2021年11月7日日曜日

アメリカ軍の爆撃機による東京初空襲にて、無残にも無辜の幼児らが、空襲に巻き込まれて焼死した黒焦げの死体になった。

アメリカ軍の爆撃機による東京初空襲にて、無残にも無辜の幼児らが、黒焦げの死体に変死した。東京の市民らは、戦争の冷酷なる虐殺に対して恐怖を覚えた。逆に日本中の戦争の士気と戦意を昂揚した。 

 太平洋戦争が勃発した真珠湾攻撃から約4ケ月して、進撃中であった日本軍の首都東京に対して、アメリカ軍が1942年4月18日正午すぎに決行した最初のドーリットル空襲(Doolittle Raid)を執行した。ドーリットル爆撃隊による日本の首都東京対する最初に爆弾が投下されたのは荒川区尾久町となり、東京初空襲の地あるいは日本本土初空襲の地と呼称された。尾久町では、死者約10人、重症約34人等が犠牲となった。焼夷弾による火災で全焼して家屋もあり、13時50分頃に鎮火した。

 真珠湾攻撃から約4ケ月経過して、進撃中であった日本軍の首都東京に対する復讐のために、アメリカ軍が最初のドーリットル空襲を決行した。日本の首都東京へのアメリカ軍B-25爆撃機は、日本の首都東京に向けて最初空襲となった爆撃は、荒川区尾久町に投下された。尾久初空襲とも呼称されて。尾久町での死者は約10名、重軽傷者48名、全半焼38棟と推定された。最初は赤羽の陸軍造兵廠兵器庫を目標としたが、見失い尾久町の旭電化工業尾久工場とその周辺地域に無差別に爆弾を投下した。その次に十条の東京第一陸軍造兵廠を目標としたが、見失って早稲田中学の周辺に焼夷弾を約4発投下した。その他に葛飾区の水元国民学校に対して機銃掃射した。

 航続距離からB-25爆撃機を、空母ホーネットから発信して、日本近海に艦船を近づかずに日本本土空襲を行った。約16機のB-25が、東京から東方約1,000kmから空母から発進した。東京には約13機、名古屋へ約2機、神戸へ約1機が、各地域に爆弾から焼夷弾を投下した。日本全体で、約90人が死亡して、約460人が負傷して、全半壊が約290戸に上った。その後にウラジオストックにや中国沿岸に帰還した。約80人の乗務員のうち約71人が生還して、不時着で約5人が戦死して、約8人のアメリカ軍兵士が日本軍に捕獲された。約8人のうち3人に死刑が執行されて銃殺された。戦中に1人は病死して、残りのアメリカ軍兵士4人が日本が降伏した直後に解放された。

 1941年12月20日施行の言論出版集会結社等臨時取締法により、僅かな被害を誇大に触れ回っり虚構の放言を撒布したりすれば厳罰の処れた。屋久の最初の空襲は極秘にされた。4月18日午後1時57分に、軍司令部は、昼間12:30頃に敵機数方向より京浜地方に来襲するも退散中、敵9機を撃墜、我方の損害は軽微なる模様と公表した。新聞各社は、皇室ご安泰と国民感情を安堵させた。ドーリットル空襲は、日本に比較的小規模な被害を与えたものの、主な目的であった真珠湾攻撃後のアメリカ国民の士気を大幅に高めた。日本軍はミッドウェー島からの空襲と錯誤して、太平洋戦争の敗戦の転換点となるミッドウェー海戦が1942年6月5日から6月7日まで勃発した。




2021年11月6日土曜日

長崎原子爆弾により新興善特設救護病院内に、死亡した被爆者を火葬して、引き取り手のない無縁の遺骨を安置所に集積した。

 長崎原子爆弾により新興善特設救護病院内にて多数の被爆者が原爆病で死亡した。被爆者を火葬して、その遺骨を安置所に集積した。遺骨を引き取る身内もなくて、残された遺骨が保管された。新興善国民学校に仮設された病院内には、火葬された犠牲者の遺灰骨が入った多数の骨箱が並べて一時的に保管された。学校の教室が病室として活用された。

 新興善国民学校には、仮設された救護所に、移送して運び込まれて収容された被爆者が充分な治療も受けられず次々と死亡した。救護所内には、被爆者で密集してうめき声と蒸し暑さ、悪臭がて漂った。焼けただれて、衰弱した被爆者の体を蝿が飛び回り、うじ虫がはい回り体を食いちぎった。医薬品も不足し、手当てらしい手当ても望めなかった。死体は救護所内の安置所から運び出されて、空き地で昼夜なく火葬されて、遺骨は一時的に安置所に保管された。火葬されて遺族と再会できないまま、安置されている遺骨は数多い。各地で埋葬された身元不明の遺骨が、たびたび発掘されてきた。1947年に爆心地付近に原子爆弾駒場町殉難者納骨堂を町内会が設置して、1951年5月に慰霊施設を増設した。1958年3月に平和公園の平和祈念像の西側に長崎市原爆死没者慰霊納骨堂が建立されて、各地の遺骨を長崎市が引き取って地下に安置された。

 長崎市の平和公園にある長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂には、長崎原爆で無縁仏となった遺骨約8,964柱が安置された、そのうち氏名判明した遺骨は約122柱で。その他はほとんどは誰の骨かも分からない。長崎市では、氏名が判明していながらも、引き取り手のない無縁遺骨を引き渡すために遺族調査を行っている。遺族と無縁のままに、安置される遺骨は数多い。各地で火葬して埋葬された身元不明の遺骨が発掘と収集されている。















