2022年10月22日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約2.4kmの長崎市西坂町の周辺は瓦礫の山となった。炸裂した翌日の8月10日早朝に、西坂町の焼け跡に生存した長崎市民らが呆然と立ちすくんでいた。

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約2.4kmの長崎市西坂町の周辺は瓦礫の山となった。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の8月10日早朝に、西坂町の焼け跡に生存した長崎市民らが至るところで呆然と立ちすくんでいた。長崎原子爆弾は、8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市松山町東南東約90mの上空約503mで炸裂した。

 長崎駅前の西坂町から北へつらなる丘陵を見あげると、階段状に住宅が丘の上までつらなっていた。そのほとんどが焼失してしまった。被爆直後に、被災した工場群の従業員の多くは、この丘の上へ避難した。「ほとんどがはだしで、全身血に染まった者、やけどをして顔や手足がはれあがり、真っ黒くなって歯だけは白く見える者、 「水を・・・・」といいながら、くずれたようになってはい回る者、砲台山をめざして、えんえんと続いていった」(『長崎原爆戦災誌』第2巻)。

 斜面にならぶ家々は倒壊し、ところどころ火があり、それらが狭い道をふさいで、歩行は難渋をきわめた。その後「平坦地域をなめていた火災は、次第に山の手に燃え移り、午後になって燃え出した家もあり、夜に入っても、きつね火のような火災が続いた」(同上書)。翌日の8月10日の早朝である。画面を部分的に拡大してみると、焼けだされた人びとが、余燼のくすぶる焼け跡に立つ姿が、至るところに見出された。

 西坂町は、爆心地から約2.0〜3.0kmに区分されて、準焼失地域に区分された。長崎町の西坂公園には、日本二十六聖人殉教地がある。1957年2月5日に、豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって、フランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人がの26人を、西坂の丘で磔にて槍で刺殺する死刑に処した。キリストが処刑されたゴルゴダの丘に類似した。長崎市の爆心地周辺は焼きつくされ、爆風に吹き飛ばされた瓦礫に混じって、悪臭鼻をつく死体が、道路の脇や川底などに夏日に散乱した。進駐したアメリカ軍は、爆心地近隣の浦上川沿いに飛行場を設置するために、死体と遺骨が散らばる町をブルドーザーで整地を始めた。遺骨の惨状を憂えた長崎市民らによって遺骨収集が始まった。1946年3月からは長崎市西坂町にあった東本願寺長崎説教所(当時)を中心に、長崎駅から大橋、住吉等まで遺骨を丹念に拾い集めた。





2022年10月21日金曜日

安倍晋三元首相は、2022年7月8日11時31分の参議院選挙演説中に、奈良市内で心肺部を銃撃されて、67歳で暗殺され死去した。

安倍晋三元首相は、2022年7月8日11時31分の参議院選挙演説中に、奈良市内で心肺部を銃撃されて、67歳で暗殺され死去した。日本で最も長く首相を務めた安倍晋三は、分裂した旧保守主義者で、日本で最も長く3,188日も首相を務めて、退任後も強力な影響力のある政治家であった。7月8日に奈良市の近鉄大和西大寺駅北口付近で選挙演説中に銃撃されて、暗殺され血まみれ瀕死で地面に横たわり致命傷を負った。奈良市の駅前で演説する安倍晋三は、紺のスーツに身を包み、拳を振り上げて立っている時に、約2.7秒間に2発の銃声が響いた。警備員が舗道に顔を伏せたグレーのシャツの山上徹也容疑者にタックルして倒して逮捕した。側に手作りの銃である二連装の装置があった。安倍晋三は仰向けに転倒した後に、胸を押さえられ、シャツには血がにじんでいた。奈良県立医科大学病院に緊急に空輸されたが、既に心肺停止で心臓と肺は停止して17時3分に検死された。世界で最も安全であり、最も厳しい銃規制法である日本警察にショックを与えた。宗教法人「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」への恨みを安倍晋三に報復した。奈良県警が逮捕した41歳の山上徹也は、2002年から約3年間、海上自衛隊に勤務していた。

 祖父の岸信介元首相の後を継いだ安倍晋三は、軍部の改革を進めるタカ派的姿勢と、日本軍の残忍な過去に対して不当な歴史的評価を受けた修正主義者であった。国内の自由主義者とアジア地域の第2次世界大戦の犠牲者から嫌悪された。日本経済を活性化し、アジアで強い政治的役割をを主導し、政治的安定する希少な首相の役割を果たした。安倍晋三は、保守派の主導者であったが、多くのリベラル派からは反感を買っていた。戦争放棄の日本国憲法を改正する彼の大願は、生存中には頓挫した。超日本国家主義は、日本の戦時中の被害者である中国と韓国から嫌悪された。祖父である岸信介元首相は、戦後アメリカの占領下で採択されたアメリカ製の日本国憲法を軽蔑した。安倍晋三にも、1947年の憲法は、日本の敗戦の不当な遺産であり、戦勝国の世界秩序と西洋の価値観の押し付けの象徴であった。日本国憲法は国際紛争での武力行使を放棄し、日本の軍隊を自衛に限定している。日本軍には近代的な陸軍、海軍、空軍があり、日本の最大の同盟国であるアメリカと緊密に連携した。戦後の条約や日本の戦犯を裁く法廷に反発して、より強い軍隊と国際情勢に大きな役割を念願した。戦時中の日本軍の戦争犯罪を白紙に戻てし、残虐行為に対する謝罪の廃止を求める日本の保守派の原動力となった。

