2022年6月5日日曜日

ウクライナ南部のミコライフで、ロシア軍の侵攻で殺害された17歳のセルゲイ・ダニル新兵の死体が、並列された死体安置所から埋葬のために柩に入れて移送された。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナ軍は、南部のミコライフ(Mykolaiv)でロシア軍の侵攻を防御した。2022年3月21日に、ウクライナ南部のミコライフで、ロシア軍の侵攻で殺害された17歳の弟のセルゲイ・ダニル(Sergey・Danil)新兵の死体が、死体安置所から埋葬のために柩に入れて移送された。死体安置所で兄のセルゲイは、約1カ月間のロシア・ウクライナ戦争により、家族や友人に膨大な犠牲を受けた。17歳の弟のダニルは、地元ニコライフの領土防衛隊に入隊した。18歳の誕生日を2日後に控えて、ロシア軍との銃撃戦で殺害された。兄のセルゲイは、近所の2家族と一緒に死体安置所まで、一緒に死体を引き取りに来た。「母にどうやって死んだ息子の弟を渡せばいいのか全く分からない」と嘆き悲しんだ。










Warning: The body of 17-year-old Danil is moved from the morgue in Mykolaiv, Ukraine, on March 21. (Photos by Salwan Georges/The Washington Post)


 その他の多数のウクライナ軍兵士の死体は、埋葬されるまでミコライフ市内の死体安置所の一角に並列された。死体は死体安置所の床上に列状に並べられた。ほとんどの死体は、軍服を装着して、ぐちゃぐちゃに損傷していた。手足がない死体もあった。死体を検死しても誰が死んでいるのか把握するのは困難であった。


Warning: The bodies of Ukrainian soldiers are stored in a room at the city's morgue.(Photos by Salwan Georges/The Washington Post)

 ニコライフは、ウクライナ軍が戦略的に重要な黒海の港であるオデッサへのロシア軍の攻勢を防御した戦場であった。その防御戦により、ウクライナ軍兵士の死体が積み上げられ続けた。ミコライフに対して、ロシア軍のミサイルがウクライナ軍の兵舎を襲撃して、数十人が死亡した。特にウクライナ軍新兵が、寝泊まりしている兵舎が爆撃された。ミコライフ街中の青と黄の旗は半旗に下げられた。死体安置所には、運搬車両のバンで次々に死体が運ばれてきた。一部の死体には、ピクニック用の毛布にくるめて運ばれいた。

 ロシア・ウクライナ戦争が膠着状態に陥っても、ロシア軍はウクライナの都市を爆撃、空爆し続けて、都市部は荒廃して、民間人は無差別に巻き込まれて殺害された。ウクライナ軍がロシアの攻撃者に損害を与えても、反撃を行っても、ロシア軍の都市部への無差別の爆撃は継続した。

2022年6月4日土曜日

1971年6月に、広島市内で被爆した国泰寺中学の教師の森井一幸の5歳の次男の森井昭夫が、原爆二世として白血病が発症して、広島大学附属病院にて重態に陥った。

1971年6月に、広島市内で被爆した国泰寺中学の教師の森井一幸の5歳の次男の森井昭夫が、原爆二世として白血病が発症して、広島大学附属病院にて重態に陥った。新聞に白血病に対する輸血用の血液を求める記事が掲載された。1945年8月6日に広島市内に原子爆弾が投下されてから、約25年経過しても、夏の8月6日が近づくと毎年に原爆症の記事が掲載された。父親の森井一幸は、爆心地から約1.5kmの広島県立師範学校内で被爆した。終戦後も健康で教師を勤めて、結婚して長男と次男の森井昭夫が誕生した。

 面会謝絶(担当医)されるも、病室にて父親の森井一幸に、新聞の白血病の献血の記事を紹介した。次男の森井昭夫さんが、父親の手を握ってしきりに憤っていた。うつむいたままの父親は、しばらく考えた上で、記者に次男の森井昭夫さんの撮影を許諾した。病室の隅でうずくまって、看病疲れで憔悴しきった母親が拒絶した。父親が慟哭した母親を制して、みなさんにも写真の紹介を認可した。次男が生死の間際に追い込まれていた。次男は、「怖い、怖い、パパ、お家に帰る、お家に帰ろうよ」と泣き始めた。父親がなだめるも、「嘘だ、嘘だ」と次男の昭夫は大声で泣き叫んだ。

 次男の昭夫は原爆症により急性白血病を発症した。広島大学附属病院に入院して、一日に何本も看護婦からら注射されていた。看護婦が入るたびに、痛みを恐れて怯えて泣き出して、暴れる次男を両親が抑え込んだ。寝ている間も、ずっと両親の手を握っていた。親は不憫となり、病院の治療を諦めて在宅死も相談していた。眼底出血を止血するために、右目にガーゼの眼帯を装着していた。閉じた左目には涙が溜まっていた。カメラのシャターを切るたびに、目を覚ませていた。ベッド上の次男の昭夫の身体は、皮下出血して青白く腫脹して、青黒い紫斑の末期症状を伴っていた。輸血瓶から点滴する血液が、静脈に突き刺した太い注射針から流れ込んだ。白血球は約1,200で約七分一に減少して、赤血球は約二分一まで減少した。献血で集めた血液を毎日約800cc輸血した。1971年6月過ぎてまもなく白血病で病死した。

