2023年2月27日月曜日

日露戦争の旅順総攻撃にて、1904年秋頃に髙梁畑の側で、殺害されて仰向けになった日本軍兵士の死体が散在した。その死体の側に、ライフル銃が放置された。

日露戦争の旅順総攻撃にて、1904年秋頃に髙梁畑の側で、殺害されて仰向けになった日本軍兵士の死体が散在した。その死体の側に、ライフル銃が放置された。その写真は、アメリカ人のバートン・ホームズ(Holmes Burton)が日本軍の第3軍に従軍して撮影した。第三軍は、日露戦争にて1904(明治37)年5月29日に編成され、司令官は乃木希典である。日露戦争後の1906年(明治39年)1月26日に解散した。司令官は、第1回旅順総攻撃を8月19日から、第2回旅順総攻撃を9月19日から、第3回旅順総攻撃を11月26日から指令した。ホームズの日露戦争の写真が、日本の職人の筆に助けられてひときわ異彩を放った。日露戦争の撮影時期は1904(明治37)年秋から1905年の初めである。 

 写真がすべて人工着色された点は貴重である。ガラス乾板に筆で精細に彩色するもので、作業はすべて日本人の職人が行った。ホームズは技術に惚れこみ、のちに世界各地で撮った写真を日本に送り、着色させた。当時も従軍写真家・画家、従軍記者は内外を問わず決して少くはなかった。日本陸軍陸地測量部による膨大な記録も残っている。写真に色をつける器用な手先は、日本人に求められた。明治初期のすぐれた写真技術者である下岡蓮杖は、外国人の土産用に絵蒔絵の装釘をほどこした日本風俗の四ツ切大着色写真帳を売り出して、遠く欧米の骨董屋に並んでいた。その弟子の鵜飼玉川はコロジオン法のガラスの膜面に着色している。上野彦馬は土産用に水彩着色のミニュアチュール風な風物写真を輸出している。

 ホームズが初めて日本を訪れたのは1892年(明治25年)の秋22歳のときであった。以後、1932年まで10回にわたり日本の土を踏む。当時として驚くほど広範囲に世界各地を撮影した。写真が色彩を求めたのは自然の成行きだった。スライドで見せたらどんなに人が驚くかとホームズが考えた。軍装に詳しい方がみると、その着色上いくつかのミスがある。フランス式、イギリス式、ドイツ式と幾多の曲折を経てきた軍装に関して、職人も通暁してなかったろう。多年の保存で生じたキズやかびの跡さえも新鮮にみえる。日本軍の写真とロシア軍の写真が、どうして一緒に撮れたのかという疑問も湧く。他の人の写真が入っているのは、ホームズの写真が報道を旨としないためである。世界の各地を歩きまわり、成果をトラベローグという名で全米で講演した。約百万フィートの映画も撮影している。写真家でなく、旅行家とした表現方法が成り立ったのも、やはり良き時代であろう。日本でも、明治来、旅行案内の幻灯が町々を回って、写真はマジック仕立ての旅へのいざないとなった。

 



2023年2月26日日曜日

プーチン・クレムリン親派のロシア紙コムソモリスカヤ・プラウダ(KP)は、2022年3月20日にウクライナ戦争開始以来、約9861人のロシア軍兵士が死亡し、約16153人が戦傷したとネット発表した。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発した直後の2022年3月5日に、ウクライナのシトニャキ(Sytnyaky)付近にて、ロシア軍とウクライナ軍の間で直前に激しい戦闘があった。その道路脇に、殺害されたロシア軍兵士の死体散乱した。



   







Warning: A corpse of a dead Russian soldier sits on the side of the road where there was recent heavy fighting between Russian and Ukrainian forces, near Sytnyaky, Ukraine, Saturday, March 5, 2022. (MARCUS YAM / LOS ANGELES TIMES)

 プーチン・レムリン親派のロシア紙コムソモリスカヤ・プラウダ(KP:Komsomolskaya Pravda)は、3月20日にウクライナ戦争開始以来、約9861人のロシア軍兵士が死亡して、約16153人が戦傷したとネット発表した。3月20日にKP紙のウェブサイトに掲載されたKPの記事のスクリーンショットである。ロシア国防省の報告を引用して、ウクライナ戦争開始以来に、約9861人のロシア軍兵士が死亡したと報じた。約4時間後、この9861人の数字が記事から削除された。その後、同紙の編集者は、この情報の公開はハッカーの攻撃によ数値であると発表した。



















 3月20日のネット記事で、KPがロシア国防省の数字を参照して、2月24日にロシア・ウクライナ戦争が勃発して以来に、約9861人のロシア軍兵が死亡したと記載された。ロシア軍当局が、公式に3月2日に認証したのは、約498人の戦死と約1597人の戦傷したロシア軍兵士だけであった。3月22日にロシア国防省で殺害されたロシア軍兵士に関する情報は皆無であった。KP紙のウラジミール・スンゴルキン編集長はイギリスBBCに対し、約9861人の戦死数は、ハッキング攻撃の結果であると示唆した。