 日本国憲法改正の頓挫して、北朝鮮との関係正常化、近隣諸国との島嶼紛争の解決、ロシアとの平和条約締結など、戦争で残存する懸案を解決できなかった。日本は、中国や北朝鮮との緊張で、周辺地域の防波堤として約5万人のアメリカ軍を受け入れた。テロリズム、北朝鮮のミサイルや核兵器、中国の軍事的拡張から、安全保障政策で保守派を掌握した。平和主義的な日本国憲法に対する一般国民の支持は常在した。安倍晋三は、2006年9月20日に52歳で日本最年少の首相になった。国粋主義的な最初の任期は約1年後に健康同上の理由から2007年9月23日に突然終了した。その後は、日本の首相は毎年変わる6年間の政治空白が始まり、安定性と長期的な政策を欠いた。2012年9月26日に政権に復帰した安倍晋三は、財政出動、金融緩和、構造改革を組み合わせた「アベノミクス」で日本を活性化し、デフレの低迷から脱却した。6回の国政選挙に勝利し、日本の防衛とアメリカとの安全保障同盟を強化し、政権を強固にした。学校での愛国心教育を強化し、日本の国際的軍事力を増進した。安倍晋三は、10代からの潰瘍性大腸炎が再発して2020年9月14日に首相を退いた。吉田茂元首相の1967年の国葬以来、9月22日に安倍晋三元首相の国葬が執り行われた。




2022年10月20日木曜日

ベルゲン・ベルゼン強制収容所は、1945年4月15日にイギリス軍によって約60,000人の囚人が解放された。1945年5月1日に大量囚人が横たわる共同集団墓地を発掘した。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所は、1945年4月15日にイギリス軍によって約60,000人の囚人が解放された。1945年5月1日に大量囚人が横たわる共同集団墓地を発掘した。1943年4月に設置された強制収容所には、ユダヤ人、戦争捕虜、政治犯、ロマなどを収容していた。ナチス・ドイツ親衛隊員が大量殺戮した囚人の死体は、不潔な貨車で運び出して、共同集団墓地に埋められて、ガソリンをかけ灰にしていた。共同集団墓地では、死体の顎を開いて、金歯を取り出した。強制収容所では、囚人の死体を焼却するのに必死であった。女性や子供は、死の収容所の選択で生き残る可能性はほぼゼロであった。部分的に焼け残った死体が山積みになった。死体の遺品を整理して、眼鏡、大量の髪の毛、赤ん坊の人形などを積み上げ回収した。囚人数は、飢え、寒さ、病気、恐怖政治、処刑などを通じて死滅して減少させた。1941年6月以降には、ソ連軍の捕虜も、捕虜の扱いに関する国際条約を完全に無視して、毒ガスや餓死の犠牲者となった。

 戦争の異常事態が隠れ蓑となり、ホロコーストの真実を覆い隠した。ユダヤ人に対する憎悪が、約600万人を絶滅するホロコースト政策による大量殺戮の中心をなしていた。一人のヒトラー・ナチス独裁者が、他人を支配し、信奉者の心と魂のあらゆる邪悪な本能を表面化させた。ホロコーストには、全体主義的政府と、沈黙した、従順な、無抵抗な国民を必要として、政府に戦争犯罪は皆無と洗脳された。

 ホロコーストは、ギリシャ語で「全体」を意味する「ホロス」と「焼いた」を意味する「カウストス」に由来しした。歴史的には、祭壇に焼くことで生け贄を捧げることを意味した。第2次世界大戦中に、ドイツのナチス政権は、約600万人のヨーロッパのユダヤ人(ジプシー、ソ連の捕虜、反ナチス、同性愛者など、迫害された他のグループの人々も含めて)を大量に殺害した。1933年にアドルフ・ヒトラーが権力を握ると、ナチスはドイツ国内に強制収容所のネットワークを構築した。すべての「好ましくない野郎ども」を送り込むことを開始した。ユダヤ人はヒトラーにとって劣等人種であり、純粋なドイツ民族、すなわち「アーリア人種」に対する脅威であると考えた。1939年のポーランド侵攻後に、ナチス政権はユダヤ人の隔離を開始して、約42,000以上の強制収容所が設置された。やがて1942年に、ヒトラーの「最終的解決策」(ホロコーストとも呼ばれる)が実施されて、強制収容所にはユダヤ人絶滅センターが設置された。




2022年10月19日水曜日

「満州国軍戦没官兵慰霊に供せられた死体」として、1934年に満州国内の戦闘で戦死した日本軍兵士の慰霊に、馬賊の報復として虐殺した2人の中国人の死体を見せしめにした。

満州国が、1934年3月1日に清国の最後の皇帝である溥儀が、満州国の皇帝に即位して、満洲国佈告1により日本軍が中国東北地方に建国した。1934年頃に「満州国軍戦没官兵慰霊に供せられた死体」と写真に記載された。1934年に満州国内の戦闘にて戦死した日本軍兵士の慰霊に対して、馬賊に対する報復として虐殺した2人の中国人の死体を見せしめにした。