 原爆二世は、原爆症だけでなく、結婚・就職・差別など社会的な不利を招いていた。広島と長崎の原爆二世は、約17万人が結婚適齢期を迎えて、被爆三世も誕生している。文部省も、原爆二世は出生当時から虚弱児であり、成長後も障害を訴えている。第五福竜丸や水爆実験で1957年に施行された原爆医療法は、原爆症の認定者はわずか約4,200人であった。原爆二世は被爆者ではなく、森井昭夫は原爆医療法の適用から除外された。


2022年6月3日金曜日

ドイツ軍兵士は、ソ連軍とのクルクスの戦いにて、オルロフ市周辺で吹き飛ばされて殺害された仲間兵士の死体の側で、頭を抱えて絶望して落胆して座り込んだ。

ナチス・ドイツ軍兵士は、1943年夏に第二次世界大戦の東部戦線にてクルスクの戦いで、自らの大砲が破壊された。ソ連のクルクス地方のオルロフ市周辺で、吹き飛ばされて殺害された仲間のドイツ軍兵士の死体の側で、頭を抱えて絶望して落胆して座り込んだ。クルクスの戦いにおける犠牲は、ソ連の赤軍の損失は、赤軍はクルスク防衛作戦(7月5日から23日)で、約177,847人を損失して、そのうち約70,330人が死亡または行方不明となった。赤軍部隊は1,614両から推定で2,000両近くもの戦車を失った。砲弾のうち、約3,929個が破壊された。ドイツ軍の110個師団のうち、3分の1はソ連軍の反攻で弱体化し、ドイツ軍兵士の損失は、約49,000人から54,182人と推定された。特にドイツ軍のパンツァー師団はより大きな被害を受け、1943年12月に東部戦線にあった約3000台の戦車のうち、わずかに300台だけが残存した。

 クルスクの戦い(1943年7月5日から8月23日)は、第二次世界大戦の最大の戦車戦となり、ロシア西部のクルスク市周辺のソビエト軍の防衛地域に、ドイツ軍が侵攻したが攻略に失敗した。この平原の戦場は、ソ連軍の陣地が南北に約240km伸びて、ドイツ軍の陣地の西方に約160km突出した。ドイツ軍は東部戦線で、南北両方から突出部への奇襲して、突出部のバルジ内のソ連軍を包囲して侵攻した。ドイツ軍兵士は約78万人、戦車は約2928台を有した機動装甲師団であった。ソ連軍兵士は1,910,361人と戦車は約5,128台を有した。事前に塹壕内の陣地から主力は撤退した。ドイツ軍は7月5日に攻撃を再開したが、ソ連軍が設置した深い対戦車防御と地雷原に遭遇した。ドイツ軍は北側で約16km、南側で約48kmわずかに侵攻するのに、甚大な兵士と戦車を損失した。7月12日の戦闘の最中に、ソビエト軍はドイツ軍に反撃を開始して、著しく優勢になった。ソビエト軍は8月5日には近郊のオレル(現オリョール)を、8月23日にはハリコフ(現ロシア・ウクライナ戦争のハリコフ)を奪還する大攻勢を展開した。東部戦線のドイツ軍の攻撃力は決定的に低下して、1944年から45年にソ連軍の大攻勢の道を開いた。

 クルスクの南方約50kmの地点で、第二次世界大戦最大の戦車戦が繰り広げられた。ドイツ軍は7月12日に、約1,500両の戦車でクルスクを侵攻した。赤軍の戦車部隊に大きな損失を与えたが、ドイツ軍はクルスクまで進撃できなかった。約2週間で、ドイツ軍はクルスク岬の南側の出発地点まで押し戻された。スターリングラードの攻防戦の再来を回避するため、ヒトラーに停滞を認めさせた。ドイツ軍は撤退中に、パルチザンの絶え間ない攻撃を受けて、何マイルもの鉄道路線を破壊し、ドイツ軍の後方に大規模な混乱を引き起こした。ソビエト軍はドイツ軍の退却に乗じて、ウクライナのハリコフ市を占領した。この都市の解放は、通常クルスクの戦いが終結した。

 





2022年6月2日木曜日

アスクの虐殺は、ナチス・ドイツ武装親衛隊により、第二次世界大戦中1944年4月1日にフランスのアスク村で村民86人が虐殺された。

アスクの虐殺は、第二次世界大戦中に、1944年4月1日にフランスの人口約3,500人のアスク村で武装親衛隊(Waffen-SS)により、アスクの虐殺が勃発した。1944年4月1日の夜、アスク駅近郊のドイツ軍の輸送隊が襲撃された。その鉄道に対する破壊工作の報復として、アスク住民の約86人が銃殺され、約11人が負傷した。アスクの虐殺は、フランス地域全体に大きな影響を与えて、ドイツ占領下に対する敵意を強めた。虐殺の後に、リールには約6万人の抗議者が集結して、ドイツ軍のフランス占領下で、最大のフランス人デモの一つとなった。アスク村では、4月5日の葬儀には少なくとも約2万人もの参列者が集まったと推定された。

 アスクの虐殺は、ナチス・ドイツ武装親衛隊により、第二次世界大戦中の1944年4月1日にフランスのアスク村で村民86人が虐殺された。装甲師団のヒトラー青少年団は、1944年3月末からブリュセルからノルマンディーに向けて鉄道で出発した。4月1日午後10時44分に、その列車がアスク駅に差し掛かった地点で、フランス人レジスタンスによる爆発で、線路が吹き飛ばされて2両が脱線した。装甲車が転倒して若干の損傷を受けたが、死傷者はなかった。

