2022年11月7日月曜日

1960年代に北ベトナム軍の基地があるドンホイにて、アメリカ軍の戦闘機による機銃掃射により、多数の北ベトナム市民が殺傷されて犠牲者が出た。

1960年代に北ベトナム軍の基地があるドンホイにて、アメリカ軍の戦闘機による機銃掃射により、多数の市民が殺傷されて犠牲者が出た。ドンホイはベトナム中部の港湾都市で、クアンビン省の省都である。空襲によりドンホイの現場に大きな損害を与え、未知数の北ベトナム軍兵士とベトコンのゲリラが死傷した。

 1965年2月7日午後2時、ジョンソン・アメリカ大統領の命令により、アメリカ軍の戦闘機が、アメリカ第七艦隊の空母から何回も発進して、北ベトナムのドンホイ(Dong Hoi)市とクアンビン州に攻撃を加えて、ドンホイ病院と住民の住宅に爆撃と掃射を加えて多くの犠牲者を出した。大統領特別補佐官のマクジョージ・バンディは、北ベトナムに対する報復攻撃のためには、空と海からの行動が不可避的であると結論づけ、1965年2月7日にリンドン・ジョンソン大統領に対して北爆に関するバンディ覚書を提出して、公式に北ベトナムに対する北爆が指令された。ジョンソン大統領は、フレイミング・ダート作戦を命じて、アメリカとベトナム共和国空軍の戦闘機により、ドンホイ付近の約49回の報復出撃は、ドンホイ近くの北ベトナム人民軍基地を標的とした。

  1964年8月5日に、ワシントンは北ベトナムに対する破壊作戦を開始して、鉄製ボール弾、ナパーム弾、黄燐弾など禁止された武器を使用した。アメリカ軍は、ハノイやハイフォンを含めて、北ベトナムを繰り返し爆撃した。特に、ドンホイ、ニンビン、フーリー、バックザン、イエンバンイ、ソンラが大きな破壊を受けた。面積3平方kmのクアンビン省都、ドンホイは約1129回の空襲を受けて、数百回は夜襲であった。特にパイナップル弾数千発が投下された。

 ケネディ暗殺後、アメリカ大統領に就任したジョンソンは1964年8月に、トンキン湾事件でアメリカ軍艦艇に対する北ベトナム軍の攻撃を利用して、アメリカ議会の戦争拡大支持を取り付けた。1965年2月7日に、17度線北方のドンホイ爆撃をもって、北ベトナム爆撃する北爆に踏み切った。ドンホイにある兵員集結地などの北ベトナム中枢への報復爆撃をした。




2022年11月6日日曜日

ウクライナ軍兵士は2022年3月3日に、キエフ州シトニャキ近くの主要道路で、ロシア軍車両を激しく破壊して、殺害したロシア軍兵士の死体から武器や装具などを剥ぎ取った。

ウクライナに侵攻して駐留するロシア軍は、予想をはるかに上回る戦死傷者が出た。2022年3月3日に、ウクライナ軍兵士は、キエフ州のシトニャキ(Sytnyaky)近くの主要道路に沿った戦闘で、ロシア軍車両を激しく破壊した。ロシア軍車両を破壊した後に、ウクライナ軍兵士は、殺害したロシア軍兵士の死体から武器などを剥ぎ取った。2022年9月15日には、ウクライナのハリコフ州バラクリアでは、ロシア・ウクライナ戦争が続く中で、ロシア軍がバラクリアから撤退した後には、ロシア軍が破棄して捨て去った戦車が散在した。

 ウクライナ軍参謀本部はFacebookで、ウクライナ軍は2011年11月2日には過去24時間の間に、ウクライナ国内からロシア軍兵士の約800人を殺害して排除した。ウクライナ軍の合算によると、ロシア軍兵士が殺害された総人員損失は約73,270人に上ったとFacebookに発表した。11月1日の過去24時間の間に、さらに約16台のロシア軍の戦車を破壊して、ロシア軍の戦車の崩壊した総数は約2714台に上った。11月1日の過去24時間の間に、さらに約24台の装甲戦闘車両、その他にヘリコプター1台と戦闘機1台も破壊したと報告した。 

 2月24日から始まったロシア・ウクライナ戦争で、殺害されたロシア軍兵士の総数には、多くの論争がある。ロシア軍は、戦死者数はほとんど最新情報を発表しない。イギリスは9月に、ロシア軍の戦死者数は約2万5000人以上、捕虜や負傷者を含める戦死傷者数は、約8万人に上ると推定した。ロシアの国防相は9月に、約5,937人のロシア軍兵士が戦死したと発表した。













Warning: Russian forces in Ukraine have seen far more casualties than Moscow was expecting, analysts say. In this image, Ukrainian soldiers are salvaging equipment from the body of a dead Russian soldier after a Russian vehicle was destroyed by Ukrainian forces on March 3, 2022 (Marcus Yam / Los Angeles Times).

