2022年8月13日土曜日

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。長崎の原爆による甚大な被害は、特に浦上川流域にほぼ限定されて、その他の地域は丘に守られた。浦上地域には、長崎原子爆弾の炸裂から数日後には生活を維持しようとする被爆者が活動と参加していた。  

 長崎原子爆弾(通称、ファットマン)が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市内の上空で炸裂した。原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度約9,600mの上空から、広島に次いで第2号となる原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎市内に投下した。長崎市内も、一番目の爆撃目標都市の小倉と同じく雲に覆われた。スウィーニーは、すでに燃料は沖縄基地までの状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒で、トーン・シグナルが作動して、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒、はからずも爆撃手であるビーハンが、雲の切れ間から長崎市街の一部がわずかに見えて、「街が見える」と叫んだ。そこは、三菱グランド(浜口町)から三菱製鋼所、同兵器製作所(茂里町)の中間地帯だった。長崎原子爆弾の投下は目視爆撃による投下目標となった。

 長崎原子爆弾の炸裂は、目標の工業地帯からおよそ約500~600m北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。爆発点の高度は、約503m~±10mと信頼度の高い数値が推定された。炸裂と同時に空中の一点に摂氏数千万度もの火球が発生して、体積が急速に膨張した。爆発から一万分の一秒という超ミクロの瞬間に直径は約30m、温度は摂氏およそ30万度になり、火球は百分の一秒から一秒の間に直径約100m~280mに達した。火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間に外部に甚大な被害を与えた。

 特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの赤外線であった。地上物質の表面温度は、原爆の直下では約3,000~4,000度にも達したと推定された。爆発に伴って生じた物凄く強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。




2022年8月12日金曜日

南ベトナムのケサン付近の881高地で、19歳の海軍衛生兵バーノン・ワイクは、戦死した海兵隊員ロックに寄り添った。ロックの胸に左手から耳を当て心臓の鼓動の停止から死体を検死して、置き去り退避した。

1967430日に、南ベトナムのケサン付近の881(海抜881m)高地で、19歳の海軍衛生兵バーノン・ワイク(Vernon Wike)は戦死した海兵隊員に寄り添った。最初に負傷したロックの胸に左手を当てて、次いで胸に耳を当てて心臓の鼓動の停止から死体を検死した。ワイクは、死んだ直後にロックとヘルメットを置き去りにして退避した。ベトナム戦争は、おそらく歴史上最も緊密に撮影された戦争である。倒れた仲間の遺体にひざまずき困惑する海兵隊員であるワイクの写真で、フランス人の女性写真家であるキャサリン・ルロイ(Catherine Leroy)19674月に撮影した。南ベトナムと北ベトナムの国境に近いヒル881での血生臭い戦いを撮影した。2005年、ルロイがワイクに会ったとき、ベトナム戦争から帰還して、重荷を背負っていた。4回結婚して、口もきかない2人の娘がいて、1カ月325ドルの年金で細々と暮らた。58歳のワイクは、肉体的な傷はないが、極度の心的外傷後ストレス症候群に苦しみ、毎晩のように悪夢にうなされた。腕には死んだ仲間の名前の刺青がある。

 ワイクにとって、戦時中にリロイが撮った写真と、その呪われた記憶は、心理的なスパイラルとして絡み合っていた。1967年春の「ヒルファイト」は、海兵隊の前哨基地ケ・サーン付近で海兵隊と北ベトナム軍との間で行われた戦闘である。リロイは、補給ヘリで戦闘服に身を包み、髪に白いハンカチをかぶって戦場に到着した。爆撃された地形を通って突撃する海兵隊中隊について行き始めた。地盤がゆるんで歩きにくくなり、戦闘の音が耳障りになった。砲撃で身動きがとれなくなったとき、約4メートル先に負傷した海兵隊員を見つけた。誰かが 「衛生兵、衛生兵!」と叫んだ。もう一人の海兵隊員が負傷者に駆け寄り、心臓に耳を当てた。衛生兵のワイクは完全に苦悶の表情を浮かべた。ドーンという音がして、塹壕から頭を上げると、プエルトリコ出身のロック(Rock)がいた。ロックの体が落ち始めて、ワイクは身を投げ出した。ロックの心臓の鼓動が少しずつ消えていった。銃弾はロックの胸に当たった。先頭の突撃隊にいたワイクは、死んだ兵士であるロックのライフルを拾って、海兵隊の第二部隊の中に消えた。死んだ直後に仲間とヘルメットを置き去りにして退避した。

 1968年、テト攻勢の最中に、リロイは北ベトナム軍に捕獲された。脱出して、北ベトナム軍の戦闘の様子を撮影し、ライフ誌の表紙を飾った。ワイクさんはベトナムから体に傷はなく、悩みを抱えたまま帰国した。2003年、ズボンのポケットに入れた拳銃で誤って自分を撃った。2004年、住んでいた家が全焼した。火災後に小さなアパートに引っ越した。引越しの2日後、脳卒中で倒れ、半身不随となり、視力を失った。中西部の姉妹の家に転がり込んだ。




