2022年6月19日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争が勃発した直後に、ウクライナの東部第2の都市であるハリコフ郊外の道路に、ロシア軍兵士と容疑された死体が破壊された戦車の側に横たっていた。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発した2022年2月24日に、ウクライナの東部第2の都市であるハリコフ(ハリキウ)郊外の道路に、ロシア軍兵士と容疑された死体が破壊された戦車の側に横たっていた。その死体にはウクライナ軍の記章がなかった。ウクライナ軍との戦闘で殺害されて死亡したロシア軍兵士の死体であるとウクライナ軍は主張した。

 ロシア軍は、戦闘で死亡したロシア軍兵士の死体を回収していなかったと非難して、ウクライナ軍の防衛戦線には、侵略したロシア軍兵士の死体が、多数の死体が放置されて残存しているとロシア国民に対してメッセージを送った。ロシア軍が2月24日にウクライナに侵攻を開始して以来、3月19日までに戦闘で殺害されて死亡した約1万4000人のロシア人の画像を公開した。約1万4000人のロシア軍兵士の死体は、約1万4000人の母親、約1万4000人の父親、妻、子供、親戚、友人のものだとウクライナは主張して、ロシア国民に対して、近年、軍人の親族を失ったことに気づくように説得した。3月19日同日に、ウクライナ軍が、約562人のロシア軍兵士を捕虜に捕らえ、数人は自発的に武器を捨てて投降したと公表した。北大西洋条約機構(NATO)も、ウクライナでは約7000〜約1万5000人のロシア軍兵士が殺害されて戦士したと推定した。アメリカ国防省は、NATOの推定値に同意せず、最大で約7000人のロシア軍兵士が殺害されて死亡したと推定した。ロシア国防省は、2月27日に初めてロシア軍の兵士が死傷したを認めたが、具体的な数字は示唆しなかった。

 ロシア軍は2月24日から突如に北、南、東からウクライナに侵攻して、爆撃音が響く中で、多くのウクライナ人は避難を余儀なくされた。ロシア軍によるミサイルと砲撃がウクライナの各都市に降り注いで炸裂して、ウクライナ市民は地下鉄に避難して、約10万人が地下で一時的に避難生活を送った。プーチンはテレビ演説で、ウクライナ東部のドネツク共和国とルガンスク共和国を守るための攻撃と正当化した。クレムリンは先に、プーチンが2月21日に独立を承認した後に、2つの分離主義地域の指導者がキエフに対する軍事的支援をモスクワに要請した。分離主義者とウクライナ政府軍との間の紛争は2014年のクリミア併合以来長引き、両軍で既に約14,000人以上が殺害されて死亡した。











Warning: The body of a soldier, without insignia, who the Ukrainian military claim is a Russian army serviceman killed in fighting, lies on a road outside the city of Kharkiv, Ukraine, February 24, 2022 (REUTERS/Maksim Levin)


2022年6月18日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約3.7kmの広島市古田町高須の白壁に、高い放射能と泥成分を含む大粒の黒い雨の水滴が流れた跡が残存した。

広島原子爆弾の爆心地から約3.7kmの古田町高須の白壁に、黒い雨の水滴が流れた跡が残った。1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂して、午前9時から午後4時にわたり、高い放射能を含む黒い雨の降雨を伴った。大粒の大雨が、約1時間から2時間ほど、泥成分を含んだ黒い雨が降雨した。黒い雨を浴びた被爆者は、第二次放射能障害を発症して、黒い雨が流れ込む川や池では、死んだ魚が白い腹を上にして、飲水した牛などは下痢等の原爆症を伴った。 

 原子爆弾の炸裂後に、巨大なきのこ雲が広島上空にたちのぼり、20~30分後から西向きの風にのって形をくずしながら北西部に流れた。その下の地域に黒い雨が降った。雨の中には、爆発のときにまきあげられた泥どろやチリ、火事のススなどのほかに放射性物質が含まれた。爆心地から遠く離れた地域の被爆者の中にも放射線障害が出現した。

 広島原子爆弾の影響による黒い雨は、降雨は爆撃の閃光後約20分から~1時間後に降り始めた黒い雨が多かったと日本学術会議調査団は報告した。その中には火災により発生した収斂性上昇気流に起因して黒い雨が、約2時間後に降り始めた地区もあった。黒い雨は、原子爆弾の炸裂による直接的な上昇気流による黒い雨と、原子爆弾の炸裂から起こった火災による間接的な作用に基く上昇気流が重なった。黒い雨の性状は非常に特殊で、最初は黒い泥分が多く粘り気を伴った。黒い雨は約1から2時間継続して、次第に黒色が薄れて遂に普通の白い雨となった。原子爆弾の炸裂直後から、黒い雨が降雨した土壌から、放射性物資が検出された。

 広島原爆戦災誌に、黒い雨が次のように記録された。「被爆当日は、終日、巨大な塔状の積乱雲が発達した。その黒雲は、爆発後約20分ないし約30分から、つぎつぎと北北西方へ移動していき、午前9時から午後4時ごろの間にわたって「黒い雨現象」を起した。驟雨(にわか雨)は、市中心部では軽く、西部(己斐・高須方面)と北部(可部方面)では土砂降りの豪雨となった。」

