2021年7月18日日曜日

朝鮮半島の南部の麗水・順天にて、共産ゲリラは脆弱な警察署を襲撃して、警察官を虐待と虐殺した死体が野原に散乱した。

朝鮮戦争勃発する以前に、北朝鮮の共産ゲリラは、朝鮮半島の南部の麗水(ヨス)・順天(スンチョン)にて、装備と警備が脆弱である警察署を狙って襲撃した。警察官の犠牲者も甚大となった。1948年10月19日に麗水・順天事件において、共産ゲリラは多数の警察官を虐待と虐殺した。その死体が野原や田んぼに散乱した。

 1948年8月15日に大韓民国建国直後に、北朝鮮の共産ゲリラを、大韓民国の各地に侵入させて、反乱や騒動を狙った。10月15日に済州島で勃発した四・三事件の反乱を大韓民国は10月27日に鎮圧した。反乱した部隊は、北部の山中でゲリラ抵抗を継続した。

 麗水・順天事件は、1948年10月19日に、韓国全羅南道麗水郡で起こった約2,000人が強制的に軍隊叛乱と民間人殺害が勃発した。反乱軍がまず麗水にて、警察署や役場などを占拠した。警察官、韓国党員、右翼団員を掃討しては射殺した。反乱軍は。警察官を約100人と韓国派の市民を約500人を殺害した。10月20日には反乱軍は順天を占領した。10月21日に、大韓民国は、麗水・順天に戒厳令を発令した。10月23日に、大韓民国の正規軍により順天地域を鎮圧した。麗水のゲリラの反乱部隊を侵攻した。10月25日に麗水の反乱軍の約200人と市民約1,000人は圧倒されて鎮圧された。同調した容疑者の市民は無差別に殺害されて攻撃で地域は血の海となった。複雑な山中に逃げ込んだゲリラは朝鮮戦争後まで潜伏した。

 麗水・順天事件の約1週間の動乱による死者は約2,976名、行方不明は約887人、負傷者は約1407名に達して、事件の首謀者と幹部約152名が軍法会議で死刑となった。大韓民国は反共政策わ強化して、共産ゲリラを排除するために、韓国軍内から共産系要人や容疑者など約4,700人を粛清した。1948年12月1日に国家保安法が制定され、大韓民国から約5万人以上も避難して在日韓国人として難民化した。




2021年7月17日土曜日

広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを被爆者の女性は手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。

原子爆弾による放射線の遅発した影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷、放射線の影響という3つの要因が複雑に絡み合った。広島原子爆弾の原爆症による長期の古いケロイドを被爆者の女性は手術したが、抜糸による傷跡で新しいケロイドが再発した。この現象は医学的には説明がつかない。

(I) 急性疾患の放射線の影響は、熱線や火災による火傷、爆風による負傷と相乗的に作用した。一般に被曝者の病状を悪化させた。その発症時期によって急性疾患と長期疾患に分類される。急性疾患とは、炸裂後から1945年12月末までの間に発症した症状であった。多く被爆者は、炸裂後に約5ヵ月で回復した。

 それらは悪心・嘔吐・下痢の消化器症状、頭痛・譫妄・不眠などの神経症状、脱毛・脱力感・倦怠感の適応症状、吐血・血便・血尿・鼻血・歯肉出血・性器出血・皮下出血の出血症状、発熱・咽頭痛・口内炎・皮膚炎などの炎症症状、白血球減少・赤血球減少などの血液症状、吸虫症・月経異常などの生殖症状が出る。急性疾患期間中の総死亡者約14万人のうち、約20%が爆風による負傷、約60%が熱線や火災による火傷、残り20%が放射線障害であった。

(2)長期疾病は、原子爆弾に被爆して、急性期の原爆症から生存した多くの被爆者は、広島原子爆弾から1945年12月末には、表面的には健康であるように見えた。しかし、原子爆弾による医学的影響は終結してなかった。

  原子爆弾による火傷は、一度は治るが、1~数ヶ月もすればケロイドを形成し、傷跡が隆起した。ケロイドの発生率は、1946年から1947年にピークを迎えた。さらに外傷性白内障などの眼科的疾患や、白血病などの血液疾患は、1947年頃から頻回に認められるようになった。特に白血病は1950年から1960年に頂点に達した。甲状腺癌、乳癌、肺癌、唾液腺腫瘍などの悪性腫瘍は、白血病の発生ピーク後の1960年頃から増加している。その他に、易疲労性、めまい、不眠などの神経障害、老化、胎内被爆による病気などが発生した。放射線の遺伝的影響については、現時点では明確な証拠は得られていないが、今後の調査・研究が必要な問題である。




 


