2020年6月24日水曜日

太平洋戦争にて連合軍が、ニューギニア島のアイタペからウェワクのドリニュモール川を渡河した日本軍兵士を狙撃して殺害した。

太平洋戦争にて、アメリカ軍とオーストラリア軍の連合軍が、1944年6月からニューギニア島のアイタペ地域から東部のウェワク地域に侵攻した。日本軍が7月10日からその間のドリニュモール川を渡河しようした日本軍兵士が、連合軍により狙撃されて殺害された。日本軍兵士の死体がジャングルの草木に横たわった。アイタペ地域から、自滅する攻撃をした日本軍は、おびただしい約9,000人もの戦死者の死体を残して撤退した。撤退した道筋は、白骨街道あるいは銀蝿街道と呼称された。連合軍の犠牲はは、戦死者が約上わ人と戦傷者が約2,550人を伴った。
  第二次世界大戦中、日本軍は1942年12月にオランダ東インド諸島の一部であったニューギニア北部のアイタペ地域を占領した。アイタペは残りの地域とともに、日本軍によって占領された。アメリカ軍とオーストラリア軍が1944年4月22日からのアイタペの戦いでアイタペを奪還して、アイタペを基地にして日本軍に対する主要な反撃をした。アメリカ軍はアイタペの占領で完了して、その後にウェワクに進軍は進軍しなかった。駐留した日本軍は、アイタペの戦闘。補給不足、病気による弱体化から、脅威も戦略的利点はほとんど無くなった。1944年半ばにアメリカ軍は、オーストラリア軍がアイタペを引き継ぐことで合意をした。アメリカ軍はフィリピンの再獲得に備えて、太平洋戦争を継続した。アイタペ島の日本軍は、約35,000人の兵士で構成された。4月24日までに、約22,500人のアメリカ軍は上陸して、日本軍の2つの飛行場を占領した4月24日までに、2人の死者と13人の負傷者を失った。日本軍は、約525人が戦死した。4月28日と29日の戦闘で、アメリカ軍は3人の戦死と2人が戦傷して、日本軍は約90人が戦死した。
 オーストラリア軍は1944年11月1日からアメリカ軍と交代して、アイタペから東部のウェワクに侵攻して、孤立した日本軍兵士の残党を掃討して、ウェワクは1945年3月16日に陥落した。オーストラリア軍は、戦死者が約442人と戦傷者は約1,141人の犠牲を伴った。日本軍は約9,000人以上が殺害されて、約269人が捕虜となった。さらに内陸部に撤退した日本軍兵士には、栄養失調と飢餓から人食肉事件が発生するなど地獄の戦場となった。とオーストラリア軍当局は、オーストラリア島のニューギニア島から、日本軍兵士を完全に排除するために、終戦の8月15日を過ぎた8月31日まで掃討した。太平洋戦争の終結後に、アイタペからウェワクへの侵攻は、太平洋戦争には全く寄与せずに、不要な戦闘であったことが結論付けられた。オーストラリア軍は、日本軍の領土から追放と軍縮のための戦闘であったと主張した。


2020年6月23日火曜日

第一次世界大戦末期のフランスで、多数の黒人労働者部隊は、戦場で殺害され腐敗した兵士の死体を埋め戻す作業を割り当てられた。

第一次世界大戦の末期になるにつれて、フランスに在留していた多数の黒人労働者部隊は、戦場で殺害されて腐敗した兵士の死体を埋め戻す作業を割り当てられた。黒人労働者部隊は、数千人もの戦死した兵士の分解された死体を集めて埋め戻すという厄介な仕事を担当した。黒人労働者部隊は、黒人兵士の死体を発掘したときに、黒人兵士の死体には、切断された死体の痕跡を発見した。当然のことながら、リンチの噂はアメリカ軍部隊内に急速に広まった。アメリカ議会上院は、黒人兵士の死体切断の主張を調査するために特別委員会を任命した。多数の黒人退役軍人に取材訪問をした。特別委員会は約1,000ページの報告書をまとめた後に、特別委員会は裁判または軍法会議なくして黒人兵士の処刑はなかったと結論付けた。特に黒人労働者部隊には戦場から装備を回収し、有刺鉄線を取り除き、塹壕を埋めて、不発弾を取り除き、パリ近郊のパーシングスタジアムの建設を補助させた。多くの黒人労働者部隊に、1919年の夏までフランスに滞在させた。
 白人兵士にはより快適なベッドを利用できるように、病院のベッドを軍用ベッドに配置転換した。白人医師や白人看護師はドイツ軍の捕虜を含む白人戦傷者の要望に対応した後になり、初めて黒人兵士らの治療を受けれた。その結果、一部の黒人兵士は数日間治療を受けなかった。一部の救護病棟では、黒人兵士は暖房のない場所に詰め込まれ、すべての白人が出てくるまで食物を待つ必要があった。特に残酷な看護師は、黒人兵士に自分のベッドを作るように命じた。看護師の満足にベッド作りが実行されなかったとき、黒人兵士が涙を流すまで、看護師を怒らせた。黒人兵士は最終的にアメリカに護送されるまでに十分な健康状態に回復すると、黒人兵士は通常、白人が回復して病院船に乗るまで待たなねばならなかった。アメリカに向けて出発した最後のアフリカ系アメリカ人は黒人労働者部隊であった。
 しかし、人種的な情勢を考えると、黒人兵士を特別報告書で納得させることはできなかった。戦争の残骸を片付けるために取り残された黒人兵士のための唯一の救済は、YMCAが運営する休日のリゾート施設であった。黒人兵士は、戦場を過ごした4か月ごとに7日間の猶予があった。十分な娯楽施設やレクリエーション施設があった。戦争の成果としてホテルの部屋が空室であったフランスのリゾート地は、YMCAと熱心に協働した。1918年2月15日に、エクスレバンに最初の休暇区域が開店した。最終的にYMCAは、フランスで19の休暇区域を運営した。しかし当初は、休暇の対象となる兵士には、旅費と宿泊費を自分で支払う必要があり、その結果として黒人兵士はリゾート区域から実質的に排除された。
 しかし、1か月以内なら陸軍が財政的責任を負い、特別列車が黒人兵士をリゾート区域に輸送し始めた。YMCAの秘書が黒人兵士に会い、近くのホテルに配属した。戦闘中に、エクスレバンの休暇区域は白人と黒人の兵士の両方に対応したが、黒人の行楽客は少人数のままであった。黒人兵士らは第一次世界大戦が休戦中になった後に、初めて列車で到着した。
 休暇中の黒人兵士の数が増えると、休暇中の白人兵士とリゾートで働いている白人のYMCA秘書が、アフリカ系アメリカ人の滞在に反対し始めた。エクスレバンで休暇を過ごしている約1,200人の黒人兵士は、その人種差別に耐えれなく、YMCAに訴えて、アフリカ系アメリカ人専用の休暇区域を要求した。フランスの黒人YMCA幹事を監督していたモアハウスカレッジのジョン・ホープは、当初は別の休暇エリアの作成に反対した。軍隊におけるアフリカ系アメリカ人の長年の人種差別は必要悪とした。人種差別が存在しない場所で、人種差別を始めることは受け入れられなかった。しかし、ホープが黒人兵士の安全を脅かす人種事件の報告を受け取ったとき、彼はしぶしぶ黒人YMCA秘書が配置された隔離した休暇区域の設置を承認した。


