2023年5月6日土曜日

広島原子爆弾に被爆した似島臨時救護所に入所者の左顎から左首に、著明なケロイドが膨隆した。左の下顎、口から首に、手のひら大のケロイドに覆われ、醜い形態を伴った。

広島原子爆弾の炸裂により重度の被爆者は、広島湾沖の似島臨時救護所に搬送された。似島臨時救護所に入所者の左顎から左首に、著明なケロイドが膨隆した。表面的な火傷でも巨大なケロイドが形成された。左の下顎から、口から首にかけて、手のひら大のケロイドに覆われ、醜い形態を伴った。瘢痕組織の肥厚とは異なり、蟹の甲羅や脚に類似した不規則な形態の膨隆を形成するために、ケロイド(Keloid, ギリシャ語で蟹の意)と呼称された。ケロイドは、被爆後の火傷後に形成される瘢痕組織の繊維状の過形成で、皮膚への放射線熱傷を伴った。

 毛包のない火傷は治癒が長期化しやすく、治癒後もケロイドが形成されやすい。原子爆弾のケロイドは、形状が大きい傾向があり、治癒が遅れた傷が、厚く深いケロイドを形成した。創傷閉鎖後も、ケロイドの再発を示す傾向があった。ケロイドの傷跡は、被爆者の皮膚が原子爆弾の炸裂の初期閃光の熱に直接にさらされた部位に形成された。被爆者の火傷の治癒に際して過剰な量の瘢痕組織を形成する傾向があった。

 原爆による火傷や傷の傷跡が厚くなり、ケロイドの瘢痕の増殖が見られた。ケロイドは、爆心地から約2km以内で被爆して熱線を浴びた被爆者の約50~60%に見られた。ケロイドは放射線とも関係性があった。ケロイドは、被爆者の心と体にも永続的な傷跡を残した。特に、顔面に発生したケロイドには精神的な苦痛を伴った。背中や肩にできたケロイドは、肌を見せるのを避けた。

 1955年5月には、広島から25人の被爆してケロイドを顔貌などに発現した若い女性の原爆乙女が、顔と体の形成外科手術のためにアメリカに連れて来られた。彼女たちは原爆乙女(Hiroshima Maidens)と呼ばれて、約18ヵ月間のアメリカ滞在で形成手術を受けた。アメリカ国民が、出会った最初で唯一の原爆被爆者として当時はとても有名になった。




2023年5月5日金曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、日本軍兵士は南部式軽機関銃をかかえたままアメリカ軍海兵隊隊員に殺害された。硫黄島の火山灰の海岸には、殺害された日本軍兵士が倒れ込んだ悲壮な死体が散乱した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、日本軍兵士は南部式軽機関銃をかかえたままアメリカ軍海兵隊隊員に殺害された。硫黄島の火山灰の海岸には、殺害された日本軍兵士が倒れ込んだ悲壮な死体も散乱した。

 1945年2月19日初日に、アメリカ軍海兵隊は北太平洋に浮かぶ火山島である硫黄島の海岸に上陸した。上陸用舟艇のタラップが下がると、海岸は混沌とした納骨堂に変貌した。日本軍の砲撃と機銃掃射により、身動きがほとんど不可能となった。海岸の全長は、日本軍の砲撃で、アメリカ軍の車両の残骸と、海兵隊の死傷者の無残な死体が四方八方に無差別に散らばり、海岸は、この世の地獄となった。最終的には第二次世界大戦中最大の水陸両用軍を集結させた。約8万人の海兵隊が、硫黄島の日本軍を直接攻撃した。

 アメリカ軍を待ち受けたのは、日本帝国でも屈指の兵力を擁する要塞であった。硫黄島の日本軍守備隊は21,000人で、ほとんどが歩兵で、砲兵と高射砲が加わった。装甲部隊、工兵や補給部隊を含む海軍の支援部隊もいた。硫黄島分は、迷路の地下道で結ばれ、厳重に要塞化され、十分に隠蔽された。

 最初の装甲LVT(水陸両用A)は午前8時59分に海岸に到着した。上陸地点の砂浜は粗く黒い火山性の結晶で、人も車も通れない状態で、車両は泥沼化した。海岸は海兵隊員で埋め尽くされた。日本軍の大砲、迫撃砲、小銃の猛烈な砲撃が、混雑した浜辺に突然降り注いだ。砲撃の恐ろしい轟音が上陸地点に押し寄せると、海岸線はたちまち納骨堂と化し、地面には死屍累々の海兵隊員と破壊された車両が散乱した。日本軍の機銃掃射が鳴り止まない中、海兵隊は、日本軍の防御を横断して、海兵隊員は塹壕を攻撃し、手榴弾を投げ込み、爆風に耐えて生存した日本軍兵士を殺害した。海兵隊は日本軍の砲火を浴びながら、甚大な犠牲を払って、次々に倒れ、孤独に苦しみながら死亡した。

 日本軍の砲撃が海岸線を襲い続ける中、海兵隊員は堤防を登り、内陸へ侵攻した。戦車や車両が続々と上陸し、海岸線は残骸で詰まっていた。夕闇が迫る中、日中の戦闘で疲労した海兵隊員たちは身を固め、日本軍の反撃の脅威の中で夜を迎えた。上陸作戦は、3万人の兵員を、装甲車と砲兵によって硫黄島へ正面から上陸した。硫黄島の初日の戦いは、血の犠牲を伴った。熾烈な戦場の中で、すべての負傷者の収容は不可能であった。日中に約1,000人の兵士が避難したが、海岸には恐怖におののき、骨折し、必死に治療を必要とする無力な海兵隊員の戦死傷者が散らばった。日本軍の迫撃砲は無差別に降り注ぎ、救護所を2度も直撃した。




