2023年2月19日日曜日

2023年2月2日に、ウクライナ東部ドネツク州のバフムートで、ロシア軍のミサイルが、医療援助関係者の救急車付近で炸裂して、33歳男性のアメリカ人のピート・リードとウクライナ人女性は直撃されて殺害された。

ウクライナ東部の激戦地のバフムートで、アメリカ人ボランティアが、無料の診察と薬の配布の移動診療を行った医療援助関係者がロシア軍の標的型攻撃により殺害された。2023年2月2日昼に、ウクライナ東部ドネツク州のバフムートで、ロシア軍のミサイルが、医療援助関係者の2人が救護しようとした地点わずか数mに落ちて炸裂した。ロシア軍から飛んできたミサイルが、33歳男性のピート・リード(Pete Reed)のチームの白い仮設救急車を直撃した。エストニア出身のエルコ・ライディネンは、車の窓から携帯電話で撮影していた。その映像から2つの静止画は、救急車にミサイルが命中する直前と直後の瞬間を示した。最初の画像は、焼け焦げた車両を通過するミサイルを、2番目の画像は、爆発の衝撃を表した。ロシア・ウクライナ戦争で、医療関係者や施設に対する攻撃は数多くあった。ロシア軍は意図的に民間人を標的にしたことは否定した。

 爆発の煙の中で、意識を取り戻したサイモン・ジョンセンは、耳元で大きな口笛が鳴り、負傷して生存した。砲撃で頭部を負傷して、右耳の聴力を失った。彼はまだ自分の身体の部分を検証した。彼の隣では、同僚の衛生兵であるピート・リード(Pete Reed)が死んでいた。元アメリカ軍の海兵隊員のリードは、約4年前から医療支援団体グローバル・アウトリーチ・ドクターズ(Global Outreach Doctors)を設立して、1月からウクライナのバフムートの戦場に来た。負傷して治療を受けに来たウクライナ人女性の車は大破して、彼女を救助したリードも一緒に殺害された。ノルウェー出身の衛生兵のジョンセンと他のボランティアグループは、ほんの少し前に医療援助の現場に到着して、負傷するも生存した。ロシア軍が衛生兵や最前線の救援者を標的にしたダブルタップ(double tap)の典型例であった。

 ロシア軍によるウクライナへの本格的な侵攻が始まった2022年2月24日以来、最も激しい戦闘がバフムートの戦場で勃発した。ロシア軍とウクライナ軍の双方の兵士は、戦闘で毎日失われる数百人の命を理由に、肉挽き機と呼称した。ウクライナでは2月2日に、東部ドネツク州でウクライナ軍の拠点であるバフムトに加え、州都の南西のウフレダム周辺もロシア軍の侵攻により、激しい戦闘が継続した。



















Warning: Two stills taken from mobile phone footage show the moments before and after the ambulance was hit with a missile. The first image shows the missile streaking past a burnt-out vehicle; the second shows its impact.(Eriko Laidinen / CNN)

2023年2月18日土曜日

被爆者らが長崎駅前を爆心地の浦上方面から路面電車の線路に沿って、生存者が県道を歩行して避難して、爆心地より約2.5Kmの長崎市八千代町付近を避難した。

被爆者らが長崎駅前を爆心地の浦上方面から路面電車の線路に沿って、生存者が県道を歩行して避難した。爆心地より約2.5Kmの長崎市八千代町付近を避難していた。長崎原子爆弾で、唯一の被爆当日である1945年8月9日から最も直後に、8月10日早朝に撮影された長崎市内の写真と推定された。背景には、八千代町の西部ガス長崎支店のガスタンクがかすんで見えた。線路は、長崎県道飢えの長崎市内の路面電車の軌道上を被災者が避難した。

 1945年8月9日午前11時2分に、アメリカ軍は長崎市内に、広島に次いで第2番目の原子爆弾を投下して炸裂した。長崎市内は一瞬で廃虚と化し、約7万4千人もの多くの被爆者を殺害した。広島市内への原子爆弾の投下から、わずか3日後に、長崎市松山町の上空約500m付近で、炸裂したプルトニウム239型原子爆弾は、「ファットマン」と呼称されて、広島の原子爆弾の約1.3倍もの猛烈な破壊力であった。

 博多軍管区から8月9日に派遣された山端庸介らは、その後に8月10日午前3時に、長崎本線道ノ駅に到着した。それから上記を含めて滞在14時間で約100枚の写真を撮影した。山端庸介の写真の一部が『毎日新聞』(1945年8月21日)『読売報知新聞』(8月23日)『東京新聞』(8月25日)に掲載された。9月以降は連合軍総司令部 (GHQ) によるプレスコードにより、原子爆弾に関するすべての報道が規制された。





2023年2月17日金曜日

ヤコウブ医師はジャマカール青年の左大腿の傷口から膿を排泄させて水で傷口を洗浄した。アフガニスタンのムシャヒディンは何も言わず、ソ連侵攻後も生き抜き、悲壮な表情で我慢して座位になった。

ソ連のアフガニスタン侵攻は、1979年12月24日にアフガニスタンにソ連の軍隊が侵攻した。アフガン戦争(1978-92)で反共産主義のイスラムゲリラと対立したアフガニスタン共産党政府を支援するためにソ連軍は介入した。その後1989年2月中旬までアフガニスタンに駐留した。

