2021年6月3日木曜日

イーペル近郊の砲弾で破壊された森林の中で、一人のオーストラリア軍兵士が倒れた仲間の死体を引き上げるために立ち止った。

第一次世界大戦にて、イーペル近郊の砲弾で破壊された森林の中で、一人のオーストラリア軍兵士が倒れた仲間を助けるために立ち止った。このパッシェンデールの戦いでは、約25万人近くの兵士が犠牲になった。1914年以来の戦闘で、イーペル地域はすでに木や植物のない不毛の平原と化し、砲弾の跡が残った。雨水を野原に流していた古代フランドルの排水システムも破壊された。数百万発の砲弾が炸裂し、豪雨が加わったことで、戦場はあっという間に、人が溺れるほどの深さの水を蓄えたクレーターが点在する湿地帯となり、初期の戦闘で死んだ兵士の墓が陥没したことでさらに悪化した。お粥のように濡れた泥の上で、建物や自然の覆いがほとんどない開けた灰色の風景の中で、爆発した砲弾、飛んでくる破片、機銃掃射の容赦ない苦しい雨の下で、攻撃と反撃を繰り返した。
 イーペル地域は、激しい戦闘と絶え間ない砲撃にさらされ、両軍の兵士や馬の死体が埋もれたまま腐った。死体の引き揚げは行われておらず、死者はほとんど埋葬されていない。戦場は広大な泥沼で、水を含んだ砲弾の跡が散見される。兵士や荷馬は、クレーターの間を縫うようにして敷かれた狭い線路を、自分の足で侵攻した。足を滑らせると、大きさのクレーターの中で溺れてしまった。ほとんど絶え間なく降り続く雨と砲撃の中、兵士たちの状況は悲惨だった。兵士たちは砲弾の穴に身を寄せたり、吹きさらしの泥の中で迷子になり、陣地を分ける前線が不明となった。
 パッシェンデールの戦いは、第一次世界大戦中の1917年7月31日から11月10日にかけた第三次イーペルの戦いであった。戦場は、ドイツ軍と連合軍が約3年間にわたり膠着状態となったベルギーの西部戦線のイーペルの突出部である。7月31日にイギリス連合軍は新たに攻勢をするも、廃墟となったパッシェンデール村近くの尾根を占領してドイツ軍の戦線を突破できなかった。イギリス軍、オーストラリア軍とニュージーランド軍の攻撃が失敗に終わった後に、10月26日にカナダ軍が戦闘に参戦した。カナダ軍は11月6日に尾根を占領したが、豪雨と砲撃で戦場は泥沼化して、約16,000人のカナダ軍兵士が死傷した。パッシェンデールの戦いは、連合軍の戦闘には何の成果もなく、第一次世界大戦における無意味な殺戮の象徴となった。
 1917年春に、ドイツ軍は国際海域で連合国の商船等を沈没する無差別の潜水艦の攻撃を開始した。ドイツ軍の潜水艦攻撃により、アメリカは連合国軍側として参戦した。軍需品や食料などをイギリスに運ぶ航路が脅かされた。イギリス海軍は、ドイツ軍の潜水艦基地であったベルギー沿岸の占領港から、ドイツ軍を追い出すために、連合国軍がベルギーのドイツ軍前線を突破して、海岸まで侵攻して軍港を解放すいることを政府に迫った。西部戦線での大規模なフランス軍の攻撃が失敗し、長年の激しい戦争に疲れたフランス軍兵士たちが反乱を起こし始めた。一部のフランス軍が一時的に戦闘意欲を失って、戦闘不能に陥った。ドイツ軍の資源と注意をフランス軍から引き離すために、1917年夏にイギリス軍が無謀な戦闘を展開した。
 イギリス軍は、ドイツ軍に対してわずかな戦力の優位性しかなかった。イーペルでドイツ軍の戦線を突破できても、ベルギー沿岸の軍港は攻略できない。ベルギーでの攻防しても、戦争の終結には繋がらなかった。唯一に必然なのは、大量の人命が失われることだった。イギリスの戦時内閣で承認されたパッシェンデールの戦い通称の第3次イーペルの戦いが7月に始まった。イギリス軍は、数十台の戦車に支えられ、フランス軍の支援を受けて、7月31日にドイツ軍の塹壕を攻撃した。それからの1ヶ月間、ドイツ軍側の何十万人もの兵士が、イギリス軍でも多数の突撃から約7万人近くが死傷した。9月初旬には、オーストラリア軍とニュージーランド軍が、疲弊したイギリス軍に投入された。連合軍は砲撃し、攻撃し、敵地の一部を占領しては、反撃するドイツ軍に追い返された。パッシェンデールの戦いは、間違いなく戦争中で最も泥臭く、最も血なまぐさい戦いで、第一次世界大戦の最悪の恐怖の象徴である。戦闘の多くが全くの無益であり、戦争の幹部が部下の命を無謀にも軽視した。1918年春に、ドイツ軍が大規模な攻撃を開始して、連合軍はベルギーの沿岸部の軍港の解放には至らなかった。パッシェンデールでの戦いは、勇気と命の無駄な支出と呼称された。 

 


2021年6月2日水曜日

スペイン内戦にて戦争写真家のロバート・キャパは、塹壕の中から35ミリカメラで至近距離から共和国軍民兵であった『崩れ落ちる兵士』の著名な戦争写真を撮影した。

スペイン内戦が勃発して約1ケ月が経過した1936年9月5日午前10時30分コルドバにて、フランコ反乱軍のバレラ将軍の指揮下にあるブルアガ隊のコロナル・サエンスに所属するレギュラーズ・タボルのモロッコ人精鋭狙撃手が、丘の斜面を駆け下りる共和党軍民兵を狙撃した。塹壕に潜伏していたモロッコ人精鋭狙撃手が引き金を引くと、モーゼル銃の口径約7×57mmのマウサー弾が上昇気流に乗って秒速約730mで無慈悲に発射された。アリカンテ出身の無政府主義者であるアナキスト軍民兵であるフェデリコ・ボレル・ガルシアは、セロ・デ・ラコハの斜面を走っている最中に心臓を貫通されて即死した(上)。狙撃兵の左手数メートルにいた戦争写真家のロバート・キャパは、塹壕の中から35ミリのライカIIIを使って至近距離から著名な『崩れ落ちる兵士(The Falling Soldier)』戦争写真を撮影した。1996年にモーゼル銃で撃たれて後ろ向きに倒れている民兵の正体が判明した。心臓を貫く銃弾で即死した民兵の右手に、セロ・デ・ラコハ丘の東側の斜面で、小さな渓谷の始まりに近い山が見える。その他にもう一人のラ・コハの丘で狙撃されて殺害された第2共和国軍民兵の正体は今日まで知られていない(下)。
 1936年7月17日にフランコ将軍とイベリア半島の将軍たちは、2月6日の総選挙で民主的に成立した共和国政府に対抗して反乱して、スペイン内戦が勃発した。ロバート・キャパの本名はエンドレ・エンレー・フリードマンで、ブダペスト生まれのユダヤ系ハンガリー人写真家である。1935年にデプトエージェンシー社は、ドイツ雑誌に掲載する写真の撮影のため、キャパにスペインへの渡航を命じた。キャパは、1936年にフランス人民戦線の勝利後の集会などを撮影した。1936年にスペイン内戦が勃発すると、フランスの高級写真雑誌『Vu』が、スペイン内戦の撮影を命じた。1936年9月23日に
「死の瞬間の人民戦線兵士」と『Vu』に掲載された。

