2020年9月15日火曜日

日本軍と警察隊は、逃亡をする台湾原住民の幹部らを縄で捕縛して懲罰を加えて、母親と子供は父親の拘束の解放を泣いて念願した。

日本軍と日本警察隊による台湾討伐にて、トバカー方面の台湾原住民を拘束した。拘束されてから、台湾原住民らに勧告して銃器を拠出させた。一部は賛同するも、一部の反抗者は銃器の拠出を拒絶して、暴動を起こした。日本軍と日本警察隊は、暴動する台湾人に懲罰を加えた。逃亡をする台湾原住民には、その幹部ら数名を縄で捕縛して、懲罰を加えた。拘禁された台湾原住民の父親に、母親と子供らは近づいては泣きながら、捕縛を解放を念願した。

 日本軍と警察隊は、いくつかの台湾の原住民をすでに地面に横たわらせて、手は縛り、鼻と口は地面に押し付けた。また、2、3歳の子供が憂鬱な顔で地面に座って、子供を抱いた母親もいた。日本軍と警察隊は、台湾部族の原住民を一緒に束ねた。台湾原民族の一部はすでに背中の後ろに手を縛られて、地面に横たわった。日本軍と警察隊が台湾原住民を握っている間に、鼻と口は地面に押し付けられた。武器は脇に押収された。タロコ族(太魯閣族)は、台湾の東部に居住する台湾の原住民の一部族である。日本人の入植が始まるとタロコ族と日本人移民との間で紛争が勃発した。1914年に台湾のタロコ族が、日本軍に武装蜂起した太魯閣戰爭が1914年5月17日から8月28日まで勃発した。台湾島での最大の戦闘となった。日本軍と警察隊により平定された。日本軍兵士の約13,335人のうち約364人を損失して、タロコ族の青壮年の約2,350人から約3,000人のうちで犠牲者数は不明である。

 1913年度からの台湾戦略に伴う新竹(キナジー)方面の台湾討伐は、当初は日本警察隊により実施された。宣蘭の方面の渓頭や南海の台湾で相次いで反乱が発生した。日本警察隊の形勢が危機的となった。その時点から日本軍の軍隊は、これらの反抗する台湾民族を掃討する任務で急遽に台湾に向けて侵略した。日本軍の討伐隊は、台湾の宣欄の濁水と渓上に主力を集結した。日本警察隊は協力して、台湾討伐する日本軍に従った。両部隊は台湾民族に対して向かう所敵なく、ガオガンの険要を衝いて中央山脈の一帯の険峰を蹂躙した。キナジー方面に肉薄して、ついで新竹と桃園方面の日本警察隊と連携した。予定方面の討伐を完了した。さらに日本の台湾討伐隊は、新たにシカヤブ・サオラ方面にも躍進して、台湾原住民を屈服して討伐を終結した。約60日余りの戦闘の期間で、日本陸軍と日本警察隊の両部隊が協力して、約80地域の台湾民族を制圧した。台湾原住民の武器などを押収して、北部の台湾原住民の大部分を征服した。




2020年9月14日月曜日

20歳のアメリカ軍兵士はケサン近郊のジャングルで北ベトナム軍に殺害されて、生存した兵士らがその死体だけを必死で護送した。

ベトナム戦争が激化していた1968年2月25日に、20歳のアメリカ軍兵士はケサン近郊のジャングルの中で北ベトナム軍に待ち伏せられて殺害された。生存したアメリカ軍兵士らが集まって、その死体だけをジャングルの下草を引こずりながら必死で護送した。

 2月25日朝に、アメリカ軍の約40人の小隊は、ケサン戦闘基地の外でパトロールをしていた。北ベトナム軍の待ち伏せに誘い込まれて襲撃された死体。約40人うちで約24人が殺害された。そのジャングルの中から前哨基地まで護送できた唯一の死体となった。 

 ケサンのアメリカ軍部隊が、前哨基地の付近で待ち伏せされた攻撃された。若いアメリカ軍兵士はすでに戦死して、彼の部下の兵士らは絶望的になった。彼らは死体の手首と足首を持ち上げて、ジャングルから引きずりながら、顔をしかめて前哨基地まで持ち帰った。彼らの一人は、将校の腹部の傷の近くに出血した布を見下ろした。茂みからすぐ後ろのアメリカ軍兵士は、ヘルメットなしで死体を護送した。

 撮影した戦場カメラマンは、写真を出版社に送信した後に、ケサンに戻ろうとした。1968年3月6日にダナンからケサン行きの航空機に乗り換えた。ダナンで航空機には、兵士と装具を載せて、戦場のカメラマンを含めて約40人が乗員した。航空機がケサンに近づいて墜落して、機内の約40人全員が死亡した。戦場カメラマンの写真は、3月18日に「ケサンの苦しみ(The Agony of Khe Sanh)」と表題して、ニューズ・ウィークに掲載された。