2023年5月4日木曜日

太平洋戦争にてグロスター岬の戦いが、1943年12月26日から1944年1月16日まで勃発した。グロスター岬に上陸したアメリカ軍は、直ちにジャングルを踏破して日本軍の飛行場に侵攻して、日本軍は甚大な犠牲を伴った。

太平洋戦争にて、グロスター岬の戦い(Battle of Cape Gloucester)が、1943年12月26日から1944年1月16日まで勃発した。グロスター岬に上陸したアメリカ軍海兵隊は、直ちにジャングルを踏破して日本軍の飛行場に侵攻した。日本軍守備隊は荒涼たるジャングルの中で猛烈に抵抗するも、圧倒されて甚大な犠牲を伴った。多数の殺害された日本軍塀士の死体が、ジャングルの中に散乱した。アメリカ軍兵士が、日本軍兵士の支隊を見回して検死した。

 アメリカ軍は、12月26日にニューブリテン島の最西端にあるグロスター岬に上陸を敢行して、その近隣の飛行場を占領した。グロスター岬は、ニューギニア本土の北東で、ニューブリテン島の半島北部の西端にあり、近隣の村の名前からツルブと呼称された。日本軍の反撃で、一時的にアメリカ軍の侵攻が鈍化するも、1943年12月下旬までに飛行場はアメリカ軍海兵隊によって占領された。日本軍は、機関銃、迫撃砲、砲撃で攻撃したが、銃撃戦で撃退されて、日本軍はほとんどが撤退した。アメリカ軍兵士は、約310人が戦死しても約1,083人が戦傷した。日本軍兵士は、約2,000人が戦死した。

 日本軍守備隊は、海上輸送船団や沿岸輸送に対する空爆と潜水艦の攻撃のために、物資と医薬品が枯渇した。海岸線に沿う原始的な小道網も不十分で、雨季を通して浸水して、樹木でジャングルが構成された。車両は、グロスター岬の泥の中で身動きが取れなかった。日本軍は猛烈に陣地を守備したが、侵攻するアメリカ軍海兵隊を失速させるも、日本軍守備隊には人員も武力も衰弱した。

 1943年には連合軍の攻勢により日本軍は2月7日にガダルカナルを失って、東部ニューギニアでも敗退を続けた。ダンピール海峡をのぞむニューブリテン島西部のグロスター岬(ツルブ)は、連合軍の北上を食い止める要衝として、約6000人が防衛で送り込まれた。すでに制空権がほぼ連合軍に奪われていたため、部隊の輸送はニューブリテン島の北東端の拠点にラバウルから駆逐艦などで行われた。約2万人の連合軍は12月26日から猛烈な艦砲射撃と空襲を加え、グロースター上陸を開始した。ジャングルの山中に潜伏して持久戦をした日本軍は、ツルブからの後退を開始して、司令部から2月24日にラバウルまでの後退を命令された。過酷な持久戦と1,000kmに及ぶ撤退の途上で、約2,300人以上が死亡して、約7,000人が行方不明となった。




2023年5月3日水曜日

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmのアル・マハウィルの集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰り、無残な遺体を抱きながら泣いた。

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmにて、アル・マハウィル(Al-Mahawil)の集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、見つかった身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰った。イラク人男性は、無残な遺体を抱きながら泣いた。1991年のシーア派の蜂起が鎮圧されて以来、行方不明になっている人々の親族は、トラクターや素手で土を掘り起こしながら、親族の遺体を必死で探した。

 イラク戦争が2003年5月1日のアメリカ軍の戦闘終結宣言した後から、イラクの法医学チームは2003年5月14日に、バグダッドの南約90kmのアル・マハウィル近郊の農場近くの集団墓地に埋められた推定約1万5000体もの死体を発掘し始めた。アル・マハウィルの集団墓地には、行方不明のイラク人が数百人集まり、親族の死体を探した。湾岸戦争が1991年3月1日に終結した直後の3月5日から4月5日までサダム政権に対するイラク蜂起が勃発した。1991年3月に首都バグダッドにいたフセイン大統領は、シーア派の反乱を鎮圧するために、イラク南部の地方に分散した決死隊を南部に素早く集結させた。サダム・フセイン政権は、ヘリコプター、長距離砲、装甲地上部隊を集結して暴動に残忍に反撃した。南部で約30,000~約60,000人のシーア派イラク人、北部で約20,000人のクルド人を殺害した。イラク人権省は、アメリカ軍主導の侵攻以来に約3年間に登録した約200の集団墓地の大半は南部にあったと公表した。

 犠牲者は、1991年3月頃に、フセインがイラク南部で起きたシーア派の反乱を鎮圧した際に殺害された。イラクの裁判所は、1991年の弾圧で少なくとも約10万人、おそらく約18万人のシーア派が殺害された文書証拠と目撃者の証言を持っていた。イラクの1991年の殺人者たちは、蜂起の責任者を追い詰めるのに時間をかけず、戦闘年齢に達した若者を無作為に捕らえて、裁判なしで死刑を執行して、恐怖政治であった。犠牲者たちは、後ろあるいは横に投げ出され、互いの上に倒れ、足が下敷きになり、銃弾が胸部や腹部を打った跡が、衣服の裂け目から検証できた。銃撃で足の骨が粉々になり、死体は身を寄せ合って横たわった。出土した死体の多くは、手首の骨が背中で合わせ結ぶためのロープや布の破片が土にまみれた骨に混じった。







2023年5月2日火曜日

第一次世界大戦の東部戦線の戦場で、1915年9月に急遽に掘られた塹壕の中に、殺害されたロシア軍と中央同盟軍の敵味方の多数の兵士の死体が積み上げて並んでいた。

 第一次世界大戦の東部戦線の戦場で、急遽に掘られた塹壕の中に、殺害されたロシア軍と中央同盟軍の敵味方の兵士の死体が積み上げて並んでいた。現在のベラルーシのザベレジーノ(Zaberezino)にて、1915年9月7日に塹壕の死体を集団埋葬して葬式した。