  1936年8月5日バルセロナに到着したキャパは、バルセロナで反乱軍が敗退して、労働者や無政府主義者の武装民兵が権力を掌握していた。何千人もの民兵がアラゴン戦線に向かう列車に乗り込んだ。共和国軍が大攻勢をかけたグアダルキビル高地の州都コルドバの北近郊のセロ・ムリアーノに到着した。
 1936年8月20日約5,000人の共和国軍は、反乱軍に防御されたコルドバを侵攻した。激しい戦闘が繰り広げられ、反乱軍はアフリカのモロッコ人専門兵の射撃により、共和党軍民兵に多大な死傷者を出した。約1万人の共和国軍がコルドバ州の村々に分散して、セロ・ムリアーノ村周辺は、2週間後に共和国軍は堅固な防御陣地を敷いた。
 反乱軍は工業地帯を避けて、アンダルシア地方とエクストレマドゥラ地方に侵攻した。アフリカ軍も属する約2万人の反乱軍は準備と武装が整っていた。9月5日に反乱軍もモロッコ軍民兵もコルドバの北近郊の共和国軍を壊滅した。約1ヶ月半前に初めてライフルを手にした大多数の市民や労働力者などの共和国軍民兵は、コルドバ北側のセロ・ムリアーノ村で、アフリカ軍の正規軍と反乱軍に突撃した。両軍は、大砲や機関銃などあらゆる武器で撃ち合った。多数の死傷者が出始め、兵器の撃ち合いの後、戦闘は熾烈を極めて、1936年9月5日に反乱軍は、共和国軍民兵を完全に圧倒した。

 


2021年6月1日火曜日

フィリピンのセブ島で、連合農民組織の21歳のレナート・タバサ・ザバテは、フィリピン国家警察に拉致され虐殺された。死体には約31の擦傷や打撲傷などがあり絞殺された。

フィリピンでは1988年以降に、フィリピン政府や政府を支援する勢力による政治的殺害の犠牲者が550人以上にのぼった。殺害された市民の中には、拷問を受けたり、体を切断された人もいる。乳幼児から高齢者を含む家族全員が虐殺された。女性は刺殺される前に強姦された。1986年2月25日にフェネディナンド・マルコス独裁政権からコラソン・アキノ大統領政権に転覆して、新政権が人権保護のための施策を導入した。しかし、1988年以降にフィリピンにおける超法規的処刑が執行されて虐待と虐殺が継続した。

 フィリピンのセブ島で、21歳のレナート・タバサ・ザバテが1991年9月8日に虐殺された。連合農民組織(UFO)の一員で、国家警察(PNP)の武装集団に拉致されて5日後の1991年9月13日に、セブ州マンダウエ市のカンドマンで死体で発見された。彼の死体には明らかに拷問された痕跡があった。レナートは、9月8日午後1時頃に、友人と一緒に親戚の家を出た。2人が道路を歩いていると、2人の武装した男たちが路上で近づいた。レナートと友人の背中に銃を突きつけた。その後、待機していたジープに押し込まれ、タランバン方面に走り去った。レナートはセブ市のソテロにあるPNPのセブ・メトロポリタン地区司令部に連行された。レナートの死体は、9月13日にセブ市の北約62キロにあるソゴドで小学生が発見した。被害者は電線で縛られ、自分のタオルで猿轡をされた。検死で、死体には擦傷、打撲傷など約31の傷があり、死因は絞殺であった。
 レナートの死は、セブ州の過激な農民組織に属するUFOの組織での活動と関連がある。1990年初頭、UFOなどの地域の労働者組織のメンバーは、新人民軍(NPA)支持者の疑いとして、政府軍や反共産主義の自警団から嫌がらせや脅迫を受けていた。レナートの妻は、親戚もUFOで活動して、セブ市で他の4人と一緒に国家転覆罪に問われた。1987年5月に、レナートは政府軍の捜査官に逮捕・拘留された。彼は他の2人と一緒にセブ市の南西にあるセーフハウスの非公式の拘置所に拘留された。3人は11時間後に起訴されずに釈放された。
 1988年以来、フィリピンでは少なくとも非武装の550人の市民が、フィリピン政府または政府の支援する勢力によって殺害された。フィリピン政府は、武装反対勢力を撲滅するための長期的に正当な犠牲である主張してきた。しかし、現実には、家族全員が、畑で働く村民が銃殺された。女性は殺害される前に兵士にに強姦された。最も非人間的な拷問が、殺害の対象となった人々に加えられた。社会的・経済的に不利な市民や政治的に弱い市民が最も標的になった。武装反対勢力も政治的殺害を行ってきた。犠牲者には、農村地域の住民、労働組合員、政府関係者、軍事容疑者などが含まれる。
 1986年に、フェルディナンド・マルコス大統領に対する人民の力による革命により、コラソン・アキノ氏が大統領に就任した。新政府は、民主主義を復活し、権侵害を断絶することを約束したが、1988年以降に大規模な政治的殺害が執行された。超法規的処刑は、フィリピン陸軍(PA)、フィリピン警察(PC)、統合国家警察(INP)、新設立のフィリピン国家警察(PNP)、市民武装部隊(CAFGU)の民兵部隊、市民自衛組織(CVO)、半官半民の準軍事組織、反共産主義の自警団も含まれた。
 超法規的処刑は、フィリピンにおける深刻な人権侵害である。1986年以来、何百人もの人々が警察や軍の拘束下で失踪して、殺害または拷問された。秘密裏に拘束された人々は、特に殺害や拷問の危険にさらされた。フィリピンのように、警察や軍が処罰を恐れずに違反行為を行うことができる状況では、さらに高まる。1991年には、少なくとも12人の良心の囚人が確認された。数百人の政治犯の中にはさらに多くの囚人がいて、多数の政治的抑留者が拘束されている間に、拷問や不正な扱いを受けた。1990年から1991年には、軍部と政府の幹部が、反乱や破壊行為などの政治的犯罪を含む凶悪犯罪に対する死刑制度を復活させた。労働組合員、人権派弁護士、宗教指導者、農民活動家など、特定の集団の市民が狙われた。政府や政府の支援を受けた勢力によって殺害された85人と、武装野党集団によっても数人が殺害された。
 フィリピンにおける超法規的処刑は、20年以上にわたる政府軍と武装反対勢力との激しい政治的対立を背景に発生してた。最も重要な要因は、フィリピン共産党(CPP)の武装組織である新人民軍(NPA)とモロ民族解放戦線(MNLF)である。フィリピン軍や政府当局は、人権侵害の犠牲者を反乱軍活動に対する正当な標的として、政治的殺害を武力紛争の必然的な副産物として扱った。武装反対勢力の人権侵害を指摘して、超法規的処刑を正当化して、治安部隊の人権侵害の責任を免れた。
 近年、フィリピンの都市部の人口は、農村部から都市部への移住が主な原因で、年に約6%増加している。拡大する不法占拠者のコミュニティを含め、都市部の貧困層を支援する合法的な政治組織が、1970年代から1980年代にかけて登場した。都市の組織は、強制退去に対する抵抗を組織するとともに、ゴミ収集、給水、排水などのサービスを改善するための社会運動を行った。都市の貧困層の活動家は、都市における開発プロジェクトやワークショップを推進してきた。社会活動に参加した市民は、CPP/NPAに関与したと政府軍に訴えられ、治安部隊の一員に殺害された。明確な理由なく逮捕された後に、被害者が警察に拘束されて死亡した。当局は、被害者が逃げようとした、逮捕者から武器を奪おうとした、自殺したとか喧伝する。被害者の弁護士や親族が入手した法医学的証拠は、主張に疑問を投げかけた。

