2021年12月4日土曜日

広島原子爆弾の爆心地東南東に約2.6kmの第1国民学校は、比治山で爆風や熱線が防御されて、救護所に活用されて被爆者が殺到した。

広島原子爆弾の爆心地から東南東に約2.6kmの広島市段原山崎町の第1国民学校(現在の段原中学校)に救護所が開設された。第一国民学校は、比治山によって、1945年8月6日午前8時15分の原子爆弾の投下から炸裂の爆風による崩壊や熱線による火災が防御された。段原地域には、広島市内から被爆者が殺到して、その救護所として第一国民学校が活用された。原子爆弾が炸裂した直後から、救護所が設置されて、陸軍暁部隊から軍医、その後に郊外からの救援が届いた。講堂や工業教室の校舎は多数の被爆者の救護所として活用され、10月上旬まで被爆者を収容した。 校地の一部を仮火葬場として使用した。救護所を解散した後に、教室を整備して、10月中旬頃から開校した。  
   広島原子爆弾により、第一国民学校は爆風により、北側の木造校舎は倒壊した。そのほかの校舎や講堂なども、窓枠や窓ガラスが破壊された。被爆後に倒壊と火災の発生は免れた、鉄筋コンクリート造の東校舎と講堂は臨時救護所とんなった。1945年10月上旬まで多数の被災者を収容した。被爆時に第一国民学校内では、原子爆弾炸裂の一瞬、北校舎の倒壊により学校長・教頭・現業員の三人は倒壊校舎の下敷きとなり、打撲や切傷を全身に受けたが、自力で脱出した。給食係の女生徒のうち一人は行方不明となって、約1か月後校舎の倒れた下から死体が発見された。  
  被爆日に、第一国民学校の約671人の生徒は学校を不在していた。爆心地から南東約1.5kmの広島市昭和町(現在の中区)で、建物を破壊して火災の延焼を防ぐ建物疎開作業の跡片づけしていた約150人のうち約60人が被爆死した。教職員が約11人と生徒が約51人が犠牲となった。昭和町方面の家屋疎開作業に出動中の教職員および生徒全員は、衣服を裂かれたり、火傷したり、吹きとばされたり、負傷したりした。あるいは比治山橋付近まで逃げ延びて、灼熱の苦しさに川に飛びこんだり、流されて溺死したり、逃げ延びる途中で、力つき倒れたり、凄惨な被爆の犠牲者となり、その正確な死亡者数はつかめなかった。引率の教員も全身に大火傷を受けた。  
   広島市が指定していた中心部の病院以外の救護所は大きな損害を受けて、被爆者の多くが市周辺部の指定された国民学校や寺社などの救護所へ避難した。一部の被爆者は、川べりや橋の周りに留まった場所が救護所になった。周辺部の練兵場や飛行場その他の広場も、被爆者が多く避難して救護所になった。



2021年12月3日金曜日

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いの終盤で、日本軍とアメリカ軍がアウステン山での戦闘が勃発して、ジャングルの中で9人の日本軍兵士が殺害されて死体が散乱した。

太平洋戦争で1942年8月7日から勃発したガダルカナル島の戦いの終盤で、日本軍とアメリカ軍がアウステン山での戦闘が勃発した。ジャングルの中で9人の日本軍兵士が殺害されて、死体が散乱した。日本軍の陣地内では、ほぼ全員が戦闘態勢のまま死亡した。補給も途絶えて形成不利となり、1943年1月23日午前2時30分に最後の特攻を指示された日本軍兵士は、約100人が戦死した。アウスティン山周辺だけで、日本軍兵士は約400人が戦死して、アメリカ軍兵士は約112人と戦傷者は約268人に及んだ。

 1942年12月15日から1943年1月23日に、ガダルカナル北部のマタニカウ川付近の丘陵地帯で、主にアメリカ軍と日本軍の戦闘が勃発した。アメリカ軍兵士は、ソロモン諸島の先住民にも支援されて、丘や尾根の上で要塞化された日本軍陣地を攻撃した。最も目立つ丘は、アメリカ軍によってアウステン山、ギャロッピング・ホース、シーホースと呼ばれた。アメリカ軍はガダルカナルの日本軍の防御陣地を崩壊した。双方ともに、戦地の鬱蒼としたジャングルや熱帯の環境の中での戦闘は非常に困難で悲惨であった。アメリカ軍の多くは、初めての戦闘に参加した兵士であった。日本軍はほとんど補給を受けることができず、栄養失調と病気に苦しんだ。苦戦の末に、アメリカ軍はアウステン山の奪取した。その過程で日本の山地地帯であるギフ(岐阜)と呼ばれる強固な防御陣地や、ギャロッピング・ホース、シーホースなどを占領した。12月31日に大本営ではガダルカナル島からの撤退が決定された。日本軍はガダルカナルの放棄を決定し、ガダルカナル島の西海岸のエスペランス岬に撤退した。1943年2月の第1週に、生き残った約12,682人の日本軍兵士は無事に撤収した。

 アウスティン山の高さは約560mで、ガダルカナル島の尾根や谷間にある一つの丘であった。ジャングルが、熱帯雨林の巨木で、まっすぐな幹を高く伸ばしてから枝を広げ、絶対に日の当たらない屋根を形成した。幹の間の地面には、巨大なシダ類、イバラ類、あらゆる種類のつる性植物やヤシの木のような植物が密集した。オースティン山の戦いで、熱帯条件での負傷感染や病気により兵士は死に続けて、これらの損失に加えて、熱帯病、暑さ、戦闘の士気の低下を伴った。アウステン山の戦い頃から、立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。まばたきしなくなったものは、明日と生命の予後が示唆された。




