2023年7月28日金曜日

日中戦争の南京事件にて、日本軍によって石油で焼き殺された南京市民の死体が焦化した。焼死体は、日本軍の爆撃で死んだあるいは焼き殺された中国人車夫であった。

日中戦争の南京事件にて、日本軍によって石油で焼き殺された南京市民の死体が焦化した。焼死体は、日本軍の爆撃で死んだ中国人あるいは日本軍に生きたまま焼き殺された中国人車夫と、国民政府が主導して記録された(顾金亮『日寇暴行実録』Picture Record of Japanese Savagery, 1938年)。1937年12月に勃発した南京事件の写真が出回った。

 焼死体の周囲には、焼け残った車以外に火災の痕跡が見られない。爆撃の火災ではなく、車夫は明らかに人為的に焼却された。全身がくまなく焼けて、地面に横たわった状態で燃料を掛けられ、燃やされた。焼かれる前に、既に死体が激しく腐敗して、死体の四肢は屈曲せず水平に伸展し、足は炭化して崩れて、肘は伸展した。死亡後、一週間も経過した死体は、筋肉のタンパク質の腐敗が激しい為に、焼却しても四肢が屈曲しなかった。焼死体は、生きたまま焼き殺されたのではなく、手の付けられないほど腐敗し焼かれた。

 1937年12月13日に、侵攻してきた日本軍は、当時中国の首都であった南京に侵攻し、約40日以上にわたる大虐殺を行って、膨大な中国軍兵士と民間人が無残に虐殺された。中国は長い間、日本軍の残虐行為を大虐殺と据えてきた。日本では、南京大虐殺を否定する勢力が常に存在した。日本の政治や社会が右傾化する中で、南京大虐殺を否定する動きが再び強まった。日中戦争初頭の1937年12月、大日本帝国軍が中華民国の南京市を占領した際、約2カ月にわたり多数の中華民国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵および一般市民を殺害、略奪、強姦、放火した

 日本軍は侵攻する先々で焼き討ちと略奪を尽くし、中国の街は廃墟と化し、かつての家屋は荒廃した。日本軍の残虐行為である焼却された死体が、、日本軍の残虐行為を、焼却と略奪に狂奔した映像が映し出した。邪悪な日本軍の侵略は、中国の各所を焼き払おうとて、焦土にした。爆撃の後に、日本軍は再度に火を放ち、高熱の焼夷弾、火災を誘発する油を、人口が密集した都市に、絶え間なく投下した。何度も燃やして、何千年もの中国の遺産が破壊された。炎に埋もれた中国人は、非人間的で悲惨な虐殺に遭遇した。放火による残虐行為は、盗賊や強盗よりも悲惨である。








2023年7月27日木曜日

第ニ次世界大戦の東部戦線にて、1941年10月にZiS-3砲の側で、ソ連軍砲兵が殺害されて、倒れたとても若いソ連軍の乗組員の死体が散乱した。砲弾が命中して、破片が斜面のゴムを破壊して、銃砲が損傷していた。

第ニ次世界大戦の東部戦線にて、1941年10月にZiS-3砲の側で、ソ連軍砲兵が殺害されて、倒れたとても若いソ連軍の乗組員の死体が散乱した。砲弾が命中して、破片が斜面のゴムを破壊して、銃砲が損傷していた。

 ルジェフの戦いが、第二次世界大戦の東部戦線にて、1942年1月8日から1943年3月31日に、ドイツ国防軍に対してソ連赤軍が一連の攻撃をした。戦闘はスモレンスク州の北東部とトヴェリ州の南部で行われた。ソ連軍の損害が甚大となり、ルジェフ肉挽き作戦と呼称された。モスクワ近郊に追いつめられたソ連赤軍が、ドイツ軍に対して反攻に出て、ルジェフの戦いで、ヴャジマへ向かって侵攻し始めた。ルジェフ周辺のみを残して、ソ連軍は前線を西へ押し返して、さらに残存したドイツ軍の突出部に対して再度攻撃が行われた。激しい戦いで、ルジェフの建物は全て消滅して、その人口の6分の1以上がドイツに送られて強制労働を強要された。その他の市民の約9,000人は射殺され拷問を受けた。ルジェフ中心に設置された強制収容所で飢えて死んだ。

 ドイツ軍の武装親衛隊(SS)兵士は、苛酷で無慈悲な思想で能弁な政治思想から、隔絶された永劫の時が流れた。ヒトラー総統への忠誠と祖国必勝の信念に突き動かされて、武装SS部隊は、ロシアの侵攻にて沼沢地、森林を遮二無二に侵攻した。英雄的行為と犠牲に、身の毛のよだつ戦場物語が記録された。武装親衛隊は第ニ次世界大戦の膨大な記録の中に、自らの居場所を獲得した。南方、中央、北方軍集団のいずれの戦区でも、ソ連軍が最初の痛手から立ち直り死守した地点で、ソ連軍の反撃によりドイツ軍戦線に穴が穿たれた地点で、武装親衛隊SSに出動命令が下された。

 武装親衛隊SSは、ドイツ全軍の先頭に立った。ドニエプル河に橋頭堡を獲得し、ソ連軍のクリミア防御をペレコプで打ち破り、タガンロクを襲ってロストフへと侵攻した。武装親衛隊は、ソ連軍を追ってアゾフ海の岸辺へと達した。ボロジノの南で、ソ連軍のモスクワ防衛線を突破して、首都ワルシャワまであと数kmの地点まで進撃した。1941年末にソ連軍が初めて、大反撃を発起した時点には、武装親衛隊SSは戦史に類を見ない奮戦ぶりを示した。ソ連軍の猛射に耐え、殺到する戦車と歩兵集団の攻撃をも跳ね返した。武装親衛隊SSはドイツ東部軍の火消し役という武力を発揮した。