2022年8月11日木曜日

ハイチでは、アリスティード派民兵シメールによる見せしめの報復のために、2004年2月28日に反アリスティード派と思われる一味が殺害した血まみれの死体が、首都ポート・プランスの道端に捨てられて放置された。

2004年2月5日にハイチ解放再建革命戦線が北部の町ゴナイーヴで反乱を蜂起して、アリスティード政権と武力衝突が発生した。ハイチでは、アリスティード派民兵シメールによる民衆に見せしめの報復のために、2004年2月28日に反アリスティード派と思われる一味が殺害した血まみれの死体が、首都ポート・プランスの道端に捨てられて放置された。

 2004年に、カリブ海にて人口約800万人のハイチは、2月29日にアリスティード大統領が2月29日に2度め目の脱国をした。1990年半代に、アリスティードによって解体され追放された旧ハイチ軍兵士が2004年2月に舞い戻った。脱国後に、首都ポート・プランスでは銃声と煙が立ち上り、破壊・略奪・放火が拡大した。見せしめの報復により、両手を縛られた死体が転がって散乱した。さらに眼をくり抜き、顔の肉までそぎ取った死体を見せしめられた。総合病院の死体安置所では、腐敗して判別できない死体が山積みとなった。

 ハイチは、1492年にコロンブスによりイスパニョーラ島が発見された。1697年にフランスの植民地となった。1795年にフランス・スペイン戦争で、全島がフランス領となった。1804年に奴隷が反乱を起こしてナポレオン軍を打倒して、世界初の黒人国家として独立した。1915年から1934年は、アメリカが軍事占領した。1957年から1986年まで、デュバリエ父子による独裁国家となった。独立国家となった以後に、約33回以上ものクーデターによる政権転覆が頻発して、ハイチ市民は政争の犠牲に巻き込まれた。

 1990年に初めての民主的選挙により、アリスティードが大統領に選出された。1992年にはクーデターで国外追放されて、1994年にクリントン政権によりアメリカより生還した。ハイチの旧軍事政権を排除して、経済が崩壊して不安定となり復興が頓挫した。ギャングのようなアリスティード派の民兵部隊シメールにより、反アリスティード派を弾圧して、暴力や腐敗も拡大した。2000年に、不正選挙でアリスティード派政党のラバラスが圧勝した。反アリスティード運動も高まって、2004年2月にドミニカからハイチに侵略した旧武装勢力が、首都ポート・プランスを侵攻した。2006年2月にハイチでは、旧軍部の暫定政権が選挙で負けて、アリスティード派のルネ・プレヴァルが大統領に就任して。アリスティード自身は亡命中である。




2022年8月10日水曜日

太平洋戦争の沖縄戦が1945年4月1日から6月22日に終結して、降伏して終戦後から数年経過して、戦没者の遺骨収集版によって地中に膨大な白骨が発見された。

太平洋戦争の沖縄戦が1945年4月1日から6月22日に終結して、降伏して終戦後から数年経過して、戦没者の遺骨収集版によって地中に膨大な白骨が発見された。沖縄では、戦没者数は約18.8万人、収容された遺骨は約18万7千人、未収容の遺骨数は約0.1万人となった。2020年度までの最近5年間は、沖縄で約114柱が収容された。最近は、身元の特定のためのDNA鑑定が実施されて、検体数約12,287柱から、身元が判明して遺族に返還したのは約1,181柱であった。地域別の保管検体数は、旧ソ連が約7,096柱で最大で、沖縄は約738柱であった。

 


















 

 1952年以降に2020年度まで、厚生労働省が戦没者の遺骨収集を実施した。戦没者の総数は約240万人のうち、約128万人柱の遺骨が収集されて、約112万人柱は未収容となっている。戦後直後は、陸海軍部の復員時や引揚げ時に送還して約93万柱を収容した。第一次は、1952年から1957年までの第一次の戦没者の遺骨収集は、主要戦場となった各地を船舶で巡航して、主に戦没者の遺骨の一部から約1万2千柱を収容した。第二次は、1967年から1972年まで、戦場に多くの遺骨が放置され、開発等で遺骨が発掘され、6年計画の遺骨収集で約11万5千柱を収容した。第3次は、1973年から1975年まで、国民が遺骨収集を要望して3年計画で約10万柱を収容した。その他に、1976年から2005年まで、新たな相手国で遺骨収集を約8万6千柱を収容した。2006年以降では、民間団体等から情報収集を開始して、約3万柱を収容した。




   







     

 沖縄の遺骨収集は、発見された遺骨の状況に応じ、国と沖縄県で役割を分担して実施した。国は重機による掘削等が必要な大規模な遺骨 収集を実施した。沖縄県は国からの委託を受け、県民等からの情報により地表で発見された遺骨について収容を実施して、NPO法人などの団体や個人の遺骨収集ボランティアを活用した。沖縄の戦没者概数は約188,100人、収容遺骨数は約187,470柱、未収容遺骨の概数は約630柱であった(2020年度まで)。沖縄の遺骨収集の現状と課題は、地表で発見された遺骨の収容・情報収集は沖縄県へ委託して実施した。重機による掘削等が必要な大規模な遺骨収集は厚生労働省が実施した。アメリカ軍基地内での調査・収集はアメリカ側と協議が必要である。2011年に沖縄には「沖縄県遺骨収集情報センター」を設置して、遺骨収集に係る情報を収集する体制を構築して、国と沖縄県で連携を図り遺骨収集を進めた。