 1978年4月に、モハンマド・ダウド・ハーン大統領率いるアフガニスタン中道政権は、ヌール・モハンマド・タラキ率いる左翼軍人に打倒された。その後、マルクス・レーニン主義の人民(ハルク)党と旗国(パーチャム)党が権力を握った。以前は人民民主党の組織から生まれ、クーデターの直前に不安な連合体として再統合された。新政府はソ連と緊密な関係を築き、アフガニスタン国内の反対勢力を冷酷に粛清して、大規模な土地・社会改革を開始した。敬虔なイスラム教徒と反共産主義者が多いアフガニスタン国民からは激しい反発を受けた。部族と都市の両方のグループから、政府に対する反乱が起こった。反対グループはすべて、ムジャヒディーン(アラビア語のmujāhidūn、「聖戦に従事する者」)と総称され、イスラム原理主義を志向した。

 1982年にアフガニスタンのボコハム(Bokoham)付近では、ムシャヒディンの負傷者を収容するために戦線近くの家である最前線の回復センターは、負傷したアフガニスタンのムジャヒディンの兵士でほとんど埋まった。ジャマカール青年は、腕と脚に重症の怪我をして、窓際に仰向けに寝ていた。

 ヤコウブ医師はジャマカール青年の左大腿の傷口から膿を排泄させて水で傷口を洗浄した。何も言わず、世の中の愚かさを生き抜き、悲壮な表情で我慢して座位になった。旧式のかばんから錠剤を配った。入院者は煮沸した水だけを飲み、ゆで卵とナンのみを食べて、肉、米、スープは絶食した。ムシャヒディンは、数ヶ月間絶えずソ連軍と戦った。ムシャヒディンは生きているだけで精一杯だった。カラシニコフを膝に挟んで何時間も座り続けた。頬骨が高く、黒髪のたてがみを持ち、目はうつろで、獰猛な印象を与えた。突然、他の誰かに牙を剥き、嘲笑うのである。最初は無視したり、宥めたり、プライドが邪魔して言い争いになり、最後は怒鳴り合いになった。




2023年2月16日木曜日

チベットの首都ラサで、1987年10月1日にチベット人のデモ隊に、中国の武装警察が襲撃して、チベット人のクンセルさんが、デモ中に射殺された。

チベットの首都ラサで、1987年10月1日にチベット人のデモ隊に、中国の武装警察が襲撃した。チベット人のクンセルさんが、デモ中に射殺された。頭部から出血した死体が並べられ、デモ隊に見守られた。中国の国慶節の10月1日に、ラサで大規模なデモが発生した。セラ僧院の僧侶がチベット国旗を掲げて、もう一度チベットの独立を呼びかけた。デモ隊は次第に暴力的になり、デモ隊は車をひっくり返した。車や警察署に火をつけて、警察隊に投石した。中国の警察は、少なくとも約6人のチベット人を殺害した。

 10月1日の中国国慶節には、セラ僧院の約3人の僧侶を含めた約23人のチベット人が、禁止されているチベット国旗を持って、チベット独立のスローガンを叫びながら、ジョカン寺を囲むバルコル通りを行進した。約50人の一般のチベット人も加わった。デモ隊が約4周目に入ったところで、中国の警官がデモ隊を殴り始めて、僧侶全員と約30人の一般参加者が逮捕された。ジョカン南西の角にある警察署に強制連行された。その後に、約2,000人のチベット人が、彼らを解放しようと警察署に押し寄せて、中国の警察が発砲して、少なくとも約7人が死亡し、多くが逮捕された。

 中国共産党は、1949年に国共内戦に勝利して、社会主義国家中華人民共和国を10月1日に建国宣言をした。チベットは中国の一部分として、チベット全土の解放を目指して1950年に中国人民解放軍による軍事侵攻を発動した。チベットを軍事制圧して、17ヶ条協定により、チベットの主権を奪った。チベット人のデモはすべて、長年の中国共産党政権の支配下で、チベット人の差別と虐待を示唆した。中国共産党の指導部は、チベット人の不満を、反乱として残酷に弾圧した。多くのチベット人が逮捕され、拷問を受けた。中国はチベットの繁栄と発展を主張するも、チベット人には、長い年月の占領と残虐行為であった。チベットへの不当な侵略と不法占拠以来、全土のチベット人は中国共産党政府に抵抗した。残忍な弾圧、殺害、逮捕、拷問、拘留死、略式処刑にもかかわらず、チベット人は中国共産党の抑圧的な政策に抗議して何度も立ち上がった。 




2023年2月15日水曜日

バクダットの戦いで2003年4月初旬に、アメリカ軍は父親のファールークさんを銃殺して殺害した。布を顔に巻いた息子のゼイドさんは、毛布で死体を少しずつはがし露出して、父親の死体の全身を棺の中に収めた。

イラク戦争が2003年3月20日に勃発して、バグダッドの戦い(Battle of Baghdad, 4月3日〜4月9日)にて、2003年4月5日早朝は最初にアメリカ軍は、浄水場近くを通る国道8号を通って、西方のサダムフセイン国際空港に侵攻した。二度目のバクダット侵攻は、4月7日に国道8号から共和国宮殿に侵入した。4月9日には、パレスチナホテル前のサダム像を倒壊して、サダム・フセイン政権は崩壊した。