2021年7月16日金曜日

サイパン島のタナパク海岸に侵攻すると、日本軍司令官の命令にバンザイ攻撃で殺害された日本軍兵士の死体が海岸に散乱していた。

アメリカ軍は、1944年7月5日午後にサイパンのタナパク(Tanapag)地域に侵攻した。7月6日にタナパグ平原での戦いが勃発した。1944年6月13日から7月9日までの戦闘で、アメリカ軍がサイパン島を占領した。西からココナッツの木立に向かって、7月9日に丘陵地に侵攻すると、アメリカ軍が掃討すると、ヤシの木に入ると、バンザイ攻撃で殺害された日本軍兵士の死体が畑に散乱していた(7月8日)。

幹線道路は海岸から北東に走り、タナパグからサイパンの北へと続いていた。十分に保護された防御された日本軍兵士に対処する唯一の方法は、火炎放射器で爆破した。タナパタ平原の丘の中腹に、7月5日に、日本軍兵士は荒い道が平野の端に入り、腹切り峡谷で大火災に巻き込まれた。

7月6日にアメリカ軍兵士がタナパク平原に突撃した。日本軍は、塹壕から非常に露出した位置に出て、多数の犠牲者を出した。機雷を鉛タンクに取り付け、別の火炎瓶を投げつけた日本軍兵士は殺害しれた。最初の建物をのぞき込んだ。その内部では、3人の日本軍兵士が手榴弾を腹部に持って自爆して自殺した。次の2つの小屋ではには全体として約60人の日本軍兵士が数分間にわたり小さな家で自爆して死亡した。ハラギリ・ガルチ(Harakiri Gulch)と名目された。日本軍の通信の完全な崩壊と、食糧、水、医療の深刻な欠乏を伴った。日本軍司令官は「今や止まるも死、進むも死」と訓示して自決して、タナパク海岸で最後の突撃をした。

 夜中には日本軍兵士の生存者の大部分を集めて、日本軍兵士は最大の自爆攻撃して惨事をもたらした。日本軍のバンザイ突撃は、海岸平野に沿って襲って、峡谷では切腹した。十分に保護された防御で一部の日本人に対処する唯一の方法は、火炎放射器で彼らを爆破することでした。約12人が先頭に赤い国旗を掲げ、残りの約4,000人部隊が最後の攻撃で侵攻して、激しい白兵戦が続き、崖の機関銃からの日本軍は擾乱射撃して、7月8日に日本軍兵士は、全員死ぬまで突撃した。

 全軍である約29,000人の日本軍が殺害された。数千人の日本人民間人も死亡し、数百人が、崖から飛び降りて自殺した。アメリカ軍の犠牲者は約3,000人が死亡し、約10,000人以上が戦傷した。




2021年7月15日木曜日

1945年2月13日から14日のドイツのドレスデン大空襲のあと、犠牲者の死体は旧市場のアルトマルクトに集めて火葬された。

1945年2月13日から14日のドイツのドレスデン大空襲のあと、犠牲者の死体は旧市場のアルトマルクトに集めて火葬された。犠牲者は数百人単位でアルトマルクトの火葬場で焼かれた。

  1945年2月13日の夕方、ドイツのドレスデンに対して一連の連合軍の焼夷弾攻撃が始まり、「エルベ川のフィレンツェ」が瓦礫と炎になり、約25,000人が死亡しました。恐ろしい規模の破壊にもかかわらず、ドイツ人はすでに降伏の危機に瀕していたので、それはおそらく戦略的にほとんど達成しなかった。

  1945年2月に開催された連合国のヤルタ会議では、ナチスの戦争機器を停止させるために、ドイツの戦争生産・製造拠点となっている都市に対して、連合国が協調して戦略的空襲を行うことが決議された。豊かな芸術的・建築的遺産で知られる中世の都市ドレスデンが空襲されたのは、戦時中、戦争生産や主要産業が行われず、悲劇の空襲となった。ドレスデン空襲の真の目的については、連合国側とドイツ側の双方で「公式」には、ドレスデンが通信の要所であり、空爆によって、当時ソ連軍と戦っていたドイツ軍へ伝達が妨げられる理由とした。しかし、その破壊の規模は、戦略的な目的とは不釣り合いであった。多くの人は、この攻撃は単にドイツ人を殺害したて士気を低下させるためのものだったと。

   アメリカ軍とイギリス軍の800機の爆撃機によって、3,400トン以上もの爆薬が投下された。2日間の爆撃で発生した火の粉で、街は何日も燃え続け、通りには多くの子供を含む黒焦げの死体が散乱した。ドレスデン市が2010年に発表した報告書によると、都市の約13平方kmが破壊され、死者の総数は22,700~25,000人に上った。残された病院では、負傷者や焼失者の数に対応できず、大量の埋葬が必要となった。大火事で約25,000人に死亡して、市内中心部が破壊され、空気から酸素が吸い込まれ、炎から逃れようとする人々が窒息死した。