 

 


 

2021年5月31日月曜日

ベトコン・ゲリラが南ベトナムの首都サイゴンから北10kmある村を襲撃して、南ベトナム人の多数の子供たちを無差別に殺害した。

アメリカ軍がベトナム戦争に参戦した直後に、ベトコンが南ベトナムの首都サイゴンから北10kmある村を襲撃した。ベトコン・ゲリラは、南ベトナム人の多数の子供たちを無差別に殺害した。

 ジョンソンがアメリカ大統領に再選された1964年11月には、南ベトナム政府では不安定な内乱が相次ぎ、南ベトナム解放戦線(ベトコン)はゲリラ戦から大規模な通常戦へ移行した。アメリカ軍はより厳しく1965年3月に、アメリカ軍はダナンに上陸して、北ベトナムに対して持続的な空爆攻撃を開始した。南ベトナム政府の指導者たちが即時攻撃を求め始めたら、南ベトナム側の改革と引き換えにアメリカ軍は北ベトナムへの空爆の見返りを提供した。アメリカ軍はラオスでの北ベトナムの侵入ルートに対する攻撃を強化して、北ベトナム沿岸でのアメリカ海軍による秘密作戦を敢行した。南方での北ベトナム軍の略奪に対する報復として、アメリカ軍と米南ベトナム軍は合同で北方への空爆をした。
 南ベトナム軍人たちの無責任な行動が、南ベトナムの安定を前提としたすべての軍事計画を頓挫させた。1964年12月24日午後、サイゴンに住む多くのアメリカ人がクリスマスイブを祝う準備をしている最中に、ベトコンはサイゴンのビジネス街に近いアメリカ軍将校の宿舎であるブリンクホテルを爆撃した。この爆撃は、ベトコンのテロ行為の中でも最も影響の大きいものの一つで、2人のアメリカ人が殺害され、アメリカ人と南ベトナム人が51人負傷した。
 1965年1月17日、南ベトナムは陸軍の徴兵制を拡大する法令を発布した。仏教徒が街頭で反乱して、内乱は瞬く間に南ベトナムの都市から都市へと広がり、フエのアメリカ情報機関の破壊や、17歳の少女の焼身自殺にまで発展した。サイゴンでの政権転覆して、一方で首都周辺の地方では激しい戦闘が続いて、ベトコンが徐々に優勢になった。武装したベトコンはサイゴン近郊の海岸沿い人口約6,000人のビンジア村を4日間占領して、約6人のアメリカ軍兵士と約177人の南ベトナム兵を殺害した。戦況を打開するためには、1月下旬に北ベトナムへの報復空爆をした。
 1965年2月7日朝に、ベトコンが中部高原のプレイク近郊にあるアメリカ軍のホロウェイ基地と滑走路を攻撃して、約9人のアメリカ軍兵士の約9人が殺害されて、100人以上の負傷者を出した。同日にアメリカ軍の約49機の戦闘機が、非武装地帯の上にあるベトコンのドンホイ兵舎を攻撃して、翌日に南ベトナム政府軍は、ベトコンのヴィン兵舎を攻撃した。2月10日にベトコンが、クイニョンのホテルを爆破して、建物の崩壊で瓦礫に閉じ込められて約23人の兵士が殺害され、多数が負傷した。2月12日に北ベトナムへローリング・サンダー作戦を決定した。3月2日に、アメリカ軍と南ベトナム政府軍の戦闘機が、北ベトナムの弾薬庫と海軍基地を爆破した。2月26日に北爆のためにダナンの空軍基地を強化して、3月8日上陸した。ダナンの到着は、アメリカ軍の軍事過程にてベトナム戦争の参戦が取り消せない段階となった。



2021年5月30日日曜日

アメリカ軍はサイパンの洞窟にいる日本軍兵士を掃討するために、海辺の崖の上から爆薬を下げて切り立った岩壁の洞窟の開口部に振り下ろした。海辺の崖の上には爆発して殺害された日本軍の狙撃手の死体があった。