 数日後に、国道沿いに止めた乗用車の横で、2人のイラク人男性が黙々と、毛布を右側のドアから中に入れ、毛布で死体をつかんで引き出した。無数のハエが激しく羽音を立て飛び回った。手前に内側に白布を敷いた木棺が置かれた。死体から凄まじい腐臭が漂って、湧いたハエが飛び出した。白布で鼻と口を覆った2人の男性が死体を引っ張ると、全身が棺の中に収まった。

 アメリカ軍のバクダットの戦いを知った夫のファールーク・アブルカーシム(65歳)さんは、数日前の朝に、妻がアメリカ軍が侵攻する国道沿いの実家に帰った。戦闘に巻き込まれる前に、妻を連れ戻すために夫はドーラの自宅を飛び出し、車で国道を北に向かった。既にバクダットに侵攻したアメリカ軍に、夫のファールークの頭と腹は撃ち抜かれた。左の後部座席のシートやドア、運転席の背もたれに多数の穴が開いた。全速で通り抜けた車を、アメリカ軍は追いかけて銃撃した。

 布を顔に巻いた父親の息子であるゼイドさん (24歳)は、毛布を少しずつはがしながら、ペットボトルに入れた白い液体を父親の背中にかけた。消毒液で、吐き気をもよおす腐臭が薄らげた。右脇から腰にかけて赤黒い血がこびりついた父親のファールークさんの死体が露出した。死体の腰、尻が不自然に膨らんで、死後に数日が経って、腐敗で膨張した。息子のゼイドさんは、切断しかけ地面に落ちた父親の左足を持ち上げ、右足に重ねた。ゼイドさんは、黙々と父親を棺に収める作業をした。父親の死体を布で覆い、棺の蓋を閉めた。棺の付近に直立し、広げた両手の平を捧げて祈った。イスラム教の儀式で、聖地に向かってコーランの言葉を暗唱した。




2023年2月14日火曜日

北朝鮮の工作船が、1980年6月21日に韓国の忠清南道西海岸の大川沖合いに侵入して、韓国軍に撃沈され、1人が逮捕され、工作員の9人が射殺され、死体が担架で搬送された。

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の工作船が、1980年6月21日に韓国(大韓民国)の忠清南道西海岸の大川沖合いに侵入して、韓国軍に撃沈された。1人が逮捕され、北朝鮮の工作員の9人全員は射殺された死体が担架で搬送された。逮捕された北朝鮮の金光賢は、北朝鮮の作戦部に所属して、工作船にて工作員を往復させて、韓国人を拉致していたと証言した。1970年代以前は韓国軍の海岸警備は手薄であったが、1970年代以後は韓国軍の海岸警備は強化された。

 北朝鮮は、対南工作(대남공작)にて、韓国に対して行う政治的、軍事的、思想的な工作活動を指令した。金光賢は、1955年から1959年まで北朝鮮の平壌首都保衛軍の伍長をした。紡績工場の作業班から1965年に中央党所属、対南連絡所で南派訓練を受けた。1980年6月まで北朝鮮でスパイ工作員を輸送する任務で、十数回韓国に南派された。数人を送り込んでは連れて帰った。スパイ工作船基地の海州港を出発してから、西海(黄海)まで大型船で行き、小舟の工作船に工作員を乗せる。その後に基地に帰って待機して、約15日後に工作員を迎えに行った。

 北朝鮮のスパイ工作船の基地は、東海岸任務は元山、南海岸任務は南浦、西海岸任務は海州にあった。金光賢の西海岸任務した海州には、スパイ工作船の母船である基本船が約6隻、小型工作船が約20〜30隻あり、小型工作船は5トン程度で約10人は乗れた。

 金光賢さんは1980年6月18日に海州港を出発した。外形は漁船であるも、高射機関砲を積んだ。西海(黄海)を経て、6月19日夜8時頃に忠清南道の海水浴場である大川の沖に到着した。工作員と約10人が小舟に乗り換えて、韓国の海岸の防備状況の偵察に向かった。6月20日夜に大川の沖から海岸に静かに接近した。北朝鮮の工作員を降ろす地点で、韓国陸軍の歩哨所に発見された。韓国陸軍からの攻撃が始まり、小舟は無抵抗状態であった。砲弾や銃撃が小舟に命中して、瞬時に沈没した。撃沈された時点に工作員は全員9人が殺害された。

 金光賢は、大川の沖を必死で泳いで逃げるも、韓国軍機に発見され、韓国軍の艦艇に捕獲された。9人の北朝鮮の工作員は殺害されて、金光賢1人のみが逮捕されて生存した。金光賢さんは、韓国軍に抑留されて1年間は北朝鮮のスパイ・拉致などの取り調べを受けた。その後に韓国社会に向けた更生訓練を受けて社会復帰した。




2023年2月13日月曜日

ISISと呼称されるイスラム反政府勢力が、捕虜となったイラク政府の兵士や治安当局者の約1,700人を銃殺したと公表した。反政府勢力であるISISは、殺害した映像や静止画を2014年6月14日に公開した。