帝政ロシア軍は、1915年7月13日から中央同盟軍の攻撃を受けて、第一次世界大戦の東部戦線で戦略的にポーランドより8月1日から大撤退と避難した。ロシア帝国軍は、ガリシアとヴィスワ・ランドの突出部を放棄した。ロシア帝国の非常に装備が不十分な軍隊は、中央同盟国軍による1915年7月から9月にかけて、夏の攻勢作戦で大きな損失を被った。帝政ロシア軍は東部戦線の前線を短縮して、ドイツ軍による潜在的な包囲網を回避するために8月1日に大撤退を命じられた。突出部にある大規模なロシア軍は、撤退自体は展開されたが、ロシア軍の士気に対する深刻な打撃となった。

 中央同盟軍は夏の攻勢の間、ロシア帝国軍に非常に大きな犠牲者を出して、約45日間で約1,006,000人に上った。平均1日あたりの死傷者数は、約22,300人にも及んだ。ノヴォゲオルギエフスク要塞の陥落と、多数の駐屯地のドイツ軍によるロシア軍兵士の捕獲に影響を与えた。中央同盟国の軍隊は、1915年5月から6月には約535,300人から、7 月から8月には約348,000人の犠牲者に及んだ。ゴルリス作戦で中央同盟軍の最も深刻な犠牲者数は、オーストリア=ハンガリー軍の犠牲者数で、ドイツ軍の約2.5倍に及んだ。ドイツ軍の大参謀本部には、多数の死傷者数が発生して、帝政ロシア軍に対する攻撃を否定して、防御に切り替える要因になった。

 帝政ロシア軍側に、犠牲者の規模は、軍事作戦に大きな影響を与え、攻撃への移行でなく、長期の戦闘も放棄するに至った。特に苦痛だったのは捕虜数の増加であった。中央同盟国軍は、7月中旬から9月1日までに約511,679人の帝政ロシア軍兵士の捕虜数を発表した。第一次世界大戦の東部戦線の戦場で、急遽に掘られた塹壕の中に、殺害されたロシア軍と中央同盟軍の敵味方の兵士の死体が並んでいた。現在のベラルーシのザベレジーノ(Zaberezino)にて、1915年9月7日に塹壕の死体を集団埋葬して葬式した。

帝政ロシア軍は、1915年7月13日から中央同盟軍の攻撃を受けて、第一次世界大戦の東部戦線で戦略的にポーランドより8月1日から大撤退と避難した。ロシア帝国軍は、ガリシアとヴィスワ・ランドの突出部を放棄した。ロシア帝国の非常に装備が不十分な軍隊は、中央同盟国軍による1915年7月から9月にかけて、夏の攻勢作戦で大きな損失を被った。帝政ロシア軍は東部戦線の前線を短縮して、ドイツ軍による潜在的な包囲網を回避するために8月1日に大撤退を命じられた。突出部にある大規模なロシア軍は、撤退自体は展開されたが、ロシア軍の士気に対する深刻な打撃となった。

 中央同盟軍は夏の攻勢の間、ロシア帝国軍に非常に大きな犠牲者を出して、約45日間で約1,006,000人に上った。平均1日あたりの死傷者数は、約22,300人にも及んだ。ノヴォゲオルギエフスク要塞の陥落と、多数の駐屯地のドイツ軍によるロシア軍兵士の捕獲に影響を与えた。中央同盟国の軍隊は、1915年5月から6月には約535,300人から、7 月から8月には約348,000人の犠牲者に及んだ。ゴルリス作戦で中央同盟軍の最も深刻な犠牲者数は、オーストリア=ハンガリー軍の犠牲者数で、ドイツ軍の約2.5倍に及んだ。ドイツ軍の大参謀本部には、多数の死傷者数が発生して、帝政ロシア軍に対する攻撃を否定して、防御に切り替える要因になった。

 帝政ロシア軍側に、犠牲者の規模は、軍事作戦に大きな影響を与え、攻撃への移行でなく、長期の戦闘も放棄するに至った。特に苦痛だったのは捕虜数の増加であった。中央同盟国軍は、7月中旬から9月1日までに約511,679人の帝政ロシア軍兵士の捕虜数を発表した。





2023年5月1日月曜日

朝鮮戦争で、咸興の洞窟の中で約300体の咸興市民の死体を、洞窟の中から外に運び出した。多数の死体から家族の死体を見回りがら探した。地底の坑道から死体を引き上げた。

朝鮮戦争にてアメリカ軍と韓国軍の仁川上陸作戦により、北方に追われて北朝鮮の朝鮮人民軍が咸興から撤退した。その直前の1950年9月に、朝鮮労働党は人民軍戦線司令部に撤退命令とともに、各地方党に国連軍上陸時に支柱となるすべての要素を除去せよという命令を下した。朝鮮人民軍は、反共産主義の容疑者として咸興市民を洞窟の坑道に中に生き埋めの生埋葬した。

 咸興の洞窟の中で殺害された約300体の咸興市民の死体を、洞窟の中から外に運び出した。1950年10月10日に、アメリカ軍を主体とする国連軍は、親族らに死体の検死をさせて確認させた。咸興の親族らは、多数の死体から家族の死体を見回りながら探した。家族の死体を確認した咸興市民らは、死体の直前で慟哭した。

 


 咸興徳山鉱山に、朝鮮人民軍によって生埋葬によって虐殺された死体を、咸興市民らは1950年11月13日に地底の坑道から死体を引き上げた。地底から、生埋葬された約482体の死体を引き上げた。



