2019年10月30日水曜日

ナチス・ドイツ軍は、1942年5月7日にベラルーシ共和国の首都ミンスクの路上で、約28人のユダヤ人らを絞首刑にした。

ナチス・ドイツ軍は、1942年5月7日にベラルーシ共和国の首都ミンスクの路上で、約28人のユダヤ人らを絞首刑にした。インデペンデンス街路とエンゲルス通りとの交差点で、抵抗勢力のユダヤ人らが絞首刑にされた。通りがかったドイツ人市民と役人が、絞首刑されたユダヤ人の死体を見上げた。さらに約250人が射殺された。カジッツ・イサイ・パブロビッチら約28人は武装抵抗による射撃で、数人のゲシュタポ将校を負傷や殺害したが、3月28日に逮捕されていた。
 ドイツ軍は、1941年6月23日に首都ミンスクを空爆して、6月27日に侵入した。建物が燃え上がり崩壊して、市内には死体が散乱した。占領直後にドイツ軍は15歳から45歳までの約40,000人ものすべての男性を登録した。ミンスク郊外のドロッディの畑で、ユダヤ人、赤軍人、非ユダヤ人民間人の3群に隔離された。非ユダヤ人を釈放して、数千人の知識階層のユダヤ人全員を、近くの森に連行して、機関銃で射殺した。1941年11月7日に約12,000人と11月20日に約5,000人のユダヤ人が、トゥチンカに連行されて殺害された。
   ナチス・ドイツ軍が占領しても、ミンスクの住民は、ユダヤ人迫害に関して無関心であった。ミンスクの人口約238,948のうちベラルーシ人は約51.9%で、ユダヤ人は29.7%も占めた。ミンスクはユダヤ人労働運動が発祥し発展した都市の1つでもあった。ベラルーシ人市民自身によるユダヤ人の浄化運動であるポログロムはほとんど発生しなかった。ドイツ軍は、ミンスクの北西部に、少なくとも約85,000人のユダヤ人を隔離居住区として最大のゲットーに強制居住させた。そのゲトー内で、ユダヤ人が抵抗運動の地下組織を結成した。非ユダヤ人とパルチザンとの連携も構築された。



2019年10月29日火曜日

23歳のベトナム人の男性は死ぬまで一生を、枯葉剤による病気と障害を伴ってしまう。

ハノイ平和村には、ベトナム戦争にてアメリカ軍の枯葉剤散布の後遺症で、2008年に23歳の青年が、ベッド上で寝たきりとなった。全身の奇形と変形、神経障害、臓器障害などで完全な要介護状態となった。23歳のベトナム人の男性は死ぬまで一生を、枯葉剤による病気と障害を伴って過ごす。ベトナムの首都ハノイ郊外のタイスワン地区には、枯葉剤の被害者の治療施設であるハノイ平和村がある。入所希望者が殺到して、定員の約1,000倍にも達する。ベトナムは1975年にベトナム戦争が終結してから約15年経過した1990年頃からやっと枯葉剤の全国調査が開始された。
 ベトナム戦争にて、アメリカ軍はベトナム中部から南部にかけて、非人道的な化学兵器となる膨大な枯葉剤を田畑地域や森林地帯に散布した。およそ約90,000キロリットル、散布面積は約2,400,000ヘクタールにも及んだ。1961年から1971年まで約10年間も散布された枯葉剤によって、植物だけでなく、生態系まで崩壊した。早朝に油の匂い嘔吐する枯葉剤の白煙を散布されると、夕方には植物はすべて枯れ落ちた。無差別な枯葉剤の散布によって、ベトナム人の被害者は約300万人にも達した。遺伝子にも異常な影響を受けて、胎児には先天異常である結合双生児、単眼児、無脳児などの重度の奇形なども伴った。
 アメリカ軍が散布した枯葉剤の主成分はエージェント・オレンジの製造過程で、高濃度の猛毒のダイオキシンが混在する。ダイオキシンは、人類史上で最も毒性が強い合成化合物である。わずか約80gのダイオキシンで、約700万人を殺害される。わずか約10億分の1gでも先天異常や異常出産を誘発させる。ダイオキシンは簡単に分解されず、脂溶性で脂肪に残存する。食物連鎖により、小動物から大動物へと濃縮されて、体内に蓄積する。神経から臓器までも侵害して、悪性新生物の発症、遺伝子までも破壊されて子孫まで悪影響が出る。
 枯葉在の被害者は、ベトナム人だけでなく、ベトナム戦争に従軍したアメリカ人、韓国人、台湾人、オーストラリア人らにも拡散した。アメリカの国内法では、戦争中の被害は国を訴えることが不可能である。1980年代に約16,000人のアメリカ軍帰還兵が、枯葉剤の被害補償を製薬メーカー7社に提訴した。1985年に裁判所が製薬会社に約1億8,000万ドルの和解金を提示して、責任の所在が不明瞭となった。ベトナム枯葉剤被害者の会は、2004年と2007年にニューヨーク連邦地裁に提訴したが、2005年3月と2009年にも却下された。