2020年6月22日月曜日

日中戦争での爆撃後に、中国軍兵士らの死体群が荒野に散乱した。弾丸が集中砲火されて、山野が荒廃して破壊された。

日中戦争の爆撃後に、中国軍兵士らの死体群が荒野に散乱した。弾丸が集中砲火されて、山野が荒廃して破壊された。日中戦争の戦場には日本軍は、弾薬、ガス爆弾、煙爆弾、そのほかの武器も装備した。日本軍の殺害、専制政治、囚人の虐殺や絶滅から個々の日本軍兵士の犠牲に至るまで従軍日記に記録されていた。燃える家、殺人、強盗、強姦の内容は至るところで発生した。従軍日記にほとんど表現が乏しく、無関心に毎日記録していた。
 中国を侵略した旧日本軍に従軍した元兵士である日本人の荻島静夫の従軍日記の資料が2004年に四川省で発見された。中国国家文化遺産管理局が1937年8月から1940年3月までにつづった日記を翻訳した。完全に揃った従軍日記が、初めて中国で発見された。文章を裏付ける写真、荻島静夫の部隊番号、使用した日本軍が配布した記録帳の日記、朝日新聞のニュース写真と日本製カメラなどに対応する物的証拠が揃った。日中戦争の戦場における日記の目的や保管方法は不詳である。「荻島静夫日記―中国を侵略した日本軍の戦地の実録」が2005年8月12日に、人民文学出版社から人民網日本語版が刊行された。約20万字に及ぶ7冊の従軍日記を翻訳し、日記に付随する荻島静夫らが撮影した写真208枚とともに整理して編集した。日記と写真の原本は現在、四川省の個人収蔵家の樊建川さんが所有する。
 日中戦争が、1937年7月7日に北京西南方向の盧溝橋事件が勃発して開戦された。荻原静夫は、1937年8月23日の23歳に神戸に招集された。1937年8月13日に第二次上海事変が勃発して、1937年9月に上海派遣軍第101師団として上陸した。第二次上海事変では、荻原静夫は死体埋葬班として一人で約1,000体も火葬した。1937年10月6日から10月8日には、日本軍の前線部隊には約200人程度が残存して、犠牲者の死体は上海市外に泥だらけの畑に散乱した。10月26日に日本軍が大場鎮を占領して、上海をほぼ制圧した。第二次上海事変の勃発から日中全面戦争に突入した。日本軍の上海派遣軍第101師団は、1937年8月に上海の上陸時には約5,000人いたが、1940年月に帰還できたのはわずか300人であった。


2020年6月21日日曜日

広島専売局前で、広島原子爆弾が炸裂した当日に、頭に包帯を巻いて警察の巡査が広島市内の民間市民に被災した証明書を発行した。

広島専売局前で、広島原子爆弾が炸裂した当日の1945年8月6日午後4時ごろ、頭に包帯を巻いて警察の巡査が広島市内の民間市民に被災した証明書を発行した。宇品警察署から派遣された藤田徳夫巡査は、机と椅子を持ち出し、ペンを握り、自ら窓ガラスで被災した頭部の負傷を三角巾で包帯していた。非常食の乾パンの配給を受けるため罹災証明書を被爆した広島市民に記載した。その他に駐在した約5人の巡査が戦時非常用の乾パンを配給した。爆心地から南南東に約25,000mで、御幸橋の東詰で広電宇品線と比治山線の分岐点(現:皆実町六丁目電停の付近)の広島専売局前の御幸橋の周辺のは橋上は被爆者で満杯であった。
    御幸橋西詰では、救護所が急設された。海軍呉鎮守府救護班が駆けつけて、被災者の救護に当たった。重度の被爆者は、トラックで宇品町の陸軍病院に搬送された。宇品に搬送される被爆者は、血まみれの重態な被爆者で満杯となった。護送された大半の被爆者は、広島湾の沖合の似島に救護船で搬送それた。暁部隊と呼ばれる陸軍船舶部隊から近郊からの警防団らが、当日に被爆死した死体を、荼毘に焼却して火葬した。疎開跡や空き地などに集積して、大量に油をかけて火葬された。
 1952年9月29日に、残存した5枚の写真が、Life Magazineに"First Pictures — Atom Blasts From Eyes of Victims"というタイトルで掲載されました。

2020年6月20日土曜日

日本警察局が満州国のチチハルで、東北抗日義勇軍の趙尚志を虐殺して、頭部の周辺だけを検死して、死体は付近に投げ捨てた。

日中戦争において、日本関東軍が占領して1932年3月1日に建国した満州国のチチハルで、日本警察局が東北抗日義勇軍の司令官である34歳の趙尚志を、1942年2月12に虐殺した。日本警察は、趙尚志の頭部の周辺だけを検死して、死体は付近に投げ捨てられた。日本秘密警察が東北抗日連軍の情報を収集して、東北抗日運動をする満州市民を迫害して弾圧した。日本秘密警官が、東北抗日義勇軍の内部に侵入して、趙尚志の所在を探った。1942年2月12日に東北抗日義勇軍が日本警察署と襲撃した。東北抗日連軍に潜伏した秘密警察に射撃されて重症を負わされた趙尚志は、日本警備隊が包囲して虐殺された。趙尚志は、農民から工業学校で革命思想に感化されて、1925年2月に共産党に入党した。1926年から2回逮捕と投獄されて、1931年9月18日に満州事変が勃発した九・一八事変で脱獄してから抗日逃走の指揮を取った。
 関東軍は、満州国の強制収容所として遼寧省の郊外で撫順戦犯管理所を1936年に設置した。主に中国人の抗日戦犯と愛国主義者などを監禁した。抗日中国人や満州住民らを討伐して、監禁して虐殺した。中国人農民を一箇所に集める郷屯合併して、監禁と虐殺して満州を弾圧した。趙尚志を虐殺した日本警察の署長であった田井久二郎は、日本人戦犯として1945年に極東シベリア地区の捕虜収容所に監禁された。1950年7月14日に中国はソ連から約969人の日本人の戦犯として引き取った。国民党の戦犯約1,300人も監禁された。遼寧省の市郊外の撫順戦犯管理所に連行して監禁した。田井久二郎は、1956年7月に日本人戦犯として懲役15年を判決されるも、わずか約1年間以内の1957年5月の満期の相当前に釈放された。日中戦争中で中国を侵略して、中国人に対する多大な虐待と虐殺を日本人戦犯は容疑された。中国では国際法に違反する犯罪行為の成立に従事した日本人は誰でも、個人の責任を負って、捕虜ではなく、戦犯として処罰された。釈放されず監禁されて生存していた日本人戦犯は1964年3月から日本国土に引き揚げられた。