 ベトナム戦争にて、1968年から1月21日から7月9日まで、北ベトナムとの国境付近でケサンの戦いが勃発した。 北ベトナム軍が包囲して、ケサンの戦闘基地を巡って攻防をした。アメリカ軍は、北ベトナム軍の包囲を解除した後に、ケサンの戦闘基地を爆破して南ベトナムに撤退した。アメリカ軍は、ケサンの戦闘基地で約6,000人のうち、約274人が戦死して、約2,541人が戦傷した。北ベトナム軍は約17,200人のうち、推定で約1,602人の死体が認められて、犠牲者は約5,550人と想定された。

 


2020年9月13日日曜日

第一次世界大戦において、セルビア軍兵士とセルビア人が大退却する途上で、積雪に転倒した仲間のセルビア人の死体を見守った。

第一次世界大戦において、セルビア軍兵士とセルビア人が1915年12月に、大退却するグレート・リトリート途上で、セルビア軍兵士が積雪に転倒した仲間のセルビア人の死体を見守った。1915年10月に、オーストリア=ハンガリー軍、ドイツ軍、ブルガリア軍がセルビアへ共同侵攻を開始した。その砲撃と武力で非常に激しい侵略となり、1915年11月25日からセルビア軍部隊は、領土を放棄して、モンテネグロ、そして最終的にはアルバニアへと撤退することを決定した。

 約40万人ものセルビア軍兵士と民間セルビア人が一緒に撤退した。天候は悪化して、道路は泥だらけで、特に冬期は、特にアルバニア山脈を通過するセルビア軍にとって非常に過酷な退却となった。 食料と水が不足し、病気も蔓延した。約77,455人以上ものセルビア軍兵士と約160,000人の民間セルビア人が、アルバニアを経由しての退却中に、主に飢餓、喉の渇き、病気、低体温症で死亡したと推定される。不毛のアルバニア山脈を通って退却するセルビア人に想像を絶する恐怖をもたらし、第一次世界大戦でも最大かつ最も悲劇的な惨事となり、アルバニア・ゴルゴダと呼称された。

 厳しい焼きと厳寒の中で、退却する道も失ったアルバニア山脈に数週間も徘徊して、残存した死体が散乱する恐怖の痕跡を残した。1916年1月18日にわずか約12万人のセルビア軍兵士と約6万人の民間セルビア人のみが、アドリア海からギリシアのコルフ島に避難できた。上陸したコルフ島でも約11,000人以上のセルビア人が病気、栄養失調、戦傷で死亡した。第一次世界大戦中に、セルビア人は約1,247,435人が死亡して、総人口の約28%を失った。そのうち約402,435人のセルビア軍兵士が、戦傷や伝染病で死亡した。



2020年9月12日土曜日

原子爆弾の爆心地に近いほど、母体内で原爆放射線に被爆した胎児は、胎児期から乳児期までの死亡率と知的障害の発現率が増加した。

原子爆弾が炸裂時に、母体内にいた胎児も被爆して、様々な影響を受けた。その中で被爆によって、多くの妊婦が死亡して、胎児の死亡、胎児の流産も認められた。妊娠中に被爆して出産した子供は、体内被曝児と呼称された。母体内で被爆した子供の人数は不詳である。1960年にABCC(原爆傷害調査委員会: Atomic Bomb Casualty Commission)は、体内被曝時の人数は、広島で2,310人、長崎で1,462人で、合計3,872人と報告した。

 長崎市内の爆心地から0〜2km以内の妊婦96人と4〜5kmで被爆した妊婦の113人とを比較して経過観察した。 0〜2kmで被爆して放射能症が発症して妊婦は、胎児死亡率は約23.3%、新生児の死亡率は約26.1%、知的障害の発現率は25%であった。4〜5kmでは胎児死亡率は2.7%、新生児の死亡率は3.6%、知的傷害の発現率は0%であった。爆心地の近いほど死亡率と発現率が急上昇した。

 長崎原子爆弾の爆心地から0〜2km以内で被爆して急性放射能傷害があった妊婦のうちで、7人が胎児の死亡、6人は新生時以降に死亡、残る16人の内でのうち4人に知的障害を伴った。知的障害は特に小頭症を合併した。頭囲が平均値に比較して、2標準偏差以上に 狭小であった。3標準偏差以上に狭小であるほど、知的障害が重度で、社会生活機能が低下した。

 広島原子爆弾の胎児被爆児では小頭症が48例と長崎原子爆弾で約15例を認定された。知的障害を伴う重度の小頭症は、約3〜15週間に被爆した胎内被爆時に多く発現した。被曝線量の増加に、発現率が相関した。特に広島原子爆弾では、小頭症児の母親が比較的に低線量閾値でも発現した。広島原子爆弾による被爆した初期の放射線量に中性子線が多いことが想定された。