2019年10月28日月曜日

ソ連軍がウクライナの首都キエフを1943年11月6日に解放時に、ミハイロフスカ通りにユダヤ人の遺体が散乱した。

ソ連軍がウクライナの首都キエフを1943年11月6日に解放した。ミハイロフスカ通りにユダヤ人の遺体が散乱していた。ナチス・ドイツ軍は、キエフを1941年9月11日から約2年間も占領してユダヤ人と住民を大量虐殺した。キエフ北西部に約3.2kmのバビ・ヤール渓谷の虐殺は、歴史上で最大のユダヤ人の大量虐殺の地点となった。
 1939年以前にソビエト連邦の地域では、ユダヤ人の大量絶滅は、ナチス・ドイツ軍は、地域の占領後すぐにユダヤ人の大量虐殺が執行された。キエフでは、ナチス・ドイツ軍かが占領した1941年9月19日から29日までのわずか10日間で、ユダヤ人住民は大量絶滅に襲われた。バルバロッサ作戦の前夜に、ドイツが占領したポーランドの領土からの難民を含む約23万人のユダヤ人がキエフに在住していた。1941年9月19日にドイツ軍がキエフを占領した時、多くのユダヤ人が前線に徴兵されて、避難または脱出した後に、都市にはまだ約6万ものユダヤ人が残存していた。ほとんどは、女性、子供、病人、高齢者であった。
 ドイツ軍による占領した数日後の9月24日に、ソ連軍の分遣隊がキエフの中心部であるクレシャティクの建物を爆破した。9月26日に爆破の責任と罰として、キエフのユダヤ人に報復した。キエフとその周辺のすべてのユダヤ人に、1941年9月29日月曜日の午前8時までに指定場所に強制集合を命じた。ユダヤ人に激しい敵意のある地元のウクライナ人警察は、ユダヤ人をキエフ郊外のバビ・ヤール渓谷に連行した。ナチス・ドイツ軍により9月29日と30日の2日間で約33,771人のユダヤ人がバビ・ヤール渓谷で虐殺され埋められた。潜伏していた約17,000人ものユダヤ人が、10月1日から3日にもバビ・ヤール渓谷で虐殺され埋められた。1941年11月には、セント・シリル精神病院の約300人のユダヤ人患者も、バビ・ヤール近郊の果樹園で虐殺された。
 1943年8月に、キエフでユダヤ人の大量殺人の証拠を隠滅する1005作戦が開始された。シレック収容所の男性囚人のユダヤ人と非ユダヤ人は、バビ・ヤール渓谷で膨大な犠牲者の遺体を掘り起こし焼却した。1943年9月29日に約327人の囚人は反乱を起こし逃亡した。逃げて生き延びたのはわずか約18人で、残りはすべて射殺された。