太平洋戦争において、アメリカ軍はサイパンの洞窟にいる日本軍兵士を掃討するために、海辺の崖の上から爆薬を下げて切り立った岩壁の洞窟の開口部に振り下ろした。その崖の洞窟中に隠れているかもしれない日本軍兵士と民間人をも吹き飛ばして殺害した。海辺の崖の上には爆発して殺害された日本軍の狙撃手の死体があった。ほんの数分前までは、海辺でアメリカ軍兵士や民間人を狙撃していたのに、アメリカ軍の狙撃手によって日本軍兵士自らも射殺されてしまった。最も悲惨なのは、島の北端にある断崖絶壁からの飛び降り自殺であった。日本人がマッピ岬の北面の崖から飛び降りていた。アメリカ軍兵士たちが拡声器を使って、日本人に危害を加えないと説得したが、明らかに無駄だった。
 サイパン島の戦いでは、多くの日本軍兵士と民間人は、降伏も生存もできなかった。降伏するためには、銃撃と砲火の中に逃げ込まなければならない。日本人は死を覚悟して降伏することを禁じていた。アメリカ軍に降伏する者は、日本軍兵士によって殺害される危険にさらされた。最後に洞窟に生存した日本軍兵士は、大きな日本刀を持って、誰か日本人がアメリカ側に降伏しするなら、喉を切り裂くと脅した。日本軍兵士も、アメリカ軍に降伏しようとして味方に処刑されるよりは、自決を選んだ。
 残存した日本軍兵士は7月6日の日没後間もなく、全滅して玉砕する万歳攻撃のために集結し始めた。歩けない、武器を持たない、負傷したほとんどのの日本軍兵士は、日本軍司令官の命令の下で殺害された。7月7日の午前4時55分に、最初に日本軍の将校が来て、頭上で刀を振りかざし、万歳と叫び声を上げ、続いて数千人の日本軍兵士が突撃した。太平洋戦争で最大の万歳攻撃が全滅するまでに約12時間継続して、合計約4,311人の日本軍兵士が殺害された。アメリカ軍は、約406人が戦死して、約512人が戦傷した。アメリカ軍は1944年7月9日にサイパンを占領して安全宣言をして、侵攻開始から3週間以上が経過していた。
 7月7日の午前4時55分に、最初に日本軍の将校が来て、頭上で刀を振りかざし、万歳と叫び声を上げ、続いて数千人の日本軍兵士が突撃した。万歳攻撃が全滅するまでに約12時間継続して、合計約4,311人の日本軍兵士が殺害された。アメリカ軍は、約406人が戦死して、約512人が戦傷した。
 サイパンは第一次世界大戦以来に日本軍に占領されて植民地化された。約127,000人ものアメリカ軍が1944年6月15日から侵攻したとき、サイパン島には約26,000人の日本軍と約6,000人の海軍要員ならびに約30,000人の民間人がいた。日本軍兵士は約24,000人が戦死して約5,000人が自殺した。日本軍兵士は約912人の捕虜まみが生存した。民間日本人は約22,000人が死亡した。アメリカ軍は、約3,426人が戦死して、約10,364人が戦傷した。

 


 

2021年5月29日土曜日

原子爆弾による熱傷は、炸裂時に放出された閃光が直接に身体に面した箇所だけに発症した。被爆時の姿勢、方角、位置などにより、広島原子爆弾が炸裂した爆心地に熱傷面が面していた。

原子爆弾による熱傷は、炸裂時に放出された閃光が直接に身体に面した箇所だけに発症した。被爆時の姿勢、方角、位置などにより、広島原子爆弾が炸裂した爆心地に熱傷面が面していた。被爆者は、広島湾から沖合に約3kmの似島に陸軍似島検疫所に護送された。広島原子爆弾が炸裂した直後から、被爆者を収容所して救護した。8月12日からは野戦病院に転換した。被爆地における野外病院を野戦病院と呼称して、負傷者を野外で治療する大規模な移動式施設となった。その後には救護所として機能した。当初に収容された被爆者は、一部は宇品で仮手当を受けては、宇品港から海上輸送された。多くの重度の被爆者は、治療の甲斐もなく約7割は原爆死した。 
 原子爆弾による熱傷は、従来の空襲による焼夷爆弾や火災とは異なる。炸裂時に放出された閃光に直接に身体に面した箇所だけに発症した。陸軍軍医学校の調査報告では、広島原子爆弾が炸裂時に、陸軍船舶通信隊の一員は、爆心地から南に約1.8kmの千田町国民学校の校庭で整列していた。裸体あるいは半裸体で校庭に隊列を組んでいた。気をつけから休めの姿勢で、船舶通信隊の幹部からの訓話を拝聴していた。隊列の前方に対して、左側から強烈な閃光を浴びた。瞬時に、隊員はその場にうつ伏せあるいは防空壕に避難した。校庭で整列していた隊員らは、主に左側面のみに熱傷を受傷した。
 1945年8月6日に広島原子爆弾が炸裂して,日本陸軍船舶司令部である通称「暁部隊」が,重傷被爆者を救護する拠点として似島検疫所を選定した。似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容した。8月6日午前10時頃から広島市内で被爆した負傷者が、船で続々と似島に運ばれた。暁部隊の兵士や少年特攻兵等と似島の島民による必死の救護が24時間行われた。最大収容者数は約1万人余に達した。証言や発掘された遺骨数から,収容された被爆者のうち,約7割が原爆死したと推計された。1945年9月頃に検疫所職員等が馬匹検疫所構内の遺骨を集めて、千人塚の供養塔が建立された。その後,1955年7月に,似島の遺骨の約2,000体が,広島平和記念公園内の広島市戦災死没者供養塔に合祀された。
 似島検疫所は、日清戦争以後に海外の戦場から帰国してきた戦傷兵士を伝染病などの予防のために検疫した。日清戦争開戦前の1894年6月10日に山陽鉄道が広島まで延長され,日清戦争の宣戦布告後には8月4日に軍用宇品線が完成した。9月15日に大本営を東京から広島に移転して,明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,正式に遷都して広島が臨時首都となった。日本軍が広島に集結して、宇品から出兵した。広島への帰還兵も同様に多数となった。地勢的に似島が宇品と対峙する近距離にあった。似島には山水が確保できて、伝染病などを予防する検疫業務に利便性が伴った。


 