 広島原子爆弾により広島周辺に発生した激しい火災は、大量の灰を大気中に運んだ。灰は雲に種をまく効果があり、炸裂から約1から2時間後に黒い雨が降った。黒い雨には、灰、放射性降下物、水が混在して、ほとんどタール状の粘性をもった。黒い雨を素肌に受けた被爆者には、重度の放射線火傷が発生した。爆心地から遠く離れても、黒い雨の放射能被害を受けた建物の壁の一部である。雨は破損した屋根を通り抜けて、壁を伝い、漆喰のような黒い跡を残した(ORAU: Museum of Radiation and Radioactivit)。

 黒い雨は、原子爆弾の炸裂で、核分裂を伴うウランやプルトニウムの核分裂粒子から約200種類の放射性同位元素が発生した。原子爆弾の中性子により、大気中に大量に放出された。大量の放射性物質と暴風雨による熱と熱流が混在して、原子爆弾の炸裂後約30から40分で黒い雨の降雨に見舞われた。放射性降下物の粒子は、都市全体の火災から生じた炭素残渣と混在して、有害な黒い雨が降雨した。黒い雨は、粘り気があり、黒く、危険な放射能を含んだ水として地上に降り注いだ。皮膚や衣服、建物を汚しただけでなく、呼吸や汚染された食物・水の摂取によって摂取し、放射線障害を引き起こした。




2022年6月17日金曜日

オランダ軍により、征服されたインドネシアのアチェ・アラス地方のリカット村には、多数の虐殺されたアチェ人の死体が散乱した。

1904年に、オランダ軍のファン・ダーレン(Van Daalen)司令官が、アチェ地域のアラス地方を征服した。オランダ軍により、征服されたアチェ・アラス地方のリカット村には、多数の虐殺されたインドネシアのアチェ人の死体が散乱した。穀物倉と家の間に子供や女性の遺体が横たわった。ファン・ダーレンは、アチェ地方を征服するために、各地で残酷な虐殺を繰り返した。オランダ軍は、インドネシアを分断して、ジャワ人原住民を傭兵にして、アチェ地方を侵略した。1904年に、ファン・ダーレンはマレカウッセ旅団の増援を受けて、タノガヨ地域とアラス地域での紛争の打破を命じられた。その征服の遠征は、1904年2月8日に始まり、7月23日まで続いた。虐殺の犠牲者の数は、約2,992人で、その内訳は男性1,773人、女性1,149人であった。オランダ軍兵士の損失は約26人であり、ファン・ダーレンは昇進した。ファン・ダーレンは、反原住民的な占領、思慮も無く、先住民の拷問、密告者の殺害、政府と法律の違反など権力の乱用を繰り返した。

 オランダ人が、1596年に初めてコルネリス・ドゥ・ホウトマンの船舶が、インドネシアのバンテンに入国した。1602年から1799年に乱脈経営で倒産するまで、オランダの東インド会社が、インドネシアの植民地経営をした。その後に、オランダ政府が直接に、インドネシアを植民地化した。インドネシアの土着の支配勢力であったスマトラ最北端のアチェ戦争など、激烈な紛争が勃発した。オランダは、1900年代の初頭に欧米の近代兵器を駆使して、東チモールを除いたほぼインドネシア全域を征服した。

 1858年にオランダ軍が、インドネシアのシアック王国を保護領にして、中部スマトラから北部スマトラ地域を占領した。スマトラ北端のアチェ(Aceh)との対立が激化して、1873年に紛争が勃発した。長期間にわたる紛争が継続したが、1912年にアチェの全域が、オランダ軍に征服された。



2022年6月16日木曜日

日本軍の爆撃機に襲撃され死亡したオーストラリア軍兵士の死体は、担架に乗せられ埋葬されるのを待ってラエの浜辺に横たわった。

太平洋戦争にて、1943年9月4日にニューギニアのラエの海岸に上陸舟艇に乗り込んだオーストラリア軍兵士は、日本軍の爆撃機に襲撃されて死亡した。オーストラリア軍兵士の死体は、担架に乗せられて埋葬されるのを待って浜辺に横たわった。彼は数少ない致命的な戦死者の一人であった。日本軍戦闘機から投下されて炎上させた爆弾の爆発で、オーストラリア軍兵士は即死した。

 歩兵上陸舟艇(LCI339: 歩兵上陸用舟艇,Lading Craft Infantry)はニューギニアの海岸から約137mほど離れた場所に錨を下ろした。その右舷から接近した日本軍の爆撃機3機とゼロ戦闘機3機から不意に襲撃された。舟艇から攻撃を命じられたが、日本軍の戦闘機は同時に連続射撃した。LCI339は、艦首から艦尾まで穴だらけに射撃されて、乗り込んだオーストラリア軍兵員に大きな犠牲を受けた。日本軍の爆撃機が高度約457mから爆弾を放出して、左右に接近しながら爆弾は操舵室の前方に直撃して、甲板に大きな穴をあけた。LCI339は沈没状態になりながらも、海岸にたどり着いて歩兵上陸任務を遂行して、数日後に撃沈された。

 オーストラリア軍は9月4日、ニューギニアのラエの東海岸に上陸して、水陸両用上陸して、すぐさま浜辺を固めて、ラエへ進撃を開始した。ナザブ滑走路は9月5日に、アメリカ軍の空挺部隊が着陸して占領した。9月7日にオーストラリア軍を運ぶ最初の輸送船を受け入れた。ラエへの上陸進攻は9月11日に開始された。ラエへの挟撃は急速に侵攻して進み、オーストラリア豪によるラエへの競合して侵攻して、9月16日にラエに占領した。この作戦で日本軍約1,500人が死亡、2000人が捕虜となった。オーストラリア軍が進撃したが、約6,500人近くの日本軍兵士が脱出できた。オーストラリア軍は、約158人、ポートモレスビーでの航空機事故で約59人の死傷者を出した。ラエは占領後、連合国によって主要な基地として開発された。英連邦戦没者墓地には約2,359人のオーストラリア軍兵士が埋葬されて、約348人が行方不明者慰霊碑に祀られた。




