2021年9月5日日曜日

第二次世界大戦の北アフリカ戦線で、1942年にエジプトの砂漠でフォルクスワーゲン装甲車の横で2人のドイツ軍兵士が戦死した。

1942年にエジプトの砂漠でフォルクスワーゲン装甲車の横で2人のドイツ軍兵士が戦死した。この写真は後に連合国により宣伝に使用され、パンフレットに印刷されドイツの都市に投下された。1942年10月の第二次エルアラミンの戦いで、イギリス軍がドイツ軍のアフリカ軍団に決定的な敗北をもたらした。砂漠は、植物が生えず、水もほとんどない人を寄せ付けない地域である。エジプト西部のメルサ・マトルーからリビアのシドラ湾東岸のエル・アゲイラまで、数少ない町や村を結ぶ主要道路は1本しかない。地中海の南岸には幅の異なる砂漠の海岸線が続いて、内陸部には高さ約150mのリビア高原があり、鋭い断崖絶壁が続いた。車やトラックでも登れるような峠も少なく、台地では薄い砂に覆われた石灰岩の上を防御物も無く、横断する軍用車が射撃された。

 第二次世界大戦の北アフリカ戦線は、スエズ運河と、中東の石油やアジアの連結をめぐる争いだった。北アフリカの紛争は、1935年10月からイタリアが植民地であるソマリランドからエチオピアに侵攻して勃発した。エジプトはイタリア帝国主義を強く警戒して、イギリスとフランス軍は、アレキサンドリアに主要基地を置いた。1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻した際に、イタリアは中立を保った。しかし、1940年6月にドイツ軍がフランスに侵攻した時に、1940年6月11日に、フランスのダンケルクでイギリス軍の撤退から6日後に、イタリアはイギリスとフランスに宣戦布告して、1940年6月25日にフランスが降伏した。イギリス軍とイタリア軍は、リビアとエジプトの国境を挟む西沙漠で対峙した。

 1940年9月13日に、イタリア軍はエジプトに侵攻した。イギリス軍はイタリア軍をエジプトから追い出し、1941年1月3日にはリビアのバルディアを占領した。イギリス軍は、1月22日に重要な港であるリビア東部のトブルクを占領した。ドイツ軍とイタリア軍がリビアに渡り始めた。2月12日から、ドイツ軍のアフリカ軍団が主導権を取り戻し、4月3日にイギリス軍がベンガジから撤退して4月10日にはトブルクを包囲した。ナチス・ドイツ軍が、6月22日に東部戦線のソ連に対してバルバロッサ作戦を開始すると、北アフリカのアフリカ軍団は弱体化した。リビアとエジプトの地域を支配するための攻防の戦いが続き、1942年10月の第二次エルアラミンの戦いで最高潮に達した。イギリス軍によりアフリカ軍団に決定的な敗北をした。その残党をチュニジアまで追撃した。1942年11月の北西アフリカへのイギリス軍とアメリカ軍が上陸して、連合国はチュニジア北部で数十万人のドイツ軍とイタリア軍を包囲して、1943年5月にドイツ軍は降伏した。

 北アフリカ戦線では1940年9月13日から1943年5月13日までにドイツ軍とイタリア軍は約62万人、イギリス軍は約22万人の死傷者を出しました。チュニジアでアメリカ軍の死傷者だけでも約18,500人を超えた。北アフリカでの連合軍の勝利で、約90万人近くのドイツ・イタリア軍を壊滅または無力化した。枢軸国に対する1943年夏からのシチリア島とイタリア本土への侵攻を可能にした。中東の油田やアジア・アフリカへのイギリス軍の補給線に対する枢軸国の脅威を取り除いた。




2021年9月4日土曜日

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して閃光した瞬間に、日本軍兵士の身体の影跡が、爆心地から約3.5Kmの建屋の板壁に残存した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して閃光した瞬間に、日本軍兵士の身体の影跡が、爆心地から約3.5Kmの建屋の板壁に残存した。長崎原子爆弾が炸裂する前に、警戒警報解除が合図されて、監視塔から防空監視兵が階段を降りた。その後に、帯剣をはずして、羽目板の釘にかけた。上着のボダンは外していた時に、長崎原子爆弾の閃光から熱線を浴びた。閃光を浴びた光と影が、倉庫の建屋の板壁に焼き付けられた。板壁のコールタールが熱線で焼失けて剥がれて変色した。光と影の境界を、白線で区別して示唆している。監視兵とはしごと帯剣などが、閃光の熱線を遮って、コールタールの黒塗料が1994年9月上旬に板壁に残存していた。長崎市南山手町の長崎要塞司令部にあった。長崎原子爆弾の爆心地の約3.5km以内では、電柱や樹木の表面が発火したり黒焦げた。爆心地から約3.5kmの距離では、中等度の熱傷、黒い神が燃える、ナイロンが溶ける影響が出た。

 長崎原子爆弾は、炸裂による閃光からの熱線のエネルギーは、広島原子爆弾に比較して約2倍も高値であった。長崎原子爆弾はプラトニウム爆弾であり、広島原子爆弾はウラニウム爆弾である。長崎原子爆弾の爆心地周辺は、全てが焼失して黒焦げの死体や死の影が各地の散乱した。原子爆弾のエネルギーは、熱線は約35%、爆風約50%、放射線約15%の割合で放出した。特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒の間に放出された赤外線であった。衣服をまとわぬ人体の皮膚の熱線による熱傷は、広島では爆心地から約3.5kmまで、長崎では約4kmまで及んだ。熱線による織物や木材などの黒こげは、広島で爆心地から約3Kmまで、長崎では約3.5Kmまで及んだ。両都市とも爆心地から約1.2km以内で遮蔽のなかった被爆者が致命的な熱線熱傷を受け、死者の約20~30%が熱傷によると推定された。  

 原子爆弾の炸裂点の温度は摂氏約100万度を超え、空中に発生した火球は、1秒後には最大直径約280mとなった。火球から四方に放出された熱線は、爆発後の約100分の1秒から約3秒間までに、地上に強烈な被害をを与え、爆心地周辺の地表面の温度は摂氏約3,000~4,000度にも達した。原爆の爆発の瞬間、落下した爆心地の中心地付近では約3,000度から4,000度℃の高温となった。太陽の表面温度が約6,000度で、鉄が溶ける温度が約1,500度の約中間である。異常なほど高温の熱線が放出され、爆心地から約1.2km以内にいた約30%の被爆者は、あまりの高熱に火傷して焼死した。強烈な熱線によって焼かれた人々は重度の火傷を負い、多くの人が亡くなりました。火傷は熱線に直接面していた部分にのみ生じており、爆心地から約3.5キロメートル離れた地域でも、素肌の部分は火傷を負った。爆心地から約600m以内の屋根瓦は、表面が溶けてぶつぶつの泡状になった。樹木への着火も多く、約3km以内では、電柱、樹木、木材などが黒焦げになった。




