2021年10月27日水曜日

朝鮮戦争にて、北朝鮮地域の咸興で北朝鮮軍により虐殺された民間人の死体が井戸から引き上げられた。

朝鮮戦争にて、北朝鮮地域の咸興で北朝鮮軍により虐殺された民間人の死体が井戸から引き上げられた。咸興虐殺事件は、1950年10月に、咸興で起きた集団虐殺である。金日成の指示によって北朝鮮軍により咸鏡南道の咸興市で起きた民間人の虐殺事件である。犠牲者は約1万2千人余り(拉致および行方不明者を除く)と推定された。主に銃殺、井戸生売場、透析を通じて虐殺したが、盤龍山の防空窟の場合には、爆死をさせた。咸興刑務所で約700人、忠寧塔地下室で約200人、政治保衛部がある3つの地下室で300人、徳山のニッケル鉱山で約6,000人、半龍山防空洞で約8,000人以上と推定された。

 米国国立公文書によると、1950年9月15日~1950年9月28日の仁川上陸作戦以後、北朝鮮軍は北方に撤退して、北朝鮮地域でも多くの虐殺事件を行った。1950年6月25日から勃発した朝鮮戦争で、北朝鮮軍は南方の韓国に侵攻する時に、北朝鮮地域内の反抗者を選別するために政治保安部が無差別に予備検属(豫備檢束)をした。北朝鮮軍は、アメリカ軍と韓国軍が北方に圧迫して侵入すると、容疑者を虐殺した。1950年10月16日に、咸興改革派の共産党員は、すべての政治犯を殺害し、遺体を井戸に投棄した。識別を困難にするために、約4リットルの酸を井戸に注いだ。死体は井戸から引きずり上げられ、親族が死体を判別できるように横並びにした。

 朝鮮戦争初期の南側で韓国軍警が同様な選別したように、北朝鮮政治保衛部と内務署などが、万歳デモや蜂起が起こる前に、予備検属者を虐殺した。黄海道新川では反対の状況が起き、韓国軍の反共治安隊が、北朝鮮当局の関係者と家族を先制的に虐殺したり拘禁した。以後、北朝鮮軍と韓国軍の双方で血の報復が大量に行われた。特に占領地行政と治安の空白が目立った一部の北部地域は銃が法になり、恐怖と報復が繰り返された。朝鮮戦争期間中に、北朝鮮の人民軍と左翼によって虐殺された民間人は総約122,799人、北朝鮮に拉致された拉致北者は約84,532人、朝鮮戦争中に死んだ民間人が約244,633人と推定された。




2021年10月26日火曜日

第二次世界大戦における連合軍の空襲により、ドイツの街路には民間人の殺害された黒焦げの死体が散乱した。

第二次世界大戦における連合軍の空襲により、街路には民間ドイツ人の殺害された黒焦げの死体が散乱した。空襲から逃げ惑うも、街路の周辺で火災に巻き込まれた。1942年7月26日と27日夜間に、連合軍の約403機の爆撃機がハンブルグを空襲した。被害は広範囲に及んだが、その多くは港湾や工業地帯ではなく、住宅地や準商業地域であった。少なくとも約800件の火災が発生し、そのうち約523件は大規模なものであった。約823の家屋が破壊され、約5,000以上の家屋が損傷した。約14,000人以上がの民間人が空襲を受けて、約337人が死亡して、約1,027人が負傷した。連合軍の約403機のうち約29機の爆撃機が失われ、約7.2%の損害となった。 

 第二次世界大戦中の持続的な戦略爆撃キャンペーンの一環として、ゴモラ作戦と名付けられた1943年7月最終週の攻撃は、第二次世界大戦中にイギリス空軍とアメリカ陸軍航空隊が起こした最大級の火炎旋風を引き起こした。ハンブルクでは推定約37,000人の民間人が死亡し、約180,000人以上が負傷し、市内の住宅の約3分の1が破壊されて、街の大部分が事実上破壊された。ハンブルク空襲の前は、しばらく雨が降っておらず、すべてが非常に乾燥していた。異常に暖かい天候と良好な条件のおかげで、爆撃は意図した標的の周囲に非常に集中し、超高熱の空気の渦と渦巻く上昇気流を作り出し、高さ約460メートルの竜巻状の火災旋風が発生した。特に1943年7月27日の空襲では連合軍の約787機の爆撃機が空襲して、大きな火災が周辺の酸素をすべて消費した。炎に向かう吸引効果が生まれ、風速約240km/hの火風が発生して、高温で道路のアスファルトが燃えた。空襲の防空壕や地下室からも酸素が吸い取られ、その夜だけで約3万人が死亡した。連合国側は終戦までにハンブルクに約200回以上もの空襲を行い、約440機の爆撃機を失った。

 ハンブルグは北海に面して、造船業や重工業が集中しているため、連合軍の空襲の格好の標的となった。第二次世界大戦中の連合軍によるハンブルグ空爆では、民間人や市民のインフラへの攻撃が数多く行われました。大都市であり産業の中心地でもあったハンブルクの造船所、Uボート基地、ハンブルク・ハールブルク地域の石油精製所は、戦争中ずっと攻撃されていました。この空襲により、ハンブルグのドイツ軍の兵器生産に大きな損害を受けた。第二次世界大戦中の連合軍によるハンブルク空襲は、ドイツの長崎と言われ、原子爆弾が投下された長崎を象徴した。