  

2022年8月9日火曜日

ドイツ軍により完全に包囲されたパルチザンは、ボスニア南東部の山岳地帯の行軍の最中に、戦闘、飢え、行進で疲弊して、若いパルチザン兵士が死亡した。

1943年5月に、約225,000人のドイツ軍とイタリア軍がチュニジアで降伏した。北アフリカ戦線が終結した後に、ギリシャやアドリア海沿岸に連合軍が侵攻する危機が急速に高まった。枢軸軍はバルカン半島のパルチザンの脅威を一掃するために、シュヴァルツ(Schwartz)攻勢、第5敵攻勢、海峡の戦いでバルカン半島を侵略した。

 枢軸国軍によるシュワルツ作戦により、1943年5月15日から6月15日にユーゴスラビアのボスニア南東部に、ドイツ軍とイタリア軍が、パルチザンに対して第5次攻撃した。パルチザンの第2ダルメシア旅団は、奇襲で不意打ちされ、包囲されて、戦闘、飢え、行進によって疲弊した。ドイツ軍により完全に包囲されたパルチザンは、山岳地帯の行軍の最中に、若いパルチザン兵士が死亡した。

 枢軸軍は、パルチザンの主力師団を、タラ峡谷とピヴァ峡谷、ドゥルミトルの山岳地帯の孤立した無人地域に、戦闘機、大砲、山岳部隊で侵攻した。パルチザンを5月15日から20日に包囲して封鎖して、パルチザン部隊を行き詰まらせた。追いつめられたパルチザンは、5月21日から6月9日に、封鎖を突破する攻撃を繰り返した。6月10日早朝に突破口が開かれて、パルチザンの疲弊した師団は、6月14日に極めて狭い戦線でスジェスカ川を渡り、フォチャ西の東ボスニアに逃避した。

 パルチザンは、約1ヶ月にわたる激しい戦闘後、半数以上の兵員は脱出できたが、パルチザンの犠牲者は壊滅的であった。犠牲者数は、パルチザンは戦闘員約6,391人と枢軸軍に捕獲された民間人約2,537人が、その場で銃殺されて、合計約8,928人が殺害された。ドイツ軍は死者約583人、戦傷者約425人、、行方不明者数不明である。イタリア軍は不明である(比較的少ない)、ブルガリア軍は不明(非常に少ない)、クロアチア軍は不明で、ドイツ軍の約4分の1相当が損失した。




2022年8月8日月曜日

太平洋戦争のガタルカナル島の戦いで、アメリカ軍兵士が1942年8月頃に日本軍兵士が戦死した死体の戦場を撮影して、日本軍の青葉支隊の第2師団が戦死した死体の写真と推定された。

太平洋戦争のガタルカナル島の戦いで、アメリカ軍兵士が1942年8月頃に日本軍兵士が戦死した死体の戦場を撮影した。その詳細は判然としないが、写真はガダルカナルの戦いに参戦したアメリカ軍兵士が、戦後に日本の仙台市を訪れた際に、仙台市の写真館がネガから焼き付けて保持していた。アメリカ軍兵士から入手した日本軍の青葉支隊の第2師団が戦死した死体の写真と推定された。アメリカ軍兵士個人が撮影しただけに、生々しい戦場の血なまぐさい臨場感を伴った。日本軍の青葉支隊の2師団の日本軍兵士と推測するも、戦場もに断定はできず不詳である。左手の奇妙な筒状の物体は、アメリカ軍側が使用した土木機材あるいは大砲を固定する台坐と推察された。撮影の地点は、ツラギ、タイボ岬、アメリカ軍が上陸地のレッドビーチの3個所の地域の中で、タイボ岬の可能性が高いと推定された。

 アメリカ軍は8月7日にガダルカナル島に上陸した。日本軍は、先遣隊を派遣して一木支隊が8月19日にタンボ岬に上陸した。アメリカ軍は、8月20日にルンガ地区イル川を渡河する一木隊を通信を傍受して待ち構えて猛攻撃をした。夜襲白兵戦をする一木支隊主力約916人は、重火器なしで突撃した。飛行場の東北のイル川を渡河時に、アメリカ軍は照明弾を打ち上げ、明るく照明して、機関銃の十字砲火を浴びせ、日本軍に多数の戦死者を出した。