 直ちにナチス武装親衛隊は、午後11時10分から午前12時頃までに、線路の両側の家々の男性全員を捜索し逮捕して虐殺した。その虐殺の結果、約70人が線路の脇で、約16人が村の中で射殺された。武装親衛隊が踏切の両側を通り、ドアを壊して無差別に男女を連行して、多くの住民が殴られ、介入した神父や牧師も含めて、約10人がアスク村で射殺された。約15歳から75歳までの70人が、鉄道沿線の武装親衛隊に次々と強制連行されて、機関銃で銃殺され、最後は頭にも弾丸が撃ち込まれた。4月2日午前1時15分に、アスク村の郵便局で何度も助けを求めたリール警察隊が介入し、虐殺は止んだ。

 ナチス・ドイツのゲシュタポの捜査で、爆弾事件の犯人としてさらに6人が逮捕され虐殺された。第二次世界大戦が終結した後に、リールのフランス軍法会議で、親衛隊幹部を裁判にかけた。8人に死刑を宣告されたが、後に恩赦を受けて禁固刑に減刑された。最後の囚人となったヴァルター・ハウクは、1957年7月に釈放された。ハウクは、1945年5月にもレスコヴィツェでも大虐殺を引き起こした。



2022年6月1日水曜日

フランス南部ヴェルコール広原の戦いで、1944年7月27日にドイツ軍は農民ゲリラ集団マキの病院が潜伏したルイル洞窟に侵入して、負傷者も医療スタッフも銃殺した。

第二次世界大戦のフランス人によるレジスタンスの温床であった南部のヴェルコール(Vercors)広原の戦いで、ドイツ軍はレジスタンスを最も残酷に弾圧した。1944年7月27日にヴェルコールで、ドイツ軍兵士は捕獲された地下組織のゲリラ戦士を射殺して、市民も虐待と虐殺した。7月27日には、ドイツ軍はマキ病院と化していたルイル洞窟に侵入して、負傷者を殺害して、医療スタッフも銃殺した。その後のドイツ軍兵士の捕虜から戦争犯罪の写真が発見された。ヴェルコール広原の戦いは7月21日から8月5日まで勃発して、ドイツ軍は約65人が死亡し、約133人が負傷して、約18人が行方不明となり、フランス人の農民集団であるマキは、約639人が殺害された。その多くは逃げ遅れた負傷者と看護のために残っていた医療班であった。

 連合軍は1944年6月6日のノルマンディー侵攻後に、約4,000人のマキの軍隊の指導部が、7月7日にヴェルコール自由共和国を独立宣言した。ドイツ軍が、7月21日からレジスタンスの拠点があるヴェルコール高原に、迅速かつ強硬な無差別の攻撃をした。7月23日には、ヴェルコール高原を侵略から掃討して、マキ集団は解散して逃走した。レジスタンス兵士を追跡し、隠れ家を破壊して、7月25日に農場で約16人が虐殺され、8月14日にはグルノーブルでヴェルコールの若者20人が処刑された。ヴェルコールで戦ったドイツ軍の多くは、オストレギオン(東部軍団)、赤軍捕虜、主にロシア人とウクライナ人が、1942年と1943年に捕虜になって、ナチス・ドイツ親衛隊に参加した。ドイツ軍は東部戦線で甚大な損失を出して、それを補うためにオストレギオネン戦員を強制投入した。

 マキ(Maquis)は、第二次世界大戦中のナチスによるフランス占領下で、フランスのレジスタンスの農村ゲリラ集団である。当初は、ドイツの強制労働を行うヴィシー・フランスによる強制労働奉仕への徴兵を避けて、山や森に逃れた労働者階級の若者で構成されて、次第に活発な抵抗勢力と組織化された。ドイツ軍は1944年3月にはマキに対してゲリラ掃討を開始して、レジスタンス活動が特に活発な地域に過激な報復を行った。1944年8月15日、連合軍は南フランスのプロヴァンス地中海沿岸に上陸した。マキのレジスタンス戦闘員と直ちにドイツ軍を追放した。グルノーブルは8月21日に解放され、ドロームは8月末に、リヨンは9月3日に解放されました。1945年3月に、連合軍はライン川を渡り、5月7日と8日に、ナチス・ドイツは無条件に降伏した。





2022年5月31日火曜日

太平洋戦争のニューギニア島の戦いにて、日本軍兵士はアメリカ軍が敷設した地雷原に命中して爆破されて殺害された。

太平洋戦争のニューギニア島の戦いにて、日本軍兵士はアメリカ軍が敷設した地雷原に命中して爆破されて殺害された。日本軍兵士は、戦場に迷い込んでほふく前進して抜け出そうとした。日本軍兵士は抜け出せる数メートル直前で、地雷が接触して爆破されて無惨な死体に化した。

 対人地雷は、人間を戦傷させる兵器となり、悪魔の兵器と呼称される。兵士と民間人も、敵と味方も区別なく、誰でも家畜も殺傷する。一度敷設された地雷は、長期に渡わる脅威を保持して、戦争の対人地雷が脅威を与える。地雷の目的は人々に障害を負わせ、手足などを吹き飛ばし障害を負わせる武器である。軍隊は、兵士を殺すだけでなく、外傷をさせる地雷は有効な戦略手段となった。長期にわたり人的・経済的負担を課して、敵対勢力を消耗させた。