2021年5月28日金曜日

ナチス・ドイツ軍は、多数の降伏したソ連軍の捕虜を大量虐殺した。ソ連軍兵士の捕虜を、塹壕の中に追い込んでは殺害した死体が積み重なった。

ナチス・ドイツ軍は、多数の降伏したソ連軍の捕虜を大量虐殺した。ソ連軍兵士の捕虜を、塹壕の中に追い込んでは殺害した死体が積み重なった。ナチス・ドイツ国防軍の殲滅作戦は戦争犯罪であった。この時期に、クルト・ワヒナー(Kurt Wafner, 1918-2007)は、ナチス・ドイツ軍が行った残虐行為の写真を目撃しては収集した。ドイツ国防軍は親衛隊SSや警察と同様に残虐な行為を行っていた。1941年11月だけで約6,000人〜10,000人のロシア人やユダヤ人が粛清された「ミンスク・ゲットーの避難」の後に、自分の目で地獄を見に行った。割れたガラス、衣類、殺害された人々の体の部分、ラットにかじられた死んだ赤ちゃんなどが散乱した。
 クルト・ワフナーは、1939年に徴兵されて陸軍に入り、労働奉仕活動に従事した。工学系学校の入学が兵役で頓挫した。1939年夏、視力の低下を理由に兵役から解放された。その後に覆されて、フランクフルトの砲兵隊に所属して、目の病気が悪化し、事務職に就いた。1941年には、ベルリンでフランス軍の捕虜を守護すために派遣された。善良なる兵士の戦術を用いて、戦争に貢献しなかった。ナチス・ドイツ軍による東欧侵攻で状況は一変し、東部戦線に駆り出された。部隊の中で2人の共産党員に出会った。彼らはミンスクでロシア軍の捕虜を警護するために派遣された。彼らはミンスクでロシア軍の捕虜を警護するために派遣されていた。共産党員の1人が、「死んだように酔っ払った」と言い訳して、何人かの捕虜を逃がして、憲兵隊に逮捕され、行方不明となった。
 第二次世界大戦でナチス・ドイツ軍が暗転するにつれて、クルト・ワヒナーは、病人リストに載るための努力を重ねて、シーメンス社の物理学研究所で、地下活動を続けた。第二次世界大戦後に東ドイツの体制下で、彼は民兵や共産党に参加したが、無政府主義的な考えを持ち続けた。1947年に、彼は秘密警察に協力を要請されたが、これを拒否した。結核を患い、民兵を辞めた。図書館員として訓練を受けて、1950年に彼は共産党を脱退した。出版編集者、週刊連載小説を発行する「ロマン・ツァイトゥング」の責任者、ラジオ劇の作者、ジャーナリストなど、さまざまな仕事をした。常に国家の検閲の弾圧を意識した。共産党の方針に従わなかったために、ソビエト・ドイツ友好協会の出版社の仕事を失った。1989年にベルリンの壁が崩壊すると、ドイツのアナーキスト運動と接触し、自らの体験と写真を記事にした。2000年には自叙伝『My Life as a Book Lover and Anarchist』を出版し、2007年3月10日に死去した。
 ナチス国家社会主義の敗北後に、軍隊の幹部や参謀たちは「クリーンなドイツ国防軍」の伝説を集めて喧伝した。隊員たちは、ヒトラーやナチス政権とは距離を置いて、良識と尊厳を持った軍人の義務を果たした。ヒムラーのアインザッツグルッペンが行った残虐行為は、事後的にしか知らされなかった。重大な犯罪の加害者や共犯者は、自分に罪はないと語ることができた。しかし、ドイツ国防軍は、全体組織としてナチスの戦争犯罪に積極的に参加したことを認めない組織である。ユダヤ人の絶滅、捕虜の大量殺戮、民間人に対するテロという3つの大きな犯罪に軍が加担したが記録していた。国際法を逸脱し、あらゆる戦争のルールを超えて行われた戦争犯罪は、何よりも対ソ戦の残虐性を決定づけた。バルカン半島やイタリアなど、他の地域でも同じように戦争犯罪が執行された。戦争に対する政治の優位性は、もはや当てはまらない。ナス知国家社会主義者の絶滅戦争では、政治的目標と戦争目的は区別できなくなった。
 1945年以降に、何千人もの加害者と何十万人もの共犯者がドイツ国内に戻ってきた。彼らは、戦後のドイツ社会に身を置き、何が起こったのかを雄弁に語った。その後に、解明や告発への関心が薄れた、雑誌や文献でどのような霧のベールが作られた。

 

2021年5月27日木曜日

第二次世界大戦にて、北極圏に近いフィンランドの雪道で、冬季にもかかわらず、不適切なほど薄い軍服であったソ連軍兵士が積雪の上で凍りついて戦死した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、北極圏に近いフィンランドの雪道で、ソ連軍兵士が積雪の上で凍りついて戦死した。フィンランドの戦いでロシア軍の軍服は、ヨーロッパ史上で最も厳寒の約−43°Cとなった冬季にもかかわらず、不適切なほど薄い軍服であった。日光が数時間しか続かず、厳寒で雪に覆われた森で、猛吹雪と吠える風で露出した身体は凍傷になり、死体の山は数分で凍り、レンガの壁の堅固さを獲得した。凍死は、震えが止まり、低体温症に陥った後に、居眠りするまで臓器がゆっくりと停止する。死体はしばしばレンガの固さに凍りついた。
  ヒトラーのナチス・ドイツ軍がポーランド侵攻から、次の一撃を待っている間に、スターリンのソ連軍は自らの手でフィンランドに一撃を加えることにした。冬戦争と呼称されたソ連・フィンランド戦争は、第二次世界大戦の勃発から3か月後の1939年11月30日にソビエトがフィンランドに侵攻したことから始まった。約3か月半後に1940年3月13日にモスクワ講和条約で終結した。スターリンのソ連は、1939年11月30日の早朝に、戦闘機と戦車隊をフィンランドに侵攻して、その翌日の12月1日には辺境の町に、フィンランドの傀儡政権を樹立した。意外なことに、ソ連の赤軍の作戦は、電撃的なものではなかった。気まぐれな独裁者であるスターリンは、二流の軍隊と装備で、フィンランドを侵略できると考えた。約2ヶ月以上の戦闘の期間に、すべての連合軍は、約400万人の小さな国であるフィンランドが、約1億8千万人の超大国のソ連に勇敢に立ち向った。連合軍は、1940年3月31日にフィンランド軍は悲劇的な犠牲を伴って、あたかも戦勝したかのような戦況に興奮して歓声を上げた。フィンランド軍の犠牲は、約24,923人が戦死、約43,557人が戦傷、約1,000人が捕虜となった。ソ連軍の犠牲は、約126,875人が戦死あるいは行方不明、約26,4908人が戦傷、約5,600人が捕虜となった。
 連合軍には、フィンランド軍を助ける現実的な戦略を持っていなかった。ソ連の赤軍がついに本格的な攻撃が勃発したときには、フィンランド軍は、冷酷な効率性で粉砕された。1940年2月に、ソ連軍は最大の砲撃に続けて猛攻撃を再開して、カレリアン地峡で、フィンランドの防御を突破した。フィンランド軍は弾薬が少なく、危機に瀕して、3月の和平条件に合意した。しかし、ヒトラーのナチス・ドイツ軍は、この約2ヶ月間にソ連軍の無能ぶりを、フィンランドの森の悲劇的な幕間に目の当たりにした。ソ連軍の実力を過小評価して、ナチス・ドイツ軍にとってソ連に侵攻する東部戦線は悲惨な結果を招いた。冬戦争から休戦期間の約15か月後の1941年6月22日に、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を開始して、フィンランドとソ連の冬戦争が継続された。

 


 

