2021年10月5日火曜日

ブナ・ゴナ地区にて、1942年12月16日に日本軍兵士が、パブアサ戦場で自殺するために縄を身体に巻きつけたままで死亡していた。

太平洋戦争のニューギリア戦いでブナ・ゴナ地区にて、1942年12月16日に日本軍兵士が、パブアサ戦場で自殺するために縄を身体に巻きつけたままで死亡していた。ブナ地区とゴナ地区での日本軍兵士は、全員が死ぬまで戦闘する玉砕の戦場となった。日本軍兵士は死ぬまで抵抗をやめることなく、そのために連合軍は多くの損害を出しつつあり。日本軍側が完全にゼロになるまでは勝負はつかぬ様相を呈した。厳しい戦闘に遭遇して、地形、重火器の不足、補給物資の不足によって、困難な状況はに落った。死地で戦う日本軍によって、11月19日から戦況が悪化して、後2週間にわたり攻防を繰り返した連合国軍側はほとんど進展せず、死傷者の増加にも直面した。

 ブナで見つかった日本軍兵士の日記には、12月1日から「過去4日間、援軍を待っていた」「私の体はニューギニアに埋葬され、ブナの土壌の肥料になる」「今、私たちは死を待つだけです。」と悲壮感に満ちた。オーストラリア軍兵士は、「原始的な沼地、じめじめとした静かな雑草、大量の犠牲者、日本軍の戦意の固さ、日本軍兵士はとって死が唯一の結末であった。恐怖の戦いを、不本意ながらも戦争中の最も過酷な悪夢を思い出した。」とある。1942年12月5日から、デュロパ農園から連合軍の攻撃が始まり、木の狙撃兵、爆発物を持った歩兵、木の切り株を掃討した。連合軍は迫撃砲による激しい砲撃を受けて、ブナ村を占領した。12月15日から18日までに、アメリカ大隊軍は、前線を越えて日本軍に対して侵攻した。オーストラリア軍も約3分の1が死傷者になった。ブナだけでも、約2,000人の日本軍のうち、約1,450人が戦死あるいは行方不明となり、ジャングルや海でさらに多数が戦死した。連合国兵士の約620人が死亡して、アメリカ軍は353人、オーストラリア軍は267人であり、さらに約2,065人が戦傷し、約132人が行方不明となった。

 日本軍は、ブナ地区に1942年7月21日に日本軍が上陸していた。オーストラリア軍と日本軍の連合軍は、ニューギニア島のブナの南東約16kmのオロ湾に1942年11月16日に上陸した。その後11月中旬から、オーストラリア軍とアメリカ軍がブナ地区とゴナ地区へ向けて侵攻した。ゴナ地区の付近のバサブア地区において日本軍と激突した。連合軍は攻勢を強めて、12月8日にパサブア地区の日本軍兵士は、全員が玉砕して戦死した。さらに1943年1月2日には、連合軍によりブナ地区の日本軍兵士も全員が戦死した。最後に残ったブナ地区とゴナ地区の中間のギルワの日本軍兵士は、玉砕を避けてクムシ河口に撤退した。南海支隊のブナ地区に上陸以降の一連の地上戦闘により、参戦した日本軍兵士約1万1,000名のうち約7,600人が戦死あるいは戦病死した。ブナ、ゴナ、ギルワ地区の戦いにて、連合軍による日本軍兵士の捕虜数はわずか約250人程度の残存兵となった。ブナ・ゴナの戦いで、連合軍側は約1,991人が死亡して、約12,300人が戦傷あるいは戦病の犠牲を伴った。日本軍は、約4,000人が戦死して、約3,000人が病死し、約1,200が戦傷して、約250人が捕獲された。




2021年10月4日月曜日

モンテ・カッシーノの戦いはカッシーノ修道院が墓場となり、悲惨な戦場で埋もれた瓦礫から兵士の死体の右手と右腕が飛び出した。

第二次世界大戦のイタリア戦線でのモンテ・カッシーノの戦いで、カッシーノ修道院は、多くの勇士の墓場となった。埋もれた瓦礫から飛び出したドイツ軍兵士の死体の右手と右腕は、モンテ・カッシーノ戦いの悲惨な戦場を象徴した。モンテ・カッシーノの戦いだけで、連合軍の死傷者は約5万5千人と過大であり、それに対してドイツ軍の死傷者は約2万人で過小であった。

 イタリア戦線は、1944年6月8日に連合軍がノルマンディーに上陸したことで、ほとんど注目されなくなった。長く、辛く、血なまぐさいイタリア戦線は、ドイツ軍がフランスのドイツ軍隊を強化するために使う部隊を拘束した。イタリア戦線が、ノルマンディ上陸作戦を支えた。その後のイタリア戦線が長引くにつれ、連合軍の兵士たちは忘れ去られたように感じた。

 その最中に、イギリスの貴族のレディ・アスター夫人が、イタリアの部隊を「D-Day Dodgers(巧妙者)」と呼んでいるという噂が隊員たちの間を駆け巡った。毒舌家のアスターは、イギリス議会に選出された2人目の女性であり、議会に着席した最初の女性である。1944年6月8日のD-Dayにノルマンディに上陸した連合軍の兵士たちがフランスの西部戦線で猛烈な戦闘をしている間に、イタリア戦線の兵士たちは楽をしていたという噂である。1944年11月に、ドイツで人気のあるラブソング「Lili Marleen」に合わせた替え歌は、すぐにイタリア戦線の部隊の間で大人気となった。この曲はイタリア戦線に対する皮肉が込められている。

We're the D-Day Dodgers, our in Italy,Always on vino, always on spree,Eight Army skivers and Yanks,We go to war, in ties like swanks, We are the D-Day Dodgers, in sunny Italy. 