2021年12月2日木曜日

アメリカ軍兵士は、1967年のベイカー作戦にてベトナム戦争で殺害したベトコンの死体の口に、スペードのエースを入れた。

アメリカ軍兵士は、1967年のベイカー作戦にてベトナム戦争で殺害したベトコンの死体の口に、スペードのエースを入れた。銃撃戦の後に、殺害したベトナム人の死体に、デス(死)カードであるスペードのエースを残した。アメリカ軍兵士たちは見えないベトコンへの恐怖に常にさらされて、恐怖にさまざまな方法で対応した。死は最後には誰にでも訪れるものであり、王であっても逃れることはできない切り札としてスペードのエースを使用した。

  ベトナム戦争で、アメリカ軍兵士がスペードのエースを使った民間伝説が広まった。アメリス軍兵士はスペードの象徴は死と不幸を意味すると考え、迷信深いベトコンや北ベトナム軍兵士を怖がらせて士気を下げるために、殺害したベトナム人の死体にスペードのエースを誇らしげに置いた。狼のように、自分たちの縄張りを示すために、森や野原にもカードをまき散らかした。この習慣は非常にアメリカ軍兵士の真理に効果的であった。しかし、ベトナム人にはスペードのエースを死の象徴として恐れる文化的根拠はなかった。カードは空襲の際に、ベトナムの村やジャングルにわざとばらまいた。スペードのエースは、ベトコン人にとって迷信的な恐怖の象徴ではなかった。アメリカ軍兵士の士気を高める効果があった。反平和のサインとして、カードをヘルメットに貼り付けた。

 スペードのエースは、戦争の場で使用された。第一次世界大戦では、イギリス軍がスペードのエースを徽章として使用した。 第二次世界大戦では、インド陸軍がが緑地にスペードのエースを徽章として使用した。第二次世界大戦では、アメリカ軍兵士は、ヘルメットの側面にスペードのマークが描かれていた。アメリカ軍がカードを死のシンボルとして使われたのは、第二次世界大戦の頃からである。トランプ遊びの幸運を表すために使用された。それから約20年後の2003年のイラクのフリーダム作戦で、アメリカ軍兵士に配布されたイラク人指名手配のトランプには、写真が描かれた。

 スペードのエースが関連する冬の始まりであるユールは、昔の農民が恐れていた日であった。冬の始まりは飢餓の時代、つまり狼の時代の到来を告げるものであった。スペードのエースは、12月21日から始まる冬の第1週を表した。物資が不足し、最後の肉が屠殺され、数ヶ月後に食べるために熟成された。死者には供物が捧げられ、高齢者は自分の番が回ってきたときのために、最後の願いを伝えておいた。






2021年12月1日水曜日

極右翼であるネオナチの若者が、ドイツ・ミュンヘンで開催されたビール祭りであるオクトーバーフェストで爆破事件が炸裂した。

1980年9月26日22時19分に、ドイツ・ミュンヘンで開催されたビール祭りであるオクトーバーフェストで爆破事件が炸裂した。メインエントランスで即席爆発装置(IED)が爆発した。救助隊の前に横たわる被害者と正面玄関の歓迎ゲートが後方に写っている。ドイツの検察当局は水曜日、1980年にミュンヘンのオクトーバーフェストで13人が死亡、約221人以上が負傷しそのうち約68人が重傷となったと発表した。重傷者の中には、命にかかわる火傷を負った人も多くいた。手足の切断や臓器の摘出を余儀なくされた。死者の中には、襲撃容疑者である21歳の学生であったグンドルフ・ケーラー(Gundolf Köhler)も含まれており、彼は禁止されている極右団体の支持者であった。ケーラーの扇動者、内通者、共犯者は証明も排除もできなかった。

 1980年にミュンヘンで起きたオクトーバーフェスト(Oktoberfest)の爆弾テロ事件の容疑者のケーラーは、極右思想が動機となっていたとドイツ連邦検察が公表した。彼は、ビール祭りの入口にあったゴミ箱に仕掛けた爆弾を炸裂させて、13人の死者のうちの1人となり、約200人以上が負傷した。ケーラーと極右過激派(ネオナチ)との関係が明らかになった。連邦検察官は、ケーラーが、禁止されているネオナチの民兵組織で訓練を受けて、ベッドの上にはナチスの指導者であるヒトラーの写真を飾っていた。1972年のミュンヘンの大虐殺と並んで第二次世界大戦後のドイツで最も死者を出した。ドイツ当局は極右過激派の危険性を軽視して、右翼的な過激主義を容認していると非難を受けた。近年の極右の過激主義は、ドイツが直面する最大の安全保障上の脅威となった。

 1980年代から、極右翼であるネオ・ナチによる不法行為が多発した。爆弾テロからユダヤ人の迫害、落書きまで多様な暴動から、一連のテロ行為が暴走した。1980年12月24日のドイツ民族主義運動の労働党が武器の密輸をして、1981年10月に手榴弾のテロ行為をした。1983年11月にネオ・ナチの一揆のデモを仕掛けた。1981年12月にユダヤ人出版業者を殺害した。1982年にアメリカ軍に対する爆破攻撃をした。逮捕されて有罪になったのは主に戦後世代の低所得のドイツ人の若者であった。将来への不安感、弱肉教職の肯定と無力感から不況と外国人労働者による就職難から、青少年の一部が極右主義に迷入して暴走した。先進国には、特有なネオ・ナチ社会に共通した環境因子と個人因子が潜伏している。