2020年6月19日金曜日

チュニジアでジェラズ暴動がチュニスのジェラズ墓地で勃発し、反逆罪のチュニジア人の2人ががギロチンで断頭する公開死刑された。

チュニジアのジェラズ暴動が、首都チュニスに最も著名な墓地があるジェラズ(Jellaz)周辺で1911年11月に勃発した。チェニスには、約15万人のチュニジア人と約4万人のイタリア人が密集して競合と緊張が生じた。フランス当局が、イスラム教徒に信託されたジェラス墓地の保持のために、フランス人による墓地の登録をイスラム教徒のチュニジア人に強要した。フランス当局がジェラズ墓地を採石場にして、鉄道の延長や路面電車の建設することを、チュニジア人は神聖な地域エリアに侵入する試みと抗議した。
 1911年11月7日に約2,000人ものチュニジア人が、ジェラズ墓地に集結した。約150人の警官が群衆に向けて発砲して、約15人のチュニジア人を殺害して解散させた。チュニジア人は、イタリア軍の陣地を包囲して、警棒で武装してイタリア軍を襲撃した。約1,000人のイタリア軍兵士が、チュニスの街路を占領した。11月8日には、イタリア人とチュニジア人とが衝突した。1人のアラブ人と5人のイタリア人が殺害された。1912年6月3日に刑事裁判が始まり、6月30日に判決された。囚人となった35人のチュニジア人は反逆罪を宣告された、その反逆罪により、7人のチュニジア人に死刑が宣告された。バブサドゥーンで2人がギロチンで断頭する公開死刑が執行された。
 イギリスは、1870年までの中世では、うさぎを盗んでも、40シリングや6ペニーの博打、文書の偽造など232もの犯罪をすると「死ぬまで頚からぶら下がる」絞首刑の死刑を宣告された。西洋ではますます拷問と処刑の方法は多様で残酷となった。中世では、死刑執行は専門の死刑執行人によって処刑された。中国では、囚人をできるだけ長く意識を保ち、死ぬ直前まで苦しませた。中東のイララム諸国では、姦淫罪は頭部の打撲死、公開で断頭、剣で刺死や目を刺す、舌を切るなど残酷であり、親族は死刑執行の費用を支払わされた。死刑執行人は市民と同じ権利もなく、社会階層の最下位で、屈辱され、家族も差別と隔離された。
 フランス革命の間だけは、死刑執行人は尊敬される社会の一員になった。1794年6月10日から7月27日までに、フランス革命裁判所は、約1,375をギロチンで死刑して断頭した。死刑執行人は公民権を剥奪されるも、多額の賄賂を搾取していた。ギロチンは1977年までフランスで断頭の死刑に使用された。
 19世紀から、多くの国で囚人に体罰と拷問が禁止されて、刑務所の職員に委託された。しかし、死刑執行人の死刑だけでは残存した。多くの国で、公開の死刑が禁止されて、最後の公開処刑はイギリスは1867年のロンドン、1936年のアメリカケンタッキー州で執行された。ドイツの死刑執行はワイマール共和国では死刑の宣告がわずかであり、ナチス・ドイツは1939年の第二次世界大戦後に膨大に死刑を執行した。ドイツの最後の死刑執行は、西ドイツは1949年、東ドイツは1987年に廃止した。


2020年6月18日木曜日

カンボジア内戦では、カンボジア王国の政府軍は、反政府運動の共産主義の兵士らの首切りした頭部を戦勝の賞金として持ち帰った。

シアヌークの命令で、カンボジア軍の指揮官であるロン・ノルは、1960年代に捕獲されたクメール・セレイ(Khmer Serei)の反政府運動に対して公開の処刑する組織を結成した。 その後のカンボジア内戦では、カンボジア王国の政府軍は、反政府運動の共産主義の兵士らの首切りした頭部を戦勝の賞金として持ち帰った。ロン・ノルは、1960年にカンボジア王国軍の最高司令官に任命された。政治と司法の腐敗と経済的困窮の不平と不安から各地の農村の農民が蜂起した。カンボジア王国軍と国家警察は、1967年から1968年にサムラウト(Samlaut)地域の農民主導の蜂起を弾圧して、虐待と虐殺した。政府軍兵士と警察は、反逆者からの切断した頭部を首都プノンペンに送還すると賞金を報奨された。空爆から掃討により、サムラウト地域の約14,000人以上の農民らが山林に逃亡した。
 クメール・セレイの起源は、第二次世界大戦後のフランス植民地時代のカンボジア国境内で独立活動派の武装勢力であった。第二次世界大戦中の日本占領下では、カンボジア独立運動はほとんど成功しなかった。第ニ次世界大戦後にカンボジアはノロドム・シアヌーク王のもとで1953年に独立した。クメール・セレイは、主にタイと南ベトナムの国境地域で反政府活動をした。アメリカ合衆国は、クメール・セレイはシアヌーク政権を打倒できるように、アメリカ合衆国の中央情報局(CIA)からの資金提供を受けていた。
    クメール・セイは、タイとベトナム国境の付近のクメール・クロム地方の独立を求めて、1960年代に南ベトナム解放戦線との衝突が頻発した。シアヌークに対する武力闘争を維持するために、クメール・セレイの反政府非正規軍を組織した。主にベトナムのメ​​コンデルタのベトナム南西部のクメール・クロム地域の少数民族派の間で徴兵して、秘密の反シアヌークのラジオ放送を行った。カンボジア政権はクメール・クロムの反乱を深刻に捉えた。その疑惑の後に、シアヌーク王子がカンボジア統治中に、約1,000人ものクメール・セレイの容疑者を逮捕して処刑した。1963年には、右派の反政府民兵組織であるクメール・セレイの幹部であるブリーブ・イン(Preap In)らが、シアヌーク王子と直接に独立の交渉した。その交渉の失敗に終わり、カンボジア政府はクメール・セイの幹部を逮捕して1964年1月に公開の死刑が執行され、シアヌーク政権は、1965年にアメリカからの支援の拒否を示唆した。ロン・ノルは、1970年3月18日に国外の北京を訪問したシアヌークを、軍事クーデターで打倒して、アメリカ合衆国はロン・ノルを支援した。