(我々はイタリアのD-Day Dodgersだ。いつもワインで、いつも酒で。第8軍のサボリ人とヤンキー。俺たちは戦争に行く、見せびらかしのようなネクタイで。俺たちはD-Day Dodgers、晴れたイタリアで。)連合軍は1943年9月9日にイタリア本土に上陸した。1943年12月に、イギリス第8軍のバーナード・モンゴメリー司令官は、ノルマンディー上陸に備えてイギリス本土に戻っていた。

 イタリア戦線で最大の犠牲を伴ったモンテ・カッシーノの戦いの第一次攻撃は1944年1月17日に開始され、ドイツ軍の防御が山腹に組み込まれて、大量の犠牲を受けた連合国軍は2月11日に撤退した。連合国軍は、ドイツ軍が丘の上の修道院を軍事基地として、1944年2月15日に第二次攻撃に爆撃した。爆撃で約250人の女性、男性、子供が死亡した。3月15日、北側から第3次攻撃が行われ、大規模な空爆の後、連合軍はカッシーノの町を侵攻した。防御は厳しく、双方に大きな損害を被って、連合軍は後退した。第4次攻撃として、1944年5月11日の夜に開始され、5月17日にポーランド軍団はドイツ軍の防衛線を突破して、5月18日モンテ・カッシーノの頂上にある修道院を占領した。モンテ・カッシーノの戦いは終わり、連合軍はウィンターラインを突破して、1944年6月4日に、連合軍はイタリアの首都ローマを攻略した。ローマは解放されたが、モンテ・カッシーノの激しい戦いは空虚な戦闘に陥った。この戦いには大量の犠牲を伴って、連合軍(オーストラリア、カナダ、自由フランス、モロッコ、イタリア王国、インド、ニュージーランド、ポーランド、南アフリカ、イギリス、アメリカ等)の死傷者は約5万5千人を超え、それに対してドイツ軍の死傷者は約2万人だった。イタリア全戦線で連合国の死傷者は合計約313,000人で、ドイツ軍の死傷者は約336,000人に及んだ。




2021年10月3日日曜日

南北戦争で死亡した南軍の兵士の死体が荒野に放置されて横たわった付近で、北軍兵士は北軍歩兵兵中尉が埋葬された墓を見詰めた。

南北戦争で死亡した南軍の兵士の死体が横たわった付近で、北軍兵士は第7ミシガン歩兵中尉ジョン・クラークが埋葬された墓を見詰めた。殺害された南軍の兵士の死体は、荒野に放置されたままであった。アンティータムの戦いから約10カ月近く経っても、マサチューセッツ州アンティターム郊外の荒野や森林の周辺は悲惨な傷跡のままだった。急いで埋葬された兵士の骨が地面から突き出た。見るからに気持ち悪い頭蓋骨が周辺に出没した。ナップザック、帽子、銃弾、砲弾、靴、ブーツ、ハーバサックなどの戦争の残骸も野原や森林に散らばった。最も激しい戦場であった白亜のダンカー教会は、銃弾と砲撃で跡形もなかった。

 スコットランド生まれの写真家、アレキサンダー・ガードナーは、アンティータムの戦いの2日後の1862年9月19日に現地入りした。ステレオ湿板のカメラを設置し、死体が散乱した田園地帯の写真を何十枚も撮り始めた。倒れた兵士の死体、埋葬者、塹壕の墓などを記録した。平和な社会の中で、初めてアメリカで記録された戦争犠牲者の映像を公開した。人の顔が判別できるほど鮮明であり、戦死者の犠牲が、戦争を急に生々しく身近に感じさせた。1865年までに多くの人命を奪う南北戦争の犠牲をアメリカ人に認識させた。戦場では、顔の見えない他人ではなく、息子、兄弟、父親、いとこ、友人も犠牲になった。ガードナーが撮影したアンティータムの戦いの写真は、あらゆる戦争の報道に痛烈な視覚的先例を作り、永遠の戦争遺産となった。

 アンティータムの戦い(Battle of antietam)は、1862年9月17日、南軍のバージニア軍と北軍のポトマック軍との戦闘で、メリーランド州のシャープスバーグとアンティータム付近で行われたアメリカ南北戦争の戦いである。アメリカ南部では、シャープスバーグの戦いとも呼称された。南北戦争の東部戦域にて、北軍の地域で行われた最初の戦闘であった。死者、負傷者、行方不明者合わせて約22,717人もの膨大な犠牲を伴うアメリカ史上最も流血の戦いとなった。

 南軍をメリーランド州まで追撃した北軍は、アンティータムの小川の背後で守備した南軍に対して攻撃が勃発した。9月17日の明け方から、北軍は南軍の左翼を強力に攻撃した。ミラーズ・コーンフィールドで攻撃と反撃が繰り返され、ダンカー教会では戦闘が展開された。サンクンロードに対する北軍の攻撃は、最終的に南軍の中央部を貫いたが、北軍の優位性は追随でなかった。午後に北軍が参戦し、アンティータムの小川に架かる石橋を奪って南軍の右翼に進撃した。その時、南軍が到着して北軍に奇襲をかけて、バーンサイドに追い返して戦いは終結した。南軍は、兵数の上では2対1と劣勢だったが、全軍を投入し、北軍は4分の3以下の兵力で、南軍は北軍との戦いを膠着させた。両軍は戦線をさらに強化して、壊滅的な死傷者が出した。南軍は9月18日の間に、北軍の小競り合いを続けて、ポトマック川の南に防御した。




2021年10月2日土曜日

24歳の日本軍兵士は、広島原子爆弾の爆心地から約1kmで被爆し宇品病院で体温約40.3度に上昇し白血球数は約1,300に低下した。

爆心地から約1kmの兵舎で日本軍兵士の沖田博(24歳男性)が被爆して宇品病院に収容された。ほとんど医療は受けれずに検査ばかりが継続された。一時期に約40.3度まで体温が上昇して、白血球数は約1,300まで低下した。その時点で、頭皮や口腔内、歯肉の写真(下記)が撮影された。原子爆弾による早期からの脱毛の一部は軽快して生存できた。口腔内、歯肉からは出血傾向にあった。

 太平洋戦争の終戦直後から、GHQ司令部から約1,300人にも及ぶ大規模な原爆調査団が被爆地に派遣された。ほとんどの被爆者は治療を受けれずに、原爆症の被爆者の実態調査データを徹底的に収集された。原爆調査団は報告書を英語に翻訳して、1945年11月30日に第1東京軍事病院から提出された。約2年間にもわたる膨大な原爆調査記録の181冊が、GHQのアメリカ陸軍・オーターソン大佐が回収した。それらはワシントンにあるアメリカ国立公文書館に保管されていた。約200人の死体からの病理検査データも回収されていた。調査対象者となった被爆者は、約20,000人にも及んだ。被爆者は、動物実験のように人体の影響が無慈悲に調査された。