2021年5月26日水曜日

ナチス・ドイツ軍に協力したフランス人を、1944年11月21日にレンヌで、フランス警察の銃殺隊が銃殺して、銃弾が当たった瞬間に撮影された。

ナチス・ドイツ軍に協力したフランス人を、フランス解放した後に、1944年11月21日にレンヌで、フランス警察の銃殺隊が銃殺した。銃弾が当たった瞬間に撮影された。死刑にされる直前に処刑台に縛られた紐が飛び散った。
 法的粛清(épuration légale)は、第二次世界大戦にてフランスがナチス・ドイツ軍から解放とヴィシー政権の崩壊に引き続いて行われた一連の公式裁判である。裁判は主に1944年から1949年にかけて行われ、その後の法的措置は数十年にわたって続いた。フランスは1944年8月25日にパリで最後のドイツ軍が連合軍に降伏して解放された。
 ニュールンベルグ国際軍事裁判とは異なり、フランス国内だけで行われた法的粛清であった。約30万件の事件が調査されて、ナチス・ドイツ協力者であったヴィシー政府の最高幹部にまで及んだ。半分以上は起訴されずに終結した。1944年から1951年までに、フランスの公式裁判所は、反逆罪などで約6,763人に死刑判決を下した。そのうち欠席裁判の判決は3,910人であった。実際に死刑が執行されたのは、約791に達した。膨大だったのは、国家堕落罪で、約49,723人が市民権を喪失した。
 ナチス・ドイツからの解放直後のフランスでは、野生の粛清と呼称されて、ナチス・ドイツ協力者の容疑者の有罪判決、処刑、公開屈辱暴行、拘束が相次いだ。この時期は、フランス臨時政府が先立って樹立されて、ナチス・ドイツの占領統治した。フランス解放の前後を問わず、約10,500人が判決処刑されたと推定された。司法裁判所は、約6,763件の死刑判決を下した。そのうち3,910件は欠席裁判であり、約2,853件は被告人の立ち会い裁判で判決された。このうち約2,853人の約73%はシャルル・ドゴールによって減刑され、さらに約767人が減刑された。軍事法廷では約770人に死刑執行が命じられた。解放の前後に処刑された人の総数は約10,500人で、その中には特に軍事組織の幹部や指導者も含まれた。アメリカ軍は、解放後の略式処刑の数を約8万人と推定した。1945年3月のフランス内務大臣は、処刑された人数は約10万5千人と主張した。
 当初の粛清は、1944年8月25日のパリの解放前後から、フランス市民の怒りは、ナチス・ドイツの協力者に向いた。逮捕後の刑罰には、殴打、拷問による尋問、および即決処刑が含まれた。ほとんどの協力者の女性は頭を剃られ、一部の女性は額に卍が刻まれた。ナチス・ドイツ協力者には3種類の裁判があり、1つ目は反逆罪を非合法化し、敵と情報を共有するフランス刑法第75条に違反を、刑事裁判所で判決された。2番目は、特定の法律に違反しないも、行動が愛国心がないと見なされた容疑者はは、公民裁判所で判決された。3番目は世論により、特定の有名人に対する一般市民の憤慨により、反逆罪で裁判にかけられて処刑された。 

 

 


 

2021年5月25日火曜日

第二次世界大戦の西部戦線にて、アメリカ軍歩兵は小川を渡るときに、殺害したナチス・ドイツ軍兵士の浮かんだ死体を追い越した。

第二次世界大戦の西部戦線にて、アメリカ軍歩兵は小川を渡るときに、殺害したナチス・ドイツ軍兵士の死体を追い越した。死体は、ドイツ国内の小川に仰向けに浮かんだ。1945年4月10日に、アメリカ軍は、22師団で東部への攻撃を再開した。 ハルツ山地では、ドイツ軍から深刻な組織的抵抗に遭遇した。ドイツ軍は急いで約1万人の兵士を集めて軍隊を再編成して、最初はルール地域に突入した。 それが失敗して、次いでチューリンゲン地域に突入した。 これも失敗して、ドイツ軍は、最後の小さな軍隊がアメリカ軍に包囲されて壊滅した。

  第二次世界大戦の中央ヨーロッパでの西部戦線は、1945年3月22日にアメリカ軍部隊がライン川を越えて、レマゲン地区に到着してドイツ軍との戦闘が勃発した。3月22日から23日の夜までに、アメリカ軍部隊はオッペンハイムでライン川を渡河した。ライン川を渡河すると、アメリカ軍はボンからノイスまでのライン川西岸の地域を占領した。3月26日には、アメリカ軍はワームの南北でライン川を渡河して、川岸でドイツ軍から激しい抵抗を受けた。抵抗を突破して橋頭堡を拡大した。アメリカ軍はヴェーゼルの南を、イギリス軍はヴェーゼルの北を横断した。連合国の空挺軍のパラシュート部隊は、ライン川の東側に降下した。 連合軍が、ライン川の東側に向けて侵攻して、ドイツの広大な工業地帯であるルール地方を包囲して、ドイツ軍の防衛部隊を捕獲した。ドイツ国内に向けて侵攻は継続されて、散在した地域でドイツ軍の反抗を受けた。

 ソ連軍は東部戦線からドイツ国内に侵入した。ソ連軍の捕虜から逃れようとしたナチス・ドイツ軍は西側の連合国軍に何千人も降伏した。ドイツ北部のアメリカ軍、イギリス軍とカナダ軍部隊は、ソ連軍と遭遇すると思われるラインに到達すると、侵攻を停止した。アメリカ軍は、チェコスロバキアとオーストリアへの侵攻を継続して、ソ連軍との合流を果たした。ドイツ東部のエルベ川の沿岸のザクセン州トルガウの南約20Kmの小村シュトレーラで、1945年4月25日11時25分に1人のソ連軍兵士に出会った。その後にアメリカ軍偵察隊とソ連軍親衛隊が出会った「エルベの誓い(Elbe day)」と呼称した。
  1945年5月2日に、イタリアのドイツ軍は降伏した。その2日後、アメリカ軍部隊は、イタリアから来たアメリカ軍部隊とブレンナー・パスで合流した。1945年5月9日、すべてのドイツ軍が降伏が実効となり、ヨーロッパでの第二次世界戦争が終結した。エルベの誓いは、結果的にアメリカ・ソ連連合軍の最後の象徴となり、次第に国際協調関係が悪化して、冷戦の端緒になった。

 


 

2021年5月24日月曜日

日本帝国の侵略に抵抗した三・一独立運動に参加した朝鮮人を弾圧するために、朝鮮総督府は国事犯として公開の絞首刑に処した。

日本帝国の侵略に抵抗した三・一独立運動に参加した朝鮮人などを弾圧するために、朝鮮総督府は国事犯として公開の絞首刑に処した。1910年に日韓併合された朝鮮半島において、三・一革命の独立運動が1919年3月に勃発した。朝鮮半島の各地に独立運動が発生した。独立万歳事件は約618ヶ所にて、総回数は約847回も発生した。日本帝国の軍隊、憲兵や巡査らが検挙した朝鮮人は、約587,641人にも達した。その中で、有罪判決されたのは約7,816人であった。独立万歳事件にて、殺害された犠牲者は約553人であり、負傷者は約1,499人にも達した。朝鮮人にとって、三・一独立運動は民族解放のための独立運動であり、植民地化された朝鮮人の自由を回復することでもあった。日本帝国の弾圧に対して、朝鮮人は原始的武器から投石棟による対抗暴力が増悪した。日本人巡査や朝鮮人巡査補に対して虐待や虐殺をした。朝鮮人は日本の植民地支配と日韓併合を象徴する機関を襲撃や放火した。 