 

2021年10月25日月曜日

日中戦争にて、湖南省で中国民間人が日本軍に虐殺された。身体を縄で縛って、罪人の罪状を記した木札を付けて殺害された。

日中戦争にて、湖南省で中国民間人が日本軍に虐殺された。身体を縄で縛って、罪人の罪状を記した木札を付けて殺害された。アグネス・スメドリー(Agnes Smedley)の『中国の歌ごえ(Battle Hymn of China,Jan.1943)』に写真が掲載されて、1929年から1941年までの日本軍の中国侵略の歴史が掲載された。日中戦争期を契機に、中国共産党が国際世論工作を展開した。中国共産党は日中戦争勃発前の1936年6月から10月に,アメリカ人記者のエドガー・スノー(Edgar Snow)をソビエト地区に招いて取材に応じた。スノーは,毛沢東を初めとする共産党の首脳を取材し『中国の赤い星,Oct.1937』をイギリスで発表して、反響は大きく中国共産党が世界に認知される契機となった。

 日本軍により、江南殲滅作戦(1943年5月5日から6月10日)の第一期に、湖南省北東部にある洞庭湖の北辺に位置する廠窖で引き起こされた事件が廠窖大虐殺(廠窖惨案; Changjiao massacre)が勃発した。1943年5月9日から11日までの3日間で中国軍兵士と民間人の約30,000人余が殺害された。その犠牲者の内訳は、中国軍敗残兵約5,000人、地元住民約7,000人、近郊住民約6,000人、他地域からの避難民約12,000人に及んだ。その他に、負傷者は約3,000人、焼失家屋約3,000、焼失舟艇約2,500艘、強姦された女性は約2,000人人以上などの被害が発生した。大虐殺事件現場の湖南省益陽市南県廠窖鎮には、避難民が乗る多数の船舶が爆撃され大量の犠牲者の血で水が赤く染まった血水河遺跡や、大量の遺骨が発見された千人坑遺跡などを遺跡としている。外国の駐在機関や報道機関もなく、住民の目撃証言か被害者の身体に残る傷跡と記憶、地中に埋まった犠牲者の遺骨が事件を証明する手段しかない。中国考古学者らによる遺骨の発掘調査は今も継続しはている。

 湖南省廠窖で発生した廠窖虐殺事件について、日本側史料をもとに検証した。戦後に編纂された作戦部隊の部隊史によると、廠窖事件の起きた期間、日本軍機による空襲、敗残兵の掃討、軍服を脱ぎ便衣となった中国兵との市街戦、民間船の焼却など、事件生存者の証言と符合する記述は散見された。しかし、中国側が主張する死者約3万人を証明まで至らなかった。廠窖事件で日本軍の暴行は資料的裏づけが取れるが、死者数は歴史史料上では確定できない。




2021年10月24日日曜日

ドイツ軍は、ネムマースドルフにて民間人の犠牲者のほとんどの女性と子供の死体を並べて、ソ連軍の残虐性を示す撮影をした。

第二次世界大戦の東部戦線で1944年10月22日ソ連軍が一時的に東プロイセンのネムマースドルフを占領して、約48時間後にドイツ軍がこの地域を再占領した。ソ連軍は市民を拷問し、納屋の扉に釘付けにして銃殺した。大勢の女性が強姦されて、銃殺された。ドイツ軍は、民間人の犠牲者のほとんどの女性と子供の死体を並べて、ソ連軍の残虐性を示す撮影をした。ソ連軍兵士は、約50人ほどのフランス人やベルギー人捕虜も射殺した。ドイツ軍は10月24日にネムマースドルフに再占領したが、多くの民間人が殺されていた。ドイツ軍兵士は、喉をピッチフォークで穿たれ、全身が納屋の扉にぶら下がっている老人を発見した。目撃した恐ろしい光景のすべてを説明できないと日記した。他にも、住民がソ連軍の戦車に踏み潰されたり、町の外に出る橋で市民が機関銃で殺された証言もある。

 ソ連軍は、1944年10月22日に、ドイツ東プロイセンの辺境にあるネムマースドルフ村の近くに移動し、近くのアングラパ橋を占領した。反撃するドイツ軍の空襲の際に、一部のソ連軍兵士はネムマースドルフの住民約14人が作った防空壕に逃げ込んだ。ソ連軍兵士が住民を射撃して、防空壕を占領した。村の中では他の部隊も防衛陣を敷いた。日没後に、ソ連軍は橋を渡って撤退し、橋頭堡を放棄した。征服された人々は、両軍によって多くの残虐行為に受けた。両軍共に、復讐への血の欲望が高く、民間人に対するテロの残虐行為も奨励した。

 ドイツのプロパガンダ機関は、虐殺の証拠を公表して、ソ連軍の残虐行為を宣伝した。ドイツ国内では、プロパガンダの効果は二極化して、ドイツ軍部隊への志願者が集まった一方で、東ドイツの住民は、残虐な運命を避けるために西側へ大量に逃亡した。ドイツ軍はネマーズドルフの住民約653人のほとんどが虐殺されたと主張した。ソ連軍側の記録では約20~30人の殺害であった。一般的には、ドイツ軍が死者の数を誇張して、他の残虐行為の証拠で大虐殺を誇張したり、民間人が殺される状況をソ連軍が作り出したとも考えられいる。逆に、ドイツ軍がアングラパ橋への攻撃の際に、民間人を盾にしていた。ソ連は国家の公式記録であっても殺害数は怪しく、実際の死者数は、その中間と想定されている。