新興善特設救護病院内の遺骨安置所


長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂

2021年11月5日金曜日

ナチス・ドイツ軍は、1941年9月にウクライナのスモレンクスのヴェリジの町で、ロシア人の非戦闘員である5人の民間人を絞殺した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ナチス・ドイツ軍は、1941年9月に、ウクライナのスモレンクス付近のヴェリジの町で、ロシア人の非戦闘員である5人の民間人を絞殺した。ドイツ軍兵士が、絞首台を設置して、縄紐の強度を監査して即興の絞首刑の準備をした。5人の民間人男性を並べて、首に縄を巻かれて5人一緒に絞首刑して虐殺した。モスクワ政府は、ナチス・ドイツ軍は、共産主義と戦っているのではなく、ロシア人を絶滅する戦いを写真を通じて証拠として1942年6月2日にプラウダで公表した。1941年6月末に、クラスラヴァからロエフまでの路線を守るために戦略予備軍が派遣され、民兵の戦闘員機も敵対行為に参戦した。約3,000人以上ものスモレンスクの住民が、ソビエト軍の大隊や人民部隊に参加していた。ドイツ軍がスモレンスク占領期間中に、約151,319人の民間人と約23,137人の捕虜が虐殺された。射殺され、燃死され、絞首刑にされ、生き埋めにされ、毒殺され、収容所で拷問された。

 スモレンスクの戦いは、第二次世界大戦における1941年7月10日から9月10日の間に勃発した。ナチス・ドイツのソビエト連邦を1941年6月22日から侵攻するバルバロッサ作戦が序盤に勃発した大規模な戦闘である。ドイツ陸軍中央軍は、ミンスクからスモレンスク、そして首都モスクワを侵攻の目標とした。ドイツ軍側の記録によると、スモレンスクの戦いでの死傷者は約25万人にも達した。スモレンスクの南東のイェルニャ周辺のドイツ軍の突出地域を、ソビエト軍は反撃して一時的に奪還した。ソ連軍はドイツ軍に対する猛烈な抵抗のために膨大な犠牲を伴った。ドイツ軍がスモレンスクを占領したときは、街の大部分は廃墟と化した。ドイツ軍は疾風の如くロシアを席巻し、初期の約4ケ月間に約200万人以上ものロシア人捕虜を捕獲した。特にロシア軍は、ウクライナのスモレンスク付近で、ドイツ軍に対して猛烈に抵抗した。ロシア軍は、戦意を失って、大量に投降した。ドイツ軍の犠牲は不明であり、ソビエト軍は4,500人が戦傷者であり、約30万人が補良となった。

 宣戦したドイツ軍に。ソビエト軍兵士が降伏する恥ずべき事実があった。ソビエト祖国を卑劣なドイツ軍の侵略者から断固として無私無欲に防衛している赤軍の階級の中に、不安定で臆病な要素を証明した。脱走の臆病な要素は、赤軍の男性の間だけでなく、指揮官にも存在した。一部の司令官や政治家は、正面での攻撃によって、赤軍の勇気、スタミナ、祖国への愛の例を示さなかった。膨大なソビエト軍兵士は、逆に亀裂に隠れて、戦場を観察もせず、最初の戦闘中の深刻な困難で、ドイツ軍に屈服し、記章をはがし、戦場から降伏して脱落した。




2021年11月4日木曜日

ロイ・ナムル島の塹壕に日本軍兵士は追い詰められて、アメリカ軍に火炎放射器や手榴弾から強烈な爆弾や銃弾で殺害や自殺した死体が、砂上に横たわった。

 太平洋戦争におけるマーシャル諸島のクェイジェリン環礁のロイ・ナムル島で、1944年2月2日から上陸したアメリカ軍は2月3日には制圧した。アメリカ軍に全滅した日本軍兵士の死体が塹壕に並んだ。アメリカ軍の海兵隊に殺害されなかった日本軍の守備隊員は、手前の2人の日本軍兵士のように鉄砲で自殺することが多かった。塹壕に追い詰められて、火炎放射器や手榴弾、陣地を破壊する強烈な爆弾や銃弾で殺害された日本軍兵士の死体は、砂に顔をつけて横たわった。身体のそばに黒っぽい血の池がどんどん広がっていた。熱帯の炎天下で腐敗した日本軍兵士の死体は、悪臭を放っていた。

 少数の日本軍兵士が椰子の木の丸太に隠れて抵抗するも、火炎放射器と爆薬で粉砕され、2月3日までに全滅した。日本軍兵士は決して降伏しないで、サーベルだけでアメリカ軍の戦車に突撃した。日本軍歩兵が、椰子の枝を身体の前に持って、アメリカ軍の陣地に突入した。全滅した日本軍兵士は約3,500人が戦死して、それ以外の約264人が捕虜となった。アメリカ軍兵士は約190人が戦死して、約547人が戦傷した。

 あるアメリカ軍の青年兵士は、諸島の上陸には興奮と不安が入り混じった。確かに死を考えるも、なぜか自分が死ぬとは思えなかった。緊張はしていても、恐怖ではなく興奮であり、スリルがあった。自分が望んだ冒険に向かっていた。大人のカウボーイとインディアンの戦いであり、大人の警官と強盗だった。栄光への想いを胸に抱いて、アメリカ国旗を持って戦場に行き、歴史の一部になる役目であった。エリート中のエリートであるアメリカ軍海兵隊と一緒に戦いに行くために。眠りにつく前に、勇気を出して、家族のために、生きていることを神に祈った。