 ロシア・ウクライナ戦争が勃発して以来に約1ケ月間の犠牲者は、ほぼ1万人のロシア軍兵士の殺害を示唆した。1980年代のアフガニスタン戦争では、ソ連軍は約9年間で約1万5千人のソ連軍兵士が殺害された。アメリカ軍が主導した9年間のイラク戦争で殺害された連合軍兵士の死者数の約4825人(アメリカ軍約4,507人、イギリス軍約179人、その他約139人)の2倍以上に達した。アメリカとウクライナ当局は、ロシア軍の死者数を約7000人以上から1万人近くと推定した。モスクワ当局は、3月上旬に新しいメディア法を導入して、ロシア軍に関する誤報には厳しい罰則を課した。3月5日に、ウクライナのシトニャキー近郊の荒原には、殺害されたロシア軍兵士の死体が横たわった。



















Warning: A corpse of a Russian soldier lies in a field near Sytnyaky, Ukraine, Saturday, March 5, 2022. Los Angeles Times / Polaris

2023年2月25日土曜日

広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、一戦災患者治療所と掲示された。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。その直後から、広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、「一戦災患者治療所」と掲示された。火勢が弱まった8月6日夕方から、多数の被爆者が広島逓信病院に押し寄せた。外来病棟には、外来待合室、手術準備室、外科診察室、化膿性手術室などがあった。1935年に広島逓信局の付属病院に外来棟が設置された。中国郵政局は、1995に広島逓信病院の外来棟の一部を、被爆資料室として改修して保存された。2018年に広島市に寄贈されて限定公開された。

 広島逓信病院は、爆心地から北北東に約1.3kmの東白島町10番10号に位置した。鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、原子爆弾の爆風で、すべての窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫からの炎上などにより、2階の内部はほとんど全焼した。広島逓信病院の職員約48人中に、約5人が死亡して、約25人が被傷した。病院関係者は確保された医薬品や衛生材料、食糧で、緊急的に救護した。広島逓信病院は、広島市内に残った数少ない病院として、医療と調査で重要な活動をした。

 広島原子爆弾の爆心地から約2km以内で残存したのは約1.6kmの広島赤十字病院と広島逓信病院のみとなった。共に市街中心部における医療拠点となった。約150人の重症被爆者らで、広島逓信病院は足の踏み場もなく、約50人が外庭にも散在した。被爆前の入院患者は、空襲に備えて、原子爆弾に被爆する8月6日の約1カ月前から疎開と待避して、元入院患者の人的被害はやや軽微であった。




2023年2月24日金曜日

日本軍の南京大虐殺により、虐殺されて殺害された女子の死体が、南京市街に散乱した。日本軍に関する中国研究者の約11論文から子女の虐待と虐殺が示唆された。

日中戦争において、中華民国の首都南京での南京の戦い直後に 日本軍による民間中国人の大量殺戮が、1937年12月13日に始まり、6週間にわたる1938年2月上旬まで大量虐殺が勃発した。日本軍が、第ニ次世界大戦でも集団強姦、略奪、放火など他の第二次世界大戦でも最悪の戦争犯罪も行った。日中戦争にて、1937年12月4日から12月13日の南京戦にて、日本軍は南京を占領した。日本軍は、戦死が約15,58人と戦傷が約4,619人の犠牲が出た。中国軍側は約50,000人が、戦死と捕虜の犠牲となった。日本軍の南京大虐殺により、虐殺されて殺害された子女の死体が、南京市街に散乱した。

 数多くの南京の中国人民衆は、女性の尊厳を守るために日本軍と命をかけて闘った。三茅宮付近の若い婦女は、一群の日本軍兵士に家から引っぱり出され、強姦された。彼女の夫は身を挺して日本軍兵士と格闘した。彼は日本軍に捕えられ、身体中を刀で刺され、気絶し死亡 するまで罵り続けた。一人の青年が、日本軍を大声で罵った。彼は日本兵に押し倒され、電柱の上に縛られて、頭を砕かれ殺された(前掲『侵華日軍南京大虐殺史稿』)。柏果樹の婦女の伝如芬は、隣家の出産直後の婦人を身を挺して日本軍兵士と格闘した。最後に日本軍の暴行をのがれて、隣家の家族7人と入水自殺した(「新華日報」1951年3月3日)。木屐巷の回教徒の張長生は、日本軍が家の婦女の強姦に激怒して、日本軍兵士の一人を大きな棒で打ち倒した。2人目の日本軍兵士を待機した時に、日本軍兵士の銃撃により殺害された。(「幸いにも生き残った者の訴え」、南京市政治協商会議文史資料 研究委員会編『史料選集』侵華日軍南京大虐殺史料専稿集、所収)。

 日本軍に関する中国研究者の約11論文から子女の虐待と虐殺が示唆された。一部の婦女は強姦される前に自殺を選んだ。范式記者の報道では「市内の婦女は皆、日本軍に蹂躙されることは耐えがたいので自殺しており、毎日平均数百人にものぼる」と伝えた (前掲『侵華日軍南京大虐殺史稿』)。下浮橋の清真寺の老僧の楊桂芳の2人の娘は、日本軍の強姦を拒否して、沙洲提に踏び込んで自殺した。逸仙橋付近の数人の婦女は、日本軍に捕えられた後、強制的に衣服を脱がされ、死を賭して闘い、日本軍兵士を痛罵しつづけた。彼女達の中には耳をそぎ落され、舌を切られた者もいた(「新華日報」1951年3月3日)。ある婦女は日本軍の魔の手を何度も機智を働かせて逃げた。彼女はきちんと服を整えて日本軍が来るのを待ちつつ、ゆっくりと大きな字で「日本兵は獣だ」と揮毫した。最後には日本軍に銃撃されて殺害された。(『被占領区惨状記』第五冊、 中国第二歴史文書館蔵)。