2021年10月23日土曜日

広島日赤病院に外来受診した若い女性は、爆心地の南1.7kmの南大橋で、顔面から上腕に火傷を被爆した。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となった。

広島赤十字病院は、1945年8月6日に広島市に原子爆弾が投下された直後から救護活動を実施した。外来受診に母親の荷車で通っていた若い女性(陸田さん)は、爆心地の南1.7kmの南大橋で被爆した。顔面から上腕にかけたや火傷を被爆しいた。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となり、被爆者は並んで火傷の治療を次々に受けた。医師は診察して火傷の患部にガーゼ処置などをした。看護婦は、ガードを渡したり、ヘラで火傷部に軟膏を塗って、包帯を巻く救護をした。 

 1945年10月18日にアメリカ進駐軍の医療等原爆患者調査のために、広島日赤病院に立ち寄り、記録映画を撮影した。広島原子爆弾が炸裂してから、約1月後の9月頃から、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の監督後援のもとに、アメリカ戦略爆撃調査団の映画計画に参画した日本映画社によって原爆被災記録映画の撮影が9月23日から行われた。旧日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会の研究を日本映画社が撮影した。その途上で、それらはアメリカ軍によって全てが接収され所有権はアメリカ軍に移管された。12月18日にGHQにより原子爆弾に関する全てのフィルムと原爆の影響(Effect)記録映画が接収された。1946年5月16日にビキニ核実験前に価値ある広島長崎フィルムがワシントンに移管されたことが公表された。

  爆心地から南西約1.5kmの広島日赤病院は被爆して1945年9月頃から建物の修復工事をするも、爆風により鉄製の窓枠は内側へ押曲げられて、窓ガラスは砕くだけ散ったままであった。広島日赤病院の病室の窓際から、壊滅した広島市内を撮影した。10月25日にも広島市の南方から大勢の被爆者が広島日赤病院に入所した。被爆して収容された子どものウメキ声で周囲の入院患者の一部は入眠困難となった。10月26日には被爆した子どものウメキ声が、さらに強烈となり、とても可哀想であった。広島赤十字病院は、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てで焼失は免れた。しかし鉄の窓枠は破壊されガラスは飛散した。内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れた。










2021年10月22日金曜日

イギリス軍のパラシュート大隊員に襲撃されてドイツ軍のフリードリヒ・クーシン将校と運転手は車内で射殺されて、車外に死体が飛び出した。

第二次世界大戦の西部戦線のオランダのアーネム(Arnhem)にて、1944年9月17日の16時から17時の頃に、ドイツ軍のフリードリヒ・クーシン将校と運転手が灰色のシトロエン車に乗車していた。イギリス軍のパラシュート大隊員に襲撃されてフリードリヒ・クーシン将校と運転手は車内で射殺されて、車外に死体が飛び出した。ドイツ軍将校は銃弾で引き裂かれ、バッジと襟章は略奪され、ドアから身を乗り出した死体が放置された。 1944年9月17日にイギリス軍とポーランド軍のパラシュート大隊がアーネムに降下して、ライン川にかかる橋に侵攻したが、その後に増援が続かず撤退した。クーシン将校は、連合軍のパラシュート隊の動向を偵察中に銃殺された。何の前触れもなくクーシン将校が現れたので、分岐点の先頭部隊の兵士が、ステンスやライフルで銃撃して、露出した車の側面を銃撃して車から死体をなぎ倒した。写真は非常に印象的であり、戦争の非常にリアルな恐怖を伝えている。

 連合軍は1944年6月6日のD-Dayにノルマンディに上陸してから数週間後に、フランス、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダを侵攻する中、ドイツ軍は一斉に撤退を開始した。しかし、1944年9月になると連合軍は、第二次世界大戦が始まって以来、強固に守られてきたジークフリードラインに沿って、ドイツ軍の手ごわい防衛線に接近していた。連合軍のパラシュート大隊とグライダー大隊がオランダに降下して、ライン川を渡河すめために重要な領土と橋を侵攻した。

 イギリス軍とポーランド大隊のパラーシュート部隊の約1万人のイギリス人とポーランド人の部隊は、アーネムのライン川の最北端の橋を侵攻するために、イギリス軍とポーランド大隊のパラーシュート部隊の約1万人が9月17日に降下したが、アーネムの橋よりも約13kmも離反した。連合軍はライン川を渡河したが、3日以内にドイツ軍の猛烈な攻撃を受けて崩壊した。甚大な犠牲を伴ってライン川を引き渡った。アーネム周辺に上陸した1万人のイギリス空挺部隊のうち、約1,130人が死亡、約6,450人が捕虜となった。それ以外にアメリカ軍の約4,000人と約3,600人のオランダ市民が殺害された。アーネムの戦いで、ドイツ軍兵士は約1,300人が戦死して、約2,000人が戦傷した。戦場の兵士は、銃弾で引き裂かれ、略奪され、放置されるも、連合軍政府もドイツ政府が狂喜乱舞した。