2022年6月15日水曜日

ソビエト連邦のスターリン時代に、国家反逆者と判定された家族から子供たちは引き離されて、教育省の児童養護施設の収容所に収容された。

スターリン時代である1930年代の児童養護施設に収容された子供たちの写真である。スターリン時代に、子どもたちは国家反逆者と判定され家族から引き離されて、教育省の収容所に収容された。子どもの親たちは、ソビエト政権の敵とみなされ、逮捕、処刑、収容所に送りにされた。何百万人もの子供たちが親や家、兄弟姉妹の人間関係を失った。スターリン時代の孤児たちの親は祖国の裏切り者とされた。教師は、孤児たちに彼等の親が死のうが生きようが、子どもたちを糾弾した。スターリンの権力の座についた時代は、何百万から何千万人もの市民の虐待と虐殺の犠牲が頻発した時代であった。1917年からスターリンの死(1953年)までのソビエト連邦の最も冷酷な歴史となった。

 デイヴィッド・キング(David King)牧師が、スターリン時代のソ連の市民や孤児たちの日常生活を記録していた。革命下での市民の写真、ポスター、文書などを残した。スターリン時代の冷徹の支配は、高位の共産主義者だけでなく、収容所での数年間の生活や、共産党に対する犯罪で処刑で、市民を恐怖に陥れた。内戦に伴う飢饉、ヒトラーとの戦い、ナチスの侵攻など、犠牲を受けた人々の数は、まさに天文学的な数である。

 1930年代のソ連でスターリンに弾圧された両親の子どもたちは、のけ者にされ、孤児院に送られた。その収容所(Gulag)で生まれた者は、社会的に全く権利を消失した。1937年に、内務人民委員会(NKVD)長官であるニコライ・エジョフは、祖国への反逆者の妻子を弾圧する法律に署名した。祖国への反逆者の妻を、収容所で5年から8年の刑に命じた。1歳半から15歳までの子供たちは孤児院に送られた。逮捕された裏切り者の妻である約18,000人が刑務所や収容所に送られ、約25,000人以上の子供たちが孤児院に入れられた。

 悲惨な状況に耐えた児童は、過密な孤児院での食事が非常に悪く、ゴミ捨て場で食物を得た。病死する児童も多くいたが、教育者たちは体罰を加えた。反ソ連、テロリストの感情や行動を抑制するために、収容された子供たちを注意深く監視した。ソ連社会では、弾圧された子供たちや家族に心理的な圧力をかけた。高官の子供でさえ一夜に亡き者にされ、豪華なアパートから孤児院に移された。子どもたちを親族に引き渡すには、多くのお役所仕事を切り抜ける必要があり、多くの家族は時間的に間に合わず、身内に注目や疑念が集まることを恐れた。弾圧された子供たちは、収容所や矯正施設、特別体制の孤児院に収監された。

 収容所には何万人もの弾圧された子供たちが入り、普通の生活に戻ることができず、犯罪の裏社会に入り込んだ。祖国への裏切り者の家族に対する恐怖を伴った。収容所で生まれた子どもは、すぐに母親から引き離された。多くの強制労働収容所には、特別なバラックや孤児院があり、収容所で生まれた子供と、有罪判決を受けた母親と一緒にやってきた子供が収容された。彼らの生存は、収容所の置かれた気候、刑期、そして多くの場合、最も重要なのは収容所のスタッフ、教育者、看護師の態度にかかった。貧弱な保育のために、伝染病が頻繁に発生し、死亡率も高く、数年間で約10から50パーセントに及んだ。



2022年6月14日火曜日

朝鮮戦争にて、北朝鮮の咸興で、韓国憲兵隊は、井戸に捨てた政治犯65人の死体を北朝鮮軍兵士に取り出させた。咸興近郊で、北朝鮮軍が洞窟に不法監禁して窒息死させた約300人の死体を坑道から運び出した。

朝鮮戦争にて、咸興虐殺事件は1950年10月に、咸興で起きた北朝鮮軍による集団虐殺である。1950年10月19日に、北朝鮮の咸興(Hamhûng)で、北朝鮮軍により井戸に捨てられた政治犯65人の死体を取り出した。韓国軍憲兵隊(ROK)に見張られた捕虜の北朝鮮軍兵士たちが、井戸から多数の死体を取り出した。国連軍は、北朝鮮の咸興近郊で、1950年10月16日に北朝鮮軍が民間人を大虐殺した死体を発見した。坑道から約300人の死体が運び出された。300人余りの政治犯が洞窟に不法監禁されて窒死した。北朝鮮の中東部の咸興市にて、北朝鮮軍から反動とされた多くの朝鮮人市民は防空壕に収容されて、爆発されて虐殺されていた。

 朝鮮戦争にて、北朝鮮に占領されたソウルが1950年9月28日に解放された直後から、北朝鮮の不穏な残虐行為が発覚され始めた。北方に進軍する国連軍部隊は各地で残虐行為の証拠を発見した。北朝鮮は退却する前に、監獄に収容された政治犯や軍人を急いで虐殺した。ソウルの南約56kmにある楊柳の北朝鮮軍の殺人収容所で、子供を含む700人の朝鮮民間人が虐殺された。昆山近郊の忠孝で、竹槍や棍棒で武装した北朝鮮軍兵士が村の食糧を奪った後に、約82人の男性、女性、子供を突き刺して殺害した。