 そのアメリカ軍の青年兵士は、戦場で強い衝撃を受けて、出来事の現実の恐怖に襲われた。海兵隊員に日本軍兵士の居場所を聞こうと這って侵攻しては、かなり狂気のように興奮していた。海兵隊員の横に這い寄ったが、彼は答えなかった。死んだ彼の頭のそばに黒っぽい血の池がどんどん広がっていくを眺めた。戦争とは何であるかを実感し、それは興奮して楽しいものでも刺激的なものでもなく、動くものは何でも殺せと命令された。

 1944年初頭に、アメリカ軍は太平洋戦争の初期の1941年頃に日本軍が制圧した地域の再占領に向けて、1942年8月にソロモン諸島のガダルカナルを皮切りに、南西太平洋で1943年11月にギルバート諸島のタラワから中部太平洋までで、アメリカ軍の攻撃して占領した。クェゼリン島の戦いが、太平洋戦争の1944年1月30日に勃発して、日本軍が守るクェゼリン環礁へアメリカ軍が侵攻した。




2021年11月3日水曜日

紛争で殺害したセルビア軍兵士の死体を、ボスニア軍が戦場からトラックで運んで、荷台からブルチコ郊外の農場に滑り落した。

ボスニア・ヘルツェゴビナの北部にて、1993年5月にボスニア軍はブルチコ郊外のラヒック村付近でセルビア軍兵士の攻撃を食い止めた。紛争で殺害されたセルビア軍兵士の死体は、ボスニア軍の戦場からトラックで運ばれてきた。ボスニア軍がセルビア軍兵士の死体を後方にトラックで運搬された。死体はトラックの荷台から滑り落ちて来た。運転手はトラックの窓から身を乗り出して後方を見た。トラックの荷台には、死体運搬用の手押し車があった。頭を垂れて死体が滑って、死体はまもなく崩れ落ちる。トラックの運転手に手で合図して、後方にある農場にトラックを向かわせて死体を捨てさせた。農場に捨てられたセルビア軍兵士の身元を確認されて、翌日にセルビア軍に死体は返還された。

 セルビア軍が支配する要塞都市ブルチコは、戦略的に重要な地域であった。ボスニア軍は、ブルチコをめぐり断続的な道路の奪い合となった。ボスニア軍がブルチコの道路を遮断すれば、セルビア軍はボスニアとクロアチアの一部を支配が困難となる。ブルチコをめぐる戦いは、ボスニア戦争の中でも最も激しい戦闘となった。1992年5月に、人口の75%以上を占めていたイスラム教徒とクロアチア人が強制退去させられた。1993年5月に、ボスニア軍は、ブルチコのセルビア軍に攻撃を仕掛けて、ブルチコの南を占領した。セルビア軍がボスニア東部からブルチコに移動していた。ボスニア軍には回廊を遮断しても、セルビア軍が戦車を使って奪い返してくる。ボスニア軍がブルチコの攻勢を成功させれば、ユーゴスラビア軍の本格的な参戦を促すことになる。ブルチコでは、セルビア軍は南にボスニア・ムスリム民兵、ボスニア・クロアチア軍の部隊が北西を固めている。ブルッコの真北にはサヴァ川を挟んでクロアチア共和国がある。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は旧ユーゴ連邦の一部を構成した。1991年当時の約430万人の人口の民族構成はボシュニャク(ムスリム,イスラム教)系約44%、セルビア(ギリシア正教)系約33%、クロアチア(カトリック教)系約17%だった。旧ユーゴ連邦の崩壊が進む中で、1992年4月に同共和国の独立を巡って各民族間でボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発した。約3年半以上にわたり各民族が同共和国全土で覇権を巡って、戦闘を繰り広げた結果で、死傷者約20万人(死者数は兵士約57,358人、市民約38,177人)、難民・避難民約200万人と推定される戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。

 1995年12月に、デイトン和平合意の成立により戦闘は終結した。ボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク系及びクロアチア系住民が中心のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア系住民が中心のスルプスカ共和国という2つの自主独立体から構成される一つの国家(首都はサラエボ)となった。それぞれの自主独立体が独自の政府を有するなど分権化された。




2021年11月2日火曜日

ラマト・レイチェル銃撃事件で、ヨルダン軍兵士がイスラエル国内で見学会の途上のイスラエル人考古学者に集団銃撃して、4人のユダヤ人考古学者が死亡し、16人が負傷した。

ラマト・レイチェル銃撃事件(Ramat Rachel shooting attack)は、1956年9月23日、ヨルダン軍の兵士がイスラエルとヨルダンの国境を越えて、キブツ・ラマト・レイチェルの近くのイスラエル国内で見学会の途上でイスラエル人考古学者のグループに発砲した集団銃撃事件である。この事件では、4人のユダヤ人考古学者が死亡し、16人が負傷した。

 1956年9月23日、イスラエルの考古学者一行を対象に、キブツ・ラマット・レイチェル付近の考古学的発掘現場の見学会が行われました。そのツアーの途中に、エルサレムからベツレヘム間の道路の近くにあるマル・エリアス修道院で、ヨルダン軍の陣地から考古学者たちに機関銃が発砲された。この銃撃により、考古学者が殺害されて、16名が負傷した。銃撃で重傷を負ったもう一人も、約5年後に傷がもとで死亡した。