2020年9月11日金曜日

ドニエプル川の戦いで、ドイツ軍に虐殺されてた子供の死体がドニエプルの東岸に流れ着き、ソ連軍兵士が見守った。

ドニエブルの戦い(Battle of the Dnieper)で、ナチス・ドイツ軍は1943年の夏にドニエプル川を難攻不落の戦線として、ソ連軍の反撃を阻止しするも敗北した。スターリングラードの戦いとクルスクの戦いで、ドイツ軍の戦争の敗北の流れに反転した。1943年の夏のウクライナにてクルスクの戦いでの敗北した後に、ドイツ軍は最終的な戦争の主導権を失って、急速に西側に撤退を始めた。すでに8月11日はクルスクのバルジでの戦闘が終結する前に、バルト海からアゾフ海への東部の防衛網の設置を命じられた。
 ソビエト連邦の主要な河川であり、最長約1,400kmで幅が最大18kmにも達するドニエプル川流域を東部の防壁とした。ドイツ人が西側に足場を固めると、ソ連軍は難攻不落の水障壁の前で立ち往生して巨大な犠牲を伴う。ソ連軍もクルスクの勝利後に、可及的に早期にドニエプルに移動を命じられた。クルスクの戦いの3日後の8月26日に、ソ連軍はスモレンスクからアゾフまで約750kmの戦線に大規模な攻撃を開始した。ドイツ軍はドニエプル川を西側に渡って、すべてのものを急いで避難させ、その地元住民を強制連行した。ドイツ軍の連行されたドニエプル川の地元住人の一部は虐殺されて、ある子供の死体がドニエプルの東岸に流れ着いて、ソ連軍兵士が見守った。
 ソ連軍による9月24日から空挺部隊の約4,000人以上がドイツ軍上に投下されて、分散して連携も取れず膨大な犠牲を伴った。一部の空挺部隊は、ドニエプル河に飛び込み溺死した。ドニエプル川を渡河すると、川の水が血で赤くなり、何百人もの兵士が死亡した。ソ連軍は、ドニエプル河に、何千人もの兵士が釣り船、ボート、即席のいかだ、樽、または水泳やボードや庭のベンチにしがみついて、反対側の河壁に渡り始めた。橋頭堡を守るソ連軍は、軽装備で弾薬も食料も枯渇して甚大な犠牲を伴った。10月中にドニエプル川の西岸で激しい戦闘が継続した。赤軍は構築できたウクライナの橋頭堡から侵攻して、11月6日にキエフを侵略して、12月20日にドニエプル川はソ連軍が占領した。1943年8月から12月のドニエプルの戦いは、両軍で最大約400万人の兵士が参戦して、第二次世界大戦中だけでなく、人類全体の歴史の中で最大の戦闘の1つとなった。ソ連軍は、約348,815人が戦死あるいは行方不明、約937,162人が戦傷した。ドイツ軍は、約41,907人が戦死して、約51,161人が行方不明、約157,888人が戦傷した。

 

2020年9月10日木曜日

湾岸戦争にてアメリカ軍によって射殺されて、大量出血をしたイラク軍兵士の死体が砂漠上に放置されていた。

湾岸戦争において1991年2月24日からのアメリカ軍が地上戦により攻勢した。通称「テキサスハイウェイ」上にてアメリカ陸軍第6連隊によって射殺されて、大量出血をしたイラク軍兵士の死体が砂漠上に放置されていた。
 湾岸戦争の中で残忍な虐殺が、クウェートの西約32キロのハイウェイ80で勃発した。1991年2月26日から27日の夜に、アメリカ軍は撤退するイラク軍を破壊する命令を受けた時点で、イラクは停戦を宣言した。その後にも、バクダットに向けて何千人ものイラクの兵士と民間イラク人が殺害された。アメリカ軍等の戦闘機が、非武装の車列と車両の移動を阻止して攻撃して破壊した。攻撃が終わった後に、膨大なイラク軍兵士の虐殺された死体や焦げて焼死した死体が、砂漠の道路上に散乱した。この道路は「死のハイウェイ」と呼称された。バスラに通じる別の道路であるハイウェイ8に沿ってもイラク人が殺害された。
 この悲劇的な虐殺事件の前夜の2月26日午前2時に、イラク外相がラジオでソ連の停戦提案を受け入れた。国連決議660に従って、全てのイラク軍はクウェートからの撤退を表明した。2月26日午前からイラク軍はクウェートから撤退を開始していた。しかし、アメリカ軍は「イラク軍が撤退する証拠はなく、イラク軍は戦闘を続けている。」と停戦を拒否して戦闘を挙行した。2月28日には、イラクのフセインはラジオで撤退が実際に2つの道路に沿って始まったと報道した。アメリカのブッシュはフセインの発表を残酷な欺瞞と喧伝した。
 アメリカ軍は、戦場を撤退するイラクの降伏の受け入れを拒否した。爆撃は2月26日の真夜中から始まった。最初に、アメリカ軍とカナダ軍の爆撃機がコンボイの前後を爆撃して高速道路の交通を遮断して攻撃した。アメリカ軍は、イラク人の誰もクウェートから撤退させるなと命令された。その結果、高速道路を走り抜ける車両はすべて追跡され、個別に破壊された。アメリカ軍に降伏して武装解除されたイラク軍兵士でさえ、機関銃で殺害された。その日に生き残ったイラク人兵士は一人もいなかった。イラク軍は、避難にはクウェートで押収された観光バスの大隊が使用された。
 「トラックの運転台は爆撃されて、地面に詰まった。爆撃の熱からフロントガラスが溶け、巨大な戦車が粉砕された」「撤退したイラク軍兵士の虐殺は、1949年のジュネーブ条約に違反して、その条項IIIは、戦闘以外での兵士の殺害を禁じている。」「帰国するイラク軍兵士を攻撃することは戦争犯罪である。」「ベトナム戦争でさえ、停戦後の虐殺はなかった。」「虐殺事件の最も厄介な極秘であった。」

