2022年3月7日月曜日

レバノンでサブラとシャティラの大虐殺事件が勃発して、避難して来た義足の老人が虐殺されて、路地のくぼみに転落して絶命した。

ベイルートの難民キャンプで、1982年9月16日午後6時頃から9月18日午前8時頃まで、サブラとシャティラの大虐殺事件が勃発した。避難して来た義足の老人が、虐殺された。老人の杖は離して、路地のくぼみに転落して絶命した。大虐殺は9月16日夜にシャティーラキャンプの西端を南北に走るサブラ通りで勃発した。午前5時頃に、10数人の民兵がある家に侵入して、家族を外に引き出した。夫や弟、甥をある家の前の壁に並べて、自動小銃を掃射した。虐殺されて崩れ落ちたところを、ナイフやバルタの手斧を持った民兵が襲い掛かって、とどめを刺した。惨劇は、通りに出たところに、父親と妹の死体などが散乱した。サブラ通りは死体で埋まった。腹を切り裂かれた女性の死体もあり、女性も子供も無差別に虐殺されれた。死体の多くはひどく切断され、若い男性は去勢され、一部は頭皮を剥がされ、一部はキリスト教の十字架が体に刻まれた。路地の壁に喉が裂けた子供たち、胃を切り刻まれた妊婦、目を大きく開いた黒ずんだ死体、投げ込まれた無数の赤ちゃんや幼児ゴミの山が散乱した。

 サブラとシャティラの大虐殺は、レバノン・ベイルートのサブラ地区と隣接するシャティラ難民キャンプで、キリスト教徒派を主体とするレバノン右翼政党のカタエブ党(別名ファランジュ)に近い民兵により、1982年9月16日午後6時頃から9月18日午前8時頃まで、広範な大量虐殺が勃発した。パレスチナ人およびレバノン・シーア派市民の約762〜約3,500人が大量虐殺された事件である。イスラエル国防軍(IDF)がキャンプを包囲している間に、民兵による広範囲な虐殺が行われた。民兵は、イスラエル国防軍による西ベイルートへの作戦の一環として、サブラ・シャティラからパレスチナ解放機構(PLO)の戦闘員を排除するように命じらた。PLOが弾薬を豊富に蓄えている無数の地下壕には武装集団が約200人ほどいると誇張した。大量虐殺が執行される中、IDFは残虐行為の報告を受けたが、虐殺を防止・停止する行動も取らなかった。大虐殺事件でのイスラエル軍の関与を検証する「カハン委員会」報告書(1983年2月)は、イスラエル軍に虐殺の間接的な責任があるとした。右派民兵をキャンプに入れ、虐殺が起こっている報告が出ていたのに、制止する措置をとらなかったとして、シャロンは国防相辞任に追い込まれた。イスラエル軍もシャロンも、虐殺の直接的な責任を問われていない。

 イスラエル兵がファランギストの民兵を退去させると、数百人が死んでいた。レバノン警察の発表では約460人、イスラエル情報局の推計では約700-800人が殺害されたと推定した。レバノン側の公表によると、死者には約35人の女性と子供が含まれた。残りは男性である。パレスチナ人、レバノン人、パキスタン人、イラン人、シリア人、アルジェリア人なども含まれた。レバノン軍の主任検事の調査では、死者約460人(うち女性約15人、子供約12人)を数え、イスラエル情報局は死者を約700-約800人と推定し、パレスチナ赤新月社は死者約2,000人と主張した。





2022年3月6日日曜日

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボのマルカレ市場の爆発で、殺害された人々の死体がコソボ病院の死体置き場に並べられた。

1994年2月4日にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボのマルカレ市場の爆発に巻き込まれて、殺害された人々の死体がコソボ病院の死体置き場に並べられた。事件を聞いて病院にかけつけた親族が、自分の身内の死体を探索した。家族の死体を見つけた人々は絶叫した。首都サラエボのコソボ病院に、1994年2月4日にセルビアにおける市場に砲弾が被弾した。砲弾によるサラエボ市民の大量の死傷者が、トラックや自動車でコソボ病院に搬入された。コソボ病院だけで、死者は約80人と負傷者は約197人以上にも達した。

 マルカレ市場砲撃は、1992年4月から1995年12月までのサラエボ包囲戦で行われた最大の残虐行為の一つであった。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるサラエボ包囲中にスルプスカ共和国軍によって、民間サラエボ人を対象とした2つの砲撃である。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの歴史地区にあるマルカレ市場で勃発した。

 第一マルカレ市場事件は1994年2月5日に勃発した。約120mmの迫撃砲によって約68人が死亡して、約144人が負傷した。マルカレ市場では、負傷して死にそうな市民の体が絡み合い、壊れた屋台、散乱した市場の商品、子供のおもちゃなどが混沌とした。

 第二マルカレ市場事件は1995年8月28日に、スルプスカ共和国軍が発射した5発の迫撃砲により、サラエボ市民が約43人が死亡して、約75人が負傷した。ボスニア・セルビア人勢力に対するNATOによる空爆に起因して、最終的にはデイトン和平合意によりボスニア・ヘルツェゴビナ戦争は終結につながった。旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所 (ICTY) は、2006年のスタニスラフ・ガリッチの控訴審判決で証拠を整理し、砲弾はセルビア人勢力に占領した場所から砲撃したと認定した。

 ボスニア戦争は、1992年4月26日から1995年12月14日にボスニア・ヘルツェゴビナで起こった国際武力紛争である。ユーゴスラビア崩壊により、1991年にスロベニアとクロアチアがユーゴスラビア社会主義連邦共和国から分離独立した。主にイスラム教徒のボスニア人(44%)、主に正教会のセルビア人(32.5%)、主にカトリックのクロアチア人(17%)が住む。ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国は、セルビア人議会は1992年2月28日に共和国憲法を採択した。セルビア民族の軍隊を動員し、民族浄化を伴う戦争が国全体に広がった。