2021年9月3日金曜日

ルーマニアの首都ブカレストで、急造した墓地に、1989年12月のルーマニア革命で、犠牲となった市民の死体を棺桶に入れて埋葬した。

ルーマニアの首都ブカレストの郊外に、慌ただしく早急に造設した急造した墓地に、1989年12月に犠牲となった市民の死体を棺桶に入れて埋葬した。その周囲を親族と地域市民が取り囲み悲しみに暮れた。

 ソビエト連邦の共産主義が崩壊して、ルーマニアのブカレストで数千人がデモ蜂起して、鎮圧されて犠牲者の人数が急増した。共産党の警察機関は、催涙ガスやウォータージェットでデモ参加者を攻撃して、ルーマニア政府軍は戦車を使ってデモ市民に銃撃した。軍幹部たちは、ほぼ満場一致で、チャウシェスク独裁者の支持から抗議する市民への支持に切り替えた。軍隊は互いに攻撃しあって、致命的な銃撃は数日間続いた。軍隊は秩序が崩れて、銃撃、戦闘、死傷者、車の焼失などの混乱が続いた。12月17日に始まった秘密警察(Cecuriate)ティミショアラの取り締まりは冷酷で、何十人もの市民が殺害された。狙撃兵が秘密のトンネルを飛び回り、ブカレストの上空の窓から群衆に向かって発砲した。約1,000人以上もの市民が殺害されて、約3552人が負傷して、残酷なルーマニアの革命が終結した。

 ルーマニア革命は、1989年12月15日にティミシュオアラ市から勃発した。ハンガリー系民族の福音派牧師(テケシュ・ラースロー: László Tőkés)は、チャウシェスク政権に抗議する発言が起点となり、大規模な抗議行動が起こり、政府軍による弾圧が行われた。ハンガリー人とルーマニア人は一緒に19世紀の民族主義国歌「目覚めなさい、あなたはルーマニア人です!」を合唱した。その後、12月21日にチャウシェスク大統領の宮殿広場での演説に対して、群衆から公然とブーイングを浴びせられ、"ティミショアラ!"と唱えられた。広範囲に都市部でも暴動が起こり、1989年12月22日チャウシェスクと副首相エレナ夫人はヘリコプターで逃亡するも、12月23日に首都から約50kmの農業施設に監禁されて逮捕された。1989年12月25日のクリスマスに裁判にかけられて大量虐殺(政権下で約6万4千人の殺害)、国家権力と国民経済の弱体化、陽動作戦の罪で告発された。即決に公開死刑で銃殺された。42年間のルーマニア共産主義が全滅した。革命が1989年に中央および東ヨーロッパの国々で発生した。即決裁判で銃殺されたチャウシェスカスらのビデオ録画され、映像が処刑の2日後に多くの西側諸国で即座に公開された。最後の共産主義政権を打倒したルーマニア革命だけが、政府を猛烈に転覆させ、大統領を処刑した唯一の革命となった。




2021年9月2日木曜日

PFLPテロリストがイスラエルのテルアヴィヴの映画館に手榴弾を投げ込み、映画館で多数の観客が殺傷されて、警察官が現場検証をした。

1974年12月に、テロリストがイスラエルのテルアヴィヴの映画館に手榴弾を投げ込んだ。多数の映画館の観客が殺傷された。その映画館のテロ現場で、警察官が殺害された観客の死体の周囲を現場検証と検死した。その近辺の座席には、PLOの支部組織であるパレスチナ解放人民戦線(PFLF)のテロ実行犯が犯行声明した書類を座席に紙切れが残存していた。

 イスラエルは、1950年代の初めからテロリストの国境を越えたテロ攻撃に対しては報復攻撃をした。1968年からは、PLO(パレスチナ解放機構)がエルアル・イスラエル航空をハイジャックするなど、テロが海外にまで展開した。PLO関連過激組織は、イスラエルに関連する海外事務所やイスラエル大使館などを攻撃した。PLOだけでなく国際テロ組織も加担した。

 イスラエルは、テロリズムに対しては一貫して報復攻撃した。1972年5月にハイジャックされた民間航空機に、特殊部隊が潜入してテロ犯2人を射殺した。1974年5月に、北ガラリアで多数の児童が監禁されたマーロット事件でも、イスラエル軍がテロリスト全員を射殺した。1978年3月のハイジャックされ、2人のテロリストだけでなく約30人の乗客も殺害された。

 奇襲と無差別攻撃するテロに妥協すると収拾がつかないので、イスラエル軍はテロ全員を虐殺するガイドラインを策定した。1976年のエンテベ(Entebe)救出作戦では、ウガンダのエンテベ空港にハイジャックされたエアフランス航空機に、人質のイスラエル人約100人を救出した。1976年6月27日に、乗客256人と乗員12人が搭乗したエアフランスがアテネを離陸した後に、4人のPFLPテロリストがハイジャックした。乗客乗員を、エンテベ空港の旧ターミナルビルに連行した。服役中のテロリスト53人を釈放要求をした。乗客はイスラエル人のみを人質にした。イスラエルはテロリストの要求を断固拒否して、イスラエル軍に救出勧告を出した。ウガンダ軍に偽装した車両で近づき、空港ターミナルを約15分で制圧して、テロリストを殺害した。空港のメインホールにコマンド部隊がいくつかの手榴弾を投げ込んだ。生存した3人のハイジャッカーを射殺し、テロを終結した。ウガンダ軍はPFLPを支援して、イスラエル人の乗客と乗員を攻撃した。イスラエル軍は対戦して、人質を輸送機に搭乗させて、エンテベ空港から離陸してナイロビで給油して、イスラエルに無事にに救出して帰国した。

 PFLPは,2001年8月,アブ・アリ・ムスタファ議長(2000年7月就任)がイスラエル軍に暗殺されたことから,同年10月,報復としてイスラエルのゼエビ観光相を殺害した。2002年1月,パレスチナ自治政府が,アメリカ及びイスラエルからの圧力の下,PFLPのアフマド・サアダト新議長を拘束した。それに対抗して,PFLPは,2003年12月にイスラエル中西部・テルアビブ付近のバス停で,2004年5月に西岸地区のイスラエル軍検問所で,自爆テロを実行した。ハマスのパレスチナ自治評議会選挙(2006年1月)に勝利後,収監中のサアダト議長釈放を懸念したイスラエルが,2006年3月に刑務所を襲撃して同議長の身柄を拘束した。PFLPは,赤十字国際委員会職員ら外国人の誘拐事件等を引き起こした。その後も,PFLPはイスラエルに対する自爆テロやロケット弾攻撃を実行してきた。2012年11月,イスラエルと「ハマス」等のパレスチナ武装勢力が大規模な戦闘を展開した。対戦車砲等を使用してイスラエル軍車両を攻撃した。PFLP組織は,2017年6月のイスラエル警察官襲撃事件について,ISIL(イラク・レバノンのイスラム国)は犯行声明を否定して,実行犯3人のうち2人が自組織メンバーである旨主張した。