 アメリカ軍は、イラク軍が自発的にクウェートからの撤退ではなく、血なまぐさい戦闘で追放されたと喧伝した。高速道路を爆撃した理由は、イラク軍の軍事装備を破壊するように命じられた。国境を越えてイラクに戻るのは、無実のイラク人だけではない。クウェートで民間人を虐待と虐殺して、捕まる前に国外に退去した強姦犯、殺人者、凶悪犯の集団であったと正当化した。1991年2月28日にアメリカ軍等は勝利宣言をして、敗北したイラク軍に対する連合軍の攻撃を終了した。 



2020年9月9日水曜日

北朝鮮の朝鮮革命博物館は、朝鮮戦争でのアメリカ軍による残忍な虐殺を展示している。

北朝鮮の朝鮮革命博物館(Korean Revolutional Museum, 조선혁명박물관)には、朝鮮戦争において、アメリカ軍による残忍な虐殺を展示している。北朝鮮軍がアメリカ軍と交戦して一時的に北方に撤退している期間に、アメリカ軍は朝鮮人に対して大規模な虐待と虐殺をした拷問の武器と多数の証拠写真を展示している。

 朝鮮革命博物館は、北朝鮮の平壌に1948年8月1日に設立された。金日成を称賛する朝鮮半島の革命運動を大規模に展覧している。北朝鮮議会である最高人民会議に隣接している。朝鮮革命博物館には、1860年から現在まで、特に日本帝国の朝鮮併合に対抗する抗日の朝鮮独立運動からアメリカ軍に対抗した朝鮮戦争までの北朝鮮の歴史を展示している。朝鮮革命博物館では、特に日本軍とアメリカ軍は、ナチス・ドイツ軍以上の残虐性を強調している。但し、朝鮮戦争における韓国軍の残虐性や中国志願兵の貢献は黙示している。

 「エンゲルスはかつてイギリス軍を最も残忍な軍と呼んだ。 第二次世界大戦中、ドイツのファシスト軍は野蛮なイギリス軍を打倒した。 人間の脳は、ヒトラー主義者によって犯されたものよりも悪魔的で恐ろしい野蛮を想像することができなかった。しかし朝鮮戦争では、アメリカ軍の残虐はヒトラー主義者をはるかに上回っていた。 キム・イルソン(KIM IL SUNG, 金日成, 김일성)」と金言名句として朝鮮革命博物館に掲げている。朝鮮革命博物館では、特に日本軍とアメリカ軍は、ナチス・ドイツ軍以上の残虐性を強調している。

 「優れた軍事戦略家である金日成最高司令官元帥は、朝鮮戦争の第3フェーズの戦略的政策を確立した。38度線の南に敵軍を追い込み、絶え間なく絶滅する戦いを通じて敵軍を弱体化し、最終勝利した。この戦略により、朝鮮人民軍(KPA)は1950年10月下旬とから1月上旬に敵軍の甚大な挫折に対抗して、アメリカの「感謝祭」(11月第4木曜日)の前に、アムノック川の流域における「電撃」作戦で侵攻するアメリカ軍を頓挫させた。KPAは、一時的に敵軍の占領下にあった朝鮮半島の北半分のすべての部分と、南半分の一部の地域を解放する大きな勝利の結果であった。」と、金日成と朝鮮人民軍の勝者を絶賛している。但し、朝鮮戦争における韓国軍の残虐性や中国志願兵の貢献は黙示している。

 

2020年9月8日火曜日

済南事件において、日本軍兵士は何人もの農民と子供たちを冷酷な銃剣で刺殺した。

済南事件は、1928年5月3日から日本軍により大規模な中国人の虐殺が勃発したため、5月3日の虐殺とも呼ばれる。日本軍兵士は何人もの農民と子供たちを冷酷な銃剣で刺殺した。日本軍は、満州に対して第二次北伐する国民革命軍の遠征を済南で妨害した。日本軍は海外の日本人を守るという名目のもと、日本軍を済南、青島、および交通路に、4月26日から第二次山東出兵をして5月2日に済南に到達した。北伐する国民革命軍は1928年5月1日に済南を占領した。
 両軍は済南での略奪と暴挙で衝突するも、5月3日から4日で済南での市街戦は終結した。日本軍は5月3日に国民革命軍によって設立された山東東交渉公署に軍隊を派遣して職員約16人を殺害した。日本人の犠牲は、約10人の死者と在留日本人は約12人が犠牲となった。国民革命軍は、すでに5月6日には城外に逃避して北伐を続行していた。