2022年11月5日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から1km付近は瓦礫と焼け野原となり、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業は、爆風と熱線で全焼して崩壊した。その外地には死んだ馬が県道に横たわった。

長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて爆心地の長崎市松山町171で炸裂した。翌日の8月10日お昼頃に、左手に爆心地から南に約1.1から約1.2kmの長崎市茂里町に、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業があった。右端のコンクリート建ての建物は三菱製鋼所第二工業事務所があった。長崎原子爆弾の爆心地から1km付近は瓦礫と焼け野原となり、三菱製鋼所第一工場鍛錬工業は、長崎原子爆弾の爆風と熱線で全焼して破壊され崩壊した。その隣の崩壊した第二工場の鉄骨が、あめのように波打っていた。地下の魚雷工場は比較的無傷で残った。製鉄所の外には死んだ馬が県道に横たわっていた。その背後に、長崎市電の線路が走っていた。

 爆心地に近い三菱製鋼株式会社長崎製鋼所では、従業員や養成工、動員学徒、教員など約1,400人が死亡した。鋼板や航空機の部品などを製造していた工場もほぼ壊滅状態となり、機能は全廃して、折れ曲がった鉄骨や機械設備等の残骸だけが残存した。

 長崎原子爆弾の炸裂に伴って生じた猛烈で強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。またそれと同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。爆心地から約1kmで、最大風速は秒速約160mにも達した。特に熱傷を及ぼしたのは、爆発後の約0.3秒から約3秒までの間の赤外線であった。地上物質の表面温度は、長崎原子爆弾の直下では恐らく約3,000~約4,000度にも達したと推定された。




2022年11月4日金曜日

1943年11月1日に、ソ連赤軍がラドガ湖の南にあるナチス・ドイツ軍の陣地に突入して強襲した。塹壕の手前には、殺害されたドイツ軍兵士の死体が横たわっていた。

1943年11月1日に、ソ連赤軍がラドガ湖の南にあるナチス・ドイツ軍の陣地に突入して強襲した。塹壕の手前には、殺害されたドイツ軍兵士の死体が横たわっていた。ソ連赤軍のスパーク作戦(Operation Spark)により、約872日間も続いたナチス・ドイツ軍のレニングラード包囲網はついに崩壊して突破された。

 レニングラード包囲戦は、1941年9月8日に、ドイツ軍がシュリセルブルグの町を占領し、レニングラードを陸地から切り離して勃発した。ヒトラーは、レニングラードの都市を地球上から抹殺する指令を出した。生存権を奪うために戦う包囲戦の戦闘で、少なくとも人口の一部が生存することに興味はなかった。封鎖された地域には、ロシア系の約250万人住民と約34万人の郊外居住者がいた。レニングラード包囲戦の最初の封鎖の冬季には、毎日約4,000人以上の人が死亡した。レニングラード封鎖期間中に、約15万発の砲弾が発射され、約10万7千発以上の焼夷弾と高性能爆弾が投下された。封鎖は1944年1月27日まで継続して、約872日間も続いた。ソ連の公式情報によると、封鎖中に約632,253人が死亡した。その他の推計では、約150万人が死亡とされた。

 スパークス作戦は、第二次世界大戦中の1943年1月に、ドイツ国防軍のレニングラード包囲を突破するソ連赤軍の作戦であった。1942年末のスターリングラードの戦いでドイツ軍が敗北したことで、ドイツ戦線は弱体化した。1943年1月までに、ソ連赤軍はドイツ・ソ連戦線全体、特にロシア南部での攻撃作戦を実施して、1942年から1943年の冬季反攻作戦の北部を形成した。

 スパークス作戦は、レニングラードへの陸上回廊を確保するために、赤軍のレニングラード戦線、ヴォルホフ戦線、バルチック艦隊によって1943年1月12日から30日まで実行された。1月18日にソ連赤軍と合流し、1月22日には戦線が安定化した。レニングラードまでの幅約8~約10kmの陸上回廊を開けた。回廊には鉄道が迅速に敷設され、ラドガ湖の凍結した湖面を越えて、生命の道よりも多くの物資を都市に到達できた。

 2週間も経たないうちに、北軍集団の決定的な敗北と包囲の完全な解除を目指したポリアルナヤ・ズヴェズダ作戦が行われた。ソ連軍は 1943年にも攻勢を再開し、包囲網を完全に解こうと何度か試みたが、いずれも小幅な成果しか得られなかった。回廊は依然としてドイツ軍の大砲の射程内にあり、赤軍が最終的に包囲を解いたのは1年後の1944年1月27日のことであった。



2022年11月3日木曜日

エル・サルバドル政府が実行した反乱戦術で、しばしば民間人の非戦闘員が標的となり虐待と虐殺された。国家治安部隊と準軍事的な死の部隊は、FMLNの容疑者に、誘拐、拷問、殺害が蔓延した。

サルバドル(Salvadoran)内戦にて、左翼ゲリラの活動に苦悩したエル・サルバドル軍事政権は、アメリカ軍の援助も受けた。右派である軍事政権は治安部隊を強化して、徹底的な悲惨な弾圧政策を執行した。エル・サルバドル政府が、実行した反乱戦術により、しばしば民間人の非戦闘員が標的となり虐待と虐殺された。軍事政権の国家治安部隊と準軍事的な死の部隊によって、ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)の容疑者に、誘拐、拷問、殺害が蔓延した。1979年から1992年の約12年間のエネサルバドルの内戦によって、約75,000人が殺害されて、約8,000人が行方不明になった。