2020年6月17日水曜日

トルコ軍兵士は、1996年にクルド人の民族主義組織であるクルディスタン労働者党(PKK)のクルド人をシリア北部で殺害した。

トルコ軍兵士は、1996年にクルド人の民族主義組織であるクルディスタン労働者党(PKK)のクルド人をシリア北部で殺害した。高原に軍用ヘリコプターが待機して、トルコ軍兵士がクルド人の死体を検死した。紛争の大部分はトルコ南東部に対応する北クルディスタンで起こった。トルコ軍は、クルド人地域に対して頻繁に地上爆撃と空爆などをした。
 クルド人の少数民族は、トルコ、イラン、イラクなどの各地域に移住している。湾岸戦争により、PKKはイラク北部に拠点を設けた。トルコ・クルド紛争が勃発して、トルコ政府とトルコ軍はクルド人に抑圧と弾圧をした。クルド人主義組織であるPKKは、クルド自治区の代弁者となった。PKKは1984年以降に、トルコの抑圧と弾圧に対する蜂起を表明した。クルド人が少数民族として公式に認められたのは1991年であった。1999年までにPKKとトルコ軍との紛争で約37,000人が死亡した。1999年にPKKの指導者と幹部が逮捕されて以来、PKKの反乱は一時的に減少した。2002年以降に、トルコは国内の教育と放送におけるクルド語の使用の制限を緩和した。
 PKKは、1978年11月にフィスの村にて、クルド人学生集団によって設立さた。1979年にはその設立を公表した。PKKのイデオロギーは、もともとは革命的な社会主義とクルド人の民族主義の融合であり、独立した共産主義者でもある。トルコにおいて資本主義下でクルド人は抑圧された。クルド語は、ドレス、民俗学および名前への使用はトルコの州によって禁止された。1980年の軍事クーデターでは、クルド語は公私生活で公式に禁止された。トルコの少数民族のクルド人の抑圧に対する不満の高まりからもPKKに結集された。PKKは設立以来に、トルコの治安部隊との武力衝突に関与した。PKKがクルド人の蜂起を宣言した1984年8月15日までは、本格的な蜂起は勃発しなかった。1984年からトルコはクルド人民間市民の組織的処刑、拷問、強制退去、村の破壊、任意の逮捕、クルドの関係者の失踪または殺害が発生した。
 トルコ軍は1992年から1995年の間に、クルド軍の陣地を奪い、PKKを支持する田舎の森林破壊して、約3,000以上のクルド人の村を破壊し、少なくとも約200万人の難民を引き起こした。トルコ軍によって焼却、爆撃、砲撃され、村全体が消滅した。武力紛争は1999年9月1日まで継続し、2004年6月1日に再開された。2011年夏の後、大規模な敵対行為の再開により、紛争は現在も継続している。紛争が始まって以来、クルド人は約4万人以上が死亡して、そのほとんどがトルコ軍の治安部隊によって殺害されたクルド人の民間市民であった。2007年5月に、PKKのメンバーは、トルコ、イラン、イラク、シリアのクルド人の統括組織であるクルディスタンコミュニティユニオン(KCK)の設立を支援した。
 2012年夏には、トルコとPKKとの紛争は、シリア内戦と並行して激しく変化した。2013年に、PKKはトルコとの停戦協定を宣言して、一時的にイラク北部のクルディスタン地域に撤退した。シリアはクルド人にいくつかの都市の統治をPKKのシリア支部であるPYDに譲った。シリアはクルド人に対してISIS(イスラム国)および他のイスラム集団に対して武力衝突させた。トルコは、クルド人を武装させたシリアに抗議した。2015年7月24日から25日に、トルコ軍はイラクの疑わしいPKK基地となったシリアのクルド地域を爆撃した。2015年12月に、トルコ軍はトルコ南東部のクルド地域で、数百人の民間市民を殺害して、数十万人を追放し、住宅地で大規模な破壊を引き起こした。クルド軍による報復テロがトルコ国内で多発した。トルコ軍は、2018年1月にシリア北部、3月にイラク北部、2019年10月にシリアのクルド人地域に侵攻した。
 2015年6月に、トルコはイスラム国(ISIL)の兵士が国境を越えてシリアのクルド人都市コバニを攻撃することを許可した。クルド人はトルコを非難して、2015年7月以降に停戦が崩壊したとき、トルコ政府によるPKKに対する暴力的な弾圧が行われ、その逆も同様であった。2016年3月にPKKは人民統一革命運動に参加して、トルコ政府を打倒することで同盟した。2018年のイラクのPKK戦闘機に対するトルコの軍事行動と、2018年1月と2019年10月の両方で、シリアはクルドの政治団体(PYD)と軍(YPGとYPJ)に対する暴力的な攻撃をした。