  





2021年7月14日水曜日

アメリカ南北戦争の荒野の戦いで、膨大な兵士の死体や切断された手足が、ヴァージニアの荒野の密林に放置されて白骨化した。

アメリカ南北戦争にて、ヴァージニアの荒野の戦いで1864年5月5日から5月6日まで北軍と南軍が激闘した。戦闘は次第に激しくなって、息苦しいほどの煙と霧の中で、兵士たちは狙撃する相手もわからない状態で無差別に攻撃した。膨大な犠牲者を伴って、軍隊が移動しても、死体は置き去りになって、負傷者や行方不明者を見失った。荒野で負傷した兵士から切断された手足が山積みされた。膨大な兵士の死体や切断された手足が、ヴァージニアの荒野の密林に放置されて白骨化した。

 アメリカの南北戦争の中盤にて、荒野(Wilderness)の戦いは、1864年2月に新たに北軍将軍となったグラントが、南軍の首都リッチモンドに向けた北軍の最初の大攻勢であった。5月4日にラピタン川を渡った約11万千人の北軍が、約6万5千人の南軍とヴァージニアの荒野の密林で5月5日から5月6日まで戦闘した。南軍にとっては慣れ親しんだ地形であったが、深い森林と密生した下草のために、大軍が整然と侵攻することはほぼ不可能であった。北軍の数的優位は荒野の密林で打ち消された。その後約2日間にわたり血みどろ膨大な犠牲者と混沌とした戦闘が勃発した。戦闘は双方は引き分けに終結した。特に北軍側により多くの死傷者が出た。しかし、グラントの北軍は退却せず、戦傷した部隊にも南下を命じた。

 樹木や下草が生い茂っていて、戦闘は激しく混沌とした。弾丸の炸裂による火事で閉じ込められて、炎から這い出すことのできない負傷者が死亡した。森の中で兵士たちは煙と恐ろしい叫びで満たした。戦闘は次第に激しくなって、息苦しいほどの煙と霧の中で、兵士たちは狙撃する相手もわからない状態で射撃した。軍隊が移動すると、死体は置き去りになり、負傷者や行方不明者を見失った。荒野で負傷した兵士から切断された手足が山積みされた。荒野の戦いは決着がつかず、北軍は2日間の戦闘で約17,500人以上の死傷者を出し、南軍の死傷者は約10,500人よりも約7,000人も犠牲者が多く出た。疲弊した北軍は塹壕を出てから、荒野の南部を目指して侵攻した。しかし、リーの南軍が先に南部に到着し、6月3日から約2週間にわたる一連の戦闘で、再び北軍の侵攻は停滞した。




2021年7月13日火曜日

第一次バルカン戦争にて、エディコイ虐殺が1912年11月に勃発した。ブルガリア軍に支援されたギリシア人集団がエディコイ村の約1,651人ものトルコ系住民を大虐殺した。

第一次バルカン戦争にて、エディコイ(Edeköy)虐殺が1912年11月13日から11月20日に勃発した。ブルガリア軍に支援されたギリシア人集団がエディコイ村のトルコ系住民を大虐殺した。エデコイ村だけでなく西トラキアから避難した何千人ものイスラム教徒のトルコ人が拷問されて虐殺されて、彼らの財産は略奪された。エディコイの人口は1800人で、軍隊にいた約100人の若者を除いた、主に女性、老人、子供も含めた約1,651人が虐殺された。巻き込まれたトルコ人を含める約2,000人以上に達した。女はモスクに、男は大きな納屋に閉じ込めて、全員に火をつけた。死者の一部は井戸に捨てられた。

 バルカン半島にてオスマン帝国を消滅するため、1912年10月8日にモンテネグロはオスマン帝国に戦争布告して第一次バルカン戦争は勃発した。ブルガリアとセルビアとギリシアは10月18日に戦争布告した。ギリシャとセルビアの主要作戦は、アルバニアを解体することであった。バルカン軍は約72万人で、オスマン帝国軍は約30万7千人で構成された。オスマン帝国のヨーロッパ領土に住んでいた約632,408人のイスラム教徒が殺害されて、約812,771人がアナトリアに移住した。バルカン戦争中にバルカン諸国によって結成された「十字軍同盟」が、約70万人近くものイスラム教徒を殺害した。

 ロシア革命のレフ・トロツキーは記者として虐殺を目撃した。マケドニアのアルバニアの民間人や他のイスラム教徒の村人がセルブによって残酷に殺され、頭を切り落とされたイスラム教徒の死体が横になり、イスラム教徒の村が焼かれ、イスラム教徒に属する貴重品が組織的に略奪された。第一次バルカン戦争中、セルビア人だけでなく、彼らの土地を拡大したモンテネグロ人、ブルガリア人、ギリシャ人も、バルカン半島に住むトルコ人、アルバニア人、ボスニア人、その他のイスラム教徒を虐殺した。女性、老人、子供、赤ちゃんはさまざまな拷問によって殺害された。トルコ国内外に深刻な危機に直面したオスマン帝国は敗退した。バルカン戦争を終結させるロンドン条約が、1913年5月30日に調印された。