 5月9日から10日かけて、約15,000人もの日本軍はすでに撤退した済南に侵攻して、5月9日から10日の総攻撃により済南を壊滅した。済南の中国人は約3,600人が殺害されて、約2,400人が負傷した。それに対して、日本軍の犠牲は死者約25人と負傷者は約157人であった。5月11日に日本軍は、済南を占領した。さらに5月9日には日本政府は第三次山東出兵を指令した。済南虐殺は、中国と海外に衝撃を与えて国際的な非難で紛糾した。




2020年9月7日月曜日

朝鮮戦争の長津湖の戦いから、アメリカ軍が撤退するヘルファイヤー峡谷に、北朝鮮軍と中国人民志願軍の膨大な戦死体が散乱した。

アメリカ軍は、朝鮮半島の北東端で中国国境付近の人工湖である長津湖(Battle of Chosin Reservoir)で、1950年11月27日に初めて中国人民志願軍と衝突した。突然の奇襲を受けたハガルリ基地を全面撤退しながら体制を立て直した。朝鮮戦争の線局が不利となり、アメリカ軍司令部は、コドリ基地を経てフンナム港から38度線以南への全面撤退が決定した。アメリカ軍は、この時点で約7,000名以上の損害を出した。氷点下の気温、雪に覆われた山々、凍った道路、風にさらされた断崖が、あらゆる戦闘に襲った。

 12月3日からアメリカ軍は、ハガルリ基地からコドリ基地に向けて撤退した。約80Kmの間は とても撤退路が狭小であり、北朝鮮軍と中国人民志願軍には絶好の待ち伏せ地点となるヘルファイヤー峡谷(Hell Fire Valley)があった。アメリカ軍は、危険を伴いながら、コドリ基地を目指して退却を始めた。ヘルファイヤー峡谷で、双方は激烈な戦闘となった。撤退路を確保しないと、壊滅する危険も伴った。アメリカ軍が、山岳の北朝鮮軍と中国人民志願軍に下方から這い上がって突撃を敢行した。ヘルファイヤー峡谷には、北朝鮮軍と中国志願軍の膨大な戦死した死体が散乱した。アメリカ軍は撤退しながらも、北朝鮮軍と中国志願軍は山岳地帯からの攻撃を受けた。苦闘してコドリ基地に12月4日に到着した。その後にさらに南方に撤退して、12月11日にフンナム港に到着した。その途上では海からのアメリカ軍の艦砲射撃で、北朝鮮軍と中国志願軍の犠牲者は増大して、中国国境から遠方となり補給が枯渇して、追撃は停止した。アメリカ軍はフンナム港を破壊しながら、輸送船で38度以南に向けて撤退した。
 長津湖の戦いで、主にアメリカ軍は約1,029人が戦死して、戦病死は約7,338人、戦傷者は7,338人、行方不明が約4,582人と、犠牲者は約17,843人にも達した。北朝鮮軍と中国軍志願軍は、戦死傷者は約19,202人、戦病死が約28,945人と犠牲者は約48,147人以上にも達した。

 


2020年9月6日日曜日

重症の被爆者をトラックの荷台に横に並べて、富国生命の周辺の緊急救護所に搬送され、重度な火傷にはガーゼや布で応急処置がされた。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて広島市内で炸裂した。生命保険を取り扱う富国生命の広島支店の富国館のビルが残存して、その周辺に緊急救護所が設置された。1945年8月12日には、特に重症の被爆者をトラックの荷台上に横に並べて、富国生命の周辺の緊急救護所に搬送された。重度な火傷に対して、ガーゼや布で応急処置をされた。救護隊員は搬送の準備をしながら、心配そうに見守った。

 広島富国館は、広島市袋町に1936年に建設された地上7階、地下1階のビルであった。その当時では、広島市内で最も高層ビルであった。ビルには、保険会社である富国徴兵保険や、レストランの精養軒などが入館していた。1945年6月、NTT西日本の前身である広島電信局が地下から地上5階までを使用した。空襲警報の伝達や電報、電話業務をしていたために、日本軍部が頑丈なビルに移るよう要請した。爆心地が約330mの富国館の建物の内部は焼き尽くされたが、外部は倒壊しなかった。強烈な爆風によって、鉄骨の柱が大きく湾曲した。原爆資料館では、広島原子爆弾で電信局では約117人中で約107人が被爆死して、約10人が生存したと推定された。強固な鉄筋ビル内部で、熱線の直射を避けて、致死量の放射線被爆を免れた。戦後は富国ビルは、改修を経て1982年に解体されるまで使用されて、同じ場所にフコク生命ビルが建設された。