2020年6月16日火曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにより、アメリカ軍からの火炎放射器の攻撃で、日本軍兵士が顔面などが丸焦げになって焼死した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにより、アメリカ軍からの火炎放射器の攻撃で、日本軍兵士が顔面などが丸焦げになって焼死した。アメリカ軍は地下壕などに潜伏する日本軍兵士に対して、猛烈な火炎放射器を浴びせて掃討した。日本軍兵士が潜伏すると想定した地下壕や洞窟の入口から火炎放射器により火炎を放射した。アメリカ軍は、硫黄島に潜伏する日本軍兵士を地下壕や洞窟に追い詰めた。アメリカ軍兵士は、火炎放射器で坑道を焼き、火炎の届かないには発煙弾を投げ込み、煙によって出入口を重機で塞ぎ、上部に削岩機で穴をあけてガソリンを流し込み、火を放つ「馬乗り攻撃」で日本軍兵士を掃討した。
 1945年2月19月に硫黄島に上陸した数日後から、アメリカ軍海兵隊員は約30kgもの火炎放射器を背負って、日本軍の守備隊に向かって這った。日本軍からの激しい機関銃の射撃で動揺して撤退もした。機関銃の発砲が後ろから跳ね返っり、トーチカの中が煙幕となった。日本軍のコンクリート製のトーチカを1つずつ占領した。掘り起こされた砦の上に登り、通気口から発砲し、内部の日本軍兵士を火炎で殺害した。銃剣で突撃する日本軍兵士を焼却した。火炎放射器が燃料を使い果たすと、補充にアメリカ軍の前線に戻り、再び戦闘に入った。アメリカ軍が硫黄島の海辺から尾根の頂上まで前進するのに苦闘した。高い地面に着くと、何kmにも渡って一掃し、茂った葉の中で偽装し残存した日本軍兵士を掃討した。火山灰は砂よりも柔らかく、約5mもの高さの傾斜があり、多くの戦車、アムトラック、その他の車両が停滞した。
 グアムの戦いから1945年2月19日にポークチョップの形をした小さな島である硫黄島に上陸した。以前の太平洋での戦闘とは異なり、日本軍は米軍を比較的に無頓着に上陸させた。しかし、激しい雨のように襲撃されて、海兵隊は下船する場所を見つけることが不可能となり、海岸に沿って多くの海兵隊は固着された。塹壕を掘るのは、大理石に穴を掘るよであった。アメリカ軍は、1945年2月19月に硫黄島に上陸してから、大規模な犠牲者を出した。硫黄島の戦いの犠牲者は、約23,000人の日本軍兵士はほとんど絶滅して戦死者が約1万8000人に及び、捕虜約1,000人であった。約110,000人ものアメリカ軍兵士のうち戦死者は約7,000人、戦傷者は約22,000人で、戦死傷者数は約10,000人も上回った。
 アメリカ軍の勝利は疑いの余地がなかった。アメリカ軍は圧倒的な数的優位性と完全な空中優位性を有して、硫黄島を遮断して補給や増援の到着を妨げた。日本軍はおそらく硫黄島で勝てないことを知っていた。しかし、占領をできるだけ難しく、費用と時間のかけさせた。日本軍は降伏する機会を拒否して、ほとんどは死ぬまで戦闘した。一方、アメリカ軍は硫黄島を戦闘機の基地として、また爆撃作戦の日本本土から戻るB-29の避難所となった。ようやく硫黄島に足場を確保すると、鋼鉄製の棒で補強し、空中砲撃を受けながら、コンクリートのガードポストから戦闘した。火炎放射器は、敵陣まで約15m以内に近づく必要があった。火炎放射器の解体部隊の他のすべての火炎放射器の隊員は戦死あるいは戦傷した。


Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 2020年 6月16日にBlogger投稿数は1,400回に達した。

2020年6月15日月曜日

中国国民党の警察が、上海の四・一二事件で逮捕された共産主義の容疑者の女性学生を残酷に拷問して死刑を執行した。

中国国民党(KMT)の警察が、1927年4月12日の上海クーデター(四・一二事件)を引き起こした共産主義の何百人もの容疑者が逮捕され、拷問を受けて、虐殺された。逮捕された女性学生の囚人を残酷に拷問して死刑を執行した。4月13日には、中国国民党からの弾圧に抗議した共産主義の労働者や上海市民らの約20万人のデモに対して発砲して約100人を虐殺した。4月14日までの3日間で、約3,000人が虐殺されて、約5,000人が行方不明となった。中国国民党は「清党」と中国共産党は「四・一二革命政変・惨案」と喧伝した。その後、江蘇、浙江などの地域で「清党」の名のもとに、大規模に共産党員などを虐殺した。広東省だけでも約2000人余りが犠牲になった。中国国民党は共産主義者を弾圧するホワイトテロを執行して、共産主義者を逮捕して裁判もなく死刑を執行した。中国国民党と中国共産党の内戦が勃発した。
 中国国民党軍は、4月12日の早朝に、何百人もの武装集団と秘密諜報員が、青い短パンと、白い布と黒い作業腕章にを身に包んだ。多数の車によりフランス租界から飛び散り出撃した。午前1時から5時まで、上海の各地区の労働者の監視隊員を襲撃した。多数の軍警察が労働者の監視隊員の周りを事前に待ち伏せした。抵抗する労働者らを内部紛争の名目で銃器を強制的に押収した。約120人以上もの労働者が殺害されて約180人が負傷して、約2,700人以上もの武装した監視隊員が逮捕された。外国の軍事警察が約1,000人以上の共産主義者と労働者を捜査して逮捕して、中国国民党の軍警察に引き渡した。
 中国国民党軍の弾圧に抗議するために、上海の各地区の労働者らは約10万人を動員してデモを4月13日に挙行した。デモが上海の宝山路に近づいたときに、中国国民党軍は機関銃で銃撃して、その場で約100人が射殺され、多数の負傷者と約200人以上もの労働者が逮捕された。大雨により、上海の宝山路には、川のように流血した。上海南市でも、デモ行進が中国国民党軍により射撃されて数人が殺害された。4月12日から15日までの3日間で、上海で約300人以上が虐殺され、約1,000人以上の共産党員が逮捕され、約5,000人以上が亡命した。 
   中国は第一次世界大戦に参戦し、ロシアの革命思想が中国に浸透し、1919年5月4日に学生運動と大衆運動が勃発した。5月4日運動は、袁世凱の親日政府に対する北京学生運動から名付けられた、学生や知識人の全国的な政治的解放運動となり、伝統的な儒教の拒絶、公民権および国家内の社会改革を要求した。中国共産党(CCP)は、五四運動のマルクス主義研究集団から1921年に登場した。 ソビエトの援助により、CCPは強力な勢力となった。
 上海クーデターからの中国国民党軍による絶滅作戦を回避するために、中国共産党軍は中国の北部に移動を余儀なくされた。毛沢東らの共産主義者は、1934から1935年に中国の西部を通って延安へと続く長征でなんとか脱出し、延安を中心基地に築き上げた。中国共産党は日中戦争中に支配を着実に拡大した。1945年にソビエト連邦が満州を占領したとき、中国共産党は満州に権力を掌握した。1949年までにソビエトの支援を受けて、共産主義政権は1949年10月1日に中華人民共和国を宣言した。