 第二次バルカン戦争は、1913年6月29日から8月10日にブルガリアが領分に不服して、セルビアとギリシャを攻撃した。7月にはルーマニアとトルコもブルガリアに戦線布告した。ブルガリアは敗退して孤立無援となり、第二次バルカン戦争は1913年8月10日にブカレスト条約で終結した。利益相反のあるバルカン諸国がお互いに争って一層に対立関係が深まり、ロシアやオーストリアの利害も絡み、第一次世界大戦の導火線となった。




2021年7月12日月曜日

台湾原住民による霧社蜂起は、セデック族幹部が日本軍・警察に追い込まれて1930年12月8日に首吊り自殺して鎮圧された。

台湾原住民による霧社蜂起は、セデック族幹部が日本軍・警察に追い込まれて1930年12月8日に首吊り自殺して鎮圧された。その縊死体がぶら下がり、右側はモーナ・ルオーダの長男であるタダオ・モーナである。モーナ・ルオーダは、霧社のセデック族の村落のマヘボ社の頭目であった。日本軍との戦闘にて、約700人のセルデック族の蜂起者が死亡して、約500人が捕獲された。それに対して、日本側は日本軍約22人、警察官約6人が死亡した。

 台湾の原住民であるセデック族のモーナ・ルダーオの長男やタダオ・モーナらが、日本統治下で最大の抗日蜂起をした霧社事件が勃発した。1930年10月27日に、台湾中部山地の霧社の町において、霧社公学校で行われた運動会の会場に、刀と小銃などで武装した約300人もの台湾原住民の部族が乱入した。モーナ・ルダーオが霧社地域のタイヤル族の約300人を指揮した。その直前に警察署や派出所も襲撃していた。その場にいた子供も含めた約134人が殺害された。直ちに日本の台湾総督府は、日本軍を投入して関与した台湾の原住民を10月29日には掃討して撃退した。約2,700人の日本軍が砲撃や空襲により鎮圧した。抗日蜂起に加担した原住民を掃討して、生存者は強制収容所に収容した。

 日清戦争の下関条約により、1895年4月17日に清国から日本に台湾が割譲された。1895年5月25日に、日本への割譲反対を唱える漢人が台湾民主国の建国を宣言した。進駐した日本軍との乙未戦争に発展して。台湾民主国は崩壊して、1896年から台湾総督府により、植民地に統治された。台湾の原住民は、過酷な強制労働や弾圧、警察への反感から非人道的な虐待や虐殺をされていた。日本人が原住民の女性を、内縁の妻に扱った婚姻問題に、原住民の結婚式で発生した殴打事件が引き金となった。タダオ・モーナが、1930年10月7日の結婚式にて、日本人巡査を殴打した。1931年4月25日には、霧社事件で投降したセデック族が、対立したタウアツ社を襲撃して約216人を殺害した第二霧社事件が勃発した。



2021年7月11日日曜日

イギリス軍の埋葬部隊が第一次世界大戦にて、アラスの戦いで殺害された兵士の死体を、イギリス軍の埋葬部隊がモンチー・ル・プレオ村のウィンドミル墓地に埋葬した。

第一次世界大戦において、1917年4月のアラスの戦いで殺害された兵士の死体を、イギリス軍の埋葬部隊が、モンチー・ル・プレオ村のウィンドミル墓地に埋葬した。イギリス軍兵士たちは、殺害された仲間の死体を集めては埋葬した。老練な騎兵たちよりはるかに前線で突撃させられる貧しい血の歩兵である若者が膨大に殺害された。

 モンチー・ル・プレオは、連合国にとって戦略的に重要な村であった。アラスの東でこの村は、フランスのスカルプ渓谷の丘の上にあるドイツ軍の拠点だった。1917年4月9日から5月16日まで、イギリス軍等は第一次世界大戦の西部戦線のフランス北部の都市アラス近くで、ドイツ軍の防御線を突破した。イギリス軍には、カナダ軍、ニュージーランド、ニューファンドランド軍、オーストラリア軍も参戦した。塹壕戦が始まって以来で、初日に最長のわずか5.6kmほど進撃した。4月14日にはドイツ軍は新たな防御戦を築いた。元の膠着状態になり、両軍ともに膨大な損害を伴った。1日に平均4,000人以上もの死傷者を伴った。イギリス軍は約158,660人もの死傷者、ドイツ軍は約12万5,000人の死傷者の犠牲を伴った。その犠牲により西部戦線の戦略的状況は変わらなった。1917年4月の1カ月の血の4月間に、アラスの戦いに参戦したイギリス空軍は245機の戦闘機を損失して、搭乗兵士が戦死または行方不明が約211人、捕虜は約108人という犠牲を出した。