2019年10月27日日曜日

ポル・ポト派のクメール・ルージュにより虐殺された骸骨が、チェンエク処刑場博物館で極悪な非情さを展示した。

ポル・ポト派のクメール・ルージュによる罪なき市民らの虐殺された頭蓋骨、骸骨が、チェンエク処刑場博物館で展示されて、極悪な非情さを示した。カンボジアの首都であるプノンペンから南西約15kmに位置するチェンエク村に、クメール・ルージュの秘密刑務所部局S21(mandir S 21)で拷問を受けた囚人たちが、1977年から1979年まで夜間にトラックで運搬された。刀や剣類で、後頭部への鍬の一撃で殺害された。約20,000人ものカンボジアの住民が死刑となり、死体が共同墓地に投げ込まれた。1979年に侵攻したベトナム軍により発掘されて、保護措置された。非行の死の記憶として処刑場博物館が1988年に整備された。共同墓地から死体を掘り出して、約9,000人もの頭蓋骨が、一連の木床に段々に並べて約10mもの高さに及んだ。カンボジアにおける大量虐殺の処刑場は、キリング・フィールドとも呼称された。囚人は24時間待機した後、頭部に一撃で殺害されて、その後喉元が切断された。赤ちゃんは頭を木にぶつけて殺害された。男性用、女性用、子供用に別々の86の集団墓地があり、そこから8,985人の男性、女性、子供がクメールス・ルージュの解放後に発掘された。頭蓋骨、骨、衣服の一部は近くの巨大な仏塔に保管された。外国人の死体は、骨を残さないように焼失した。
 秘密刑務所部局S21(mandir S 21)は、カンボジアのクメール・ルージュの拷問絶滅施設であった。1979年1月に、ベトナム軍がプノンペンに侵入して拷問施設を開放した。切断された死体が、床や金属ベット上に放置されていた。鉄格子、独房、鉄鎖などが虐待と虐殺の痕跡となった。暗号S21の秘密裏な代表的な施設は、地名からトゥール・スレンと呼称されている。1976年から1979年にかけて約20,000人が収容されて、生還者は約12人のみであった。



2019年10月26日土曜日

第一次世界大戦後のギリシア・トルコ戦争にて、トルコ軍によって虐殺されたギリシア軍兵士の多数の死体が原野に放置された。

第一次世界大戦の終結後に勃発したギリシア・トルコ戦争によって、1922年にトルコ軍によって虐殺されたギリシア軍兵士の多数の死体が原野に放置された。トルコ人農民が、荒野に散乱したギリシア人の死体を通り過ぎた。
 第一次世界大戦の終結に1918年10月30日に同盟国であるオスマン・トルコ帝国は、連合国と休戦協定を締結して降伏した。オスマン・トルコ帝国から1830年に独立したギリシアは、降伏後にギリシア人居住地の併合を挙行した。1919年5月15日にギリシア・トルコの戦いが勃発すると、キリスト教徒とイスラム教徒が相互の残虐行為が激化した。トルコの海岸都市のスミルナに上陸したギリシア軍は、武器を持たないトルコ人を大量虐殺した。トルコ軍は、ギリシア正教会の村人を念入りに焼き払い、ギリシア人を虐待して虐殺した。
 1921年3月23日にギリシア軍は、トルコ内陸部のアナトリア侵攻するも、トルコのケマル軍によって直ちに撃退された。ギリシアは6月22日に連合国の調停を拒否した。7月10日にギリシア軍は、トルコに再侵略した。ギリシア軍はサカリア川を渡河すると、補給を絶たれて、9月14日に再撤退した。ギリシア軍は、1922年8月26日にトルコ軍にギリシア軍の南部戦線を撃退されて撤退した。ギリシア軍のトルコからの撤退により、宗教と民俗主義によるトルコ軍の復讐により、特にギリシア人地区とアルメニア人地区で大量虐殺が勃発した。1922年にトルコから約150万人ものギリシア人難民が避難した。10月11日に休戦協定が合意された。11月にトルコ大国民会議がスルタン制を廃止して、約500年間も中東を支配したオスマン・トルコ帝国が崩壊して、1923年にトルコ共和国が建国された。1923年のローザンヌ条約による講和により、宗教と民族の交換をして、トルコからギリシアに約110万人のキリスト教徒、ギリシアからトルコに約38万人のイスラム教徒は、移民交替を強要された。