 








 朝鮮人民軍による虐殺の惨状は、最南端の南海の海辺から北朝鮮の清川一帯、原山~咸興まで勃発した。大韓民国の李承晩政権も北朝鮮の金日成政権も、自分らが後退する場合に、市民が反李承晩や反金日成の旗の下で蜂起するのを懸念して朝鮮市民を虐殺した。大韓民国の李承晩政権は、1950年6月28日に緊急事態下の犯罪処罰に関する特別措置令を公布して、戒厳令下で左翼分子に対する即決処刑を命じた。ナチスドイツや日本軍も他国に侵攻して、その民族を大量虐殺したが、自分らの国民には銃口を向けなかった。

 朝鮮戦争では、民間市民に対する報復的大量虐殺が多発した。南北の政権が転覆すめ過程で、南北双方に加担した民間市民に対して広範囲に報復的大量虐殺が発生した。特に、1950年7月から9月期間に、朝鮮人民軍が南侵攻して、占領地の左翼が右翼の報復的虐殺を主導した。その後に韓国軍とアメリカ軍が北侵攻すると、旧占領地の右翼が、左翼の報復的虐殺を主導した。李承晩政権も金日成政権も、右翼あるいは左翼の報復的虐殺を黙認した。朝鮮戦争にて報復的虐殺は、南北で憎悪の悪循環と相乗作用により、各地で引き起こした。


2023年4月30日日曜日

ウクライナ軍兵士はウクライナ東部のドネツク州の激戦地バフムトでの戦闘で負傷した。ウクライナ軍衛生兵は、2023年4月9日にウクライナ軍兵士に応急処置を施した。

ウクライナ軍兵士はドネツク州の激戦地バフムトでの戦闘で負傷した。ウクライナ軍衛生兵は、2023年4月9日にウクライナ軍兵士に応急処置を施した。バフムトは戦略的に重要でないが、軍事的士気を高めるために、完全に支配しようと両軍が戦闘した。ウクライナ東部のバフムトはロシア軍のミサイルと戦車にてほとんど廃墟と化した。弾薬の補給や負傷したウクライナ軍兵士を避難させるアスファルトの生命線は、泥が飛び散り、大砲を設置して生命線を確保した。










Warning: Military medics give first aid to a soldier wounded in a battle in Bakhmut, Donetsk region, Ukraine, Sunday, April 9, 2023. (AP Photo/Libkos)

 ウクライナ軍参謀本部は4月8日に、ロシア軍側は東部ドネツク州にあるウクライナ軍側の拠点の1つバフムトや、バフムトから約50km南にあるアウディーイウカなどへの攻撃に注力した。バフムトは一部の攻撃を撃退するも、ロシア軍側は完全に占領するために、激しい戦闘が継続した。バフムトの戦いは、イギリス国防省が4月7日に、ロシア軍は街の中心部まで到達して、ロシア軍側が一層攻撃を強めたと分析した。ロシア軍が打撃を受けた東部の都市では、ウクライナ軍はバクムト等への道路を確保して、ロシア軍による補給線の切断を阻止した。民間軍事請負業者であるワグナー・グループは、バクムト奪取作戦の先頭に立ち、双方で数千人の命を犠牲にして、ゆっくりと侵攻した。バフムトは、最も長く続いた戦場をめぐりブロックごとの戦闘が繰り広げられた。戦前人口が約7万人であったバクムトの戦いは、街を防御するより、反攻前にロシア軍を足止めをした。

 ロシア軍は迫撃砲や部隊を侵攻するも、毎日同じことの繰り返しであった。ウクライナ軍は、今後数週間から数ヶ月の間のロシア軍に対する反攻に備え、予備保有した多くの兵士をバクムトの戦いに投入し、ウクライナ軍部隊は多くの犠牲者を出した。ウクライナ軍兵士は、両軍の砲撃陣地の間に潜伏した。榴弾砲が発射され、砲弾は頭上で弧を描いて反対側で爆発して炸裂する悲鳴が聞こえた。










Warning: Military medics give first aid to a soldier wounded in a battle in Bakhmut, Donetsk region, Ukraine, Sunday, April 9, 2023. (AP Photo/Libkos)

2023年4月29日土曜日

アメリカ軍の核実験であるグリーンハウス作戦のジョージ実験が、1951年5月8日に炸裂した。太平洋のエネウェトク環礁のエベリル島から約60mの高度で爆発させた約225キロトン爆弾である。

アメリカ軍の核実験であるグリーンハウス作戦(Operation Greenhouse)のジョージ(George)実験が、1951年5月8日に炸裂した。太平洋のエネウェトク環礁のエベリル島から約60mの高度で爆発させた約225キロトン爆弾である。ジョージ実験では、きのこ雲の頂上付近に完璧なベル・ウイルソン雲を形成した。熱核融合の最初の本格的な核実験となり、水爆の前身となった。熱核融合(熱的に励起された原子核から核融合エネルギーが放出される熱核融合の最初の本格的な実験となった。ジョージ実験は、熱放射で加熱された重水素の核融合燃焼を研究するための実験であった。ジョージの核実験の結果をもとに、重水素の核融合を確認して、初の多段式ウラム水爆実験の準備を進めた。

 1951年にアメリカ軍は、熱核反応による最初の核実験場での爆発実験を行った。ジョージ実験は、1946年に特許を取得した放射線照射原理で作動する二進法開始器を備えた古典的なスーパーモデルの核実験であった。地球上で初めて燃焼した小さな熱核の炎を点火した最大の核分裂爆発となった。シリンダーと呼称した実験装置は、濃縮ウラン炉心で構成され、独自の円筒爆縮システムによって爆縮された。核分裂の連鎖反応を外部から開始させた最初の装置であった。ジョージ実験は、アメリカ軍の核実験のうち、およそ40回目の核実験であった。