2020年6月14日日曜日

東ベルリンの煉瓦工の18歳のピーター・フェヒターはベルリンの壁からの脱国時に、射殺されて地面に転落して大量の出血死した。

第ニ次世界大戦直後から冷戦により、完全に東西交流が分離するベルリンの壁が設置されて1年後の1862年8月17日に、東ドイツのドイツ人の18歳の若者がベルリンの壁から脱出した。東ベルリンの煉瓦工のピーター・フェヒターは射殺されて、地面に転落して大量の出血死した。脱国により殺害された第27人目の犠牲者となった。友人のヘルムート・クルベイクと西ベルリンに逃避した。2人は最初の壁と区画を乗り越えて、第2番目の壁を目指した。クルベイクは2番目の壁を乗り越えるも、フェヒターは東ベルリンの国境警備隊のウォルター・ウルブリヒトに襲撃された。射撃されて2番めの壁から転落して、苦悩するフェヒターは約1時間も放置されて出血死した。西ベルリン市民や多数の記者と東ベルリンの国境警備隊の目の前で死亡した。数百人の西ベルリン市民は、東ドイツ国境警備隊に「暗殺者」と抗議した。東ベルリンの国境警備隊は、3日前に東ドイツ軍兵士のルディアルン・シュタットの殺害の報告を受けて、フェヒターの救助に介入しないと言訳した。西ベルリンのアメリカ軍は、救助の移動をしないように命令されたと言訳した。
 第ニ次世界大戦後に、ドイツはアメリカ・イギリス・フランスとソビエトが4分割して統治した。冷戦により1948年に、ソビエト軍が西ベルリンを包囲した。アメリカ軍の24時間空輸で1949年5月12日に包囲を解除した。東ベルリンから西ベルリンに大量の難民が流出した。それを阻止すめために1961年8月13日の真夜中から突如に、東ドイツのウォルター・ウルブリヒト大統領が、冷戦の紛争防御としてベルリンの壁の設置を指令した。東ドイツ連邦共和国の秘密警察であるシュタージは、脱国の試みを壁を挟んで絶えず監視した。東ドイツ市民の政治活動に関する不正確な極秘情報を集積した。1960年代の初めに、抵抗力のあるコンクリートパネルで、境界線の内側に2メートルの壁で死の区画を設置した。2つの壁に砂を振りかけて、除草剤で処理して足跡を特定した。壁の両方の部分は、逃亡者の識別を容易にするために白く塗られた。壁に加えて有刺鉄線が張り巡らした。フェンス、バンカー、強力なスポットライト、番犬、302番の監視塔により、武装した狙撃兵が撃ち殺すように、東ドイツ連邦共和国の大統領であるウォルターウルブリヒトが命令した。1971年5月3日に後継者のエーリヒ・ホネッカーは、壁はさらに通過不可能で危険にした。東ドイツ国境警備隊は約12,000人にも上がり、地雷原と自動兵器が追加された。東ベルリンに住むことは、刑務所で死ぬために国境を離れることができない状態となった。
 1985年3月11日にミハエル・ゴルバチョフがソビエト連邦の書記長に就任して、西側諸国との国際関係を緩和した。ベルリンの壁の設置から建設25周年を迎えて東ドイツ軍のパレートをした。まず東ヨーロッパ諸国から鉄のカーテンが崩壊した。1989年8月23日に、ハンガリー人が国境から隣接するオーストリアに脱国した。その瞬間に約11,000人の東ドイツ人はハンガリーから脱国した。何千人もの東ドイツ人が、プラハとブタペストの西ドイツ大使館に避難した。東ドイツで、大規模なデモが勃発して、エーリッヒ・ホーネッカー大統領は辞任した。1989年11月4日に東ドイツ人がベルリンのアレキサンダー広場で約50万人を超えるデモを挙行した。次期のエゴン・クレンツ大統領は、1989年11月9日に東ドイツ市民に対して西ドイツへの旅行を許可した。国境に集結した大量の東ドイツ人に、東ドイツ国境警備隊は閉鎖を解除して、ベルリンの壁は崩壊して国境を越えて統合された。1990年10月3日に、東ドイツ連邦共和国は消滅した。