  ヨルダン政府は、狂気に取り憑かれた一人のヨルダン軍兵士を非難した。イスラエル政府は、ヨルダン政府には全く根拠がない。事件の目撃者の証言から、2丁の短機関銃と3丁のライフル銃が、国境を越えたヨルダン軍の2つの前哨基地からラマット・レイチェルの考古学者に向けて発射された。ラマト・レイチェルの銃撃時限に対抗して、イスラエル国防軍は直ちに1956年9月25日にルラヴ作戦を実施し、ベツレヘム近郊のアラブ人村フサンに対して反撃した。

 報復作戦は、1950年代から1960年代にかけて、シリア、エジプト、ヨルダンからイスラエルに侵入したアラブ系武装勢力が、イスラエルの民間人や兵士を攻撃するアラブゲリラ攻撃が頻発した。イスラエル国防軍が報復作戦として空襲を行った。報復作戦の多くは、イスラエル人がテロリズムで犠牲になった直後に空襲が行われた。イスラエル国民の士気を高めて、抑止力を高めて今後の攻撃を防ぐことを目的とした。テロ事件は、世界の大国からイスラエル周囲のアラブ諸国に政治的圧力をかけた。

 1949年から1956年の間に、イスラエルのアラブ隣国から国境を越えた攻撃により、約200人の民間イスラエル人が死亡して、約200人のイスラエル軍兵士が国境での衝突や空襲で死亡した。同期間に殺された民間アラブ人と隣国アラブ軍は約2,700人から約5,000人であった。平均して年間に約300人から約500人が殺害された。




 

2021年11月1日月曜日

辛亥革命軍が10月10日に武昌蜂起して、11月27日に武昌に撤退するまでに、清軍の北洋軍より約1万人もの死傷者を出した。

辛亥革命の北洋軍は武昌蜂起した革命派の湖北軍を攻撃して、11月1日に漢口を、11月27日には漢陽を奪還した。革命軍が11月27日に武昌に撤退するまでに、清軍の北洋軍より約1万人もの死傷者を出した。漢口で殺害された革命派の湖北郡の兵士の膨大な死体が漢口の荒野に散在して、周囲には悪臭を放っていた。

 辛亥革命の分岐点となる1911年10月10日に、武昌蜂起が1911年10月10日に勃発した。新軍の2個大隊を中心とした革命派はすぐに蜂起した武昌城に侵攻して攻略した。10月11日に革命派の反乱軍は、湖北軍を結成した。10月12日には湖北省から侵攻して、漢口と漢陽を占領した。しかし、戦闘は終結しないで、清朝は直ちに10月12日に、陸軍大臣の雲長を総司令官とする北洋軍の2編成を湖北に動員して反乱軍を駆逐するよう命じた。10月14日には袁世凱が湖北・広西の総督に任命されて、武昌の鎮圧を監督することになった。北洋軍は革命派の湖北軍を攻撃して、11月1日に漢口を、11月27日には漢陽を奪還した。革命軍は11月27日に武昌に撤退するまでに、約1万人もの死傷者を出した。

 1911年10月中旬から12月初旬まで、革命家と清朝からの独立に応じた地方は、湖北省を防御するために、清軍の西洋式の北洋軍に対して共闘して、新政権を維持する死闘を繰り広げた。辛亥革命における最大・最長・最激戦が武昌蜂起で勃発した。両軍の戦闘により、約5,000〜6,000人もの死体が積み重なり、武昌の街には悪臭を放っていた。中国赤十字社の埋葬隊は、武昌蜂起で合計2,200体の遺体を埋葬した。両陣営の戦闘で殺害された者には、かなりの数が清軍の旗手に向けられた。辛亥革命は韃靼人を追放して中国を取り戻すことを目的とし、人種的な憎しみを生むほどの民族主義的となった。武昌蜂起により清軍の旗艦兵の約1,000人は、武昌蜂起の10月10日夜、抵抗もせず、抵抗する時間もなく、ほとんどが殺害された。同時に武昌の満州族の四大家がすべて殺された。10月11日の朝、旧知事公邸前では、旗手の人々の遺体で街の通りは埋め尽くされた。

 武昌蜂起の参戦者の回想によると、「革命家は旗のついた兵士を捕まえると、その場で殺すか、革命政府に送って銃殺して、生き残った者はほとんどいなかった。旗手の中には、捕まって死ぬまで口をきかない者もいた。喋らなければ喋らないほど、彼らは清軍であると容疑されて虐殺された。第一次蜂起の攻略から3日後に、新軍政が「旗本の兵士を無差別に殺すな」という命令を出して虐殺が中止された。革命には流血や殺戮があり、平和的で最小の損害の辛亥革命でさえ、どうしても不幸な悲劇を伴った。ロイターの記者によると、武昌には満州人の遺体が散在して、約800人以上が殺害されたと推定された。旗手のうち約400人が殺され、約300人が投獄された。




2021年10月31日日曜日

プリンス・ティーウィアは27歳黒人男性で、イラク戦争で2005年12月29日に、イラク首都バグダッドで時限爆弾により殺害された。

プリンス・ティーウィア(Prince Teewia)は27歳の黒人青年男性で、イラク戦争にて、2005年12月29日に、イラクの首都バグダッドで時限爆弾により殺害された。ノースカロライナ州ダーラム出身である家族への通知後に、国防総省から戦死が公表された。葬儀はデラウェア州ニューアークで2006年1月に挙行された。父親が、アメリカ国歌に覆われた息子の死体が入った棺桶に向かって泣き叫んでいる。周囲の親族や関係者も同情しながら葬儀に参列した。葬儀場には、アメリカ軍の白人将校が無表情に立ち会った。