 

2021年10月21日木曜日

満州事変の直後から関東軍が占領した奉天にて、10月17日に奉天郊外で約8人の関東軍将校らが殺害した約1人の中国人兵士の前で、気取ったポーズで写真撮影をした。

1931年9月18日の満州事変(九・一八事変)の直後から関東軍が占領した奉天にて、10月17日に奉天郊外で関東軍の約8人の将校らが殺害した約1人の中国人兵士の前で、日本刀を捧げて気取ったポーズで写真撮影をした。九・一八事変以降に、関東軍は奉天などで放火、殺人、売春、略奪などの戦争犯罪を行った。9月18日の夜に、関東軍は北大営を砲撃し、火薬庫は廃墟と化した。奉天市和平区の住民の多くの家が砲撃され、家が焼失した。被災した住民は、郊外に集まって避難して、家を出て関州に逃げた。奉天(現在の瀋陽)は、東北地方の最大規模の都市であり、東北地方の経済・文化・交通および商業の中心地であった。関東軍は吉林省の紅頂山に侵攻し、戦闘機が兵舎や民家を爆撃し、火の海が広がった。関東軍は、施設、学校、店、家などを焼き払った。

 満州事変は、1931年9月18日22時20分に、関東軍の約7人の日本軍兵士が、柳条湖の南満州鉄道の一部を爆破した。この爆発を合図に、関東軍は、直後に中国の東北軍の駐屯地である北大営に攻撃を開始した。9月19日午前0時20分、関東軍に、東北各地を攻撃する指令を出した。東北地方の関東軍は、素早く集中して瀋陽市を攻撃する命令をした。9月19日午前6時30分に、日本軍は奉天を占領した。9月19日には長春が、9月22日には吉林が陥落した。

 満州事変は、九・一八事変、奉天事変、柳条湖事変とも呼ばれる。1931年9月18日に、日本の関東軍が中国東北部を武力侵攻するために、奉天を突撃した。関東軍が意図的に起こして中国を武力で征服する中国への侵略戦争が勃発した。1932年2月には、中国東北部はすべて関東軍に陥落した。 その後、日本は中国東北部に満州国の傀儡政権を樹立して、約14年間にわたる中国東北部の植民地支配を確立した。中国東北部の約3,000万人以上の中国人は傀儡国家の奴隷としての辛酸をなめた。 

 九・一八事変は、中国の対日抵抗戦争の出発点であり、第二次世界大戦の太平洋戦争への起点となった。九・一八事変以降に、中国人民の抵抗戦争は、世界の反ファシズム戦争の初発となった。1931年の九・一八事変以降、国民党は無抵抗政策を続け、深刻な国難と救国の抗日運動が全国で展開された。国民党の指導の下、全国の学生、労働者、農民は、ストライキ、市場ストライキを行った。国民党政府に反対する請願やデモを行って、国民党政府の方針転換を要求した。




2021年10月20日水曜日

チェピエルフの近くの森では、ポーランド軍第74歩兵連隊の約250人以上のポーランド人捕虜を、ドイツ国防軍が大量虐殺した。

チェピエルフ(Ciepielów)の虐殺は、ポーランド侵攻中のドイツ国防軍が、1939年9月8日に捕虜を虐殺した戦争犯罪である。チェピエルフの近くの森では、ポーランド軍の第74歩兵連隊のポーランド人捕虜が、ドイツ国防軍により大量に虐殺された。虐殺された死者の数は約250人以上と推定された。9月1日にドイツ国防軍のポーランド侵攻から第二次世界大戦が勃発して、9月3日にイギリスとフランスが宣戦布告した。

 ポーランド軍がドイツ国防軍の約14人のドイツ軍兵士を待ち伏せして殺害して、ドイツ軍が約450人のポーランド軍兵士が捕らえられた。約250人のポーランド軍兵士に軍服を脱がせて、身分証明書を取り上げて、パルチザンの容疑者とした。兵士ではなくパルチザンとして即刻処刑を正当化した。チェピエルフ近郊のダブロワ村近くの人里離れた場所に強制連行した。約200人を機関銃で銃殺して死体を道路の溝に埋めた。その他の約50人を屋敷に強制収容して装甲車で砲撃された。反ポーランド主義(Antypolonizm)が、ポーランド人とポーランドに対する文化否定、偏見、差別および反動を形成して、第二次世界大戦の残虐行為を正当化した。

 1950年8月に、ミュンヘンのポーランド領事館に匿名の手紙が届いた。ドイツ軍兵士の目撃者のメモと2枚の写真が入っていた。手記を書いた匿名の著者は、銃声を聞いてこの場所に到着し、溝の中に300人ほどの死体を数えたという。同じドイツ軍連隊は、9月8日から数日間、チェピエルフとその周辺で、捕虜やポーランド人、ポーランド系ユダヤ人の民間人など、他にも数十人を殺害したとした。虐殺者数はポーランドの歴史学で広く受け入れられた。最も有名なワルシャワの「無名戦士の墓」にも記録されている。しかし、死体数が必ずしも捕虜の処刑だけでなく、誇張されていると、虐殺事件は近年さらに議論が混乱している。