2019年10月25日金曜日

日本軍による空襲により、広東の多数の子どもが犠牲となり、死体が道端に並べられた。

日中戦争にて、1938年の夏に、日本軍は広東と武漢に猛烈な爆撃をして、市内は崩壊した。日本軍は、広東省広州市を1937年8月31日から10月21日まで、日本軍の爆撃機は約56回に及ぶ爆撃した。1938年初頭には日本軍爆撃機は連続10日間の爆撃を敢行した。広東省広州市の爆撃による死者は約7000余人にも達して、甚大なる爆破を受けて焼失した。無差別な爆撃により、市民を含む多数の死傷者が出た。日本軍による空襲により、広東の多数の子どもが犠牲となり、その死体が道端に並べられた。日本軍による無差別な都市爆撃に対して、日本は列国から国際的非難を受けた。
 1938年4月に大本営は徐州での軍事作戦を命じ,5月19日に徐州を占領,華北と華中をつなぐ要衡ルートをつくりあげた。徐州作戦に続き大本営は武漢と広東を攻略する積極方針をとり,華北,華中から華南へと中国全土制圧に向けさらに踏み込んだ。10月21日には広東を,11月には漢口など武漢三鎮を占領した。この武漢作戦で日本軍は秘密裏に毒ガスを使用した。約50万人にも及ぶ日本軍兵士が中国に送られ,戦死者と戦傷者の数が激増した。日本海軍は香港近海の萬山群島を海上封鎖し、4月に三灶島を占領して第六航空基地を建設し、中国本土に向けて爆撃を繰り返した。10月21日には広東が陥落し、12月には香港に隣接する深圳も陥落して、香港には大量の難民が押し寄せた。1937年12月に日本軍が南京国民政府を侵略するも、ますます戦線が拡大した。1938年10月に広東と11月に武漢を攻略するも、大兵力をつぎ込むほど犠牲者が増す果てしなき日中戦争に陥った。


2019年10月24日木曜日

日中戦争における南京大虐殺の写真は、上海市公文書館により解放日刊紙に掲載された。

日中戦争における南京大虐殺の写真は、上海市公文書館によって提供されて、1982年8月6日の解放日刊紙に掲載された。日本軍の兵士による虐殺、強姦、略奪された。写真は旧フランス租界の監督局のものであると掲載された。撮影された時間と場所の詳細は不明である。1945年に日本が降伏した直後に、南京大虐殺に関する日本の軍事記録のほとんどが破棄された。大虐殺の死者数を正確な推定は不可能となった。極東国際軍事裁判東京では約20万人以上と1946年に推定した。中国は公式に、1947年の南京戦争犯罪法廷に基づき約30万人以上と推定した。1980年代以来、死者数は論争されて、政治問題となり日中関係の障害となっている。日本歴史的否定主義者と日本民族主義者は、中国政府は日本軍による死者数などの虐殺の側面を誇張するプロパガンダと主張している。虐殺を取り巻く論争は、韓国などの他のアジア太平洋諸国との日本の関係にても中心的な問題であり続けている。
 1937年12月13日に日本軍が南京を侵略してから、1938年2月初旬までの南京大虐殺によって、多数の中国人が虐殺された。死体は川の近く、木立の近く、肥溜めの穴の近くにも散乱していた。家の痕跡の中には焦げた死体があった。多数の死体がすべて完全に腐敗して、後から戻った人々は肉親の死体の遺体を回収しながら泣き回った。何もないので、両親の死体を草のマットで巻き上げて、燃え尽きた家の廃墟の近くに埋めた。
 日本軍兵士が突入したとき、部屋の周りには、屋根裏部屋、ベッドの下、ストーブの後ろを除いて、隠れる場所はなかった。ベッド下に身を潜めるも、すぐに銃剣で殺害されて床に転落した。屋根裏部屋の人々も次々と銃剣で殺害された。ストーブの後ろから衝動的に逃げるも、日本軍兵が隠れ場所に戻る姿を見ると背中から刺殺された。日本軍兵士たちは、銃剣で両親の心臓を貫通して刺殺した。息子は頭部と右肩を銃剣で刺されて、意識を失った。息子は、真夜中に意識を取り戻した。彼の頭、首、肩からも出血して、下半身はすでに死んでいた両親の血液でべとついた。日本軍兵はまだ周辺で掃討していた。夜明けを待つ間に、出血を止めるために灰をこすりつけた。銃剣は彼を鎖骨の下に突き刺し、重要な臓器の貫通を逃れて、失血は致命傷にならなかった。部屋を調べると、他の約12人が死んでいるのを見た。