 プリンス・ティーウィアは、教育費を捻出する奨学金ためにアメリカ陸軍に入隊した。入隊前に1年間の大学生活を終えていた。ティーウィアはガソリンスタンドで働いて、ノースカロライナ・セントラル大学に入学した。彼の父親は、息子がアメリカ軍に入隊したのは経済的なメリットで、以前から兵役を希望していた。1998年にリベリアの政情不安から避難して、すでにアメリカにいる家族と合流するためにリベリアを離れた。アメリカ軍は、中間・貧困層の若者に向けて、大学、お金、旅、愛国心が手に入ると募兵して、約137万人にも達する。

 バグダッドでの戦闘行動中に即発爆発装置がハンビーの近くでの道路脇に設置された爆弾が車輌の下で爆発して死亡した。アメリカ南部のテネシー州とケンタッキー州の境界にあるフォート・キャンベル陸軍基地の第101空挺師団第4旅団戦闘チーム第1歩兵連隊506大隊に所属した。アメリカ軍の不朽の自由作戦中に戦死した。イラク戦争にて2010年5月14日時点での有志連合の殺害された戦死者数は次の通りである。アメリカ人4,402人、オーストラリア人2人、アゼルバイジャン人1人、イギリス人179人、ブルガリア人13人、チェコ人1人、デンマーク人7人、オランダ人2人、エストニア人2人、フィジー人1人、グルジア人5人、ハンガリー人1人。イタリア人33人、カザフスタン人1人、ラトビア人3人、ポーランド人22人、ルーマニア人3人、サルバドール人5人、スロバキア人4人、韓国人1人、スペイン人11人、タイ人2人、ウクライナ人18人に及んだ。各国政府が死亡を報告した兵士、海兵隊員、航空隊員、水兵隊員、沿岸警備隊員の名前である。14人のアメリカ国防総省の民間人職員も含まれている。アメリカ国防総省によると、少なくとも31,810人のアメリカ軍兵士が戦闘で負傷した。

















2021年10月30日土曜日

日本陸軍兵士の22歳男性が広島爆心地から約1.1kmで被爆した。被爆後に頭髪部は完全に脱毛して、点状出血と発熱が出現して、8月31日に死亡した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した時に、日本陸軍兵士の22歳男性が広島市内で被爆した。被爆地点は爆心地から約1.1kmで、中島国民学校付近の土手で休息中に被爆した。その周辺に10数名の兵士は同様な原爆症を発症した。被爆後に21日目から脱毛が始まり、頭髪部は完全に脱毛した。その次に点状出血と発熱が出現した。視力障害も伴って、頭部の皮下溢血斑点が顕著になった。被爆者は仁保の病院から、8月28日に陸軍宇品病院に転送された。23日目に白血球数は3,300個(4,000〜9,000個)まで若干低下した。写真は死亡する前日の8月30日に撮影された。8月31日に急変して25日目に死亡した。死亡時には、白血球数は45まで低下して白血球は消失した。その他に赤血球数は約230万個(基準値は男性435-555万個、女性386-492万個)で、出血時間は28分まで延長した。東京第一陸軍病院に、症例H-6176-U,剖検キー23にて死体の病理解剖標本が保管された。

 予後について、同程度の線量の電離放射線を受けた患者の間でもかなりのばらつきがあった。脱毛による予後に対する評価はかなり高いが、絶対的なものではない。一般に早期に脱毛した被爆者は予後不良であったが、数日以内に脱毛した生存者も多数いた。脱毛は潜伏期間を終了させて、急性症状の発現を予告する最も一般的な症状であった。早期に脱毛した患者は、通常より重篤な症候群を有していた。脱毛と同時に大部分の患者は発熱した。脱毛前に下痢や発熱があった場合に、それらが増悪することが多かった。しかし、死亡時にも脱毛をしていない被爆者も少なからずいた。第3週目から第6週目までに病理解剖された症例では、86%が頭皮の脱毛を認めた。広島原子爆弾では94件の剖検のうち、48件が頭皮、8件が腋窩、6件が陰毛、4件が眉毛、2件がひげに脱毛があった。完全に脱毛していても、必ずしも予後が悪化とは相関していなかった。逆に、第4週目頃に放射線障害で死亡した被爆者の14%は、脱毛をしていなかった。

 紫斑は、出血性傾向の最も一般的な臨床症状である。脱毛と同様、放射線障害の特異的な症状である。紫斑の原因は他にもあるが、電離放射線13の範囲を超えていた被爆者では比較的まれな症状であった。また、脱毛の場合と同様に、受けた線量と発生率には密接な相関があった。紫斑病には、出血性紫斑病のような出血性症状も含まれる。生存者では典型的に小さな出血領域が見られた。より大きな領域が見られることは少ない。無顆粒球症の場合と同様に、壊死した病変はすぐに感染して大きくなった。皮膚の紫斑の分布は様々であるが,大部分の患者では上半身に発生し,特に頭部と顔面,上腕の屈筋面,前胸部に発生した。