 グリーンハウス作戦は、1951年4月から5月にエネウェトク環礁で実施した。4つの比較的高収率の核実験であり、ドッグ、イージー、ジョージ、およびアイテムの呼び名で構成された。ドッグとイージーは、それぞれMk 6とMk 5という2つの新しい戦略爆弾の実証試験であった。ジョージとアイテムは、熱的に励起された原子核から核融合エネルギーが放出される熱核融合の最初の本格的な実験であった。ジョージは、熱放射で加熱された重水素の核融合燃焼を研究する核実験であった。



2023年4月28日金曜日

アメリカ先住民族のインディアンの投じた多数の弓矢が刺さって、1867年にアメリカ陸軍の軍曹が殺害された。インディアンは軍曹の死体を、腹部から両方大腿を切開した。

アメリカ先住民族のインディアンの投じた多数の弓矢が刺さって、1867年にアメリカ陸軍の軍曹が殺害された。インディアンは軍曹の死体を、腹部から両方大腿を切開した。死者の死体の切開は、インディアンの一般的な習慣であった。さらに死体の頭皮を剥がされたり、しばしば死体をバラバラにした。頭皮や指などの体の一部は戦利品として活用した。ラコタ族の習慣では、殺害した兵士を切り刻み、死体は下着姿か裸にされ、頭皮を剥がされ、手足を切り落とし、バラバラにされ、顔を潰され、内臓をえぐり取られた。

 アメリカ西部にて、グラタン虐殺が、1854年8月19日にネブラスカ準州(ワイオミング州)のララミー砦付近で勃発した。グラタン虐殺は、インディアンのラコタ族(西スー族)とアメリカ軍と、最初の公的な大規模軍事衝突が発生した。ラコタ族によって、アメリカ軍のジョン・ローレンス・グラタン(John Lawrence Grattan)少尉と約30人の部隊が虐殺された。アメリカ中西部の大平原では、数十年間にわたる血なまぐさいインディアン戦争が勃発した。

 1854年8月18日にモルモン教徒から分離した牛が、食料不足したインディアンらに屠殺され調理された。ララミー砦の守備隊に牛の損失を訴えた。8月19日にジョン・ローレンス・グラタン少尉と約20人の兵士が、インデアンのラコタ族・オグララ族・シチャング族などの領地に向かった。グラタン部隊とインデアン部族の緊張が高まり、グラタン部隊の銃撃によりラコタ族の1人が地面に倒れて、さらにグラタン少尉は一斉射撃を命じた。インデアンから逆襲され矢の雨がアメリカ軍部隊に注いだ。グラタン少尉と数人の兵士が殺害され地面に倒れ込んだ。アメリカ人兵士は四方八方に逃走した。インディアンは2人と馬を切りつけて殺害した。荷車にしがみついた兵士は矢に刺さり地面に落下した。乗馬したシチャング族は、追いつけた馬車から兵士を引き出し殺害した。

 1840年代から、アメリカ西部にヨーロッパ系移民の人数が急増し始めた。オレゴン、ユタ、カリフォルニア、太平洋岸に向かった。最も利用された移民ルートが、オレゴン・トレイルの陸路(Oregon Trail)であった。ミズーリ川沿いのインディペンデンスから出発し、大平原を横断し、低地のサザンパスを通り、ロッキー山脈を越えた。フォート・ホールの丘陵地帯の大草原を越え、スネーク川を渡り、通過困難なブルーマウンテンを抜けて、最後にユティラ川を渡って、オレゴン州北西部にあるコロンビアの町に向かった。1849年にカリフォルニアでゴールドラッシュが起こり、オレゴン・トレイルの移民数が急増し、年間約3万人近くから、1年後には約50,000人、1855年には約30万人の移民が通過した。1849年にアメリカ政府が買い取って、ララミー砦を軍の駐屯地とした。1851年に西部への移民の安全な通行を金銭保証するフォート・ララミー条約を、アメリカ政府はインディアン各民族と締結した。




2023年4月27日木曜日

硫黄島の戦いの第9日目に、アメリカ軍は直に潜伏した日本軍戦車に対して、火炎放射器とバズーカ砲を集中して反撃して、日本軍の3両の戦車が崩壊した。その側には殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。

太平洋戦争にて硫黄島の戦いにアメリカ軍が1945年2月19日に上陸して第9日目の2月28日に、西方の要である大阪山と東の要である二段岩の攻防が勃発した。アメリカ軍第2飛行場への侵攻路を射撃する地点に、日本軍の96式軽戦車が潜伏した。日本軍の戦車は、丘の斜面に掘った洞穴に潜伏して静止して、高射砲の機会まで潜伏して隠れた。アメリカ軍は直に潜伏した日本軍戦車に対して、火炎放射器とバズーカ砲を集中して反撃した。日本軍の3両の戦車が崩壊した。その側には殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。

  2月28日午前から混成した日本軍第二旅団主陣地である西の要である大阪山付近が激戦と化した。アメリカ軍は12時頃に大阪山の山麓に近迫した。午後4時30分頃には、その一部が眼鏡岩付近に侵攻するに至った。第145連隊の第一大隊歩兵を基幹とする守備隊は、大阪山の北側と東側の斜面を確保した。16時45分頃に、日本軍は眼鏡岩に侵攻したアメリカ軍に対して逆襲を強行するも、逆にアメリカ軍の猛烈な砲火に破砕された。アメリカ軍も1日で約300mしか侵攻できなかった。

  東の要である二段岩地域は2月25日頃から、西戦車連隊、海軍二段岩砲台軍などが、旅団砲兵団南地区砲兵群や混成第二旅団砲兵隊の砲迫火力の集中と呼応して、戦車を含む約一個師団のアメリカ軍に損害を強要した。2月28日になると、二段岩北側及び二段岩南方屏風山との間隙にアメリカ軍が侵入して、14時頃に二段岩陣地は遂に南北から包囲された。