 対人地雷は、1861年から1985年のアメリカの南北戦争から本格的に使用された。その後、第1次世界大戦、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争の大規模な戦争から、国外内の紛争で使用された。多くの場所で、地雷は無差別に使われ、市民を標的にして、市民を脅威にさらし、市民を支配する、市民を阻害する、市民を苦しめ、混乱させるために地雷を使用された。

 地雷は地球上各地で使用され、特にカンボジア、アフガニスタン、ボスニア、チェチェン、コロンビア、モザンビークなどは、特に地雷で悲惨な被害を受けた。その他に、チリ、エジプト、エチオピア、インド、イラク、イスラエル、韓国、コソボ、ラオス、ニカラグア、セネガル、タジキスタンなど約88カ以上の国と地域が今でも地雷問題を抱えてい。死亡した兵士の死体は置き去りにされ、地雷で負傷した兵士は放置できず連れ帰る手間を負わせた。長期にわたり人的・経済的負担を課して、敵対勢力を消耗させた。対人地雷で手足を吹き飛ばされる精神的ショックを与えた(地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)・カンボジア地雷撤去キャンペーン(CMC)参照)。

 地雷廃絶国際キャンペーン(ICBL:International Campaign to Ban Landmines)や対人地雷全面禁止に賛同諸国により,対人地雷禁止条約が提唱された。カナダ政府が1996年10月にオタワで開催した国際会議で、対人地雷禁止条約(オタワ条約,正式名称は「対人地雷の使用,貯蔵,生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約」)は,1997年12月のオタワで署名されてノーベル平和賞に繋がった。1999年3月1日に国際条約が発効して、2017年9月末に104か国が締結した。アメリカ、ロシア、中華人民共和国、イスラエル、インド、パキスタンなどの約33カ国は拒否している。




2022年5月30日月曜日

カウフボイレン・イルゼー安楽死施設の子供病棟のあるシスター・ヴェルレ看護師が、4歳のリチャード・ジェンヌを致命的な注射で1945年5月29日13時10分に最後に殺害した。

第二次世界大戦の終結後の1945年5月29日に、ミュンヘン近郊のカウフボイレン・イルゼー(Kaufbeuren-Irsee)安楽死施設の子供病棟の主任看護師であるシスター・ヴェルレ(Sister Wörle)が、4歳のリチャード・ジェンヌを致命的な注射で13時10分に殺害した。安楽死施設で虐殺された最後の心身障害児となった。

  1876年に開設されたカウフボイレン・イルゼー療養所は、心身障害者(児)の治療のための重要な医療施設であった。第一次世界大戦中は、戦争神経症による重度障害兵士のための軍事病院となった。1929年に、戦争神経症治療の専門家である医師ヴァレンティン・ファルトルハウザー(Valentin Faltlhauser)が、カウフボイレン所長に就任した。彼は優生学運動の提唱者であり、安楽死を一部の患者の善の措置と信じた。彼は、ナチスの安楽死計画であるアクティオン(Action)T-4の強力な支持者となった。1939-40年に、彼は全精神科施設をT-4登録プログラムに参加させる委員会委員になった。ドイツの精神科施設にいる精神科の患者を用紙に記入し、ベルリンに送付させた。T-4の医師は、患者をどの患者が生きるに値しない、無駄飯食いと判定した。患者は、療養所の職員に監視された後に、グラフェネック(Grafeneck)やハルトハイム(Hartheim)などの毒ガス処刑施設に特別バスで輸送された。

 カウフボイレン・イルゼーは、ドイツ各地から安楽死施設に送られる患者の選別地点となった。1941年8月に、アドルフ・ヒトラー自身は、戦時中にドイツ国民を疎外しないために、毒ガス処刑計画を中止するように命じた。しかし、その1年後に、カウフボイレン・イルゼーで殺人が再開された。ファルトルハウザー自身は、部下が拒否した場合に、致死注射を執行した。飢餓も患者の殺害方法となった。餓死させる患者には、脂肪分やビタミンを含まない食事を与えた。1942年11月末に、飢餓食(E-Kost)がドイツの全安楽死施設で導入された。1945年4月にアメリカがシュヴァービアの占領から数ヵ月後まで、カウフボイレン・イルゼーでは注射と飢餓による殺戮が1945年7月2日まで続けられた。安楽死施設のドアに貼られたチフスの警告を見て、退避したアメリカ軍がカウフボイレンに入ったのは7月2日となった。その時までの殺戮作戦の記録はすべて破棄された。ファルトルハウザーと看護婦達は、殺人幇助の罪で逮捕され、裁判にかけられた。看護婦達は12ヶ月から21ヶ月の禁固刑に処された。ファルトハウザーは3年間収監されて釈放され後に、医師免許を剥奪されたのみで終結された。