 当初は、ボスニアのユーゴスラビア軍(後にスルプスカ共和国軍)、ボスニア人を主体とするボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH)、とクロアチア防衛会議(HVO)のクロアチア軍による紛争であった。スルプスカ共和国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア人の利益と保護のためにに1992年1月9日から1995年12月14日まで存続した。新たに独立したボスニア・ヘルツェゴビナ内の領土内で分離主義で反抗して、1992年から2006年まで存続した。主にボスニア・ヘルツェゴビナ系のセルビア人で構成されたVRSは、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国防軍(HVO)とクロアチア軍部隊のボスニア人部隊の間で対立した。ボスニア戦争は激しい戦闘、都市や町の無差別砲撃、民族浄化、主にセルビア人、さらにクロアチア人とボスニア人の武力勢力によって組織集団的な虐待と虐殺が頻発した。セルビア人は、当初は軍事的に優位も、1994年のワシントン協定でボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の創設によって、ボスニア人とクロアチア人が連合して、スルプスカ共和国の勢力が喪失して、1995年12月14日のパリのデイトン合意で終結した。




2022年3月5日土曜日

ウクライナ共和国のチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。

1986年4月26日午前1時23分40秒、ウクライナ共和国のチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所にあるRBMK4号炉が低出力のテスト中に制御不能となり、大爆発・火災を起こして原子炉建屋が崩壊し、大量の放射線が大気中に放出された。安全対策が無視され、原子炉内のウラン燃料が過熱し、防護壁を突き破って溶融した。RBMKの原子炉には格納容器と呼ばれるものがなく、原子炉の上にコンクリートと鋼鉄のドームがあり、このような事故が起きた場合、放射線を工場内に閉じ込めるように設計されている。そのため、プルトニウム、ヨウ素、ストロンチウム、セシウムなどの放射性元素が広範囲に飛散した。また、RBMKでは減速材として使用されていた黒鉛ブロックが炉心に空気が入ることで高温で発火し、放射性物質の環境中への放出を助長した。



    







 両親は離婚して、ディマは母親はウクライナ共和国のチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。チェルノブイリ原発事故による深刻な放射線の影響により、事故後約4ヶ月間に約600人の作業員のうち28人が死亡した。原子炉の爆発から数時間以内に、放射線以外の原因で2人の作業員が死亡した。1986年と1987年には、さらに約20万人の清掃作業員が約1〜100レムの線量を受けた。チェルノブイリ事故は、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア連邦までの広範囲を汚染し、数百万人の住民が居住していた。1986年当時に、この地域にいた多くの子供や青年は、放射性ヨウ素に汚染された牛乳を飲み、甲状腺に相当量の放射線を浴びた。子供たちの中から約6,000人の甲状腺がん患者が発見された。約99%は治療に成功するも、2005年までに3カ国で15人の子供と青年が甲状腺癌で死亡した。緊急作業員、避難者から、最も汚染された地域に住む住民の生涯にて、最終的にチェルノブイリに起因する癌死が発生する可能性がある。がんによる死亡は、緊急作業員では、固形がんの発生と死亡の相対リスクが統計的に有意であった。うつ病、アルコール依存症、潜在的な健康影響への不安の割合が高くなった。



 








 ロシア・ウクライナ戦争が、2022年2月24日木曜日に、ロシア軍がウクライナ東部から軍事作戦を開始した。ウクライナに侵攻したロシア軍は直後の2月24日に、北部のチェルノブイリ原子力発電所を占拠した。2022年3月4日早朝には、ロシア軍がヨーロッパ最大の原子力発電所であるウクライナ南東部のザポリジャー(Zaporizhzhia)原子力発電所を攻撃して、原発の敷地内の建物に命中し、局所的な火災が発生した。ロシア軍は意図的に原子力発電所を攻撃し、数百万人の命を危険にさらす史上初のテロ核攻撃を行った。国家原子力規制検査局(SNRI)は、ロシア軍が占領して、発電所の6基の原子炉は無傷だが、1号機の区画補助棟が損傷し、残りの4基は冷却され、1基は電力を供給している。国際電子力期間(IAEA)は、チェルノブイリ原発事故は、ソ連時代の黒鉛減速型RBMK原子炉、ザポリジャーの施設では、加圧水型VVER原子炉が使われた。VVERはRBMKよりも本質的に安全で、敷地内で砲撃や火災が起きれば、他の事故が起きる可能性はある。2011年の福島原発事故では、原子炉は無傷のまま電気が遮断されて、冷却水を送れず、核燃料ペレットが落下して炉心溶解(メルトダウン)した。

2022年3月4日金曜日

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナの第三次ハリコフの戦いで、ソ連軍を撃破したドイツ軍は多数の死傷したドイツ軍兵士を抱えて、戦車の陰から援護を求めた。

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナの第三次ハリコフの戦い(Third battle of Kharkov)で、1943年2月19日から2月25日にかけて、ドイツ軍第2機甲擲兵師団は、ソ連軍の戦車の20両、装甲車の2両、野砲の16門、対戦車砲の71門を撃破した。エレコーフカ・セルゲーエフカ戦区で、死傷したドイツ軍兵士を抱えて、ドイツ軍機甲擲兵は、戦車の陰から自軍の兵士に援護を求めた。ドイツ軍がソ連軍に反撃して、ウクライナのハリコフとベルゴロドを奪還した。

 ソ連軍は、ドイツ第6軍をスターリングラードで包囲した後に、ドイツ南方軍に対して一連の大規模な侵攻を開始した。1943年1月2日に、ソ連軍はスター作戦とギャロップ作戦を開始して、1月から2月初旬にドイツ軍の防衛戦線を突破した。ソ連軍は、ウクライナのハリコフからロシアのベルゴロド、クルスク、ボロシロブグラード、イジウムを奪還した。領域が頂点に達して、ソ連軍は参戦したソ連軍兵士には過大な負担となった。

 ドイツ軍がドニエプル方面に統制した撤退により、ソ連軍に領域を奪還させた。2月2日にドイツ第6軍は降伏して、レニングラードを解放したソ連軍は、西方に侵攻して、2月25日にドイツ南軍とドイツ中央軍の両軍に攻勢を拡大した。数ヶ月も続いた戦闘でソ連軍兵士は犠牲が増大して疲弊した。2月19日からドイツ軍のエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、パンツァー戦車軍団にハリコフに反撃に出させた。ドイツ第4空軍は約1,214機もの大規模な爆撃機の援護をして、2月20日から3月15日まで1日1,000回以上の出撃を行った。

