビエト・ウクライナを意図的に飢餓に陥れた。ヨーロッパの大量殺戮時代の幕開けとなり、ソ連軍の冷酷な徴発と略奪で、小麦はすべて奪われた。

 ソ連のボリシェヴィキは、1919年にウクライナを支配下に置いた。その後の数年間に、権力はレーニンからスターリンの独裁制に移った。共同耕作が伝統的だったソビエト・ロシア以上に、ソビエト・ウクライナでは農民が農地を失った。ボリシェヴィキ革命直後の1918年から1921年に、ソ連のボリシェヴィキは内戦と戦いながら、農民から食糧を徴発した。ウクライナの農民を、1920年代半ば以降に強制収容所への強制送還して、ソ連が警戒した。

 ウクライナ農民は銃も少なく、組織も貧弱だった。ソ連の国家は火力と兵站をほぼ独占した。ウクライナ農民の強力な国家警察機構(OGPU)によって監視された。1930年のウクライナ人の抵抗行為を100万件近く記録した。1930年3月にソビエト連邦で勃発した大規模な農民反乱のうち、ほぼ半数はソビエト・ウクライナで起こった。1930年の最初の4ヶ月間で、約113,637人がソビエト・ウクライナから自営農家のクラーク(Kulak)が強制送還された。約3万戸のウクライナ農民の小屋が次々と空にされた。何千台もの凍える貨車が、恐怖に怯え、病気に冒されたウクライナ人を満載して、北欧ロシア、ウラル、シベリア、カザフスタンに強制送還された。ウクライナ農民は、銃声と恐怖の叫び声、列車で凍傷と屈辱、奴隷労働者の苦悩と諦めに陥った。

 1931年、収穫物の半分以上が、ソビエト・ウクライナから持ち出された。多くの集団農場は、種子穀物を引き渡して徴発目標を達成された。スターリンは1931年12月5日に、集団農場に種穀物を引き渡しを命じた。ウクライナ農民の多くは本当に何もかも失った。1931年末には、多くの農民がすでに飢えた。飢餓は破壊工作の結果であり、地元の共産党の活動家は破壊工作員であり、裏切者の党幹部となった。1932年の終わりの数週間、スターリンは、ソビエト・ウクライナで何百万人ものウクライナ人を飢餓で殺傷した。ウクライナ人は、飢餓に直面し、家族が分裂し、親は子に、子は互いに敵対した。家族は最も弱い者、子供を殺し、その肉を食用にした。親が子供を殺して食べ、後に餓死した。ある母親は、自分と娘のために息子を料理したことを国家警察機構(OGPU)は記録した。




2023年10月1日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、2023年7月にウクライナ東部ドネツク州の南部戦線にて、ウクライナ軍第35海兵旅団の陣地の側に、放置されたロシア軍兵士の死体が散乱した。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2023年7月下旬にウクライナ東部ドネツク州の南部戦線にて、ウクライナ軍の第35ウクライナ海兵旅団の陣地の側に、2023年7月に放置されたロシア軍兵士の死体が散乱した。ウクライナ軍がスタロマイオルスケ(Staromaiorske)を2023年7月30日に解放したとき、ウクライナ軍兵士たちは1ヶ月間、ロシア軍兵士の死体の側で戦った。ウクライナ軍が2023年7月30日に、ドネツク州南部戦線のスタロマイオルスケ町を奪還した。ウクライナ軍の陣地から約10mも離れずに、ロシア軍兵士の死体が1カ月も放置されて横たわった。6月初旬から侵攻して、ウクライナ軍兵士は銃撃を続けた。ウクライナ軍は、ドネツク州の南部のザポリツィア州の入口にいた。最終的に7月30日に広大な平原の町であるスタロマイオルスケを解放した。