 安楽死計画は、劣等でアーリア人種の健康を脅かすと判断した特定の集団に対するナチス政権初の大量殺人作戦であった。ベルリンの本部住所(Tiergarten 4)からT4作戦と呼称された安楽死作戦は、ナチスが生きるに値しない生命(lebensunwertes Leben)とみなした心身障害者(児)を対象とした。安楽死による殺人は、1939年8月に障害のある乳幼児の殺害から始まった。総統府長官フィリップ・ブーラーとヒトラーの専属医師カール・ブラントが指揮をとり、医師、看護師、助産師が障害者と認めた子供たちを選別して、約20以上の病院に設けた特別小児病棟に移送した安楽死計画であった。医療従事者が致死量の薬物投与や飢餓状態にして、少なくとも約5,000人もの子どもを虐殺した。後に年長の障害児にも拡大された。安楽死の次の段階は、ドイツ帝国施設に入所した身体障害者の殺害であった。T4の技術者は、膨大な対象者に対応するために、障害者をガス室で殺害し、死体を火葬場で焼却する殺人センターを設置した。1940年にブランデンブルク、グラーフェネック、ハルトハイム、ゾンネンシュタイン、ベルンブルク、ハダマールの6つの殺人施設が設立された。教会や司法当局からの抗議で、ヒトラーは1941年8月にガス処刑を中止させた。しかし、安楽死計画は終了しないで、障害児の殺害は絶え間なく続けられた。1942年8月からは、致死量の過剰投与と飢餓による成人障害者の殺害が再開された。野生の安楽死と呼ばれ、戦争末期まで続けられた。T4作戦を主導したカール・ブラントは、1946年12月9日からのニュールンベルク裁判で死刑と裁定されて、1948年6月2日に絞首刑に処された。T4作戦によって、少なくとも20万人の障害者の命が奪われた。



2022年5月29日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争で2022年5月26日に、ウクライナのハルキフの地下鉄がミサイル攻撃され、夫アレクセイの死体は地下鉄の入口の側で妻エレナさんが泣き崩れた。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年5月26日にウクライナ東部のハルキフの地下鉄が攻撃された。地下鉄の構内で負傷した男性が優先して担架で運ばれた。死亡した夫アレクセイの死体は、地下鉄の入口に横たわったままであった。その側で妻のエレナさんが泣き崩れた。ミサイル砲撃中に殺害され大量の出血をした夫アレクセイの死体の側で、一人で取り残されて妻のエレナさんが慟哭しながら跪いていた。

 ウクライナ第2の都市ハルキウで、5月26日のロシア軍のミサイル砲撃により7人が死亡し、9歳の子どもを含む17人がけがをしたとハルキウ州のシネグボフ知事は公表した。その時点は東部のハルキウ州周辺では、ウクライナ軍がロシア軍を押し戻していた。2月24日の侵攻開始から約3カ月の5月23日までに、ロシア軍はウクライナに対して約1474回のミサイル攻撃を行い、航空機やヘリコプターによる空爆は約3000回以上に及び、被害の大半は民間人施設とウクライナ当局は公表した。

 国連人権高等弁務官事務所は、ロシア軍による軍事侵攻が始まった2月24日から5月26日までに、ウクライナで少なくとも4,031人の市民が死亡した。このうち261人は、子どもであった。地域別では東部のドネツク州とルハンシク州で2274人、キーウ州や東部のハルキウ州など、そのほかの地域で1757人の死亡が確認された。負傷した市民は4735人に上ると公表した。その他に国連人権高等弁務官事務所は、激しい戦闘が続いた東部のマリウポリなどでの死傷者は、まだ確認が取れず、実際の死傷者の数はこれを大きく上回ると推定された。

 アメリカ国防総省は5月26日に、ロシア軍がスラビャンスクとクラマトルスク方面に侵攻した。ロシア軍がウクライナ東部2州のうち、ドネツク州の交通の要衝に対して、攻勢を強めた。東部2州のうちもう1つのルハンシク州では、ウクライナ側が唯一の拠点とするセベロドネツクに激しい戦闘が継続して、ロシア軍が北東部の大部分を制圧したと公表した。ロシア軍によるルハンシュク州が包囲された場合には、ウクライナ軍の撤退が示唆された。











Warning: A dead man lay at the entrance of the subway as an injured man was carried on a stretcher after shelling in Kharkiv, eastern Ukraine, Thursday, 26, May, 2022. (AP Photo/Bernat Armangue)











Warning: Elena kneeled over the body of her husband Alexey after he died during shelling at the subway in Kharkiv in eastern Ukraine, Thursday, May 26, 2022. (AP Photo/Bernat Armangue)

2022年5月28日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南東約2.6kmにある3階建て木造消防署が瓦礫となり、数人の消防士と1台の消防車が倒壊した建物の下敷きになった。

 1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が落下して炸裂して、午後2時頃に広島原子爆弾の爆心地から南南東約2.6kmにある3階建ての木造消防署が瓦礫になった。数人の消防士と1台の消防車が倒壊した建物の下に閉じ込められた。消防署と自宅の間にある電車路を通行人が歩行した。理髪店の窓の外から、瓦礫となった西消防署皆実出張所の惨状が撮影された。原子爆弾による爆風により、周辺地域は崩壊したが、熱線による炎上は免れた。理髪店内も、爆風によって悲惨に崩壊して瓦礫が散乱していた。

 広島原子爆弾が投下されて炸裂した当日1945年8月6日の人的被爆の写真は、中国新聞社の元写真記者である松重美人(1913–2005)が現像できた5枚の写真ネガのみが残存した。原爆投下された当日の広島市民に対する人道的被害を撮影できた唯一の写真となった。長崎原子爆弾が炸裂した8月9日当日の写真は皆無である。原爆被爆写真が著名となると、元軍人が被爆写真の著作権を巡って訴訟を起こした。裁判所で第一、二審の勝訴が、最高裁判所の裁定で1998年に松重美人に確定した。 