 最初の原子爆弾の実態調査は、陸軍省医務局が1945年8月8日から旧陸軍宇品病院で、新型爆弾による原爆症の被爆調査を指揮して実施した。その調査結果は、1945年11月30日に「原子爆弾二依ル 廣島戦災醫學的調査報告書」(Medical Report of the Atomic Bombing in Hiroshima)として、陸軍軍醫學校東京第一陸軍病院から報告された。敗戦国の日本は、第二次世界大戦の戦争犯罪から逃れるためにも、GHQから原子爆弾の威力と影響を求められるに先立って提出した。

 アメリカ軍からの原爆調査団は、戦後の約2ケ月後なってから派遣された。その時からアメリカ軍の調査団に、東京帝国大学の放射線医学の都築正男教授など学識者が調査に惨禍した。広島市内の約70箇所にわたる約17,000もの子供に対して原子爆弾が及ぼす原爆症と原爆死を調査した。爆心地から約0.8kmでは560人が全員の子供が死亡して、約1.3kmでは132人中50人の子供が死亡した。 







2021年10月1日金曜日

日本軍の前線指揮所にアメリカ軍の砲弾が直撃して、日本軍兵士は入口で爆死した死体には、直後から蝿が群がり、蛆虫が湧いて、悪臭がして腐敗した。

ガダルカナルの戦いで、日本軍の前線指揮所は、コカンボナ海岸に近い大きなガジュマルの木の幹の中にできた洞窟の中に置かれた。その指揮所にアメリカ軍の砲弾が直撃した。日本軍兵士は、入り口から半身を乗り出した地点で爆死した。その死体には、直後から蝿が群がり、蛆虫が湧いて、悪臭がして腐敗していた。ガジュマルの中の前線指揮所の洞窟の中には、枕、敷布団、鍋、端、衣服などが散乱した。周囲には、レースの縁のテーブルクロスも残存していた。ガジュマルは、全体的に楕円形の葉を持つ熱帯性の大木で、熱帯雨林、川縁、海岸、沼地、マングローブなどに生息する。

 1942年秋にガダルカナル島のマタニカウ川の戦いが勃発した。アメリカ軍と日本軍が、甚大な犠牲を伴う猛烈な攻防戦となった。日本軍はヘンダーソン飛行場を攻略する陣地を築こうとした。アメリカ軍は、ヘンダーソン飛行場の周囲を十分に拡張して、日本軍が同飛行場を攻撃できないようにした。

 日本軍は1942年10月初旬に、アメリカ軍にマタニカウ川右岸付近で急襲さてれ、大損害を被ってマタニカウ左岸に撤退した。アメリカ軍はさらに11月1日に、マタニカウ川の数箇所を渡河して左岸に侵攻した。海岸沿いに侵攻して、日本軍をコカンボナ付近まで打撃した。その後アメリカ軍の主力部隊がマタニカウ川西岸で攻防した。兵力が増大したアメリカ軍は、1943年1月10日以降に猛撃して、飢餓に苦しむ日本軍をガダルカナル島の西方に追い詰めた。アメリカ軍は11月1日にマタニカウ川を渡り、11月2日に日本軍の残党を取り囲んだ。11月3日に、大砲、迫撃砲、半装軌車から日本軍に発砲した。日本軍は、約28人の将校と約201名の日本軍兵士が殺害され、別の日本軍部隊も全滅した。アメリカ軍は日本軍を突撃して追跡は、山岳地帯や前人未踏の地区に30日間つづけられ、約12回の戦闘で、約400人以上の日本軍兵士が殺害された。

 ガダルカナル島の戦いは、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍との戦いで、日本軍兵力の逐次犠牲を繰り返し、飢餓と想像を絶する悪環境下で半年にわたり戦線をが継続した。弾丸と同じくらいジャングル戦争でマラリアの犠牲者となった。長期間にわたる精神的および肉体的な緊張、戦闘、不十分な食糧などに苦悩した。アメリカ軍に制空権を奪われ、ガダルカナル島に補給が絶たれて困窮の果てに、飢島と呼称された。




2021年9月30日木曜日

アメリカ軍兵士が、1967年のベトナム戦争のジャンクションシティ作戦で、タイニン省で殺害された同僚のアメリカ軍兵士の腕を組んだ死体を悲嘆しながら覆った。

アメリカ軍兵士が、1967年のベトナム戦争のジャンクションシティ作戦で、タイニン省で殺害された同僚のアメリカ軍兵士の死体を覆った。アメリカ軍兵士は腕を組んで殺害された同僚が死亡する大惨事がに直面した。戦争は一瞬にして、生命を奪い、強烈な衝撃を受けて悲嘆に暮れた。ジャンクション・シティ作戦は、サイゴンの北側に位置するウォーゾーンCにあるベトコンの基地と南ベトナムのベトコン軍司令部を破壊することを目的とした。アメリカ軍は約3万人、南ベトナム軍は約5千人が参戦した。

 1967年2月22日から4月15日まで実施されたジャンクションシティ作戦は、ベトナム戦争で最大の連合国作戦でした。サイゴン近郊のタイニン省に拠点を置くベトコンを排除して、ベトコンの要塞を占領するために、アメリカと南ベトナム軍は、カンボジア国境に近い南ベトナムのエリアであるウォーゾーンCに侵攻した。約82日間の軍事作戦は、ベトナム戦争で最初で最大の空挺作戦であった。タイニン省を徹底的に制圧し、大量の物資を獲得し、共産ゲリラに大きな損害を与えた。しかし、ベトコン本部は占領できず、アメリカ軍が撤退すると、その地域は共産主義者によって再び占領された。アメリカ軍は、約282人が殺害された。ベトコンと北ベトナム軍は、約2,723人が殺害された。