爆破テロ容疑者で爆死した21歳学生のグンドルフ・ケーラー

2021年11月30日火曜日

1945年3月10日の東京大空襲後に東京本所菊川橋にて、隅田川の多数の死体を、軍隊から警防団、民間市民等も総出にて陸揚げした。

東京本所菊川橋にて、1945年3月10日の東京大空襲後に隅田川の多数の死体を、軍隊だけでなく警防団、民間市民等も総出にて陸揚げした。隅田川の川中に浮かんだ焼死体が川岸に漂着した。3月10日の東京大空襲後には、火葬能力を越えた。人目に触れないように多数の死体は、隅田河畔、上野両大師脇、六義園などに一次仮埋葬された。日本の木造の家屋はすぐに火災を引き起こし、着物にも燃え上がり、大火傷しながら焼死した。

 アメリカ空軍の約130機の爆撃機B-29により、1945年3月10日の午前0時から午前2時40分頃まで真夜中にかけて、東京は大規模な夜間空襲された。東京東京都江東区に雨のごとく約10数万発の焼夷弾が投下された。火災が四方八方から立ち登った。東京の民間市民の群れは、押し合いながら火災から盲目的に逃げ惑った。四方から燃え上がる紅蓮の灼熱地獄となり、生きながら焼かれて無残な焼死体に変貌した。隅田川の周辺で立ち往生して、風を巻きながら火災に追いやられて、河の中にずるずると突き落とされた。大火災により河の両岸にいた民間市民は窒息して黒焦げに焼け尽くした。焔に追われた江東区の被災者は、隅田川の河中で溺死した。

 東京大空襲後に隅田川には、無数の水死体と膨大な死体が浮かび上がった。身内や関係者が、肉親を探索するために集散した。東京本所菊川橋にて、1945年3月10日に隅田川の多数の死体を、軍隊だけでなく民間市民も総出にて陸揚げした。肉親の死体を目の前にして悲嘆に暮れた。死臭の漂う死体の山を探索した。一家全員が巻き込まれて行方不明として死体が処理された。市民の憩いの場である浅草東本願寺も消失して、仲見世も瓦礫の廃墟となった。

 東京は黒焦げの瓦礫の山となり、道端に無数の死体が散乱した。東京は全く機能不全に陥った。死者は約21,489人、負傷者は約4,230人、行方不明は無数であった。全焼は約233,394戸、 半焼は約557戸、罹災者は約1,045,392人の空襲の被害を伴った。翌日の3月11日の新聞には、東京大空襲だけでなく、「仏印を単独で防衛、断呼敵性勢力を一掃」とアジア民族の独立を支援して、領土的企図なしと報道した。

 それ以後約10日間に、東京、名古屋、大阪、神戸等の大都市に爆弾が投下された。B-29は、約3分の2は無差別に民間都市に、約3分の1に軍事工業地帯を標的にした。太平洋戦争を通じて日本本土にB-29等により約約160,800トンを投下した。B-29はのべ約33,041機が出撃した。アメリカ空軍は、約485機を損失して、約2,707機を損傷して、約3,041の搭乗員が戦死した。




2021年11月30日  Japan No War NGO  日本平和市民連盟
視聴回数 530,000    投稿数 1,932

2021年11月29日月曜日

ドイツ軍将校とイスラム教徒のボスニア人から編成されたドイツ軍親衛隊の山岳部隊は、ユーゴスラビアのボスニアにてクロアチア人のパルチザンを掃討して虐殺した。

1943年3月にドイツ軍将校とイスラム教徒のボスニア人から編成されたドイツ軍親衛隊の山岳部隊は、ユーゴスラビアのボスニアにて、ソ連軍から主導されたクロアチア人のパルチザンを掃討して虐待と虐殺した。ドイツ軍親衛隊の山岳部隊は、ボスニア地域の戦闘にて2人のクロアチア人のパルチザンを両手を縛ったままで虐殺した。1941年春、ドイツ国防軍がユーゴスラビアを占領し、多民族国家が崩壊した後、民族主義グループが、第二次世界大戦における最初のパルチザン部隊として、セルビアでドイツ軍との戦いに挑んだ。武装していない民兵と一緒に山の中に撤退し、そこから小規模な作戦でドイツ占領軍と戦った。民間人虐殺を避けるために、反乱軍は大きな反撃を控えた。本格的な武装蜂起は、ドイツ占領軍が小規模な戦争で疲弊して、一般的な戦況も不利になってから宣言された。

 1942年に中隊として設立されたナチス親衛隊の山岳師団であるカルストイェーガー(カルストの狩人)は、第二次世界大戦中、ドイツのナチス党の武装組織である武装親衛隊(Waffen-SS)の山岳歩兵師団であった。正式にはドイツ国防軍の一部ではなかったが、ドイツ国防軍と一緒に活動した。戦後のニュルンベルク裁判で、Waffen-SSは、戦争犯罪や人道に対する戦争犯罪に大きく関与した犯罪組織であると宣言された。山岳師団は、Waffen-SSが配備した38師団のうちの1つでした。山岳師団は、大隊、師団、旅団としての存続期間中、主にユーゴスラビア、イタリア、オーストリアの国境にあるカルスト高原でのパルチザンの掃討に従事した。山岳地帯であるため、特殊な山岳部隊と装備が必要であった。