 近隣の袋町国民学校は木造校舎は全焼して消滅したが、広島富国館が防御壁となり、コンクリート3階の西校舎は外形のみを残して内部の被災を免れた。被爆直後から、袋町西校舎は避難所と救護所となり、階段室の壁面には被爆者の消息を知らせる多くの伝言が残っている。1999年に被爆した西校舎を建て替える時に、壁に記された文字が発見された。2002年4月に、袋町小学校の西校舎の一部が、広島市立袋町小学校平和資料館が開設された。


2020年9月5日土曜日

太平洋戦争で日本軍兵士が、アメリカ軍の捕虜になった恥辱から舌を噛んで自殺し、アメリカ軍の軍医が舌の手術をした。

太平洋戦争において日本軍兵士が、1944年6月にアメリカ軍に敗北して捕虜になった恥辱から、自殺をするために舌を噛んた。アメリカ軍の軍医が命を取り留めるために舌を手術した。アメリカ軍に捕虜になる直前に日本軍兵士は、「英雄としての死」あるいは「生き恥さらす」 しか選択肢がなかった。大本営は、日本軍兵士に投降して捕虜になる選択肢を消滅して、自殺する自決を厳命した。捕虜になることは、最も恥辱であると洗脳された。日本人捕虜が帰還した場合は、軽蔑されて死刑に処されて、さらに家族にも危害が及ぶと喧伝された。日本軍兵士は容赦なく突撃して、捕虜を拒否して死守した。

 アメリカ軍には、排日主義から日系アメリカ人を強制収容して、緒戦では日本軍兵士を報復のために憎悪して虐待と虐殺をした。太平洋戦争中に捕虜になった日本軍兵士は、わずか約35,000人であった。多くの日本軍兵士は命令される集団で捕虜となるよりも、戦死を選択した。但し、孤立して生存すると生命の保持を渇望した場合があった。第二次世界大戦にて、ドイツ軍の捕虜が約945,100人、イタリア軍の捕虜が約496,000人と比較して皆無に等しい。ソ連軍の場合は、1945年8月8日に満州に侵入してから、約60万人もの日本軍兵士を捕虜にした。抑留と監禁されて、重労働と飢餓から約6万人も死亡した。

 江戸時代の武士道の精神では、降伏よりも切腹による自害を選択した。明治になると1882年に「軍事勅語」が発布された。日本帝国に対する忠誠を絶対化した。国体の保持のために、軍事教育によって戦死を賛美して、奉安殿を設けて御真影を収めた。戦死すれば、「兵として最もすばらしい死にざまである」と名誉になった。1941年1月8日に「不名誉よりも死を選ぶ」とする戦陣訓を公布して、戦争思想を流布した。大本営は、太平洋戦争では、全員が戦死する玉砕を最終通告した。日清戦争では、日本人捕虜は一人のみであり、日露戦争では、日本人捕虜はわずか約1,626人であった。1864年から赤十字国際委員会(ICRC)が、「戦争時の捕虜に対する扱いを人道的にする必要がある」とするジュネーブ条約を提唱した。日本帝国は1886年に加盟して批准した。日本軍内では俘虜は厳罰の対象であり、1929年のジュネーブ条約の俘虜の待遇に関する条約を批准しなかった。

 

 

2020年9月4日金曜日

ポーランドのカテキス地域で、ウクライナ反乱軍により、左から3歳の男子、真中は5歳の女子、右は2歳の男の子が残酷に虐殺された。

1943年5月7日および8日に、ポーランドのカテキス地域の住民が、ウクライナ反乱軍(UPA)により虐殺された。無差別の虐殺による子供の犠牲者は、左から3歳の男子で、腕と足を骨折されて殺害された。真ん中は、5歳のポーランド人とウクライナ人の女子で、腹は鍬で引き裂かれて殺害された。右は、2歳のポーランド人で、銃剣が身体に突き刺さっていた。真ん中の女子は、父親がポーランド人だったために殺害された。母親も殺害された。その夜には、約28人のポーランド人と約2人のポーランド系ウクライナ人の家族が残忍に殺害されて、約25か所の農場が焼失した。

 1943年6月2日には、ウクライナ反乱軍はハービー村のポーランド人住民に対して恐ろしい虐殺をを犯した。多くの子供や女性を含む約250人が、今日は存在しないハービー村に攻撃されて殺害された。 ウクライナの右翼組織であるバンデライト(Banderites)は、かつてのウクライナの友人さえも殺害した。 虐殺の後には、ポーランド人の遺体は墓から掘り取り出され、野畑に散布された。

 バンディライトは、1929年に結成されたウクライナのファシストであるウクライナ民族主義組織(OUN)であった。ソ連に敵対して、ウクライナ人による死の部隊を結成して、ナチス・ドイツと協調して、集団的虐殺を実行した。体系的に民族浄化を拡大するために、反ユダヤ主義、人種差別主義、ファシスト主義をウクライナ地域な喧伝した。様々な残虐行為に関与して、犠牲者は少数民族を含めたユダヤ人やロマであった。1941年6月30日、ナチス・ドイツがウクライナを占領すると、OUNはリヴァで独立宣言をするも、拒否されて弾圧された。1943年から1944年には、OUNから派生した過激組織のウクライナ反乱軍(UPA)が、ポーランドのヴォルヒニアと東ガリシアで、ウクライナ民族浄化のために、女性や子供も含めた約10万人ものポーランド人を大量虐殺した。UPAによるポーランド人に対する残虐行為は、無差別に無制限に実行された。犠牲者は、年齢や性別を問わず、日常的に虐待を受けて虐殺に至った。