 サルバドル内戦は、エル・サルバドル政府と民族解放戦線(FMLN)である左翼グループの連合または傘型組織の間で約12年間も戦闘した。1979年10月15日のクーデターに引き続いた政府軍によって、反クーデターデモ参加者の殺害が勃発した。1979年10月15日、穏健派軍人によるクーデターが、独裁者カルロス・ウンベルト・ロメロ将軍を追放して、革命評議会を樹立した。その直後から、軍と治安部隊の右派が権力を掌握し始めた。特に農村部において、死の部隊や民間人への無差別攻撃を含む、軍事政府に対抗する反対勢力を、軍事政府の組織的テロが執行された。内戦は、1992年1月16日にメキシコシティでチャプルテペック和平協定の調印で、公式に終結した。

 アメリカ合衆国のカーターとレーガン大統領にて、エル・サルバドル政府に1日あたり約100万から約200万ドルの経済援助を行った。さらにアメリカは政府軍に多大な訓練と装備を提供した。1983年5月までに、アメリカ軍将校が、エル・サルバドル政府軍の最高司令部内で潜伏して、重要な戦略的・戦術的決定を下した。

 全体として、国連は、民族解放戦線のゲリラは、内戦中の残虐行為の約5%に責任があり、約85%はエル・サルバドル治安部隊によって執行したと推定した。内戦時代の残虐行為に対する説明責任は、1993年の恩赦法によって妨げられた。2016年にエル・サルバドル最高裁は、法律は違憲であり、エル・サルバドル政府は戦争犯罪者を起訴できると判決を下した。




2022年11月2日水曜日

1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃で死亡した18人のアメリカ軍兵士の死体が入った棺桶が集団墓地に並べられた。翌日にアメリカ軍のカネオヘ海軍航空基地の海兵隊員と水兵隊員が厳かにたたずみ葬儀に望んだ。

オアフ島の東海岸のノースビーチの砂丘にある仮設墓地に、1941年12月8日にアメリカ軍のカネオヘ(Kanoehe)海軍航空基地の海兵隊員と水兵隊員が厳かにたたずみ葬儀に望んだ。1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃で死亡した18人のアメリカ軍兵士の死体が入った棺桶が集団墓地に並べられた。海兵隊の儀仗隊が、ライフル銃を一斉射撃して最敬礼した。真珠湾攻撃によるアメリカ軍兵士の犠牲者の死体は、トラックで仮設墓地に運搬された。砲台が集団墓地を見下ろす丘の上にあった。日本軍の爆撃機の空襲で、完全に行方不明となった死傷者の一部は、真珠湾攻撃から約1年後に死亡が検死された。

 アメリカ合衆国の国旗が、仮設墓地に並べられた棺桶上に覆われた。1777年6月14日から適用されたアメリカ合衆国の国旗は様々な形をとりながら、象徴する誇らしい国旗として採用された。アメリカ国旗、星条旗、オールドグローリー、赤と白と青、星条旗、星条旗などの愛称がある。

 真珠湾攻撃の数日後の12月11日に、ナチス・ドイツは日本との枢軸同盟から、アメリカに対して宣戦布告した。アメリカのルーズベルト大統領は、ヨーロッパ侵略をアメリカ議会に要請せずに参戦できた。ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃の翌日の12月8日にはただ、日本軍の真珠湾攻撃によるアメリカの戦争状態を議会に認識を求めただけであった。「私は議会に対し、1941年12月7日の日曜日に日本が仕掛けた、正当性のない卑劣な攻撃の結果、アメリカ合衆国と大日本帝国が交戦状態に入った旨の布告を宣言するよう求めます。」議会の決議は反対票は1票だけで、すぐに議会を通過して、アメリカは第二次世界大戦に参戦したのである。真珠湾攻撃はアメリカ国民を奮い立たせ、第二次世界大戦に参戦した。真珠湾攻撃では、老朽化していた6隻の戦艦のみを失った。重巡洋艦や潜水艦は空襲を受けず、肝心の空母は1隻もいなかった。真珠湾の基地施設に日本軍は追加の攻撃をせず、アメリカ太平洋艦隊はカリフォルニア沿岸に撤退せずに、真珠湾に留まれた。日本軍は、真珠湾攻撃の勝利で、アメリカ軍に戦争は無駄と思わせるつもりであった。逆に、真珠湾攻撃の光景は、かつてないほどアメリカ国民の戦争の士気を活気づかせた。




2022年11月1日火曜日

義和団の乱に対して、1900年8月14日に北京を占領した後の八カ国連合軍の蛮行は、残忍であった。八カ連合軍は、北京の七華門の外地で義和団の中国人を虐殺した。

義和団の乱に対して、1900年8月14日に北京を占領した後の八カ国連合軍の蛮行は、残忍であった。八カ連合軍は、北京の七華門(現在の朝陽門)の外地で義和団の中国人を虐殺した。日本軍による日本刀で、数えきれないほどの義和団の容疑者の中国人が、義和団の乱の前後に斬首された。北京の街には首を切られた中国人の死体が散乱した。家屋を掃討しては、中国人の首やバラバラになった死体が吊るされた。日本軍兵士は、興味本位にまだ死亡していない中国人を、射撃して弾丸の試し撃ちをした。青木という名の日本軍兵士は、何十人もの宮廷婦人の胸を切り取って粥にして食べた。