2021年9月1日水曜日

アメリカ軍兵士は、日本軍兵士のすね当てで作ったつり革を使って、硫黄島の壕の入口に残存した日本軍兵士の死体を取り除いた。

アメリカ軍兵士は、日本軍兵士は死んだふりをしたり、爆弾を隠し持つのを警戒して、日本軍のすね当てで作ったつり革を使って、硫黄島の壕の入口に残存した日本軍兵士の死体を取り除いた。アメリカ軍の狙撃兵に隠れて、火炎放射器が硫黄島の北側にある日本軍の手前の海兵隊ライフルマンに隠れて、海兵隊の火炎放射器が島の北側にある敵の洞窟を破壊している。説得を試みたが、ほとんどの日本軍兵士がそうであったように、降伏という選択肢はなく、生け捕りにすることは稀であった。 

 強烈な火炎放射器により、相互に連携しに支援し合う要塞や洞窟を次々と占拠していった。入り口で火炎放射器を撃っても、日本軍兵士が横からも、後ろからも、襲われるかもしれない。狙撃兵が入口を占領している間に、火炎放射器が液体の炎を陣地に浴びせかけた。アメリカ軍兵士は、何度も何度も、当面の目標を占領した後に、日本軍が突撃して前後左右の陣地からの再攻撃を受けた。混乱して撤退を余儀なくされ、守備側が再び侵攻した。硫黄島の北の尾根にある深い谷間で、アメリカ軍が高爆薬を使って、硫黄島の北端の地形は、岩石や火山が多く、硫黄の臭いがした日本軍の洞窟や要塞を破壊した。日本軍も強力に反撃して、ある夜明け前の襲撃で、約200人以上の日本軍兵士が大隊の間に突撃した。翌日の朝には、戦線の周辺に約161人の日本軍兵士の死体を発見した。

 日本軍の勇気ある戦いの誓いが、薬箱、洞窟、地下壕、死体などから発見された。「我々は何よりもこの島の防衛のために自分自身と自分の全ての力を捧げる。われわれは爆弾をつかみ、敵の戦車に突撃してこれを破壊する。我々は敵の中に潜入して敵を殲滅する」。アメリカ軍が侵攻すればするほど、日本軍は必死になって防御した。山頂に向かうと、日本軍は山頂を吹き飛ばされて司令部を破壊した。突然、日本軍兵士が丘の逆斜面の溝から出てきて、銃剣で反撃した。くるぶしほどの深さの砂の中で、日本軍兵士は、アメリカ軍兵士たちにまとわりつき、足を引っかけ、武器を詰まらせた。硫黄島の戦いの中でも最も異常な悪夢の一つとなった。銃剣、ナイフ、棍棒の小銃、塹壕構築用のシャベルで戦った。日本軍兵士の野蛮な、ハッキングのような、叫び声を上げるような乱戦となり、数分で約50人近くの日本人が徒手格闘で死んだ。3月8日の夜中から、日本軍は毎月8日を真珠湾攻撃の日を記念してバンザイ攻撃を行った。3月26日、数百人の日本軍が最後の大突撃を挙行して、アメリカ軍大隊を第2飛行場の真上から攻撃して、直後に陣地を占領し、テントで寝ていたアメリカ軍兵士を襲撃した。一丸となって攻撃を阻止した結果、アメリカ人軍は約50人以上、日本軍は約262人の命が失われた。約110,000人のアメリカ軍は、1945年2月19日から3月26日までに硫黄島を征服するために6,821人のアメリカ軍兵士が戦死した。さらに約2,000人以上の戦傷したアメリカ軍兵士が退役軍人病院で死亡した。全部で約25,851人のアメリカ軍兵士の犠牲者が出た。約20,000人の日本軍は全滅して、約18,000人以上が戦死して、その他行方不明となり、捕虜になり生存者していたのは、わずか216人であった。アメリカ軍の狙撃兵に隠れて、火炎放射器が硫黄島の北側にある日本軍の手前の海兵隊ライフルマンに隠れて、海兵隊の火炎放射器が島の北側にある敵の洞窟を破壊している。説得を試みたが、ほとんどの日本軍兵士がそうであったように、降伏という選択肢はなく、生け捕りにすることは稀であった。 

 強烈な火炎放射器により、相互に連携しに支援し合う要塞や洞窟を次々と占拠していった。入り口で火炎放射器を撃っても、日本軍兵士が横からも、後ろからも、襲われるかもしれない。狙撃兵が入口を占領している間に、火炎放射器が液体の炎を陣地に浴びせかけた。アメリカ軍兵士は、何度も何度も、当面の目標を占領した後に、日本軍が突撃して前後左右の陣地からの再攻撃を受けた。混乱して撤退を余儀なくされ、守備側が再び侵攻した。硫黄島の北の尾根にある深い谷間で、アメリカ軍が高爆薬を使って、硫黄島の北端の地形は、岩石や火山が多く、硫黄の臭いがした日本軍の洞窟や要塞を破壊した。日本軍も強力に反撃して、ある夜明け前の襲撃で、約200人以上の日本軍兵士が大隊の間に突撃した。翌日の朝には、戦線の周辺に約161人の日本軍兵士の死体を発見した。

 日本軍の勇気ある戦いの誓いが、薬箱、洞窟、地下壕、死体などから発見された。「我々は何よりもこの島の防衛のために自分自身と自分の全ての力を捧げる。われわれは爆弾をつかみ、敵の戦車に突撃してこれを破壊する。我々は敵の中に潜入して敵を殲滅する」。アメリカ軍が侵攻すればするほど、日本軍は必死になって防御した。山頂に向かうと、日本軍は山頂を吹き飛ばされて司令部を破壊した。突然、日本軍兵士が丘の逆斜面の溝から出てきて、銃剣で反撃した。くるぶしほどの深さの砂の中で、日本軍兵士は、アメリカ軍兵士たちにまとわりつき、足を引っかけ、武器を詰まらせた。硫黄島の戦いの中でも最も異常な悪夢の一つとなった。銃剣、ナイフ、棍棒の小銃、塹壕構築用のシャベルで戦った。日本軍兵士の野蛮な、ハッキングのような、叫び声を上げるような乱戦となり、数分で約50人近くの日本人が徒手格闘で死んだ。3月8日の夜中から、日本軍は毎月8日を真珠湾攻撃の日を記念してバンザイ攻撃を行った。3月26日、数百人の日本軍が最後の大突撃を挙行して、アメリカ軍大隊を第2飛行場の真上から攻撃して、直後に陣地を占領し、テントで寝ていたアメリカ軍兵士を襲撃した。一丸となって攻撃を阻止した結果、アメリカ人軍は約50人以上、日本軍は約262人の命が失われた。約110,000人のアメリカ軍は、1945年2月19日から3月26日までに硫黄島を征服するために6,821人のアメリカ軍兵士が戦死した。さらに約2,000人以上の戦傷したアメリカ軍兵士が退役軍人病院で死亡した。全部で約25,851人のアメリカ軍兵士の犠牲者が出た。約20,000人の日本軍は全滅して、約18,000人以上が戦死して、その他行方不明となり、捕虜になり生存者していたのは、わずか216人であった。