 ウクライナのハリコフの南方では、ドイツ装甲軍はソ連軍の先鋒を側面から包囲して撃破して、3月7日にハリコフに攻撃を再開した。パンツァー戦車軍団は3月11日にハリコフを直接に攻撃した。3月15日にドイツ軍師団が、ハリコフを奪還するまで、約4日間に都市部内の残酷な掃討戦が勃発した。ドイツ軍はその2日後にベルゴロドを奪還して、1943年7月からクルスクの戦いに繋げた。ドイツ軍の攻撃で、ソ連軍兵士は推定約9万人もの死傷者を出した。ハリコフ市内での一軒一軒の掃討戦では、ドイツパンツァー戦車軍団にも特に血生臭い残酷な犠牲を伴って、3月中旬までに約4,300人の死傷者を出した。

 1943年初めにドイツ軍は、ソ連軍がレニングラードでドイツ第6軍を包囲戦したことで危機に陥った。1943年2月2日に、ドイツ第6軍は降伏して、推定約9万人のドイツ軍兵士がソ連軍に捕らえられた。1942年の間にドイツ軍兵士の犠牲は約190万人に達した。1943年初頭は、ドイツ軍は東部戦線で全戦力は約47万人にまで衰退した。




2022年3月3日木曜日

モスクワ劇場テロ事件が終結した2002年10月26日に、救助隊が毒ガスで虐殺された約130人の人質の死体を運び出し始め、劇場の通路や正面入口の舗道にずらりと並べられた。

モスクワ劇場事件が終結した2002年10月26日午前7時から、救助隊が毒ガス殺された人質の死体を運び出し始めた。死体は劇場の通路や正面入口の舗道にずらりと並べられた。人質の死体には銃創や出血の兆候はなかった。顔は蝋のように白く引きつって、目は開いて虚ろであった。意識喪失の人々と殺害された死体で埋め尽くされた。人質の死体は2台のバスに収容された。病院には武装ガードが配置されて封鎖された。公式の死者の数は25人の子供を含む90人以上に達した。

 2002年10月23日にチェチェン共和国のイスラム過激武装勢力の約50人が、モスクワのドゥブロフカ劇場を襲撃した。人気ミュージカルの公演中に、午後9時過ぎに約850人もの人質に取るテロ事件が勃発した。武装集団が舞台上に上がり、機関銃を乱射した。身体に爆発物を巻き付けた女性も含まれた。要求はただ一つで、ロシア軍の第2次チェチェン紛争からの即時の完全撤退であった。モスクワ劇場の文化宮殿で、約57時間に及ぶ膠着状態を経て、人質2名が殺害された後に、10月26日早朝に、ロシアの特殊部隊が劇場を包囲して突入した。その直前に、強力な麻薬性毒ガスを建物に注入して、ほぼ全員を窒息させた。直後から壁と屋根を破壊して、地下の下水道トンネルから侵入した。約40人のテロリストと約130人の人質は、特殊部隊の襲撃で殺害された。治安部隊は、人質に対する大量虐殺は、危険な毒ガスにより、テロリストの自爆を未然に防ぎ、武装解除できなかったと弁明した。

 チェチェン共和国にはイスラム教徒が多く、ロシアに対して独立を長期間に主張した。ロシアで1999年に起きた連続アパート爆破事件を、チェチェン武装勢力が引き起こした。わずか3年後にロシア軍がチェチェン共和国を侵略した。2000年に、ロシアのプーチンは、チェチェン共和国に対する強硬姿勢とテロリストの交渉拒否を公言して、大統領に当選した。モスクワ劇場テロ事件の後に、プーチン政権はチェチェン共和国を猛烈に弾圧して、誘拐や拷問などの残虐行為を執行した。これに対して、チェチェン共和国の反政府勢力は、2004年2月のモスクワ地下鉄での自爆テロで約50人の乗客の殺害、2004年年5月のベスラン校で人質約334人が殺害された人質事件など、ロシア国内でのテロ事件が頻発した。




2022年3月2日水曜日

ベトナム戦争が終結日の首都サイゴンにて、拳銃により自殺した南ベトナムのロング警部補の死体が横たわり、頭部から血が噴出して地面に染み込んだ。

ベトナム戦争が南ベトナムの首都サイゴンの陥落により、1975年4月30日に終結した。陥落を知った56歳の南ベトナムの警察官は、ベトナム戦争に悲観して絶望してサイゴンの議会の国会議事堂の下院前で自殺した。自殺した警察官の死体の周囲に、サイゴンの市民らが取り囲んで呆然と見下ろした。1975年4月30日の正午、ラジオが南ベトナム大統領が降伏を放送される直前に、一発の銃弾が爆発し、ロング警部補は自殺した。

 ベトナム海兵隊の記念碑の手前で拳銃により自殺したロング警部補の死体が横たわり、彼の頭部から血が噴出して地面に染み込んだ。ロングは警部補の勲章を身に着けて、青い制服を着て、胸ポケットにロングの名前が刺繍された。サイゴンの人々は自殺したロング警部補を偲んで静かに立ち並んだ。その周辺から北ベトナム軍の革命歌と解放軍の歓声を聞いて、全員は黙っていた。ロングは1975年4月30日正午頃にサイゴン市内の公園に現れた。石のベンチに座って、思慮深く周囲を見渡して、彼の頭上に手を置き、突然に、彼は立ち上がり、記念碑の手前をゆっくり歩いた。ロングは銃口を頭部に押し付けて、コルトの引き金を引いて、銃殺により自殺した。サイゴンの城塞を守ったのは、見捨てられた国家警察官であった。ロングは脱走もせずに、北ベトナム軍に降伏もせず、南ベトナムと祖国を悲観して自殺を選択した。