  














   

 

 

 連合軍が北京を占領した後に、外国軍兵士はその場で義和団を皆殺して復讐した。無実の中国人を義和団と問答無用で決めつけて、首をはね、銃殺した。無謀にも男や女、子供を追いかけて、老人、弱者、女性、子供を撃ち、突き刺した。連合軍は極めて残酷に、中国人を撃ち、刺し、吊るし、焼き、こん棒で締め、強姦して殺して、大量虐待と大量虐殺の大悲劇を北京にで作り出した。




 












  




 

 中国における八カ国連合軍の蛮行にて、頤和園などの庭園の一室に外国軍兵士が侵入した。若い宮女が下半身裸にされ、外国軍兵士は強姦に走った。宮殿を襲った連合軍兵士は、多くの金仏などを略奪した。外国軍兵士は宮中の女官をナイフで殺し、死体の腹から小さな金の仏像を取り出した。義和団の乱後に、ロシアの侵略軍は江東から約1万人以上を黒竜江に追いやり、焼き払いと略奪して、中国人を銃殺や斧殺しの刑に処した。

 罪のない老人は、外国軍兵士によって生きたまま刺され、子供は内臓を刺し抜かれた。老女や子供が井戸や川に投げ込まれた。8カ国連合軍は、白昼の獣性を発散した。天壇に連れられ連合軍に犯され、公娼にされた。

 同治帝の親族の老若男女10人が、数十人の連合軍兵士に公衆の面前で犯され、自殺に追い込まれた。路上で中国人女性を集団強姦して、被害者を火の中に投げ込んだ。感女性を拘束して、死刑にして、感情を爆発させた。現代中国は日本軍の憎みだけは覚えて、その他の八カ国連合軍の蛮行は見逃した。

2022年10月31日月曜日

ドイツのバイエルン州のアイヒシュテットのレオンロッド広場にて、レオ・ラムール親衛隊上級大将は裏切りの見せしめとして公開の絞首刑で吊るされた。

ドイツのバイエルン州のアイヒシュテットにて、レオ・ラムール(Leo Lamour)親衛隊上級大将 (1906-1945)はレオンロッド広場にて、裏切りの見せしめとして公開の絞首刑で吊るされた。死体のプラカードには、「戦う者は死ぬかもしれない。祖国を裏切る者は死ななければならない。私たちは死ぬべきだった。」と記載された。ザールブリュッケンで生まれたラムールは、1943年に兵役に徴兵された。1945年4月にラムールは、アメリカ軍が接近したアイヒシュテットにいた。彼は砲弾を川に投げ込み、戦車から離れた。彼はアイヒシュテットの居住者であるヴァレンティン・クリーグルと共に、他の親衛隊員が準備していた市内の橋の爆破を阻止した。ラムールとクリーグルは親衛隊のパトロールに逮捕された。1945年4月25日に、アイヒシュタット町の広場で軍法会議により絞首刑に処刑された。

 ナチス・ドイツ軍のフェルディナント・シェルナー(Ferdinand Schörner)は、1945年1月に中央軍集団の陸軍元帥に就任して、ベルリン南東部〜プラハ周辺を防衛した。シェルナー軍集団はベルリン陥落後も最後まで頑強に連合軍に抵抗した。シェルナーは部下に異常に厳しく、脱走兵や臆病者を一切容赦なしに絞首刑にした。シェルナーは仮病を使うドイツ軍兵士や、臆病風に吹かれた兵士には、即決裁判さえ行わず道ばたで絞首刑にした。3月末にナイセの町では、死刑判決をドイツ軍兵士に読み上げて、約22回も公開の絞首刑が執行された。 

 東部戦線でソ連赤軍との戦闘が、2月14日から5月6日まで約83日間にわたり、恐怖に取り憑かれた軍隊兵士と市民は、ベルリン陥落後まで赤軍との自殺的な戦闘を続けた。戦闘は過酷を極めて、独ソ両軍は配下の兵士に非情な恐怖の戒律を課した。ナチス・ドイツの総統官邸では、軍法会議、即決裁判が呪文のごとく繰り返した。無能で臆病な将官どもを迅速に処刑する手続きが簡略化された。ヒトラーは、退却阻止隊の創設を命じた。ソ連赤軍のスターリンの国防人民委員命令(第二二七号)を模倣した。3月9日には、ヒトラー総統命令で、移動即決軍法会議(Fliegende Standgericht)が創設された。裏切り者と臆病者が疑われる軍人から市民に至るまで例外なく処刑された。3月9日から終戦まで、移動即決軍法会議で、約25,000人のドイツ軍兵士がが処刑されたとソ連赤軍は報告した。1945年5月18日に、私服姿でオーストリアのアメリカ軍に降伏した。引き渡されたソビエト最高裁判所の軍事委員会に、1952年2月に25年の懲役刑を裁定された。1954年12月に東ドイツに引き渡されて1958年釈放され、西ドイツで逮捕され、1959年から1964年まで懲役して、1973年に死亡した。