 元山飛行場地域にあった日本軍の戦車第三中隊と戦車第一中隊は、アメリカ軍に突撃を敢行して白兵戦を展開して、アメリカ軍に多大の損害を与えた。アメリカ軍の21連隊I中隊が攻撃して侵攻を始めて、潜伏した地面から現れた日本軍戦車が侵攻を阻んだ。日本軍の戦車はほこりや破片、岩を巻き上げながら侵攻し砲撃した。激しい砲撃により、アメリカ軍の海兵隊はしばらく制圧された。更にアメリカ軍の戦闘機は20m砲で日本軍の戦車を2両を破壊した。日本軍の戦車第26連隊は、2月28日夕までに本地域で、中戦車二、戦車8両が破壊され、戦死傷は約80人に達した。第二次世界大戦にて硫黄島の戦いは、攻撃側のアメリカ軍の犠牲者数(28,686人)が、防御側の日本軍の犠牲者数(21,149人)を上回った唯一の戦いとなった。





2023年4月26日水曜日

1960年のコンゴのベルギー植民地からの独立とベルギーの過剰な撤退に伴って、コンゴで州間戦争により、ベルギーの白人市民は虐殺に巻き込まれた。

1960年のコンゴのベルギー植民地からの独立とベルギーの過剰な撤退に伴って、コンゴで州間戦争により、ベルギーの白人市民は虐殺に巻き込まれた。1960年6月30日に独立した旧ベルギー領コンゴが、冷戦の舞台となった。1960年7月5日に、コンゴ共和国軍兵士たちは、ティスヴィル基地でベルギー系白人指揮官に対して反乱を起こた。反乱はすぐに他の基地にも拡大して、コンゴ全域で暴力事件が発生した。数千人のベルギー人らが逃げ出し、白人に対する残虐な行為が勃発して、世界中に公開された。1950年代後半から1970年代半ばにサハラ砂漠以南のアフリカに脱植民地化が勃発した。新たに独立した非同盟諸国をめぐり、米ソの代理の冷戦が何度も勃発した。

 独立までの数ヶ月の間に、コンゴ国民は大統領ジョセフ・カサブブ、首相パトリス・ルムンバを選出した。アメリカは、コンゴ共和国が親欧米政府を期待したが、新しく独立したコンゴ共和国は混乱に陥った。先住民のコンゴ国民軍(CNA)を支配できないベルギーは、カサブブやルムンバの許可を得ずに軍隊を投入した。コンゴ政府は、国連に兵力提供を直訴し、ベルギー軍の撤収を要求した。7月13日に、国際連合は介入部隊のコンゴ民主共和国機構(ONUC)の創設を承認して、ベルギー軍の撤退を決議した。その2日前には、カタンガ州が、8月には南カサイ州もコンゴ共和国から独立を宣言した。

 アメリカは国連を支持したが、コンゴ危機からソ連の介入を懸念して、危険な外交を模索した。7月下旬に、ルムンバをワシントンに招き、穏健な影響を期待した。CIAの報告では、コンゴ共和国を典型的な共産主義の買収と表現した。ソ連圏の技術者や物資の到着から、国家安全保障チームは、ルムンバの排除を確信した。ルムンバを失脚するアメリカ外交が活発化して、ルムンバを暗殺計画も練らした。9月5日に、カサブブはルムンバを政権から解任した。ルムンバは勅令を無視して、カサブブを罷免した。コンゴ内外のルムンバの支持者は激怒して、ルムンバの復職を支持した。内戦を避けるため、コンゴ国民軍(CNA)のジョセフ・モブツ大佐は、9月14日にクーデターを起こしてソ連の国外退去を命じた。モブツは親欧米政権を支持し、軍部の繋がりから、9月18日にモブツは暗殺計画を知らされた。暗殺計画の責任者としてルムンバは逮捕され、最終的に1961年1月17日に死刑が執行された。

 その後4年間、コンゴ共和国が次々と首相が交代する中で、アメリカは親欧米派の候補者の票の買収や資金援助をした。モブツもまたコンゴ国民軍(CNA)の忠誠心を高めて、組織内の反乱を回避する資金を得た。国連軍撤退後の不安定な状況を懸念したケネディ政権は、コンゴ共和国との二国間軍事協定を結び、1963年5月31日にモブツがケネディ大統領と面会した。コンゴ共和国への支援は、ジョンソン政権も続けた。1964年8月4日にスタンリービル(キサンガニ)が反政府軍に陥落した。アメリカの軍事援助は劇的に増加した。国防省はコンゴ共和国軍は、近隣アフリカ諸国、ソ連圏、中国共産党の支援で強固になる反政府勢力に対抗した。アメリカはアフリカ統一機構(OAU)にも働きかけ、コンゴ共和国への支援を取り付けた。10月下旬にスタンレーヴィルの状況は悲惨となり、10月28日に反乱軍司令官は、その地域の全ての西洋人を軟禁した。反乱軍の支配下の他都市でも、相当数の人質が拘束された。11月下旬に人質救出作戦(ドラゴンルージュ作戦)は成功するも、ツォンベ首相はカサブブとモブツ双方から無能とみなされた。1965年10月にツォンベ首相は罷免されて、再び内戦の危機に瀕した。

 モブツは1965年11月25日に再びクーデターを起こし、大統領と首相を解任し、コンゴ政府を掌握した。モブツは1990年代半ばまでコンゴ(1971年にザイールと改称)を支配した。定期的な反乱を起こるも、コンゴ共和国を支配した。モブツは、アフリカの共産主義侵攻に対抗する強固な同盟者と証明された。モブツはアメリカからの資金、物資、政治的支援を受け、サハラ以南のアフリカで地位を高めた。ジョンソン政権からレーガン政権まで、モブツ政権にしばしば便宜を図った。