 サイゴンが陥落する直前に、南ベトナムの官僚や市民らがサイゴンから逃避した。サイゴンに混乱、不安、パニックが発生した。戒厳令が発令されて、アメリカ軍のヘリコプターは、南ベトナム人、アメリカ人、外国人を市内の各所とアメリカ大使館から避難させ始めた。サイゴンを保持できるとしてヘリコプターによる避難はぎりぎりまで延期された。 サイゴンが陥落する前日の1975年4月29日には、興奮して叫び合う南ベトナム人の集団が、絶望的な逃避の機会を奪い合った。サイゴン近郊の防衛戦を、北ベトナム人民軍(PAVN)の戦車が突破した。4月30日早朝には、最後のアメリカ軍のヘリコプターでアメリカ大使館から避難した。南ベトナム民間人が大使館の周辺に押し寄せて、敷地内になだれ込んだ。ベトナム戦争が終結する4月29日から30日までに、サイゴンのさまざまな場所から約7,000人以上がヘリコプターで避難した。

 北ベトナム人民軍は1975年4月30日に、サイゴン市内に侵入して、瞬く間にすべての抵抗物を退けて、主要な建物や施設を占領した。ベトナム独立記念館の門を突き破り、ベトナム時間で午前11時30分に、大統領宮殿上に北ベトコン国旗が掲げられた。その2日前にフオンの後を引き継いだズオン・バン・ミン大統領は、北ベトナム人民軍のブイ・ヴァン・トゥン中佐に降伏した。ミンはその後に、ラジオサイゴンで降伏宣言が14時30分から放送された。





2022年3月1日火曜日

日中戦争にて日本軍の新井部隊は、劉耀明を木に縛りナイフで筋肉を切り取った。約3日間の拷問の末に1943年11月21日に劉耀明を上平陽で心臓を切取って首をはねた。

日中戦争において、日本軍の新井部隊が1943年11月18日に富平県平陽郷に侵攻した時に、中国地区軍の決起を察知して、直ちに村を包囲して掃討した。22歳の女性の劉耀明も逮捕されて、日本軍の厳しい拷問を受けた。彼女は不動で不屈で、厳寒の真夜中、下着一枚で薪小屋に閉じ込められても、中国軍の革命歌を歌って、残酷な日本軍を追い払うように叫んだ。革命歌に怒り心頭した日本軍の新井大尉は、彼女を木に縛り付け、ナイフで身体の筋肉を一枚一枚切り取っていった。約3日間の拷問の末に、11月21日に日本軍兵士は彼女を上平陽の村に引きずり込み、心臓を切取り、首をはねた。

 劉耀明を日本軍兵士が虐殺した後に、中国抗日軍兵士と民間中国人は、井戸の中に彼女の死体を発見した。彼女の目はわずかに閉じられて、頭と首は皮膚の一層でつながっていた。腹腔は切り裂かれ、胸には大きな血穴が二つあり、肋骨が露出し、上腕と大腿は切られて骨が見えた。彼女の死体は井戸に投げ入れられた。村人は涙を流しながら、彼女の死体を横向きにした。第8航路軍『金茶字画報』の写真家である葉曼子は、劉耀明の死の写真をカメラで撮影した。この写真は日本軍の侵略した戦争犯罪を証明した。苦痛に耐え、拷問に堂々と耐え、不動の民族精神を持った少女は象徴となった。中国の富平県平陽村には、劉耀明の殉国記念碑が建立された。

 劉耀明は、1938年から中国共産党に入党して、洛陽村婦女救済会に入会した。村の女性を抗日運動に参加させるために婦女解放歌を作った。村の女性たちに中国文化を学ばせ、戦争訓練をよく開いた。軍隊に入って前線に行く、後方でゲリラ戦するのは男性だけだった。彼女ら少女たちは、ロバを操作して約16km以上も離れた地域に、配給品を届け、昼夜を問わず働き続けた。1941年に中国軍の軍備の拡張のために、劉耀明ら6人の少女は、村の少年たちに軍隊に入隊するよう誘い込んだ。村の女性7人が一緒になって、平陽区で中国軍に入隊しに行ったが、平陽区では男性しか入隊できず、女性は受け付けなかった。1943年初頭に、日本軍は金茶地国境荘越地区で掃討作戦した時に、昼夜を問わず見張り、負傷者を運び、血染めの服を洗い、軍靴を作り、畑を整えて秋の食糧をつかみ、何度も称賛を浴びた。
















2022年3月1日  Japan No War NGO  日本平和市民連盟
視聴回数 550,000    投稿数 2,023

2022年2月28日月曜日

アメリカ軍工兵がドイツのルール川を渡河した対岸にて、投降してきたドイツ軍の捕虜を橋に誘導した時に、ポケットから手榴弾を投げた捕虜は殺害されて死亡し、一人の捕虜は負傷した。

第二次世界大戦の西部戦線にて、1945年2月23日にドイツのラインラントのルール(Roer)川を渡河した対岸にて暗闇の中で、二人のアメリカ軍工兵が、投降したドイツ軍の捕虜を橋に誘導した。ハンカチを白旗のように持って捕虜となったドイツ軍兵士が出て行った。まだ降伏していない捕虜の1人が、ポケットから手榴弾を取り出して地面に投げつけた。手榴弾を投げた捕虜は、アメリカ軍工兵に殺害されて死亡した。もう一人の捕虜は負傷した。

 2月23日の夜明けに、ルール川の対岸のドイツ軍の要塞を攻撃した。ボートは遠い岸で立ち往生し、一部は下流に漂流し、急いで敷設した木製の歩道橋は破壊された。アメリカ軍はドイツの町ユーリッヒを攻撃するためにルール川を横断した。2月8日にドイツ軍は上流のダムの水門を開けて、ルール川の水位が上がり流れは強烈な洪水となっていた。ドイツ軍はヒトラーからライン川の後方に撤退することを拒否されていた。2月23日になって、ようやくアメリカ軍がルール川の歩道橋を横断できる途上で、ドイツ軍の迫撃砲と機関銃を受けた。対岸のドイツ軍と銃撃戦を繰り広げ、一人のアメリカ軍兵士が狙撃により射殺されて、対岸まで約15mの橋の途上で仰向けで死亡した。アメリカ軍は約7,478人が戦死傷して、ドイツ軍は約16,000人が戦死傷して、約29,739人が捕虜となった。 