 広島原子爆弾による1945年8月6日当日に撮影された原爆写真は、中国新聞社が原爆資料館の資料などを基に2007年に調査して確認できた写真はネガがないものも含めて35枚であった。そのうち25枚は原爆のきのこ雲であり、炎上した広島市街地は4枚あった。さらに被爆者を乗せて広島市の郊外に向かうトラックが1枚あった。原子爆弾の炸裂による被爆者の悲惨を収めたのは松重美人の5枚のみの写真であった。御幸橋の惨状の写真が初めて中国新聞社が別会社で発行していた「夕刊ひろしま」に1946年7月6日付で掲載された。GHQの検閲を避けるために米誌が全世界へ紹介との脇見出しが付けられた。実際に世界的な写真誌「ライフ」に掲載されたのは、GHQ占領が終わった後の1952年7月29日であった。



2022年5月27日金曜日

第一次世界大戦にてソンムの戦いにて、1916年9月にドイツ軍兵士の殺害された死体がギーユモン近郊の機関銃座の残骸に散乱した。

第一次世界大戦にてソンムの戦いの途上にて、1916年9月にドイツ軍兵士の殺害された死体がギーユモン近郊の機関銃座の残骸に散乱した。ドイツ軍の防御に深い塹壕がなかったために、イギリス軍の砲撃により機関銃座が破壊されて、同時にドイツ軍兵士も爆死した。イギリスの砲撃は1916年9月3日の夜明けまでに始まり、ドイツ軍の前線に激しい砲撃を集中させた。ドイツ砲兵は防衛にほとんど関与しなかったが、イギリス軍の攻撃開始後1時間で約1,000人のドイツ軍兵士が死傷した。

 ギーユモンは、フランス北部のソンムの東約13kmにある地域であった。イギリス軍は1916年9月3日にギルモン村を占領した。9月はソンムの戦いにおける連合軍の攻勢が短期間は改善された。ドイツ軍はバポームに撤退して、その他のジンチーとティエプヴァルを含む多くの重要地点が占領された。第一次世界大戦中、戦死した死体がはっきりと見える写真は、しばしば一般公開が差し控えられた。

 ギーユモンの戦いは、1916年9月3日から9月6日に勃発した。ギルモンの戦いは、イギリス軍によるギルモン村への攻撃した。ギーユモン村は、イギリス軍の右翼にあり、フランス軍との境界線に近かった。1916年9月3日正午に、より広い攻撃の一部として、忍び寄りの弾幕の保護下でイギリス軍が攻撃を開始した。ドイツ軍の迷路のような地下道、壕、コンクリート陣地からなるギーユモンは正真正銘の要塞であった。イギリス軍は、ギーユモン村辞退を度重なる砲撃で破壊した。ギーユモンの戦いでギルモン村を占領した。9月3日から6日にかけて、ソンム北部のクレリーからギーユモンまでのドイツ軍防御網を攻略した。

 第一次世界大戦のソンムの戦いは、1916年7月1日から11月18日に、イギリス軍、フランス軍とドイツ軍の若い兵士の多くが、フランス北部のソンムの泥沼で絶命した。イギリス軍司令部は、破れかぶれの役に立たない数百メートルの領土を得るために、大量の兵士が、突破されていないドイツ軍の鉄条網と手つかずのドイツ軍の機関銃に身投げして、何万人もの若い兵士の命を損失した。ソンムの戦いにて、イギリス軍は約456,000人、フランス軍は約200,000人、ドイツが434,000人以上も犠牲となった。




2022年5月26日木曜日

第一次上海事変にて、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化して、日本軍は中国国民党軍兵士の死体の上を突進した。

第一次上海事変にて、日本軍は1932年2月22日に、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化して、中華民国軍兵士の死体の上を突進した。アサヒグラフ(朝日新聞社)は、1932年1月28日に、第一次上海事変が勃発すると、朝日新聞社の記者たちはいち早く上海の戦場に駆けつけて、戦闘の様子を写真に収めた。第一次上海事変の写真において、殺戮や破壊の生々しい光景など、戦争の厳しい現実を映し出した。中国の大都市を蹂躙する近代的な日本軍の軍隊と軍艦、爆撃機、戦車の姿を見出した。戦場における死体も含めて戦争の悲惨さを公表した。その後に、日本の政治家や軍部幹部は、中国での戦闘に対する国際的な抗議に驚嘆した。そのために第二次上海事変(1937年8月13日)から南京陥落(1937年12月13日)したときに、日本のマスコミはひどい都市部の破壊の写真を何枚も掲載したが、中国人と日本人にかかわらず殺害された死体の写真は掲載できなかった。

 1930年代初頭に、日本軍による中国への軍事介入に関するメディア報道は、朝日新聞社の特派員は、日本軍の中国での主力部隊である関東軍の跡を追った。満州事変(1931年9月18日)から第一次上海事変(1932年1月28日)、済州島事件(1933年1月3日)を写真による特報を制作した。軍事事件の報道は、アジアで他の追随を許さない無敵の日本軍軍隊が、挑発されて、必要に迫られて軍事行動することを国民に過信させた。1937年まで、満州と中国における日本軍の動きを取材できるメディアは、自社の報道用飛行機を持つ朝日新聞社が最も優れていた。ライバルの新聞出版大手である毎日新聞社は、1937年に中国特派員と『中国前線』誌で対抗する特派員部隊を設立した。1938年2月には、内閣情報調査室(後に室、最終的に局へ昇格)が『写真週報』を創刊した。