イスラム国(ISIS,ISIL)が、1914年6月中旬にイラクのティクルート由来の画像により、捕虜となったイラク政府関係者の大量虐殺を示唆した。ISISが投稿した動画からの静止画の大量虐殺の場面を描出した。処刑はイラクのサラエディン州で行われ、イラク民間人の服を着た数十人のイラク治安部隊員を、群がったトラックから地面にうつ伏せにさせた。その後に浅い溝で、銃やライフルで、武装したISIS武装勢力が射殺さした様子を映し出した。

 国連の人権事務所は、イラクで大量虐殺の報告の裏付けを発表した。ISISと呼称されるイスラム反政府勢力が、捕虜となったイラク政府の兵士や治安当局者の約1,700人を銃殺したと公表した。反政府勢力であるISISは、殺害したとされる映像や静止画を2014年6月14日に公開した。

 非営利団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは、映像を検証した。ISISは、宗派間紛争を引き起こすも、偽証の演出を示すものは見当たらない。画像はティクリート市から由来した。ISISに拘束された人々が、近くの処刑場に強制連行される模様が映し出された。衛星画像とティクルートの地域の特徴を照合して、強制連行され拘束そされた人々の写真が、撮影された場所とティクリットの処刑場を特定できた。ティクルートの都市は、6月12日にISISの武装勢力に陥落した直後であった。インターネット上で再度に流通した過去の類似の宗派間の暴力事件で撮影された画像ではなかった。衛星画像から、銃殺して殺害された犠牲者の死体が並べ、銃撃された実際の塹壕の場所を特定した。

 現地での目撃者も探索した。映像の技術は、第一次湾岸戦争後のシーア派の反乱の失敗の余波から、死刑が執行された1991年の大量処刑と非常に類似した。人々は処刑場までトラックで運ばれ、ブルドーザーで事前に掘られた溝があり、人々は並べられて処刑された。1991年にイラクの治安部隊が、執行した大量虐殺に類似した。ISISがシリアで執行した大量処刑とも異なった。イスラム過激派がティクリートで家々を回り、地元の家族が隠している政府軍兵士を掃討した。




2023年2月12日日曜日

ウクライナ東部ドネツク州の血生臭い戦場となったバフムートのショッピングセンターにロシア軍のロケット弾が当たった際に巻き込まれて、建物の玄関で高齢女性と2匹の犬が、2023年1月2日に殺害された。

ウクライナ東部ドネツク州のバフムートの建物の玄関で高齢女性と2匹の犬が、2023年1月2日に死亡した。高齢女性と犬は、近くのバフムートのショッピングセンターにロシア軍のロケット弾が当たった際に巻き込まれて殺害された。



 







Warning: A woman and two dogs lying dead in the doorway of a building in Bakhmut on Jan. 2. The woman was believed to have been killed when a rocket struck a nearby shopping center 15 minutes earlier. (Nicole Tung for The New York Times)

 ウクライナの東部ドネツク州のバフムート(Bakhmut)の戦いは最も長く続いた市街戦となった。ウクライナ軍は戦争の大半を通じて、直接の対決を避け、機敏な作戦、欺瞞、西側が提供する長距離兵器に頼り、バフムートを保持した。バフムートの戦いを、都市防衛の市街戦の転換により、ウクライナ軍とロシア軍は激しい戦闘を繰り広げて、双方とも甚大な犠牲を伴った。バフムートは致命的な市街戦で、ドネツク州東部の廃墟と化した。砲弾の跡が散乱して、ロシア軍兵士らの死体が放置されて、しばしば死体の悪臭が漂った。

 戦争初期、ウクライナ軍当局は、死傷者の多い戦闘は勝利の戦略ではなかった。夏に東部での消耗戦でロシア軍は弱体化して、その後に数カ月間にウクライナ軍は北部のハリコフ州と南部のケルソンで攻勢に転じた。バフムートは、夏以降の激化した戦闘でほとんどが破壊された。バフムートは、戦略的価値よりは、双方にとって象徴的な重要性を持っている。

 バフムートの戦いは2段階に分かれ、最初の約100日ほどはロシア正規軍が関与して、それ以降は民間軍事会社ワグナーグループが卑劣な役割を担った。ワグナーグループは、ロシアの刑務所から集めた囚人で構成される軍団が攻撃した。ロシア軍は、ワグナーグループの戦闘員とともに、パフムートを包囲するために、北東の前線沿いにあるソレダールを含む近隣の町や村を侵攻した。ワグネルグループの戦闘員が数方向からソレダールの襲撃したが撃退された。バフムート周辺での戦闘は、最前線で最も血生臭い戦場の一つとなった。ウクライナ軍とロシア軍の兵士の死体を収集する人道的派遣団のブラック・チューリップ(Black Tulip)が、2月7日にウクライナの東部ドネツク州イジウムの近郊のコロヴィー・ヤール(Koroviy Yar)付近で、放置されたロシア軍兵士の死体を搬送した。












Warning: Members of Black Tulip, a humanitarian mission that collects bodies of Ukrainian and Russian soldiers, carrying the body of a Russian soldier near Koroviy Yar in Ukraine’s east, Jan 7, 2023. (The New York Times)