 一方で1917年4月16日から5月9日まで、二ベル司令官がシャンバーヌ地方で、フランス軍兵士約120万人を強制的に突撃させた。二ベル攻勢は、ドイツ軍の機関銃による大虐殺を受けて、戦死者約29,000人を含む18万7,000人もの戦死傷者の犠牲を損失した。フランス軍兵士は、有刺鉄線と機関銃の前に身を投げ出す突撃に拒否して、5月3日に動乱が勃発した。フランス軍はアメリカが4月6日に連合国側に立って参戦して、6月25日にアメリカ軍兵士の到着まで停滞した。アメリカ軍は、10月になって西部戦線の塹壕戦に参戦した。但し、当初はアメリカ軍は兵士も装備も貧弱で、補助的な任務であった。




2021年7月10日土曜日

広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。

 広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。その手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。厳しい火傷の疼痛に耐えながら、被爆者の娘さんは、有り難いマーキュロを火傷の傷に塗布してもらってた。薬等ほとんどなく赤チンあるのみで、目を覆うような被爆者達に塗布された。その後には醜いケロイドが発生すれば、将来には悩みを抱えることになる。治療といっても包帯を替えたり、油や赤チンを塗ったりのみであった。真夏の時期であり、火傷には膿を持ち、ウジなどがわいた。

  薬も不足すると、マーキュロクロム液を混ぜて火傷に塗布した。マーキュロは、水溶液が赤いので「赤チン」と呼称された。マーキュロは、1~2%に希釈して水溶液を使用される。細菌の発育抑制して、局所の刺激性が少なく、創傷や皮膚粘膜の消毒に用いらた。有機水銀製剤であるために、静菌であり,浸透性も弱く殺菌作用は弱かった。マーキュロは1918年にW.ヤングらによって開発され、日本には1936年頃から利用された。

  有機水銀による熊本県水俣湾でのチッソ社が起こした水俣病が1956年に発見された。新潟県阿賀野川流域で昭和電工による第二水俣病が1965年に発見された。有機水銀による毒性と高い蓄積性で多数の被害者を出して。日本国内では1973年に製造禁止、2019年から全く使用できない。




2021年7月9日金曜日

アメリカ軍によるグアム島の偵察と掃討にて、1945年6月1日にジャングルの中で日本軍兵士の飢餓して腐敗した死体を発見した。

グアム島の戦いで小部隊による日本軍の夜襲などが断続的に続けられ、日本軍の遺棄死体が増大した。日本軍は1944年8月11日以後に残存した兵力を持って北部密林地帯での持久戦を展開した。密林内にて掃討あるいは飢餓や病気で死亡した。グアム島のジャングルは、植物の迷路と下草などが密集していた。アメリカ軍によるグアム島の偵察と掃討にて、1945年6月1日にジャングルの中で日本軍兵士の飢餓して腐敗した死体を発見した。

 太平洋戦争において、日本軍は真珠湾攻撃から3日後の1941年12月10日にグアム島を占領した。グアム島の戦いが1944年7月21日から8月10日まで勃発した。グアム島の戦いは、グアムとその他のマリアナ諸島、およびパラオ島の群島を含む、アメリカ軍の作戦の一部であった。約340km平方マイルのグアム島に、アメリカ軍は舟艇と砲撃および空爆に支援され、上陸して侵攻した。約59,000人のアメリカ軍兵士と多数のネイティブチャモロ人が、約18,000人の日本軍兵士と対峙した。分厚いジャングルと険しい地形での戦闘は双方に甚大な犠牲を伴った。8月10日に停戦した時に、約1,783人のアメリカ軍兵士が殺害されて、約6,010人が戦傷した。日本軍は約18,377人の日本軍兵士が殺害され、約1,250人が捕獲された。

 組織化された日本軍の抵抗は1944年8月10日に停戦した。8月11日以降に、指揮失った日本軍兵士は、反撃の機会を待つために1人ずつ分散してジャングルに入った。約7,500人の日本兵がしばらくの間ジャングルに留まって、何人かは戦闘を継続した。ジャングルは傾斜した地形を覆って、畑や道路は、雑草、つる植物、下層植生が生い茂っていた。道路や小道から離れた軍隊の移動はほとんど不可能であった。敗戦後の1945年9月4日に残存した日本軍兵士が降伏した。最後の日本軍兵士である横井庄一は、グアム島に派遣されて約28年の1972年1月24日にグアム島のジャングルで発見された。



 