2019年10月23日水曜日

ナチス・ドイツは、ストラッパド拷問を、強制収容所の囚人に対して執行した。

ナチス・ドイツの親衛隊であったカート・フランツ(Kurt Franz)は、中世の異端審問の拷問室では、逆さ吊りとパレスチナ吊りとも呼ばれるストラッパド拷問を、強制収容所の囚人に対して執行した。被拘禁者の肩に負荷を与え、耐え難い痛み、脱臼、時には神経や靭帯の損傷を引き起こす。長時間に拘束すると肺が収縮し、呼吸困難となる。ポーランドのワルシャワ北東のトレブリンカ絶滅収容所の所長(1943年8月から11月)として安楽死プログラム(Akyion T4)を管理した。彼は囚人をピストルを取り外して、地面で撃って、ホルスターに戻すように見える。1943年8月2日にトレブリンカ絶滅収容所で囚人蜂起が勃発が勃発するも鎮圧されて、カート・フランツが所長となった。
 フランツは1937年に親衛隊髑髏部隊に加わった。最初にテューリンゲン州のワイマールで訓練を受け、その後ブッヘンヴァルト強制収容所で警備員を務めた。フランツは、異常なほどの残酷さとサディズムで知られた。軽微な罰でも囚人を射殺や拳殴した。しばしば馬に乗ってキャンプを回って、彼のセントバーナードの犬であるバリーを連れて行った。フランツの犬への命令により、囚人の性器または、腹部や臀部をしばしば噛ませた。
 1965年のデュセルドルフの戦争犯罪裁判所におけるトレブリン裁判では、フランツは殺人したこと、犬をユダヤ人に噛ませたことを否定し、「私はそれについて何も知らない。」と囚人を一度だけ殴ったと主張した。9月3日に、彼は少なくとも約300,000人の集団虐殺と、少なくとも139人の虐殺に関与した35件の殺人、および殺人未遂で有罪判決され、最低は15年の終身刑を宣告された。79歳の彼は健康上の理由で1993年7月に釈放されて、1998年にヴッパータールで死亡した。ドイツには死刑はなく、戦争犯罪者として裁判を受けれません。法律は1945年以降の連合戦争犯罪法廷によって制定され、ドイツの法律では先例がない。