2023年4月25日火曜日

1945年5月5日に、アメリカ軍はマウトハウゼン強制収容所を解放した前後に、死亡した約3,000人以上もの囚人の死体をトラックの荷台にうず高く集積して、集団埋葬した。

1945年5月5日に、アメリカ軍はマウトハウゼン強制収容所に到着して解放した。一部の囚人は弱体化して、解放後の数日から数週間にも約3,000人以上もの囚人が死亡した。アメリカ軍は、殺害されて死亡した囚人の死体をトラックの荷台にうず高く集積した。その死体を集団墓地に移送して集団埋葬した。マウトハウゼン強制収容所と付属グーゼン強制収容所に約7年間で収監された約19万人のうち、少なくとも9万人が殺害されて死亡した。

 1938年3月12日、オーストリアのドイツ帝国への併合が実施された。その直後に、2週間後、ドナウ川沿いのオーバーエスターライヒ州のリンツ市近郊のマウトハウゼンに、強制収容所を建設を宣言した。1938年8月8日に、ダッハウ強制収容所から最初の囚人がマウトハウゼンに移送された。1939年12月に、親衛隊はマウトハウゼンの近隣に第二強制収容所であるグーゼン支所収容所が1940年5月に開設された。

 第二次世界大戦が始まると、ヨーロッパ中の人々がマウトハウゼンに強制送還された。マウトハウゼンは次第に強制収容所の相互連結された。マウトハウゼンとグーゼンは、最も過酷な監禁条件と高い死亡率を持つ強制収容所であった。収容所の最下層にいる役立たずの囚人たちは、長く生き延びれなかった。1941年、親衛隊はマウトハウゼンに毒ガス施設を建設し、大量虐殺した。

 戦争後半には、兵器産業における強制労働者として利用された。囚人たちが働く各場所に支部収容所を設立した。囚人たちは、本部から支部の収容所に移送された。マウトハウゼンは、役立たずの病人や弱者が死に追いやられた。

 囚人たちは強制労働者として、1943年末以降、収容者は地下工場の建設にも投入された。工場では、殺人的な労働条件が蔓延して、犠牲者の数が劇的に増加した。第二次世界大戦末期には、マウトハウゼン強制収容所は、戦場の前線に近い収容所からの避難先となった。何万人もの囚人が大型輸送船で到着した。過密状態、食糧不足、病気の蔓延により、解放直前の最後の数ヶ月に、囚人たちは大量殺害された。




2023年4月24日月曜日

日本軍が武漢を1938年10月26に陥落した時に、約4,000人もの中国人が大虐殺されて、集団埋葬された死体が、湖北省黄陂県で発掘された。

日本軍が武漢を1938年10月26に陥落した時に、約4,000人もの中国人が大虐殺された。集団埋葬された死体が、湖北省黄陂県で発掘された。黄陂県は、中国の湖北省武漢市の中心部から北部に位置する。日本軍の武漢占領には、武漢の人口は急激に減少して、中国人住民による大規模な暴動が頻繁に発生した。武漢作戦で、日本軍は約9,500人が戦死して、約26,000人が戦傷した。中国側の犠牲は、約195,500人の死体が遺棄されて、約11,900人が捕虜となった。

 1937年7月7日に盧溝橋事件が起きて、日中戦争が勃発した。1945年8月15日に日本は降伏するまで、約8年間も続いて、多大な被害と犠牲をもたらした。日中戦争により、2200万人の犠牲者が出た。期間と規模が最も大きな戦争は、武漢会戦(漢口攻略・武漢作戦)であった。日本軍は、1938年6月11日から10月27日の武漢作戦で武漢を占領した。1937年12月に南京陥落後に、中国国民党政府が撤退して、首都を武漢を遷都した。日中戦争は、12月13日に首都南京の陥落を招き、国民党政府は武漢、ついで重慶への遷都を余儀なくされた。11月20日に、国民党政府は、日本軍の首都南京侵攻を直前に前に重慶への遷都宣言を公表して移転を開始ていた。

 1938年6月に、日本軍は国民党政権を打倒するため、武漢を侵攻した。中国国民党政府は1938年6月に、武漢のあらゆる種類の産業と軍事施設を移転または破壊を決定して、武漢の産業の損失は約70%に達した。国民政府は中国共産党と全国人民から支援を得て、大規模な武漢会戦が勃発した。中国軍は1938年6月11日から約4か月も戦闘したが、10月26日に武漢が陥落した。中国軍は、日本軍の侵略に対する抵抗戦争は戦略的に膠着状態に陥った。時点から約6年9か月間占領された。武漢を占領にて、日本軍は武漢を湖北乃至華中地域を支配するために、武漢市内も周辺も日本軍兵士が駐屯した。日本軍は1939年4月に武漢で仮武漢特別市政府を設置して、直接日本軍が支配した。

 日本軍の1945年8月15日の敗戦後には,1946年5月1日に中国国民党政府は重慶から南京に遷都した。1948年1月政府の名称が中華民国政府と改称された。国共内戦に敗れて 1949年に首都を南京から広州,重慶,成都,台北へと順次移転させた。




2023年4月23日日曜日

ウクライナのハリコフ地方で、ウクライナ軍兵士は2023年4月頃の戦闘で戦死したロシア軍兵士の死体を梱包して死後処理した。

ウクライナのハリコフ地方で、ウクライナ軍兵士たちは、2023年4月頃の戦闘で戦死したロシア軍兵士の死体を梱包して死後処理した。ロシア軍兵士の死体は非公開の場所に運ばれて、戦死したウクライナ軍兵士の死体をロシア軍と交換する予定がある。ロシア軍兵士の死体は、もはや人間ではない。死体を列車の死体安置所に、積載したセミトラックから移乗した。