 


 

2020年9月3日木曜日

大東亜戦争にてビルマのミッチーナ飛行場から、連合軍のC-47輸送機が離陸した際に、射殺された日本軍兵士のうつ伏せの死体が飛行場に放置された。

大東亜戦争において、1944年5月にビルマのミッチーナ飛行場から、連合軍のC-47輸送機が離陸した際に、射殺された日本軍兵士のうつ伏せの死体が飛行場に放置された。左側には、別のC-47輸送機が炎上した。その約5分前に4機の日本軍のゼロ式戦闘機に攻撃された。アメリカ軍と中国軍も厳しい戦闘と気候や環境に苦闘して、連合軍の空軍の支援の下に総攻撃を開始したが、日本軍の防戦と連合軍の誤爆で大混乱するも、次第に日本軍は圧迫されて撤退した。
 日本軍は1942年5月8日に、ビルマを征服中にミッチーナを占領した。ミッチーナはビルマを北から防衛するための日本軍の主要な航空基地であった。ミッチーナ飛行場は、日本の戦闘機がアメリカ軍が中国に輸送する飛行機を攻撃した。ミッチーナは、日本軍の作戦地域の南端にある重要な輸送拠点であった。主要な航空基地ミッチーナの包囲戦は、第二次世界大戦の連合軍のビルマ戦略に関連して、1944年5月17日から8月3日に勃発した。連合国軍と中国軍はミッチーナを日本軍から奪還して占領した。北ビルマと雲南省の古くから道路を開通して、インドから中国への供給ルートを大幅に効率化化した。
 ミッチーナの包囲戦は、ジャングルの山腹での戦闘が激しく、物資が不足し、地形が困難で、伝染病が蔓延して、ミィッキーナに対する作戦は、過度の死傷者のため、特に中国軍は戦闘部隊として壊滅した。ミィッキーナ飛行場の占領により、古いビルマと中国を結ぶ道路が開通した。中国軍兵士の犠牲者数は、ビルマへの中国介入によ全戦闘の中で最も高かった。日本軍兵士は約2,400人が犠牲となった。連合軍はアメリカ軍兵士は約272人が戦死、約955人が戦傷、約980人が行方不明と中国軍塀は972人が戦死、3,184人が戦傷、約188人が行方不明であった。
 日本軍は、8月3日から撤退して、すでに約5,000人は約1,500が残存した。日本軍は深夜の闇に紛れて、粗末な丸木舟や筏を使って川を渡り始めた。日本軍兵士たちに、「生きる」渇望が蘇った。我先へと渡し舟に群がる兵士が続出した。「恥を知れ。お前たちはそれでも神軍の兵隊か!」と上官が怒鳴る。それでも殺到して、船に手を掛ける日本軍兵士たちの手指や手首を、上官は日本刀で斬り落とし、射殺された兵士が続出した。阿鼻叫喚の後に、約650人だけが生存した。


2020年9月2日水曜日

ナイジェリアのビアフラ内戦による飢饉で、約7,000人の子供たちが集まっては食物に手を伸ばし、日常で餓死に直面していた。

ビアフラ戦争が、1967年7月6日から1970年1月12日まで、ナイジェリアのイボ人を主体とした東部州が、ビアフラ共和国として分離・独立を宣言して戦争が勃発した。ナイジェリア内戦による厳しい飢餓と、栄養失調から来る病気、北部州における虐殺などにより、少なくとも150万人を超えるイボ人が死亡した。特にビアフラ共和国は、1968年の食糧危機により飢饉が悪化して、日常で餓死に直面していた。

 病院、宣教所、道端でも、どこでも餓死に至る。オビンツェ西約130kmにあるオクパラ宣教所では、夕暮れ時になると約7,000人の子供たちが集まり、食物に骨のような手を伸ばした。付近には餓死した子供の死体が散乱した。ケンド・ヘニー牧師は泣きそうになる。子供たちは毎晩に小さなスープ、牛乳、豆を求めて宣教所に来ていた。「今は何も残っていません。これは子供たちの戦争です。彼らはすべての運命から見捨てられた。」ビアフラの救援隊員は、政治と欲望に阻まれたナイジェリア内戦により、大量の食料の空輸のみが、蔓延している飢餓からビアフラの人々を救うことができると信じた。