2019年10月22日火曜日

硫黄島を守備した2人の日本軍兵士は、砲撃弾の炸裂で吹き飛ばされて爆死していた。

太平洋戦争における硫黄島の戦いで、アメリカ軍の硫黄島への上陸前に猛烈な艦砲射撃をした。硫黄島の海岸周辺の日本軍の防御陣地は崩壊した。守備した日本軍兵士は、砲撃弾の炸裂で吹き飛ばされて2人の日本軍兵士が1945年3月1日に爆死していた。その後に上陸用艦船から、アメリカ軍兵士と重装備が陸揚げされた。巨大な人材と物量で、最終的に日本軍を圧倒して全滅させた。特にアメリカ軍は硫黄島に、3月1日にのべ約1,000機に及ぶ飛行機の銃爆撃と、約60隻に上る艦隊の砲撃を加えて、日本軍の海岸陣地は壊滅した。
 戦争の犠牲と悲劇は、戦争に巻き込まれて、戦争に駆り出された兵士や市民を襲った。大量虐殺まで追い込まれた兵士と市民らは、生活も生命も軽視されて、連合軍の膨大な武力で大量虐待と大量虐殺されて、常に最大の被害者となった。家を焼失して、肉親も殺害されて、飢餓状態に追い込まれ、悲惨な悲劇を苦悩して慟哭するのも、常に兵士と市民らである。兵士と市民は、自らが求めて太平洋戦争を引き起こしたのでは決してない。全兵士と市民は、否応なしに致し方なく、無差別に引き起こされた戦争に巻き込まれた。世界大戦に至ると、すべて世界の兵士や市民が無差別に戦争の悲惨と悲劇を耐え忍んだ。
 アメリカ軍は、硫黄島に対して1945年1月までに機動部隊で約12回のべ約1,269機、基地航空部隊で約69回のべ約1,480機による空襲して、海上艦艇でのべ約64隻で攻撃した。上陸直前の2月16日には、機動部隊でのべ約1,000機の空襲と、艦砲射撃により連日猛烈な砲爆撃を加えた。特に2月18日は大規模に海岸陣地と飛行場を破壊した。アメリカ軍は、2月19日午前8月30分に優勢な砲爆撃の援護下に約130隻の舟艇を持って上陸を開始した。午前1100頃には約10,000のアメリカ軍兵士と約200の戦車などを揚陸した。硫黄島の砂は非常に柔らかく、上陸した海兵隊員は膝まで砂に埋もれ硫黄島の戦いに多大な支障を伴った。日本軍の守備隊はアメリカ軍の猛烈な砲爆撃を受けるも、強烈な抵抗と火力反撃を行って。アメリカ軍に多大の損害を与えた。2月20日には海岸の鉄筋コンクリート陣地は全滅し火砲は半減した。硫黄島を海空から完全に包囲し、膨大な鉄量と火薬で日本軍陣地を逐次破壊した。3月3日頃には日本軍は僅かに約3,500人となり、後方陣地を死守して死闘した。3月17日に残兵約800名とともに突撃出撃して全滅して、3月26日に組織的な戦闘は終結した。硫黄島の戦いで、アメリカ軍は戦死傷者約28,686名(戦死者約6,821名)、日本軍は戦死傷者約20,933人(戦死者約19,900人)の犠牲を出して、攻撃側のアメリカ軍側が、防御側の日本軍の犠牲を上回った。



2019年10月21日月曜日

カンボジアのオスオデイ川に向かう途上の道のど真ん中に、地雷の信管が飛び出した。

2011年8月にカンボジアのオスオデイ川に向かう途上の踏みしめられた道のど真ん中に、地雷の信管が飛び出していた。ジャングルの中にも道なき道に地雷が現れては消えた。地雷の被害は、車両など物体の破壊や人畜が殺傷する直接的な被害と、地雷が埋まった土地が価値を失う膨大な経済被害が出る。地雷には、残虐性、残存性、無差別性の被害を伴う。一度埋められて踏むと殺傷するまで待ち続けて地雷は半永久的に作動し、無差別に住民を苦境に追い込む。 
 カンボジアには1970年代以降の混乱や内戦により多数の地雷・不発弾が埋められままである。特に武力衝突が激しかったカンボジア西部・タイ国境バタンバン州などでも撤去作業が連日続いている。地雷による年間死傷者数は、1996年に約4,320人と過去最多に達した。年々減少や増加を繰り返している。2000年には859人から2013年には111人にまで下がった。しかし、2014年には再び154人(死者21人と負傷者約133人)に増加した。主な要因は農業の近代化でトラクターなどの農機が普及して被害が増えた。カンボジア地雷対策・被害者支援庁によると、2015年に撤去された地雷・不発弾は約23,000個であった。地雷除去された地域は拡大するものの、まだ約1,640平方kmの地雷汚染地があり、除去には今後10年間で約36,000万ドルが必要と算出された。2016年には世界における地雷・不発弾の被害者が8,605人にのぼり、1999年の9,228人に次ぐ犠牲者となった。
 オスオディスとは、タイとカンボジアの国境のジャングルの中にあるポル・ポト直属の秘密司令部であった。ポル・ポト政権は、1975年4月1日から1979年1月7日までの3年8ケ月20日の期間に、約200万人にも達するカンボジア住民が虐殺されて餓死や病死した。ベトナム軍のカンボジアへの侵攻によって、ポル・ポト政権が崩壊した。カンボジアを占領したベトナム軍は、ソ連と傀儡のヘム・サムリン政権を樹立した。ポル・ポト政権は、タイ・カンボジア国境のジャングルに潜伏して、ベトナム傀儡政権と対立した。アメリカ西側諸国と中国が、ポル・ポト派とソン・サン派とシアヌーク派を合体した民主カンボジア連合政府を国境のジャングル一体に樹立した。カンボジアは、ベトナムとソ連、アメリカ西側諸国と中国との代理する内戦に陥った。 