2023年2月11日土曜日

広島原子爆弾に被爆した当時の広島電鉄の市内の路面電車が、爆心地から西方に約700mの西十日市町の付近で、1945年8月に全焼して骨組みだけが残存した。

広島原子爆弾に被爆した当時の広島電鉄の市内の路面電車が、爆心地から西方に約700mの西十日市町の付近で、1945年8月に全焼して骨組みだけが残存した。本体には、肉親らが走り書きで消息を記載していた。路面電車のレール付近を、広島市民がリヤカーで家財を運搬していた。

 広島電鉄の路面電車の総台数は約123台であり、そのうち全焼あるいは大破した路面電車は約49台であり、中破および小破した路面電車は約59台であった。総計では、路面電車は約108台が被害を受けて、無傷は約15台のみが残存した。燃え上がる駅舎、黒焦げとなった車両と乗客、線路周囲には横たわり被爆死傷した被爆者が散乱した。

 広島電鉄の全従業員約1,241人のうちで、社員や家政女学校の生徒など約185名が被爆死して殉職して、そのうち家政女学校生徒が約30人が被爆死した。約266名が被爆して負傷した。市内の路面電車は、車両123両中に108両が被災した。支柱の倒壊によって架線も甚大な被害を受けた。施設の被害も大きく、爆心地の近くにあった櫓下変電所が全壊して、電柱約842本のうち約393本が倒壊した。約102,400mの架線のうちの被害は約94,350mに及んだ。バスも保有約100台のうち約68台が損傷して被害を受けた。

 広島電鉄は、1910年6月18日に広島電気軌道株式会社として設立され、路面電車は、1912年11月23日から開通した。1945年8月6日午前8時15分に広島市に投下された原子爆弾に被爆直後から、広島電鉄は、広島市・軍当局と協働して復旧作業を行った。3日後には己斐~天満町間で路面電車が復旧した。被爆した約3日後の8月9日には、爆心地から約15km離れた廿日市変電所からの電力を使って、己斐(現・広電西広島)から西天満町(現・天満町)までの短い区間ながら、市内電車の運行を再開した。9月7日には八丁堀まで至り、廃墟の広島市内中心部に路面電車が走行始めた。この時点で運行可能な車両は約10両に過ぎなかった。10月11日に広島駅まで復旧しても、約20両が運行可能であった。バスも8月8日に走行を見かけた。




2023年2月10日金曜日

イラク人母親が、殺害された6歳の息子のディヤ・タマーを嘆き悲しみ慟哭した。母親は、死亡した息子の死体を腕に抱き上げた。子供たちを入学させた後に、タマー家が戻ってきた帰りに車が銃撃戦に巻き込まれた。

2007年9月16日に、イラクの首都バグダッドの北東約60kmのバクーバで、一家の車が何者かの武装集団による銃撃に巻き込まれた。イラク人母親が、殺害された6歳の息子のディヤ・タマー(Dhiya Thamer)を嘆き悲しみ慟哭した。母親は、死亡した息子の死体を腕に抱き上げた。ディヤの10歳の兄貴のクサイ(Qusay)は攻撃を受けて負傷した。弟のディヤが、小学校1年生になる予定の小学校に、子供たちを入学させた後に、タマー家が戻ってきた帰りに車が銃撃戦に巻き込まれて、タマー兄弟が死傷した。(写真:Adem Hadei/AP Photo via The Atlantic/ Last Touch, Award of Excellence, POYI) イラク人の母親は、子どもを守ろうと思っても、守り切れなかった。イラク戦争では、貧乏なイラク人、末端のイラク人たちがみんな犠牲になった。

 イラク戦争が2003年3月20日に開戦後から5月1日に終結宣言後も、イラク人市民の流血は続いた。世界保健機関(WHO)の調査によると、2003年3月から2006年6月までの間に、毎日平均約120人のイラク人が暴力的に殺害された。医学調査研究(NEJM)では、イラク人の半数以上が首都バグダッドで殺害されたと明記され、約15歳から約59歳の男性の死因のトップが、暴力事件であると強調した。2006年に、医学雑誌ランセット(Lancet)に掲載されたアメリカ人医師による調査研究では、イラク戦争と占領によって死亡したイラク人は約65万5千人に上ると推定された。2007年末にアメリカ外交協会(AFSA)が、アメリカ国務省職員約1万1000人のうち約4000人を対象に調査研究を行った。イラク駐在を希望しない外交官の約48%が、アメリカのイラク政策に反対を表明し、それが拒否する理由の一つであると強調した。

 同日2007年9月16日に、アメリカ軍はイラクのアンバル州でアルカイダ系の反乱軍に対抗する地元勢力を組織した部族指導者を殺害した容疑者のイラク人らを捕獲したと発表した。同日9月16日にイラク警察は、バグダッド西部のスンニ派が多い地区にて、警備請負業者が発砲して、少なくとも約9人の民間イラク人が殺害され、アメリカ大使館は、国務省の請負業者が発砲事件に巻き込まれたと発表した。警備請負業者は自分たちを守るために武力をエスカレートさせた。同日9月16日には、バグダッド中心部のマンスール地区で、米国務省の車列が正午に攻撃を受けた。車列の近くで爆発があり、車列を警備していた警備業者が街頭で発砲した。9月16日には、イラク全土で54人の死亡または発見された。宗教が混在する町トゥズ・ホーマトで、ブービートラップを仕掛けた自転車が爆発し、少なくとも約5人が死亡、約19人が負傷した。その他、ディヤラ州のバグダッド北東にあるバロール村で武装集団が襲撃し、約14人が死亡、約7人が負傷した。