 少なからぬ婦女は、日本軍兵士と体力の差も顧みず、勇敢に闘い、日本兵を殺傷した。ある小学校の女教師は、かつて五度も日本兵にからまれたので、その後手を尽して銃を手に入れベッドの下に隠しておいた。日本兵がまた現れた際、彼女は五人の日本軍兵士を撃ち殺し、最後には従容として義に殉じたのであった(「新華日報」1951年2月26日)。下関保善街に住む婦女、馬さんは、日本軍が強姦しに来た時、酒で 日本兵を酔わせ、しかる後に夫と隣人の助けを得て西瓜を切る時に使用する大きな包丁でこの日本軍兵士を殺害し、その死体をこっそりと埋めた(「新華日報」1951年3月2日)。下関鮮魚巷79号に住む若い女性、朱二クーニャンは、日本兵が暴 力を以て彼女を室外にひっぱり出そうとした時、日本兵が腰に下げていた刀を猛然と奪い、日本軍兵士に切りかかった。他の日本軍兵士に続けざまに三刀切りつけられ、流血にまみれてその場で死亡した(「新華日報」1951年3月1日)。

 奇しき女性"と呼ばれている李秀英の日本軍の奸淫暴行に反抗する闘争の事蹟には深く感じる処がある。1人の日本軍兵士が彼女を強姦しようとした時、彼女は日本兵の腰に下げていた刀の柄を握りしめ、全力で日本軍兵士と奪いあい、日本兵に咬みついた。日本兵はアァと叫び声をあげたので2人の日本軍兵士が加勢に来た。そこで彼女は1人で3人を相手に闘うこととなったが、身体、顔など合わ せて37ヵ所も切りつけられ、気を失ってしまった。その後、父親の看病のもとに7ヵ月間入院加 療し、やっと健康をとり戻したのであった(前掲『侵華日軍南京大虐殺史料』)。




2023年2月23日木曜日

第二次世界大戦末期の西部戦線にて、ドイツ国内でオランダ国境付近にて、連合国軍の空挺部隊によるライン川越える攻撃の際に負傷した落下傘兵を、1945年3月24日にアメリカ軍第17空挺師団の衛生兵が手当した。

第二次世界大戦末期の西部戦線にて、ドイツ国内でオランダ国境付近にて、連合国軍の空挺部隊によるライン川越える攻撃の際に負傷した落下傘兵を、1945年3月24日にアメリカ軍第17空挺師団の衛生兵が手当した。第17空挺師団の落下傘兵と衛生兵は、ライン川渡河を確保する連合軍空挺部隊のヴァーシティー作戦中の1945年3月24日に、戦死傷した兵士をヴェゼル近くの救急救護所に運搬した。背後には、頭上のワイヤーやパラシュートなどが散乱した。戦争写真家のロバート・キャパが、アメリカ軍空挺部隊と一緒に飛び降りて撮影した。ドイツの機関銃が、宙ぶらりんの落下傘兵士たちをねらって銃撃した。

 ヴァーシティー作戦(Varsity Operation、1945年3月24日)は、連合国軍が発動した空挺部隊の作戦である。約16,000人以上の空挺部隊と数千機の戦闘機が参戦した。ライン川北部を横断して、北ドイツに侵攻した。ハンミンケルン村とヴェーゼルの町付近のライン川東岸に2個空挺師団が上陸して、西ドイツのライン川を渡る足場を確保した。

 アメリカ軍第18空挺団の2個師団を降下させ、重要地域を占領して、連合軍地上部隊の侵攻を支援した。イギリス第6空挺師団は、シュナッペンベルク村とハンミンケルン村を占領し、ディアスフォルターの森の一部をドイツ軍から排除した。アメリカ軍第17空挺師団はディアスフォルト村を占領し、残りのドイツ軍を掃討した。占領した地域を保持し、ドイツ北部への全般的な侵攻に参戦した。

 空挺部隊はいくつかの失敗を犯し、特にアメリカ第17空挺師団所属の第513落下傘歩兵連隊の落下傘兵が、パイロットの失敗で降下地点から外れ、代わりにイギリス軍の降下地点に着地した。両師団はライン川の橋を占領し、ドイツがイギリス地上軍が、ドイツ軍の進撃を遅らせた。両師団は約2,000人以上の死傷者を出したが、約3,500人のドイツ軍兵士を捕らえた。第二次世界大戦の連合軍の最後の大規模な空挺作戦であった。




2023年2月22日水曜日

レバノン右翼のファランジ民兵は、1982年9月16日から18日にシャティーラとサブラ難民収容所のパレスチナ難民とレバノン市民を、イスラエル軍と連携して攻撃して、9月16日から2日間で約2,000〜約3,500人のパレスチナ難民とレバノン市民を殺害した。