2021年7月8日木曜日

マイダネク強制収容所の焼却炉にて、ソ連軍の接近に伴って殺害された収容所で虐殺された囚人の大量の骸骨が放置されていた。

マイダネク(Majdanek)強制収容所の焼却炉にて、ソ連軍の接近に伴って殺害された収容所で虐殺された囚人の骸骨が放置されていた。ナチス親衛隊は証拠隠滅のため死体が掘り起こされては再度に白骨を焼却した。収容所は1944年7月23日にソ連軍により解放されて大量殺戮が発見された。

 マイダネクは、1941年10月にナチス親衛隊が運営する捕虜収容所としてポーランドのルービン郊外に設立され、1943年2月16日に強制収容所として転換された。マイダネクは捕虜収容所、絶滅収容所、子供収容所で構成された。当初は木造の建物にジクロンBの毒ガスを使用する2つのガス室があった。後にレンガ造りの建物にガス室が設置された。その殺戮は1942年4月から始まり、1944年7月22日まで虐殺された。マイダネクは、軍需工場やシュタイヤー・ダイムラー・プフ兵器工場の奴隷労働力となった。ユダヤ人、ソ連軍捕虜、ポーランド人を含む約36万人が殺害された。

 最初の収容者は、ポーランドの政治犯、ユダヤ人、1941年10月に到着した約5,000人のソ連軍捕虜であった。1942年には、スロバキア、保護国、オランダ、ベルギー、フランス、ギリシャからユダヤ人が到着して殺害された。占領下の白ロシアやウクライナでも恐怖に陥れた。収容人数は最大で約25,000人で、アウシュビッツ強制収容所に次ぐ第2番目の規模であった。

 1942年から1943年にかけて、約13万人のユダヤ人がマイダネクに送還された。収容所の一画に木造のバラックに2つのガス室を備えた殺害センターになった。その後、ガス室を収容するレンガ造りの建物が設置された。殺戮はアウシュビッツ・ビルケナウと同様に、チクロンBガスで行われた。ユダヤ人やソ連の捕虜は大量に射殺された。1942年4月には約2,800人のユダヤ人が射殺された。最大の虐殺は1943年11月3日に勃発して、約17,000人のユダヤ人を塹壕で機関銃により射殺された。さらに食糧と環境が悪化した常時に餓死者や病死者が発生した。マイダネクに収容者の約50万人のうち約20万人が死亡して、そのうち約12万5千人がユダヤ人であった。赤軍により収容所は1944年7月22日に解放されたが、ソ連軍が解放したときにはマイダネク強制収容所はわずか生存者は約1,000であり、一部しか破壊されず収容所は残存した。約1,000人の収容者は死の行進で避難させられた。ソ連軍は数千人の収容者がまだ収容所に残っているのを発見した。そこで起こった大量殺人の十分な証拠を発見した。




2021年7月7日水曜日

アメリカの南北戦争にて、5人の北軍のアフリカ系アメリカ人は1965年5月にリッチモンド郊外のバージニア州コールドハーバー周辺で殺害された兵士の骨を集めた。

アメリカの南北戦争にて、5人の北軍のアフリカ系アメリカ人は1965年5月にリッチモンド郊外のバージニア州コールドハーバー周辺で殺害された兵士の骨を集めた。北軍のアフリカ系アメリカ人は、殺害された兵士の頭蓋骨、骨、腐敗した手足など残骸で満たされた担架の近くでしゃがんでいた。コールドハーバーの戦いでは、残酷な塹壕戦と狙撃の欧州で大規模な犠牲者が出た。

 1864年5月初旬に、ポトマック北軍との北バージニア南軍がバージニアでの一連の戦いで衝突した。両者は荒野の森からスポッツシルバニアなどの小規模な戦場まで、リッチモンドを中心とした円弧状に移動しながら、お互いに大きな損害を受けた。5月30日に、北軍と南軍はベセスダ教会で激突した。翌日、両軍の先遣隊は、戦略的に重要な交差点で、第二次コールドハーバー(ゲインズミルの戦いの場所)の戦いが1864年5月31日~6月12日に勃発した。北軍の攻撃により交差点は占拠された。リッチモンドの門前でリーを撃破するために、北軍は6月2日に南軍の全戦線に大規模な攻撃を行う準備をした。北軍の軍団が予定通り到着しなかった。翌日に延期された間に、南軍は塹壕を作った。6月7日に、負傷者を取り戻す2時間の停戦で、負傷者のほとんどは戦死していた。負傷者の一部は軍隊に這って戻り、暗闇に軍隊によって回収された。