 日本軍は第一次上海事変にて、在留日本人を含む国際社会を、中国国民党軍の暴力的な軍事行動から守るために迅速に軍事行動し、中国人の反乱軍が鎮圧されて秩序が回復されて、日本軍の軍事行動は完結したと物語化した。日本軍兵士が上海の都市部の道路を封鎖して、日本の権益を警備した写真を多く掲載した。上海の街を、日本軍の装甲車が巡回して、日本軍旗を掲げて、日本軍の統制を写真で誇示した。




2022年5月25日水曜日

太平洋戦争におけるサイパンの戦いで、アメリカ軍兵士の戦死者には、戦場にライフルとヘルメットによる戦場十字架が、埋葬に引き取る死体の位置を示した。

太平洋戦争におけるサイパンの戦いで、アメリカ軍兵士の戦死者は3,000人以上に及んだ。戦場にライフルとヘルメットによる戦場十字架(Battlefield Cross)が、戦死したアメリカ軍兵士の死体の位置を示した。適切な時期に埋葬のために引き取る目印とした。サイパンの戦いでは、アメリカ軍の犠牲も甚大となった。戦死者の死体の側に、アメリカ軍兵士はここに永眠の戦場を示唆して、銃剣と鉄兜が立てられた。十字架や戦死者の宗教に適した記念標識に代用された。

 1944年6月15日に、サイパン島に上陸したアメリカ軍は、6月27日にタポチョー山を占領した。その間の約11日間で、日本軍兵士は約8割も損失した。7月6日早朝に司令部は、最後の命令を下して、7月7日に残存した約3,000人の日本軍兵士が、自滅するバンザイ攻撃をして全滅して、必死の夜間攻撃が虚しい兵力の浪費となった。7月9日には、日本軍と民間人は、サイパン島の北端のマッピ岬やマッピ山北面に追い詰められるも、狂信的愛国心から降伏を拒否して自決やバンザイクリフなどから投身自殺して、サイパンの戦いは終結した。その間にアメリカ軍は、日本軍に約138,391発、約8,500トン以上も艦砲射撃して、戦闘機による機銃掃射と爆撃を加えた。日本軍兵士の約30,000人はほとんど全員が死滅した。生存者はアメリカ軍に捕獲されたわずか約1,800人の捕虜のみであった。アメリカ軍の犠牲は、戦死者は約3,426人と戦傷者等は約13,099人であり、全体の約2割にも相当した。

 戦場十字架は、最期の死亡した場所に印をつける伝統は、南北戦争から死体集積の目印となる木製のプレートから始まった。第一次世界大戦からは、ライフル銃を下向きに地面やブーツに突き刺して、ヘルメットを載せて、戦死の指標にした。戦場の十字架は、墓地登録局員が死体を埋葬する目印だけでなく、慰霊碑の役割も果たした。第二次世界大戦以後からは、戦死者の犠牲、名誉、敬意、奉仕、象徴、慰霊、終結、喪失、最期、追悼などを記念した。兵士の仲間に対して、ある種の弔いの慰霊碑があることは軍隊には有益となった。




2022年5月24日火曜日

アメリカ軍は、ランズベルクのドイツ市民約250人を徴集して、解放したカウフェリングⅣ収容所の囚人の死体を見詰めて埋葬させた。

アメリカ軍のエドワード・ザイラー大佐が、ドイツ・ランズベルクの市民に対して、1945年4月27日に解放した近隣の強制労働収容所であるカウフェリングⅣ収容所の犠牲者の死体に目を向けるように要請した。大佐は、収容所を解放して、近くのランズベルグの町から約250人の民間人を徴集して、死んだ囚人の約360人の死体を埋葬させた。死体は、収容所の点呼所にある墓地に埋められていた。アメリカ軍兵士たちが解放時に、ナチス親衛隊が放火した小屋の残骸に煙を上げていた。この中から生きたまま焼かれた可能性のある約360人の死体が発見された。燃えた牢屋小屋の煙の中に、ナチスの刑務官がユダヤ人囚人を木製の小屋に閉じ込め、火をつけて生きたまま焼いた炭化した痩せ細った死体が横たわっていた。

 アイヒェルスドルファー所長は、1945年1月4日にカウフェリングⅣ収容所の最後の責任者となった。病気収容所として指定されたが、ダッハウ強制収容所の劣悪な生活環境のために病気になり、働けなくなった囚人たちの収容所であった。ナチス親衛隊はアメリカ軍の侵攻される前に、ダッハウ強制収容所への囚人の死の行進を強制した。カウフェリングⅣ収容所では、バラックに火をつけて数百人の囚人を殺した。アイヒェルスドルファーは、事件番号000-50-2で、ダッハウ裁判では12月13日に判決され、1946年5月29日に死刑が執行された。

 ナチスは全ユダヤ人をドイツから追放するも、他の労働力源を使い果たした。ユダヤ人をカウフェリング収容所に強制連行して、戦闘機工場を荒廃させる連合軍の爆撃の影響を受けない3つの巨大地下壕であるヴァイングートII、ダイアナII、ヴァルヌースIIを建設した。地下壕は、メッサーシュミットMe262の生産用であったが、アメリカ軍に解放されるまで、一機も生産できなかった。カウフェリング収容所はダッハウ強制収容所の分所の中で最も大きく、また最も劣悪な環境にあった。男性囚人用の72小屋と、女性囚人用の8の小屋で、囚人はしばしば暖房も食料も不十分な土の小屋で、土中に沈められ、外気から見えないように土で覆われた。収容所には、それぞれ数千人の囚人がおり、その大多数がユダヤ人であった。病気や栄養失調、職場や収容所の残酷な環境は、収容者たちを苦しめ、高い死亡率を伴った。約3万人の囚人の約半数が飢えや病気、処刑、死の行進で死亡した。