 約33人の宗教指導者らが集って、現在はソウルの京城の中心部にて、現在はタプコル公園であるパゴダ公園にて、1月22日に死亡した大韓帝国の初代皇帝の李太王の葬儀に合わせて、3月3日に独立宣言を読み上げることを計画した。天道教が15人、キリスト教が16人、仏教が2人で構成した民族を代表して33人の宗教指導者は、3月1日午後に変更して、仁寺洞の泰和館にて独立宣言を朗読して、万歳三唱をした。「吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。」と独立宣言をした。その発端となった民族代表33人は朝鮮総督府に逮捕された。3月3日にて李太王の葬儀により、事前に独立宣言をする予定であったパゴダ公園には、数千人もの朝鮮人学生が集合して、太極旗を掲げてソウル市内を独立万歳の示威運動をした。3月10日には南朝鮮地域から、その後に朝鮮全土に拡大して、4月11日に上海に大韓民国臨時政府が樹立された。独立万歳と叫ぶ学生運動に、朝鮮人市民も参加して、数万人規模に達した。4月上旬には、農民から労働者など様々な階層が合流して朝鮮半島全土に暴動が拡散して、警察署・役場・小学校などが襲撃されて、虐待と虐殺も拡大した。三・一宣言以後に、約3カ月間にわたり示威運動が展開された。

 日本帝国は、独立宣言の直後は首謀者を逮捕して群衆を解散させた。軍隊の使用は朝鮮将来の統治に悪影響を及ばないなるべく区域を限定していた。3月10日以降から、軍隊の使用を積極的に区域外にも及ぼした。4月4日には、日本帝国政府は歩兵6大隊、憲兵約65人と補助約350人を朝鮮に派遣した。次第に日本帝国政府は、軍隊ならびに憲兵や巡査を増強して、三・一独立運動を厳しく弾圧した。5月末までに約200万人を超える参加者の内、朝鮮人の犠牲者は約7,509人が殺害されて、約15,961人が負傷して約46,948人が囚人となった。 

 

2021年5月23日日曜日

日中戦争にて日本軍は、中国人農民を農具で腹部を割いて虐殺した死体に、農具を刺したままで農地に串刺しにして放置した。

日中戦争が勃発すると、日本軍は偉大な強者として中国の各地で狂気で鼓舞して、戦争犯罪の汚点となった大虐殺など様々な蛮行を繰り返した。日本軍は、中国人は非征服民であるので、特別の考慮などを願う権利を無視した。日本軍は、中国人農民を農具で腹部を割いて虐殺した死体に、農具を刺したままで農地に串刺しにした。難民は泥酔した日本軍兵士に、しばしば銃剣で刺殺された。各地では、強姦、虐殺、略奪などの狂乱となった。避難民のために南京政府が設定していた国際難民区に、約20万人以上の難民で密閉された。日本軍は、強制収容所として、数千人の中国人を引きずり出して大量虐殺した。銃剣の練習台とされ、生贄として石油を浴びせて焼死させた。

 日中戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件から勃発して、日本軍は武力で直ちに中国軍を圧倒した。中国軍は、多数の予備軍まで投入して犠牲が拡大した。日本軍を、海岸戦から内陸部へ引きずり込む前に大損害を受けた。中国軍は予備軍も枯渇して、反撃すらできない戦況に陥った。中国軍には、日本軍は固定陣地においても撃退できずに、南京などの大量虐待と大量虐殺の惨劇が勃発した。日本軍は、中国軍の前線を突破して、侵攻が南京にまで達した。南京の中国軍は、上海からの退却する中国軍を収容する暇もなかった。退路は塞がり、司令部も混乱した。日本軍にとって、軍師的や経済的な価値を与える建物や工場も破壊も中国軍はできなかった。

 日本軍は、南京に1937年12月12日に入城した。南京からは約50万人以上もの住民や兵士が自ら逃避して、長い退却をした。勝ち誇った日本軍は、南京にて縦横無尽に略奪ならびに虐待と虐殺をした。唯一残存した南京城の城門を抜けて、揚子江の北岸に逃避した数百人の中国軍や文官が、日本軍の機関銃に掃討されて水没した。数百人の中国人が、下関門に伸びている陸路で掃討されて、死体が累々と積重なった。約12,000の商店と家屋が略奪して、略奪品を上海に搬送した。日本軍は、南京大量虐殺することで、南京の占領を中国人に歓迎させる秩序回復を強要した。南京にあるアメリカ・イギリス・ドイツの大使館や外国人の建物も略奪した。南京の国際救済委員会は100日間の調査にて、日本軍は南京だけでも少なくとも約42,000人を虐殺して、その中に約22,490人もの多くの婦人と子供が膨れた。上海から南京までの侵略中には約30万人の中国人が虐殺されたと推定した。南京の損害額は、約2億4600万中国ドルに掃討して、約1%が軍事損害、残りは主として略奪と放火であった。


2021年5月22日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して、22歳の女性工員が被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、大村海軍病院に護送されて原爆病死した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、22歳の女性工員が被爆した。被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、長崎県の大村市の大村海軍病院に護送されて、8月20日に入院した。第十二病舎に収容されて、顔面熱傷、左右上肢熱傷、左右膝関節熱傷、左右足背部熱傷と診断された。顔面から両上肢、両膝、両側足背に第二度の熱傷を罹患した。その熱傷の全面が、黒い色の痂皮により覆われた。その傷口のほとんどから膿汁が流出した。その膿汁の悪臭が漂っていた。

 入所して、直ちにまず破傷風の血清500CCの皮下注射をした。その後に毎日25%のブドウ糖200mlにビタミンBとビタミンCを加えて、静脈注射をした。全身状態が衰弱して、9月8日には白血球数が約4,700個/mmliにまで減少した。その後の経過の医療記録は特記されていなない。近日に原爆病で死亡したと推定された。

 原子爆弾の炸裂により放出された放射能のガンマー線が照射されて、身体の細胞を破壊された。熱傷を受傷すると必ずガンマー線の照射を受けれていた。原爆病をや誘発して血液が消化ギイされて出血素質と免疫不全となり、血便などを出して早期に死亡した。若い婦人でも、老年顔貌となり、頭髪は剥げた。可及的に一部の被爆者の惨状と写真が記録された。

長崎県大村市は、日中戦争が勃発して、大規模な海軍航空隊が新設された。戦闘機の大量製造と特攻隊などの基地になった。太平洋戦争が勃発して、海軍病院が新設された。病舎を十七棟を有する、約1,700人を収容する大病院となった。1945年8月9日に午後三時頃に、警察から長崎市内に多数の死傷者が発生した通知を受けた。直ちに救護隊を派遣した。午後五時頃に、大村市から、長崎市の死傷者は無数であり、鉄道沿線の大村海軍病院に約1,000人を収容する依頼が津市された。重度の被爆者は、長崎市の浦上から別仕立の汽車で大村駅に護送された。午後八時頃に大村駅に到着してから消防自動車などで病院まで搬送した。一度に約758人もの被爆者を収容した。さらに長崎県内の救護所の重度の被爆者が次々に大村海軍病院に護送された。