 山岳部隊は、ユーゴスラビアやイタリアの南チロル州出身のドイツ系オーストリア人を中心に構成された。対パルチザン鎮圧に重点を置いていた。イタリア降伏後にはタルヴィジオでのイタリア軍の武装解除やイタリア国内のドイツ系民族社会の保護などにも活動した。第二次世界大戦末期にはオーストリアへの通路を確保して、ドイツ軍兵士がバルカン半島からソ連軍の追撃を脱出して、イギリス軍に降伏することを可能にした。1945年5月9日にイギリス軍に降伏したとき、山岳部隊の残党は武器を捨てた最後のドイツ軍の一部となった。ニュルンベルグ裁判のイタリアとドイツの合同調査では、イタリアが降伏してから戦争が終わるまでの間に、山岳部隊は合計約277人等のパルチザンの殺害からその他に23種類もの戦争犯罪に関与しているとされた。






ドイツ軍親衛隊山岳部隊がクロアチア人パルチザンの掃討

2021年11月28日日曜日

済南事件において日本軍兵士が、中国国民党軍兵士を殺害して、道端に散在した多数の死体を銃剣で検死した。

済南事件において日本軍ならびに中国国民党軍が衝突して双方の民間日本人と中国人を虐待と虐殺した。日本軍兵士が、中国国民党軍兵士を殺害して、道端に散在した死体を銃剣で検死した。日本軍と中国国民党軍は、1928年5月3日に日本人家族の近くで双方の兵士が衝突して、約12人の日本人が死亡した。緊張が急速に高まり、済南周辺では散発的な戦闘が勃発した。済南事件または五・三惨案が、山東省の首都済南で起こった。国民党政府は交渉官を派遣して事態の沈静化を図ったが、日本軍側は対話を拒否し、交渉官を拘束した。5月3日夜に、日本軍は済南から撤退したが、中国軍からは日本軍兵士による中国民間人への虐待と虐殺から強姦が報告された。中国軍側の首席交渉官である蔡公主をはじめとする約10人の交渉団はこの頃に処刑された。済南市外からは、日本軍の砲撃が、駐屯している中国国民党軍を民間中国人を巻き添えにして撃ちまくった。 

 1928年5月3日の早朝、春の街・済南では商店が次々と開店し、商売繁盛で街が賑わっていた。 午前9時頃、北方遠征軍の中国国民党軍が、日本軍の警戒区域を通過中とキリスト病院に移動した時に、日本軍は発砲して、同時に中国国民党軍も攻撃を仕掛けた。中国国民党軍側が日本軍と交渉した時に、流れ弾で約2人の日本軍兵士が虐殺された。 日本軍は、中国国民党軍と民間中国人を攻撃して、街中には死体があふれ、血が流れた。日本軍側は、中国国民党軍が済南の日本人に虐殺と虐待した事を口実にした。中国国民党軍側は、紛争中に最初に日本人兵士が中国人兵士の射殺を口実にした。原因は今でも不詳であり、日本軍と中国国民党側で口実が正反対に対立した。

 5月5日に、蒋介石と日本軍司令官の福田彦介は、蒋介石が日本軍の要求を受け入れる形で合意に達した。その後2日間で中国国民党軍が撤退したため、戦闘は縮小した。済南はその後約10カ月間、日本軍に占領された。日本軍は、1929年3月28日に山東省の中国各都市に進駐した。日本軍が山東省にさらに多くの軍隊を駐屯させる口実となった。中国国民党側の資料によると、済南事件では中国の軍人と民間中国人の約6,123人が虐殺されて、さらに約1,701人が負傷したを示唆した。中国国民党の蒋介石と日本の田中義一首相は済南事件後に、両国の関係を修復しようとした。蒋介石は済南事件を、自ら命令に反して中国国民党軍に済南への侵攻を命じた中国国民党軍の何耀図司令官の行動に起因するとした。

 中国国民党軍は、地方の軍閥を排除して中国を統一するため、北伐に乗り出した。国民党軍は、中国東部の山東省を支配していた韓福州を北伐の対象としていた。国民党軍が近づくと、中国の天津に駐留していた日本軍は、東京からの命令に反して、日本の利益を確保するために山東省の済南と青島に進出した。日本軍は、中国国民党軍による中国統一を目指す北伐軍の侵攻に脅かされる山東省に配備されていた。1928年4月30日、日本軍との対立を避けたい蒋介石の命令に反して中国国民党軍が済南に入った。






2021年11月27日土曜日

広島原子爆弾で、建物内は燃え尽き、窓は吹き飛び、枠は曲がった袋町国民学校のコンクリート造りの西校舎は被爆者の救護所となった。

広島原子爆弾の被害の大きかった袋町国民学校の救護所は、残存した西校舎の設備が整わず階段下に治療室を設置した。翌日から医師約2人、看護師約2人の体制で、火傷、感染症、出産などの患者約350人に対応した。その後は被爆者が殺到した。教室は病室として使われ、毎日多くの人が原爆病で死亡した。運動場は仮設の火葬場になった。1945年10月初旬には、窓ガラスもない教室の中で被爆者の外来治療が実施されていた。1階は治療所と県医療団事務所、2階が県衛生課、3階が医薬品倉庫として使われた。袋町国民学校は、1946年春まで救護所として使用された。

 爆心地から約460mにある袋町国民学校は、広島原子爆弾の炸裂によって、甚大な被害を受けた。本川国民学校に次いで2番目に爆心地に近い学校であった。生徒数が約1,600人にも達していた学童は、原子爆弾投下時には、集団疎開や田舎の親戚や知人の家に避難していた児童は助かった。しかし、炸裂時に国民学校はいた約160人以上もの児童と約16人の教師は、ほぼ全員が即死した。奇跡的に炸裂時に地下室にいた3人の生徒だけが生き残った。唯一原型をとどめていた頑丈な鉄筋コンクリート造の西校舎を除いて、木造建築物は爆風と火災ですべて崩壊し、全焼した。