 ベトナム戦争は、終わりのない退屈の連続だった。終わらない死の恐怖に加えて、数々の悲惨な状況に耐えなければならなかった。太陽に照らされた光景の中を容赦なく歩かされ、約80キロの装具を抱え、脳が沸騰するような暑さ、温室のような湿度、脱水症状、熱中症、日焼け、赤い粉塵、集中豪雨、ブーツを吸う泥、血を吸うヒル、蒸し暑いジャングル、マラリア、赤痢、虫の軍団、ヒアリ、毒のあるムカデ、蚊、ハエ、藪蛇、毒蛇、サソリ、ネズミなどの苦難に遭遇した。退屈、銃撃、死体袋など、数え切れない不快感に襲われた。

 アメリカがベトナム戦争で被った最大の敗北は、本国のアメリカ人が帰還兵の多くは、冷たく、無関心に扱う態度を耐えれなかった。困難で、多くのアメリカ人に否定されて、捨てされないベトナム戦争で、勇敢に、多くの犠牲を払って、アメリカに奉仕した人々は共感されなかった。多くの苦しみを共有してきたベトナム戦争の人々は放置されている。ベトナム、カンボジア、ラオスの人々を助けるためにアメリカ軍兵士は動機を失った、戦場で一緒に戦闘する兵士たち、日々生死を共にする兵士たちには、尊敬と名誉が失われている。

 ベトナム戦争中にベトナム人と他国の写真家が撮影して、南北ベトナムで写真を収録した。双方の戦場で撮影された写真は、おそらくベトナム以外では拝見できない写真である。写真家たちは明らかアメリカ軍の部隊に所属していた。1975年のサイゴン陥落後は新北ベトナム政府の一員となり、ベトナム戦争の写真を新政府に提供した。戦争写真の中には、戦争の残虐性を示すことを勧告する。戦争とは死と破壊であることを再認識する必要がある。戦争の戦闘に素敵な手段はない。戦争の代償は双方が損害する生命である。




2021年9月29日水曜日

アッツ島の戦いが5月30日に終結する戦闘の瞬間に、数百人の日本軍兵士が手榴弾を胸部や腹部に握りしめて自爆による集団自殺をして、薪の山のように互いに重なり合った。

太平洋戦争のアッツ島の戦いが5月30日に終結する戦闘の瞬間に、数百人の日本軍兵士が手榴弾を胸部や腹部にしっかりと握りしめて自爆による集団自殺をした。引き裂かれた死体は、強風によって吹き飛ばされた薪の山のように互いに重なり合った。最後に残った約500人ほどの日本軍兵士は敗北を悟り、エンジニア・ヒルの麓まで後退して自爆死した。掘り起こされた墓地のように見え、殺害された日本人兵士がいたるところに散らばっていた。

 1942年6月3日から7日にかけて、日本軍はアラスカのアリューシャン列島を攻撃し、ウナラスカ島のダッチハーバーを爆撃し、アッツ島とキスカ島に侵攻した。アメリカの国土が占領されたのは初めてであった。アメリカ軍兵士は、再占領するために1943年5月11日に、約12,500人のアメリカ軍兵士はアッツ島の北端と南端に上陸しました。多くの兵士が悪天候に露出の犠牲となり、凍傷や熱病に苦しんだ。死んだ敵軍に遭遇したとき、時々優れたブーツとコートを取り替えた。アメリカ軍上陸時には、日本軍し2600人の健常者を抱えていたが、5月28日には800人しかいなかった。

 「最後の攻撃が実行される。病院内の患者は全員自殺することになっている。たった33年しか生きていないのに、私はここで死ぬことになる。18:00に手榴弾ですべての患者を始末した。」と辰口信夫衛生兵は1943年5月28日に記録した。1943年5月29日の夜明け前の暗闇の中で、日本軍兵士は自殺攻撃をした。5月29日午前3時に、突然に日本軍は山からの叫び声を上げて狂信的な突撃をした。戦闘の多くは白兵戦となり、銃撃と悲鳴が谷全体に響き渡った。天皇陛下の名の下に行われた全員が名誉の自殺攻撃をする「玉砕」の最初の公式なバンザイ攻撃となった。日本軍がアメリカ軍に勝ち目がなく、補給や援軍もなく、唯一の選択肢は突撃することであった。日本の軍隊は、"武士道 "の規範に従っていた。武士道は、降伏は非常に不名誉なことであり、兵士は捕らえられるよりも自決を指示された。兵士が降伏すると、不名誉は家族に及び、妻の中には、恥から逃れる自殺する者もいた。

 アッツ島の戦いでは、アメリカ軍は上陸した約12,500人死者は549人で、戦傷者は1,148人を超えた。日本軍兵士は、駐屯していた約2,500人のうち、約2351人が死亡して約28人を除いて全て死亡し、死亡率は約99%に及んだ。





2021年9月28日火曜日

太平洋戦争直後に日本軍が香港を占領して捕虜となったカナダ軍兵士の死体が1947年4月に香港で発掘されて、白骨が散乱していた。

太平洋戦争が勃発して、日本軍が香港を占領したときに多くのカナダ軍兵士が殺害された。香港の戦いでカナダ軍兵士の生存者はすべて捕虜となり、栄養失調、病気、過労、残虐行為に苦しみ、さらに病死や飢餓死して約300人近くのカナダ人が捕虜となって死亡した。日本軍が統治した香港では、憲兵隊による虐待と虐殺から食料不足と栄養失調で、連合軍の捕虜や香港市民が犠牲になった。1947年4月に、捕虜となったカナダ軍兵士の白骨死体が香港で発掘され、白骨が散乱していた。

 香港の戦いとは、第二次世界大戦中の1941年12月8日のイギリス領香港への日本軍の侵攻から1941年12月25日の香港の陥落までの戦いである。連合国の多国籍軍は、イギリス、カナダ、インドからの正規軍で構成されて、香港王立軍団の総勢力は約15,000人であり、対抗する日本軍の勢力は約50,000人にも上った。

 香港の戦いは、イギリス植民地当局者の降伏で終結した。香港の戦いで、約4,500人の連合軍の死傷者を出し、約2,113人が殺害され、約8,500人が捕虜にされた。日本軍は約706人が殺害され、約1534人が負傷した。降伏の日はクリスマスなので、ブラッククリスマスと呼称された。それ以来、香港は約3年8ヶ月に及ぶ日本の香港統治時代が始まった。