 その他に、ポーランド人兵士が捕虜となった後に虐殺された事件は、約252人の捕虜が射殺されたシュラトフ、約300人の捕虜が殺されたチェピエルフ、さらに300人の捕虜が殺されたザンブルフなど、数多く存在する。ユダヤ人出身のポーランド人捕虜は日常的に選択されて、その場で射殺された。1942年にナチス・ドイツのヒトラーの命令は、軍服の着用に関わらず、敵の兵士を射殺する正当性を規定した。





2021年10月19日火曜日

ルソン島に上陸したアメリカ軍兵士は、1945年1月26日にフィリピンのジャングルで待ち伏せしていた8人の日本軍兵士を射殺した。

ルソン島に上陸したアメリカ軍兵士は、1945年1月26日にジャングルで待ち伏せしていた8人の日本軍兵士を射殺した。アメリカ軍は、山岳地帯に逃避した日本軍兵士に対して攻撃を続けた。激しい空襲により、日本軍の陣地付近にある森林は焼け野原となった。アメリカ軍はブルドーザーを使って軍道を建設して戦車も侵攻させた。

 アメリカ軍は1945年1月9日にはルソン島の北西部のリンガエン湾に上陸した。ルソン島に上陸するアメリカ軍に対して、日本軍の神風特攻の猛烈な自爆攻撃に遭遇した。護衛空母オマニーベイが神風特攻で破壊され、1月3日から1月13日までに神風特攻により合計約47隻が損傷して、4隻が沈没した。1月23日にクラーク・フィールド飛行場に到達したとき、ルソン島に上陸後に初めて日本軍による猛烈な攻撃に遭遇した。それから約1週間以上、日本軍は侵攻するアメリカ軍に対して頑強な戦いを続けた。アメリカ軍が飛行場を占領したのは2月2日であった。クラークフィールド飛行場は、占領前の数十年間アメリカの飛行場であった。

 太平洋戦争にて、ニューギニア島から南方戦線に、中部太平洋から東方戦線が、交差したフィリピンの戦いが勃発した。アメリカ軍は1944年10月17日にレイテ島に上陸した。日本軍の連合艦隊が10月20日にレイテ沖海戦に突入するも、アメリカ軍の猛攻で10月25日に壊滅した。日本軍は劣勢を挽回するために自爆攻撃である特別攻撃隊(特攻)が編成して10月25日から突入を繰り返した。

 ルソン島に上陸後には、首都マニラに向けて南方に迅速に侵攻した。マニラは掃討と焦土により、日本軍兵士だけでなく多数のマニラ市民が巻き沿いとなり甚大な犠牲を伴った。アメリカ軍は1945年3月4日までにルソン島のすべての重要な拠点を占領した。マニラ以外で生存した日本軍兵士は、北部と南東部の山岳地帯に逃避して補給もなく餓死や病死を伴いながら終戦後まで徘徊して持久戦に耐えた。ルソン島の戦いで、日本軍兵士は約217,000が戦死あるいは戦病死した。アメリカ軍は戦死が約26,310人と戦傷が約29,560人の犠牲を伴った。マニラ攻防により、民間フィリピン人が約150,000人が虐殺された。




2021年10月18日月曜日

日清戦争において旅順口の椅子山の要塞で、日本軍の攻撃で第3砲台の周辺に清国軍の兵士の死体と兵器が散乱した。

日清戦争において旅順口の椅子山で、日本軍の攻撃で第3砲台の周辺に清国軍の兵士の死体と兵器が散乱した。日本軍兵士の約15,000人と清国軍の約13,000人が、1894年11月21日早朝から旅順口で戦闘が勃発した。砲兵隊は案子山の砲台へ集中攻撃を加えた。清国軍の砲台も激しく応戦したが、日本軍が突撃して占領した。日本軍は、椅子山、松樹山、二龍山、東鶏冠山の砲台も集中砲火と突撃して翌日に陥落した。日本軍は、11月22日には清国軍の旅順要塞を占領した。

 清国軍は満州人による旧来の軍事組織である八旗を正規軍としていた。日本軍の犠牲は約40人が戦死して、戦傷者は約241人、行方不明は約7人であった。清国軍は、約4,500人が戦死して、捕虜が約600人に及び旅順要塞を撤退した。その後に近代化された日本軍は、終始優勢に侵攻を展開して遼東半島を占領した。1894年7月25日から1895年11月30日の日進戦争にて、日本軍の戦死者は約1,417人、戦病死者は約11,894人、戦傷病者は約3,758人であった。清国軍は戦死傷者が約35,000人に及んだ。

 しかし、タイムズ(1894年11月28日)とニューヨーク・ワールド(1894年12月12日)が、日本軍による旅順虐殺事件を報道した。旅順要塞が陥落した直後の11月23日から11月26日にかけて、日本軍は清国軍兵士の掃討中に、無差別に非戦闘の民間人、女子、幼児などを虐殺した。タイムズは日本軍は約200人の民間人、ニューヨーク・ワールドは約2,000人を虐殺したと報道した。ニューヨーク・ワールドは、「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を虐殺した。無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた。」と「3日間の虐殺によりわずか約36人の中国人のみ生存した」と記者のクリーマンが衝撃的に誇張して、国際世論を扇情する報道をした。国際的な世論は、次第に旅順虐殺事件は戦争ではつきものであって、欧米でも虐殺例があると風に変化した。1895年2月5日にアメリカ上院で不平等条約改正が批准されて、4月17日に下関条約が締結された。