2022年10月30日日曜日

ウクライナ東部の分離主義者地域オレニフカで捕虜収容所が7月29日に爆破された後に、キシリシンの死体は、その他の8体の死体と並んで地面に半裸で横たわった。

ロシア軍に支援された分離主義勢力が支配する地域にあるウクライナ東部のドネツク州オレニフカ(Olenivka)の捕虜収容所が2022年7月29日に爆破された。爆破された刑務所に収容されていたウクライナ軍捕虜が殺害された。オレニフカ捕虜収容所とロシア当局は、53人のウクライナ人捕虜が爆発で死亡し、75人が負傷したと公表した。

 ロシア軍の捜査官が、殺害されたウクライナ軍捕虜の死体を検死した。その一体は、マリウポルのアゾフスタル製鉄所を守っていたウクライナ軍兵士の23歳のオレクシイ・キシリシン(Oleksii Kisilishin)が殺害された死体であった。ウクライナ人捕虜の恋人のビクトリア・スクリャール(Viktoria Skliar)は、間近に迫ったロシア軍捕虜との交換で、キシリシンが解放された後の生活を暫定的な計画を立てた。キシリシンは7月29日に、ウクライナ東部の分離主義者地域オレニフカで捕虜収容所が爆破された後に、地元当局が公表した。キシリシンの死体は、その他の8体の死体と並んで地面に半裸で横たわっていた。ロシア当局に掲載された犠牲者リストでは、キシリシンは43番目に記載された。国連人権高等弁務官事務所は、オレニフカその他で、囚人が殴打、感電、虐待の報告に懸念を表明した。





Warning: Investigators examine bodies of Ukrainian military prisoners at the prison in Olenivka, in an area controlled by Russian-backed separatist forces, eastern Ukraine, Friday, July 29, 2022. In the last, brief conversations Viktoria Skliar had with her boyfriend Oleksii Kisilishin, the Ukrainian prisoner of war was making tentative plans for life after his release in an upcoming exchange with Russia. The next time Skliar saw Kisilishin, who had been among defenders of the Azovstal steel plant in Mariupol, he was dead. She recognized him in a photo shared on social media — he was laid out, seminaked on the ground in a line with eight other bodies after a blast ripped through a prison on July 29 in Olenivka, a separatist region of eastern Ukraine. (AP Photo, File)

 26歳で殺害されたキシリシンは、2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻の約2週間前に、2016年まで所属したウクライナ国家警備隊の一部であるアゾフ連隊に呼び戻された。キシリシンは、ロシア軍に包囲された都市マリウポルにある最後の砦であるアゾフスタリ製鉄所を防衛したウクライナ人戦闘員であった。キシリシンは、約3カ月に及ぶマリウポリ包囲戦で、アゾフスタル製鉄所に立てこもった。5月16日に、ウクライナ軍のアゾフスタリ製鉄所の最後の守備隊が、ロシア軍に自首して捕獲された。赤十字国際委員会から、キシリシンが捕虜交換に参加するをスクリャールは聞いて約3週間後、彼は殺害された。

 ウクライナ当局は、オレニフカ捕虜収容所に収容された数十人のウクライナ軍の囚人の死体の一部を引き取った。専門家がすべての死体を確認する時間がかかり、その中にキシリシンが含まれている確証しない。7月29日の爆発後に、ロシア軍が公開された写真で、スクリャールは恋人キシリシンの入れ墨に気づいた。スクリャールはキシリシンの死体を取り戻したいとすべての涙を流した。ロシア・ウクライナ戦争が勃発する前年の2021年8月24日に、ビクトリア・スクリャールは、恋人オレクシイ・キシリシンと記念の写真を撮影していた。

Viktoria Skliar poses for a photo with her boyfriend Oleksii Kisilishin on Aug. 24 2021. In the last, brief conversations Skliar had with Kisilishin, her detained boyfriend, the Ukrainian prisoner of war was making tentative plans for life after his release in an upcoming exchange with Russia. The next time Skliar saw Kisilishin, he was dead — one of several bodies in a photo of people local authorities said were killed when blasts ripped through a prison in a part of Ukraine's Donetsk region controlled by Moscow-backed separatists. (Courtesy of Viktoria Skliar via AP)

2022年10月29日土曜日

広島市南部の宇品から北東約1.5kmの仁保町丹那町に、教育船舶兵団司令部における兵団軍医部があり、多数の重篤な被爆者が入所して、一部には蚊帳の中で療養していた。

広島市南部の宇品から北東約1.5kmの仁保町丹那町に、教育船舶兵団司令部の暁第6167部隊があった。陸軍船舶司令部における兵団軍医部の医務関係の司令部であった。多数の重篤な被爆者が次々に入所して、一部には夏期の蚊帳の中で療養していた。被爆して日数が重なるのに従って、被爆者の収容人数は急増して、さらに原爆症での死亡者数が増大した。広島市周辺部の被災を免れた救護所は、どこも被爆者で溢れた。