2023年7月26日水曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、日本軍守備隊はアメリカ軍の水際撃滅を狙って、やっと木陰にたどり着いた2人のアメリカ軍海兵隊員も、日本軍に狙撃されて射殺された。

太平洋戦争においてペリリュー島の戦いにて、日本軍守備隊は、オレンジ海岸のアメリカ軍の水際撃滅を狙った。アメリカ軍を水際撃滅を狙って、日本軍は可及的に引きつけて爆撃するように命じられた。この2人の海兵隊員も、やっと木陰にたどり着いた地点で、日本軍に狙撃されて射殺された。椰子の木の陰に隠れていたアメリカ軍兵士は、両手で拳銃を持ち上げ、 狙いをつけようともがいた。日本軍兵士は、次から次へと倒しに、海岸へ突撃した。海岸では敵味方入り乱れての白兵戦が展開中された。軽機関銃や小銃で、狙いを定める余裕もなく、敵味方もただ引き金を引いた。

 アメリカ軍は、1944年9月15日午前8時に、ペリリュー島に上陸した。アメリカ軍兵士が、艦砲射撃に援護された上陸用舟艇や水陸両用戦車が、海岸に上がってきた。海岸にたどりついたアメリカ軍米海兵隊員たちは、予想を裏切られて、 日本軍の猛反撃に遭った。たのみの水陸両用戦車は炎上し、やむなく海岸に乗り上げた上陸用舟艇の陰に隠れた。

 至近距離で撃ち合いだけでなく、手榴弾の投げ合いとなった。海岸に上陸はしたが、日本軍の重砲火で進撃は困難となった。砲爆撃で椰子の木は全部倒されて、敵陣も不明で殺したり殺されたりの白兵戦となり、弾がつづくかぎり撃ちまくった。

 アメリカ軍の前線の第1線には、は黒人兵が多かく、かなりの黒人兵士が戦死した死体が散乱した。ペリリュー島に南洋特有のスコールが通り過ぎ、もうもうたる硝煙と火薬の異臭が洗い流された海岸線には、敵味方の死体が累々と陽に焼かれ、白波に洗われていた。死体の数は明らかにアメリカ軍兵士の迷彩服の方が多かった。アメリカ軍は、ペリリュー島の第1次上陸作戦で、上陸用舟艇約60余隻、シャーマン戦車約3輌、水陸両用戦車約26輌を損失して、約1,000人以上の死傷者を出し、午前8時すぎに、一時的な撤退のやむなきに至った。

 コンクリートで築いたり、珊瑚礁で、日本軍の防空壕や砲座が海岸のいたるところにあり、海にも陸にも機雷や地雷をギッシリと敷設した。交叉した道路には、対戦車砲と自動火器で厳重に防備した。突然と、横にいた兵士が動かなくなり、少し前まで喋っていた兵士が、もう誰が誰かわからない。砂の中に頭を埋め、足を高くして頭を低くしないとタマがよけられず、ペリリュー島の攻略はまったく地獄戦となった。

 ペリリュー島の戦いは、激烈をきわめたアメリカ軍は、ペリリュー島の占領後、上陸点の西海岸 (西浜)を、オレンジ・ビーチと名付けた。両軍兵士の血で白い珊瑚の海面がオレンジ色になってしまったからだ。オレンジ・ビーチは、いまやペリリュー島では正式名称化した。ペリリューの作戦はアメリカ軍は3日間で終了すると公言したが、11月27日に終結した。アメリカ軍は、戦死者約2,236人、戦傷者約8,450人、戦病者は約2,500人と日本軍は、戦死者約10,022人、戦傷者は約446人の犠牲を伴った。





















2023年7月26日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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2023年7月25日火曜日

1943年1月26日に、ニコライエフカ村でソ連軍の包囲網を突破するための攻勢戦により、負傷した多数のドイツ軍兵士が、雪の吹きだまりに置き去りされて凍死した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ニコライエフカの戦いは、1943年1月にイタリア軍がスターリングラードの戦いを巡る攻防で起こった包囲突破である。ニコライエフカ村(現ロシア・ベルゴロド州リヴェンカ)付近で、イタリア第8軍のアルピーニ(山岳)軍団がソ連軍の包囲突破した。1943年1月26日に、ニコライエフカ村でソ連軍の包囲網を突破するための攻勢戦により、負傷した多数のドイツ軍兵士が、雪の吹きだまりに置き去りされて凍死した。凍結した死体は、積雪の戦場に放置されて道路の砂利となった。ソ連軍女性カメラマンのガリーナ・サンコー(Galina Sanko)が撮影して、『レニングラード,1942年』に掲載された。

 1942年12月16日、ソ連軍はイタリア第8軍を狙って小土星作戦を開始した。ソ連軍は、ドン川沿いに強行渡河してイタリア第8軍を包囲して、コーカサスで戦っているドイツ軍A軍集団と断ち切った。12月16日、ソ連軍がイタリア第8軍を攻撃して、瞬く間に壊滅した。ソ連軍は黒海に急速に南下した。

 イタリア軍のアルピーニ軍団は、右翼のソ連軍からの攻勢を受けなかった。1943年1月13日に、ソ連軍は土星作戦で、イタリア軍の北西でドン河畔のスヴォボダ付近でハンガリー2軍を攻撃し、包囲し、撃破した。アルピーニ左翼のドイツ軍の残存部隊を押し戻し、イタリア軍アルペン軍団を包囲した。1月17日夜、イタリア軍のアルペン軍団は完全撤退を命じられた。戦闘作戦を遂行できるのはトリデンチーナ師団だけだった。イタリア軍のアルピーニ軍団とドイツ軍とハンガリー軍を加えた約4万人の集団は、わずかなドイツ軍装甲車の支援を受けながら、西方の枢軸側戦線へ向かった。