2023年2月9日木曜日

第二次上海事変が1937年8月13日に勃発して、上海の八字橋付近の中国国民党軍の陣地に、8月17日には国民党軍は中国人戦死者を放置して残存したまま退却した。

第二次上海事変が1937年8月13日に勃発して、上海の八字橋付近の中国国民党軍の陣地に、8月17日には国民党軍は中国人戦死者を放置して残存したまま退却した。八字橋を挟んで日本軍と国民党軍が一進一退の戦いをした。多くの兵士が犠牲となり、宝山路、宝興路付近まで焼土と化し、多くの住民が家を焼失した。特権的外国人居留地である日本租界の北西部が戦場となった。毎日新聞の八字橋の写真を、日本軍が検閲をした修整の指示は「死体を消すこと」であった。写真に受入日や説明の他、検閲記録が記載された。戦地で撮影した写真は、日本軍の検閲を受けなければ、新聞に掲載できなかった。写真には不許可となるも、修整の上で許可となった。




 1937年8月9日に国民党軍の張治中らが、日本海軍の特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が殺害された。7月7日に勃発した盧溝橋事件から日中和平交渉の最中に大山事件が勃発した。8月12日に、中国の国民党軍の約3万人が、上海の日本租界を包囲した。八字橋に駐屯していた特別陸戦隊はわずか約4千人で、日本領事館は在留日本人を避難させた。緒戦は、8月13日午前10時30分に、商務印書館付近の国民党軍が、日本軍の特別陸戦隊に機銃掃射を浴びせた。午後4時54分に、八字橋の方面から中国の国民党軍が急襲して第二次上海事変が勃発した。

 上海ではドイツ製などの最新の兵器を持った国民党軍に対して寡兵の特別陸戦隊が奮戦した。特別陸戦隊は八字橋で約10倍の国民党軍に対して約5時間にわたり防御した。8月16日には国民党軍が大挙して特別陸戦隊へ押し寄せて、日本軍は戦車と装甲車で防戦した。その後も国民党軍は攻撃を続け、約7万の大部隊まで増強した。ようやく8月18日から8月19日に横須賀と呉からの特別陸戦隊が上海へ約6千3百人に増援した。

 8月22日未明には支那軍は戦車とともに大挙して攻勢に出て、日本軍の陣地が一部突破された。日本軍は必死に防戦して、夜明けとともに国民党軍の攻勢も停滞した。更にその夜からも国民党軍が各戦線で攻撃を行い、8月23日に激戦となるも、特別陸戦隊はかろうじて防衛した。8月23日から日本陸軍部隊も上海に上陸を開始して、特別陸戦隊は守り切った。8月25日以降は国民党軍は日本陸軍部隊を攻撃対象となった。




2023年2月8日水曜日

ドイツ軍の有刺鉄線に苦戦するフランス軍攻撃隊は、第一次世界大戦のヴェルダンの戦いでフランス軍兵士は殺害されて、死体が有刺鉄線の周辺にぶら下がった。

ドイツ軍の有刺鉄線に苦戦するフランス軍攻撃隊は、第一次世界大戦のヴェルダンの戦いでフランス軍兵士は殺害されて、死体が有刺鉄線にぶら下がった。戦況は常に山頂から山頂へと移り変わり、左岸で繰り広げられた銃撃戦は悲惨な戦場となった。両陣営とも全中隊が壊滅して、何日も食物や飲物が手に入らず、戦傷者は運ばれず、死者は埋葬されず放置された。フランス軍は勇敢に立ち向かって、ドイツ軍はまたLe Mort-Homme(ル・モール・オム, Dead Man's Hill)の高台とCôte 304(コート丘304m)を奪取できなかった。フランス軍はCôte 304から、気球と飛行機からの砲撃により、ドイツ軍の砲列と観測所の設置を阻止した。ドイツ軍兵士が自陣を掘るのはほとんど不可能で、陣地が昼夜を問わず砲撃された。

 第1次世界大戦のヴェルダル(Verdun)の戦いの第3段階に、ムーズ(Meuse)川左岸の側面の戦いが、1916年3月16日から5月31日に勃発した。4月9日にドイツ軍は、ムーズ川の両岸を一度に攻撃した。左岸からLe Mort-HommeとCôte 304を、同時に攻撃した。ドイツ軍は資材と兵員を追加して侵攻した。フランス軍側には予備兵力はほとんどない。ドイツ軍の攻撃は再び激しい初期射撃から始まった。Le Mort-Hommeの頂上全体が煙と砂埃に包まれた。ドイツ軍は徐々に優勢になるが、兵隊の損害が大きく、Le Mort-Homme丘の下部頂上にしか到達できなかった。丘の高い頂上は、さらに数百m上に位置して、約3m高かった。ドイツ軍はCôte 304のフランス軍から絶え間なく砲撃を受けた。フランス軍はムーズ川の左岸から、ドイツ軍が右岸から攻防した。 