 可燃物が燃えて建物に火がつき、窓は吹き飛び、枠は曲がっていた、西校舎はまだ使えた。西校舎は避難所から救護所となり、生徒、教師、学校関係者、地域住民の安否を問う場所となった。被爆者や被災者の人々は、焼けた壁に伝言を残して、床にはチョークの破片が散らばっていた。袋町小学校は1946年5月からわずか約37人の生徒から授業が再開された。

 2002年に、老朽化した校舎の建て替えに伴い、被爆した校舎の西棟の一部が、袋町小学校平和資料館として保存された。伝言が書かれた内壁など、残存している被爆資料を展示している。広島市中区袋町にある平和資料館である。1945年8月6日に原爆が投下されたとき、同校は爆心地に最も近い学校の一つであった。数日後から国民学校は救護所となり、黒く焼けた壁は行方不明者を探すための伝言板となった。


















2021年11月26日金曜日

サイパンに上陸したアメリカ軍兵士が、日本軍からの迫撃砲の破片を受けて、倒れ込む姿の瞬間が撮影された。

サイパンに上陸したアメリカ軍兵士が、日本軍からの迫撃砲の破片を受けて、倒れ込む姿の瞬間が撮影された。砲弾が付近で爆発したときの爆風の衝撃でカメラが揺れて画像がぼやけた。サイパン上陸作戦が執行された1944年6月15日以降から、日本軍からの攻撃は激しかったが、7月9日にはサイパン島はアメリカ軍の支配下に入った。

 太平洋戦争のサイパンの戦いは、1944年6月15日にアメリカ軍がチャラン・カノア海岸に上陸してから7月9日まで勃発した。日本軍によるサイパンの海岸への砲撃は容赦なく射撃されて、アスリト飛行場、ヒル500、タポチャウ山からの砲撃が、アメリカ軍兵士を襲った。アメリカ軍は砲撃を受けて、死傷者が続出した。中央のアフェトナポイントでは、アメリカ軍兵士が激しい銃撃により、敵の背後を突くために北に進路を変えた。

 サイパン北部の海岸に到着して数分後に、アメリカ軍兵士の約4人が、日本軍兵士の銃弾に倒れた。あるアメリカ軍部隊は、わずか11mのビーチヘッドを維持するのに必死で、アメリカ戦艦による激しい砲撃があって、海に押し戻されるのを免れた。

 アメリカ軍が海岸を離れようとすると、日本軍から激しい抵抗に遭った。ある小隊が海岸に上がると、日本刀を振った日本軍兵士が突進してきた。ハーベイ少尉はカービン銃で日本刀防ぎ、銃撃した。若いアメリカ軍兵士が砂浜に顔を押し付けて倒れていた。怯えた若いアメリカ軍兵士は「僕は動けないんだ。怖くて動けないんだ」と叫んだ。

 海岸上陸の初日終了時には、約2万人のアメリカ軍兵士が長さ約9.1km、縦がせ約1,370mの上陸拠点を防御した。アメリカ軍兵士は約2,000人の死傷者を出しながらも、サイパン内陸部への侵攻を継続できなかった。

 夜間になると、日本軍の反撃を待機するために身を潜めた。一晩中、日本軍はアメリカ軍の弱点を探っていた。左翼側で、約1,000人以上の日本軍がアメリカ軍を襲撃した。3隻のアメリカ軍の駆逐艦が海岸に近づいて、星型の砲弾を日本軍陣地に向けて砲撃した。不気味な夜間の光の中で、アメリカ軍の戦車、駆逐艦の砲撃、徒手格闘などにより、ついに日本軍の攻撃を撃退した。目の前には約700体の日本軍兵士の死体が散乱していた。

 海岸に上陸して翌日の6月16日に、アメリカ軍はゆっくりと内陸に侵攻した。アスリト飛行場を見下ろす尾根に到達した。海岸では、山のような物資を荷揚げした。その夜に、日本軍は太平洋戦争で初めて戦車による夜間攻撃を行った。日本軍兵士を乗せた約40台の戦車が谷間から流れ出し野原を横切った。日本軍は戦車の砲塔から指示を出し、戦車から飛び降りて日本刀を振った。駆逐艦から発射される砲弾が、夜を昼に変え狙い撃ちにした。ある機関銃隊は、突進してくる日本軍兵士に約1万発もの弾を撃ち込んだ。バズーカ砲や戦車砲で、群がる日本軍戦車を至近距離から攻撃した。海兵隊員は、敵の戦車がユニフォームにオイルを垂らしながら頭上を通過すると、フォックスホールに身を潜めた。他の海兵隊員は、木の板を戦車の踏面に詰め込んで戦車の動きを止め、手榴弾をハッチから落とし、日本の将校が何が起こったかを確認するために出てきました。戦いが終わったとき、約300人の日本軍兵士が殺害されて、約28台の戦車の残骸が燃えた。



2021年11月25日木曜日

ベトナム戦争でサイゴンに向かうバスが、殺害された北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線(ベトコン)兵士の死体の側を通り過ぎた。

ベトナム戦争にて、サイゴンに向かうバスが1972年8月29日に、殺害された北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線(ベトコン)兵士の死体の側を通り過ぎた。サイゴンから南西約90kmのカイペで殺害された多数のベトコンの死体が、道端に並べらて散在していた。バスの窓際から、乗客と南ベトナム軍兵士らが、平然とベトコンの死体を眺めて通りすぎた。南ベトナムでは、北ベトナム軍とベトコンのイースター攻勢の勃発から約1年間にもわたり犠牲を受けた。