Warning: Ukrainian servicemen pack the dead body of a Russian soldier, killed in a recent battle in the Kharkiv region, Ukraine, Saturday, April 8, 2023. (AP Photo/Andrii Marienko)

 ロシア軍による4月初旬の砲撃で、少なくとも約7人の市民が死亡したとウクライナ当局が4月9日に報告した。ロシア軍はウクライナの工業地帯である東部全域の奪還に集中し続けた。一方で、北東部のハリコフと南東部のザポリージャの2つの州が、ロシア軍からミサイル、ロケット、砲撃を受けた。ケルソン州の2つの地方も、ロシア軍の戦闘機から爆撃を受けた。ウクライナ軍がハリコフ州のほぼ全域の支配を回復する前に、ロシア軍が制圧したクピアンスク市でロシア軍の砲撃で、2人の男性が4月9日に死亡した。ロシア軍が複数のロケットランチャーで住宅地を攻撃して、チュフイブ市は4月9日以降も攻撃を受けた。別の場所で、ロシア軍によるチュフイブ市への砲撃の後に、30歳の男性が重体で入院した。

 ザポリージャ州の州都であるザポリージャ市では、砲撃により一晩で2人(うち1人は2012年生の子供)が死亡した。ザポリージャ州では、全部で約18の地域が砲撃されて、4月8日には約3人が死亡して、約5人が負傷した。ザポリージャ州には、ヨーロッパ最大の原子力発電所があり、ロシアのプーチン大統領が2022年9月に不法に併合した。ロシア軍はその地域だけでなく、特にドンバス州の工業地帯を構成するルハンスク州とドネツク州からウクライナ軍を追い出した。

 特にドネツク州の都市バフムートは、約13カ月にわたる戦争で最も長い戦闘が展開された。ロシア軍は4月に、バフムートの中心部まで侵攻した。ロシア軍は8カ月以上かけてバフムートを奪取すれば、プーチン政権にとり勝利となり、突き進む道が開かれる。4月10日に、ロシア軍は精鋭部隊をバクムートに移動させた。

 ロシアの民間軍事会社であるワグナー・グループは、戦闘員がバクムートへの攻勢を先導して、甚大な損失を被った。空挺部隊や機動小銃兵など正規軍からの部隊の必要があると訴えた。4月8日から4月9日朝にかけて、ロシア軍はウクライナの各地に約40回の空爆、約4回のミサイル攻撃、約58回の多連装ロケットランチャーによる攻撃を行った。ロシア軍はドネツク州のライマン、バフムート、アヴディフカ、マリンカの各地域に攻撃を集中させた。ドネツク州で、4月8日に、2人の市民が負傷した。ウクライナ軍が11月にロシア軍の一部撤退を余儀なくしたケルソン州の南部地域も多数の攻撃を受けた。












Warning: Ukrainian servicemen pack the dead body of a Russian soldier, killed in a recent battle in the Kharkiv region, Ukraine, Saturday, April 8, 2023. (AP Photo/Andrii Marienko)


2023年4月22日土曜日

広島日赤病院に外来受診した陸田豊子は、爆心地の南1.7kmの南大橋で、顔面から上腕に火傷を被爆した。外来治療室には大勢の被爆者が参集して満杯となった。

 広島原子爆弾に被爆した陸田豊子(22歳、女性、くがた とよこ)は、荷車の大八車を隣の農家から借りて、日赤病院に通って治療を受けた。通院の姿を10月4日に旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班に同行した菊池俊吉が撮影した。10月6日には、日本映画社の原爆記録映画班の山中真男に、広島赤十字病院の外来治療室の映像を撮影された。

 陸田豊子は、広島市中区本通の安田生命広島支店に通勤途上で、1945年8月6日午前8時15分に、広島市吉島本町3丁目の実家から歩いて南大橋を抜けた地点で広島原子爆弾が炸裂した。爆心地から南約1.7km地点の南大橋で閃光にさらされ、元安川へ吹き飛ばされた。大手町方面に渡る気力もなく橋の柱につかまっていた。岸や川に無数の無残な死体を、軍隊の船が宇品まで運んだ。陸田豊子は、宇品凱旋館を拠点の陸軍船舶司令部の軍隊に救助された。

 陸田豊子は、油を塗られてムシロに寝かされた。広島湾に浮かぶ金輪島から似島に転送され、海路で玖波国民学校へ移送された。旧玖波町の収容患者名簿に陸田豊子の名前が残って、重傷者を示す◯印が付けられた。約80人が収容されて、終戦前日の8月14日までに約11人が死亡した。陸田豊子の名前が広島市で張り出され、母と親類の兄とが荷車で迎えにきた。8月24日に吉島本町の実家に戻った。

 アメリカ軍は、原子爆弾の記録写真等を接収をワシントンの陸軍病理学研究所に秘蔵した。1973年に記録写真等が日本に返還されて「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」で公開された。荷車の親子と称された。父の妹のコヒデが荷車を引いていた。母親も、吉島に戻るとサトイモの葉っぱでウミを吸い取った。治療費を工面して、足の火傷で歩行困難な陸田豊子を日赤病院へ通院させた。

 1946年に元職場へ復帰して、その後東京に転勤した。陸田肇さんと結婚し、電機メーカー勤務地である栃木県小山市に定住した。陸田豊子は「写真に撮られた時も残されるのも嫌だけれど、戦争のことを知らない人がだんだん増えた。こういう写真でしか分からないんでしょう。原子爆弾でどうなるのかを見て分かってほしい」と祈念した。