 1月26日朝、トリデンチナ師団はニコラエフカ村に到達し、ソ連軍が両側の鉄道堤防を要塞化した。午前9時30分に、イタリア軍のアルペン軍団とドイツ軍が攻撃を開始した。正午までにイタリア軍はニコラエフカ村の郊外に到達した。日没までに、イタリア軍のアルペン軍団は、強化されたソ連軍の戦線を突破するのに苦闘した。イタリア軍は、人海戦術でソ連軍の陣地を攻撃して、ソ連軍の戦線を突破した。イタリア軍の生き残り部隊はソ連軍の包囲突破して、戦闘地域から撤退できた。

 2月1日に、イタリア軍のアルピー軍団の残党は枢軸軍の戦線に帰還した。クネンセ師団は壊滅し、ジュリア師団の10分の1(約15,000人の兵力のうち約1,200人)のみが生き残り、トリデンチーナ師団の3分の1(約15,000人の兵力のうち約4,250人)のみが生き残った。ソ連軍の攻撃開始時に約10,466人を数えたヴィチェンツァ師団は、約7,760人が戦死または行方不明となった。合計すると、イタリアのアルペン軍団は戦闘開始時に約57,000人の兵士のうち34,170人が戦死し、9,400人が負傷した。ソ連軍の死傷者は約1,000人であった。




2023年7月24日月曜日

1903年に勃発したマケドニア国粋主義者によるイリンデン蜂起を鎮圧したオスマン・トルコ軍は、斬首により殺害した反乱軍の首を手前に自慢のポーズをとった。

1903年に勃発したマケドニア国粋主義者によるイリンデン蜂起を鎮圧したオスマン・トルコ軍は、斬首により殺害した反乱軍の首を手前に自慢のポーズをとった。オスマン帝国の支配下にあったマケドニアの解放のためにたゆまぬ戦いを続けた。中世ヨーロッパでは斬首は高く評価された。貴族にのみ首を切り落とされ、農民や職人は絞首刑や溺死した。20世紀になり、西洋文明によって斬首が非人道的で野蛮と認識された。現在、死刑の斬首は、中東諸国のカタール、サウジアラビア、イエメン、イランでのみ執行された。

 1903年8月に、イリンデン・プレオブラジェニエ蜂起が勃発した。約26,408人の反乱軍が、約35万人のトルコ正規軍と非正規軍を相手に生死をかけた戦いを繰り広げた。約3ヶ月の抵抗の後、蜂起は血に染まって鎮圧された。反乱軍は約994人が戦死傷して、民間人が約4,694人が死亡した。オスマン・トルコ軍は、約5,328人が戦死傷した。 

 19世紀にオスマン帝国の力が低下すると民族主義的思想が普及し、バルカン半島全体に動揺をもたらした。ギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人などが独自の学校を設立し、言語を基にして民族性を築いた。ブルガリア正教とセルビア正教がギリシャ正教から独立した。バルカン半島のスラヴ人がギリシャ語でなくスラヴ語で説教をする教会に行けた。バルカン半島では国籍の概念が浮上し始めた。19世紀の蜂起と戦争の結果、ギリシャ王国、セルビア王国とブルガリア王国がオスマン帝国から独立した。マケドニア地方はオスマン帝国の領土内に留まった。

 1893年にオスマン帝国のマケドニア地方に住むスラヴ系の革命家が、マケドニア地方と住民の独立を目指した政治的革命組織である内部マケドニア革命組織(VMRO)を設立した。VMROは民族や宗教に関係なく、マケドニア地域の住民であれば誰でも参加できたが、主にブルガリア人で構成された。VMROが設立され、言語や宗教的な区分を基に成立したブルガリア人やギリシャ人という民族性とは別に、新たなマケドニア人という民族性が築かれた。

 VMROは1903年にオスマン帝国に対する大規模な蜂起を起こした。イリンデン蜂起と呼ばれた。イリンデン蜂起は、マケドニア地方全体に広まった。オスマン軍によって瞬く間に鎮圧された。VMROは、マケドニアの独立を主張し続けるグループと、ブルガリアの首都ソフィアを拠点としてブルガリアへの併合を目指す、より過激なグループに分かれた。

 1910年代に、バルカン半島は第一次世界大戦を含む戦争に巻き込まれた。オスマン帝国は崩壊して、現代のトルコ共和国の領土以外を失って、バルカン半島一帯に大きな変化をもたらした。1918年には、中央ヨーロッパを支配したオーストリア=ハンガリー帝国の解体に伴って、主にスラヴ人が居住するオスマン帝国の南端部は、セルビア王国と一体化して、ユーゴスラビア王国が成立した。オスマン帝国の崩壊に伴ってマケドニア地方は分割され、現代の北マケドニア共和国の領土がユーゴスラビアの一部、マケドニア地方の南部はギリシャの一部、北西部はブルガリアの一部となった。ユーゴスラビアの下で、マケドニア地域の領土は南セルビアと改称され、言語はセルビア語の方言と見なされた。

 第二次世界大戦後1946年に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する6つの国家の一つとして、マケドニア社会主義共和国が現代の北マケドニア共和国にあたる領土で設立された。セルビア、ブルガリア、ギリシャの教会とは別にマケドニア正教の教会も設立された。新しい国での民族意識が作られ、ギリシャとブルガリアの領土に当たったマケドニア地方の住民は、徐々にそれぞれの国民と同化した。




2023年7月23日日曜日

ウクライナ軍に解放されたドネツク州ストロジェヴェ村への野原や道端には、破壊されたロシア軍の戦車の近隣に搭乗員の死体と燃えた装甲車が散乱していた。

ウクライナ軍は2023年6月12日に、2022年3月からロシアの占領下にあったドネツク州ストロジェボエ(Storozheve)村の解放を発表した。ウクライナ軍に解放されたストロジェヴェ村への野原や道端には、破壊されたロシア軍の戦車の近隣に搭乗員の死体と燃えた装甲車が散乱していた。ウクライナ軍の報告によると、解放の掃討の際に約50人のロシア軍兵士が戦死して、4人が捕虜になったと。ストロジェヴェ村自体には、砲撃によって損壊した家屋が見られる。