 長引く南軍の追撃に対して、6月3日に攻撃した北軍には悲劇的な戦闘になり、北軍は大敗戦に陥った。北軍は猛烈な南軍の銃撃を受けて多数の死傷者を出した。南軍の塹壕に到達できたのはわずか数箇所であった。北軍の無謀な戦闘により、大きな損害を受けた。コールドハーバーの第2次戦闘では、北軍は約11万7,00人のうち約1万2,738人が戦死して、約9,077人が戦傷した。南軍は約6万2000人の兵力から約5,287人が戦死して、約3,376人が戦傷した。北軍は約9日後にはコールドハーバーから撤退して、引き続いて南軍の側面から攻撃した。北軍は、リッチモンドの南に位置するピーターズバーグで、約9ヶ月に及ぶ包囲戦が繰り広げられた。第二次コールドハーバーの戦いは、南北戦争中に南軍が勝利した最後の戦場となった。



2021年7月6日火曜日

ソビエト軍が1939年に西ウクライナのゾーチロウを占領後に、ソビエト秘密警察は、民族主義者、政治家、知識人をゾーチロウ城に投獄して虐待して中庭で虐殺した。

ソビエト軍が1939年に西ウクライナのゾーチロウを占領後に、ソビエト秘密警察(NKVD:内務人民委員部)は、ウクライナとポーランドの民族主義者、政治家、知識人をゾーチロウ城に投獄して、少なくとも約649人が虐待されて中庭で虐殺された。

 NKVDは西ウクライナ全域で、1941年6月23日からウクライナ人政治犯から大量死刑が始まった。当初は、NKVDは虐殺処分はウクライナ西部地域の囚人から、後に他の地域に広がった。約2週間で、ソビエト軍は約22,000人以上を殺害した。1941年にウクライナ西部でNKVDが刑務所で大虐殺を執行した。1941年6月22日、ドイツとソビエトの東部戦線で戦争が勃発すると、ソビエト軍にとり、多くの囚人がいる刑務所が問題となった。最初にウクライナ西部最大のリヴィウ刑務所(ロンスキー刑務所)で、約5000人以上の反革命活動の囚人がいた。

 解決する最初の措置は、ソビエト軍が登録した囚人を2つの集団に分割した。強制労働収容所あるいは虐待されて虐殺された。ドイツ軍から囚人の逃避には、リヴィウから約4万5千人の囚人を逃避させる計画であったが、刑務所に残っていた3,000人の囚人は、即座に射殺された。最初は特別な穴で、後頭部を狙って撃たれた。ドイツ軍が近づくと、囚人らはは地下室に追いやられ、窓から機関銃を撃ち抜かれた。死体はトラックに運ばれ、塩で覆われた掘られた穴に捨てられた。ナチス・ドイツ軍が到着する前に、処刑された人々は刑務所の地下室に投げ込まれた。テルノーピリ地域では、ドニエストル川を渡る囚人を乗せた約14台の貨車が破壊された。貨車には燃料をまき散らし、火をつけて、川に捨てられた。ドニエストル川の急勾配の土手で、約1,000人以上の囚人が虐殺された。

   約2,000人以上の囚人がルスク刑務所で射殺された。若いウクライナ人、民族主義者組織、聖職者、そして知識人らも射殺された。6月22日に、ルツクがドイツ軍に爆撃され、囚人は6月22日から23日まで一晩中刑務所で射殺されて、約625人の囚人だけが生き残った。囚人の死体には灯油が注がれて燃やされ、石灰が振りかけらた。6月23日以降、さらに死刑執行は激化した。ソビエトが撤退する前の最後の数日間、機関銃と手榴弾で処刑された。犠牲者の苦悶する叫び声を消すために、轟音を立てる自動車とトラクターのエンジンで轟音立てて死刑が執行された。同様な虐殺が、ウクライナの中央東部地域であるウマニ、キエフ、ハリコフの強制収容所でも勃発した。




2021年7月5日月曜日

南ベトナムのトゥイホアでの地雷の爆発により、約15人のベトナム民間人が殺害されて、4人が負傷した。母親が地雷の爆発による犠牲者となり、娘が死体の側で泣き叫んだ。

1966年3月18日の南ベトナムのトゥイホアの西約8kmの田舎道での地雷の爆発により、約15人のベトナム人民間人が殺害されて、4人が負傷した。母親が地雷の爆発による犠牲者となり、娘が死体の側で泣き叫んだ。トゥイホアはフーエン県の州都で、ベトナム中部のダラン川の下流に位置する。