 第二次世界大戦中、西側連合国はライン川がドイツ侵攻の強力な自然障害になった。1944年9月17日から25日に、連合軍はオランダ国内の複数の河川を越えるために、空挺部隊により多くの橋を奪取するマーケットガーデン作戦が失敗した。ドイツ軍が西部戦線を最後に突破したアルデンヌ高原のバルジの戦いが1944年12月16日から1945年1月25日に勃発した。アルデンヌ高原に潜伏したドイツ軍と苦闘を重ねながら、連合軍はバルジを奪還した。連合軍はジークフリート線を突破して、ライン川を越えてドイツ国内に侵入した。侵入するには、ライン川の西側を蛇行するルール川を攻略する必要があった。その後にライン川の横断は、東岸での迅速な低空パラシュート降下とレマーゲンの橋の奪取によって行われた。




2022年2月27日日曜日

日本軍は日露戦争で摩天嶺の戦いの後に、千山山脈にある山地にロシア軍兵士の死体を集積して、塹壕に投げ込んでは土中に埋めた。

日露戦争にて摩天嶺の戦いの後に、日本軍はロシア軍兵士を捕獲して捕虜にした。日本軍はロシア軍兵士の負傷者と戦死者の死体を、摩天楼から後方に移送した。摩天嶺の周辺の高地上に、ロシア軍兵士の負傷者と死体を集積して待機させた。その後に集積したロシア軍兵士の死体を、千山山脈にある山地の塹壕に投げ込んでは土中に埋めた。摩天嶺の犠牲者は、日本軍は約355人が戦死傷して、ロシア軍は約1,213人が戦死傷した。

 日露戦争において、1904年7月10日から7月17日にかけて、摩天嶺の陣地の日本軍に対してロシア軍が攻撃して摩天嶺の戦いが勃発した。摩天嶺は、中国の清国の遼寧省の東部にある千山山脈にある山地である。旅順攻囲戦により、旅順の要塞を喪失したロシア軍は、遼陽に向けて撤退していた。1904年4月30日から5月1日まで満州へ向かう日本軍は、鴨緑江の渡河を阻止するロシア軍と鴨緑江会戦が勃発した。日本軍は、5月1日に鴨緑江を渡河した。1904年5月1日の鴨緑江会戦は、日本軍は川を渡った後に、ロシアの陣地を襲撃した。ロシア軍の東アジア戦線での敗北は、日本軍は弱体して戦争は短期に終結する予想に反して、ロシア軍は圧倒的な軍事力である西洋の認識を初めて取り除いた。逆に日本軍は、西洋の軍事力に匹敵したと有頂天となった。その後に日本軍は、さらに遼陽の途上にある摩天嶺まで侵攻した。

 日本軍は、1904年7月10日にロシア軍に正面攻撃するも、ロシア軍は日本軍の約2.5倍という大軍により、日本軍を摩天嶺の西方から砲撃をした。日本軍は転位して7月13日に摩天嶺の峠を占領した。日本軍は陣地を構築していた摩天嶺から、ロシア軍を頑強に攻撃した。日本軍からロシア軍は側面からの攻撃を受けて、ロシア軍の東部兵団は王家堡子の方面に撤退した。遼陽に向かう難所である山脈の頂上であった摩天嶺を占領した日本軍は、満州の遼陽会戦に向けて侵攻した。摩天嶺を損失したロシア軍は、遼陽に向けて撤退した。




2022年2月26日土曜日

25人の広島の原爆乙女が身体的顔貌の醜状で、18か月以上もニューヨークのマウントサイナイ病院で約138回も形成外科を受けた。

1945年8月6日の広島原子爆弾により、若い女性の被爆者は、身体的な顔貌の醜状により、アイデンティティ、自尊心、セクシュアリティを阻害された。遺伝的影響の恐怖は、身体的接触や将来の子供に放射する認識から、スティグマ(汚名)を着た。女性の被爆者は他者化の対象となり、限界的な存在、身体は忌まわしいもの、生きられないもの、住めないものとみなされた。原爆投下時に子どもであった被爆者は、孤独な存在である同情と絶望を感じ、「原爆乙女, Hiroshima Maidens」と認識された。アメリカの一般市民は、初めて被爆者と出会い、傷跡を通して、広島の隠された非人道的結果を可視化した。生と死の狭間に存在する彼女たちは、醜態を作り出したアメリカの介入によって、死の仮面を脱ぐことになった。彼女たちは、爆弾痕、原爆痕、ヒロシマ痕、とさまざまに形容された。原爆投下から10年、彼女たちは人生の大半を被爆者として過ごした。原爆乙女たちは、原爆による生理機能の停止を懸念していた。ケロイド状の傷跡を含む顔の醜さは、地元では身体的な汚染の兆候と認識された。ケロイド少女として知られ、限界的なデスマスクを感傷的に扱われた。年齢を重ねるにつれ、原爆乙女たちは、通常の同世代の女性たちから孤立した。

 ABCC(原爆障害調査委員会)は、被爆者の研究はするが診療は全く行なわなかった。サタデー・レビュー・オブ・リタラチャー誌の編集者であったノーマン・カズンズは、1955年5月5日に、谷本清牧師と共に、25人の若い女性被爆者を米国に招き、再建整形手術を受けさせた。ニューヨークのマウント・サイナイ病院で形成外科を受けた。渡米中に18か月以上にわたって女性に対して138回の手術が行われ、中林朋子だけは、軽度の再建手術で心停止により死亡した。アメリカが医療と慈善活動の究極の先駆者であるも、その他16人の女性は大阪と東京で手術を選択した。アメリカの美学を、中流階級のクエーカー教徒のホストファミリーは、原爆乙女たちに求めた。髪型を整えられ、高価なツイードのスーツ、エレガントなシャツ、カシミアのセーターなどを贈られた。絵画や看護、秘書などの趣味を持つことも奨励された。原爆乙女たちの治療に用いられた再建外科技術は、形成外科で適応・輸出された。