 ロシア軍兵士の死体から漂う腐敗臭は、爆発があれは1分も経たないうちに最も不快になる。ロシア軍兵士の死体は、ヘルメットの横で地面に横たわり、制服と防弾チョッキに身を包み、ハエが飛び交った。ロシア軍は結局、占領地スタロマイオルスケ町を防御できなかった。 ウクライナ軍の迫撃砲部隊長である25歳のマキシムは、「ロシア軍兵士の死体を処理するのは業務ではない。司令官から死体の処理は命令されていない。」と述べた。数m先には迫撃砲の砲弾が何十発もあり、ロシア軍は、ウクライナの樹海も要塞として塹壕を掘った。

 ウクライナ軍は膨大な数のロシア軍と衝突し続けた。ロシア軍は防衛網と塹壕を構築し、戦闘機や無人偵察機、対人地雷や対戦車地雷で防御した。スタロマイオルスケの占領してロシア軍が崩壊しても、ウクライナ政府はウクライナ軍の戦争死者、戦傷や行方不明の犠牲数は公表しない。平坦な平原の地面には、壁の裏や建物の防御もなく、丸太が残した穴の間に、ウクライナ軍兵士たちを守る溝や塹壕や穴がある。22歳のアンドレイは、高級アパートと自虐して、かろうじて体が収まる穴を見せびらかした。ロシア軍が爆弾やクラスター弾を降らせると、攻撃中に身を守る穴を使り、砲弾が間近に迫ると、万一に備えて地面に伏せた。














Warning: The corpse of a Russian next to a position of the 35th Ukrainian Marine Brigade, on the southern front in Donetsk.(LUIS DE VEGA/EL PAÍS)

2023年9月30日土曜日

32歳の農業に従事していた女性は、全身を長崎原子爆弾に爆傷して、大村海軍病院に救護された。8月9日に被爆して3日後の9月11日に四病舎に、全身が衰弱して入院した。

大村海軍病院に収容せる原子爆弾の被爆した患者の惨状として、32歳の農業に従事した女性は、全身を長崎原子爆弾に爆傷して、大村海軍病院に救護された。被爆して3日後の9月11日に四病舎に収容され入院した。右臀部肛門を距る約2cmの部位に、長さ約4cm、幅約2cmの創面があり、全身が衰弱した。25%のブドウ糖約400ccに、ビタミンBCを加えて注射することにした。9月21日に、赤血球沈降速度が一時間約100mmに昇っていた。それ以外は示してなく、記録された記事がなかった。

 長崎原子爆弾の投下されて炸裂した直後に、長崎市の医療機関の活動は、長崎市医師会などの救援隊は爆心地周辺から医療救護活動を開始した。長崎市旧市街地の主な救護所は新光善小学校救護所と勝山小学校救護所であった。対岸地区の救護所は、稲佐小学校、三菱病院(本院)、御真寺であった。長崎北部では、平宗(現在の滑石一丁目)の民家が救護所に利用された。周辺では、ベテラン軍医の家族の救護が目立った。

 長崎原子爆弾の炸裂からわずか1〜2時間後には、長崎医科大学の職員が長崎医科大学病院の裏山で、被爆した負傷者の手当てを始めた。浦上第一病院(神学校跡地)の職員は焼け残った一室で、三菱病院浦上分院の職員は銭座町の防空壕で救護した。4〜5時間後には、諫早海軍病院救護班が第一陣として伊良林小学校で被爆した負傷者の手当てを始めた。大村海軍病院の救護班、国立小浜診療所の救護班(小浜町救護班)も長崎市の爆心地に入り、救護活動を執行した。

 長崎市は被爆直後から爆心地とその周辺で献身的な救援活動が行われた。しかし、その活動範囲は一部に限定された。空襲警報が頻発し、アメリカ軍の戦闘機が飛来するという最悪の状況下で、救援部隊の到着が遅れた。本格的な医療救援活動の開始も、長崎原子爆弾の投下翌日の8月10日にずれ込んだ。8月10日から、多くの海兵隊や陸軍の救援隊、各大学の救援隊を含む長崎県内外の救援隊が被災地に到着して、積極的な救援活動を行うことができた。日本海軍や日本陸軍の救援部隊の組織は、長崎県出身者が将校や衛生官として優先的に抜擢された。その指揮下で働く長崎出身者の兵士も入隊していたようである。壊滅的な被爆を受けた長崎市で活動するために動員された日本海軍と日本陸軍の救援部隊、大学の救援チーム、長崎県内外の救援チームが救護活動を展開した。