 2つの死体に、人間の頭部が身体上に置かれた。左側の死体の傷面は非常に不規則で、右肩から左腰にかけて不明瞭な傷口であった。身体は爆破されて、頭部は白骨化して、頭蓋骨の後頭部は半分に欠けた。頭部の眼窩、顎、頬の組織はわずか残存して、黒焦げになった。犠牲者は爆発で死亡した中国人女性の可能性が高い。爆発力の巨大な衝撃で上半身と頭蓋骨の半分が吹き飛ばされて、炎上して焼死した。右側の死体は、若い中年の中国人男性であり、周辺の深部組織はまだ残存していた。2つの死体は死後に、死体が硬直していないときに、意図的に見せしめに配置された。

 中国人の匪賊は、山中の村落に潜伏して、中国人の村民は仲間と見なして、匪賊に労苦を惜しまず相互扶助した。日本軍による村落における匪賊の討伐や掃討は、困難を極めた。満州帝国の建国によって、匪賊を弾圧すれば、より反日一辺倒の勢力となった。日本軍は、満州国の建国に向けて、中国人に迎合するのに馬賊として、義賊として、大衆には義軍性を誇示した。馬賊も、勃発した満州事変によって日本軍は消滅させた。

 日露戦争中に、中国人の反抗する自衛団であった匪賊を、日本軍は馬賊と呼称した。馬賊をして義賊とすれば、日本軍は義軍であると自負した。中国人の官憲は匪賊と見下したが、日本軍は自ら義軍として、馬賊として見なした。もしもし匪賊は、日本軍から被害や攻撃を受けていた。匪賊の勢力が増して、権力をは把握してくると、馬賊として取り込んだ。中国の腐敗した政権には、兵匪や官匪と悪評した。自衛団も民衆も、都合の悪いものは匪賊とした。




2022年10月18日火曜日

イラン・イラク戦争にて、1982年の戦闘にて、イラク軍はイラン軍と悲惨な戦闘の後に、殺害したイラン軍兵士の死体を、荒野の戦場に積み重ねた。

イラン・イラク戦争にて、1982年の戦闘にて、イラク軍はイラン軍と悲惨な戦闘の後に、殺害したイラン軍兵士の死体を、荒野の戦場に積み重ねた。

 1980年代に長期化したイラン・イラク戦争は、1980年9月22日にイラク軍が、イラン軍の奇襲を受けて、クゼスターンに侵攻して勃発した。イラク軍はホラムシャール市を占領した。1980年12月にはイラク軍はイランの予想外の抵抗に遭遇して、戦線は停滞した。1981年9月にはイラン軍がカルーン川を越えてイラク軍を押し返した。

 イラク軍は1982年5月に、ホラムシャールを奪還した。占領したイラン領からイラク軍を撤退させ、イランとの和平協定を模索したが、イラン軍は強硬な戦闘を継続した。7月に、イラン軍はイラクのアルバーラー県に侵攻して、イラク軍は防御を固め、国境沿いに戦線を張って、膠着状態に陥った。イラン軍の非武装の徴用工や少年は、人海戦術の歩兵攻撃で多大の犠牲となった。イラク軍の優れた火力と航空戦力により撃退された。

 空爆やパイプラインの遮断により、両国の石油輸出能力は著しく低下し、両国の経済はほぼ停止状態に陥った。イラク軍の戦費は近隣のアラブ諸国が公然と出資して、アメリカとソ連が黙認した。イランの主要な同盟国はシリアとリビアだけであった。

 1987年に、イラク軍側に有利になり始めた。イラク軍は約100万人の軍隊を育成して、フランスとソ連から最新鋭の兵器を手に入れた。イラク軍は生物兵器や核兵器を含む他の大量破壊兵器(WMD)のにも多大な資源を投入した。1987年7月に、国連安全保障理事会は、境界線まで軍を撤退させて解決する決議598を全会一致で採択した。

 1988年初頭に、イラン軍はイラク北東部のクルド人と協力して、キルクークからトルコ国境までを威嚇し、ハージュ・ウムラーンやハラブジャまで侵攻した。イラク北部では1988年3月に、イラク軍は戦争犯罪の化学兵器を使用し、ハラブジャ周辺で約5,000人ものクルド人市民を殺害した。1988年のアンファールの作戦で、約5万から約10万のクルド人がイラク軍に殺害された。1988年4月に、イラク軍はイラン軍にも化学兵器を使用し、ファウ半島を奪還した。サラムチャやマジュヌン地区を解放し、7月には再びイラク軍がイランの奥地まで侵攻した。戦意喪失したイランは、7月20日に国連決議598を受け入れて、8月20日に両軍は停戦を実施した。

 双方の戦闘員の総数は不明で、両国とも全動員されて戦力化された。死傷者の数も膨大で不詳である。死傷者の総数は、約100万人から約200万人と推定された。両軍の死者数は約50万人で、イラン軍がより大きな犠牲を被った。




2022年10月17日月曜日

タラワ環礁のベティオ島の上陸作戦後に、レッド海岸西端にアメリカ軍の水陸両用車両が放棄された。アメリカ軍兵士が護岸の近くで殺害されて、水中にうつ伏せになった死体が、海岸付近を漂っていた。