 北ベトナム軍はイースター攻勢(Easter Offensive, 復活祭攻勢, グエン・フエ攻勢)を開始し、非武装地帯やラオス・カンボジア国境を越えて、南ベトナムの複数の地域に多方面から攻撃を仕掛けた。復活祭の3日前の1972年3月30日から10月22日まで勃発した。北ベトナム軍は、ソ連や中国の新兵器、重砲、戦車などで武装した。北ベトナム軍は、大量の戦車・重砲と約10万人以上の兵士でクアンチ省を攻撃して、同時に中部高原、アンロク周辺のカンボジア国境地帯でも攻勢を開始した。南ベトナムは非武装地帯からの主要攻撃を予測せずに、南ベトナム軍は混乱に陥る。北ベトナム軍が仕掛けたベトナム戦争中で最大の攻勢であった。1972年までに、アメリカ軍は、ピーク時の約550,000人から約75,000人までに低下した。アメリカ軍は、ベトナム戦争の継続が弱体化していた。

  大きな損害を被った南ベトナム軍は、アメリカ軍の空爆と砲撃の支援を受けて、夏の終わりには攻勢を弱めて反転させた。アメリカ軍は1972年5月8日から、大規模な非人道的な空爆を首都ハノイとハイフォン港に1968年のテト攻勢以来に投下した。クアンチ省の戦線を奪還化して、フエ、コンタム、サイゴン周辺の攻撃をしのいだ。南ベトナム軍が、北ベトナム軍を都市部から排除した。

  北ベトナム軍は、約10万人もの兵士、多くの装甲と装備を失った。南ベトナム軍の犠牲者は約4万3千人、うち1万人が死亡した。イースター攻防戦では、約2万5千人のベトナム民間人が死亡し、約100万人が家を失った。約25,000人以上の南ベトナムの民間人が殺害され、ほぼ100万人が難民となり、そのうち約60万人が南ベトナム政府の管理下にある収容所に住んだ。平和を求める声も、国連の非難も、戦争裁判もなく、耳をつんざくような沈黙が続いた。イースター攻勢の結果、パリではアメリカと北ベトナムが軟化し、交渉では譲歩する姿勢が見られた。






2021年11月24日水曜日

太平洋戦争のニューギニアのサラモヤの戦いで、日本軍兵士はアメリカ軍の砲撃で殺害され、死体には蝿と蛆虫が湧いた。

太平洋戦争のニューギニアにて、日本軍兵士はサラモヤの戦いでアメリカ軍の砲撃により殺害された。灼熱の森林地帯で殺害された死体の周囲には蝿と蛆虫が湧いて、死臭が漂って腐敗していた。増援物資の補給も途絶して枯渇して、弾薬の深刻な不足に陥っていた。ジャングルの中で悲惨に虐殺されて死体は放置された。

 ラエ・サラモアの戦い(Battle of Lae-Salamaua, 1943年1月7日から9月16日)は、第二次世界大戦中のニューギニアにて勃発した。1942年3月にニューギニア島東部の要地であるラエとサラモアを占領していた日本軍を、オーストラリア軍を主体とする連合軍が攻撃し、ラエとサラモアを奪還した。日本軍は標高約4,100メートルのサラワケット山系を越えて撤退した。ニューギニアの連合国陸軍の大多数がオーストラリア軍兵士であった。

 オーストラリア軍とアメリカ軍は、日本軍の2つの主要基地のあるラエとサラマウアの攻略を目指した。ワウを攻撃していた日本軍がムボ周辺に撤退したために、オーストラリア軍はムボを占領して、サラマウアに向けて北東に侵攻する中で、数カ月にわたり戦闘が継続した。連合軍はサラマウア周辺で日本軍への攻撃しながら、9月初旬にはナドザブの空襲とラエ近辺に上陸を開始して、東と北西からの攻撃でラエを占領した。ラエ周辺の戦況が絶望的になるにつれて、サラマウアの日本軍は撤退して、1943年9月11日にサラマウアが占領され、直後の9月16日にはラエが陥落した。ラエ・サラモアの戦いの犠牲者は、オーストラリア軍兵士は約1,772人が戦死あるいは戦傷または行方不明となった。アメリカ軍兵士は81人が殺害されて、約396人が戦傷した。それに対して、日本軍は約11,600人が戦死あるいは戦傷または行方不明となった。

 日本軍が、ココダ・トレイルの戦い(1942年7月23日から11月13日)にて、日本軍はポートモレスビー侵攻が失敗した。1943年1月22日までにブナとゴナの橋頭堡は占領されて、日本軍がサマラヤとラエに向かって退却した。日本軍は脅威にさらされ、1943年1月にはサラマウアから約30マイル離れたワウから撤退した。3月には日本軍の輸送船団は連合国軍機に探知されて撃沈して、約3,000人の日本軍兵士が溺死した(ビスマルク海の戦い、1943年3月2日〜4日)。日本軍は、ラエ・サラモヤ地域に約11,000人の兵士で防衛したが陥落した。しかし、サラマウア基地の港や飛行場は貧弱であり、戦いの犠牲は無駄のようになった。 



2021年11月23日火曜日

プエルトルコ民族主義者が、知事を暗殺する目的で、サンファンの知事公邸に侵攻して、銃撃戦で4人の民族主義者が殺害された。

1950年10月30日、数人のプエルトルコ民族主義者が、プエルトリコの知事ルイス・ムニョス・マリンを暗殺する目的で、サンファン民族主義者の反乱であるラ・フォルタレザがサンファンの知事公邸に侵攻した。約5分間の銃撃戦の結果、4人の民族主義者が殺害された。公邸の警備員のうち、3人が重傷を負った。