2021年8月31日火曜日

太平洋戦争中の1945年2月から3月に、フィリピン・マニラの路上で、アメリカ軍兵士は、日本軍の狙撃兵を殺害して死体を見つめた。

太平洋戦争中の1945年2月から3月にかけて、フィリピンの首都マニラの戦災地で死んだ日本軍兵士の死体の横を、武装したアメリカ軍兵士が用心深く検死した。ライフル銃を持ったアメリカ軍兵士がライフル銃を持って、日本軍狙撃兵を掃討した。フィリピンのマニラの路上で、アメリカ軍兵士は、日本軍の狙撃兵を殺害して、その死体を見つめた。1945年のマニラの戦いで、アメリカ軍兵士は、戦死者は約1,010人、戦傷者は約5,565人であった。マニラに立てこもって降伏しない日本軍は、全滅して戦死者は約12,000人たった。マニラの民間市民は約10万人が殺害された。

 マニラの戦いは第二次世界大戦中の最も過酷な戦闘の一つで、約10万人の民間人が犠牲になった。マニラの戦いは、第二次世界大戦末期の1945年2月3日から3月3日にかけて勃発した。第二次世界大戦中に、ワルシャワに次いで壊滅的な被害を受けた都市となり、街は破壊され、約10万人が死亡した。アメリカ軍は、日本軍が約3年間占領したフィリピンの首都であるマニラは、破壊され、10万人以上の市民が犠牲になって解放された。1945年2月3日から3月3日までの戦闘で、日本軍兵は約1万6000人、アメリカ軍は約1000人が死亡した。

 1941年に日本軍が、アメリカの植民地であるフィリピンに侵攻したときはマニラの破壊は免れた。しかし、アメリカ軍が1945年に再侵攻すると、日本軍はマニラ街区全体を焼き払った。建物から建物へと最後の一人まで戦うこと覚悟した。民間人は栄養失調やアメリカ軍の砲撃や日本軍により死傷した。

 1945年1月下旬、アメリカ軍が首都マニラに迫る前に、日本軍は民家に押し入り、すべての部屋を掃討した。電柱に泥棒と書かれて首を吊られた死体もあった。マニラでの戦闘が激化する中、家族が脱出する前に、日本軍は約13人の親戚をクラブの中に何百人もの人と一緒に入れられ、生きたまま放火された。日本軍が撃ったり、女はが木に銃剣を突き立てられて悲鳴を上げた。 

 日本軍の強制収容所の抑留者は歩く骸骨となり、餓死は日常茶飯事だった。1945年2月3日に、アメリカ軍の戦車が大学の門を突き破った。日本軍の収容所長は降伏を拒否して、手榴弾と取ろうとして射殺された。死体は本館に引きずり込まれ、占領軍から何年も虐待を受けていた抑留者らは、死体に唾や尿をかけた。マラテ地区では日本軍は家々を焼き始めた。道に転がった日本軍兵士の死体に対して、一人の老人が石を手にして全力で投げつけた。日本の敗戦後に、フィリビン人は日本を訪れたが、日本人ほど、親切で、文化的で、親しみやすい人々には会ったことがないと真逆に憤慨した。日本人民族は、マニラや南京などに侵攻する野蛮な軍隊を生み出した真実を放置したままである。




2021年8月30日月曜日

第二次世界大戦のバルジの戦いにてアメリカ軍兵士の死体の側で、1945年1月6日に雪で覆われた地形に急ごしらえの塹壕を掘った。

第二次世界大戦の西部戦線のバルジの戦いにて、アルデンヌ攻防戦が1944年12月16日から1945年1月28日まで勃発した。アメリカ軍は、ベルギーのベリスメニル付近でドイツ軍の砲撃を受けた。手前のアメリカ軍兵士はもう手遅れで死亡した。アメリカ軍兵士の死体の側で、1945年1月6日に雪で覆われた地形に急ごしらえの塹壕を掘った。アメリカ軍兵士の死体の側には、血が丘を赤く染め、砲撃によって引き裂かれた死体も散乱して、膨大な数の死傷者をもたらした。ドイツからフランスまでの地形と天候に恵まれないアルデンヌ地方は、多くの長い道が森林を通り、多くの道が崖の端に立ち、丘陵が上下して回った。1945年1月には、雪が足首から膝、膝から腰に積もり続けた。天候はますます寒くなり、氷点下まで下がった。オーバーコートを着ても、氷の板に包まれた。凍傷はドイツ軍と銃撃を合わせるほど生命の危険を伴った。塹壕を掘るのに1日がかりの作業になった。バルジの戦いは、アメリカ軍にとり、最も血なまぐさい戦争となった。

 1945年1月1日に、ドイツ空軍は北西ヨーロッパの連合軍空軍基地に深刻な損害をもたらした。1月初旬には連合国の反撃はドイツ軍を押し戻して、1月末までに占領された地域を取り戻した。連合国は損失を相殺したが、ドイツ軍は人的資源と物的資源を使い果した。ドイツ軍兵士は、寒さは多くの手足を凍らせ、痛みを伴う壊疽を引き起こし腐った。食物の不足のために、人食いに頼り、山中に見つかった死体を食べ、雪を飲んだ。小競り合いは血と内臓で汚れ、制御不能なパニック状態に陥った。寒さは多くの手足を凍らせ、痛みを伴う壊疽を引き起こし腐った。食物の不足のために、人食いに頼り、山中に見つかった死体を食べ、雪を飲んだ。小競り合いは血と内臓で汚れ、制御不能なパニック状態に陥った。戦傷したドイツ軍兵士は回復不能な状態にあり、塹壕から引き出すと殺害される結論に達した。人道的に悲惨なドイツ軍兵士の苦悩を確実に集結するために、地面にて頭部を射撃した。