2020年6月13日土曜日

長崎原爆に被爆した少年は、長崎県外の九州帝国大学病院に護送され、入院中に早期から全身皮膚に紫斑が出現した。

1945年8月9日の長崎原子爆弾の炸裂に被爆した少年は、長崎県外の九州帝国大学病院に護送された。爆心地から被爆距離などは不詳であった。九州帝国大学病院に入院中に早期から全身に紫斑が出現した。長崎県外では九州帝国大学附属病院、嬉野海軍病院、鹿児島原爆被災者収容所、佐賀陸軍病院、久留米陸軍病院、熊本医科大学などが救護した。その他に市外の諫早市などにも数千名の被爆者が入った。長崎市近郊では 長崎市内からの被爆者の収容にあたった。その病院は、大村海軍病院、佐世保海軍病院の諫早分院、川棚海軍病院、針尾海兵団、佐世保海軍共済病院が救護した。大村海軍病院はアメリカ軍による接収をまぬがれ、10月はじめから長崎医科大学の残存職員が医療に参加し、長崎医科大学は大村海軍病院で講義を再開した。大村市には大村海軍病院のほか、大村陸軍病院、回生病院などがあり、市内各所に収容された長崎原爆の被爆者は約4,000人にものぼった。
 1945年8月9日の長崎原爆の投下は、防空、救護体制を超える深刻な被爆犠牲を伴った。爆心地と市内の境界地域が、続発した大災害のため、救護は困難をきわめた。爆心地付近では「中心爆発点ヨリ半径400メートル以内ニ在リシ人畜ハ防空壕ニアツて数名ヲ残して全部即死セル状況ニシテ、ナルトモ全部飛散シ一物モ在セザル」有様であった。
 爆心から約700m東南の長崎医科大学本館、基礎医学教室は崩壊、消滅し、ほとんどの関係者が爆死または被爆後死亡した。講義室で受講中に被爆死をとげた学生の数は、学部、医学専門部在籍1・2年の生役約580名人の中でで約414人に及んだ。長崎医科大学附属病院は地下1階、地上3 階の鉄筋コンクリート建で、かろうじて外形を保ったものの、内部は完全に全壊して火災を生じた。被爆した死傷者続出し、多少余力ある者は穴弘法の丘に這いあがり約300名が一夜を明かした。約半数は翌朝には動かぬ死体となった。外科学教授の調来助は8月9日午後から負傷者の応急手当にあたり、疎開先の滑石に2カ所の建物を借り受け、12日学長角尾普以下の医科大学関係の負傷者をここ滑石救護所に移した。調来助から以下約13人の医師、学生、看護婦は8月12日から8月17日まで約100人を越える被爆者の治療、看護等にあたった。8月18日に生存中の被爆者を新興善救護所、大村海軍病院へ転送し、阪救護所を閉じた。長崎医科大学放射線科の永井隆ら約12名は、長崎市外三ツ山地区で8月12日から10月8日まで巡回診療で被爆者医療を施した。
 その他浦上第一病院は爆心地から約1.4km離れた木原の丘の上にあった。聖サンフランシスコ修道院経営の病院で、長崎原爆の被爆当時に結核患者を約70名を収容していた。長崎原爆の爆風により、内部は破壊され、延焼して医療器械、薬品を焼失した。浦上地区に残存した唯一の病院として被爆者医療を担った。同病院医医師の秋月辰一郎らは、8月10日から診療をはじめ、8月12日には長崎県警察警備隊及び川南工業奉仕隊が入って、病院療地を整理し、木原に救護所を開設した。長崎原爆の被爆直後に山里国民学校に一日救護所が設置された。木原町一帯の多数の被爆者は防空壕の中で未処置であった。浦上第一病院の木原救護所は秋月振一郎らの努力によって医療活動を続けた。1948年12月に聖フランシスコ診療所は、院長ブルダン神父らが施設を再建した。造船、兵器、製鋼、電機の三菱系の約4会社が結集していた長崎市内には、爆心地から約3.5kmの鮑之浦町に三菱病院本院が、約3.0kmの船津町分院、泣く1.1kmの茂里町に浦上分院があった。そのうち船津町および浦上の分院は全壊または火災した。本院も若干の被害を受けて、総力をあげて救護の任にあたり、病院のほか鮑の浦国民学校をも仮病院として、多数の負傷者を収容した。あらかじめ救護所に予定されていた新興善、勝山、伊良林、磨屋などの国民学校、長崎経済専門学校などへは、被爆直後から被爆者が集まった。爆心地に近い城山国民、山里国民学校、市立商業学校、道ノ尾駅付近でも直後から救護活動が開始された。
 これらの救護活動は生存した長崎市医師会員のほか、諫早海軍病院、大村海軍病院、諫早市医師会、小浜医師会、島原市医師会、三菱病院 救護班、針尾海兵団、佐世保海軍病院武雄分院、久留米陸軍病院、福岡陸軍病院などの救護班によって行われた。長崎経済専門学校には、鎮西集団命令によって軍関係、医療関係者約200人近くが入り、8月16日から仮編成して、約216病院を開設し、9月2日までの間に被爆者約305名うち161人が被爆した。新興善救護所へもっとも早く入ったのは針尾海兵団第一救護隊で、8月10日午後に新興善国民学校に入り、8月11日に浦上へ出動した。8月11日に佐世保海軍病院の武雄先進隊が、さらに8月12日に武雄分院救護本隊が入った。8月15日には武雄分院からの薬品衛生機器が到着した。8月16日には、針尾派遣隊の第2次救護隊が加わり、以後新興善救護所は特設救護病院とした整備された。針尾派遣隊は8月21日、武雄派遣隊は9月5日に撤収した。長崎市医師会が代わって新興善救護病院の救護を継承した。新興善病院は10月6日に長崎医科大学との合併が決定し、10月23日に正式に長崎医科大学附属病院となり、院長は調来助となった。針尾海兵団派遣の救護隊の報告によると、8月17日から31日までに外来患者延べ約3.991人、在院患者延べ約3,936人、約入院は約370人、退院は約53人、死亡は約154人であった。新興善病院では東京帝国大学、九州帝国大学、熊本医科大学、山口県立医科専門学校などの救護班や研究班がそれぞれ医療に従事した。
 被爆者の多くは、長崎市外への避難、被爆者などの市外への輸送には、救援列車が関与した。被爆当日の8月9日の午後一時から 夜半までの間に4本の列車が運行された。道ノ尾駅と浦上駅間の中間地点から、諫早、大村、川棚、壱岐などへ総計およそ約3.500人もの被爆者を輸送した。徒歩、トラック、列車などで長崎市外に逃れた被爆者を受け入れたのは、時津村の時津国民学校が約521人を収容して、約96人が死亡した。万行寺は約356人収容して、約45人が死亡した。8月18日までに、長崎市の隣接町村である長与村の長与国民学校は約762人を収容して、約96人が死亡した。茂木町では約80人を収容して、上村の森医院などは約200人を収容した。 



2020年6月12日金曜日

コロンビア北部のククタにて支援物資の搬入が国境警備隊と衝突して、負傷したベネズエラ市民を抱えて救護した。

コロンビア北部のククタにて、2019年2月23日にベネズエラ市民がベネズエラ国境警備隊との衝突により負傷した。その負傷者を数人ベネズエラ市民が抱えて救護した。ベネズエラ国境に近いコロンビア北部ククタに、支援物資搬入を求めて集まった反マドゥロ派の人々が集結した。ベネズエラ市民は人道支援を行うよう要求して、ティエンディタス橋で国境警備隊員と対決した。数千人の武装した国境警備員に対して、ベネズエラ市民の抵抗は石だけだった。国境警備員から催涙ガス弾とゴム弾から、銃撃が橋を越えた。少なくとも4人が殺害されて、数百人が負傷した。独裁色を強めるベネズエラのマドゥロ大統領に反発する反マドゥロ派が、コロンビア国境からアメリカなどからの人道支援物資の搬入を、軍事政権に国境を封鎖されて阻止された。人道支援がショーであると非難し、汚染された食物を積んだトロイの木馬と呼び、ベネズエラに侵入するアメリカの陰謀と喧伝して、コロンビアと国交断絶した。
 1999年に大統領に就任した軍人のウゴ・チャベスから、2013年にチャベス死後に継いだニコラス・マドゥロの20年にわたる軍事政権の失敗と腐敗、政権の徹底した反アメリカ政策と国内の圧政、原油価格の急落が同国の社会と経済が崩壊した。物資が欠乏して、混乱を極め、略奪と殺人が頻発して、治安が極めて悪化した。2019年1月には、約2680,000%ものインフレ率の高騰により、ボリバル通貨はほとんど無価値となった。国際通貨基金(IMF)は、2019年のインフレ率を約1,000万%と推定して、1年間で物価が約10万倍も急騰した。周辺国に、人口の約1割の約300万人の難民が国外に流出した。2017年の殺人発生率は、10万人あたり約60.0件で、世界第2位である(1位エルサルバトル61.7, 3位ジャマイカ56.4件)。ベネズエラの国会議長であった野党のファン・グアイドが暫定大統領を2019年1月23日に宣言して、アメリカと南アメリカとヨーロッパ諸国の約57国は支持した。中国・ロシア・キューバ・シリア・トルコは、マドゥロ軍事政権を支持した。グアイドは。2019年4月30日の軍事蜂起に失敗して支持は縮小した。アメリカ司法省が2020年3月26日にマドゥロらを麻薬密輸剤で起訴するも、逆にコロナ感染の世界流行を統制強化して、集会の禁止、軍隊にガソリン分配、社会生活に脅威を加えた。