イスラエル軍が支援するファランジ民兵は、1982年9月16日から18日にかけて、シャティーラとサブラに収容されたパレスチナ難民とレバノン市民を、イスラエル軍と連携してファランジ民兵が攻撃した。9月16日から2日間で約2,000〜約3,500人のパレスチナ難民とレバノン市民を殺害した。徹底的に破壊尽くされ瓦礫と化した。虐殺は9月16日木午後6時から9月18日土午後1時まで、約43時間も継続した。9月19日に、シャティーラ難民キャンプの虐殺を撮影した。周辺は虐殺により変形した死体が瓦礫に埋まって散乱した。死体は腐敗が著しくウジや死臭で充満した。

 中東戦争のレバノン内戦で勃発した最も悲惨なサブラとシャティーラ(Sabra and Shatila)虐殺事件の一つである。レバノンの首都ベイルートの南西に位置するパレスチナ難民キャンプは、南北に隣接した南シャティーラ地区および北サブラ地区は、レバノンの首都ベイルートの南西に位置した。パレスチナ難民は、1948年のナクバ(アラビア語で大惨事)の犠牲者であり、イスラエルの建国に伴って、シオニスト民兵によるパレスチナの激しい民族浄化から避難した難民であった。1948年のナクバで、北部地域の約10万人以上のパレスチナ人が追放され、祖国に帰る道が閉ざされてレバノンに避難した。9月15日朝に、イスラエルはベイルート西部に侵攻し、難民キャンプを閉鎖して脱走不可にした。レバノンの次期大統領であったバチール・ジェマイエルの暗殺をPLOの実行犯とするファランジュ民兵に、イスラエル軍は、サブラとシャティラの難民収容所を包囲して、ファランジュ民兵に侵入と虐殺の執行を認可した。

 大量殺戮の証言から、虐殺、身体切断、レイプ、集団墓地などの悲惨な虐待と虐殺が記された。余波の映像が、世界中のテレビで放映され、世界的な憤りを引き起こした。国連総会では、1982年12月16日にサブラとシャティーラの虐殺をジェノサイド行為と宣言する決議した。レバノンやイスラエルの戦闘員や関係者は、虐殺の戦争犯罪に対して一人も処罰されなかった。イスラエルのシャロン国防相は、1983年2月14日に辞任したが、2001年に首相に選出された1993年にイスラエルとオスロ協定が結ばれ、パレスチナ自治政府(PA)が発足する前に、PLOは本部をチュニジアに移した。




2023年2月21日火曜日

第一次世界大戦にて、ドイツ軍が占領したルーマニアのブンツラウ捕虜収容所で、1917年春にコレラやチフス、飢えや窮乏で、多量のルーマニア人とロシア人の囚人が死亡した。毎月に数個の集団墓地の墓穴に約300から500体の死体が埋葬された。

第一次世界大戦の東部戦線において、ドイツ軍が占領したルーマニアのブンツラウ(Bunzlau)捕虜収容所では、1917年春にコレラやチフス、飢えや窮乏で、多量のルーマニア人とロシア人の囚人が死亡した。その死体を埋めるために、毎月に2から3個の集団墓地を掘る必要があった。それぞれの墓穴には約300から500体の死体が埋葬された。見捨てられた無残な死体を集団墓地に投げ込む度に、血や汚物の跡が、集団墓地の縁に残った。死体は穴に投げ込まれ、土を被せられた。















 

  




Ernst Friedrich(1894-1967)"Krieg dem Kriege! (War against War!, Guerre à Guerre!, Oorlog aan den Oorlog!, 戦争に反対する戦争, p118, 龍渓書舎, 1988年)

ロシア軍兵士の死体を共同墓地に集団埋葬するのに、ドイツ軍はロシア人捕虜に強制労働させて、集団墓地にロシア人の死体を詰める作業を強制した。共同墓地は、毎日ロシア人捕虜は共同墓地を設置した。斜めに立位して待機しているのが、ロシア人の死体を集団埋葬したロシア人捕虜であった。共同墓地に積み上げられた死体から衣服なども略奪されていた。ドイツ軍兵士は、敵国であるロシア軍兵士の死体は、憎しみながら虫けらのように扱った。





 






Ernst Friedrich(1894-1967)"Krieg dem Kriege! (War against War!, Guerre à Guerre!, Oorlog aan den Oorlog!, 戦争に反対する戦争, p109, 龍渓書舎, 1988年)

 第一次世界大戦にて、ルーマニア王国は1916年8月27日に、ロシア軍のブルシロフス攻勢を受けて、連合国側として第一次世界大戦に参戦した。ルーマニア軍は、1916年12月6日にドイツ軍により首都ブカレストのワラキア地域を喪失して、国境付近まで退却した。1917年12月に、ルーマニアは10月革命によりロシア軍の撤退により休戦に追い込まれた。1916年末にはルーマニア古王国領のうち、西モルダビアだけがルーマニア軍とロシア軍の支配下に残存した。ハンガリー・ルーマニア戦争が、1918年11月13日から1919年8月3日まで勃発して、ルーマニアはハンガリーを一時的に占領して第一次世界大戦後に返還させられた。