 1944年12月16日、ドイツ軍は第二次世界大戦中にベルギーとルクセンブルグのアルデンヌの森周辺で連合軍に対して大規模な攻撃を開始した。アルデンヌの主にアメリカ軍は戦歴が浅く疲れ果てた。ドイツ軍はは、アメリカ軍の戦線の真ん中を西に圧倒して、一時的に膨らみであるバルジ(Bulge)が突出した。連合軍の援軍の迅速な到着して、主要な道路の交差点に対するアメリカ軍の防御が、ドイツ軍の侵攻を遅らせた。ドイツ軍は、悪天候により燃料不足が悪化し、供給ラインが混乱した。バルジの戦いにおけるアメリカ軍の甚大な犠牲者は、戦死者は約19,2767人、戦傷者は約47,139人、行方不明・捕虜は約21,144人に達した。ドイツ軍の犠牲者は、約12,652人、戦傷者は約38,600人、行方不明・捕虜30,582人に及んだ。連合軍による空爆が、天候がやがて晴れて再開された。12月末までに、ドイツ軍の侵攻は頓挫して、連合国は攻撃を再開し、春先までにドイツの中心部に侵攻した。




2021年8月29日日曜日

パレスチナ人の男の子が、2003年にガザ地区のイスラム教のモスクにお祈りの帰路に、イスラエル軍の爆撃に殺害されて葬儀された。

パレスチナ人の男の子が、2003年にガザ地区のイスラム教のモスクにお祈りに行った。その帰路において、イスラエル軍の爆撃に無差別に巻き込まれて死亡した。爆死死したパレスチナ人の男の子の死体の周りを、両親とパレスチナ人らが取り囲んで葬儀をして悲しみに包まれて慟哭した。イスラエル軍が占領した地域では、抵抗するパレスチナ人を逮捕して収容して、略奪から虐待や虐殺した。

 1987年12月8日にパレスチナのイスラエルが占領したガザ地区にて、パレスチナ人によるイスラエルに対する抵抗運動である第一次インティファーダが勃発した。イスラエル人のタンクローリー車とパレスチナ人の車が衝突した。つもり溜まったストレスから、12月9日からジャバリア難民キャンプから抵抗運動が巻き上がり、さらにヨルダン川西岸の占領地域にも抗議運動に初めて拡大した。パレスチナ人女性や子供らもイスラエル軍に対して抵抗運動に参加した。 インティファーダが勃発して、ガザ地区のパレスチナ人が最も厳しく抵抗した。夜間外出禁止令により、夜間の外出が制限された。1988年頃からイスラム原理主義組織であるハマースが拡大するにつれて、パレスチナ人のイスラム教徒女性は頭部に巻くヒジャーブの装着を強要された。パレスチナ人は生活が困窮になるほどイスラム教の宗教に追い込まれて、原理主義に陥った。

 主にパレスチナ人の若者から、次第に女性から子供や老人まで、インティファーダの参加者となった。パレスチナ人には、武器もなく投石のみの抵抗運動に限られた。インティファーダにより、イスラエルによりパレスチナ人は家族や子供から女性まで無差別に虐待や虐殺された。パレスチナの抵抗運動には、主にPLO(パレスチナ解放機構)主流派ファタハ、DFLP(パレスチナ解放民主戦線)、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)、パレスチナ共産党などの4つのイスラエルに対する抵抗組織が発生した。1993年9月にイスラエルとPLOの間で、オスロ合意でパレスチナ暫定自治が認められた。1994年にヨルダン川西岸エリコとガザ地区、1995年にヨルダン川西岸の周辺地域も暫定自治区になった。

 2000年9月に、エルサレムのイスラム教徒の聖地であるハラム・アッシャリーフに、超タカ派のシャロン首相が侵入して監視した。パレスチナ人は、聖地に対する冒涜に激怒して、悲惨な第二次インティファーダが勃発した。パレスチナ人は武器による銃撃による闘争にも巻き込まれて死傷した。イスラエル軍は、パレスチナ人の武装集団を掃討するために、2001年にはオスロ合意により自治区となったヨルダン西川岸にも軍事侵攻した。抵抗する手段として自爆攻撃により、イスラエルにテロ攻撃が頻発した。2002年1月からイスラエル軍は、パレスチナ人の自爆テロに対抗して、ヨルダン川西岸のラマラ・ナブルス・ジェニンに軍事侵攻した。2002年1月にエルサレムの繁華街に対して、初めてパレスチナ人の若い女性が自爆テロを強行した。




2021年8月28日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した約2ケ月後の10月9日に、子供らの被爆者が広島日赤病院の外来治療室にて加療された。

広島赤十字病院の外来に、多数の子供らも広島原子爆弾の被爆者が通院していた。広島原子爆弾が1945年8月6日投下されて炸裂した約2ケ月後の1945年10月9日に、外来に子供ら被爆者が、広島日赤病院の外来治療室にて加療された。看護婦らは、原爆症の子供らの被爆者の傷口の処置も行っていた。被爆当日には46人の看護婦が死亡し、5人の看護婦が重傷を負った。看護寮では25人の看護学生も死亡した。

 1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に急性骨髄性白血病を発症する骨髄異形成症候群(MDS)に、一般人口の4倍の割合の罹患が後に示唆された。幼少期の被爆者は、数10年にわたり複数の種類の悪性新生物に罹患し、個別に発症する傾向が見られる。被爆時に全身が放射線を受けて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受け、その後に異常な細胞が発生して悪性新生物を発症すると示唆された。放射線被曝が被爆者の遺伝子に損傷を与えた場合に、放射線影響の遺伝的な伝達も長期的な問題となる。

 太平洋戦争中は、広島陸軍病院赤十字病院であった日本赤十字社広島病院は、爆心地から南約1.6kmと至近距離であったが、広島市中区千田町1丁目に残存した。「敷地内にあった木造建築は全部倒壊し、間もなく火を発して焼失したが、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てであったので焼失は免れた。しかし、鉄の窓枠は破壊しガラスはこっぱみじんに飛散し、内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れ、足を踏み入れることができないほどまったく壊れてしまった。医師5名、薬剤員3名、その他43名の計51名が死亡し、全職員の85%が重軽傷をうけた。病院としての機能を全く喪失してしまった。」しかし、8月6日午後から、病院職員の尽力で被爆直後から臨時救護所が設けられた。翌日の8月7日には山口県、岡山県などの赤十字病院から救護班が到着し始めて、医療活動に入った。

 広島市内は瓦礫の中で、広島日赤病院は被爆した直後から、被爆者の救護活動を再開した。「1.収容患者の治療をすること。2.外来に押しかけたり運び込まれたりする患者に何とか応急処置をすること。3.破壊された病室を清掃して少しでも患者の収容力を増すこと。4.衛生材料の確保補充。5.食糧の確保。6.次々に死んでいく死体の処置。7.便所をつくること。8.入浴場をつくること。9.飛散した病院の書類を収拾して紛失盗難を防ぐこと。10.職員及びその家族の死亡や負傷状況を知り、また職員の日々の活動状況を正確に把握すること。」が緊急の課題であった。[「」内の引用は、後に病院長になった重藤文夫氏の『回想』(仁科記念財団編纂『原子爆弾=広島・長崎の写真と記録)を参照]悲惨な損壊を受けた広島赤十字病院で、1945年10月頃には血液検査ができるようになり、血液検査を求める広島市民の被爆者の人数がさらに増大した。被爆者の放射能障害は、血液検査が診断となる白血球の著しい減少が特徴である。