Warning: The body of a Russian soldier is seen near a destroyed Russian tank near the front line in the newly liberated village Storozheve in Donetsk region, Ukraine, June 14, 2023. (REUTERS/Oleksandr Ratushniak)

 ウクライナ軍の反撃の開始日は、ロシア郡は6月4日に大規模な攻撃を阻止したと主張し、ウクライナの反撃の開始日とみなした。6月5日、ウクライナ国防副大臣は、ウクライナ軍がいくつかの方向で攻撃的行動を行ったと述べた。アメリカの戦争研究所は、ウクライナ軍が6月4日から広範な反撃を開始したと公表した。6月6日には、ヘルソン州のドニプロ川にあるカホウカダムが決壊した。

 イギリスBBCとロシアの独立系メディアMediazonaのプロジェクトによると、ウクライナとの戦争で約25,528人のロシア軍兵士の死亡を確認した。そのうち約2,498人が動員されていた。犠牲者の中には、ロシア軍やその他の法執行機関に所属する約2,150人以上の将校が含まれた。約161人の軍用パイロットの死亡も確認された。イギリスBBCとロシアMediazonaの共同プロジェクトは、2023年6月16日に公表した。文書、親族からのメッセージ、墓のデータなど、公開された情報源によって確認された死亡者のみが分析された。ロシア国防省は、人的損失に関するデータを公表しておらず、ジャーナリストが報告した数字もコメントしていない。

 死傷者の中で最も多いのは囚人であると指摘した。クラスノダール(Krasnodar)・クライ地方、スヴェルドロフスク(Sverdlovsk)地方、チェリャビンスク(Chelyabinsk)地方、バシキリア(Bashkiria)地方、ブリヤート(Buryatia)地方、ヴォルゴグラード(Volgograd)地方から出身者の死者が最も多かった。

 2023年6月14日に、ウクライナのドネツク州で新たに解放されたストロジェヴェ村の前線近くにあるロシア兵の死体を検証した(REUTERS/Oleksandr Ratushniak)。ストロジェヴェ村は、モクリ・ヤリ川近くの集落の一つで、ロシア軍兵士の死体の一部は、近隣の畑の湿地帯に放置されていた。














Warning: The body of a Russian soldier is seen near the front line in the newly liberated village Storozheve in Donetsk region, Ukraine, June 14, 2023. (REUTERS/Oleksandr Ratushniak)

2023年7月22日土曜日

大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

 長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて炸裂した。8月9日当日に、長崎県大村町の大村海軍病院には、約758人の被爆者が収容された。その後は、長崎市内の救護所からの被爆者を合わせると、千数百人の被爆者を収容した。大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

 太平洋戦争中に、長崎県全体が海軍の基地になっていた。長崎市は軍需工場があり、佐世保市には海軍佐世保鎮守府があり、大村市には海軍航空隊があった。そして、戦地で戦傷した日本軍兵士を収容していたのが大村海軍病院であった。佐世保鎮守府に近い平坦地で、長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)の海岸に滑走路を設置し、大陸に最も近い航空基地として、大村海軍航空隊が設置された。

 戦時災害保護法で、救護所の開設の期間は、2カ月間以内と定められていた。10月中旬頃から、長崎市内の各地の救護所が閉鎖となった。長崎駅まで運ばれて、汽車に乗せられた被爆者が、長崎原子爆弾の投下直後から被爆者収容の拠点になっていた大村海軍病院に搬送された。長崎県東彼杵郡大村町久原の小高い丘に立つ大村海軍病院は、千数百人規模の被爆者を救護した。

 1945年8月9日に、長崎市への原子爆弾投下に伴って約758人ほどの被爆者が大村海軍病院に収容された。終戦直後から治療を担当した医師らが避難した。残った医師も業務障害状態となったため、8月末で約450人の重症被爆者を退院させた。10月時点の入院患者は約2000人収容の病院に、約3人のみの状況となった。当時、長崎原子爆弾の被害が及んだ長崎医科大学 (旧制)は、大村海軍病院へ教室を移転した。大村海軍病院を医大に転用するように佐世保鎮守府に対し要請を行った。「目下の日本の情勢では大学教育を必要としない」「南方から引き揚げてくる傷痍軍人の病院として残さねばならない」として却下された。1945年12月に、厚生省へ移管されて、厚生省所管の国立病院化により、国立大村病院となった。2001年4月に、現在の国立病院機構長崎医療センターに名称変更となった。



2023年7月21日金曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、1945年2月25日の戦闘で、切り裂く日本軍の機関銃の中を、アメリカ軍兵士は低い姿勢で前進して、1時間前の攻撃で殺害された日本軍兵士の死体が、地面に横たわった。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、1945年2月25日に硫黄島での戦闘の最中に、日本軍の機関銃の弾丸が、アメリカ軍兵士の頭上の木々を切り裂いた。その中を、ライフル銃を所持しながらアメリカ軍兵士は低い姿勢で前進した。その1時間前に、アメリカ軍海兵隊の前進による攻撃で、殺害されて死亡した日本軍兵士の死体が、硫黄島の地面に横たわっていた。太平洋戦争で硫黄島は日本軍は最も強固な防御をして、アメリカ軍と日本軍ともに約2万数千人の兵士が死傷して倒れた。

  同日の2月25日には硫黄島の戦闘の最中に、アメリカ軍海兵隊戦闘工兵士は、硫黄島で日本軍の防御陣地を爆破する砲弾を放った。多くの日本軍の防御陣地は、日本軍兵士が塹壕に戻って、アメリカ軍海兵隊の側面に砲撃を加えていた。