2021年10月17日日曜日

ドイツ国防軍の特殊行動部隊と秘密軍事警察はロストフ・オン・ドンで、ソ連のパルチザンと共産党の幹部とて、約400人を獄中で処刑して虐殺した死体を集積した。

ドイツ国防軍の特殊行動部隊と秘密軍事警察はロストフ・オン・ドンで、ソ連のパルチザンと共産党の幹部であると容疑して、約700人のソ連の民間人を逮捕し、1942年8月2日までに約400人を獄中で処刑して虐殺して死体を集積した。1942年から1943年にかけて、ナチス・ドイツ軍の親衛隊の特殊行動部隊(Einsatzkommando)によって、約27,000人のユダヤ人の民間人が、ロストフ・オン・ドンの渓谷で虐殺された。ユダヤ人が大量虐殺された蛇の渓谷は、ロシア語でズミエフスカヤ・バルカ(Zmievskaya Balka)と呼称された。ズミエフスカヤ・バルカは、ロシアで最大のホロコースト犠牲者の埋葬地となった。

 ドイツ軍はバルバロッサ作戦でロシアに侵攻する最中に、ドイツ国防軍は1941年7月23日にソ連の赤軍から東ヨーロッパ平原南東部のロストフ・オン・ドンを再占領した。ドイツ国防軍の特殊行動部隊と秘密軍事警察は、ソ連のパルチザンと共産党の幹部であると容疑して、約700人のソ連の民間人を逮捕し、1942年8月2日までに約400人を獄中で処刑して虐殺した。

 さらにナチス・ドイツ軍の特殊行動部隊は、残存していた約2,000人のユダヤ人を、1942年8月11日午前8時にロスト・オン・ドンに集結させた。8月11日から8月13日にかけて、ロストフのユダヤ人男性を郊外の谷間にあるズミエフスカヤ・バルカに強制行進させた。アンザックはユダヤ人男性を砂岩の採石場と近くの果樹園で虐殺して、その死体をズミエフスカ・バルカ渓谷の巨大な穴や溝に埋めた。女性・子供・老人は、トラックで強制連行して、毒ガスで処刑して、死体を同じ蛇の渓谷に埋めた。その後にも、少なくとも約15,000人ものユダヤ人が大量虐殺されて、その後も1943年2月までロストフ・オン・ドンで虐殺は継続されて、約27,000人が虐殺された。ロスト・オン・ドンの約53,000人の民間人が強制労働のためにドイツに強制連行された。ロストフ・オン・ドンは1943年2月14日にソ連の赤軍によって解放された。

 ソ連当局は、ウクライナのキエフでのバルビヤール渓谷の大量虐殺は喧伝したが、反ユダヤ主義のためにロストフ・オン・ドンの大量虐殺は秘密裏にされた。戦後、ソ連当局はズミエフスカヤ・バルカをゴミ捨て場にして無視した。1949年に、ユダヤ人コミュニティが行った毎年恒例の追悼式は禁した。1975年5月9日なって、ナチス・ドイツによる犠牲者の記念碑がズミエフスカヤ・バルカに建立された。1990年代から2000年代に、記念碑と博物館は機能せず、小道のアスファルト舗装が崩壊して、永遠の火にガスが供給されなんかった。2009年になり修理と修復作業が始まり、2009年11月末までに復元された。




2021年10月16日土曜日

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれ、半裸で胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれて、半裸のままに胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。被爆者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、全身がやけこけて、胸部の肋骨が浮き出た。1945年9月23日頃には、窓もなく猛暑の中で、床の上に足の踏み場もない位に被爆者が横たわっていた。消毒薬さえなく海水を汲んできては煮沸して使用した救護に携わった医療関係者が証言した。特設救護病院となった新興善国民学校に重度の原爆症の被爆者を、トラックから降ろしては、担架で病室に運んだ。

 長崎原子爆弾の爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、直ちに救護所の病室として使用された。被爆直後から救護所となり、8月10日午後に針尾海兵団救護隊約249人が来院して宿舎にした。被爆後に日を追って被爆者が急増して、各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。特設救護病院として10月初旬まで使用されて、10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学の移管決定して10月23日に移設した。

 長崎市内の新興善国民学校(後の新興善小で、1996度末に閉校)は長崎市内でも強固な小学校の一つだった。長崎県庁から市役所へとつながる中心市街の近くの高台に位置した。その一帯は長崎原子爆弾による爆風、熱線など、新興善国民学校はにその直接的被害は避けられた。しかし、長崎原爆により発生した2次火災により広い範囲にわたり類焼するも、同校は鉄筋コンクリートで堅固だったため類焼から免れ、原爆直後から救護所として活用された。教室を診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。

 本格的に救護所として使用することに伴って校舎での授業が一時閉鎖となり、新興善小学校の机や椅子を運び出すために校舎内から運動場に移設された。同校の学童は長崎公園(上西山町)での青空授業から、後には晧台寺(寺町)を教室にして授業が始まった。元の新興善国民学校の校舎で本格的に授業が再開されたのは1951年12月から再開された。1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校した。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館して、救護所メモリアルを再現した。