2021年8月27日金曜日

アフガニスタン元大統領のナジブラと弟は、タリバン武装勢力に去勢と切断された死体を鋼線のループで吊るされ、紙幣とタバコを、指、口、鼻、ポケットに挿入された。

ムハンマド・オマルが1994年11月に設立したスンニ派過激組織であるタリバン武装集団は、1996年9月27日にアフガニスタンの首都カブールを占領した。タリバンは、ムハンマド・ナジブラ(Mohammad Najibullah)大統領と実弟のシャープール・アフマザイ将軍が潜伏した国連使節団のビルに侵入した。ナジブラと弟は9月27日午前1時30分に連行され、午前4時30分に殺害された。拷問されて、射殺された。暗殺された大統領ら兄弟の死体をジープに縛り付けた後に、タリバンは死体を大統領官邸アルグの近くの要塞化された検問所で、ナジブラと弟は、去勢され切断された血まみれの死体を鋼線のループで吊るした。タリバンはまた、暗殺された大統領と彼の弟の死体をあざけり、アフガニスタンの紙幣とタバコを、指、口、鼻、ポケットの中に挿入した。

 アフガニスタンは1978年4月に軍事クーデターが発生して、王族のダウド政権は打倒された。武装勢力の反乱が蜂起して、アフガニスタンはアフガン内戦に陥った。冷戦下で親アメリカ政権が権力を握り、全国の反体制派を一掃し始めた。1979年12月24日に、遂にソビエト連邦はアフガニスタンの内政に介入し、軍隊をアフガニスタンに派遣した。

 侵攻したソビエト連邦軍は、ナジブラに国家情報局長にさせ、1985年に共産主義の人民民主党の書記長になり、首都カブールの権力を取得して、軍隊、警察、諜報機関を管理下に置いた。ソビエト連邦軍の支援を受けて、国内で反対派の秘密の監視と残酷で血なまぐさい虐殺を行った。しかし、アフガニスタンからのソビエト軍の撤退は、1988年4月に締結されたジュネーブ協定に従って、1988年5月15日に始まっていた。ソビエト連邦は1991年8月モスクワ8月革命により、11月15日に首都カブールのナジブラ政権への軍事物資を公式に停止した。

 1989年2月15日に、最後のソビエト軍人がアフガニスタンを去った。ソビエト軍がアフガニスタンから撤退して、武装勢力に対抗するナジブラ政権は放置されて、ソビエト軍の撤退から4日後に、非常事態宣言を宣言した。パキスタンとアメリカの当局者は、ムジャヒディンの迅速な勝利を期待してた。しかし、6か月以内にソビエト連邦からの武器と弾薬の補給により、アフガニスタン軍は武装反対部隊を攻撃して撃退して、約3年間はナジブラ政権は権力を保持した。1992年1月1日から、ロシアは政府軍へのすべての武器と弾薬の供給を停止して、アフガニスタン軍は著しく悪化し始め、燃料と食糧の深刻な不足に陥った。

 イスラム教の聖戦部隊であるムジャヒディンは次々と州を占領し始め、首都カブールに接近した。ソ連の軍事顧問は1992年4月13日にアフガニスタンを去った。カブール飛行場はソビエト航空機の離発着に障害が勃発した。

 ナジブラは、1992年3月18日に辞任を発表した直後に、アフガニスタンの政治情勢の支配を失った。大統領と弟はと共に、首都カブールの国連使節団事務所に庇護され、その後は約4年間にわたり国連国連使節団ビルで過ごした。1992年4月28日に、ムジャヒディン部隊が、無戦で首都カブールに入り、約14年間国を統治したナジブラ政権を打倒した。アフガニスタンで内戦は再び激烈となった。ムジャヒディンの部隊間の武力衝突により、国は崩壊して内戦状態に陥った。首都カブールからのは新たな大多数のアフガニスタン難民が、首都カブールを去った。



2021年8月26日木曜日

日中戦争にて、日本軍は騰越城内に中国軍に追い詰められ、全滅して玉砕して殺害あるいは自決した日本軍兵士の死体が散乱した。

日中戦争において、日本軍は騰越城内の守備隊は、城内に中国軍に追い詰められて、1944年9月13日に中国雲南省の拉孟にて全滅して玉砕した。日本軍は弾丸も尽きて、最後には大事な手榴弾で自決を命令された。騰越城内には、殺害あるいは自決した日本軍兵士の死体が散乱した。

 1944年6月27日から、雲南省の騰越城に守備していた日本軍に、中国軍から砲撃された。騰越城は、3kmにわたり高さ約5mと幅約2mの壁に囲まれていた。その周辺の約3000m前後の山地の陣地で、日本軍は約2,025人の体制で戦力はわずか約900人が守備した。7月23日に騰越城外の日本軍の陣地に、中国軍は侵攻した。7月26日は中国軍はアメリカ軍の爆撃機で、空襲して爆撃した。7月27日には、日本軍は騰越城内に集結して守備した。7月28日に日本軍司令部は、全員が死ぬまで守備する死守の命令を下した。日本軍司令部も、騰越から南に約70kmの龍陵にて中国軍と激戦中であった。中国軍は、アメリカ軍の武器を装備して戦力は増大していた。8月2日に、騰越城内に1日約3,000発の砲撃と機銃掃射を受けた。8月5日には、連合軍のB-25爆撃機が、空襲して騰越城内と城壁を爆撃して、8月13日に騰越城内の日本軍は大損害を受けた。8月14日から中国軍は騰越城内に侵攻を繰り返した。8月19日には、中国軍により、騰越城内の日本軍は北東方面に追い込まれた。8月21日には残存兵力は約650人に、9月1日には約350人まで、9月11日には約70人まで減弱した。9月13日に日本軍は、日本国旗を焼却して、最後には全滅する突撃をした。