  アメリカ軍第3海兵隊は2月24日に上陸して、硫黄島北部の台地の比較的平坦な中央部を侵攻した。硫黄島の台地の砂岩は、風雨と火山の隆起によって破壊された。2月25日9時30分頃から、海兵隊の攻撃が開始され、日本軍の主防衛線に殴り込みをかけた。海兵隊の砲弾が発射された。火炎放射戦車は、防弾坑道で日本軍兵士を焼却した。絶え間ない攻撃が、ついに日本軍の戦線に亀裂を入れた。2月26日、摺鉢山の北方で野戦砲と対戦車陣地であった382高地で、日本軍の防御陣地を攻撃した。2月27日夜に、第2飛行場北側の双子の丘を制圧した。2月28日午後に、本山村の廃墟を制圧し、第3飛行場を支配する丘を占領した。3月1日に382高地を必死に奮闘して奪還した。

 硫黄島の戦いの犠牲者は、アメリカ軍は約2万1千人の死傷者、護衛空母1隻沈没、船舶30隻大破、戦闘機約168機が損害を受けた。日本軍側は、守備隊全員の約2万3千人が全滅して玉砕した。




2023年7月20日木曜日

バストーニュ包囲戦にてドイツ軍兵士は究極の犠牲を払って、膨大な兵士の死体が戦場に散乱した。ドイツ軍は、包囲したバストーニュのアメリカ軍防衛網を突破できなかった。

第ニ次世界大戦の西部戦線の最終戦にて、初雪が降った1944年12月20日に、バルジの戦いで重要な戦闘であるベルギー南部のバストーニュ包囲戦が勃発した。ドイツ軍の大砲が、バストーニュを砲撃して、周辺の森林も標的にした。アメリカ軍の落下傘部隊が、森林に潜伏していた。空挺師団が包囲され、逃げ場を失って、ドイツ軍はアメリカ軍の補給を断ち切った。ドイツ軍兵士は究極の犠牲を払って、膨大な兵士の死体が雪上の戦場に散乱した。ドイツ軍は、包囲したバストーニュのアメリカ軍の防衛網を突破できなかった。

 12月21日に、降雪が状況をさらに困難にした。ドイツ軍の戦車は前進できず、バストーニュへの砲撃を続けた。アメリカ軍兵士は、壁が氷で覆われた壕の中で苦闘した。暖をとる術もなく、多くのアメリカ軍兵士が病気や凍傷になった。しかし、アメリカ軍の第101空挺師団は、ドイツ軍の猛攻を撃退し続けて、偵察や戦闘パトロールまで送り出した。

 ドイツ軍の現地司令部は、アルデンヌの森からの撤退を求めた。ヒトラーは予備役の継続起用を命じた。ドイツ軍は、バストーニュ攻防戦では危機的な状況が続いた。バストーニュでは、状況は依然として危機的で、度重なる攻撃でドイツ防衛軍は後退を余儀なくされた。12月22日、ドイツ軍のリュットヴィッツ将軍は白旗を掲げて、包囲された守備隊に名誉ある条件での降伏を要求した。アメリカ軍のアンソニー・マコーリフ将軍からは"NUTS!(地獄に落ちろ)"と、伝説的な返答をした。12月23日に、期待された好天が訪れて、最初の物資を空輸でき、連合軍はドイツ軍の陣地に多くの空襲を加えた。状況は絶望的なままに、12月24日のクリスマスまでに、境界線は26kmに縮小された。

 ドイツ軍はわずかな増援と補給を受けただけで、連合軍の空軍にますます打ちのめされた。12月24日クリスマス当日に、ドイツ軍はあらゆる手を尽くしたが、到着して間もない戦車は大きな損害を被り、防衛線を突破できなかった。アメリカ軍第3軍第4装甲師団が南から進撃し、12月26日午後4時45分に守備隊に合流して、ドイツ軍の包囲網は破られた。1944年の厳冬期、人口4,000人で7本の道路が連結するバストーニュをめぐる攻防戦で、アメリカ軍は約3,000人以上の死傷者、ドイツ軍の犠牲は不明である。




2023年7月19日水曜日

ベトナム戦争にて、47歳女性の戦争写真家であったディッキー・シャペルは、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、1965年11月4日に爆発した地雷によって死亡した。

ベトナム戦争にて、47歳の戦争写真家であったディッキー・シャペル(Dickey Chapelle)は、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、爆発した地雷によって死亡した。1965年11月4日に、チューライ基地近くで、南ベトナム解放戦線のベトコンの地雷が炸裂して、その破片が身体を射殺した。彼女はベトナム戦争で殉職した最初のアメリカ人女性特派員となった。「私が死ぬときは、アメリカ海兵隊のパトロール中でありたい」と彼女は語っていた。彼女の最期の死亡は、"起こるべくして起こった "と伝えらた。




 ディッキー・シャペルは、1965年11月4日午前8時頃にクアンガイ省チューライの南16kmで海兵隊小隊とパトロール中のブラックフェレット作戦中に戦死した。海兵隊によるチュウライ近郊での捜索・殲滅作戦であった。シャペルの頸部に破片を受けて、頸動脈を切断して、間もなく死亡した。彼女の最期の瞬間はアンリ・ユエ(Henri Huet)の写真に収められた。彼女の死体は6人の海兵隊員からなる儀仗兵とともに送還されて、海兵隊により丁重な埋葬が行われた。海兵隊は彼女に軍務上の栄誉を与えた。