2021年10月15日金曜日

アメリカ軍からの砲火により、沖縄住民の母親と子供が大火傷した母親は、必死に疼痛を辛抱して、子供を防御して避難した。

沖縄戦争にて、アメリカ軍が沖縄本島に1945年4月1日午前8時30分に上陸した。上陸したアメリカ軍からの砲火により、沖縄住民の母親と子供が大火傷した。重度の火傷に傷ついた母親は、必死に疼痛を辛抱して、子供を防御して避難した。アメリカ軍に救護されて担架の上で、アメリカ軍第10軍の衛生兵が、母親と子供の火傷の手当を受けた。上陸する6日前から連合軍艦隊は沖縄島に到着し、空と海から砲撃を開始した。沖縄本島への上陸作戦で、アメリカ海軍砲艦は海岸地帯にロケット砲を撃ち込んだ。海岸地帯での日本軍の抵抗を排除するため、上陸に先立って沖合の戦艦や巡洋艦から約45,000発の艦砲射撃を浴びせ、ロケット弾約33,000発、迫撃砲約23,000発を撃ち込んだ。空母から飛び立った艦載機による銃爆撃も行い、鉄の雨を降らせた。

 第10軍は沖縄本島の中央南部を比較的容易に掃討し、上陸から数時間以内に嘉手納と読谷の空軍基地を占領した。日本軍の抵抗が弱いので、沖縄北部の占領直ちに進めた。主な上陸作戦は、4月1日に第24軍は沖縄西海岸の渡具知海岸に上陸した。第2軍は南東海岸の港川海岸にて、日本軍を欺いて予備軍の参戦を遅らす示威活動を行った。アメリカ軍は4月18日までに沖縄北部で日本軍に勝利したが、南部で猛烈な戦闘が続いた。沖縄戦では、沖縄の住民約94,000人、沖縄出身者もふくむ日本軍約94,136人、アメリカ軍約12,520人が戦死した。

 沖縄戦(1945年4月1日から1945年6月22日)は、第二次世界大戦における最後の大規模な戦闘であり、最も血なまぐさい戦闘の一つとなった。1945年4月1日(イースターサンデー)、アメリカ海軍と約18万人以上のアメリカ軍の部隊が、日本本土への最後の攻撃となった太平洋の沖縄島に上陸した。この侵攻は、沖縄を含む琉球列島への侵攻と占領を目的とした。結果的には連合軍の勝利となったが、神風戦闘機や雨天、陸海空での激しい戦闘により、双方と沖縄民間人に多くの犠牲者が出た。

 4月1日に約1,500隻近い艦船と延べ約54万人のアメリカ軍兵士により沖縄本島に上陸を開始した。4月1日の夜明けを迎えると、日本軍の防衛力を弱体化するために、アメリカ軍の第5艦隊が軍隊の上陸を支援するための史上最大の砲撃を開始した。日本軍は、約13万人の兵力で沖縄を防衛して、不特定多数の徴兵された沖縄民間人や非武装の防衛隊も含まれた。




2021年10月14日木曜日

ダッハウ強制収容所には、望楼、電気柵、約3mの有刺鉄線などが設置されて、逃亡ようとした女性囚人が銃殺された。

ナチス・ドイツのダッハウ強制収容所には囚人の逃亡を防ぐために、収容所内には見張りのいる望楼、約3mもの電気柵や有刺鉄線などが設置されて、逃亡ようとした女性囚人が銃殺された。夜は柵が照らされ、囚人が電気柵に近づくとすぐに、親衛隊は警告なしに望楼から射撃した。収容所管理局に登録された少なくとも約32,000人の囚人がダッハウ強制収容所で死亡した。名前がわからない数千人の不明の犠牲者もあり、死者の数は約41,500人以上にのぼると推定された。1933年3月22日から1945年4月29日まで、ナチス政権のほぼすべての約12年間、最も長く運営された強制収容所となった。

  1933年3月22日に、バイエルン州の政治警察長であり、ミュンヘンの警察総裁であったハインリッヒ・ヒムラーの命令により、ミュンヘン近郊北西約20kmのダッハウ近郊に、捕虜の強制収容所(KZ)が設立された。1933年6月からは、テオドール・アイク(1892-1943)の管理下に置かれ、火薬工場の跡地にある強制収容所をモデル・プロトタイプ収容所として設置した。設計したダッハウの建物の配置、サービス、収容所の規則、管理、司令官室などの建設見本は、その後のすべての強制収容所のモデルとなった。ダッハウの最初の囚人は、共産主義者、社会民主主義者、労働組合員、時には自由主義や保守主義の政治家など、ナチス政権に抵抗する反対勢力であった。その後は、ユダヤ人、犯罪者、エホバの証人、抵抗キリスト教徒、シンティ・ロマ、同性愛者が収容された。