 騰越城から南東に約100kmにて、日本軍は1944年6月1日から雲南省の拉孟方面を守備して、中国軍の松山陣地に侵攻していた。サルウィン河の対岸の鉢巻山から松山陣地まで突撃した。突撃した約100人の戦傷者を含めた約1,260人の日本軍が、6月20日に日本軍の弾薬庫が中国軍の砲撃で崩壊した。その後から次第に弾薬が枯渇した。6月20日に日本軍の戦闘機が、手榴弾と銃弾を投下補給した。7月からは、中国軍が日本軍の陣地内にも攻撃した。7月20日には、約8,000発もの中国軍の砲弾が、日本軍の陣地に砲撃した。日本軍の生存者は約300人と激減した。7月末には、司令部から守備隊の日本軍兵士に対して、9月上旬まで死守する命令が下された。死守できない場合は、日本軍兵士は全滅して玉砕を示唆された。8月初旬からは、中国軍が日本軍陣地に繰り返して侵攻して、白兵戦に陥った。8月8日には、日本軍は生存者はさらに約200人まで減弱した。8月20日には、日本軍の最大の関山陣地にも中国軍は侵攻した。8月23日には、日本軍の守備隊はさらに戦死傷して約100人まで減衰した。司令部から厳命された9月上旬までの死守の直前である8月30日に、日本軍は白兵戦で弾薬は枯渇して、戦闘能力のある日本軍兵士は激減した。守備隊長は、すべての生存者は弾薬と食料が欠如して、死守が不可能になったと司令部に電報した。その直後に全ての日本軍守備隊のすべての資料から資材を破壊して消去した。9月6日に守備隊長が戦死して、9月7日に日本国旗を焼却した。最後に残存していた約50人の日本軍守備隊員は、バンザイと掛け声から中国軍の陣地に突撃して全滅して玉砕した。戦傷者は、手榴弾により自爆して自死した。

 1944年9月21日の朝日新聞に、日本軍の騰越と拉孟の守備隊の全滅して全員が戦死したことが公表された。数倍の敵を撃破し、全員壮烈なる戦死、ビルマと雲南を結ぶ公路の打通許さずと朝日新聞は報じた。騰越と拉孟の両守備隊は、阿修羅の奮戦をした皇軍の精華であると奉り、大本営の上層部からの感状を称賛した。敵中である中国軍の半数は再起不能であると虚偽した。




2021年8月25日水曜日

アメリカ軍はイラクのバクダット北東のバクーバを空爆して、ジハード主義者の指導者のアブ・ムサブアル・ザルカウィを殺害し、隠れ家の瓦礫の中から死体を発掘した。

アメリカ軍は2006年6月7日に、イラクのバクダット北東のバクーバを空爆して、ジハード主義の指導者となったアブ・ムサブアル・ザルカウィ(39歳)を殺害した。隠れ家の瓦礫の中から発掘した死体である。アブ・ムサブアル・ザルカウィが、イスラム教によるカリフ制度のイスラム国(ISIS)を確立した張本人である。イスラム国は、2004年にアブ・ムサブアル・ザルカウィという血に飢えた宗教的熱狂者によって設立された。

アメリカ軍は、2003年3月にイラク軍を粉砕して占領した。ザルカウィは、アルカイダの首長オサマ・ビン・ラーディンからの資金提供を受けて、その直後にイラクに入国した。イラクの不満を抱いたスンニ派の部族から、戦闘員を引き入れた。ザルカウィは、イラクでのアルカイダの指導者と宣言して、非戦闘員を斬首するテロ組織となった。テロ組織は、2006年後半にイスラム国に改名した。中東からヨーロッパまで、シーア派を撲滅するためにスンニ派イスラム教徒の戦闘員を集結して、イラクでの宗派間の内戦を勃発させた。イスラム国の信者がイラクとシリアの領土を占領して、2014年にイスラム国がイラク北部とシリア東部を制圧してカリフ制国家を築いた。

 ザルカウィはヨルダン人として、難民キャンプの近くにあるヨルダンのザルカで生育した。凶悪犯として刑務所に出入りした。犯罪者の人生を捨て、過激なイスラム教に洗脳された。アフガニスタンのヘラートで、ビンラディンのアルカイダ過激組織に合流して、ジハード聖戦主義者を組織化した。アフガニスタンの首都カブールで、アメリカに対するテロを模索したビンラディーンからはザルカウィは無視された。9.11同時多発テロ後に、アメリカ軍がアフガニスタンを2011年10月7日から侵略した。ザルカウィは、2003年3月20日から5月1日まで暴発したイラク戦争より以前にイラクに侵入していた。アメリカは、イラクのザルカウィは、アフガニスタンのアルカイーダのテロ組織と大量破壊兵器と懐疑的に関連付けて、イラク戦争の戦因と凶悪犯に仕立てた。

 イラクのザルカウィは、2004年5月13日に民間アメリカ人のニック・バーグの斬首シーンを世界に流した。モスクを破壊して、バスを爆破して、連合軍や地元のイラク人に残忍なテロ指導者の象徴となった。イラク戦争の勃発後に次第にアルカイーダと結託して、スンニ派とシーア派のイラク内戦を引き起こした。国際的なジハード聖戦主義のネットワークを構築して、ジハード組織を構築した。アフガニスタンのオサマ・ビン・ラーディンは、2011年5月1日にパキスタンにて、アメリカ軍により殺害された。




2021年8月24日火曜日

ナッシュビル軽巡洋艦はネグロス島沖で神風特攻が自爆により激突して、右舷の甲板に戦死したアメリカ軍水兵の死体を集積した。

太平洋戦争後期の1944年12月13日に、ナッシュビル軽巡洋艦(Nashville, CL43)はネグロス島沖での戦闘で神風特攻が自爆により激突して損傷した。それ直後に、ナッシュビルの船内で大規模な火災が引き起こした。遠方に見える火災による煙が登った(神風画像 https://www.kamikazeimages.net/)。神風攻撃を受けたナッシュビルの左舷127mm砲台の反対側の右舷の甲板に、犠牲となり戦死したアメリカ軍水兵の死体を集積した。1944年12月12日にミンドロ島へ向けて出港して、翌日の13日に、ボホール海を通過中に、約63kgの大型爆弾を両翼下に2個搭載した、日本軍の戦闘機に搭乗した神風特攻隊がナッシュビルに激突して自爆死した。

 太平洋戦争中の1944年12月13日に、ナッシュビルはネグロス島沖で神風特攻に襲われた。神風特攻は、左舷の約127mm砲台に激突した。2つの爆弾は甲板から約3mほど離れた場所で爆発した。ガソリン火災と爆発した弾薬により、ナッシュビルの中央部地域は地獄と化した。アメリカ軍水兵が約133人が戦死して、約190名が戦傷したも。残った127mm砲で対空射撃を続けて、直ちにレイテ島に帰還した。

 日本の神風特攻隊員が1944年10月から1945年8月の間に攻撃を行った。日本人は、手を振るとき、さよならをする若い笑顔の英雄として搭乗員を拝見する。勇敢な若い搭乗員が日本本土を守るために悲劇的な死を遂げたと信じた。海軍は18歳から24歳、陸軍は18歳から22歳の若者を犠牲にした。多く神風特攻隊が空爆されて墜落や撃沈は秘密裏にされた。神風特攻隊員が書いた死の恐れや苦悩を反映しない手紙、詩、日記は多大な影響を与えた。1949年刊行された「きけわだつみのこえ(海からの声に耳を傾ける)」は、学徒出陣の学生らを反映した。神風特攻は、1333年に天皇を忠実に擁護し、切腹で自殺した楠木正成を象徴した。