 カナダ軍は、香港防衛戦争中の戦闘で約290人が死亡した。戦闘の終わりに、軍隊が敗北するまで降伏を拒否した。戦場の生存者は戦争の囚人になった。日本軍に捕らえられた後に、約264人以上のカナダ軍が死亡した。、戦場と戦後のカナダ軍の死者の総数は約554人ぶあった。カナダ軍なの捕虜は主に香港のノースポイント収容所に集積された。収容所は非常に混雑して不衛生であり、捕虜は病気と食糧不足に直面した。カナダ軍の犠牲者は多く、戦死者290名、負傷者数百名に及んだ。生存者はすべて捕虜となり、栄養失調、病気、過労、残虐行為に苦しみ、さらに300人近くのカナダ人が捕虜となって死亡した。

 1945年8月15日に日本が降伏した後に、香港は再びイギリスの支配下に置かれた。投獄されていたカナダ軍兵士も解放された。香港の戦いで死亡した約280人の兵士が、香港島東区の柴湾にある西湾戦争墓地に埋葬された。1941年12月19日に、香港島の黄泥涌ギャップにある西部司令部は日本軍に囲まれて、最終的にカナダ軍兵士の残党の約20人以上が戦いで戦死した。。

 香港の戦いでカナダ軍が損害を負った主な理由の1つは、ほとんどの将校と兵士が訓練を完了しておらず、重火器を装備していなかった。カナダ軍は約3,400人が死亡し、約6,100人が捕獲または負傷した。民間人は約5,000人が死亡し、約3,000人が負傷した。日本軍は、約3000人が死亡して、約6,000人が負傷した。

 極東におけるイギリスの防衛の焦点はインドであり、最前線の焦点はシンガポールであった。イギリスは日本に対して直接に宣戦布告しなかったために、意図的に中立の地位を維持した香港は多くの防御を講じた。日本軍が1941年12月7日にアメリカの真珠湾を攻撃してから数時間後、状況は劇的に変化した。12月8日の香港時間の午前8時に、日本軍が宝安郡から侵攻した。数日間の激しい香港の戦いの後に、日本軍の勝利で終結した。日本は、2011年12月8日に、カナダに対して捕虜の扱いについて謝罪した。




2021年9月27日月曜日

アフガニスタン紛争の首都カブールで、アメリカ軍の空襲で殺害されたアフガニスタン人の子供たちの死体を抱いて泣く父親がいた。

アフガニスタン紛争により2001年10月28日に、アフガニスタンの首都カブールで、アメリカ軍の空襲で殺害されたアフガニスタン人の子供たちや隣人の死体を見て抱いて泣く父親がいた。アメリカ軍の空襲のよる1つの爆弾が命中した際には、1つの家族に属した8人の家族と2人の民間人の合計10人が一瞬に即死した。さらに別の爆弾が幹線道路の真ん中に着弾した際には、ミニバスに乗っていた2人の民間アフガニスタン人が殺害された。高度な殺人兵器により、アフガニスタンの子供たちが動物のように屠殺された。

 イギリス軍の支援を受けたアメリカ軍がタリバン軍に対する爆撃である不朽の自由作戦(Operation Enduring Freedom:OEF)が正式に開始された。カナダ、オーストラリア、ドイツ、フランスが今後の支援を約束した。戦争の初期段階では、主にアルカイダとタリバン勢力に対してアメリカ軍は空爆を行った。約1,000人のアメリカ軍特殊部隊が、北部同盟やパシュトゥーン族の反タリバン勢力を支援した。通常の地上軍の第一陣はその12日後に到着する。地上戦は、タリバンとその敵対勢力との戦闘が勃発した。不朽の自由作戦の一環として、アメリカ軍機は毎日、軍事基地、飛行場、テロリストの訓練キャンプ、通信施設などに爆弾を投下した。侵攻はカブール、カンダハル、ジャララバード、コンズ、マザリシャリフにあるタリバンとアルカイダの施設などに空爆を開始した。10月19日には、アフガニスタン代理部隊と協力して空爆を調整するために、少数のアメリカ地上軍が配備された。軍事行動開始から1カ月余りが経過した11月12日に、タリバン政権幹部とその軍は首都カブールから撤退した。12月初旬には、タリバン最後の拠点であるカンダハールが陥落した。

 ハミド・カルザイが暫定指導者として、2004年12月7日に民主的に選出されたアフガニスタン初の大統領に就任した。しかし、1万人以上のアメリカ軍が駐留して、アフガニスタンが民主化への第一歩を踏み出した頃、アルカイダやタリバンの勢力がアフガニスタンとパキスタンの国境の山岳地帯で再編成され始めた。アメリカ軍やアフガニスタン軍はゲリラ的と戦闘を続けて、政府高官や援助者の殺害され、外国人の誘拐も発生した。この戦闘で、数百人のアメリカ軍と連合軍の兵士、そして数千人のアフガニスタン人が死傷した。2011年5月2日に、ビンラディンはパキスタンでアメリカ軍特殊部隊により殺害された。不朽の自由作戦(2001年10月7日から2014年12月28日)で、アフガニスタン軍は約5,500人以上、アメリカ軍が約2,355人、イギリス軍約456人、タリバン軍は約67,000人以上が戦死して、アフガニスタン民間人は約100,000人以上が戦死傷した。