2022年5月23日月曜日

第二次世界大戦のバルジの戦いで、ベルギー南部のマボンプレ付近の雪に埋もれた塹壕にナチスドイツ軍将校が横たわった。

バルジの戦いで、ベルギー南部のマボンプレ付近の雪に埋もれた塹壕にナチスドイツ軍将校が凍死して横たわった。バルジの戦いで最も困難だったのは天候である。歴史的な極寒が大混乱を引き起こした。移動、シェルター、食事といった兵站を毎日苦難の連続にした。1945年1月はヨーロッパで記録的な厳寒となり、バルジの戦闘中に約15,000人以上が凍傷などの寒冷により戦死傷した。

 バルジの戦いは、ベルギーのアルデンヌ山脈の深い森の中で、1944年12月16日から1945年1月25日まで、約84万人もの連合軍が、第二次世界大戦最後の約50万人ものドイツ軍の大攻勢と苦闘した。連合軍は最終的に勝利を収めたが、約6週間にわたる激しい戦闘で、両軍合わせて数万人が死亡した。バルジの戦いの犠牲者は、アメリカ軍が約8,607人以上、イギリス軍が約201人以上、ドイツ軍が約12,652人が戦死した。

 ドイツ軍の最後の攻勢には、連合軍の不意をつき、戦闘機を無力化する悪天候、早期の壊滅的な打撃、連合軍の燃料供給を確保することが必要であった。ドイツ国防軍は、ベルギー南部からルクセンブルクまでの約137kmに及ぶ連合軍戦線に約25万人のドイツ軍兵士を投入し、1944年12月16日に攻撃を開始した。

 ドイツ軍の攻撃は、当初は驚くほど驚異的で、部隊は連合国領内に約80kmも進攻した。この戦いの名前の由来となったアメリカ軍の戦線にバルジ(膨らみ)を作り出した。しかし、最初のドイツ軍の作戦がいかに驚異的でも、連合軍部隊の完全かつ早期の脱落は達成できなかった。

  連合軍は勝利を収めたが、代償として約2万人近いアメリカ軍兵士が死亡し、数万人が負傷、行方不明、または捕虜となった。イギリス軍は約1,000人以上の死傷者を出した。アメリカ軍にとって、バルジは第二次世界大戦中の西部戦線で最も血生臭い戦いとなった。ドイツ軍の犠牲は甚大で、約7万から10万人の死傷者が出たと推定された。

 連合軍は1945年1月25日に勝利し、ナチス・ドイツに対する最後の勝利を手に入れた。連合軍は優位に立ち、ベルリンへの最後の追撃を開始した。ドイツが5月8日にベルリンで無条件降伏して、5月9日にソ連が勝利宣言をして戦勝記念日となった。バルジの戦いが終わってから約5ヵ月足らずで、ヨーロッパでの戦争は終結した。




2022年5月22日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ロシア軍によるウクライナのマリウポリの産科・小児科病院への空爆で負傷した妊婦が、胎児とともに死亡した。

ロシア・ウクライナ戦争が2022年2月24日に勃発して2週間後に、ロシア軍によるウクライナのマウリポリの産科・小児科病院への空爆で負傷した妊婦が、胎児とともに死亡した。3月9日水曜日に、ウクライナの港湾都市マリウポルの産科病院に対するロシア軍の無差別の空爆の後に、妊婦は顔面が青白く、血まみれの左下腹部を左手で撫でて担架に乗せられて救急隊員とボランティアが別の病院に搬送した。この空爆で、この妊婦と胎児の他に、少なくとも他の3人が殺害された。

 出産する予定病院が攻撃された後に、妊婦は別の病院へ緊急的に搬送された。妊婦は蘇生されながら、赤ちゃんは帝王切開で生まれたが、生命の兆候は無く死亡していた。救急病院の外科医のティムール・マリンは、妊婦の骨盤はつぶれて、股関節は脱臼していた。医療関係者は、妊婦の生命を救おうとしたが、妊婦は赤ちゃんが死亡したことに気づき、今すぐ殺してくれ "と叫んだ。死産である明白となり、医療関係者は妊婦の蘇生を試みたが、約30分後には絶望的となり死亡した。妊婦の夫と父親が死体を引き取り来ても、女性の名前を聞ける余裕はなかった。

 ロシア軍が病院を爆破した後に、SNSのTwitter社は、在ロンドン・ロシア大使館による攻撃が捏造されたと主張する2つの投稿を削除した。ロシア大使館のTweetは、病院は当時は稼働せず、現場で撮影され死亡した身元不明の妊婦は女優であるとフェイクを主張をした。ロシア軍は、病院から患者がいなくなり、ウクライナ軍の活動拠点として使われたと主張している。世界保健機関(WHO)は、ロシア軍によるウクライナ攻撃が始まって以来、医療施設や設備に対して少なくとも31件の攻撃が記録された。















Warning: Ukrainian emergency employees and volunteers carry an injured pregnant woman from a maternity hospital that was damaged by shelling in Mariupol, Ukraine, March 9, 2022. The woman and her baby died after Russia bombed the maternity hospital where she was meant to give birth. (AP Photo/Evgeniy Maloletka, File)