 大田(Taejŏn)の大虐殺では、北朝鮮軍が機関銃で殺戮する前に、まず自分らの墓を掘らせ縛り付けて射殺した。北朝鮮兵士と地元の左翼は、何千人もの民間人を無残に虐殺した。10月3日の務安郡での虐殺事件では、死刑を選択された家族が縛られて海岸に連れて、大人がナイフ、棍棒、竹槍、農具で殺され、海に投げ込まれた。10歳以下の子どもは、深い井戸に投げ込まれた。大田刑務所の虐殺は、朝鮮戦争最大の大量殺戮の一つであり、約5~7千人の民間人と兵士が虐殺された。大田刑務所の死体は、真っ黒で、ハエがたかって、民間人が無残に虐殺された。銃で撃たれ、鈍器で頭蓋骨を割られて殺害された。井戸の中は死体でいっぱいだった。共産党員の容疑者の7人を捕まえ、死体を並べる強制労働をさせた。死体は腐敗がひどく、抱き上げると、肉がすべり落ちた。裸では服の上から抱き上げれなかった。共産党員の囚人たちは、死体を扱より殺害を求め、牢屋に戻した。大田市役所から約300~400人を動員して、死体を片付けた。大田刑務所の裏山に穴を掘って埋葬した。約400から500もの死体は、大きな穴に集団で埋めた。 

 韓国の治安部隊は、捕虜を後方に護送する手間を省き虐殺した。韓国軍は一般市民を単に邪魔であり、捜索や反対尋問の手間を省き殺害した。1950年7月13日に、敵対関係の朝鮮戦争が勃発以来に、共産主義の容疑者約1200人が、韓国警察によって虐殺されたと報告された。朝鮮戦争初期には、北朝鮮も韓国も残虐行為を隠さなかった。残虐行為は、すべて北朝鮮軍の仕業でなかった。戦争法や戦争犯罪裁判は、一般的に適用され、すべての側に適用されてこそ、真の意味で法となり得る。アメリカ軍は当初から、何千人もの朝鮮人難民を対処するジレンマに直面した。北朝鮮軍兵士は、白木綿の農民服で変装し、難民に紛れ込んだ。アメリカ軍は何度も、田を耕す無邪気な髭面の朝鮮人農民を通り過ぎたが、夜明けの攻撃で手榴弾を投げる同じ朝鮮人に直面した。7月末に、敵対行為をした民間人を処刑すると韓国政府は発表した。北朝鮮軍は難民を利用して、7月26日に難民を南に強制的に追いやり、道を詰まらせたと宣告した。















 

2022年6月13日月曜日

南京郊外にて、近くを歩いた物売りが怪しいと、日本軍兵士が部隊の裏手へ強制連行した。直後に一発の銃声が聞こえ、現場では中国人農民が射され死体が横倒しとなった。

日中戦争から南京事件が1937年12月に勃発した。南京郊外にて、その近くを歩いていた物売りが怪しいと、日本軍兵士が、部隊の裏手へ強制連行した。その直後にズドンと一発の銃声が聞こえた。現場に行ってみると中国人農民が射されて、死体が横倒しとなった。南京郊外で罪のない中国人の農民が撃ち殺された。日中戦争の戦場の狂気が、人間を野獣にかえてしまう。 

 非公式の写真班であった村瀬守保は1937年7月に日本軍に召集された。輜重兵として天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国大陸を約2年半にわたり転戦した。カメラ2台を持って、関東軍の中隊全員の写真を撮影した。非公式の写真班として認知され約3,000枚の写真を撮影した。日中戦争下の日本軍兵士を、克明な写真記録は戦争の実態を百聞は一見にしかず伝達した。一方で、その写真集には南京虐殺の現場や慰安所など、侵略の真実も撮影された。村瀬守保『新版 私の従軍中国戦線一兵士が写した戦場の記録』日本機関紙センター, 1987年3月10日出版で戦争写真を公表した。文字や絵だけより、写真は確かな戦争の証拠であり、戦争写真の意義は大きい。

  南京事件は、中国人に対する集団虐殺が勃発した。満州事変以来、日本軍の中国における軍事行動には、尊厳や生命の保護とはかけ離れ中国人を蔑視した。日本軍が戦闘後に捕えた中国人兵士等は、国際法上の捕虜ではなく、反乱集団として組織的に虐殺した。包囲殲滅戦となった南京では、大部分の中国人兵士は士気を消失して敗走し、多くは投降兵・敗残兵・便衣兵(普段衣を着た兵士)の捕虜として捕えられて殺害された。捕虜として収容する前の戦闘中でも、武器を捨て無抵抗者を現場で殺害することは、人道に反する行為である。

 非戦闘員である一般市民の殺害は、戦闘の巻き添えではなく、日本軍兵士の故意的な軍事行動によって犠牲になった。上海派遣日本軍は上海での激戦で多くの損害を出して、中国人に対する蔑視と敵愾心が強く、一層の蛮行を伴った。食糧は全て徴発と称した略奪、徴発などの途中で女性の強姦、摘発した日本軍兵士が殺され、報復として部落全体を焼き払い、老人・子どもを含む市民を皆殺しにした残虐行為は、日本人、中国人双方の多くの証言がある。南京事件は、軍隊が平凡で優しい人間を異常な殺人鬼に変えてしまった。日本軍は南京で無差別に殺害する日本軍兵士を容認し、兵士たちは民間人を殺すために戸別訪問した。多くの人は殺害に夢中になり、完全に殺人になり、人を殺すことに喜びを感じた。

