太平洋戦争にて、タラワ環礁の珊瑚礁に囲まれた小さなベティオ島の戦いは、第二次世界大戦の太平洋戦争の中で最も残酷で悲惨な戦闘の一つとなった。わずか約76時間で、アメリカ軍兵士は約1,000人の戦死者を出した。地獄のようなタラワ環礁のベティオ島の上陸作戦後に、レッド海岸の西端にアメリカ軍の水陸両用車両(LVT)が放棄された。アメリカ軍兵士がタラワ環礁の護岸近くで殺害されて、水中にうつ伏せになった死体が、海岸付近を漂っていた。

 1943年秋には、日本軍はアリューシャン列島と北太平洋から撤退した。タラワ環礁は24のサンゴ礁の島々からなり、周囲は環状の暗礁が連続していた。平らな環礁の一番の高地は、水面からわずか約2.5m上がっていた。日本軍が準備したのはベティオ島だけだった。タラワ環礁は、満潮時でもアメリカ軍の上陸が困難であった。タラワ環礁の日本軍兵士は約4,836人、戦車約14台、要塞を築く非武装の労働者はほとんど約2,200人朝鮮人で構成された。アメリカ軍兵は約3万5千人がタラワ環礁とマキン環礁を侵略した。

 1943年11月20日午前4時に、アメリカ軍兵士の第一陣が海岸に向かって侵攻した。ベティオ島への上陸兵士の積み込みと侵攻に予想以上の手間がかかった。アメリカ軍の上陸に伴い、多くの死傷者が出た。日本軍は防御態勢をとり、アメリカ軍は砲兵の支援を受けれなかった。アメリカ軍の装甲兵員輸送車が岩礁を越えた時に、タラワ環礁の日本軍は侵攻してくるアメリカ軍を迎え撃った。上陸用舟艇は、海岸から数百メートルの浅瀬に取り残され、浮遊装甲兵員輸送車の多くは珊瑚礁を横断できなかった。防御の弱い装甲兵員輸送車は、焼夷弾や砲弾がガスタンクに当たり、沈下や炎上した。アメリカ軍兵士はボートから飛び出し、荒波を腰まで泳ぎながら、激しい銃撃の中、海岸までの約500メートルを横断した。弾薬や装備を積んだ多くのアメリカ軍兵士は、殺害されて溺死した。

 上陸したアメリカ軍兵はは狭い浜辺に釘付けにされた。日本軍の大砲の直撃を受けながら、岩礁に兵士を上陸させた。全員が防御堤近くの海岸帯に釘付けにされた。浜辺には兵士の死体や水死体が散乱し、陰惨な光景は上陸したアメリカ軍兵士には衝撃であった。た。夜のうちにアメリカ軍は橋頭堡を固め、弾薬を補給し、負傷者を避難させ、11月21日の朝も侵攻を継続した。終日に、掃討を続け、艦砲射撃の下で、残存した日本軍兵士をベティオ島の東部に押しやった。11月22日夕方には、アメリカ軍はベティオ島の大部分を占領した。11月22日から23日の夜、日本軍はアメリカ軍陣地に突撃し、大損害を受けて退却した。日本軍は、白兵戦で死者約40人、負傷者約100人、合計約325人を損失した。ベティオ島の東部の隘路に残存した最後の抵抗勢力約500人が、11月23日13時までに殺害されて鎮圧された。11月27日に、タラワ環礁の最後の日本軍兵士は、白兵戦で壊滅て全員が死滅して玉札した。アメリカ側は多大な犠牲を払って、死者約1,700人、負傷者約2,186人であった。日本軍の損失はさらにひどく、生き残ったのは朝鮮人129名、日本人17名だけだった。




2022年10月16日日曜日

ウクライナのハリコフ州のグラコベ村付近で、2022年10月13日にロシア軍の地雷が爆発した。ウクライナ国防軍の地雷除去兵たちは、ロシア軍の地雷で死亡した地元の男性の死体の前を歩いた。

ウクライナのハリコフ州のグラコベ(Grakove)村付近で、2022年10月13日にロシア軍の地雷が爆発した。ウクライナ国防軍の地雷除去兵たちが、ロシア軍の地雷で死亡した地元男性の死体の前を歩いた。ウクライナ東部のグラゴベ村にて、放棄されたロシア軍基地の傍らで、男性の遺体が草むらにうつ伏せに倒れて、死体が腐乱していた。退却するロシア軍が仕掛けたトリップワイヤや地雷の犠牲になった一般市民であった。東部ハリコフ州を拠点とするウクライナ国防軍の第113ハリコフ防衛旅団に所属する地雷除去兵は、10月13日に枯れたひまわりの畑と雑草が生い茂る畑の間の泥道を通って、休耕農地の奥深くまで地雷を捜索した。

 グラコベ村付近では、ウクライナ国防軍の地雷除去班が、数十個の致命的な地雷や不発弾を除去した。ロシア軍の占領下で数カ月を過ごした地域の都市、町、田舎に、安全性を確保して取り戻すための作業をした。地雷除去兵士が金属探知機を手にゆっくりと進行して、地面をスキャンして探知機が地雷の合図を出すのを捜索した。探知機が高い音を出すと、地雷除去兵士はひざまずいて泥や草を調べて、金属棒で地表のすぐ下に埋まった地雷を探った。フラコベ村周辺ではすでに数百個の地雷が排出された。ウクライナ全土の地雷の危険は、将来数年間は継続する。戦争の1年は地雷除去の10年に相当する。今でも第二次世界大戦の弾薬が見つかる。