 1950年代のプエルトリコ国民党の反乱は、50年以上にわたるアメリカの軍事占領と植民地支配からの独立を求めた。1898年の自治憲章の承認とプエルトリコの国際的主権を要求した。植民地時代のプエルトリコの自由連合国を否定した。1950年10月30日国民党総裁の命令から反乱が始まった。ペニュエラス、マヤグエス、ナランヒート、アレシボ、ポンセなどで反乱が起きた。最も注目すべき蜂起は、プエルトリコのウツアード、ジャユヤ、サンファンなどで起こった。8つの町で銃撃戦が勃発した。ウチュアドでは反乱分子が殺害された。ジャユヤではプエルトリコ自由共和国を宣言した。サンフアンでは、国民党が知事に選ばれたルイス・ムニョス・マリンを、公邸であるラ・フォルタレザで暗殺が失敗して4人が殺害された。

 反乱を鎮圧するために、アメリカ軍は数千人の軍隊を投入し、2つの町を爆撃した。プエルトルコの反乱にて。死者は約28名のうち、国民党員が約16名、警察官が約7名、州兵が約1名、無関係の一般市民が約4名であった。負傷者49名のうち、警察官約23名、国民衛兵約6名、国民党員約9名、無関係な民間人約11名であった。

 プエルトルコの反乱は国内だけでなく、ハリー・S・トルーマン米国大統領の暗殺計画も含まれた。1950年11月1日、2人の民族主義者がワシントンD.C.の仮の住まいであるブレアハウスを襲撃して1人が殺害され、1人が負傷して、1人の警備員が死亡した。ブレアハウスにはホワイトハウスの改修工事中で、滞在していたトルーマンは無事であった。プエルトリコの状況に国際的注目を集めた最後の大規模な試みは、1954年3月1日に4人の国民党員が米国下院を襲撃した。

 しかし、プエルトルコはアメリカの州昇格を求めるも達成できず、プエルトルコ自治連邦区として、アメリカ合衆国の自治的・未編入領域となって、多数のアメリカ軍基地が散在している。住民はアメリカ国籍であるも、連邦税の納税義務も投票権もなく、採決権のない代表者が送り出している。




2021年11月22日月曜日

日露戦争の遼陽会戦で、日本軍が占領した遼陽地内で、ロシア軍のスパイである諜報員と容疑された中国人を銃殺した。

日本軍は日露戦争の遼陽会戦は1904年8月24日に勃発して、ロシア軍は奉天へ全面撤退をした。日本軍が占領した遼陽地内で、ロシア軍のスパイである諜報員と容疑された中国人を銃殺した。中国人諜報員に対して、通訳を介して日本軍憲兵は銃殺刑を宣告した。銃殺刑される中国人は座位で支柱に縛られて目隠しされた。多数の日本軍兵士の見物人が取り巻いて、見せしめの公開の銃殺刑が執行された。日露戦争中は、日本軍もロシア軍も、現地の多数の中国人を敵方の陣地に送り込んでは、秘密情報を抜き出していた。

 日本軍における死刑の執行は銃殺刑であった。陸軍刑法21条に「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ陸軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」。 海軍も準じて、海軍刑法16条に「海軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ海軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」。その方法は、処刑者の眼を布で縛るか、顔全体を覆う麻袋を頭から被せた上で立たせ、これに対し上官が指揮する1部隊が一斉射撃をして銃殺刑を執行した。

 銃殺刑は、通常、軍人にしか行われない死刑執行方法であった。銃殺方法は単純で、囚人をレンガの壁やその他の重い壁に向かって立つか座るかする。5人以上の兵士が数メートル離れたところに並んで、銃を囚人の心臓に向けて撃つ。ほとんどの場合、囚人は目隠しをされた状態で銃殺隊の前に立つか座らせる。目隠しをするのは、死刑執行人のためでもあり、囚人のためでもある。死刑囚が死刑執行人を直接見ると、任務を執行している死刑執行人にとって、よりストレスのたまる状況となる。

 射殺隊は必ず発砲しなければならない。上官の合図で、全員が一斉に銃を撃つので、射殺隊のどのメンバーが命中弾を発射したのか不明としている。銃殺隊は、自分が致命的な射撃を発砲しなかったと後で信じた。死刑囚が数発の銃弾を受けて生きていると、射手が至近距離で囚人を射殺する。

 戦争中には、軍隊では裏切り行為をした兵士やスパイである諜報員や戦争に参加しないで脱走した兵士を処分するために銃殺刑を執行した。無実の市民を虐殺や強姦などの暴力的な犯罪を犯した軍人に対しても、銃殺刑の処罰の場合もあった。銃殺刑は現代では執行されないが、まだ多くの国では犯罪を犯した兵士や諜報員を処罰する合法的な手段として採用されりている。一部の軍隊は、侵略してきた国の市民を虐殺するために銃殺刑を使った。この凶悪な戦争犯罪は人道に対する罪と見なされて、国際刑事裁判所で処罰される可能性がある。 



2021年11月21日日曜日

ライン川とリッペ川を攻撃した連合軍が、殺害したあまりにも若い死体と戦傷して重態となったドイツ軍兵士が荒野に倒れ込んだ。

1945年3月24日から31日に、連合軍がライン川とリッペ川の南を渡河する作戦に参戦した。対岸で防御したドイツ軍若年が攻撃されて、殺害された死体(下)と戦傷して重症の若いドイツ軍兵士(下)が荒野に倒れ込んだ。連合軍は、ドイツに進駐するにつれて、ドイツ軍兵士のあまりの若さに驚嘆して可哀想であった。終戦直前にはドイツ軍は予備役を持たず、どんどん若い青年を徴兵していた。