 8月21日午後にアメリカ軍は、軽戦車約5両で一木支隊を背後から砲撃し、上空からグラマン戦闘機が空襲した。日本軍はイル川とテナル川の間の海岸線に追い詰められ壊滅した。アメリカ軍が近づくと、数十人の日本軍兵士は自爆死した。8月21日に包囲された一木隊は掃討されて全滅した。8月25日までに生存してタイボ岬に帰還したのは約126人のみで、約777人が戦死した。アメリカ軍は、戦死者は約40人であった。日本軍は1942年8月31日に、岡連隊の第3連隊と青葉支隊の一部が、ガダルカナル島のタイボ岬に上陸した。輸送船を含むアメリカ艦船が、タイボ岬に接近した。アメリカ軍が上陸するために、多数の艦砲射撃でタイボ岬を襲撃した。




2022年8月7日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、マリウポリのウクライナ市民は十数人の死体を郊外の集団墓地に、効率的に無情に投入して埋葬した。

ロシア・ウクライナ戦争が2022年2月24日に勃発して、ウクライナの南部の湾口都市のマウリポリ(Mariupol)はロシア軍による無差別の集中砲撃を受けて多数犠牲者が発生した。3月9日に、民間ウクライナ市民は十数人の死体をマリウポリ郊外の集団墓地に、効率的に無情に投入して埋葬した。溢れかえる死体安置所、新たに掘られた集団墓地、瓦礫の下に埋められ、倒れて放置された死体が散乱していた。ロシア軍による激しい砲撃の危険性のために、地域の人々が伝統的な葬儀が困難となった。安置所に死体があふれ、家屋に回収されない死体が増えて、当局は個別から集団の埋葬に切り替えた。マウリポリの中心部にある古い墓地に、約25mに掘られた深い溝が、当局のの職員が、死体安置所や個人宅から集めた遺体で満杯になった。

 カーペットやビニール袋に包まれた死体が運搬された。3月8日には約40死体、3月9日には約30体が集団埋葬された。3月8日に墓地自体に砲弾が着弾し、埋葬が中断され、壁が破損した。その中には、マリウポリ市街地への砲撃の犠牲となった市民や兵士、病気や傷病で死亡した市民も含まれた。その他の市職員も死体を運搬するので、埋葬される人数は短期間で増悪して、長い集団墓地の中の死体の総数が不詳となった。死体を共同墓地に押し込んで埋葬後に、素早く十字架のお祈りサインをするのは作業員たちで、遺族や弔問客はいない。

 集団墓地の門の前で、ある娘が自分の母親をこの塹壕に埋められた。娘はその3日前に死体を安置所の外に置き、名前を書いた紙のラベルを貼り付けた。作業員は娘に、母親は集団墓地に埋葬されていると告げた。市街戦は、砲撃と戦火に巻き込まれた市民に最も大きな犠牲を強いる。ロシア軍による市街戦は、特に残酷であることが証明された。5月17日にアゾフスターリ製鉄所の地下壕で徹底抗戦したアゾフ連隊が投降して陥落して、ロシア軍は5月20日にマウリポリを完全制圧を公表した。











Warning: Dead bodies are put into a mass grave on the outskirts of Mariupol, Ukraine, Wednesday, March 9, 2022 as people cannot bury their dead because of the heavy shelling by Russian forces. (AP Photo/Evgeniy Maloletka)

2022年8月6日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約800m北方の地上の生物は全て焼失したが、地下の微生物や草木の根は生存して、原子爆弾が炸裂して1945年10月末に生物不毛の地に、カンナは新しい生命の芽を出して再び新しい花を咲かせた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾が炸裂した爆心地から約800m北方にある日本軍の歩兵第一補充隊(旧二部隊)の焼跡には、強烈な熱閃光を浴びた。炸裂した直後は、爆心地から約800m北方の被爆地の地上の生物は全て焼失したが、地下の微生物や地中の草木の根は生存していた。被爆しして、約2ケ月過ぎの1945年10月末頃に、灼熱の夏から涼しい秋を迎えた頃に、カンナから再び新しい生命の芽を出して、美しい花を咲かせた。カンナの手前において、日本軍兵士が所持していたと思われるアルミニューム製の食器が、広島原子爆弾の強烈な熱閃光で、重なったまま溶解していた。1945年8月6日に広島原子爆弾が炸裂して、被爆後は長期間にわたり広島市内は生物不毛の地と示唆された焦土の中で、被爆者たちは、美しいカンナの花を見詰めて、戦後に生き残れる希望を抱いた。(昭和20年10月末、松本栄一撮影)

【広島市、広島原爆戦災誌、第一巻、序、1971年8月6日刊行 : 被爆関係の写真は、その歴史的記録を尊重し、それぞれ撮影者、撮影年月日、撮影場所を明記するようにつとめた。ただし、一部には不明のものもある。】

  広島市は、原子爆弾の炸裂に伴う惨禍を、多くの被爆者体験の証言や各種の調査士利用など、つぶさに集大成して、『広島原爆戦災史』を公刊し、二十数万に及ぶ犠牲者の冥福を祈ると共に、平和を祈念する永遠の献花とする次第である。