2021年10月29日金曜日

ボリソフから撤退する直前に、ナチス・ドイツ軍は強制収容所の囚人となっていたソ連軍兵士の捕虜を銃殺して大量虐殺した。

第二次世界大戦の東部戦線で、ソ連軍のミンスク攻勢により、ナチス・ドイツ軍はベラルーシのボリゾフから敗退した。ボリソフから撤退する直前に、ナチス・ドイツ軍は強制収容所の囚人となっていたソ連軍兵士の捕虜を銃殺して大量虐殺した。ボリソフ周囲に建設された6つの強制収容所では、約33,000人以上が虐殺された。大量処刑されたロシア人の囚人の写真は、ドイツ軍兵士から発見された。

 1944年6月23日から、ソ連軍はナチス・ドイツ軍が占領したベラルーシの解放するバグラチオン作戦が8月19日まで勃発した。ソ連軍は約120万人の兵力で、約80万人のドイツ軍と対峙した。戦闘が本格化すると、両軍で約400万人以上の兵力、約6万2千門の大砲、約7,500台の戦車・自走砲、約7,100機以上の爆撃機が参戦した。ソ連軍は、前線の6つの地点で、ドイツ軍の防御を突破して、ドイツ主力軍は大敗を喫して、ソ連のベラルーシの首都ミンスクで包囲されて壊滅した。

 パルチザンがソ連軍を後方支援した。1943年8月3日に、ドイツ軍の鉄道インフラを破壊して、約21万5000本の鉄道路線と数十本の橋梁が破壊され、約1000本以上の列車が脱線し、東部戦線におけるドイツの輸送交通量は約40%も減少した。ソ連軍の攻勢によってソ連軍はウクライナとバルト海で攻勢をかけた。 

 1944年8月22日にバグラチオン作戦が終了するまでに、ドイツ軍の約17個師団が完全に破壊され、約50個師団の半数以上の兵力を失った。ソ連軍は2ヶ月以上にわたる攻勢で350マイル以上侵攻して、ベラルーシ、ラトビア、リトアニア、ポーランドの広大な地域を解放した。ソビエト軍はポーランドのワルシャワに近づき、ケーニヒスベルクからナチス第三帝国の中心地へと侵攻した。バグラチオン作戦で、ソ連の赤軍は約18万人の兵力を損失したが、ドイツ軍の犠牲は約40万人から約50万人にのぼり、ナチス・ドイツ軍史上最悪の軍事的敗北となった。6月23日のソ連のバグラチオン作戦は、第二次世界大戦の東部戦線の終結の起点となった。






2021年10月28日木曜日

ベトナム戦争中期の1965年3月30日に、南ベトナムのサイゴンにあるアメリカ大使館前で、ベトコンによるテロ爆発事件が起きた。

ベトナム戦争中期の1965年3月30日に、南ベトナムの首都サイゴンにあるアメリカ大使館前で、ベトコンの工作員によるテロ爆発事件が起きた。サイゴンのアメリカ大使館前に駐車していた車の中で爆弾が爆発した。ベトナム人19名、アメリカ人2名、フィリピン人1名が死亡して、183名が負傷した。負傷したベトナム人は路上に倒れて手当を受けた。背後の残骸からは煙が上がった。CIAの速記者バーバラ・A・ロビンスが、最初の殉職したアメリカ人女性となった。ベトナム戦争中に、67人のアメリカ人女性(8人の軍人女性と59人の民間人女性)が戦争で死亡した。

 1965年3月30日深夜に、サイゴン川の近くにある5階建てのアメリカ大使館内にあるCIAサイゴン支局の外の路上に、シトロエンの車がボンネットを上げて停まっていた。警察官とシトロエンの運転手と口論を始めていた。運転手は退去を命じられ、拒否すると警官が発砲した。スクーターに乗った別のベトナム人が、運転手のそばにモーターで近づき、警察官に向かって撃ち始めた。数人のCIA職員が、が副支局長室に駆けつけて窓の外を覗いていた。ロビンスは鉛筆を持ち、薄緑色のスカートと黄色のブラウスを着ていた。その数秒後に、ロビンスは即死した。シトロエンに積まれていた約300ポンドのプラスティック爆弾が爆発した。大使館の建物は実質的に破壊された。鉄格子と窓がナイフのようにオフィスに入ってきた。

 1965年6月25日にはベトコンによる2回のテロ爆発が勃発した。首都サイゴンの暖かい金曜日の夜、数十人の人々が、サイゴン川の岸辺にある人気の水上レストランマイ・カン・カフェで夕食を楽しんでいた。サイゴンの繁華街の中心にあり、アメリカ大使館の近隣で、ベトナムの民間人やアメリカ軍人、外国の大使や国際ジャーナリストなどが利用していた。午後8時15分頃に、耳をつんざくような爆発音が響き渡り、ダイニングルームに破片が飛び散った。常連客のほとんどは多くの女性や子供を含む民間人であった。恐怖におののく生存者たちが出口に向かった時、2つ目の爆弾が爆発し、川岸に続く桟橋にも爆弾が落ちた。ベトナム戦争中のテロ爆発の中でも最も大きな被害をもたらした。13人のアメリカ軍人を含む約30人以上が死亡し、183人が負傷した。2回目のテロ爆発が、水上レストランの近くの川岸にあったタバコ屋の横で別の爆弾が爆発した。この爆発で少なくともアメリカ人女性1人が死亡した。既に首都サイゴンは戦場であり、テト攻勢の以前から都市戦争は熱を帯びていた。