2022年6月12日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ドネツク州で殺害されたウクライナ軍人であった49歳のパンクラトフ・オレクサンドルの死体が、リヴィヴで葬儀が挙行された。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナのドネツク州で殺害されたウクライナ軍人であった49歳のパンクラトフ・オレクサンドルの死体が、2022年5月14日土曜日にウクライナのリヴィヴで葬儀が挙行された。彼の棺の死体の周囲で女性の親族らが慟哭した。

 ロシア・ウクライナ戦争が2月24日に勃発してから、約3カ月経過するも、終結の見えない消耗戦の様相を呈した。2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻したとき、ロシア軍は数日間から数週間のうちにウクライナを制圧すると想定した。戦争は約3カ月目に入っても、終わりが見えず、戦果も見込めず、消耗戦に陥った。ロシア軍はすぐに勝利することもなく、ウクライナの大部分を制圧できず、傀儡政権も樹立できていない。

 ロシア軍はキエフや他の大都市の郊外で、ウクライナの堅固な防衛で足止めを食らった。ロシア軍の輸送隊は輸送区間で立ち往生した。侵攻から1カ月余りで、ロシア軍は電撃作戦の転換して、キエフ近郊から軍を撤退させた。親ロシア分離派が2014年からウクライナ軍と戦闘したドンバス地域に焦点を移した。

 ロシアは2014年に併合したクリミア半島周辺の領土を大幅に奪取した。ウクライナをアゾフ海から完全に切り離して、マウリポリの巨大製鉄所に潜伏したウクライナ軍を包囲網の末に5月18日に陥落させて、重要港であるマリウポルを制圧した。ウクライナ東部での攻勢は、西側諸国の軍事資源等がウクライナの劣勢な軍隊が流入するも、同様に行き詰った。

 ロシア軍は、ドンバスのウクライナ側陣地を執拗に攻撃し、分離主義者との戦闘で築かれた防衛線を侵攻した。ウクライナ軍の抵抗に対して、その他の地域に、ロシア軍が西側の武器輸送、貯蔵所、重要なインフラを、巡航ミサイルや空爆で狙って、ウクライナの軍事力と経済力を弱体化を狙った。

 ウクライナと西側諸国の多くは、ドンバス地域に軍事資源を投入し、ロシアの5月9日の戦勝記念日に決定的な勝利を目指した。ロシア軍はウクライナ東部での大規模な侵略から、ウクライナ軍に対する包囲戦を着実に固めた。モスクワ指導部は軍司令部に、成果を強要して軍隊を送り続けた。ロシア軍の一部はドンバス地方にも再配備された。ドンバスの戦闘は、次第に砲撃戦から位置取りの戦いになり消耗戦に陥った。















Warning: Relatives react next to the body of Pankratov Oleksandr, 49, a Ukrainian military servicemen who was killed in Donetsk province, during his funeral in Liviv, Ukraine, Saturday, May 14,2022 (AP Photo/ Emilio Morenatti) 

2022年6月11日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した直後の熱線で、爆心地から約880mにある万代橋を渡っていた人と荷車の影がアスファルトに焼きついた。

広島原子爆弾の爆心地から南南東約880mにある元安川にかかる万代橋(よろずばし)が、原子爆弾から強烈な熱線を浴びた。1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した直後の猛烈な熱線の閃光を浴びて、万代橋を渡っていた人と荷車などが焼失して、その影のみがアスファルト上に焼きついた記録写真が残存した。橋床にできた影から、歩く人影が想定された。長い足の影は床面におろして、片足をあげていた人影も想定された。万代橋上には、荷車をひく影や、リヤカーの影も残存した。リヤカーを引いていた人は、元安川に転落死した証言もある。広島原爆戦災誌には「橋床上に5人の通行者の影が残っていた。被爆直後は火が出て渡れない時もあったが、損傷は少なく通行できた」と記録された。さらに万代橋の床面のアスファルトには欄干の影が焼き付いていた。その柱の影は明瞭であり、柱と柱の間の鉄棒は、一番下の段が映っているだけで、二段目のものから上はボケていた。

 熱線で焼き付けられた欄干の影で、原爆爆発点の高さが算出された。欄干が吹き抜けで、万代橋自体は倒壊せず、熱線で焼き付けられた欄干の影などから、地上から上空の原爆爆発点までの距離(約580から約600 m)が算出された。1945年10月26日に、アメリカ軍調査団は、原子爆弾の熱線の方向を橋上で再現した。長い影はモンペでもはいて歩いていた女性の影、短い影は片足をあげた瞬間の姿と想定された。大手町と加古町(旧町名:水主町)を結ぶ重要な生活道路と交通の要として架橋された万代橋は、広島県庁が主水町に所在して、県庁橋とも呼ばれた。1878年に木造橋として架橋された。1916年に、ドイツ軍技師が架け変えた。アスファルトの上には、欄干の柱と一番下の鉄棒の影がはっきりと映った。影の落ち方から原子爆弾の爆発の方向を算出した。1981年12月28日に、広島市の大手町と加古町を結ぶ万代橋の架け替え工事が終結して、新橋の開通式が挙行さた。万代橋の名前を残して、広島原子爆弾に被爆した欄干に影が焼き付いていた旧橋の姿は消滅した。