広島市長 山田 節男  昭和四十六年八月六日



2022年8月5日金曜日

太平洋戦争のサイパン島の戦いにて、1944年6月28日にアメリカ軍の砲撃で吹き飛ばされ殺害された日本軍兵士の死体が、サイパン島のタポチョ山に散乱した。

太平洋戦争のサイパン島の戦い(1944年6月15日から7月9日)にて、6月28日にアメリカ軍の砲撃で殺害された日本軍兵士の死体がサイパン島のタポチョ山に散乱した。アメリカ軍に突撃した日本軍兵士の全員が、最終的には砲撃で吹き飛ばされ死亡した。アメリカ軍兵士は、サイパン島のジャグルの中にいる日本軍の狙撃兵を掃討した。アメリカ軍兵士は、日本軍兵士の死体の山の隣にある戦闘で崩壊したジャングルの空き地に集散した。

 アメリカ軍は6月22日から、サイパン島の最高峰であるタポチョ山を攻略して侵攻した。タポチョ山に連なる高地群は、地形を巧みに活用した陣地の日本軍と、最も激しい戦いとなった。日本軍が陣地で迎え撃ち頑強な抵抗をして、アメリカ軍の侵攻は難攻した。多数の死傷者が続出したアメリカ軍は、タポチョ山領域の峡谷を、死の谷、パープルハート勲章、地獄谷と悪称した。

 日本軍は、山腹にある洞穴から重迫撃砲や重機関銃で攻撃した。下方のアメリカ軍は洞穴を戦車砲で攻撃するのは困難となり、手榴弾や銃剣や激しい白兵戦が展開された。側面から日本軍の攻撃を受けて、アメリカ軍の6月23日の総攻撃は失敗した。6月24日にも死の谷に向けて侵攻するも、峡谷からの日本軍の激しい砲撃で撃破されて、撤退を余儀なくされ、多数の死傷者を伴って、侵攻地点に引き戻った。サイパン島に、6月15日に上陸したアメリカ軍は以来約2週間に及ぶ激戦で、戦死者数は圧倒的に日本軍が多かったが、アメリカ軍にも数千人単位で戦死者が出て、埋葬が間にあわず、死体袋が砂浜にうず高く積み上げられる状態となり、途中から海軍の艦艇に積んで沖合で水葬にした。

 日本軍は、タポチョ山でアメリカ軍の侵攻を足止めした6月24日に、大本営の方針はサイパン放棄で、増援は拒否と返電された。戦傷者やマラリアに感染者など、絶望的な戦況となった。アメリカ軍は、6月25日にはタポチョ山の山頂に到達して、6月26日まで争奪戦を繰り広げた。激しい白兵戦後に6月26日中には山頂はアメリカ軍の支配下となり、日本軍は夜襲も撃退された。6月27日にはタポチョ山はほぼアメリカ軍に制圧された。少なくなった戦力で日本軍の抵抗は続けて、まだバンザイ突撃は少なく、多数のアメリカ軍を戦死傷される遅滞作戦で戦った。6月30日にはタポチョ山一帯の日本軍は掃討されて、残存部隊はガラパン方面に撤退した。タポチョ山の戦いで、アメリカ軍の死傷者は約3,987名にも上った。サイパン島の戦いで全滅して日本軍は約3万人が戦死して、民間人は約1万人が戦死して、アメリカ軍は約3,551人が戦士した。




2022年8月4日木曜日

ナチス・ドイツ軍からフランス解放後に、親ナチス・ドイツ軍の民兵組織に所属した6人のフランス人の若者が、1944年9月2日にグルノーブルにて公開処刑で銃殺された。

ナチス・ドイツ軍に占領されたフランスは、1944年8月25日にパリが解放された。1944年9月2日にフランス解放後に、親ナチス・ドイツ軍の民兵組織に所属した6人のフランス人の若者が、8月22日に解放されたグルノーブルで銃殺された。6人の死刑囚の処刑を見逃すまいと、群衆は一斉に集まった。フランス人の若者を、無名の裏切り者として死刑が執行された。ナチス・ドイツ軍の占領期の闘争とは無関係のない粛清も執行された。フランス人民兵やフランス地下組織のゲリラ戦士(maquisard)が最後の戦いを繰り広げた。1944年10月2日に、アメリカの週刊誌ライフは、フランス解放の記事に若者の粛清を掲載して、国際世論に衝撃を与えた。

 イゼールのユリアージュ訓練学校出身の6人の若いフランス人民兵は、1944年9月2日にグルノーブル軍法会議で死刑を宣告されて、同日に銃殺された。逮捕、有罪判決、死刑執行、若年の死刑囚、若者に対する重大な罪状がない状況から、特に注目された。1944年の夏以降に、フランス人民兵であった若者は、略式執行や例外的な裁判所の厳罰に暴露された。

 6人のフランス人の若者は、親ナチス・ドイツ軍のダルナンが組織した民兵組織に所属した。ジョセフ・ダルナン(Joseph Darnand)は、第二次世界大戦中のフランスでナチス・ドイツ軍への協力者となった。第二次世界大戦初期にフランス軍の兵士として活躍して、ヴィシー政権の準軍事警察組織であるフランス民兵(Milice)を組織して指導者となった。ダルナンはもナチス親衛隊SSの将校として活躍した。暗殺を実行し、レジスタンスを追いかけ、ユダヤ人を検挙し、フランス抵抗軍のゲリラ戦闘員を無差別に虐待と虐殺した。戦後は国家反逆罪でイタリアで検挙されて、1945年10月10日にシャティヨン要塞にて銃殺で死刑が執行された。