2021年10月27日水曜日

朝鮮戦争にて、北朝鮮地域の咸興で北朝鮮軍により虐殺された民間人の死体が井戸から引き上げられた。

朝鮮戦争にて、北朝鮮地域の咸興で北朝鮮軍により虐殺された民間人の死体が井戸から引き上げられた。咸興虐殺事件は、1950年10月に、咸興で起きた集団虐殺である。金日成の指示によって北朝鮮軍により咸鏡南道の咸興市で起きた民間人の虐殺事件である。犠牲者は約1万2千人余り(拉致および行方不明者を除く)と推定された。主に銃殺、井戸生売場、透析を通じて虐殺したが、盤龍山の防空窟の場合には、爆死をさせた。咸興刑務所で約700人、忠寧塔地下室で約200人、政治保衛部がある3つの地下室で300人、徳山のニッケル鉱山で約6,000人、半龍山防空洞で約8,000人以上と推定された。

 米国国立公文書によると、1950年9月15日~1950年9月28日の仁川上陸作戦以後、北朝鮮軍は北方に撤退して、北朝鮮地域でも多くの虐殺事件を行った。1950年6月25日から勃発した朝鮮戦争で、北朝鮮軍は南方の韓国に侵攻する時に、北朝鮮地域内の反抗者を選別するために政治保安部が無差別に予備検属(豫備檢束)をした。北朝鮮軍は、アメリカ軍と韓国軍が北方に圧迫して侵入すると、容疑者を虐殺した。1950年10月16日に、咸興改革派の共産党員は、すべての政治犯を殺害し、遺体を井戸に投棄した。識別を困難にするために、約4リットルの酸を井戸に注いだ。死体は井戸から引きずり上げられ、親族が死体を判別できるように横並びにした。

 朝鮮戦争初期の南側で韓国軍警が同様な選別したように、北朝鮮政治保衛部と内務署などが、万歳デモや蜂起が起こる前に、予備検属者を虐殺した。黄海道新川では反対の状況が起き、韓国軍の反共治安隊が、北朝鮮当局の関係者と家族を先制的に虐殺したり拘禁した。以後、北朝鮮軍と韓国軍の双方で血の報復が大量に行われた。特に占領地行政と治安の空白が目立った一部の北部地域は銃が法になり、恐怖と報復が繰り返された。朝鮮戦争期間中に、北朝鮮の人民軍と左翼によって虐殺された民間人は総約122,799人、北朝鮮に拉致された拉致北者は約84,532人、朝鮮戦争中に死んだ民間人が約244,633人と推定された。




2021年10月26日火曜日

第二次世界大戦における連合軍の空襲により、ドイツの街路には民間人の殺害された黒焦げの死体が散乱した。

第二次世界大戦における連合軍の空襲により、街路には民間ドイツ人の殺害された黒焦げの死体が散乱した。空襲から逃げ惑うも、街路の周辺で火災に巻き込まれた。1942年7月26日と27日夜間に、連合軍の約403機の爆撃機がハンブルグを空襲した。被害は広範囲に及んだが、その多くは港湾や工業地帯ではなく、住宅地や準商業地域であった。少なくとも約800件の火災が発生し、そのうち約523件は大規模なものであった。約823の家屋が破壊され、約5,000以上の家屋が損傷した。約14,000人以上がの民間人が空襲を受けて、約337人が死亡して、約1,027人が負傷した。連合軍の約403機のうち約29機の爆撃機が失われ、約7.2%の損害となった。 

 第二次世界大戦中の持続的な戦略爆撃キャンペーンの一環として、ゴモラ作戦と名付けられた1943年7月最終週の攻撃は、第二次世界大戦中にイギリス空軍とアメリカ陸軍航空隊が起こした最大級の火炎旋風を引き起こした。ハンブルクでは推定約37,000人の民間人が死亡し、約180,000人以上が負傷し、市内の住宅の約3分の1が破壊されて、街の大部分が事実上破壊された。ハンブルク空襲の前は、しばらく雨が降っておらず、すべてが非常に乾燥していた。異常に暖かい天候と良好な条件のおかげで、爆撃は意図した標的の周囲に非常に集中し、超高熱の空気の渦と渦巻く上昇気流を作り出し、高さ約460メートルの竜巻状の火災旋風が発生した。特に1943年7月27日の空襲では連合軍の約787機の爆撃機が空襲して、大きな火災が周辺の酸素をすべて消費した。炎に向かう吸引効果が生まれ、風速約240km/hの火風が発生して、高温で道路のアスファルトが燃えた。空襲の防空壕や地下室からも酸素が吸い取られ、その夜だけで約3万人が死亡した。連合国側は終戦までにハンブルクに約200回以上もの空襲を行い、約440機の爆撃機を失った。

 ハンブルグは北海に面して、造船業や重工業が集中しているため、連合軍の空襲の格好の標的となった。第二次世界大戦中の連合軍によるハンブルグ空爆では、民間人や市民のインフラへの攻撃が数多く行われました。大都市であり産業の中心地でもあったハンブルクの造船所、Uボート基地、ハンブルク・ハールブルク地域の石油精製所は、戦争中ずっと攻撃されていました。この空襲により、ハンブルグのドイツ軍の兵器生産に大きな損害を受けた。第二次世界大戦中の連合軍によるハンブルク空襲は、ドイツの長崎と言われ、原子爆弾が投下された長崎を象徴した。



 