 1938年11月9日、10日のポグロムの夜だけで、シュッツバッフェル(SS)は約1万人のユダヤ人捕虜をダッハウに強制連行した。1939年3月にチェコスロバキアが崩壊した後に、1939年9月に第二次世界大戦が始まると、主に外国人の捕虜がダッハウに強制連行された。1939年10月末から1940年2月中旬まで、ダッハウ強制収容所は親衛隊(SS)部隊の訓練のために閉鎖された。囚人たちはこの期間は、他の強制収容所に分散された。1941年10月からは、約数千人のソ連軍の捕虜がダッハウ強制収容所に強制連行されて、そこで銃殺された。1942年の冬に、ダッハウ強制収容所の親衛隊(SS)医師たちは、囚人を対象とした医学人体実験を始めた。毒薬を試すために人工的に痰を出させ、負圧、高度飛行、低体温などの実験も行われた。1942から1943年に、親衛隊(SS)はダッハウ強制収容所の火葬場に毒ガス室を設置した。ダッハウ収容所内のすべてのユダヤ人囚人は、ヒムラーが親衛隊(SS)総統として出した命令に基づいて、1942年10月5日以降はアウシュビッツ強制収容所に送還された。

 ダッハウ強制収容所の約170の支部収容所は、第二次世界大戦の開戦前は、囚人たちは主に親衛隊(SS)が経営する手工業、道路建設、砂利採取、湿原の耕作などに強制労働された。1942年以降は、主に軍需品の生産に強制労働された。ドイツ軍による空爆の増加に伴って、1944年の夏に、ダッハウ強制収容所の監督者は戦闘機の生産を地下に移設した。そのために、東欧の強制収容所からユダヤ人を中心とした約3万人以上の囚人が、ダッハウ強制収容所に強制連行された。バイエルン州東部のランツベルクとミュールドルフにある2つの大規模な支部収容所では、強制収容所の囚人たちが巨大な地下工場の建設を始めた。

 連合軍の接近によるダッハウ強制収容所の解放を隠滅するために、収容所の監督者は1945年4月26日に約7,000人の囚人を死の行進で南下させて、2日後には強制収容所を出た。1945年4月29日に、ダッハウ強制収容所はアメリカ軍によって解放された。1933年から1945年の間に、約18,800人以上の人々がダッハウ強制収容所に投獄された。連合軍は解放後に、アメリカ軍は1948年のダッハウ戦争犯罪裁判が終わるまで、親衛隊(SS)隊員を収容した。 その後、元囚人の収容施設は数年間、難民や避難民の避難施設として使用された。1960年に閉鎖されて、旧火葬場の建物に暫定的な博物館が開設され、5年後には博物館付き記念館が開設された。




2021年10月13日水曜日

硫黄島の戦いで1945年3月9日にアメリカ軍兵士は、機関銃座が崩壊されて戦死した日本軍兵士の死体のそばで、戦場の狙撃手や潜伏者を慎重に監視した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、1945年3月9日にアメリカ軍により日本軍の機関銃座が崩壊された。アメリカ軍兵士が、火炎放射器により焼き殺されて戦死した日本軍兵士の死体のそばで、硫黄島で日本軍の狙撃手や潜伏者がいないか、慎重に前方の地形を監視した。日本軍兵士は多大な犠牲を伴ってアメリカ軍基地に突撃して、突入した各所で白兵戦が勃発した。

 日本軍は地下陣地をトンネルでつなぎ、思わぬ場所から攻撃を仕掛けてアメリカ軍を苦しめた。穴は非常に広いが、日本軍兵士が出入りするために残した地下壕の穴は非常に小さく、日本軍がアメリカ軍に忍び寄るのを容易した。アメリカ軍は地下壕の穴の弱点を突いて、穴に隠れていた日本軍兵士を一掃した。トンネルの建設に使われたコンクリートは、地下壕のトンネルの入口を塞ぐためにも使われた。さらにアメリカ軍は各洞窟の中に、火炎放射器、手榴弾、海水などを流し込み、あるいは大量のガソリンを入れて放火して、最終の仕掛けを始めた。満員になった洞窟に手榴弾が投げ込まれ、洞窟は一瞬にして燃え上がり、残っていた日本軍兵士のほとんどを消し去った。アメリカ軍は砲撃では破壊できないので、地下壕の穴をすべて塞いで、日本軍兵士に空気の流入せずに窒息死したり、物資の支援を受けられずに生きたまま餓死した。

 1945年2月19日から、日本軍とアメリカ軍の間で硫黄島の戦いが勃発した。硫黄島の戦いが始まった5日後の1945年2月23日、6人のアメリカ軍兵士が、摺鉢山の頂上に星条旗を掲げるも、3人は戦いの終結までに戦死した。アメリカでは、毎日学校で国歌を歌ったり、国旗の前で直立したり、忠誠の誓いをすることもある。逆説的に戦争の最中は敵であった人々は、戦争が終わったら、神格化した国旗と国歌に仲間意識と強制迎合が生まれた。戦争により国旗と国歌なども個々人の思想にまで介入し強制して、人民である限り一人の人格を踏みつぶす生命の危険を伴った。1945年3月26日未明に、栗林忠道は自ら約350人の日本軍兵士を率いて、飛行場周辺に駐留したアメリカ軍兵士に最後の全滅する攻撃を仕掛けた。日本軍は捕獲された約1,023人を除いて、散り散りになっても日本軍兵士の中には、全滅するまでより多くのアメリカ兵を殺すためには何でもする日本軍兵士もいた。