2022年8月3日水曜日

アメリカ軍医師団は、沖縄戦終結直後の1945年7月10日に稀少な医療資料のため、愛楽園の日本人職員にハンセン病患者の死体を病理解剖をさせ、病理資料をアメリカ医科大学に送付した。

沖縄戦において、1945年4月23日に、アメリカ軍は運天港から上陸して、沖縄愛楽園のハンセン病療養施設を占領下に置いた。アメリカ軍医師団は、沖縄戦終結直後の1945年7月10日に稀少な医療資料として、愛楽園の日本人職員にハンセン病患者の死体を病理解剖をさせて、病理資料をアメリカ医科大学に送付した。7月の炎天下のもとで愛楽園が空爆された瓦礫下の野外で病理解剖を行った。ハンセン病患者の死体を、爆撃で破壊された解剖棟に唯一残った解剖台で病理解剖した。

 沖縄県名護市の屋我地島北部済井出地区のハンセン病療養所である沖縄愛楽園は、国の隔離政策により、1938年に設置された。ハンセン病患者は、強制的に隔離されて、強制堕胎や強制断種が処置された。那覇市から北に約60kmの施設も、戦時中はアメリカ軍の攻撃対象になった。特に、1944年10月10日のべ1000機のアメリカ軍機が沖縄本島各地を空襲した。その一部は愛楽園を攻撃し施設の約90%が破壊された。愛楽園の病棟が日本軍の兵舎に間違われ、繰り返し攻撃を受けた。水タンクの破壊により、入所者約30%に治療が困難となり約289人が死亡した。日本軍により1944年5月から読谷村から、9月に各地でハンセン病患者の療養所に大規模な強制収容が執行された。日本軍は軍刀や銃剣で乱暴に脅迫して、愛楽園は定員450人から913人に強制収容した。手足の麻痺しているハンセン病患者に、空襲に対する壕堀りを強制労働させた。

 沖縄戦中には、日本軍は愛生園の職員と地域関係者を、密告によるスパイ容疑で暗殺や勾留された。通訳・校長・警防団長などを暗殺した。日本軍は愛楽園に対して、アメリカ軍から配給された容疑で、半分もの食料の放出を要求した。1943年には、既にアメリカで特効薬プロミンが開発されるも、終戦後の1949年になってから使用された。日本本土で、1953年に、隔離政策のらい予防法が成立した。沖縄は1972年5月15日、アメリカとの沖縄返還協定が発効して、沖縄の施政権が日本に返還された。沖縄復帰した日本にて、1996年にらい予防方が廃止された。




2022年8月2日火曜日

アメリカ南北戦争のゲティスバーグの戦いで屠殺場と呼称されたリトル・ラウンド・トップの岩丘前で、1863年7月2日交戦後に多くの地面は戦死者と負傷者でほとんど覆われた。

アメリカ南北戦争のペシンルベニア州ゲティスバーグの戦い(1863年7月1日から7月3日)の戦場のうち、リトル・ラウンド・トップの岩丘の前に位置する一角は、屠殺場(Slaughter Pen)と呼称された。1863年7月2の交戦が終わると、多くの場所の地面が戦死者と負傷者でほとんど覆われていた。4人の南軍の兵士が、近くの森林で北軍に殺害されて死亡した。その写真は、死体の一部を描いたものに過ぎず、負傷者は救護所に搬送後であった。

 北軍の第5軍団第3師団を指揮する外科医であったクロフォード将軍は、戦闘の7月2日目にバーンズ師団を支援するために、峡谷の近くに配置された。南軍の歓声が聞こえ、低地を横切って正面を見ると、北軍が混乱して退却していた。北軍の逃亡者たちがあらゆる方向に逃避して、何人かは北軍の陣地を突き抜けた。前方の平野は逃げ回る北軍の兵士で埋め尽くされた。正規の南軍師団が、北軍の左翼を越えて侵攻してきた。北軍の正面にある2つの森林の間に麦畑が広がって、石垣が森林を右から左へと横切った。南軍は集団で麦畑を渡って、前線をすべて追い払った。南軍の小隊は石垣を越えて、隊列が低地を横切って北軍の立つ岩丘に向かって侵攻した。北軍は直ちに師団全体により、南軍への突撃を命じた。北軍師団は直ちに前進して、2発の砲撃が行われた後に、北軍が2倍の速さで進撃した。北軍は低地で南軍を迎え撃ち、石垣まで後退させた。石垣の占有をめぐって短期間の戦いを、戦線の側面に集結した北軍2連隊が展開した。南軍を森林から小麦畑を越えて、向こうの尾根まで追いやった。戦線はそこで永続的に終結した。