 1939年の開戦までに、ヒトラー・ユーゲント(Hitlerjungend)は戦争と外国の領土の占領のために、若者たちの動員を準備した。1926年に設立されたナチス党内の青年組織に由来する。10歳から14歳の男子と女子、14歳から18歳の男子と女子の4団体で構成された。1930年代初頭のヒトラー・ユーゲント参加した若者たちは、実用的な技術と国家社会主義の思想を洗脳した。すでに18歳になっていた若者は、ドイツの戦争に向けて準備した。彼らは、兵士、警察官、秘書、看護師、医師などに従事した。1939年3月に、10歳から18歳までのドイツ人の若者は参加が法律で義務付けられた。1940年までに10歳から18歳の約82%にも相当する720万人が会員となった。

 ドイツが戦争に負けることが明らかになると、ナチス・ドイツ軍は人手が足りなくなった。連合軍の空襲により、ドイツの都市の大部分が破壊され、物流の障害を引き起こし、住宅や物資の不足を深刻化させた。攻撃の際に、ドイツ軍は若者を対空砲の操作に使用した。若者たちは戦争に対する様々な救援活動に使用された。

 1943年に、ナチス親衛隊は、ヒトラー・ユース(Hitlerjunge)の特別な部門を設立した。この部門は、1926年に生まれた少年たち(1943年には16歳か17歳になっていた)で構成された。この青年隊員は当初、フランスに配備された。ノルマンディーの戦いやベルギーでのバルジの戦いでは、若者たちは連合軍と戦った。1943年以降、戦局が悪化するとユーゲントは兵として動員されたが、十分な装備や訓練を受けない彼らは多くの死傷者を出した。ヒトラーユーゲントはベルリンの戦いにおいても戦闘に参加し、多くの戦死者を出した。その後に、ドイツの降伏により解体消滅した。

 戦争末期には、16歳から60歳までの男性が、1944年9月に設立された新たな防衛民兵である国民突撃隊に徴兵された。この民兵は、連合軍との最後の防衛戦でドイツ国防軍に合流した。貧弱な装備と不十分な訓練で、何千人もの若者がドイツの戦争のために戦い、戦傷した。戦後は廃止されたが、何百万人もの若者が参加した組織は、20世紀のドイツ社会に多大な影響を与えた。




2021年11月20日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した後に爆心地周辺で救護活動した元日本軍兵士が、5年後に残留放射線の被爆により白血病が発症して死亡した。

広島原子爆弾が炸裂時には、元日本軍青年兵士は広島市内では被爆していなかった。広島原子爆弾が投下されて炸裂した直後から、爆心地周辺で救護活動をしていた元日本軍兵士である。その5年後に、白血病が発症して死亡した。残留放射線に強く被爆して、白血病が発症したと推定された。白血病による結節が、全身に発生していた。被爆がまったくなく、無傷と思われた人たちが、被爆後に、月日が経過してから発病して、死亡した事例である。白血病により、皮下脂肪に炎症が起こり、皮膚に小さな卵くらいまでの大きさのやや膨らんだ赤色や紫色の斑点である結節が多数発生する。結節部には圧痛があり、発熱や倦怠感、関節痛など全身症状を伴う。皮疹は融合して大きな紅斑を形成して、赤紫色を呈するようになる。

 原子爆弾によって発生したエネルギーのうち、約5%が初期放射線となり、約10%が残留放射線となった。放出される残留放射線は、爆発後24時間で約80パーセントが放出された。放射線は、人体の奥深くまで侵入して、細胞や組織を破壊して、血液を変質させ、骨髄などの造血機能が低下して、肺や肝臓等の内臓を侵すなど深刻な障害を引き起こした。爆発後に、長期間にわたって残留放射線を地上に残した。救護活動などのため市内が被爆した後に参入して、直接被爆していない人にも原爆症を発病した。原爆投下後、爆心地近くには放射性降下物や中性子による誘導放射能など残留放射能が存在し、その後に放射線を被爆した。広島および長崎における原子爆弾 放射線の日米共同再評価(DS86: Dosimetry System 1986)として、原爆線量再評価検討委員会が1986年3月に新しい線量評価システムを公表した。長崎原子爆弾は、プロトニウム型であり、Trinity実験と同一であり、推定精度は高かった。しかし、広島原子爆弾は、ウラニウム型であり実測値が乏しく精度が低下して大幅な誤差が出た。

 残留放射線には、核分裂によって生じた放射性物質から放出される放射線と、核分裂していないウランから放出される放射線がある。最初の放射線に核反応して発生した放射性物質が発する放射線も含まれる。核爆発による残留放射線は、そのほとんどが放射性降下物による。放射性物質は、兵器の破片、核分裂生成物、地上での爆発の放射壌から発生する。核分裂反応で発生する核分裂生成物は約300種類以上あり、多くは放射性物質で、半減期が大きく異なる。半減期が数分の1秒と非常に短いものから、数ヶ月から数年にわたり危険な物質もある。放射性物質の主な崩壊様式は、ベータ粒子とガンマ線の放出である。残留放射線は、土壌や建築物の資材が中性子線を浴びることによって放射線を放出するようになる誘導放射線と、地表から巻き上げられた放射性物質を含んだチリやススの一部が雨などと共に地上に降下する放射性降下物がある。残留放射線は外部被爆に加え、食物や空気などと一緒に取り入れる内部被爆により、人体に影響を及ぼす可能性がある。