2021年9月26日日曜日

バンカーヒルの待機室で出撃を待機した約22人の飛行士が、神風特攻を受けて避難する途上の通路で窒息死した死体が積み上がった。

神風が激突して爆発したアメリカ軍の空母バンカーヒルの格納庫では、ガソリンの燃焼と弾薬の爆発による火災が続き、炎上する空母の飛行甲板の何百フィートも上から、刺激的な黒煙が立ち上った。飛行甲板や格納庫、準備室では、多くの水兵、特にパイロットが沖縄上空での任務に向けて離陸準備をしていた。神風が激突してすぐに多くの人が亡くなり、海に飛ばされたり、生きたまま焼かれたり、煙を吸ったり、窒息したりして悲惨な戦死した死体が散乱した。火からの燃えるガソリンと有毒ガスが換気システムに吸い込まれて、準備室の外にある通路で、人が薪のように積み上げられて、全員約22人が窒息死していた。甲板下の機関室では約125人が犠牲となった。神風によって、バンカーヒルの乗組員は合計で393人が戦死して、約43人が行方不明、約264名が戦傷した。1945年5月12時正午から夕方まで、死体は帆布の袋やパラシュートは縫われて閉じられ、飛行甲板に並べられ海に埋葬された。その後に自力で真珠湾まで帰還して、1945年8月中旬の終戦時にまだ造船所にいた。

 日本軍の軍事拠点を破壊し続けたバンカーヒルは、1945年5月11日に2機の神風から悲惨な突撃を受けた。晴れ渡っていたが、午前10時5分頃に、沖縄戦のために数機のアメリカ軍の戦闘機が離陸する最中に、日本軍の神風がレーダーに探知されずに、バンカーヒルの右舷側の雲の中から低空飛行してきた。広大な護衛艦のスクリーンをすり抜けて、右舷に低空を飛行した。約34機の戦闘機が離陸準備をしているフライトデッキの真上に約250Kgの爆弾と零戦は激突した。神風は木製の飛行甲板を突き破り、格納庫から甲板の頭上を通って海上に落下して大爆発した。爆弾の破片と神風本体は、飛行甲板で離陸準備をしていた戦闘機に激突して、爆発の連鎖反応引き起こした。大規模な火玉と煙が船尾に飛び散り、何人もの水兵が吹き飛ばされた。

 その30秒後には、2機目の神風が約250kgの爆弾とバンカーヒルの飛行甲板に激突した。爆発は、格納庫甲板とその下の準備室を切り裂いた。燃料を補給して武装した戦闘機の乗務員たちが、離陸するために上甲板に向かう準備をしていた。40ミリ砲弾を受けながらも零戦をバンカーヒルに向けて操縦した。3機目の神風は、空母にとどめを刺すために飛んできた。バンカーヒルの砲手たちは、神風を撃退し続けた。甚大な損害を受けた船内では燃え盛る火の粉を消すために消火活動が行われた。爆発で船外に飛び出す水兵もいれば、火災で船尾の水兵を中心に海に飛び込む者もいた。逃避した1人の将校は、後に自分自身を救うために味方を残したとして軍法会議にかけられた。




2021年9月25日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.2kmで着物を着ていた女性が被爆して、衣服とストラップや縫い目が、火傷に影響を及ぼした。

 広島原子爆弾の爆心地から約1.2kmで着物を着た女性が被爆した。タイトな衣服とストラップや縫い目が、火傷を保護する効果があった。火傷は衣服が最もきつかった部位である右肩の三角筋で最も広範囲に及んだ。下着の紐と着物の縫い目が右肩を保護した。暗色の着物により熱線が影響を受けた。被爆者が炸裂時に着用していた外衣である。着物の焦げた部分が落下している。柄の薄いロゼンジ部分は比較的焦げにくい火傷が軽傷であった。火傷は衣服が最も密着していた部位で発症した。袖が緩んでいた上腕部の中央部分に焦げが発生しても、その部位には火傷はなかった。

  爆心地から約1km以内を除き、衣服は火傷を防ぐのに有効である。日本の都市では、服を着ていない人が服を着ている人の6から7倍もの人が火傷をしている。体の部位の割合は服を着ていない場合の数倍である。衣服による保護効果が高いことがわかる。頭や手足の火傷の発生率は、覆われている可能性の高い体幹の火傷の発生率よりもはるかに高かった。

 原子爆弾の爆心地から約800m以内では、衣服による保護は不可能であった。それ以上の、距離に応じて防護効果が高まった。しかし、夏期で日中の気温が高かったために、被爆者の衣服は一般に薄手のものが多く、野外ではほとんど衣服を身につけていない人々も多かった。これらの要因が、原子爆弾による火傷の発生率を高めた。

 衣服の上から受けた火傷は、素肌の場合よりも程度が低い。多くの場合、衣服を身に着けない素肌は炭化するほどの重度の火傷を負っていても、同じ人の衣服を着た肌は、わずかな色素脱失や単なる色素沈着を示すだけである。これは、同じ距離で火傷した人でも同じように変化する。

  熱の吸収の法則に従えば、白い服を着ることが一番の防御となる。白い服を着ていた広島原子爆弾の被爆者約169人のうち半分以上が白い服の下で火傷した。色付きの服を着ていた被爆者約785人では75%近くが火傷を被った。この結果は、素材の色のついた衣服よりも、白い衣服の方がはるかに防御力が高い証拠を裏付けた。黒い服はよく焦げて、時には火事にもなったが、同じ距離で着ていた白い服は燃えなかった。模様のある衣服を着ていた場合に、衣服の下の火傷には、色合いの違いに応じた模様が見られることが多い。白地に暗色の斑点やストライプがあると、焼けたり焦げたりするが、。白い布はそのままで、その下の皮膚は火傷しなかった。

  厚手の服は薄手の服よりも防御力が高く、皮膚が焼けた部分には縫い目や折り目に焼けていない線が多い。着物の重い襟や、靴やサンダルの紐も同様の効果がある。ゆったりとした衣服の方が窮屈な衣服よりも保護効果が高く、窮屈な衣服の下はそのままでも火傷する。窮屈な衣服による影響が示された。


暗色の着物により熱線が影響を受けて火傷が重傷化した。

火傷は衣服が最もきつい肩の三角筋で最も広範囲に及んだ。

2021年9月24日金曜日

ジャーナリストとテレビ局員らは、1993年10月3日に、エリツィン軍と反乱軍との銃撃戦で約62人がテレビ・センターで殺害された。

欧米のジャーナリストとテレビ局員らは、1993年10月3日に、エリツィン軍と反乱軍との銃撃戦で約62人がテレビ・センターで殺害された。テレビ・センターの入り口前で撮影していたロリー・ペック(Rory Peck)はカメラを持ったまま殺害されて死体がうつ伏せになった。反エリチェン派とエリチェン派の銃撃戦に巻き込まれて殺害された。