 7月2日目午後に、北軍は前方の森林を切り開くよう命じられ、北軍はすぐに部隊に前進を命令された。北軍兵士が岩丘から姿を現すやいなや、麦畑の向こうの尾根に陣取った南軍の砲兵隊が、榴弾と水筒で攻撃を開始した。北軍の小競り合い隊が大砲を撃つと、南軍の砲兵隊は身体を起こして逃げ出した。北軍はその後に、隊列を組んで麦畑を横切り、森林を抜けて侵攻するように指令された。南軍のジョージア州兵士からなるアンダーソン将軍あるいはボーナム将軍が率いるフッド師団の旅団に出くわした。北軍は南軍の旅団を攻撃して、約260名の捕虜とジョージア州第15軍軍旗を獲得して、失われた地点をほぼすべて奪還した。約7000以上の武器、約12ポンドナポレオン砲1門とケーソン3両、手当てをされていない北軍の全負傷兵士も奪還した。





2022年8月1日月曜日

第二次上海事変にて、1937年に上海を侵攻する日本海軍特別陸戦隊は、上海の路上に散乱する中国人の死体を乗り越えて侵略した。

第二次上海事変において、1937年に上海を侵攻する日本海軍特別陸戦隊は、上海の路上に散乱する中国人の死体を乗り越えて侵略した。

 第一次上海戦終了後の1932年の停戦条件で、1937年8月9日に日本海軍特別上陸部隊の大山功中尉が、違法である上海の鴻橋空港の敷地内に入ろうとした。大山は中国の警官に発砲されて死亡した。8月10日に、日本軍側は中国軍と中国警察組織の和平工作団の上海からの撤収を要求したが、中国軍側は応じなかった。上海での緊張が高まる中で、日本は邦人保護を名目に、上海へ援軍を派遣して、8月11日に中国軍はついに上海への出兵を命令された。

 8月13日午前9時に、1万人以上の日本軍海軍陸戦隊が上海近郊に上陸して、閘北、武松、江湾地区で交戦状態となり、第二次上海事変が勃発した。その昼過ぎには、中国軍が迫撃砲で日本軍を攻撃し始めた。8月13日午後4時に、黄浦江と長江にいた日本軍の第3艦隊が艦砲射撃を開始した。8月14日に、中国軍の戦闘機が日本軍の戦艦と陣地を爆撃し始めて、中国国民党政府は自衛・抵抗の戦争宣言を出した。午後3時頃に、中国軍の反撃が始まるも、国際海域に強固な陣地を築いた日本軍は、軽武装の中国軍の反撃を圧倒した。8月15日に日本海軍の爆撃機が、長崎と台湾から渡洋爆撃した。8月15日に、国民党政権は、総動員令を出した。8月16日に、中国軍は日本軍の建物に忍び寄り、松明や手榴弾で建物に放火した。日本軍が建物から逃避すると、中国軍の機関銃が日本軍兵士を射撃した。8月17日に、日本軍の軽戦車が中国軍を追い返し、中国軍の反撃は終結して、日本軍の戦線を突破できず多くの死傷者を出した。

 8月18日、中国軍は援軍が到着し、恵山の埠頭を攻撃して戦車の援護を受け、日本軍を撃退した。しかし中国軍は戦車と歩兵の連携不足により、日本軍により再び埠頭を失った。中国軍の攻撃は敗退に終わり、約90人の中国軍将校と1,000人以上の中国軍兵士を失った。8月22日に、日本軍は上海を援護して、上海の北東50kmの荘子口、石林、宝山へ上陸した。中国軍は上陸を妨害できずに、一部は上海から撤退した。8月23日に、日本軍は、柳河、武松、荘内口に再び大規模な上陸作戦を展開した。中国軍は日本軍の新たな上陸に対抗するも再び失敗した。中国軍は夜間攻撃で、いくつかの村を侵攻しても、また村を失った。8月末には、中国軍の残党は包囲された宝山の防衛で全滅し、生き残った中国軍兵士は一人だけであった。10月26日に上海近郊の中国軍の大場鎮が陥落して、11月9日に上海を焦土しながら、南京への全面撤退に入った。最終的に中国軍は限定的な交戦にとどめて、より有利な条件で戦える内陸部での対決に転換した。




2022年7月31日日曜日

ロシア軍の2022年7月14日にミサイルに殺害された4歳の少女ライザ・ドミトリエワが、ウクライナのヴィニツィアで7月17日に埋葬されて、父親は身内に支えられた。

ロシア軍の2022年7月14日のミサイル攻撃で殺害された4歳の少女ライザ・ドミトリエワ(Liza Dmytrieva)が、ウクライナのヴィニツィア(Vinnytsia)で7月17日に埋葬された。親族や友人たちが葬儀に参列した。ロシア軍のミサイル攻撃で7月14日に死亡した4歳の少女ライザは、白い花冠をかぶり美しく穏やかに埋葬された。ウクライナ正教会の司祭が、泣いている親族に悪は勝てないと告げた。ダウン症で知的障害児のライザは、母親と一緒に特別支援学校に行く途中で、ロシア軍のミサイルが、戦闘の前線から遠く離れたヴィニツィア市を襲った。ライザと7歳と8歳の男の子を含む少なくとも24人が死亡して、ライザの母親を含む200人以上が負傷した。ロシア・ウクライナ戦争が2月24日に勃発した時、家族は首都キエフを離れて、南西に約270Km離れたヴィニツィアに避難していた。