2020年6月11日木曜日

カンボジアのカンポット州立病院にて、地雷で左下腿が吹き飛ばされて大量出血したカンボジア農民の女性が、切断の処置をされた。

カンボジアのカンポット州立病院に地雷で右下腿が吹き飛ばされて、大量出血したカンボジア農民の女性が1993年にトラックで護送された。ベトナム国境から約50Kmのビエルボン村から女性の農民である23歳のトン・フォカさんすが、十分な医療設備や医療職も乏しい病院で、関係者に緊急的に輸液をされながら、ストレッチャーの上で両下腿の切断の処置をされた。薪を採取中に地雷に被爆した。地域の家族や関係者が心配そうに動揺して取り囲み見守った。カンポット州立病院でも当時は、約20人の地雷の犠牲者らが搬入された。無差別に民間市民に対しても、予告もなく突如に地雷が反応して爆発した。地雷は、戦争後にも引き続き民間市民を巻き込む悲惨で残虐な兵器が潜伏した。たとえ生存しても、四肢欠損した障害者となり、十分なリハビリテーションや社会保障もなく露頭で物乞いや盗人をしていた。地雷に囲まれた地雷原となった農地でも、農民らは生活と生命の維持のために地雷を避けれない。カンボジア国内だけでも、世界中の約1割にも達する約1,000万個以上もの地雷が埋設された。カンボジアでは地雷で四肢を損失した人数は約2万人を超過している。地雷に接触して爆発した死亡率は、約5割である。約5万人が犠牲者になっている。地雷の犠牲者の約80%は民間市民であり、子供は致命的で最も被害を受けている。子供に最も危険なのは、子供の四肢を僅かな圧力でさえ爆発する対人地雷である。
 1997年12月に、NGO地雷を禁止する国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞した。同時期に、国連で地雷の全面禁止条約であるオタワ条約を164カ国が調印した。日本は1998年9月30日に調印した。しかし、アメリカ、ロシア、中国など36カ国は未調印である。オタワ条約には、対戦車地雷、クラスター爆弾、対人指向性地雷は含まれない。地雷は、アメリカ南北戦争頃から敷設され始めた。特に第一次世界大戦で、戦車が開発され始めてから、戦場で対戦車兵器として使用され始めた。さらに第ニ次世界大戦以降には、戦車が強力になるほど、地雷も高性能となった。第二次世界大戦だけでも、約3億以上もの地雷が敷設された。次第に、人間に対しても反応して爆発する対人地雷が、特にベトナム戦争以後に膨大な殺傷力のある地雷が、ジャングルだけでなく農地や山林などにも敷設された。ゲリラ戦に対抗するために爆撃機から投下されて、至るところの地表に散布された。東南アジアでは暴雨により泥沼の地中で地雷が変動した。そのために潜伏している地雷の場所が不詳になった。さらにベトナム戦争後のベトナム軍が侵攻したカンボジア内戦では、全土にわたり地雷が散布された。地雷を除去するも、一方で新たな地雷が埋設されて、その場所の特定が困難となっている。地雷を製造していないカンボジアに敷設した地雷は、アメリカ・ソ連・中国・ベトナム・アメリカ・ドイツ・フランス・チェコ・ベルギー・ブルガリア・南アフリカ連邦など海外からの多国籍の移入品である。


2020年6月10日水曜日

日本軍による真珠湾攻撃によって、ヒッカム飛行場が破壊され、駐在したアメリカ陸軍兵士が殺害された。

日本軍による真珠湾攻撃によって、アメリカ合衆国ハワイ州オハフ島のヒッカム飛行場が破壊された。ヒッカム飛行場に駐在していたアメリカ陸軍兵士が殺害された。1935年にホノルルにヒッカム飛行場が開設されて、1941年12月7日に真珠湾攻撃を受けた。約189人が殺害されて戦死して、約303人が戦傷した。約100個の爆弾が投下され、約27個が兵舎を爆撃して、最上階の2階の多くのアメリカ軍兵士が殺害された。食堂では朝食時に、約230kgの爆弾が直撃して約35人が即死した。
 1941年12月7日(現地時間)の夜明けに、アメリカ軍の太平洋艦隊の半数以上の約150隻の船舶および飛行機が、ハワイ等のパールハーバー横に錨で停泊していた。その朝、太平洋艦隊の1隻を除くすべてが軍艦にハワイ州オアフ島のパールハーバーに停泊して、ほとんどがフォード島に隣接する岸壁に係留されていた。12月7日の午前10時までに、静かな穏やかな日曜日に日本軍の約353機の攻撃機の奇襲突撃によりパールハーバーが粉々になり、約2,403人の死者と約1,178人が負傷した。21隻の船が沈没または損傷して、艦隊の戦闘用の通信網が破壊された。燃える飛行機と格納庫からの煙が空中を満たし、沈没船からの油が港を詰まらせた。死体が至る所に散在した。
 日本軍の攻撃の焦点であったパー​​ルハーバーの艦隊は最大の損失を被った。アメリカ軍の戦艦アリゾナが爆発したときに負傷者数ほぼ半分が発生しました。特に戦艦アリゾナは、乗組員約1,177人のうち約1,102人が殺害された。カネオヘからハレイワ、マラコレにいたるまで、オアフ島全体に渡るアメリカ陸軍、海軍、陸軍空軍、海兵隊の施設が、破壊されて死体も散在した。ヒッカム、ウィーラー、ベローズの陸軍飛行場は、約217人の男性と約77人の航空機を喪失した。フォード島とカネオヘの海軍航空基地は約19人を損失した。太平洋艦隊の海軍航空機は約92機が損失した。エワ海兵隊航空基地では、約4人のアメリカ人男性が殺害されて、約33機が破壊された。ワイキキからパールシティまでの民間市民が、対空兵器の爆弾によって殺害された。日本軍は真珠湾から撤退するまでに、日本軍は約4機の小潜水艦、約29機の攻撃機、約64名の日本軍兵士を喪失した。
 最も悲惨なアメリカ人民間市民の犠牲者は、日本軍の攻撃機の対空砲弾の多くが、パールハーバーとホノルル周辺の民間地域に着弾して、地面と接触して爆発した。民間消防署の多くは、民間地域での落下による多くの消火活動には対応できなかった。日本の戦闘機は、ホノルルの空港であるジョンロジャースフィールドを空襲して、1人の民間市民が殺害された。オアフ島への攻撃中に合計約49人の民間人が殺され、35人が負傷した。約11人は16歳以下の子どもであった。
 真珠湾攻撃よりも早く12月6日に奇襲攻撃をする日本軍の特殊潜航艇の5隻が突入して、駆逐艦に撃沈された。搭乗員10人のうち9人が太平洋戦争の初の戦死者となり、1人が太平洋戦争の捕虜第1号となった。ラジオVOA放送から察知した1人の捕虜を恥辱と排除して極秘にして、戦死した9人を「九軍神」と喧伝して日本国民を高揚した。