 数カ月にわたるロシアの占領から数百平方マイルの領土をウクライナ軍が奪還した後に、ロシア軍は9月初旬にハリコフ州を緊急に撤退した。多くの集落は、激しい戦闘で瓦礫と化した後に、ある程度の安全性を確保したが、ロシア軍の地雷は、都市部でも農村部でも常に潜伏する脅威が残存した。ハリコフの道路には、白いドクロと十字架が描かれた小さな赤い看板が並び、地雷の危険性を警告している。しかし、時には自暴自棄になった住民が地雷原に足を踏み入れることもある。ハリコフ州の道路や荒野には、白いドクロと十字架の小さな赤い看板が地雷の危険性を警告した。徘徊した住民が、地雷原に足を踏み入れることもある。ロシアはオタワ条約に無加盟で、対人地雷の禁止を無視した。












Warning: Ukrainian territorial defence deminers walk past a body of a local man who was killed after an explosion of a Russian mine near Grakove village, Ukraine, Thursday, Oct. 13, 2022. (AP Photo/Francisco Seco)


2022年10月15日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南約250mの浜口町の北端は崩壊して廃墟となり、炸裂した翌日に、長崎県道のすぐ東側から、完全に瓦礫となった長崎市内の南南東方面を、防空頭巾を被ったもんぺ姿の婦人が見守った。

長崎原子爆弾の爆心地から南約250mである長崎市浜口町の北端の周辺地域は崩壊して廃墟となった。1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて長崎市内で炸裂した。その翌日の1945年8月10日午後1時頃に、長崎県の県道のすぐ東側から、完全に瓦礫となった長崎市内の南南東方面を、防空頭巾を被ったもんぺ姿の長崎市民の婦人が見守った。

 爆心地の松山町の近隣であった浜口町の北部一帯(現 平野町)は、かつては高台の閑静な高級住宅地であった。原子爆弾の炸裂後に発生した火球の中心温度は、摂氏数百万度以上に達した。人間と環境をすべて抹殺する核兵器が人類史上に2番目に長崎市で炸裂した。市民にも多くの犠牲者を出した長崎原子爆弾の惨禍を展示する長崎原爆資料館が、爆心地の近隣の長崎市平野町7番8号の爆心地の松山町を望む高台にある。

 長崎市の爆心地周辺では、何の罪もない民間人が息絶え、地上の建物は火炎に包まれ、あらゆる生命は死滅した。地上は灼熱のために、救護隊の接近も数時間後も遅延した。死体は真っ黒に焦げて炭化した死体は、バラバラと崩れ去った。




2022年10月14日金曜日

第一次世界大戦に参戦したアメリカ軍は、1918年10月8日にフランスのムーズ県フルーリー・シュール・エズヌにて集団墓地で戦死者の12体の死体を集団埋葬した。

第一次世界大戦に参戦したアメリカ軍は、1918年10月8日にフランスのムーズ県フルーリー・シュール・エズヌにて集団墓地にてアメリカ軍兵士の戦死者の死体を集団埋葬した。アメリカ軍十字撤兵病院の第114番病棟で死亡したアメリカ軍兵士の集団埋葬の前に、従軍牧師のT.R.ホワイト(White)が共同墓地にて埋葬式を挙行した。ホワイト従軍牧師は、アメリカ軍赤十字撤兵病院で戦死した12体のアメリカ軍兵士の死体に対して埋葬式をとりおこなった。埋葬する直前に12体の死体を見守った。

 従軍牧師は、通常はある宗教や信仰団体を代表した。しかし、従軍牧師は、あらゆる信仰を持つ軍人や持たない軍人においても宗教儀式をしていた。集団墓地とは、埋葬前に身元が確認できる場合とできない場合があった。複数の死亡した人間の死体を埋める墓地であった。

 第1次世界大戦の1918年9月26日から11月11日まで、フランスとベルギーの国境付近でムーズ・アルゴンヌ攻防戦(Meuse–Argonne offensive)の犠牲者である。ムーズ アルゴンヌ攻勢は、約100万人以上のアメリカ軍兵士が参戦した。第一次世界大戦におけるアメリカ遠征軍 (AEF)の最悪の犠牲を伴った。約26,000人以上のアメリカ軍兵士が戦死 (KIA)して、合計120,000人以上の戦死傷が出た。ドイツ軍兵士は、約28,000人が戦死傷して、約26,000人が捕虜となった。ロマーニュのアメリカ軍墓地にある墓の数は、ノルマンディーのオマハ・ビーチにある墓地の墓よりもはるかに多い。

 1918年10月4日の時点では、アメリカ外征軍(AEF)はソムランス近郊まで迫っていた。AEFは再度、北進を開始した。しかし、十分な支援砲撃もないままに、ドイツ軍の防衛線に対してアメリカ軍歩兵の突撃を繰り返して、多くの損害を被った。フランスのムーズ県アルゴンヌのアメリカ軍墓地とメモリアルには、約526,110平方mの敷地に、ヨーロッパで最多のアメリカ軍の死者、合計約14,246人を埋葬している。完全に孤立無援となった大隊を指揮して生還したホイットルセーは、英雄して名誉勲章を授与された数日後の1921年11月26日に、彼は自殺した。