 1996年4月9日以降に、約12日間も雨が降り続いた。部隊は文字通り膝まで水につかり、乾いた衣服は一枚も残っていなかった。豪雨の後に、フランス軍の反撃が続いて、Le Mort-Hommeの丘からドイツ軍を追い払った。一方、Côte 304への攻撃の準備も始まり、500門の重砲が、約2kmにも満たない前線に砲火した。ヴェルダンの戦いは、世界戦史上最も長く、悲惨な戦いであった。小さな土地で、多くの兵士が参戦して、長く悲惨な戦闘が繰り広げられた。1916年2月21日から12月19日まで継続した戦いで、推定約70万人以上の死者と戦傷者、行方不明者が出た。戦場は10平方kmにも満たない。戦略的な観点からも、悲惨な犠牲を正当化できない。ヴェルダンの戦いは、二国間の威信の問題に堕落した。



 

2023年2月7日火曜日

フランス解放のためにパリに向かう途中で、8月23日にフォンテーヌブローに近づいたアメリカ軍兵士と戦車・装甲車は、放棄されたままのドイツ軍兵士の死体の横を無視して移動した。

アメリカ軍兵士は1944年8月に、フランスのアヴランシュ近郊で、M10駆逐戦車の支援を受けながら侵攻した。フランスを解放するためにパリに向かう途中で、8月23日にフォンテーヌブローに近づいたアメリカ軍兵士と戦車・装甲車は、放棄されたままのドイツ軍兵士の死体の横を無視して移動した。8月の暑い気候の中で、死体にはウジが這い、ハエの大群が降りて、上空でも戦場の悪臭を嗅げた。

 アメリカ地上軍は6月6日のノルマンディー上陸作戦から、約2ヶ月後に突破口を開けた。連合軍の戦闘爆撃機は、ドイツ軍を駆逐して介入を阻止した。7月30日から31日にかけて、アヴランシュのドイツ軍の陣地は崩れ落ちた。8月12日から8月21日まで、約10万人のドイツ軍は、フランスのファレーズ・ポケット(Falaise Pocket)に閉じ込めた。東部のドイツ本国への唯一の細い脱出路は容赦ない連合軍の空襲にさらされた。地域全体は連合軍の空襲で炎上して、ドイツ軍は8月17日になって退却が命じられた。ファレーズの戦場は、最大の殺戮の場の一つとなった。死体や腐敗した肉体が連なった。

 ドイツ軍は連合軍の袋小路の閉鎖を阻止するも、連合軍の大規模な戦闘機攻撃により避難は極めて困難となった。ドイツ軍兵士約5万人は、東方に脱出できたが、重装備部隊は空襲によりファレーズ地区に放棄された。8月15日には、連合国軍が南フランスに上陸した。フランス南西部のドイツ軍は、北東部への急速な撤退を命じられた。ファレーズ・ポケットの撤退と重なり、8月20日に連合軍がパリ南部のセーヌ川を渡った。8月25日午後12時20分頃に、パリのエッフェル塔に、ほぼ50ヵ月ぶりに三色旗が再び掲揚された。数分後、凱旋門の旗竿にも青白赤の大きな国旗が広がり、ドイツによるフランスの首都パリの占領が終わった。

 8月22日までに、連合軍の西側にいたドイツ軍は死亡または捕虜となった。ドイツ軍は約8万人から約10万人の部隊が包囲されて、そのうち約1万人から約1万5千人が殺害された。約4万人から約5万人が捕虜となり、約2万人から約5万人が逃亡した推定した。ノルマンディー戦で、ドイツ軍は推定約45万人のうち24万人が死傷した。連合軍は死者約36,976人、行方不明者は約19,221人を含む209,672人の犠牲を払った。




2023年2月6日月曜日

レニングラード包囲戦にて、ソ連軍兵士はスノーモバイルの空中ソリのプロペラ機で、イリメニ湖などを渡る途上で、ドイツ軍の空襲による砲火で粉砕して殺害された。

第二次世界大戦東部戦線のレニングラード包囲戦にて、ソ連軍兵士はスノーモバイルの空中ソリのプロペラ機で、イリメニ湖などを渡る途上で、ドイツ軍の空襲による砲火で粉砕して殺害された。ソ連軍は、脆弱な道路網と厳しい冬場の車輪のない特殊な車両であるスノーモービルである空中ソリで、特に氷結して湖上の戦場で軍事物資を運搬した。1941年11月末になると、イリメニ湖が氷結した。イリメニ湖上を軍需品を輸送するソ連軍兵士を、ドイツ軍が空襲と砲撃で殺害した。スノーモバイルのプロペラ機が、至る所で破壊された。ドイツ軍の砲撃ににより、イリメニ湖上の氷結が粉砕された。天候が悪化して極寒になれば、再びイリメニ湖に新たな氷路が形成された。氷湖を通じた物資の搬入が、ドイツ空軍によって封鎖された。