2023年9月29日金曜日

1994年7月に、アフリカのザイールのゴマで、ルワンダ大虐殺により難民となったフツ族が、コレアの伝染病に襲われた。フランス軍のブルドーザーが、コレラの伝染病により死亡した死体を、集団埋葬するために集めた。

1994年7月に、アフリカのザイールのゴマで、ルワンダ大虐殺により難民となったフツ族が、致命的なコレアの伝染病に襲われた。フランス軍のブルドーザーが、コレラの伝染病により死亡した死体を、集団埋葬するために集めた。難民キャンプには、深刻なコレラの伝染病がまん延した。コレラ犠牲者の死体の多くは、アフリカの暑い太陽の下で露出して腐り、荒れ果てた火山荒野に積み重なった。他にも膨れ上がった死体が散乱して、世界史上最悪の疫病を必死で食い止めた。唯一の救援は集団墓地の掘削だけで、危機が終末的な範囲を示した。推定約120万人の難民がザイール国境を越えて流れ込んだ。

 1994年4月7日から7月15日に勃発したルワンダ大虐殺(ルワンダでツチ族に対するジェノサイドとも呼ばれる)では、アフリカ中東部に位置するルワンダの多数派フツ族が、少数派ツチ族を中心に80万人もの人々を殺害した。首都キガリでフツ民族主義者によって勃発した大量虐殺は、衝撃的なスピードと残虐さでルワンダ全土に広がった。一般市民は地元の役人やフツ勢力政府によって、隣人に対して武器を取るよう扇動された。ツチ主導のルワンダ愛国戦線が7月初旬の軍事攻勢によってルワンダを掌握するまでに、数十万人のルワンダ人が死亡し、約200万人の主にフツ族の難民がルワンダを逃れ、本格的な人道危機の事態が悪化した。ジェノサイドに協力し支援したのはルワンダ市民ぶあった。多くのツチ族や穏健なフツ族が、反ツチ感情に燃える隣人たちにより引き渡され、殺害された。難民のほとんどが新たに力を得たツチ反乱政府の報復を恐れたフツ族が、近隣のブルンジ、タンザニア、ウガンダ、旧ザイールの病気だらけの難民キャンプに詰め込まれた。

 1994年7月に、アフリカのザイール東部のゴマに住む約100万人近いルワンダ難民の間に、最悪の伝染病のコレラが流行した。国連難民高等弁務官事務所は、伝染病の流行で約12,000人近くが死亡したと推定した。バングラデシュ国際下痢症研究センターは、医療チームをゴマに派遣した。約2週間の滞在中に、ユニセフとザイール保健省と協力し、疫学的評価を行い、臨時治療センターを運営して、他の保健員にコレラと赤痢症の管理の技術的支援を行った。流行の原因の病原体と薬剤感受性を特定するため、ゴマに微生物学研究所を設置した。医療チームは、5つのキャンプ地のうち2つのキャンプ地にある多くの仮設治療施設を訪れ、医療提供者に技術的助言を行った。推定20万人の難民が流行の影響を受けたゴマ市の治療施設も訪問した。治療センターでもコレラによる死亡者は予想をはるかに上回った。

 治療センターでの全体の症例致死率は15%近くあった。研究所の調査により、初期の流行はテトラサイクリンとドキシサイクリンの抗生剤に耐性を持つコレラ菌と判明した。8月第1週までにコレラ患者数は減少したが、赤痢患者数は急速に増加した。主に赤痢菌1型が原因であり、赤痢菌はメシリナムを除くほとんどの赤痢治療薬に耐性であった。不適切な水分補給療法や保健員の経験不足もあり、死亡を防ぐことはできなかった。医療チームは、症例致死率が最も高い(14.5%)ゴマ市のカティンド臨時治療センターの運営を引き継ぎ、致死率を1%未満に下げた。