2022年10月13日木曜日

1925年のシリア大反乱にて、フランス軍の懲罰遠征隊は反乱軍の死体を中央広場に公開して、首都ダマスカスを1926年に壊滅した。

1925年に、シリアとレバノンの一部のドルーズ族が、ジャバル・アド・ドゥルーズの伝統的部族を破壊するフランスの強制的支配に反発してシリア大反乱が勃発した。1925年10月初旬には、シリアのダマスカス地域、首都を囲むオアシス、グータに反乱が集中した。フランス軍の懲罰遠征隊は、オアシスの村々を焼き払って、街中のゲリラを掃討して、その死体を回収して中央広場に公開した。フランス軍はドルーズの反乱を鎮圧して、殺害した膨大なドルーズ族の死体を中央広場に並べた。



 10月18日に、フランス軍は首都ダマスカスに入って、街頭戦闘の末に街のほぼ全域が破壊された。ダマスカスの反乱鎮圧後には、約25,000人の住民が犠牲になり、特に貧困層は大きな打撃を受けた。フランス軍は、1927年6月1日にドルーズ族の反乱を鎮圧した。約2,000人のフランス軍兵士と約6,000人のシリア人反乱軍を含む数千人が、シリア大反乱中に殺害され、約10万人のシリア人が難民化した。


  1923年に、フランス人でありドルーズ族から選ばれたジャバル・アド・ドゥルーズの総督カルビレ大尉は、近代的な行政・社会改革を導入し、住民の反感が勃発した。1925年7月に、高等弁務官モーリス・サライユ将軍がドルーズ族の不満を高圧的に取り扱って、ドルーズ族幹部を逮捕・拘留して、本格的な反乱を引き起こした。スルターン・アルアトラッシュが率いるドルーズ族は1925年8月にフランス軍を打倒して、9月には人民党のシリア国民党も加わって、同族に反乱への参加を呼びかけた。ドルーズ族の反乱が首都ダマスカスまで及んだ。フランス軍はダマスカスを爆撃したが、ドルーズ族の不満はレバノン南部まで拡大し続けた。フランス軍は1926年を通じて反乱軍と戦い、再びダマスカスを爆撃した。フランス軍の侵攻はより大きな成功を収めて、1927年半ばにはほとんどの反乱が鎮圧された。

 ジャバル・アド・ドゥルーズは以後、フランス軍の厳しい管理下に置かれた。総督などの高官は選挙ではなく、フランスに任命され、フランス人が多くなった。ドゥルーズ地域が本来持っている孤立主義を助長して、アラブ民族主義から分離しながら、安全保障をフランス軍に依存させた。シリア地域は、第一次世界大戦の結果1920年8月10日に締結されたセーヴル条約によりオスマン帝国からフランスの委任統治下に入っていた。

2022年10月12日水曜日

約50人以上のインドネシア軍の混成隊が、北アチェ県警察の勾留者を襲撃して暴行した。その犠牲者の約27人が重態となり病院に搬送されて、そのうち約4人が死亡した。

1999年1月6日に、インドネシア政府の国家人権委員会がアチェを調査した。1月9日の夜明け頃に、インドネシア軍の機動部隊は、ウィバワ99作戦によりカンダン村でGAMを捜索して掃討した。逮捕した自由アチェ運動(GAM)の容疑者約38人をインドネシア青年国民委員会(KNPI)のビルに強制連行して勾留した。KNPIビルに勾留者のうち、約10人は北アチェ県警察にて拷問されて、超法規的処刑が執行された。さらに約50人以上のインドネシア軍の混成隊が、北アチェ県警察の勾留者を襲撃して暴行した。その犠牲者の約27人が重態となり病院に搬送されて、そのうち約4人が死亡した。インドネシア軍の容疑者は、KNPIビル事件で軍事法廷で責任が追求された。国軍兵士の約4人が免職で7年の懲役刑となった。司令官の曹長も、6年の懲役刑を宣告された。

 アチェ特別州は、インドネシアのスマトラ島の最北端で、首都ジャカルタから約1600kmにある。1970年代半ばまでに、アチェの天然資源に対してインドネシア政府は弾圧して、多くの分離抵抗運動を弾圧して、多くの指導者を殺害あるいは逮捕した。1989年に再び自由アチェ運動が蜂起した。1990年から1998年までアチェを軍事作戦地域(DOM)に指定した。スハルト政権が、弾圧して虐待と虐殺した。日本の円借款で建設した液化天然ガス(LNG)の精製をするアルン社の敷地内に設置されたインドネシア軍の拷問施設で、アチェの市民が、誘拐、拷問、法律を無視した超法規的に処刑された。

 1989年から1990年に、約6,000人のインドネシア軍がアチェの反乱鎮圧に派遣された。アチェ市民の数千人が殺害されて、行方不明、拷問、強姦、逮捕されて勾留された。1992年6月までに約37人の市民と約12人の運動家が、裁判で有罪となり処刑された。特別軍事作戦で、インドネシア軍に強大な権力と虐待と虐殺の特権を与えた。1989年から1991年に少なくとも約2,000人が殺害された。国連は、東チモールを監視したが、イスラム教徒であるアチェは無視した。1998年5月21日にスハルト政権が打倒されて、アチェの軍事作戦地域が解除された。しかし、解除後も、自由アチェ運動に対抗してインドネシア軍はアチェを支配して弾圧を継続した。2004年12月16日のスマトラ島沖地震でアチェは壊滅した。2005年8月に自由アチェ運動はインドネシア政府と和平を締結した。