2022年6月10日金曜日

満州事変が勃発した後に、満州の荒野にて、関東軍兵士が塹壕に潜伏していた中国軍兵士を軍刀一閃して、断頭して殺害した。

満州事変が1931年9月18日に勃発して、日本軍の関東軍が、中国東北部の満州を侵略した。満州の荒野にて、関東軍兵士が塹壕に潜伏していた中国軍兵士を軍刀一閃して、断頭して殺害した。中国軍兵士の頸部から壮絶な血煙が放出して死亡した。塹壕の周辺にも、中国人の死体が散乱した。戦争中の軍刀一閃の写真は、関東軍からその撮影の出来が称賛された。読売新聞社の藤沢特派員が、軍刀一閃の瞬間を撮影した。




2022年6月9日木曜日

第一次世界大戦の戦場にて、赤十字マークを付けたドイツ軍衛生兵は、平原に散乱して放置されたドイツ軍兵士の死体を見回りながらカバーを剥ぎ取って検死した。

第一次世界大戦の戦場にて、ドイツ軍兵士が殺害されて、死体が平原に散乱した。赤十字マークを付けたドイツ軍衛生兵は、放置されたままのドイツ軍兵士の死体を見回りながら、カバーを剥ぎ取って検死した。殺害されて放置されたドイツ軍兵士は、殺害された2日前に、連合軍の敵地で、英雄として家庭雑誌に掲載されていた。軍服を装着した英雄の得意満面の笑顔が掲載された。家庭雑誌に掲載されて2日後に、戦場で殺害された後には、死後の写真は掲載されずに全く無視された。1863年10月26日に、スイスのジュネーブに14カ国の政府代表が集まり、第1回ジュネーブ会議が開催された。その結果、「戦地における軍隊の傷病者の状態の改善に関するジュネーブ条約」が採択された。この条約で、傷病兵、医療・救急隊員、病院、輸送機関、発着所の中立のシンボルとして、白地に赤の正十字を掲げることが規定された。イスラム教徒には、白地に赤のイスラム教の三日月が採用された。

 人類史上初の最新兵器戦争である第一次世界大戦は、未曽有の大量殺傷をもたらした。機動戦、塹壕戦、異なる戦線での戦闘、感染症などによる死傷者の治療にて、医療機関は圧倒的な困難に直面した。第一次世界大戦では、数百万人の兵士を擁するハイテク軍団が、史上初めて対峙して戦闘した。相互の武器は、あらゆる戦線で未曾有の大虐殺を引き起こした。協商国側は、戦死者は約553万人、戦傷者は約1,283万人、行方不明者は約412万人で、同盟国側は戦死者は約439万人、戦傷者は約839万人、行方不明者は約363万人に達した。ドイツ軍側だけでも、約200万人の兵士が死亡し、約420万人が負傷し、約2000万人以上がその他の病気に苦悩した。

 第一次世界大戦の当初の戦争は移動戦を伴って、医療部隊は戦闘に従軍した。やがて恐怖の塹壕戦となり、医療部隊は継続的な感染症に直面した。敵陣からの機銃掃射で、死体の回収や土葬も困難で、膨大の負傷兵士は無人の地で苦しみながら死亡した。医療部隊の目的は、前方の施設から早急に死傷者を排除し、患者を受け入れ、継続的に機動戦に参戦して追従されることであった。歩行が可能となると、直ちに戦線に送り返した。戦場で処置を受けた後に、負傷者だけを救護所に運んだ。不潔で壊滅的な敗血症創に繋がり、手榴弾による傷の露出、洗浄、広範なドレナージ法で対応した。

 第一次世界大戦は、世界の軍事医学に大きな影響を与えた。戦争が現代の医学知識の基礎となる劇的な進歩をもたらした。圧倒的な数の死負傷者が発生して、さまざまな階層で段階的な治療が求められ、迅速で信頼性の高い輸送システムが設置された。最も多くの負傷者に医療を施して、多くの負傷者を前線に復帰させた。北大西洋条約機構(NATO)の軍隊区分は、このシステムから派生した。患者の治療を改善する科学的評価は、第一次世界大戦中に生まれ、創傷治療の進歩が出現した。



2022年6月8日水曜日

イギリス軍の爆撃に巻き込まれ、バスラで殺害された13歳のイラク人少年の死体を埋葬した墓の上で、チャドルの服装をしたイスラム教徒の母親が、息子の死亡を嘆き慟哭した。

イラク戦争にて、イラク南部の都市バスラにてイラク軍兵士が、アメリカ軍と多国籍軍に戦闘した。イラク軍と戦闘した地域の周囲一帯に、イギリス軍が爆撃した。イギリス軍の爆撃に巻き込まれて、13歳のイラク人の子供が殺害された。殺害された少年の死体を埋葬した墓の上で、チャドルの服装をしたイスラム教徒の母親が、墓の上で息子の死亡を嘆き慟哭した。イスラム教の聖典コーランでは、「女性は、両手と顔以外の美しい部分を隠せ」と記載されている。