 夜間に着陸して封鎖された飛行機に乗って、ナイジェリア東部の飢饉の地域に、食物と薬のほんの少しの物資が到達した。バケツの中の一滴である。ラゴスのナイジェリア政府は、飛行機がビアフラに直接に飛ぶことを、毎日拒否していた。最前線の北にあるエヌグからビアフラへの陸上通路が必要であった。ビアフラの死者数は、世界教会協議会のハーマン・ミドルコープは、「飢饉は次第に加速している。それは絶望的な状況である。私が言えることはそれだけです。」ビアフラ南部のこの泥だらけの小さなタウンオビンツェ付近の道端では、8人の年配の女性が、雨の中で動かずに座ったままで、衰弱して歩行困難となった。友人の腕に抱かれている9人目の女性は死亡した。しかし死亡した彼女の友人は、彼女がまだ生きているかのように話し続けた。子供の死を1日あたり約200から400人に達した。 
 赤十字国際委員会は1968年7月29日に、ビアフラへの医療および食料供給の慈悲深い飛行機が、技術的な障害により中止したと発表した。ナイジェリアの反乱地域の領土に上陸するための手配が困難であった。その直前に委員会はチャーターされた4エンジン飛行機をジュネーブから派遣して、ナイジェリア沿岸のスペインの島であるフェルナンドポーから、包囲されているビアフランへのシャトル便を続けた。1967年4月から援助活動を開始してから、合計16便が飛行したが、人道支援機関のロジャー・ギャロピンは、フェルナンドポーからの緊急救援物資の空輸は、常に一時的なものであると強調した。 

 


 

2020年9月1日火曜日

日露戦争の遼陽会戦の後に、日本軍兵士は塹壕の中で殺害された日本軍兵士とロシア軍兵士の多数の死体の処理をした。

日露戦争の遼陽会戦(Battle of Liaoyang)の後に、日本軍兵士は塹壕の中で殺害された日本軍兵士とロシア軍兵士の多数の死体の処理をした。遼陽会戦は、日露戦争で満州、朝鮮半島などの権益を巡り、1904年8月24日から9月4日まで勃発した。両軍の主力がはじめて衝突した戦闘であった。日本軍は約12万5,000人で攻撃して、ロシア軍兵士は約15万8,000人で防御して、合計約28万の兵が衝突して、日本軍には初めての近代陸軍による本格的会戦であった。犠牲者は日本軍兵士は約5,537人が死亡して、約18,603人が戦傷した。ロシア軍は約3,611人が死亡して、約14,301人が戦傷した。9月4日にロシア軍が撤退して終結した。

  日露戦争にて戦死に関する日本軍兵士の文章に、戦場での詳細な死の陰惨な記述があった。多くの場合、戦闘後の虐殺という言葉で表現された。日本軍兵士たちはしばしば彼らの仲間の死体が処分された方法に衝撃をを受けた。 1904年5月23日に、九里城周辺で激しい戦闘を目撃した歩兵中隊長の山本松太郎は、「一人残されたロシア兵の死体を片付けた者は誰もいなかったし、彼らを埋めるためにすぐに掘られた穴でさえ、野良犬によって掘られて掃除された。その光景は見るには恐ろしすぎる。谷間に埋められていた死んだ日本軍兵士の死体もそれほど深くなく、手足が突き出ていた。」
  ロシア軍兵士の死体は埋葬されたが、日本軍兵士の死体は火葬された。特に、中沢一太郎の日記は、内密の移送部隊であり、死体の整理を任されることが多かったため、悲惨な場面で一杯であった。1904年12月初旬に203高地を攻防した後に、医師らも大虐殺に驚嘆した。「山頂に向かって丘を登るとき、野蛮さを言葉では説明できない。見たことがなければこれを想像することは不可能である。私はかなりの数の戦いを経験し、かなりの数の死体を見てきたが、203高地の攻防ほどの大虐殺に遭遇するのは初めてである。涙が出ないほど悲惨である」
  道徳的な嫌悪感が戦時中に日常的に起こり、兵士たちはすぐに残忍になり、恐ろしく暴力的な多数の死を目にする。澤田は内密な死者の埋葬の事実を説明した。「すでに一度は埋葬されたが、犬や鳥によって掘り出された敵の戦死者の死体を埋葬しなければならなかった。ジャガイモのように頭を並べて埋葬した。臭いので鼻が落ちそうであった。目はすべて抜けていて、穴が空いていた。臭いがひどいので、土で覆うのは本当に大変であった。1つの穴に約8人から9人を埋めた。少しの水で手を洗ってから、夕食をとり寝た。」秘密裏な戦争の残忍化は、上記の澤田の説明のように、彼が日常の現実の恐怖に対処することを可能にした。同志の多くがほとんど精神的な浄化として日記に書き続けた。
 中澤の日記には、死んだ兵士の記念碑の建設に関与した。1905年4月7日に、中沢と仲間は、戦死者の埋葬地の地図に従って兵士の埋葬地を見つけるように命じられた。彼らはこれらの死体を火葬し、司令部から配給された箱に灰を保管した。彼らは2日後に掘り始めた。彼らは死体のひどい死臭によって妨げられた。次の数日の間、記念碑の道路を敷設して、記念碑の彫刻に取り組み、また死体を掘り続けた。