2021年5月21日金曜日

中華人民共和国で、銃殺刑が執行すめために、容疑者の囚人を膝まずかせて、囚人の背中側から、死刑を執行する中国人の警察がライフルを突きつけた。

1989年11月に中華人民共和国で、銃殺刑が執行された。容疑者の囚人を膝まずかせて、囚人の背中側から、死刑を執行する中国人の警察がライフルを突きつけた。まさに銃殺刑が執行する直前である。その後に囚人は銃殺されて死亡した。2019年は中国を除いて、全世界の死刑執行数の約86%は、イラン(251人)、サウジアラビア(184人)、イラク(100人以上)、エジプト(32人以上)、アメリカは(約22人)で執行された。ベトナムと北朝鮮などの死刑執行総数は全く不明である。

 中華人民共和国では、約10万人以上の人々が、政府にとり不都合な事由にて、裁判もされること無く拘禁や処刑された。特に、少数民族に対しては厳しく弾圧して、反政府的運動をする中国北部のカトリック教徒やチベットの僧侶も拘禁されて処刑された。1989年の民主化運動によって、中国人の学生や市民らも逮捕されて拘禁された。囚人の多くは、起訴や裁判も無く拘禁された。不合理な不公平な裁判を強要されて刑罰で拘禁された。1990年代半ばに広まった反政府活動を、相次ぐ死刑執行で牽制した。

 中華人民共和国では、政治的な弾圧により、数千人が殺害された。アムネスティ・インターナショナルの調査では、1991年だけで約1,510人以上が死刑を執行された。約1,650人が死刑を宣告された。中華人共和国の死刑執行数は、全世界の死刑執行数の合計よりも多い。正確な人数は厳重な極秘の国家機密である。1990年代に中国の国営新聞で報道された約18,194件の死刑執行数であり、1999年だけでも約1,263件だった。死刑は、中国の文学や伝統に目には目が溢れている。中国共産党の利益を忖度する司法は、大きな影響を政府から受けている。

 2006年6月、中国の上海で死刑が執行された囚人の邱宣明の死体は、処刑場から火葬場に到着した。近距離で背中を撃たれた頭は、白色のガーゼで包んでいた。衣服は約1時間前に公聴会での最後の法廷で着ていたものと同一であった。シャツには大量の血が付着して、腹は切り裂かれ、腸がこぼれ落ちていた。後頭部への銃撃により死後から数分で、臓器が摘出された。(The New York Times, March 11, 2001) 中国政府は1984年に「死刑囚の死体または臓器の使用に関する暫定規定」という通知を発表し、死刑囚は銃殺で処刑することを定めた。「次の分類の死刑囚の死体または臓器は、家族が死体の回収を拒否した場合、死刑執行前に囚人が死体を志願した場合、または家族が同意した場合に利用できる」とした。中国は、2020年にコロナウイルス関連の死刑執行を行った最初の国となった。











2021年5月20日木曜日

エルサルバトル内戦により、民族解放戦線のゲリラ部隊の若者が、エルサルバトル軍事政権の死の部隊によって殺害された。

中央アメリカ中部のエルサルバトル内戦により、民族解放戦線のゲリラ部隊の若者が、エルサルバトル軍事政権の死の部隊によって殺害された。特に農村地域での暗殺部隊と民間人への無差別攻撃を含む、すべての反政府勢力に対する軍事政府の大量虐待と大量虐殺がされた。無差別暴力がゲリラの反乱を煽り、本格的な内戦に入った。第三世界の経済が困窮すると、大多数の市民の間で貧富の格差が拡大する。エルサルバドルでは、耕作可能な土地の77%は人口の0.01%に属した。一握りの特権階級が実権を支配する。経済の困窮により、社会的不安が深刻化して、社会体制の再編成や武力鎮圧にまで深刻化する。一部の特権階級が、既得権を保持するために、社会的動揺を弾圧するために武力で市民を弾圧した。特権階級が支配する政府は先進国から多額の武器を輸入する。先進国との産物の取引により、ますます輸入が超過すると、通貨レートが悪化して、先進国から貸借を重ねる。社会的不安が極度に市民らの動揺して内乱に陥る。その内乱を弾圧するために、軍事的武器を輸入超過に至る軍事クーデターにより軍事政権が樹立する。

 エルサルバドル内戦は、1979年10月15日から1992年1月16日まで、軍事政権であるエルサルバドル政府とファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)との間で勃発したエルサルバドル内戦である。1979年10月15日に起きた軍事クーデターは、軍事政権による反クーデター派の反抗者の殺害、ゲリラによる軍事体制派の殺害を経て、内戦が始まった。1979から1981年に政府軍が支援する右翼の死の部隊によって約3万人が殺害された。1980年3月24日に人権保護家オスカルロメロ大司教の暗殺した。1981年3月15日、エルサルバドル軍は、ホンジュラス国境近くのエルサルバドル北部のカバニャス県で無差別の掃討作戦を執行した。1981年12月11日には、モラサン県エルモゾデで、女性や子供の約146人を含む約733以上の非武装の民間市民を、無差別にエルモゾテ虐殺を実行した。

 悲惨な内戦は約12年間以上継続した。アメリカで訓練された軍事政府の死の部隊(Death Squad)による意図的なテロにより民間人を標的として、カトリック教会の聖職者の暗殺、組合指導者・活動家・学生・教師の殺害、児童兵の徴用など、主に軍事政権による人権弾圧による虐待と虐殺が行われた。FMLNゲリラは1970年代に革命を増長するために誘拐、爆撃、銀行強盗を行った。1980年代には、FMLNは数人の市長、情報提供者、裏切り者を殺害した。多数の市民が行方不明になった一方で、国連はエルサルバトル内戦によって1979年から1992年の間に約75,000人以上が死亡したと報告した。内戦の結果、約100万人近くが、エルサルバドルの国内で強制的な避難、中米、メキシコ、アメリカなどに難民となった。内戦は、1992年1月16日にチャプルテペック和平合意によって終結した。

 アメリカ政府は、エルサルバドル軍事政府に1日あたり約100~約200万ドルの軍事援助を行って、必要な軍事訓練を提供して、内戦では軍事政権に加担した。サルバドル軍事政府は、冷戦下でアメリカから友好的同盟国と見なされた。1983年5月までに、アメリカ軍将校がエルサルバドル軍の幹部の地位を占めて、重要な決定を下し、内戦を操作していた。対内戦戦術はしばしば無差別に民間市民を対象とした。国連は内戦中の市民への暴力行為のうちFMLNゲリラの要因は約5%であり、エルサルバドル軍と暗殺部隊の要因は約85%と推定した。1990年から、国連はエルサルバトル内戦の和平交渉を開始して、国際連合エルサルバドル監視団を派遣した。最終合意であるチャプルテペック和平協定がメキシコシティで署名されて、内戦が公式には終結した。