 見て、私の花よ!こんなにたくさんの人がライザに来たのよ、ママは美しい娘を見ることもできなかったと祖母、ラリーサ・ドミトリーシナは、ライザが花やテディベアと一緒に、開いた棺に横たわったまま、ヴィニツィアの18世紀大聖堂で愛撫して慟哭した。ライザの父アルテム・ドミトリエフさんは、涙を流しながら黙って立っていた。ライザの母親の33歳のイリーナ・ドミトリエヴァは、重篤な状態で、病院の集中治療室に入ったままだった。ライザが日曜日に埋葬されることを、家族は母親に病態に影響恐れて伝えなかった。母親は、ダウン症の子供が充実した人生を願っていた。家族は、娘ライザがベビーカーを押すためにハンドルに力を入れ、デニムのジャケットと白いパンツを着て、バレッタで飾った髪でヴィニツィアを楽しそうに歩いた動画を死亡の直前に投稿していた。7月14日にロシア軍のミサイル攻撃後に、ウクライナの救急隊は、ジュビリー百貨店の焼け跡の芝生には、彼女の生気のない死体の血で染まったベビーカーが散在した。棺の両側にはライザの近親者が座り、さらに多くの人がヴィニツィア正教会の大聖堂に詰めかけた。その後、風が吹き抜ける墓地で、親族や友人たちが灰色の空の下でライザに別れを告げた。 

 同じミサイル攻撃では、2人の少年も犠牲になった。マクシム・ジャリイ君(7歳)は母親のビクトリアさんと一緒に亡くなった。殺害された母親とジュビリーセンターの1階にある診療所で診察を受けていた。死亡した7歳の男の子も、7月17日に、母親とともにビニツィア近郊の村に埋葬された。同じミサイル攻撃で死亡した8歳の男の子の名前は公表されなかった。近くに停車した車の中で叔父を待って、猛烈な火災に巻き込まれて死亡した。爆心地には、焼け落ちた多くの車の骨格が散乱した。同じミサイル攻撃で殺害されたもう一人の少年は、7月18日にヴィニツィアで埋葬された。




2022年7月30日土曜日

長崎原子爆弾の翌日8月10日朝に、爆心地から南南東約1.4kmの長崎市銭座町では、警防団の救援隊がかけつけ被爆者に配給をした。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて長崎市内で炸裂した。翌日の8月10日の朝になって、爆心地から南南東約1.4kmの長崎市銭座町付近では、ようやく警防団の救援隊がかけつけた。炊き出しのおむすびなどを配給をし始めた。町内の警防団は、非常時の町内の炊き出しのため窯を作りに使役に出て働ていた。その他に、警防団は、がれきの中から死体を運び出す作業に追われた。8月9日夕方近くから近郊の大村海軍病院などの救護隊が、夜になって県下の町村ごとの警防団を主力に組織された救援隊が長崎市内に入った。長崎周辺の警防団員が集められて長崎市内に救援に参集した。被爆者は警防団の人たちに手を貸りて、救護所に運び込まれた。長崎市内まで作業に行った警防団には、早くに原爆症で死亡者も出た。死体の処理作業や海中や焼跡など部分的な処理作業が続けられた。

 1945年8月9日に、アメリカ軍のB-29爆撃機ボックズ・カーはプルトニウム爆縮型の原子爆弾を搭載した。ファット・マンと呼称した原子爆弾を搭載して、テニアン島を出発した。第一目標は、小倉工廠であったが、小倉上空に到着してみると地上の激しい靄と煙に覆われていた。B-29ボックスーのパイロットであったチャールズ・スウィーニーは、第二目標である長崎の三菱魚雷工場に転換した。長崎市に住んでいた約28万6千人のうち、約7万4千人が死亡、約7万5千人が重症を負った。

 1945年8月9日、アメリカ軍は長崎に2発目の原爆を投下し、日本はついに8月15日に無条件降伏に陥った。悪天候が予想されたために、8月9日に投下される計画になった。午前1時56分、スウィーニー大佐の指揮のもと、B-29爆撃機の特別仕様機ボックスカーがテニアン島から離陸した。長崎原子爆弾は8月9日午前11時2分に、上空約500mで炸裂した。爆発は、約2万2千トンものTNT火薬の威力であった。街を囲む丘が破壊力を軽減したが、爆風と熱線で死体が消滅し記録も破滅して、約6万から8万と予測された。原子爆弾のマンハッタン計画の責任者であるレスリー・R・グローブス将軍は、8月17日か18日までにもう一つの原子爆弾を日本に対して投下して炸裂させる準備ができていたが、日本の無条件降伏で投下の必要はなくなった。