 暁部隊と通称された陸軍船舶司令部の建物は全てが救護所になった。広島市内で新型爆弾の炸裂が、中国地方の各暁部隊に伝達された。訓練を一時中止し、大発や小発の上陸用舟艇に分乗して、1945年8月6日正午過ぎから広島市南部の宇品港に上陸した。午後2時頃には宇品の船舶司令部には、約1,300人の被爆者が収容された。広島原子爆弾で悲惨な犠牲を伴った広島市内で、一番先に被爆者の救済と救助に奔走したのは、陸軍船舶司令部で補給を任務とする宇品の暁部隊であった。

 アメリカ軍からの空襲に備えていた広島市内の約100ヶ所以上の救護所は、広島原子爆弾が炸裂して、爆心地から約2km以内は壊滅した。被爆者は、近場の大きな建物や学校跡などを目指して、その周辺の地域が救護所の役割を果たした。しかし、そこには医療も枯渇して、火災、建物の崩壊、放射線などの黒雨でどしゃぶりになった。

 広島市南部の宇品にあった暁部隊と通称された陸軍船舶司令部は、海上輸送など海運にかかわる陸軍の部隊であり、総兵士数は30万人にも及ぶ大きな組織であった。宇品港は、錨地から海岸までの距離が近く、軍事目的の秘匿が容易となり、軍事的的な条件を整備して、各地から収集した兵隊や物資を戦場に運搬する湾口となった。

 太平洋戦争は、日本軍が1941年12月8日未明にアメリカの真珠湾攻撃を突発して、約3年8カ月にわたり勃発した。1942年7月に陸軍運輸部は廃止されて、船舶輸送司令部は軍司令部と同格の船舶司令部に格上げされた。司令部は、広島市宇品の旧陸軍運輸部本部(凱旋館内)に設置された。陸軍船舶隊は、通称で暁部隊と呼称されて、各専門部隊が構成された。陸軍船舶司令部の部隊は、秘密保持のために、教育船舶兵団司令部は暁6167部隊とと呼称された。




2022年10月28日金曜日

ムッソリーニの命令で1944年1月11日に長女の夫で義理の息子であるガレアッツォ・チアーノは40歳で銃殺された。モンシニョール・キオット神父が、銃殺されたガレアッツォ・チアーノに最後のキリスト教の儀式を捧げた。

モンシニョール・キオット神父が、銃殺されたガレアッツォ・チアーノ(Galeazzo Ciano)に最後のキリスト教の儀式を捧げた。ムッソリーニの命令で1944年1月11日に長女の夫であり義理の息子であるガレアッツォ・チアーノは40歳で銃殺された。チアーノは、その生い立ちからファシズムと結びた。若い頃に、ローマへの行進(1922年)に参加し、ムッソリーニ政権はチアーノを海外のさまざまな外交ポストに任命した。1930年に、ムッソリーニの長女エッダと結婚した。チアーノの経歴は飛躍的に伸びた。1936年には外務大臣に任命され、スペイン内戦へのイタリア軍の介入を支持した。エチオピア戦争に参加して、ミュンヘン会議に出席して、ローマ・ベルリン・東京での枢軸国の正式決定に積極的に関与して、当時の政治に最も重要な役割を果たした。

 しかし、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻した際に、チアーノはイタリア軍の参戦に難色を示した。ヒトラーはチアーノに不信感を抱いたが、ナチスの最初の戦果を見ると考えを改めた。北アフリカでの枢軸国の敗北と連合国の上陸を受けて、チアーノは密かに連合国、特にイギリスに接近した。1943年2月に、連合軍のシチリア侵攻の数カ月前に、チアーノは役職から解任された。

 1943年7月にファシスト大評議会では、チアーノはムッソリーニの解任に賛成した。その直後に、ムッソリーニは逮捕されると、ドイツに逃亡した。ムッソリーニはドイツ軍に救出された。北イタリアにムッソリーニが非公式に主宰するサロ共和国が成立した。ドイツ軍はサロ共和国当局にチアーノは引き渡された。チアーノはムッソリーニの解任に賛成した他の5人の元ファシスト大評議会メンバーとともに、大逆罪と連合国との協力の罪に問われ、ヴェローナ裁判で裁かれた。チアーノは死刑を宣告されて、銃殺により処刑された。妻エッダは、父ムッソリーニに、船員日誌を公開するとまで脅した。ムッソリーニは、ナチス・ドイツの指示に従がった。

 "処刑は屠殺だった。「豚の屠殺だった」とドイツ人の目撃者の一人は言った。死刑囚のうち4人、そのうちの1人はチアーノは椅子ごと倒れて、地面に横たわってうめき声をあげながら悶えた。暫くの間、恐ろしいほどの沈黙と困惑が続いた後に、何人か兵士が、ライフルで、瀕死の男たちと椅子に座ったままの男に発砲して、チアーノは地面に倒れ込んだ。処刑を担当した隊長ニーノ・フルロッティは、こめかみにピストルを撃ち込んで、倒れたチアーノを仕留めた。最初の一撃でチアーノは背中に5発撃たれて、後ろに倒れて地面に横たわり、弱々しく助けを求めていた。フルロッティはチアーノ背中に2発撃ち、2人のドイツ軍将校がチアーノの死を検死するために近づいた。