 

2022年10月11日火曜日

2014年2月20日に、ウクライナ人のデモ隊はキエフの大学通りで治安部隊の狙撃兵の射撃に狙われて、インスティトゥツカヤ通りで左側のイワン・パンテレエフが殺害された。

 2014年2月20日に、ウクライナ人のデモ隊はキエフの大学通りで治安部隊の狙撃兵の射撃に狙われた。インスティトゥツカヤ通りで、左側のイワン・パンテレエフ(Ivan Panteleev)が殺害された。彼は狙撃された負傷者を運び出そうとして、狙撃の弾丸の標的になり射殺された。奥のイヴァン・ラポヴィ(Ivan Rapovyi)は狙撃で負傷した。2月20日の独立広場(マイダン)で約75人以上の死者のほとんどは路上で殺害されて、約363人以上が負傷して入院して、暗黒の木曜日と呼称された。1月19日からデモ隊と治安部隊の間で大きな衝突をして、2月19日から2月20日にかけてデモ隊と治安部隊との激しい衝突により、約108人のデモ隊と約13人の治安部隊が死亡して、多くの犠牲者を出した。最後の日にあたる2月21日の大学通りでの狙撃では、市民が木製の盾を手に狙撃兵の方に向かって殺害された。人々はばらばらに前へと飛び出して、彼らに対する銃撃が始まり、多くの市民が殺害された。

 ウクライナのヤヌコーヴィチ大統領が、欧州連合(EU)との関係を強化する法案が成立する直前の11月21日に反故にした。その直後から、キエフでの反政府市民運動のデモが勃発して独立広場で展開した。2013年から2014年にかけて、ウクライナの独立広場で尊厳の革命が勃発した。治安部隊は大統領に従って武器を使用する権利と義務を強行した。大統領を解任された親ロシア派のヤヌコーヴィチは、2月22日にウクライナを脱国してロシアに国外亡命した。 

 ウクライナの尊厳革命後に、暴動がウクライナ南部と東部にも拡大した。2月27日にロシア派武装勢力がクリミア政府庁舎と議会を占領した。プーチン大統領の命令で、ロシア軍は、3月1日にクリミア半島に侵攻して直後から実効支配した。ウクライナ南部クリミア自治共和国では3月16日に、ロシアへの編入の是非を問う住民投票が実施された。同共和国選挙管理委員会によれば、投票率82.7%、開票率75%の段階で、ロシアへの編入に賛成票を投じた人の割合は95.7%に至っている。ウクライナ東部の親ロシア派の住民たちはウクライナ過激派を恐れ、ロシア国営放送は彼らをネオナチと報じた。ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ暫定政権は過激派によって成立した政権であり、正当性を認めなかった。2022年2月24日午前5時から特別軍事作戦により、ロシア軍は東部のウクライナ軍に集中砲撃が勃発して、ロシア・ウクライナ戦争が勃発した。




2022年10月10日月曜日

ノルウェー・ノーベル委員会は、2022年ノーベル平和賞の授与を10月7日に公表して、ベラルーシの人権活動家アレス・バリアツキー、ロシアの人権団体メモリアル、ウクライナの人権団体市民自由センターに授与する。

ノルウェー・ノーベル委員会は、2022年のノーベル平和賞を1個人と2団体に授与を2022年10月7日に公表した。ベラルーシの人権活動家アレス・バリアツキー(Ales Bialiatski)、ロシアの人権団体「メモリアル」(Memorial)、ウクライナの人権団体「市民自由センター」(Center for Civil Liberties)に授与する。平和賞受賞者は、市民社会を代表する存在である。彼らは長年にわたり、権力を批判する権利と市民の基本的権利を守ることを推進した。戦争犯罪、人権侵害、権力の乱用を記録する努力を行った。平和と民主主義のための市民社会の重要性を示した。


 アレス・ビアリャフスキは、1980年代半ばにベラルーシで起こった民主化運動の発起人で、民主化と平和的発展に生涯を捧げた。アレクサンドル・ルカシェンコ大統領に独裁的な権限を与える憲法改正に抗議するために、デモを引き起こすヴィアスナ(Viasna)を1996年に設立した。投獄されたデモ参加者と家族を支援した。政治犯に対する当局の拷問を記録して、抗議する人権団体へと発展した。政府当局は、彼を2011年から2014年まで投獄して、2020年の政権に反対する大規模なデモの後に、再び逮捕されて、現在も裁判もなく拘束されている。



 人権団体メモリアルは、旧ソ連の人権活動家たちが、共産主義政権の抑圧の犠牲を記録する1987年に設立した団体である。ソビエト連邦の崩壊後、スターリン時代の犠牲、政治的抑圧や人権侵害の情報を体系化した。収容施設にいる政治犯の情報源となり、軍国主義に対抗し、人権と法の支配に基づく政治を促進する最前線に立った。チェチェン紛争の間、メモリアルはロシア軍と親ロシア軍による民間人に対する虐待と虐殺の戦争犯罪の情報を収集し検証した。2009年7月15日に、チェチェン紛争にてメモリアルの支部長、ナタリア・エステミロワ(Natalia Estemirova)は、人権活動のために射殺されて殺害された。ロシアの市民社会活動家は、長年にわたり脅迫、投獄、失踪、殺人にさらされた。2021年12月に、ロシア当局はメモリアルを強制的に清算し、永久閉鎖を決定した。メモリアルは、閉鎖も強制解散もあきらめるつもりはない。