 10月3日夜のホワイトハウス襲撃前夜に、ルツコイの呼びかけに応じて、アルベルト・マカショフ将軍は約20人の武装分隊と数百人の民兵を率いて、オキスタンキノ・テレビ局の奪取を挙行した。その侵攻までに、オスタンキノにはすでに約24台の装甲兵員の輸送車と、エリツィン大統領に忠実な約900人の軍人によって防護されていた。ASC-3ビルに対して、最高ソビエト支持派のトラックが突っ込んだ。その後、原因不明の爆発音が聞こえて、最初の死傷者が出た。これを契機に、テレビ棟から内地の軍隊や警察が一斉に射撃を開始した。彼らは、ジャーナリスト、傍観者、負傷者を救おうとする人々を区別することなく、狙撃ライフルを含め、群衆の中に向けて、無差別の連射や単発の射撃を行った。その後に、最悪の事態が勃発した。ほとんどの人は、AEC-3の付近のオーク・グローブに隠れようとした。反対派の一人は、群衆が両側から木立の中に押し込まれ、APCとテレビセンターの屋根から4つの自動小銃のソケットから銃撃が始まった。公式発表によると、オスタンキノの戦闘では、建物内の2人を含む約46人が死亡した。

 1993年10月4日午前10時には、戦車の砲撃で最高ソビエトの住居を守っていた多数の人々が死亡した。午前11時30分までに約158人が医療支援を必要として、そのうち19人が病院で死亡した。午後1時に人民代議員が、ホワイトハウスにいた人々の中に大きな犠牲者が出たことを報告した。14時50分頃、何者かの狙撃手が国会前に集まって人々を撃ち始めた。午後4時頃になると、防御側の抵抗が抑えられた。急遽に招集された政府の委員会は、直ちに死者は約124人、負傷者は約348人という悲劇の犠牲者を数え上げた。ホワイトハウス防衛隊の武器で殺された人は一人もなく、犠牲者はすべて政府軍の攻撃によると指摘した。国会議事堂の襲撃では合計約148人が死亡し、建物の近くでは約101人が死亡した。

 10月4日に、CNNは独自の情報源から約500人が死亡したと公表した。新聞は、内戦部隊の兵士は、戦車の砲弾で黒焦げになり引き裂かれた約800人近い防衛隊員の死体を回収したと述べた。匿名の内務省関係者は、ホワイトハウスでは、女性や子供を含めて、合計約1,500体の死体が発見された。ホワイトハウスから地下鉄に通じる地下トンネルから密送され、市外に持ち出されて焼却された。わずか3日間でホワイトハウスから約1,575体の死体が運び出されたメモが残存した。

 1993年春、人民代議員会はエリツィン大統領を罷免しようとしたが、結局、その動きは失敗に終わった。4月にはエリツィン大統領の信任を問う国民投票が行われた。国民投票の成功を受けて、エリツィンは人民代議員会の解散を発表した。大統領と代議士の衝突は続き、武力衝突にまで発展してしまった。最高ソビエトの支持者がモスクワ市庁舎に押し寄せ、エリツィンと彼に忠誠を誓う勢力が最高ソビエトの建物を砲撃した。公式の死者数は150人だった。一揆が鎮圧された後、州議会の新たな選挙が発表され、新憲法が採択された。




2021年9月23日木曜日

イタリアのエスペリアで砲弾により左腕を吹き飛ばされたドイツ軍兵士は溝の土中で戦死して、戦車が死体の側で停車して検死した。

イタリアのエスペリア町で、フランス軍とドイツ軍が自動小銃と迫撃砲で射撃した。ドイツ軍の戦車に被弾して、凄まじい爆発して、火炎と煙に包まれた。動ける者は、直ちに家の壁に逃げて潜んだ。砲弾で左腕を吹き飛ばされたドイツ軍兵士は溝の土中で戦死した。戦車がドイツ軍兵士の死体の側に立ち止まて検死した。

 第二次世界大戦のイタリア戦線にて、1944年5月にカッシーノとティレニア海の間にある要塞化された丘陵地帯の道路で、フランス軍とドイツ軍と戦闘が勃発した。5月11日にモロッコ・セネガル・アルジェリアの植民地兵士が多いフランス軍は、ドイツ軍との膠着状態を打破するために侵攻した。突然に、カッシーノに向けて約1,000門の大砲が炸裂した。連合軍の戦闘機は、補給線や砲台を攻撃して強力に支援した。フランス軍は、2日間にグスタフラインを突破し、ローマに向かうヒトラー前線に押し寄せた。5月18日に道路は、ヒトラー前線の難所であるモンテ・ドーロ麓の石造りの家々が立ち並ぶエスペリア村付近で戦闘が勃発した。ドイツ軍は退却していたが、フランス軍がエスペリア村に近づくと、小砲や戦車などで車輌で追跡する鋭い反撃が始まった。ドイツ軍の最初の砲弾がフランスの軽戦車を吹き飛ばした。続いて約100発の砲弾が次々と発射され、丘が粉砕された。さらに約100発の砲弾が他の車両に降り注いだ。アルジェリア軍が攻撃して町に侵攻して、銃剣でドイツ軍兵士を家から追い出して、多くのドイツ人を捕虜にした。フランス軍の戦車は半壊した荒れ果てた町の廃道を捜索し、フランス軍歩兵は古い家屋を捜索した。ドイツ軍のライフルや銃剣の脅威下に、瓦礫の中に隠れていた数十人のドイツ軍兵士を掃討した。

 イタリア戦線では、上陸海岸からゴシック前線、その先では雪や氷、しびれる泥に覆われた厳しく過酷な戦場となった。戦争の贖罪の代償である犠牲者は甚大であった。イタリア戦線では、フランス軍は約27,671名の死傷者を出し、そのうち死者約5,241名、負傷者約20,847名、行方不明者約1,583名であった。これはアメリカ軍の約4分の1、イギリス軍の約半分に相当した。連合国はモンテカッシーノの戦いで約55,000人の死傷者を出し、ドイツ軍の死傷者数は約2万人の犠牲を伴った。アメリカ軍の中には、特に日本人の血を引く二世の日経アメリカ人は、約30%にも達する非常な犠牲を伴った。