2022年10月27日木曜日

朝鮮戦争のアメリカ軍の第8軍はキラー作戦を実行した。3月6日にアメリカ軍兵士はアリゾナ線付近で、中国人民志願軍の中国人兵士の捕虜と死体を捕獲した。

朝鮮戦争の1951年2月20日から3月6日までアメリカ軍の第8軍はリッジウェイ司令官のキラー作戦を実行した。3月6日にアメリカ軍兵士は、中国人民志願軍の中国人兵士の捕虜と死体を捕獲した。キラー作戦は、アリゾナ線と呼称される戦線以下の中国志願軍と北朝鮮軍を全滅させる作戦であった。しかし、既に中国人民志願軍と北朝鮮軍は総撤退を開始して、この地域でわずかな抵抗が残存した。キラー作戦の終了後に、直ちにリッパー作戦を開始して、ソウル市の再奪還と38度線への再突入の総攻撃を行った。侵攻のために選択した作戦のコードネームである「キラー(Killer)」殺人者は、ワシントンで陸軍参謀総長から即座に抗議を受けていた。

 1951年1月4日に中国人民志願軍と北朝鮮軍が国連軍を圧倒して、ソウルを2度目の再占領をした。リッジウェイが復活したアメリカ軍第8軍が、1951年2月の最後の2週間にサンダーボルト作戦に続いて、キラー作戦を執行した。可能な限り多くの中国人民志願軍と北朝鮮軍を殺すために、武力を最大限に活用する本格的な作戦であった。キラー作戦により、アメリカ軍は漢江の南の領土を再占領して、横城を占領した。1951年3月7日からのリッパー作戦で、1951年3月14日にソウルから中国人民志願軍と北朝鮮軍を追放した。朝鮮戦争前の約150万人だった人口は、約20万人にまで減少して、深刻な食糧不足に直面して苦悩した。 キラー作戦で、アメリカ軍は約59人が戦死して、約802人が戦傷、約119人が行方不明となった。

 1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後に、38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破した。マッカーサーが暴走を続けた末に、第三次世界大戦を恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサー将軍を解任した。その後任にアメリカ軍第8軍司令官のマシュー・リッジウェイが交代した。




2022年10月26日水曜日

太平洋戦争のアッツ島の戦いにて、日本軍の守備隊兵士らは、1943年5月29日未明に無残な万歳突撃をして、集団自殺して全滅した。

太平洋戦争のアッツ島の戦いにて、アメリカ軍の圧倒的な武力に対抗できなかった日本軍の守備隊兵士団らは、1943年5月29日未明に万歳突撃して、集団自殺して全滅した。5月11日に霧が晴れると、朝日が無惨な光景を現出させた約500体以上の日本軍兵士の死体がアッツ島の荒野に無残に切り刻まれて横たわった。さらに数百体のアメリカ軍兵士と日本軍兵士の死体が、頂上と稜線の長い斜面に散らばった。

 太平洋戦争のアリューシャン列島の主戦場となったアッツ島で、1943年5月11日から30日まで、北太平洋のアラスカ列島の最西端にある不毛な小島で悲惨な戦闘が勃発した。日本軍は、1942年6月7日にアメリカ領土であるアッツ島と隣のキスカ島を占領した。アメリカ軍は、1943年5月11日にランドグラブ作戦で、約1万1000人の兵士をアッツ島の南北端に上陸した。樹木のない荒野の火山島であるアッツ島は、厳しい気候と険しい地形で、悲惨な戦闘が勃発した。5月末には、アメリカ軍はアッツ島の高台を占拠して、5月末には日本軍を小さな丘陵地帯に閉じ込めて、食料と弾薬は底をついて損失した。残存した日本群兵士は、降伏は最大の恥として、最後まで必死の抵抗を始めた。敗北に直面した日本軍兵士は、アメリカ軍の大砲を奪って、丘の上から援軍を待とうと奇襲反撃した。

 1943年5月28日に、日本軍は危機的状況に陥って、残存した約1,400人の日本軍兵士のうち、戦闘可能な兵士は約800人以下であった。食料、弾薬、医薬品も枯渇した。5月28日夜中に、残存した日本軍兵士は酒に酔って飛び跳ね、大声で叫び、酒瓶をガブ飲みした。狂乱した日本軍兵士は、負傷兵をモルヒネ注射や銃撃して、自殺するのを幇助した。5月29日未明午前3時頃に、残存した最後の約800人の日本軍兵士は、大集団で万歳攻撃をして、正面からアメリカ軍陣地に突入した。アメリカ軍兵士は、叫びながら拳、ライフル、銃剣で突進してくる日本軍兵士を迎え撃った。アメリカ軍の圧倒的な軍事力に圧倒されて、多数の日本軍兵士が殺害された。万歳攻撃で、殺害されずに生き残った日本軍兵士は、絶望して手榴弾を腹部や胸部などの身体で爆発させて自爆で自殺した。アッツ島を駐留していた約2400人の日本軍兵士のうち約2,371人が戦死した。捕虜となって生き残った約29人以外は、全員が殺害あるいは自殺した。アメリカ軍兵士は約11,000人がアッツ島に上陸して、アッツ島の戦いで約600人が戦死して、約1,200人が戦傷した。