 ディッキー・シャペルは、太平洋戦争の硫黄島の戦いの写真を撮った。米海兵隊のウィリアム・フェントン(William Fenton)伍長は、硫黄島の浜辺のすぐ近くに停泊していたUSSサマリタン病院船の中で、重傷を負って担架に横たわり、治療を待っていた。シャペルは、551人の重傷の海兵隊員がその船に乗船し、彼らの命を救おうとしたと説明している。硫黄島は第二次世界大戦中、最も激戦となった戦いのひとつで、海兵隊の死者6,821人、負傷者19,217人、日本軍は死者約21,000人、捕虜はわずか216人だった。



 ディッキー・シャペルは、第二次世界大戦にて女性戦場特派員の創世記の一人である。シャペルは、病院船から沖縄の無人島に向かい、大規模な攻撃で負傷者を救助する海兵隊員たちを取材した。海軍は喜ばず、彼女は銃を突きつけられて沖縄戦争から追い出された。戦争写真は手に入れて、そのうちの2枚は、沖縄の野戦病院で、14パイントの輸血を受ける前と後のジョニー・フッド(Johnny Hood)海兵隊員の写真で、血の川の献血に拍車をかけた。

 

2023年7月18日火曜日

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年4月19日に亀甲墓に手榴弾を投げ込み、隠れた日本軍兵士が飛び出すと、取り囲んだアメリカ軍兵士が、狙い撃ちに射撃して殺害した。

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年4月19日に亀甲墓の中に手榴弾を投げ込み、隠れた日本軍兵士が飛び出してくると、取り囲んだアメリカ軍兵士が、一斉に狙い撃ちにして射撃して殺害した。墓の入口に、日本軍兵士の死体が散乱した。アメリカ軍は、シラミつぶしの如くに、抵抗する日本軍兵士を掃討して排除した。多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓が、堅牢な構造からトーチカに使われ日本軍陣地の一部となった。亀甲墓はアメリカ軍の攻撃対象となり、避難した兵士や住民が、艦砲射撃から手榴弾や火炎放射器によって殺害された。4月19日に、アメリカ軍3個師団が、日本軍の戦線を突撃したが、大混乱に終わった。日本軍は那覇市牧志の急斜面で反撃を開始し、比較的露出していた低地に大砲と迫撃砲の雨を降らせた。

 アメリカ軍兵士が、沖縄のトーチカの亀甲墓に手榴弾を投げ込む間に、取り囲んだアメリカ軍兵士は、ライフル銃を持って射殺を待機した。射殺されて死んだ日本軍兵士の死体も散見された。アメリカ軍が日本軍の墓のトーチカを一掃した。アメリカ軍兵士が、手榴弾を残骸に投げ込んだ。取り囲むアメリカ軍兵は、ライフル銃を持って警備した。沖縄では、日本軍が墓をトーチカとして使用した。日本軍兵士の死体が、厚いコンクリートで作られた墓の前に横たわった。

 沖縄の地形は、日本軍に有利だった。稜線と断崖絶壁の地形は、戦場を小規模で悪質な銃撃戦の連続に変えた。日本軍は、密生していない植物にて、アメリカ軍に偵察できた。稜線に散在する洞窟やコンクリートで固められた沖縄の亀甲墓から、日本軍は連動した強烈で激しい小火器射撃を可能にした。日本軍の大砲は、丘や稜線の側面に隠蔽した多数の砲撃によって、攻撃してくるアメリカ軍に照準を合わせた。

 アメリカ軍は、襲撃する日本軍と激しい肉弾戦が勃発した。戦場には日本軍兵士の死体が散乱した。日本軍兵士の胸に戦闘ナイフを突き刺されたり、銃剣で内臓を摘出された。アメリカ軍の手榴弾を浴び、あるいはライフル銃や機関銃の弾丸で銃口が開けられた。

 沖縄戦は3カ月近く繰り広げられ、戦争中最悪の神風攻撃もあった。1945年6月22日、沖縄がアメリカ軍によって占領された。アメリカ軍は約1万2,500人以上の死者・行方不明者を含む約4万9000人以上の死傷者を出した。沖縄戦に巻き込まれた沖縄県民の被害は甚大で、約15万人もの民間人が犠牲と推定された。沖縄島を防御した日本軍兵士のうち、推定約11万人が死亡した。




2023年7月17日月曜日

第一次世界大戦の青島包囲戦にて、日本軍兵士が1914年10月1日に、中国山東省の青島包囲戦で、ドイツ軍に殺害された同志の日本軍兵士の死体の側でひざまずいた。

第一次世界大戦の青島包囲戦にて、日本軍兵士が1914年10月1日に、中国山東省の青島包囲戦で、ドイツ軍に殺害された同志の日本軍兵士の死体の側でひざまずいた。仰向けに倒れた日本軍兵士の死体の側で見守った。1914年秋に、イギリス軍は中国の青島で日本軍とともに戦った。目標は青島のドイツ海軍基地で、約4,000人が駐留した。2ヶ月の包囲の後に、11月にようやく青島は陥落した。犠牲となった日本軍兵士の死者は約733人、戦傷者は約1,282人であった。イギリス軍は死者は約12人、戦傷者は約53人であった。ドイツ軍は、死者は約199人、戦傷者は約504人に及んだ。

 ヨーロッパの西部戦線と東部戦線で戦闘が繰り広げられる一方で、連合軍とドイツ軍との間では、小規模な戦闘が世界各地で勃発した。極東では、連合国は中国の青島にあるドイツの海軍基地を侵略した。イギリスは長い間、中国におけるドイツの存在を、イギリスの利益に対する脅威とみなした。1902年以来、日本と同盟を結んで、日本はアジア大陸に領土的野心を持っていた。