 ベトナム戦争では、ベトコン(VC)やベトナム人民軍(PAVN)の紛争にて、殺人、誘拐、拷問、脅迫が日常的に執行された。ベトナム市民を脅し、敵対勢力を排除して、南ベトナム政府職員の士気を低下させ、徴税やプロパガンダを強化した。1954年から1975年の間にVC/PAVNによって殺害された南ベトナムの民間人の総数は、約10万6000人から約22万7000人と推定された。ベトナム市民を臆病にさせ、敵対者を清算し、南ベトナム政府職員の士気を低下させ、徴税やプロパガンダ活動を後押した。恐怖で、南ベトナム政府が防御できないことを示した。ベトナム戦争の初期には、暗殺や同様のテロ活動がVCの特別活動隊によって組織された。VCに集約され、1970年には約25,000人の部隊に達した。標的を絞った殺人や誘拐に加え、VCとPAVNは、頻繁に難民キャンプを押し込め、村人が頻繁に通る道路に地雷を設置した。大型車が通過したときに爆発した。約122mmのロケットで主要都市を無作為に砲撃した。大規模なテロ事件には、Đắk Sơnの虐殺、Huếの虐殺、Son Traの虐殺、Thanh Myの虐殺などがある。

 ベトナム共和国軍(ARVN)やアメリカ軍も、住民を狙撃したり、襲撃したり、地雷や罠を村や周辺に設置した。村人たちの反応や報復攻撃を早急に引き起こした。VCはある村に入り、地元の住民に革命を支持を強要した。テロ情報を地区の首都に伝えた翌日に、アメリカ軍機がその村と教会を爆撃した。破壊された後にVCの工作員が現れ、生存者にアメリカ帝国主義者の背信行為を洗脳した。PAVN/VCの部隊は、テロ戦術を一貫して否定した。1968年から1972年まで、テロリストの犠牲者の約80%は一般市民であり政府関係者、警察官、自衛隊員、平和化の幹部は約20%しかいなかったと示唆した。




2021年7月4日日曜日

カンボジア内戦にてソム・ラングで、路店で若い夫が内戦に巻き込まれ砲撃で殺害され、死体の側で若い妻がうめくように慟哭した。

カンボジア内戦にてソム・ラングで、1998年1月13日の夕方に路店で若い夫が内戦に巻き込まれて殺害された。砲弾が直撃して即死した夫の死体が地面に仰向けに横たわった。無差別な砲撃により、若い夫の上半身には切り裂かれた深い傷跡から出血していた。その死体の側で、若い妻がうめくよう泣いて、涙を流した。若い妻は、周囲のカンボジア人に対して、「夫の指から、指輪をはずして」と震えながら訴えた。結婚してもまだ新婚の時期でもあった。若い妻は、周囲のカンボジア人に夫の指から指輪をはずしてもらった。妻は夫の指輪を手のひらに握り、大声で泣き続けた。

 フン・セン軍は毎日のように攻撃して、ラナリット軍が抵抗していた。突然に、ラナリット軍がフン・セン軍が駐屯するソム・ラングに砲撃した。住民は、砲撃の中てで直ちに庭先に穴を掘って、まず子供たちを穴中に入れて、住民たちは身を屈めた。金持ちや上級国民だけは、国外に逃避できたが、戦場に弱い立場の市民らは取り残された。仏教徒である市民は、内戦を恐れて寺院に集まっては平和を祈っていた。無差別な砲撃は、病院にも達して、医療関係者も立ち去った。負傷兵は戦場から引き戻すも、死体は放置された。地域の火葬場では、1日中死体が燃やされ続けた。侵攻する軍隊の貧しい兵士が、地域の民家からも略奪して、カンボジア市民が犠牲となった。激しい内戦中は、ラナリットもフン・センら上級幹部は、国外に避難していた。

 1997年7月5日にカンボジアの本格的な内戦が再び勃発してフン・セン軍が首都プノンペンのラナリット軍に侵攻した。直ちにタイとの北西部の国境の近隣まで戦場が拡大した。多くの市民が内戦に巻き込まれて犠牲となった。ベトナム戦争中の1970年3月に、親米派のロン・ノル軍事政権が樹立されて、クメール・ルージュのポル・ポト軍とロン・ノル軍が内戦で激突して全土に拡大した。無差別な爆撃と腐敗によりロン・ノル政権は崩壊した。1975年4月にポル・ポト政権が樹立した。都市住民の農村への強制移住・私有財産の停止・寺院や学校閉鎖して、約100万人ものカンボジア人が虐殺された。1982年に、シアヌーク派・ポルポト派、ソンサム派の連合政権が樹立された。タイ国境の連合三派とヘン・サムリン派の内戦が継続した。1993年に、国連カンボジア暫定機構(UNTAC)が主導してカンボジアで四派による総選挙が実施され、ポル・ポト派は離脱した。1995年にフンシンペック党のラナリット派と人民党派のフン・セン派の対立が激化して、爆弾テロが頻発した。1997年に、二派が対立して再び内戦に突入した。1998年に第2回国民議会選挙でフン・セン連立政権が樹立された。それ以後は第3回(2003年)、第4回(2008年)、第5回(2013年)、第6回(2018年)国民議会選挙にて、フン・セン政権が再選が継続して長期独裁政権が継続している。