 原爆乙女のうち2人は、谷本清牧師と家族とともに、アメリカのテレビ番組(This is Your Life)に招待され、スクリーンの後ろに隠れて可視化された。司会者エドワーズは観客に「彼女たちを困らせないために、顔は見せない」と言った。エノラ・ゲイの副操縦士で、ロバート・ルイス中尉は、原爆投下は命令に従って、「8時15分、原爆が投下された。放射線と爆弾の影響から逃れるために、すばやく方向転換した。まず大きな閃光があり、次に2つの衝撃波が爆撃機を襲った。その直後、私たちは何が起こったのか確認するために後ろを振り返った。すると目の前に、広島の街が消えていた。私は後で、"何てことだ、私たちは何をしたのだろう "」と書き留めた。彼は罪悪感とうつ病が重なり、1950年代後半には一時的に施設に収容された。その後に彫刻家として、「広島の神の風」と涙で流れ落ちるきのこ雲の巨大な彫刻を丹念に作り上げた。

 1956年6月12日にニューヨークから中村朋子さんの遺骨とともに出発した。原爆の乙女たちは身体的特徴を取り戻すことができたが、彼らの帰国は、彼らを歓迎する人々と西洋の操り人形と見る人々の間で分裂した。原爆乙女たちが帰国した翌1957年、日本で原爆医療法が制定された。





2022年2月25日金曜日

ドイツ軍のV-2ロケットが、ベルギーのアントワープのテニアス広場を襲って、爆死した少年の死体とトラックが路上で燃え上がった。

1944年11月27日に、ドイツ軍のV-2ロケットが、ベルギーのアントワープのテニアス広場を襲った。V-2ロケットにより爆死した一人の少年の死体とトラックが、燃え上がり路上に放り出された。当時は、イギリス軍の輸送隊が、テニアス広場を通過しており、連合軍兵士約26人を含めて約126名が殺害された。

 1944年9月4日に、イギリス軍はベルギーのアントワープを占領した。ドイツ軍はアントワーク港に通じるスヘルデ河口を広大な要塞と化し水路を機雷で塞いで、連合軍の補給船が港に入るのを妨害した。イギリス軍とカナダ軍は約13,000人以上の死傷者を出して、1944年11月3日にドイツ軍の要塞であったスヘルデ河口周辺を占領した。フランスのノルマンディー海岸から物資を輸送から、連合軍の最初の補給船団がアントワープ港に1944年11月28日に入港する前日であった。

 第二次世界大戦最後の大規模な反攻作戦として、ドイツ軍はアントワープ港の封鎖を標的とした。V-2ロケットは世界初の大陸間弾道ミサイルで、重量は約12.7t、高度約96km、時速約5,632kmで、音速の2倍以上で飛翔する。V-2は、ミサイル音を聞く前にアマトール高爆薬を打ち込んだ。連合国軍はロケット開発に約20年遅れて、V-2ロケットの有効な防御手段がなかった。もしV-2が半年から1年早く完成したら、欧州戦線の行方は不明であった。

V-2ロケットは世界初の弾道ミサイルである。1944年9月にロンドンへのV-2ロケット砲撃により、爆発の範囲は約32kmまで広がった。ペーネミュンデ陸軍研究所にて、ウェルナー・フォン・ブラウンがドイツ軍のミサイル開発を主導した。第二次世界大戦終了後、約300基のV-2ロケットともに、ブラウンらはアメリカに連行されて、アメリカ航空宇宙国(NASA)のアポロ計画を主導した。1944年にドイツ軍のミサイル兵器は、連合国軍に恐怖を与えた。

 1945年3月27日に、V-2ロケットがロンドンのホワイトチャペルを襲い、134人の死者を出した。ロンドンに落ちた最後のV-2は、オーリントンで1人の死者を出した。最後のV-2ロケットがアントワープを襲ったのは1945年3月27日である。第二次世界大戦中、V-2の攻撃で死亡した軍人と民間人は約9,000人以上と推定されている。

 1945年12月16日、アルデンヌ地方でのドイツ軍の反攻の初日に、史上最も破壊的なV-2の一撃が行われた。その日曜日に、約1,120人以上の熱心なベルギー市民と連合軍兵士が、ハリウッド西部劇「平原人」のゲーリー・クーパーを見るために、レックス劇場に詰めかけた。午後3時20分に、V-2ロケットが音速の3倍の速さで屋根を突き破り、劇場は突然まばゆい閃光とともに爆発した。爆発で劇場は破壊され、瓦礫の山と化し、約537人が即死して、約700人以上が負傷した。西部戦線で最も大きな犠牲を出した空挺兵器による攻撃であった。第二次世界大戦の最後の数ヶ月の間に、約3000発以上のV-2がドイツ軍から発射され、ロンドン(約1358)とアントワープ(約1610)が大部分を受けた。アントワープは、アルデンヌ地方で最後の大攻勢で約590発の直撃弾を受けた。アントワープはロンドンよりも多くの V-2 攻撃を受けた。

 1942年に初めて発射された移動式発射台で、V-2ロケットは人類で初めて宇宙に到達した兵器であり、高さ約105kmまで到達できた。約1,402回のV-2ロケット攻撃により、イギリスでは約2,754人の民間人が殺害され、約6,523人が負傷した。非常に高価で複雑なミサイルは、1発あたりで約2人を殺害して、約6人を負傷した。V-2ロケットは戦争で使用した成果よりも、製造に起因する負担が多大であった。しかし、V-2ロケットは第二次世界大戦後に、主要国による誘導ミサイル開発の起点となった。