 レニングラード戦線のソ連軍が保持したネヴァ川の左岸の狭い土地全体が、ドイツ軍の砲火にさらされた。その橋頭堡を保持するソ連軍は甚大な損害を被った。1941年から1943年に、合計で約5万人のソ連兵士がネヴァ湾で、ドイツ軍に殺害された。1941年から1942年に、ソ連軍は封鎖を突破する作戦は、すべて失敗に終わった。ラドガ湖とムガ村の間は、ドイツ国防軍が堅持した。

 ソ連軍司令部は1941年夏にはレニングラードを撤退して、必要な物資は外部に搬出していた。約300万人のレニングラード市民だけでなく、約20万人のソ連軍兵士にも物資が枯渇した。ラドガ湖やイリメニ湖が凍り付くと、レニングラードがロシア内陸部と繋がり、ソ連軍兵士は、厚く凍った氷上を物資を運搬した。防御に必要な武器と弾薬などが優先されて、食料は最も後回しとなった。飢えたレニングラード市民に与えられた箱は、依然として、迫撃砲や機関銃など武器だけであった。レニングラード市民は、飢餓状態となり、死体を市内を引っ張り運搬するも、葬儀もできずに、死体の山を積み重ねた。

 レニングラード包囲戦は、大祖国戦争中にドイツ軍とフィンランド軍と同盟国が、レニングラード市(現サンクトペテルブルク)を軍事的に封鎖した。1941年9月8日から1944年1月27日まで、封鎖は約872日間も続いた。9月1日には食料品の自由販売が禁止された。軍人と民間人の両方の食料規範は定期的に削減され、1941年11月20日から12月25日まで最小限となった。人は飢えで弱り、死と戦わなくなる。死は、あらゆる場面で見られる現象になった。市民は死に慣れ、無関心になる。皆同じ運命になる。道に死体が転がった。死体を掃除せず、死体は長い間横たわった。1941年12月だけで約52,881人が死亡し、1-2月の損失は合計約199,187人に上った。





2023年2月5日日曜日

ウクライナ東部ドンバス州北部のクラマトルスクの鉄道駅が、2022年4月8日午前10時にロシア軍のロケット攻撃を受けて、避難していた約5人の子どもを含む少なくとも60人が死亡して、約110人以上も重態となった。

ウクライナ東部ドンバス州北部のクラマトルスク(Kramatorsk)の鉄道駅が、2022年4月8日午前10時にロシア軍のロケット攻撃を受けて、約5人の子どもを含む少なくとも60人が死亡して、約110人以上も重態となった。クラマトルスク駅では、ロシア軍の侵攻の中、多数の市民がより安全な地域に避難していた。血液が散布され地面に散乱した荷物や黒焦げの車の隣に、死体が散乱していた。ロシアの鉄道駅襲撃の余波を受け、クラマトルスク駅周辺で死傷者の間を救急隊員が緊急対応した。





 





Warning: Emergency personnel walk among injured people lying on the platform in the aftermath of a rocket attack on the railway station in the eastern city of Kramatorsk, Ukraine. (Anatolii Stepanov/AFP)


 ロシア当局は長年にウクライナが分離主義者の東ウクライナに空爆を行い、子どもを含む民間人を殺害したと非難した。ウクライナ当局によると、攻撃当時に、クラマトルスク駅と周辺には約4000人の市民が在留して、多くが、ロシア軍の侵攻の地域から離れるよう呼びかけられた女性や子どもたちだった。クラマトルスク駅の隣の地面には、ロシア語で子供たちのために報復と描いた大型ロケットの残骸も確認された。

 2発のロケット弾がクラマトルスク駅を襲撃して、ウクライナ鉄道は4月8日に攻撃を鉄道の旅客インフラと住民に対する意図的な攻撃と非難した。クラスタ弾を搭載した短距離弾道ミサイル・トーチカUが致命的な攻撃に使用されたと発表した。非人間的なロシア軍は、戦場ではなく、市民を冷淡に殺傷している。罪のない市民への衝動的なロシア軍の攻撃は故意である。スーツケースの山の側に数人の死体が横たわり、武装警察官が監視した。厚い煙が立ち込める中、救急隊員が消火活動をした。

 4月7日に、親ロシア派のテレグラムは、クラマトルスクから鉄道で避難しないよう市民に警告を発した。ロシア軍は、クラマトルスク駅の攻撃への関与を否定した。ロシア当局のドミトリー・ペスコフ報道官は、ミサイルの種類から、ロシア軍の攻撃はすでにロシア国防省によって否定されたと述べた。ロシア軍は同種のミサイルを使用していない。4月8日のクラマトルスクで作戦はない。ロシア当局は、2月24日に同国が侵攻を開始して以来、民間人を標的にしたことを否定している。

 5人の子供を含む約60人が死亡し、弾道ミサイルにはクラスター弾が含まれた。クラスター弾は、空中で爆発させ、より小さな爆丸を広範囲に撒き散らし複数の目標に打ち込む残忍な兵器である。2022年4月8日にロシア軍のロケット弾攻撃により少なくとも20体の死体が駅の横でビニールシートの下に集団で地面に横たわった。その死体を、ウクライナの警察官が検死した。













Warning:  A   Ukrainian policeman bends over bodies laid on the ground after a rocket attack killed at least 30 people in Kramatorsk on April 8, 2022. (Fadel Senna/AFP)