 日本軍は開戦前から、青島を包囲する準備を整えていた。1914年8月15日に、ドイツに最後通告して、ドイツは中国と日本の領海から軍艦を撤退させ、青島を引き渡すよう要求した。拒否されて、1914年8月23日、日本はドイツに宣戦布告した。8月27日から、140門以上の大砲で武装した約2万人の日本軍が青島に上陸し、軍艦とともに港への砲撃を開始した。9月2日に、日本軍は、9月2日に山東半島北岸の龍口から上陸した。イギリスは、中国北部の天津を守備した海軍部隊と約1,500人のイギリス軍兵士の派遣を決定し、青島港の周辺で日本軍と合流した。日本軍は、艦船からの初の航空攻撃、初の夜間空襲により青島港の包囲戦をした。重榴弾砲でドイツ軍を弱体化しながら、塹壕を徐々に侵攻した。ドイツ軍は約2カ月も持久戦して、11月7日に降伏した。その3日後に青島港を引き渡して、日本軍が占領した。

 好機到来とばかり参戦した日本は、ドイツの租借地である青島を占領した。山東半島をおさえると、5項目二十一か条の要求を中国の袁世凱大総統に手わたした。山東省のドイツの権益を日本にゆずる、旅順・大連、満鉄の権益期限を99か年延長、内モンゴルの権益要求、中国政府に日本人顧問をおくなどである。交渉25回、袁世凱は日本の圧力に屈した。中国民衆は憤激し、要求受け入れの日を「国恥記念日」とよび、日本製品の不買運動を起こした。




2023年7月16日日曜日

ロシア軍兵士の戦死者数に関する統計分析によると、2022年2月から2023年5月までに約5万人近いロシア軍兵士のロシア人男性が、ウクライナとの戦争で死亡した。

ロシア軍兵士の戦死者数に関する統計分析によると、約5万人近いロシア軍兵士のロシア人男性が、ウクライナとの戦争で死亡した。2022年3月27日に、ウクライナの首都キエフ郊外のシトニキーで、ウクライナ軍との戦闘中に死亡したロシア軍兵士の死体が、トウモロコシ畑に横たわった。




















Warning: A Russia soldier killed during combats against Ukrainian army lay on a corn field in Sysnyaky, on the outskirts of Kyiv, Ukraine, March, 26,2022. (AP Photo/ Rodrigo Abd, file)

    ロシアの2つの独立系メディアであるメディアゾナ(Mediazona)とメドゥーザ(Meduza)は、ドイツのチュービンゲン大学と戦死者数の共同研究した。ロシア政府のデータを使用して、最も極秘にしたウクライナ侵攻のロシア軍兵士の死者数を統計的推測をした。COVID-19のパンデミック感染で流行した過剰死亡率の統計的手法に準拠した。相続記録と公的な死亡率データから、2022年2月から2023年5月まで約50歳未満の男性が通常期より多く死亡を推定した。

 ロシア軍もウクライナ軍も、軍事的死者数は極秘にしている。敵側の死者数を増幅させて喧伝した。ロシア軍は、約6000人強のロシア軍兵士の死亡数のみ公式に認めた。軍事的死者数の報道は検閲と抑圧された。死者数を公表することは、反国的な行為で、刑事責任に直面した。

 メディアゾナとメドゥーザが、ロシアのネットワークと協力し、SNS投稿やロシア全土の墓地の写真を使って、戦死者のデータベースを構築した。2023年7月7日現在で、約27,423人のロシア軍兵士の死亡を確認した。ロシア政府が執拗に隠蔽した戦死者数を推計した。メディアゾナとメドゥーザは、ロシア当局に提出された相続案件の記録を入手した。全国検認簿には、2014年から2023年5月までに、死亡した1100万人以上の情報が含まれた。2022年に15歳から49歳の男性の相続案件が、予想より約25,000件多く発生した。2023年5月27日までに、超過件数は約47,000件に急増した。

 2022年12月以来にウクライナで、約2万人以上のロシア軍兵士が殺害されたとアメリカ当局の5月の評価とほぼ一致していた。ロシア軍人全体の死者数は、アメリカとイギリスの情報機関の戦死者数よりは低い。イギリス国防省は2023年2月に、約4万人から6万人のロシア人が戦死したと推計した。アメリカ国防情報局は、開戦1年目に戦死したロシア人の数は約35,000人から約43,000人と推計した。イギリス国防省は、7月10日にロシア軍による多くの死傷者(切断も含む)は、約17ヶ月間に、1日平均約400人の死傷者を出した。

 ロシアの公的統計機関であるロススタットから2022年の年齢別・性別の死亡率データを入手した。2022年に死亡した50歳未満の男性は予想より2万4千人多く、相続データ分析と一致している。行方不明は、公式には死亡と認定されないロシア人や、自称ドネツク共和国やルハンスク共和国の部隊で戦っているウクライナ国民は、数に含まれてない。不確実性は数千分の1で、推計結果は全体的に妥当である。

 7月10日にAP通信からメドゥーザとメディアゾナの調査について質問されたクレムリンのドミトリー・ペスコフ報道官は、研究での死亡者数にコメントを拒否し、ロシア国防省のみ特権を持っている。メドゥーザはロシアの独立系メディアで、ラトビアのリガに本部を置いて、約8年前から亡命して活動している。2021年4月、ロシア当局はメドゥーザを 外国代理人に指定し、広告収入を困難にした。2023年1月、ロシア政府はメドゥーザを違法な組織として追放した。ロシア当局は、ウクライナに全面侵攻した後に、独立系メディアゾナをウェブサイトをブロックした。

   ウクライナのドネツク州スヴィアトヒルスクで、戦闘で死亡したロシア軍兵士の死体は、ロシア軍が遺棄して死体と遺骨化した。ウクライナの捜索隊が、ウクライナ軍とロシア軍の死体と遺骨から身元を探索した。













Warning: The Remains of one of the Russian soldiers killed in battles and abondoned by Russian troops in Sviatohirsk, Ukraine, December 21, 2022. Volunteera of a Ukrainian search GRoup looed for the remains of Ukrainian and Russian servicemen to identified them.(AP photo/ Andrily Andriyenko, Files)