2022年2月24日木曜日

第二次世界大戦の東部戦線で、コルスン包囲戦が勃発して、ソビエト軍がウクライナのドニエプル川沿いでドイツ軍を大量虐殺した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、最も残酷なコルスン包囲戦が1944年1月24日から2月16日まで勃発した。ソビエト軍が、ウクライナのドニエプル川沿いで、ドイツ南方軍集団を包囲した。ソビエト軍は包囲したドイツ軍を崩壊したが、ドイツ軍は包囲外の救援軍と連携して包囲網を突破した。包囲されたドイツ軍兵士の約3分の2が脱出でき、残りの約3分の1は戦死傷あるいは捕虜となった。包囲された絶望的なドイツ軍は、2月16日23時になって司令部から、ヒトラーを無視した脱走の合い言葉「自由、目標、リシャンカ」の無線を傍受した。2月17日午前0時に、ドイツ軍は最後の補給を終えて、銃や車両を破壊してて、負傷者は横たわったまま戦死した。ドイツ軍が平地に入ると、ソ連軍の戦車が突撃し、逃げ回るドイツ軍兵士を追い詰めては虐殺した。湿った雪で覆われた地面を、ソ連軍の戦車が直進して、ドイツ軍兵士を足跡で押しつぶして殺害した。ソ連軍兵士は戦車から離れては、丘の上の避難所に逃げ込んだドイツ軍兵士を追い詰めては虐殺した。戦線に沿って必死に前進するしかないドイツ軍は、甚大な死傷者を出した。2月18日には、「自由ドイツ国民」委員会の勧告に応じて停戦して脱走しようとしたドイツ将軍のヴィルヘルム・シュテマーマンは、ナチス親衛隊によって射殺された。





 ウクライナの首都キエフから南に約180kmのチェルカ−スィ州の都市コルスンで、ソビエト軍は、1月24日に約60,000人ものドイツ軍を包囲した。スターリンは、ソ連軍にはヒトラーの追随者もしくはファシストどもは完全な絶滅を厳命していた。ロシアの厳寒、劣悪な地盤条件、護送団への絶え間ない空襲、頻繁な攻撃によって、ドイツ軍は弱体化していた。天候の悪化により雪解けで泥濘化した大地で、移動が鈍化したドイツ軍に、ソビエト軍は降伏を要求して喧伝した。2月12日から、ドイツ軍は包囲内の北方の部隊を撤退させ、脱出のために再編成を行った。2月16日に、ソビエト軍は包囲したドイツ軍の周辺に激しい砲撃とロケット砲の攻撃を注ぎこんだ。ソビエト軍は爆撃機により、爆撃と地上掃射を行って、至る所に破壊され放棄された車両や戦死傷者が散乱して瓦礫が雪上に残存した。ロシア軍の戦車が現れて、マッチ箱のようにカート上の負傷者を1台ずつ粉砕した。ロシア軍は馬を機械で銃撃し、負傷者を掃討して、馬を線路の下に押しつぶした。2月17日に雪解けで泥流化した支流を渡河して、溺死、凍死、残骸が流出した。2月16日終末には、河川での戦闘は終結して、コルスン包囲戦から生存者の大半が渡った。ドイツ軍は、当初の約5万6千人のうち約3万5千人近くが脱出して救出されて、約1万人以上のドイツ軍兵士が死亡して、約1万7千人が捕虜となった。コルスン包囲戦の犠牲者は、ドイツ軍は戦死が約19,000人と戦傷が約11,000人、捕虜が約18,000人に及んだ。ソビエト軍は、戦死・行方不明が約24,286人と戦傷が約55,902人に達した。




2022年2月24日木曜日の世界協定時間(UTC)午前3時(ウクライナでは午前5時頃)に、ロシア軍がウクライナ東部から軍事作戦を開始した。

2022年2月23日水曜日

太平洋戦争の沖縄戦にて、アメリカ軍兵士はシュガーローフの戦いにて、殺害した日本軍兵士の死体を1945年5月15日に見下した。

太平洋戦争の沖縄戦にて、アメリカ軍兵士はシュガーローフの戦いにて、殺害した日本軍兵士の死体を1945年5月15日に見下した。シュガーローフには、粘土質で、潅木や樹木が点在した穏やかな高台の下で、約2,000人の日本軍兵士が潜伏して、数百の機関銃、迫撃砲、手榴弾、梱包爆薬による致命的な攻撃をアメリカ軍に与えた。シューが−ローフと南方のホースシュアと東方のハーフムーンの3つの高地が、那覇と首里の司令部の主要な西端の防衛線となった。シュガーローフの戦いで、アメリカ軍兵士は約2,662人が戦死傷して、約1,289人が戦闘神経症に陥り、日本軍側の犠牲は約2,500人が戦死したと推定された。

 沖縄戦において、1945年5月12日から5月18日にかけて、安里五二高地と呼称したシュガーローフ(Sugarloaf)の戦いが勃発した。日本軍はシュガーローフから、アメリカ軍に対して猛烈な迫撃砲弾や斬り込み突撃をした。日本軍は、シュガーローフの南にある馬蹄ガ丘や東側の大道森の洞窟に潜伏した。アメリカ軍は集中砲火により、前後しながらシュガーローフ高地に突撃して肉迫して、丘の頂上では激しい手榴弾戦に陥った。高地の頂上では約11回も交互に占領する激しい戦闘が繰り返された後に、5月18日にアメリカ軍が占領した。

 アメリカ軍は5月15日に、日本軍陣地である首里高地に繋がる大名高地と大名渓谷を侵攻した。多数の突出した岩山から谷間もある不規則な地形の高大地であった。甚大な砲撃を受けて岩山が炸裂して、塹壕や洞窟に穴が空いて、瓦礫の山に様変わりした。日本軍から猛烈な砲火に、戦車と連携するアメリカ軍兵士は、溝や穴に伏せて身を守り、離れては射撃した。日本軍兵士がアメリカ軍の戦車に対して、捨て身の自爆攻撃を仕掛けた。日本軍兵士は、山の裏側にある巨大な洞窟の中から、夜間に襲撃して撃退された。アメリカ軍は火炎放射器の戦車からの砲弾が大地を焦がしながら侵攻した。



2022年2月22日火曜日

ロシア革命後の内戦の中で、多くの無実の民間市民が大量虐殺されて人命が奪われたロシア人の膨大な死体が路上に集積された。

ロシア革命後の内戦の中で、多くの無実の民間市民が大量虐待と大量虐殺された。殺害されて人命が奪われたロシア人の膨大な死体が路上に集積されていた。白軍の白色テロに対抗して、人民委員会も赤軍による赤色テロを喧伝した。その他に、ソビエト秘密警察であるチェーカーによる残虐なロシア人の抹殺も加わった。