2023年2月20日月曜日

太平洋戦争で沖縄戦が猛烈な激戦となった1945年5月中旬頃に、日本軍兵士がアメリカ軍に殺害され仰向けで戦死して、半挙上位の両腕は死後硬直して、死体に蝿が集まった。

太平洋戦争で沖縄戦が猛烈な激戦となった1945年5月中旬頃に、日本軍兵士がアメリカ軍に殺害されて仰向けで戦死していた。沖縄の首里の周辺にて、多数の日本軍兵士の死体が荒野の戦場に散乱して取り残された。仰向けの日本軍兵士の死体の両腕は、死後硬直していた。半挙上した左上腕で、顔面を伏せていた。死体の全身には、蝿が集って腐敗して死臭が漂った。アメリカ軍の爆撃によって爆死したと推定された。沖縄戦の日本軍第23軍は、5月中旬には兵力、武器も枯渇して、原始的な洞窟や墓などに籠もって持久戦となった。日本軍の大本営は、沖縄戦は本土決戦の防衛として捨て石の玉砕戦となった。

 沖縄の地形は、すべてが防御に有利だった。稜線と急斜面の地形は、戦場を一連の小規模で悪質な銃撃戦に変えた。植物が密集していないため、日本軍はアメリカ軍を完全に監視できた。稜線の至る所にある洞窟やコンクリート製の沖縄古墳から、日本軍は連動しながら強烈で激しい銃撃をした。日本軍の大砲は、アメリカ軍から見え難い丘や尾根の側面に潜伏した多数の大砲によって、アメリカ軍に瞬時に照準を合わせて攻撃した。

 5月1日から戦線に投入された最初夜に、アメリカ軍第5連隊は日本軍の潜入部隊に襲撃された。その度に激しい肉弾戦が繰り広げた。早朝になって、アメリカ軍は日本軍の攻撃を撃退した。ある日本軍兵士の胸にはアメリカ軍の戦闘ナイフや銃剣が刺さり、ある日本軍兵士はアメリカ軍の銃剣で内臓が摘出された。ある日本軍兵士は、アメリカ軍の手榴弾の破片を浴びた。ライフルや機関銃の銃弾で穴が開いた身体状態で、戦場には日本人の死体が散乱した。夜間の戦闘に生き残って、戦場にいるアメリカン軍には物資が補給された。

 5月5日夜に、日本軍がアメリカ軍の後方に上陸して反撃に出て、アメリカ軍は攻勢から守勢に回った。アメリカ軍は夜の浜辺で激しい砲火を浴びて、日本軍を迎え撃った。日本軍の攻撃は、徹夜の戦闘で、約800人以上の日本人の死傷者を出す犠牲となった。5月6日朝、アメリカ軍は、残存して潜伏していた残りの約65人の日本軍兵士を追跡して、殺害した。日本軍の水陸両用の攻撃を撃退した後に、アメリカ軍は率先して反攻を開始して、約6,000人以上の日本軍兵士と約50門以上の大砲を撃破した。5月11日から30日にかけての戦闘では、アメリカ軍兵士は日本軍の敵地に約90m侵攻するごとに約200人が戦死傷する犠牲を伴った。




2023年2月19日日曜日

2023年2月2日に、ウクライナ東部ドネツク州のバフムートで、ロシア軍のミサイルが、医療援助関係者の救急車付近で炸裂して、33歳男性のアメリカ人のピート・リードとウクライナ人女性は直撃されて殺害された。

ウクライナ東部の激戦地のバフムートで、アメリカ人ボランティアが、無料の診察と薬の配布の移動診療を行った医療援助関係者がロシア軍の標的型攻撃により殺害された。2023年2月2日昼に、ウクライナ東部ドネツク州のバフムートで、ロシア軍のミサイルが、医療援助関係者の2人が救護しようとした地点わずか数mに落ちて炸裂した。ロシア軍から飛んできたミサイルが、33歳男性のピート・リード(Pete Reed)のチームの白い仮設救急車を直撃した。エストニア出身のエルコ・ライディネンは、車の窓から携帯電話で撮影していた。その映像から2つの静止画は、救急車にミサイルが命中する直前と直後の瞬間を示した。最初の画像は、焼け焦げた車両を通過するミサイルを、2番目の画像は、爆発の衝撃を表した。ロシア・ウクライナ戦争で、医療関係者や施設に対する攻撃は数多くあった。ロシア軍は意図的に民間人を標的にしたことは否定した。

 爆発の煙の中で、意識を取り戻したサイモン・ジョンセンは、耳元で大きな口笛が鳴り、負傷して生存した。砲撃で頭部を負傷して、右耳の聴力を失った。彼はまだ自分の身体の部分を検証した。彼の隣では、同僚の衛生兵であるピート・リード(Pete Reed)が死んでいた。元アメリカ軍の海兵隊員のリードは、約4年前から医療支援団体グローバル・アウトリーチ・ドクターズ(Global Outreach Doctors)を設立して、1月からウクライナのバフムートの戦場に来た。負傷して治療を受けに来たウクライナ人女性の車は大破して、彼女を救助したリードも一緒に殺害された。ノルウェー出身の衛生兵のジョンセンと他のボランティアグループは、ほんの少し前に医療援助の現場に到着して、負傷するも生存した。ロシア軍が衛生兵や最前線の救援者を標的にしたダブルタップ(double tap)の典型例であった。