自由人権センターは、ウクライナの人権と民主主義を推進する目的で、2007年にキエフに設立された。ウクライナの市民社会を強化し、ウクライナを本格的な民主国家にするよう当局に圧力をかけた。法の支配する国家に発展させるため、自由人権センターはウクライナの国際刑事裁判所加盟を積極的に提唱した。2022年2月24日にロシアのウクライナ侵攻後に、自由人権センターは、ウクライナ市民に対するロシアの戦争犯罪を特定し、記録化する取り組みに従事した。国際的協力で戦争犯罪の当事者に責任を取らせる観点から、先駆的な役割を果たした。


 ノルウェー・ノーベル委員会は、2022年のノーベル平和賞を授与することで、隣国ベラルーシ、ロシア、ウクライナの人権、民主主義、平和共存の3人の優れた擁護者を称えた。2022年の受賞者は、ヒューマニズムの価値、反軍国主義、法の原則を支持する一貫した取り組みを通じて、国家間の平和と友愛という、今日の世界が最も必要とするノーベルのビジョンを復活する栄誉を称えた。


2022年10月9日日曜日

ウクライナ軍が包囲したハルキウ州のリマンから撤退したロシア軍は、2022年10月3日にロシア軍兵士の多数の死体を放置して地面に置き去りにした。

ウクライナのリマン(Lyman)から撤退したロシア軍は、2022年10月3日にロシア軍兵士の死体を放置して地面に置き去りにした。リマンでは、少なくとも約18体のロシア軍兵士の死体がまだ地面に残存したのを目撃した。ウクライナ軍はハルキウ州の支配をめぐる激しい戦闘の後に、ウクライナ軍兵士の死体は直ちに回収したが、ロシア軍兵士の死体はすぐには運び出さなかった。ロシア軍はウクライナのハルキウ州の主要都市を急速に放棄したため、路上にもロシア軍兵士の死体が残存した。ロシア軍はウクライナのハルキウ州の主要都市を急速に放棄したため、路上にロシア軍人の死体を残した。

 10月1日に、ウクライナ軍はドネツク州の軍事拠点であるリマンで、約5000人以上のロシア軍兵士を包囲した。ウクライナ軍に降伏して投降は厳禁であるロシア軍は包囲されて、物流と輸送の拠点リマンから10月2日には完全に撤退した。ウクライナ軍はロシア軍の占領地内を奪還してリマンを解放した。ウクライナ国防省はツイッターで、リマンにいたロシア軍のほぼ全員が捕虜あるいは死亡したと書き込んだ。

 ウクライナ軍のハルキウ州の奪還と制圧した直後に、プーチン大統領は部分動員令では、最大30万人以上の予備役を召集する署名を9月21日に宣告した。部分動員令はロシア全土で抗議行動を引き起こして、予備動員対象の数万人のロシア人が国外に逃亡した。9月30日には、ロシアはウクライナの東部のドネツク州とルハンシク州と南部のザポリージャ州とヘルソン州の4州の併合条約に署名した。




2022年10月8日土曜日

1945年9月上旬に、長崎原子爆弾に被爆した少年は、長崎市興善町の新興善国民学校に設置された特設救護病院に入所していた。床に敷かれた布団に被爆した少年は横たわった。

1945年9月上旬に、長崎原子爆弾に被爆した少年が、長崎市興善町の新興善国民学校に設置された特設救護病院に入所していた。臨時救護所となった新興善国民学校の床に敷かれた布団に被爆した少年は横たわり原爆症により衰弱していた。医療関係者が参集して、終戦直後の8月10日に、新興善救護病院となった。1945年8月から10月まで、長崎原子爆弾により被爆した数千人の被爆者を収容し加療した。

 爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、救護所の病室として使用された。鉄筋コンクリート3階建て、被爆で窓ガラスが割れて、熱線が壁を焦がす被害を伴ったが、倒壊や焼失は免れた。周辺地域は、長崎原子爆弾により発生した二次火災によって、広い範囲にわたり類焼して焼失していた。強固な鉄筋コンクリート建てで、被爆直後から救護所として活用された。教室は診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。長崎原子爆弾が炸裂した翌日8月10日頃は、悲惨な救護所となり、まだ患者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、顔は男女の区別もつかず、次々に入院した被爆者は死亡した。手当てする医薬品、衛生材料もなく、港から海水を汲んできて、ドラム缶で煮沸し、寝ている患者にじょうろで散布した。

 1945年10月には、長崎市坂本町で原爆で壊滅した長崎医科大学付属病院の仮施設となり、新興善国民学校に医科大学附属医院を開設して診療を開始した。1946年5月に新興善国民学校を医科大学附属第一医院として、元佐世保海軍病院諫早分院(諫早市)を医科大学第二医院として診療開始した。1950年に新興善小学校に外来診療を設置した。1958年6月に外来診療所を坂本町の本館に復帰した。戦後の新興善小学校は、1997年に統廃合で閉校した。市民の強い要望で一部が残され、救護所が再現された。