2021年9月22日水曜日

イタリア軍兵士は、ユーゴスラビア占領下のダルマチアで、殺害して処刑したクロアチア人女性の変形した死体の上で写真を撮った。

ダルマチアからの多くのクロアチア人がチトのパルチザンが率いる抵抗運動に1941年4月から参戦した。すべてのダルマチア地域を荒廃させた悲惨なゲリラ戦争が勃発した。イタリア軍兵士は、ユーゴスラビア占領下のダルマチア地方で、殺害して処刑したクロアチア人女性の変形した死体の上で写真を撮った。イタリア軍は、1941年4月から1943年9月にかけてダルマチアを占領した。1941年4月にイタリア軍はユーゴスラビアに侵攻して大部分を占領するとともに、中央ダルマチアなどはイタリアが直接に併合した。スロベニアとクロアチアのパルチザンの抵抗運動を抑えるために、イタリア軍は略式処刑、人質取り、報復、抑留、家や村の焼き討ちを執行した。1942年5月に、イタリア軍は多数の人質を取り必要な時に射殺を命じられ、ダルマチア地方にも拡大して、強制収容所を建設も計画された。

 1941年の最も重大なパルチザンのゲリラ活動は、ユーゴスラビアのモンテネグロにてイタリア軍に敵対した。モンテネグロは、7月13日に山間部に散在していたイタリア軍の駐屯地を、連携して攻撃した。イタリア占領軍は、主要な駐屯地や通信センターを破壊され、撤退させられた。その後にイタリア軍は強力な陸海空軍で戻ってきたイタリア軍が、パルチザンの蜂起を鎮圧するのに約1年を要した。約1万5千人のモンテネグロの死傷者を出し、さらに1万人が山間部に強制労働に送られた。1942年7月に、スロベニアのパルチザンを攻撃したとき、イタリア占領軍ははパルチザンを包囲して、数千人の死傷者が出て、生き残った者は敗走した。

 ドイツ軍は、ソビエト連邦に対するバルバロッサ作戦に投入するために、バルカン半島の占領は主にイタリア軍の責任とされた。イタリア軍は、ギリシャやユーゴスラビアとの戦いには、3つのイタリア軍の計45個師団が参戦した。1941年8月初旬には、陸軍本部は最高参謀本部の直属となっていた。1941年8月初旬までに、陸軍司令部は地域司令部に変更され、師団の総数は約32師団に減少した。イタリア第2軍の司令官は8個師団を持つスロベニア・ダルマチア軍司令官となった。第9軍の司令官は12個師団を持つアルバニア・モンテネグロ軍司令官となった。第11軍の司令官は11個師団を持つギリシャ軍司令官となった。ドデカネス諸島にはさらにイタリア軍の1個師団が駐留していた。さらにアルバニア・モンテネグロ軍司令部がアルバニア軍司令部とモンテネグロ軍司令部に分割された。

 イタリア軍の占領当局の政策は揺れ動いて、占領して支配下の地域の経済を回復できなかった。1940年から1941年にかけての戦いで、不甲斐ない結果から、イタリア軍はギリシャ人やユーゴスラビア人を軽蔑して略奪行為を助長した。実際に抵抗運動を起こした際には、厳しく恣意的な報復が行われた。住民のイタリア軍は、住民に対する反感はさらに高まった。裁判を経ずに個別な処刑が行われることも多かった。その騒ぎを鎮めるために村ごと燃やさした。次第にギリシャ人やユーゴスラビア人の態度は、軽蔑からやがて憎悪へと変わっていった。




2021年9月21日火曜日

レバノン南部のカナ村で、2006年7月30日にイスラエル軍の空爆の犠牲となった2人の子供の死体が毛布の上に置かれていた。

レバノン南部のカナ村で、2006年7月30日にイスラエル軍の空爆の犠牲となった2人の子供の死体が毛布の上に置かれていた。イスラエルの空爆により、子供16人を含む28人の住人が虐殺されて、約400人以上が負傷して、13人が行方不明となった。罪のない民間人の命が失われた。住民たちは瓦礫を手で掘り返し、死体を運び出しながら生存者を探索した。寝間着を着ていた女性や子供の血まみれの死体が散乱した。

 2006年のカナ空爆(2006年のカナの大虐殺、第2のカナの大虐殺)は、2006年のレバノン戦争中の2006年7月30日日曜日午前1時頃に、イスラエル空軍(IAF)がレバノン南部のカナ村近隣の小さな集落にあるアル・クレイバの3階建ての建物を空爆した。イスラエル軍はレバノンのゲリラ組織であるヒズボラと戦闘していた。イスラエルはこの攻撃後48時間は空爆を停止した。イスラエル軍は、カナ村周辺からは、ナハリヤ市や西ガリラヤの地域に向けて数百発のミサイルが発射され、IAFはカナ村周辺のミサイル発射拠点を攻撃した。イスラエル北部に向けて130発以上のロケット弾が発射され、そのうち約50発以上はカナ村から発射されたと主張した。 

 イスラエル国防軍(IDF)は、建物の攻撃は認めるも、大量の死者を出した空襲の爆発は否定した。カナの住民たちは、イスラエル軍の空襲が建物を崩壊した主張した。ヒズボラが2週間にわたり、カナ村からイスラエル北部に向けて発射したロケット弾を阻止して、住民には退去を警告したと反論した。10年前の1996年4月8日にカナの国連施設で約160人が死亡して、そのうち半数が女性と子供であり、約116人の民間人が負傷していた。1996年4月18日、イスラエル軍はレバノン南部の村であるカナの国連施設に砲弾を発射した。イスラエル軍による砲撃により、再びカナを選んで住民を虐殺した。人間の盾にした主張を、民間人の標的を攻撃する時に、攻撃側に与えられた標準的な正当化あるとした。直後の2006年7月30日に国連事務総長のコフィ・アナンは、安全保障理事会に「可能な限り最強の条件で」攻撃を非難し、即座に行動するよう求めたが、アメリカとイギリスだけは要求を支持しなかった。