 ロシア軍によるウクライナへの本格的な侵攻が始まった2022年2月24日以来、最も激しい戦闘がバフムートの戦場で勃発した。ロシア軍とウクライナ軍の双方の兵士は、戦闘で毎日失われる数百人の命を理由に、肉挽き機と呼称した。ウクライナでは2月2日に、東部ドネツク州でウクライナ軍の拠点であるバフムトに加え、州都の南西のウフレダム周辺もロシア軍の侵攻により、激しい戦闘が継続した。



















Warning: Two stills taken from mobile phone footage show the moments before and after the ambulance was hit with a missile. The first image shows the missile streaking past a burnt-out vehicle; the second shows its impact.(Eriko Laidinen / CNN)

2023年2月18日土曜日

被爆者らが長崎駅前を爆心地の浦上方面から路面電車の線路に沿って、生存者が県道を歩行して避難して、爆心地より約2.5Kmの長崎市八千代町付近を避難した。

被爆者らが長崎駅前を爆心地の浦上方面から路面電車の線路に沿って、生存者が県道を歩行して避難した。爆心地より約2.5Kmの長崎市八千代町付近を避難していた。長崎原子爆弾で、唯一の被爆当日である1945年8月9日から最も直後に、8月10日早朝に撮影された長崎市内の写真と推定された。背景には、八千代町の西部ガス長崎支店のガスタンクがかすんで見えた。線路は、長崎県道飢えの長崎市内の路面電車の軌道上を被災者が避難した。

 1945年8月9日午前11時2分に、アメリカ軍は長崎市内に、広島に次いで第2番目の原子爆弾を投下して炸裂した。長崎市内は一瞬で廃虚と化し、約7万4千人もの多くの被爆者を殺害した。広島市内への原子爆弾の投下から、わずか3日後に、長崎市松山町の上空約500m付近で、炸裂したプルトニウム239型原子爆弾は、「ファットマン」と呼称されて、広島の原子爆弾の約1.3倍もの猛烈な破壊力であった。

 博多軍管区から8月9日に派遣された山端庸介らは、その後に8月10日午前3時に、長崎本線道ノ駅に到着した。それから上記を含めて滞在14時間で約100枚の写真を撮影した。山端庸介の写真の一部が『毎日新聞』(1945年8月21日)『読売報知新聞』(8月23日)『東京新聞』(8月25日)に掲載された。9月以降は連合軍総司令部 (GHQ) によるプレスコードにより、原子爆弾に関するすべての報道が規制された。





2023年2月17日金曜日

ヤコウブ医師はジャマカール青年の左大腿の傷口から膿を排泄させて水で傷口を洗浄した。アフガニスタンのムシャヒディンは何も言わず、ソ連侵攻後も生き抜き、悲壮な表情で我慢して座位になった。

ソ連のアフガニスタン侵攻は、1979年12月24日にアフガニスタンにソ連の軍隊が侵攻した。アフガン戦争(1978-92)で反共産主義のイスラムゲリラと対立したアフガニスタン共産党政府を支援するためにソ連軍は介入した。その後1989年2月中旬までアフガニスタンに駐留した。

 1978年4月に、モハンマド・ダウド・ハーン大統領率いるアフガニスタン中道政権は、ヌール・モハンマド・タラキ率いる左翼軍人に打倒された。その後、マルクス・レーニン主義の人民(ハルク)党と旗国(パーチャム)党が権力を握った。以前は人民民主党の組織から生まれ、クーデターの直前に不安な連合体として再統合された。新政府はソ連と緊密な関係を築き、アフガニスタン国内の反対勢力を冷酷に粛清して、大規模な土地・社会改革を開始した。敬虔なイスラム教徒と反共産主義者が多いアフガニスタン国民からは激しい反発を受けた。部族と都市の両方のグループから、政府に対する反乱が起こった。反対グループはすべて、ムジャヒディーン(アラビア語のmujāhidūn、「聖戦に従事する者」)と総称され、イスラム原理主義を志向した。

 1982年にアフガニスタンのボコハム(Bokoham)付近では、ムシャヒディンの負傷者を収容するために戦線近くの家である最前線の回復センターは、負傷したアフガニスタンのムジャヒディンの兵士でほとんど埋まった。ジャマカール青年は、腕と脚に重症の怪我をして、窓際に仰向けに寝ていた。

 ヤコウブ医師はジャマカール青年の左大腿の傷口から膿を排泄させて水で傷口を洗浄した。何も言わず、世の中の愚かさを生き抜き、悲壮な表情で我慢して座位になった。旧式のかばんから錠剤を配った。入院者は煮沸した水だけを飲み、ゆで卵とナンのみを食べて、肉、米、スープは絶食した。ムシャヒディンは、数ヶ月間絶えずソ連軍と戦った。ムシャヒディンは生きているだけで精一杯だった。カラシニコフを膝に挟んで何時間も座り続けた。頬骨が高く、黒髪のたてがみを持ち、目はうつろで、獰猛な印象を与えた。突然、他の誰かに牙を剥き、嘲笑うのである。最初は無視したり、宥めたり、プライドが邪魔して言い争いになり、最後は怒鳴り合いになった。