2022年10月25日火曜日

浙江大学の学生会会長の23歳の于子三が、浙江省治安司令部にて1947年10月29日に虐殺された死体が拘置所に安置された。

浙江大学の学生会会長の23歳の于子三(Yu Zisan)が、浙江省治安司令部にて1947年10月29日に虐殺された死体が拘置所に安置された。学生死亡事件である于子三事件は、国民党政府が長江デルタ地域の学生運動を組織的に弾圧した一連の虐殺事件であった。犠牲者の于子三は、浙江大学農学院農学部の4年生であった。国民党政府に秘密裏に逮捕されて、獄中死した。逮捕される前に、于子三は浙江大学学生会会長を務めて、新民主青年会華家池支部と新潮会の学生会の活動、浙江学生会と全国学生連合会の連携も担当した。

 于子三は10月25日に同窓生の結婚式に出席するために杭州に入り大同ホテルに一泊した。10月26日午前2時に、国民党中央委員会浙江部は数名の工作員を送って、彼の他に3人の学生とともに密かに逮捕した。浙江省保安司令部の刑務所に強制連行した。国民政府支配地区の学生運動を壊滅させる目的で、中国共産党地下組織の手がかりを得るために、厳しい拷問を受けた。10月29日午後6時頃に、于子三は獄中で虐殺されて息を引き取った。国民党側は、杭州市を封鎖して、事件の拡大を阻止した。他方、共産党側は于子三事件を最大限利用して、学生運動を拡大した。

 于子三が虐殺された死後に、国民党政府は于子三はガラスで喉を掻き切って自殺したと主張した。10月31日から杭州市全域に戒厳令を敷いた。中華民国教育部は、浙江省の学生によるストライキを阻止した。1947年11月20日に、裁判所は他の3人の学生の陳建新、黄志民、李伯錦の3人に7年の懲役を言い渡した。11月3日に銭英が率いる中国共産党上海局青年部は、闘争規模を拡大して、連帯して学生運動を展開した。1948年8月下旬までに、全国20都市以上で累計10万人以上の学生がストライキを行い、約15万人以上が集会やデモ行進、連帯活動に参加した。

 日中戦争の終結後に、国民党軍が1946年6月26日に共産党軍に全面侵攻する国共内戦が勃発した。1947年3月には戦況が不利となり、国民党軍の蔣介石は全面侵攻から重点攻撃へと方針を転換した。共産党軍が盛り返して国民党軍が後退し始めた。最終的に1949年12月7日に国民党軍は内戦に敗戦して台湾に撤退した。




2022年10月24日月曜日

沖縄戦にて1945年5月中旬頃に、アメリカ軍兵士は、軍用犬が日本軍兵士の生死を嗅ぎ分けながら、死体のかたわらを通り過ぎた。

沖縄戦にて1945年5月中旬頃に、アメリカ軍兵士は、軍用犬が日本軍兵士の生死を嗅ぎ分けながら、死体のかたわらを通り過ぎた。隠れていた沖縄の住民が、アメリカ軍の軍用犬に発見され、軍用犬は何も危害を加えずに戻っていき、しばらくしてアメリカ軍兵士を伴って再び戻ったと記録がある(読谷村「読谷村史 第5巻資料編4戦時記録下」2002年)。日本軍は、軍用犬を斥候犬と呼称した。

 光も水も食料も不足した日本軍の地下要塞に対して,アメリカ軍は軍用犬を用いて洞窟の入口を突き止めて,火炎放射器で焼き尽くした。当初は太平洋戦争にて、日本人のみを選別して殺傷する目的で軍用犬の訓練が行われた。軍用犬は、アメリカ軍関係の施設の警備にあたり、夜間でも優れた嗅覚で不審者の日本人を発見して撃退する歩哨や警備の役割を果たした。視覚障害者の象徴の盲導犬も、軍用犬の訓練の中から生まれた。特殊部隊の軍用犬が、ウサマ・ビンラディンの追跡と奇襲に脚光を浴びた。

 沖縄戦の地形は、すべてが防御する日本軍に有利であった。稜線と急斜面の地形は、戦場を一連の小規模で悪質な銃撃戦に変えて、植物が密集せず、日本軍はアメリカ軍を完全に監視できた。日本軍は、稜線の至る所の洞窟やコンクリート製の古墳から強烈で激しい日本軍の砲撃は、アメリカ軍の丘や尾根の側面に瞬時に炸裂した。

 アメリカ軍兵士は5月1日夜には、日本軍の潜伏部隊に襲撃されて、激しい肉弾戦が勃発した。朝にはアメリカ軍の銃剣が日本軍兵士の胸に刺さり、内臓が摘出され、手榴弾の破片が飛び散り、ライフルや機関銃で穴が開いた日本軍兵士の死体が、戦場に散乱した。

5月5日夜には、日本軍がアメリカ軍の後方に上陸して反撃に出て、アメリカ軍は守勢に回わり、夜の浜辺で日本軍に激しい砲火を浴びせて迎え撃った。日本軍の徹夜の攻撃は、約800人以上の日本軍兵士の死者を出した。翌朝にアメリカ軍兵士と軍用犬は残りの約65人の日本軍兵士を追跡して殺害した。日本軍の水陸両用攻撃を撃退した後に、約6,000人以上の日本軍兵士を襲撃した。