2023年7月15日土曜日

原爆死没者の遺骨が、1971年10月から11月に、広島市似島の似島中学校農業実習地で7体分の遺骨が発掘されて、身内に供養された。

原爆死没者の遺骨が、1971年10月から11月に、広島市似島の似島中学校農業実習地で7体分の遺骨が発掘されて、身内に供養された。本格的な発掘作業の結果、約600体分の遺骨と62点の遺品も見つかった。似島は戦時中に、海外からの兵士や軍馬の検疫所があった。原爆投下後により収容所となッタ。原爆で傷ついた被爆者約1万人近く運び込まれた。身元不明の死亡した被爆者は、一カ所に集めて千人塚に埋葬された。1955年に約2,000体の遺骨は、広島平和公園の戦災供養塔に移された。広島にまだどの程度の遺骨が潜在しているかは想定できず、現在も多くの遺族が身内の遺骨を探し求た。

 日清戦争開戦前の1894年9月15日に大本営が東京から広島に移った。明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,広島は臨時首都となった。全国から日本軍兵士が広島に集結して、宇品港から出兵して帰還した。似島が宇品港と対峙して近距離で、似島陸軍検疫所(第一検疫所)が1895年に創設された。1904年に,日露戦争が勃発すると,検疫数は日清戦争時の5倍に及び、第2検疫所(消毒所)が増設された。1日の処理能力は約8千人の死体の大規模検疫所になった。

 1944年夏頃から、海上挺進戦隊などの特攻訓練基地が設置された。ベニヤ板の小型舟艇を用いて教育訓練した。ドラム缶の爆雷を積んで敵艦に突撃する四式肉迫攻撃艇(マルレ)と半潜水攻撃艇(マルハセ)の海上特攻隊の教育訓練に,深浦地区や検疫所の一部が使用された。秘密部隊である陸軍船舶練習部の第十教育隊が似島で教育訓練した。

 1945年8月6日の原子爆弾の投下直後から、日本陸軍船舶司令部(通称「暁部隊」)が,重傷被爆者を手当する似島検疫所を選定した。似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容しした。爆心地からの直線距離は一番近い島の北端で約8kmであった。8月6日は午前10時頃から広島市中で被爆した被爆者が船で似島に続々と運ばれた。常時に被爆者が運ばれた。暁部隊の兵士や少年特攻兵等が、必死の収容,治療,看護業務を昼夜を問わず執行した。似島町の島民も、献身的な救護活動をした。収容者された被爆者数は約1万人余と推定された。証言や発掘された遺骨数から,搬送された被爆者のうち,約7割が死亡したと推計された。

 被爆者が死亡して、火葬が8月10日頃から開始された。死者の急増により,火葬する手間もなくなった。身元不明のまま多くの死体を、隣接する陸軍馬匹検疫所の構内の各所に土葬した。戦後にたびたびに,被爆者の遺骨が収容された。1945年9月に検疫所職員等が、馬匹検疫所構内に遺骨を集めて供養塔(千人塚)を建立した。その後,1955年7月に,似島の遺骨の約2,000体は,平和記念公園内の広島市戦災死没者供養塔に合祀された。





2023年7月14日金曜日

朝鮮戦争中に、頭と肩に重い荷物を背負って避難した朝鮮人の母親が、飢えで疲れ果てて土の上に倒れた幼い朝鮮人の娘を助けようと引き起こした。

朝鮮戦争中に、頭と肩に重い荷物を背負って避難した朝鮮人の母親が、飢えで疲れ果てて土の上に倒れた幼い朝鮮人の娘を助けようと引き起こした。母親の視線は、何かを警戒して、朝鮮戦争中の不安で緊迫しながら周囲を見渡した。北朝鮮から韓国までの数日間にわたり長距離の避難して、一人の幼い韓国人少女は、疲れ果てて栄養失調で、母親の足下に座り込んだ。疲れ果てた朝鮮人の娘は、もはや自らの体を支えることができずに意識を失った。朝鮮戦争から避難した母親は、荷物をたくさん抱えながらも、諦めずに朝鮮人の娘の名前を呼び続けながら、娘の体を引き起こした。

 アメリカ軍の従軍記者らは1950年9月17日に、韓国仁川月尾島に上陸した後に、平沢と五山でアメリカ第2装甲師団と第7歩兵師団に合流して、水原性を経てソウルに入る過程にて写真撮影をした。国際赤十字委員会(ICRC)の東アジア代表処を通じて入手した写真には、遠い道を去る避難民の苦しい姿と負傷者の治療現場、混乱の中で子どもを預かる親の悲惨な姿などが生々しく収められている。戦争写真を通じて戦争の惨状を直接見て、なぜ戦争がこの地から消えなければならず、なぜ平和の世界が来なければならないのかを感じる展示となった。

 朝鮮戦争は、ソ連の支援により軍事力を増強した北朝鮮軍が、1950年6月25日に38度線の全域から南侵して、勃発した。わずか3日間で、首都ソウルを占領した。アメリカ主導で、国連安全保障理事会で、国連軍が派遣された。国連軍が9月15日に仁川上陸作戦で、ソウルを奪還して、鴨緑江まで侵攻した。中国軍が朝鮮戦争に介入して、再び首都ソウルが略奪された。1953年7月27日に休戦協定で一次的に終結した。朝鮮戦争の避難民の総数は、約1,041万人で人口の半数に相当した。朝鮮戦争の犠牲者(戦死者と行方不明者)数は、韓国軍が約98万7000人、民間人約143万人で、北朝鮮軍は約92万6000人、民間人約200万人が犠牲となった。国連軍は約15万人と中国志願軍は約18万3000人、民間中国人が約72万人が犠牲となった。