 対照的に、アメリカ人は、特攻の戦闘機が戦艦に激突して爆発して、アメリカ軍の戦艦の破壊と戦死傷を拝見した。非常に異なる視点は、神風特攻隊のに対する日米の認識に多大な影響を与えた。アメリカ人は、神風特攻隊員は個性も表情も見えなく少ないと認識した。多くのアメリカ人は、特攻隊員が狂信的、自殺的、自爆を強要されたと認識した。日本軍が撮影した勇敢な神風特攻隊員の笑顔は、アメリカ軍が戦艦の甲板から撮影された写真に示された爆死と破壊とは全く正反対である。現在の地球上のテロリストによる自爆テロは、日本軍の神風特攻隊員による攻撃に対する論争を引き起こしている。 





2021年8月23日月曜日

韓国軍は、ビンジン省の北ベトナム軍を掃討して、多数のベトナム人の死体が散乱して、軍服の北ベトナム軍だけでなく、無差別に民間ベトナム人も虐殺した。

1967年には韓国軍は、ベトナムの中央海岸付近の荒野に駐屯していた。韓国軍は、ビンジン省の北ベトナム軍を掃討して、多数のベトナム人の死体が散乱していた。韓国軍は軍服の北ベトナム軍だけでなく、無差別に民間ベトナム人も虐殺した。黒服を着たベトナム人の死体が荒野に散乱していた。周辺には人体の破片が飛び散り、至るところに血痕が付着していた。韓国軍による残酷な拷問や虐待かせら虐殺により、北ベトナム軍とベトコンを弾圧して恐怖に陥れた。

 韓国軍の民間ベトナム人の虐殺事件は、1999年5月6日の「ハンギョレ21」に掲載された。1968年2月12日に、韓国軍兵士がベトナム中部クアンナム省のフォンニィ・フォンニャット村で、民間ベトナム人の約79人を虐殺した。その他ゴダイ虐殺約38人、ハミ虐殺約135人など多くの村々で住民の虐待と虐殺を繰り返した。韓国軍の中央情報部が、虐殺事件の幹部を尋問した。韓国の最高裁判所は、2021年3月25日に尋問の歴史的情報公開を韓国の国家情報院に命じた。ベトナム戦争時に、2020年4月にベトナム戦争で民間ベトナム人の虐殺に対して国家賠償が提訴された。韓国軍がベトナムで執行した民間ベトナム人の虐殺事件は約80件以上、犠牲者のベトナム人は約9000人を超えると推定される。特に青龍(チョンリョン)と猛虎(メンホ)部隊は、残酷な虐殺軍団の“鬼畜部隊”と呼称された。さらに、韓国人兵士によるベトナム人女性に対する性的暴行により産まれた約3,000人以上の子供はライダハンとベトナム語の読みとなった。タイヴィン虐殺1200人、ベトナム戦争後のベトナム社会主義共和国は、経済発展の国益を優先して、公開しても何の得にならない戦争の歴史を封鎖している。

 1964年8月から韓国人部隊がベトナムに出向された。1965年1月26日に韓国の国会でベトナムへの韓国軍の派遣が承認された。1965年2月から韓国軍部隊が派遣された。4月3日から約200人の韓国軍に対して北ベトナム軍から砲撃を受けた。1965年9月から、韓国軍の猛虎師団が赴任し始めた。1966年末には、ニンツアン省とビンジン省まで戦闘を拡して占領して、ベトコンと北部ベトナム軍に対して猛攻撃をした。1967年には最大の約44,829人まで増員されて、1973年3月23日まで留まってベトナムから撤退した。韓国が関与した1964年9月11日から1973年3月23日まで約8年5ケ月間に派遣された韓国軍兵士は延べ人数で約325,517人に及んだ。約5,099人が戦死して、約10,962人が戦傷した。




2021年8月22日日曜日

太平洋戦争でフィリピンのルソン島のバヨンボンにて、救護所に残存した日本軍兵士の重傷病人は致し方なく自殺して自死した。

太平洋戦争のフィリピンの戦いにおいて、ルソン島のバヨンボン近隣にて、日本軍の野戦救護所に収容されて生存していた重症の戦傷者あるいは重態の重病人は戦場では歩行困難となった。取り残された多数の人軍兵士の戦傷者あるいは戦病者らは、アメリカ軍に掃討されて殺害あるいは拉致される前に、致し方なく自殺して自死した。救護所の日本軍兵士は降伏することもなく、銃殺あるいは毒殺によって自殺した。1945年6月8日にアメリカ軍は、自殺して自死した救護所の床あるいはベッド上に散乱していた日本軍兵士の死体を検死した。日本軍兵士の死体群の周囲には、ハエがたかり死体が腐敗して死臭による悪臭が漂っていた。

 1945年6月上旬から中旬にかけて、日本軍はアメリカ軍に追撃されて、バヨンボン盆地は豪雨の中を北上して撤退していた。戦場の修羅場を、日本軍兵士や民間日本人が敗走した。歩行できない日本軍兵士や民間日本人の戦傷者や戦死者は周辺に取り残された。歩行できる日中はジャングルの中で隠遁して潜伏して、夜間にルソン島の北部に向けて敗走した。日本軍は、北部のキアンガンを最終の逃避場として、6月下旬にイフガオ州の山間に集結していた。

 1945年6月上旬からアメリカ軍は、ルソン中部から北上してバヨンボン盆地に突撃した。6月5日にアリタヨ、6月6日にバンバン、6月7日にバヨンボンに侵攻した。日々に刻々と、バヨンボン盆地の周辺地域の日本軍を掃討した。6月中旬には、アメリカ軍はバンバンの西側の山中のサリナスに集結した。6月下旬には、アメリカ軍は山中を北上してアンチポロに侵攻した。アメリカ軍は、日本軍を追撃して、アシン川周辺に追撃した。アシン川周辺に逃走した日本軍と民間日本人は、物資や食糧が減少して戦力も低下し、栄養失調による飢餓と伝染病にも襲われた。フィリピンの戦いの末期には、日本軍兵士と日本民間人は前途には戦場の地獄に追い込まれて、飢餓や病気に倒れる者が続出する惨状となって太平洋戦争の終戦を迎えた。日本軍の最終的な降伏は、終戦後の1945年9月3日に公式に降伏した。1945年1月6日からのルソン島の戦いだけでも、日本軍兵士の約217,000人は戦死あるいは戦病死して、約9,050人が降伏して捕虜になった。フィリピン人はマニラ市街戦にも巻き込まれて約150,000人以上が死亡した。アメリカ軍兵士は、戦死者は約8,310人と戦傷者は約29,560人に及んだ。