2021年10月25日月曜日

日中戦争にて、湖南省で中国民間人が日本軍に虐殺された。身体を縄で縛って、罪人の罪状を記した木札を付けて殺害された。

日中戦争にて、湖南省で中国民間人が日本軍に虐殺された。身体を縄で縛って、罪人の罪状を記した木札を付けて殺害された。アグネス・スメドリー(Agnes Smedley)の『中国の歌ごえ(Battle Hymn of China,Jan.1943)』に写真が掲載されて、1929年から1941年までの日本軍の中国侵略の歴史が掲載された。日中戦争期を契機に、中国共産党が国際世論工作を展開した。中国共産党は日中戦争勃発前の1936年6月から10月に,アメリカ人記者のエドガー・スノー(Edgar Snow)をソビエト地区に招いて取材に応じた。スノーは,毛沢東を初めとする共産党の首脳を取材し『中国の赤い星,Oct.1937』をイギリスで発表して、反響は大きく中国共産党が世界に認知される契機となった。

 日本軍により、江南殲滅作戦(1943年5月5日から6月10日)の第一期に、湖南省北東部にある洞庭湖の北辺に位置する廠窖で引き起こされた事件が廠窖大虐殺(廠窖惨案; Changjiao massacre)が勃発した。1943年5月9日から11日までの3日間で中国軍兵士と民間人の約30,000人余が殺害された。その犠牲者の内訳は、中国軍敗残兵約5,000人、地元住民約7,000人、近郊住民約6,000人、他地域からの避難民約12,000人に及んだ。その他に、負傷者は約3,000人、焼失家屋約3,000、焼失舟艇約2,500艘、強姦された女性は約2,000人人以上などの被害が発生した。大虐殺事件現場の湖南省益陽市南県廠窖鎮には、避難民が乗る多数の船舶が爆撃され大量の犠牲者の血で水が赤く染まった血水河遺跡や、大量の遺骨が発見された千人坑遺跡などを遺跡としている。外国の駐在機関や報道機関もなく、住民の目撃証言か被害者の身体に残る傷跡と記憶、地中に埋まった犠牲者の遺骨が事件を証明する手段しかない。中国考古学者らによる遺骨の発掘調査は今も継続しはている。

 湖南省廠窖で発生した廠窖虐殺事件について、日本側史料をもとに検証した。戦後に編纂された作戦部隊の部隊史によると、廠窖事件の起きた期間、日本軍機による空襲、敗残兵の掃討、軍服を脱ぎ便衣となった中国兵との市街戦、民間船の焼却など、事件生存者の証言と符合する記述は散見された。しかし、中国側が主張する死者約3万人を証明まで至らなかった。廠窖事件で日本軍の暴行は資料的裏づけが取れるが、死者数は歴史史料上では確定できない。




2021年10月24日日曜日

ドイツ軍は、ネムマースドルフにて民間人の犠牲者のほとんどの女性と子供の死体を並べて、ソ連軍の残虐性を示す撮影をした。

第二次世界大戦の東部戦線で1944年10月22日ソ連軍が一時的に東プロイセンのネムマースドルフを占領して、約48時間後にドイツ軍がこの地域を再占領した。ソ連軍は市民を拷問し、納屋の扉に釘付けにして銃殺した。大勢の女性が強姦されて、銃殺された。ドイツ軍は、民間人の犠牲者のほとんどの女性と子供の死体を並べて、ソ連軍の残虐性を示す撮影をした。ソ連軍兵士は、約50人ほどのフランス人やベルギー人捕虜も射殺した。ドイツ軍は10月24日にネムマースドルフに再占領したが、多くの民間人が殺されていた。ドイツ軍兵士は、喉をピッチフォークで穿たれ、全身が納屋の扉にぶら下がっている老人を発見した。目撃した恐ろしい光景のすべてを説明できないと日記した。他にも、住民がソ連軍の戦車に踏み潰されたり、町の外に出る橋で市民が機関銃で殺された証言もある。

 ソ連軍は、1944年10月22日に、ドイツ東プロイセンの辺境にあるネムマースドルフ村の近くに移動し、近くのアングラパ橋を占領した。反撃するドイツ軍の空襲の際に、一部のソ連軍兵士はネムマースドルフの住民約14人が作った防空壕に逃げ込んだ。ソ連軍兵士が住民を射撃して、防空壕を占領した。村の中では他の部隊も防衛陣を敷いた。日没後に、ソ連軍は橋を渡って撤退し、橋頭堡を放棄した。征服された人々は、両軍によって多くの残虐行為に受けた。両軍共に、復讐への血の欲望が高く、民間人に対するテロの残虐行為も奨励した。

 ドイツのプロパガンダ機関は、虐殺の証拠を公表して、ソ連軍の残虐行為を宣伝した。ドイツ国内では、プロパガンダの効果は二極化して、ドイツ軍部隊への志願者が集まった一方で、東ドイツの住民は、残虐な運命を避けるために西側へ大量に逃亡した。ドイツ軍はネマーズドルフの住民約653人のほとんどが虐殺されたと主張した。ソ連軍側の記録では約20~30人の殺害であった。一般的には、ドイツ軍が死者の数を誇張して、他の残虐行為の証拠で大虐殺を誇張したり、民間人が殺される状況をソ連軍が作り出したとも考えられいる。逆に、ドイツ軍がアングラパ橋への攻撃の際に、民間人を盾にしていた。ソ連は国家の公式記録であっても殺害数は怪しく、実際の死者数は、その中間と想定されている。