 イラク戦争のバスラの戦いは、2003年3月21日に勃発して、イギリス軍がバスラ市内の中心部に侵攻した4月6日に終結した。3月23日までに、バスラ市外の空き地でわずか約3日間の戦車戦の後に、バスラの周辺地域はイギリス軍に包囲された。約3週間に、バスラ郊外で待機していたイギリス軍は、約3週間後の2003年4月6日ついにバスラを占領した。イギリス軍は、バスラの人口密集地内でイラク軍と交戦した。もしイギリス軍がバスラ市外に留まれば、民間イラク人とイラク軍兵士の両方の命は救われていた。イギリス軍は、主にバスラの人口密集地から軍事目標に砲撃と空爆をして、クラスター爆弾など爆発兵器が使用された。

 イギリス軍はバスラの戦闘中に 約9,153発の最大級の155mm砲弾を発射した。高性能の砲弾でも、射程が長く、広範囲に拡散するため、人口密集地では、砲弾が目標に届かず、大きく外れて、住宅や産業地帯に着弾して、民間人を無差別に巻き添えの犠牲が発生した。バスラ市内に残存したイラク軍は、戦車や武装車両を3月27日にバスラ市外に出撃させて迫撃砲した。イラク戦争開始後約1カ月間の空襲で、約29,199発の弾薬が投下された。より大型の武器が使用されて、多くの市民の命が失われた。2003年3月20日から4月9日の間にバスラで連合軍によって、最低約448〜593人の民間人が殺害され、少なくとも約1000人のイラク人が負傷した。アメリカ軍とイギリス軍は、イラク戦争の初期に、空と地上からクラスター弾を発射した。クラスター弾には、広範囲を無差別に殺害する小型の爆薬が含まれた。2008年からクラスター爆弾禁止条約が発行された。日本は2009年・イギリスは2010年に批准して、アメリカ・ロシア・中国等は未だに批准していない。




2022年6月7日火曜日

パルク海峡で操業していた100人以上のタミル人の漁民が、シンハラ人のスリランカ海軍によって虐殺された。

スリランカ内戦が1983年7月23日から本格的に勃発した。パルク海峡で操業していたタミル人の漁民が、シンハラ人のスリランカ海軍によって虐殺された。スリランカ軍の治安部隊またはタミール人の抵抗勢力の内戦に巻き込まれて虐殺された約100人以上のタミル人漁民の死体が散乱した。1987年2月6日にスリランカ軍治安部隊は、ジャフナ半島への侵攻を開始した。約5,000人部隊がジャングルを捜索する一方で、タミル人のゲリラがインドへの侵入を防ぐため、砲艦が海岸を警備して、空爆でタミール人の居住地を破壊した。1987年までに約15万人以上のタミル人難民が、スリランカ軍の残虐行為でスリランカで発生した。スリランカ内戦はさらに流血を招き、暴力的になり、大規模な虐殺が頻発した。

 スリランカ政府は、タミル人の反乱を鎮圧するために、インドに軍事的支援を求めて、1987年7月29日の協定した。インド政府はインド平和維持軍(IPKF)を創設して、タミール人を鎮圧する軍事作戦に参戦した。インド海軍は、8月から主要なゲリラ集団であるタミル・イーラム解放の虎(LTTE)に対して、島周辺の海域を掃討した。1988年2月には、さらに約1万5千人のインド軍部隊がスリランカに派遣されて総勢約7万人となった。インドのスリランカへの平和維持軍は、大きな犠牲を伴って、タミル人の北部拠点のジャフナへの攻撃して以来に、インド軍兵士の死者は約600〜700人、負傷者は1,000人以上に上った。1988年6月にインドはIPKFの撤収を開始し、第一陣として約8,000人もの兵力が撤収した。タミル人は大幅に弱体化するも、依然として過激派であり、タミルナドゥには、ゲリラ幹部が残存した。長年にタミル人は、ゲリラを武装化した。

 スリランカ(旧セイロン)は、1948年にイギリスから独立し、仏教徒のシンハラ人とヒンドゥー教徒のタミル人の間で民族的反感が高まった。狭い島国に、約1,100万人のシンハラ人、約300万人のタミル人、約150万人のイスラム教徒が局在した。タミル人は主に北部に住み、中央部や東海岸に局在した。1983年から、両民族間で公然の衝突と暴力が勃発した。スリランカ軍は完全にシンハラ人に支配され、多くのタミル人はゲリラ集団を組織した。1990年にインド軍の撤退後も、スリランカ内戦は、停戦合意した後に6回の和平交渉が行われ、散発的なテロや政府要人暗殺が発生して、2005年に再び戦闘が激化した。スリランカ政府軍はLTTEに徐々に攻勢を強めて、北・東部のLTTE拠点を次々と奪回した。2009年5月19日に、LTTEのプラバーカラン議長が戦闘で死亡して、スリランカ政府は内戦の終結を宣言した。約26年間に及んだ内戦による死傷者は約7万人以上に達して、約28万人ものタミル人国内難民が発生した。




2022年6月6日月曜日

タラワの戦いで日本軍の木造建て便所を背景に、日本軍が殺害したアメリカ軍兵士の多数の死体が、ベティオ島の海岸に散乱した。

太平洋戦争のタラワの戦いにて、アメリカ軍は上陸日(1943年11月20日 D)と翌日(1943年11月23日 D+1)にかけて、タラワの戦いの損害の約50%を伴った。日本軍の木造建ての便所を背景にして、日本軍により殺害されたアメリカ軍兵士の多数の死体が、タラワ環礁のベティオ島の海岸に散乱した。生き残ったアメリカ軍兵士がその死体を一つ一つ検死して回った。ベティオ島は、汚く、破壊され、悪臭を放つ戦場となり、死体の残骸はきれいに整理され処理された。アメリカ軍の死体には可能な限り手を尽くしたが、日本軍の死体は放置された。