2023年2月16日木曜日

チベットの首都ラサで、1987年10月1日にチベット人のデモ隊に、中国の武装警察が襲撃して、チベット人のクンセルさんが、デモ中に射殺された。

チベットの首都ラサで、1987年10月1日にチベット人のデモ隊に、中国の武装警察が襲撃した。チベット人のクンセルさんが、デモ中に射殺された。頭部から出血した死体が並べられ、デモ隊に見守られた。中国の国慶節の10月1日に、ラサで大規模なデモが発生した。セラ僧院の僧侶がチベット国旗を掲げて、もう一度チベットの独立を呼びかけた。デモ隊は次第に暴力的になり、デモ隊は車をひっくり返した。車や警察署に火をつけて、警察隊に投石した。中国の警察は、少なくとも約6人のチベット人を殺害した。

 10月1日の中国国慶節には、セラ僧院の約3人の僧侶を含めた約23人のチベット人が、禁止されているチベット国旗を持って、チベット独立のスローガンを叫びながら、ジョカン寺を囲むバルコル通りを行進した。約50人の一般のチベット人も加わった。デモ隊が約4周目に入ったところで、中国の警官がデモ隊を殴り始めて、僧侶全員と約30人の一般参加者が逮捕された。ジョカン南西の角にある警察署に強制連行された。その後に、約2,000人のチベット人が、彼らを解放しようと警察署に押し寄せて、中国の警察が発砲して、少なくとも約7人が死亡し、多くが逮捕された。

 中国共産党は、1949年に国共内戦に勝利して、社会主義国家中華人民共和国を10月1日に建国宣言をした。チベットは中国の一部分として、チベット全土の解放を目指して1950年に中国人民解放軍による軍事侵攻を発動した。チベットを軍事制圧して、17ヶ条協定により、チベットの主権を奪った。チベット人のデモはすべて、長年の中国共産党政権の支配下で、チベット人の差別と虐待を示唆した。中国共産党の指導部は、チベット人の不満を、反乱として残酷に弾圧した。多くのチベット人が逮捕され、拷問を受けた。中国はチベットの繁栄と発展を主張するも、チベット人には、長い年月の占領と残虐行為であった。チベットへの不当な侵略と不法占拠以来、全土のチベット人は中国共産党政府に抵抗した。残忍な弾圧、殺害、逮捕、拷問、拘留死、略式処刑にもかかわらず、チベット人は中国共産党の抑圧的な政策に抗議して何度も立ち上がった。 




2023年2月15日水曜日

バクダットの戦いで2003年4月初旬に、アメリカ軍は父親のファールークさんを銃殺して殺害した。布を顔に巻いた息子のゼイドさんは、毛布で死体を少しずつはがし露出して、父親の死体の全身を棺の中に収めた。

イラク戦争が2003年3月20日に勃発して、バグダッドの戦い(Battle of Baghdad, 4月3日〜4月9日)にて、2003年4月5日早朝は最初にアメリカ軍は、浄水場近くを通る国道8号を通って、西方のサダムフセイン国際空港に侵攻した。二度目のバクダット侵攻は、4月7日に国道8号から共和国宮殿に侵入した。4月9日には、パレスチナホテル前のサダム像を倒壊して、サダム・フセイン政権は崩壊した。

 数日後に、国道沿いに止めた乗用車の横で、2人のイラク人男性が黙々と、毛布を右側のドアから中に入れ、毛布で死体をつかんで引き出した。無数のハエが激しく羽音を立て飛び回った。手前に内側に白布を敷いた木棺が置かれた。死体から凄まじい腐臭が漂って、湧いたハエが飛び出した。白布で鼻と口を覆った2人の男性が死体を引っ張ると、全身が棺の中に収まった。

 アメリカ軍のバクダットの戦いを知った夫のファールーク・アブルカーシム(65歳)さんは、数日前の朝に、妻がアメリカ軍が侵攻する国道沿いの実家に帰った。戦闘に巻き込まれる前に、妻を連れ戻すために夫はドーラの自宅を飛び出し、車で国道を北に向かった。既にバクダットに侵攻したアメリカ軍に、夫のファールークの頭と腹は撃ち抜かれた。左の後部座席のシートやドア、運転席の背もたれに多数の穴が開いた。全速で通り抜けた車を、アメリカ軍は追いかけて銃撃した。

 布を顔に巻いた父親の息子であるゼイドさん (24歳)は、毛布を少しずつはがしながら、ペットボトルに入れた白い液体を父親の背中にかけた。消毒液で、吐き気をもよおす腐臭が薄らげた。右脇から腰にかけて赤黒い血がこびりついた父親のファールークさんの死体が露出した。死体の腰、尻が不自然に膨らんで、死後に数日が経って、腐敗で膨張した。息子のゼイドさんは、切断しかけ地面に落ちた父親の左足を持ち上げ、右足に重ねた。ゼイドさんは、黙々と父親を棺に収める作業をした。父親の死体を布で覆い、棺の蓋を閉めた。棺の付近に直立し、広げた両手の平を捧げて祈った。イスラム教の儀式で、聖地に向かってコーランの言葉を暗唱した。