 ロシアのニコライ2世の君主制は1917年2月革命によって打倒されて、ロシアは政治的流動状態になった。ロシア共産主義であるボルシェビキ主導の十月革命により、ロシア共和国の臨時政府を打倒した。ボルシェビキ政権の共産主義のために戦った赤軍と政治的君主主義を支持する多様な利益を含む白軍が内戦に陥った。白軍側は複数の軍隊が別個に蜂起して分離していた。1917年4月から労働者にから紅衛兵を募集して、12月5日から秘密警察であるチェーカーで補強した。令状も無く無制限に市民を逮捕して、無実の罪で処刑された。その名称はGPU・OGPU・MVD・NKVDから1954年にKGB(プーチンは約16年間諜報員)に変更された。最高機関である人民委員会は1918年1月28日に赤軍を結成を開始した。1918年6月から地方の農民を赤軍に徴兵を開始して再編成した。

 ボルシェビキ政権は1918年3月3日にドイツ帝国とは緊急和平のブレスト・リトフスク条約を締結した。バルト三国、ベラルーシ、ウクライナの広大な領域をドイツ帝国に割譲した。1918年3月からイギリス軍がムルマンスク、4月5日に日本軍はウラジオストックに上陸して、1918年5月からロシアのチェコスロバキア軍団がシベリアで反乱を起こした。連合国はロシア北部とシベリアへの介入を開始した。1918年7月17日にニコライ二世家族全員は射殺された。1919年3月から白軍が南方と北西と東方から侵攻するも、赤軍が6月に東方、10月に南方と北西の白軍を撤退して、白軍は大きな損失を被った。1920年3月に残存した白軍はクリミア半島に集結して11月14日に崩壊した。1923年6月にヤクートで白軍が壊滅してロシア内戦が終結した。フィンランド、エストニア、ラトビア、リストアニア、ポーランドなどの旧ロシア帝国の西部地域で独立した主権国家は、やがて共産主義のソビエト連邦に統合された。ロシア内戦にてボリシェヴィキの残虐行為は、帝政ロシア時代よりも非人間的犯罪行為であった。ロシア内戦中には、約700万人から1,200万人にも死傷者が出て、ほとんどが民間人が犠牲となった。














  

 ウクライナでは、1917年2月ロシア革命によりロシア帝政が崩壊すると、3月14日にウクライナ中央協議会がキエフで成立した。1918年1月9日にウクライナ人民共和国はキエフで独立宣言して、2月8日にロシア赤軍が占領したキエフを2月9日に奪還した。ドイツ軍が撤退して、1919年1月6日にウクライナ・ソビエト社会主義共和国を樹立した。1919年から1920年に、ウクライナ軍・赤軍・白軍・緑軍・黒軍・連合軍が錯綜して、1920年冬に赤軍が全域を占領した。1921年3月18年にポーランドが侵攻して西ウクライナを占領した。1918年にクリミアは赤軍に占領された。1922年12月にソビエト連邦を形成して自治共和国となり、ウクライナは搾取されて2度の大飢饉で約400万から約1,000万人のジェノサイド(民族絶滅)された。


【ロシアのプーチン大統領は2014年2月23日にクリミア半島に侵攻した。2022年2月22日には、ウクライナ東部の親ロシア派の地域の独立を承認して、平和維持軍を名目にロシア軍の派遣を命令した。】

2022年2月21日月曜日

ソ連軍が開放したハンガリーでは、大量虐殺されたユダヤ人の死体が発掘され、死体の制服には識別する黄色の星の紋章が装着されていた。

ソ連軍は、1945年1月18日にハンガリーの首都ブダペストの大密集したユダヤ人のゲットーを解放した。2月13日にソビエト軍がブダペストを占領した。開放された地域では、大量虐殺されたユダヤ人の死体が発掘された。病気と窮乏から、変わり果てた死体が発掘された。殺害されたユダヤ人の死体の制服には、識別する黄色の星の紋章が装着されていた。

 ハンガリーでは1938年3月から反ユダヤ法を可決した。ユダヤ人に対する差別的な法律と広範な反ユダヤ主義にもかかわらず、ブダペストのユダヤ人コミュニティは比較的安全であった。ハンガリーは1941年3月25日にナチスドイツと枢軸国同盟を結んだ。1941年の夏に、ハンガリー当局は、約18,000人のユダヤ人を、ウクライナのカメネツィポドルスクに強制送還して、ナチスのアインザッツグルッペンの殺人分遣隊に銃殺された。1942年初頭に、ハンガリー軍と警察は約1,000人のユダヤ人を、パルチザン容疑で殺害した。

 ドイツ軍が1944年3月19日に枢軸国同盟から脱退するハンガリーを占領した。1944年5月14日から、ハンガリー当局は、ドイツの治安警察と親衛隊大佐アイヒマンと協力して、ハンガリーのユダヤ人を組織的に国外追放した。約2か月足らずで、約437,402人のユダヤ人を約145本以上の列車で、ハンガリーからほとんどアウシュヴィッツ強制収容所に強制送還した。被追放者のユダヤ人の約80%が到着時に、毒ガス処刑された。

 ハンガリーのブダペストに設置されたナチスのゲットーに、極右翼ファシストの矢十字党の命令により ユダヤ人は強制移住を余儀なくされた。矢十字党は、1944年10月15日から1945年3月28日まで権力を握って、ゲットーは1944年11月29日から1945年1月17日まで存在した。約70,000人のユダヤ人をわずか約0.26平方キロメートルの地域に強制移住させた。1944年11月から12月にかけて、ハンガリー警備隊は数千人のブダペストのユダヤ人を、オーストリア国境まで徒歩で死の強制行進させた。1944年12月から1945年1月末まで、矢十字党はゲットーから約2万人ものユダヤ人を連行して、ドナウ川の沿岸で銃殺して死体を川に投げ入れた。1941年にハンガリーに居住した約825,000人のユダヤ人のうち、1944年3月のドイツ占領前には、約63,000人が死亡または殺害された。ナチス・ドイツ占領下から開放までに、約50万人強が虐待または殺害で死亡した。