 アメリカ軍のタワラの戦いにおける最終的な死者は、死亡が兵士約997人と水兵が約30人、行方不明は約88人と推定された。負傷者は、兵士約2,233人と水兵約59人が負傷した。総死傷者数は約3,407に及び、その犠牲はタラワの戦いのアメリカ軍の犠牲者はわずか約76時間で発生した。。タラワ島の戦いの死傷者の著しい高い比率は戦闘の激しさを反映した。攻撃に参戦したアメリカ軍兵士全体の死傷者の割合は約19%にも達した。水際から丸太のバリケードの根元まで、死亡し負傷したアメリカ軍兵士で埋め尽くされた。

 タラワの戦いは、最も厳しい面積あたりの人命の損失の代償を払った。D+1の約5分間で、アメリカ軍兵士約100人が水中で銃殺された。岩礁が露出して援軍の上陸を妨げた。ベティオ島の海岸から約457mほど離れた地点で、ボートは岩礁に座礁し、アメリカ軍兵士はやむなくボートを降りて海岸に向かって歩き始めた。水中で機関銃と対艦砲火を受けて、約35%以上の死傷者を出した。海岸の右半分に到達したが、日本軍の砲火が激しく、海岸の西側に浅い足場しか構築できなかった。岩礁や岩礁と海岸の間で大混乱に陥ったアメリカ軍は散乱して、混成され、日本軍の機銃掃射を受け、周辺の樹木から狙撃を受け、深刻な統制の崩壊が起こった。アメリカ軍の細い隊列が内陸に押し寄せると、殺害されて、負傷して、アメリカ軍兵士が脱落し始めた。

 日本軍兵士は、ほとんど最後の一人まで玉砕して、約4,713人が死ぬことを選んだ。アメリカ軍の戦車に磁気地雷を設置するという自殺行為に走った。アメリカ軍が防空壕の頂上を制圧したアメリカ軍に対して、日本軍は防空壕を奪回する悲惨な反撃に出た。突撃する日本軍兵士には、火炎放射器で迎え撃って、焼死傷者を出した。防空壕から避難をした日本軍兵士は、機関銃や砲撃、小銃の射撃、手榴弾で撲滅された。塹壕の入り口を土砂で完全に覆って、日本軍兵士を生き埋めにした。日本軍の建物が炎上して、爆破され、塹壕が一掃され、陣地が制圧され地域で、約100人の日本軍兵士が自殺した。残存した約300人の日本軍兵士は11月23日午前4時に最も激しい、最終的なバンザイ攻撃をして絶滅した。




2022年6月5日日曜日

ウクライナ南部のミコライフで、ロシア軍の侵攻で殺害された17歳のセルゲイ・ダニル新兵の死体が、並列された死体安置所から埋葬のために柩に入れて移送された。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナ軍は、南部のミコライフ(Mykolaiv)でロシア軍の侵攻を防御した。2022年3月21日に、ウクライナ南部のミコライフで、ロシア軍の侵攻で殺害された17歳の弟のセルゲイ・ダニル(Sergey・Danil)新兵の死体が、死体安置所から埋葬のために柩に入れて移送された。死体安置所で兄のセルゲイは、約1カ月間のロシア・ウクライナ戦争により、家族や友人に膨大な犠牲を受けた。17歳の弟のダニルは、地元ニコライフの領土防衛隊に入隊した。18歳の誕生日を2日後に控えて、ロシア軍との銃撃戦で殺害された。兄のセルゲイは、近所の2家族と一緒に死体安置所まで、一緒に死体を引き取りに来た。「母にどうやって死んだ息子の弟を渡せばいいのか全く分からない」と嘆き悲しんだ。










Warning: The body of 17-year-old Danil is moved from the morgue in Mykolaiv, Ukraine, on March 21. (Photos by Salwan Georges/The Washington Post)


 その他の多数のウクライナ軍兵士の死体は、埋葬されるまでミコライフ市内の死体安置所の一角に並列された。死体は死体安置所の床上に列状に並べられた。ほとんどの死体は、軍服を装着して、ぐちゃぐちゃに損傷していた。手足がない死体もあった。死体を検死しても誰が死んでいるのか把握するのは困難であった。


Warning: The bodies of Ukrainian soldiers are stored in a room at the city's morgue.(Photos by Salwan Georges/The Washington Post)

 ニコライフは、ウクライナ軍が戦略的に重要な黒海の港であるオデッサへのロシア軍の攻勢を防御した戦場であった。その防御戦により、ウクライナ軍兵士の死体が積み上げられ続けた。ミコライフに対して、ロシア軍のミサイルがウクライナ軍の兵舎を襲撃して、数十人が死亡した。特にウクライナ軍新兵が、寝泊まりしている兵舎が爆撃された。ミコライフ街中の青と黄の旗は半旗に下げられた。死体安置所には、運搬車両のバンで次々に死体が運ばれてきた。一部の死体には、ピクニック用の毛布にくるめて運ばれいた。

 ロシア・ウクライナ戦争が膠着状態に陥っても、ロシア軍はウクライナの都市を爆撃、空爆し続けて、都市部は荒廃して、民間人は無差別に巻き込まれて殺害された。ウクライナ軍がロシアの攻撃者に損害を与えても、反撃を行っても、ロシア軍の都市部への無差別の爆撃は継続した。