2023年2月14日火曜日

北朝鮮の工作船が、1980年6月21日に韓国の忠清南道西海岸の大川沖合いに侵入して、韓国軍に撃沈され、1人が逮捕され、工作員の9人が射殺され、死体が担架で搬送された。

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の工作船が、1980年6月21日に韓国(大韓民国)の忠清南道西海岸の大川沖合いに侵入して、韓国軍に撃沈された。1人が逮捕され、北朝鮮の工作員の9人全員は射殺された死体が担架で搬送された。逮捕された北朝鮮の金光賢は、北朝鮮の作戦部に所属して、工作船にて工作員を往復させて、韓国人を拉致していたと証言した。1970年代以前は韓国軍の海岸警備は手薄であったが、1970年代以後は韓国軍の海岸警備は強化された。

 北朝鮮は、対南工作(대남공작)にて、韓国に対して行う政治的、軍事的、思想的な工作活動を指令した。金光賢は、1955年から1959年まで北朝鮮の平壌首都保衛軍の伍長をした。紡績工場の作業班から1965年に中央党所属、対南連絡所で南派訓練を受けた。1980年6月まで北朝鮮でスパイ工作員を輸送する任務で、十数回韓国に南派された。数人を送り込んでは連れて帰った。スパイ工作船基地の海州港を出発してから、西海(黄海)まで大型船で行き、小舟の工作船に工作員を乗せる。その後に基地に帰って待機して、約15日後に工作員を迎えに行った。

 北朝鮮のスパイ工作船の基地は、東海岸任務は元山、南海岸任務は南浦、西海岸任務は海州にあった。金光賢の西海岸任務した海州には、スパイ工作船の母船である基本船が約6隻、小型工作船が約20〜30隻あり、小型工作船は5トン程度で約10人は乗れた。

 金光賢さんは1980年6月18日に海州港を出発した。外形は漁船であるも、高射機関砲を積んだ。西海(黄海)を経て、6月19日夜8時頃に忠清南道の海水浴場である大川の沖に到着した。工作員と約10人が小舟に乗り換えて、韓国の海岸の防備状況の偵察に向かった。6月20日夜に大川の沖から海岸に静かに接近した。北朝鮮の工作員を降ろす地点で、韓国陸軍の歩哨所に発見された。韓国陸軍からの攻撃が始まり、小舟は無抵抗状態であった。砲弾や銃撃が小舟に命中して、瞬時に沈没した。撃沈された時点に工作員は全員9人が殺害された。

 金光賢は、大川の沖を必死で泳いで逃げるも、韓国軍機に発見され、韓国軍の艦艇に捕獲された。9人の北朝鮮の工作員は殺害されて、金光賢1人のみが逮捕されて生存した。金光賢さんは、韓国軍に抑留されて1年間は北朝鮮のスパイ・拉致などの取り調べを受けた。その後に韓国社会に向けた更生訓練を受けて社会復帰した。




2023年2月13日月曜日

ISISと呼称されるイスラム反政府勢力が、捕虜となったイラク政府の兵士や治安当局者の約1,700人を銃殺したと公表した。反政府勢力であるISISは、殺害した映像や静止画を2014年6月14日に公開した。

イスラム国(ISIS,ISIL)が、1914年6月中旬にイラクのティクルート由来の画像により、捕虜となったイラク政府関係者の大量虐殺を示唆した。ISISが投稿した動画からの静止画の大量虐殺の場面を描出した。処刑はイラクのサラエディン州で行われ、イラク民間人の服を着た数十人のイラク治安部隊員を、群がったトラックから地面にうつ伏せにさせた。その後に浅い溝で、銃やライフルで、武装したISIS武装勢力が射殺さした様子を映し出した。

 国連の人権事務所は、イラクで大量虐殺の報告の裏付けを発表した。ISISと呼称されるイスラム反政府勢力が、捕虜となったイラク政府の兵士や治安当局者の約1,700人を銃殺したと公表した。反政府勢力であるISISは、殺害したとされる映像や静止画を2014年6月14日に公開した。

 非営利団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは、映像を検証した。ISISは、宗派間紛争を引き起こすも、偽証の演出を示すものは見当たらない。画像はティクリート市から由来した。ISISに拘束された人々が、近くの処刑場に強制連行される模様が映し出された。衛星画像とティクルートの地域の特徴を照合して、強制連行され拘束そされた人々の写真が、撮影された場所とティクリットの処刑場を特定できた。ティクルートの都市は、6月12日にISISの武装勢力に陥落した直後であった。インターネット上で再度に流通した過去の類似の宗派間の暴力事件で撮影された画像ではなかった。衛星画像から、銃殺して殺害された犠牲者の死体が並べ、銃撃された実際の塹壕の場所を特定した。

 現地での目撃者も探索した。映像の技術は、第一次湾岸戦争後のシーア派の反乱の失敗の余波から、死刑が執行された1991年の大量処刑と非常に類似した。人々は処刑場までトラックで運ばれ、ブルドーザーで事前に掘られた溝があり、人々は並べられて処刑された。1991年にイラクの治安部隊が、執行した大量虐殺に類似した。ISISがシリアで執行した大量処刑とも異なった。イスラム過激派がティクリートで家々を回り、地元の家族が隠している政府軍兵士を掃討した。