2019年10月20日日曜日

広島原爆で頭部に受傷して、母親と看護師からケアを受け、不安に怯えて見つめた。

広島原子爆弾によって犠牲となった子どものの母親は、広島での原爆の被害者である負傷した子供を世話した。頭部にガーゼを巻いた子どもは、側にいる母親と看護師からケアを受けた。子どもと母親が、不安に怯えながら見つめ合った。広島第一陸軍病院の宇品分院の救護所の看護婦は、子供の頭部の傷をケアした。被爆者の親子は、救護所内で、ござやすのこの上で布団をまとい寝込んでいた。1945年9月中旬に、アメリカ軍海軍が調査のために撮影した。
 広島原子爆弾の人体への影響を研究する米国の調査団が、1945年9月11日に広島市宇品町の広島第一陸軍病院の宇品分院に調査に入った。爆心地から南に約4,200mで達する。マンハッタン管区調査団が、米国の調査団初めて広島市内に入った。被爆地が安全かどうかを確認し、原爆の影響、特に放射線に関する影響を調査するために、多くの情報を収集した。
 大和人絹が1934年10月に、広島市宇品町に広島工場を創業した。1943年2月に陸軍に接収されて、工場の約3分の2が陸軍船舶練習部に使用された。建物の多くは木造であるが、広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂しても、爆心地から約4kmも遠方のため、爆風の被害はガラス窓の破損と屋根瓦の飛来と軽傷であった。被爆直後から被爆者たちは続々と難を逃れて混雑と混乱をした。応急処置をして収容する状況ではなかった。午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運び込まれ続けた。停電の中で、ロウソクと懐中電灯で徹夜の救護活動が続いた。8月7日朝には約4,000もの被爆者が集積した。8月9日に臨時陸軍野戦病院に転換して約6,000人以上を収容した。8月25日になって広島第一陸軍病院宇品分院に改組となった。


2019年10月19日土曜日

親衛隊医師であるヨーゼフ・メンゲレ大尉は、囚人を選別して毒ガス室の監視もした。

親衛隊医師であるヨーゼフ・メンゲレ大尉は、堂々としてアウシュビッツ強制収容所の貨物駅に立って、ガス室送りになる数万人にも及ぶ囚人の選別をして、毒ガス室の監視もした。アウシュビッツに連行された囚人を選別して人体実験を繰り返した。小人症も残酷な研究対象と選別されて、アウシュビッツ強制収容所に強制送還た。1943年5月30日から約13万人を収容したアウシュビッツで勤務したヨーゼフ・メンゲレは終戦後も、1947年にニュルンベルク裁判で、戦争責任の刑事訴追を追求から免れた。1945年7月18日に南アメリカに失踪した。戦犯としてメンゲレは、終生まで国際的に指名手配された。
 親衛隊医師らは、残酷な人体実験を囚人に処置した。女性囚人の子宮を病原菌で汚染して、安上がりに断種と不妊するために、卵巣と清掃に強度のXp線を照射して、生殖能力を奪う実験をした。特にメンゲレは、双子の目に化学薬品を注入、失血死するまで血液を抜き取る。薬剤を注入して殺害した。ユダヤ人、ロシア人、ポーランド人にも強要して、生殖能力を絶滅をさせた。
 人種差別主義を掲げるナチス・ドイツは、ダーウィニズムを由来して、生物学的に欠陥があれば、生きる価値がなかった。生殖過程に関与して、優れた人間のみが生存すべきである。ユダヤ人や障害者は、生殖や生きる価値もないとした。アーリア人以外の人種は劣等であるとした。1934年1月に遺伝的疾病予防法が施行されて、精神障害者・てんかん・盲・聾・身体障害者、知的障害者、アルコール中毒者などに強制不妊、断種手術が処置された。遺伝的疾患患者を抽出するために、警察、医療福祉系書類、カルテが検閲されて、警察権限で強制連行した。人種台帳に登録されるには、少なくとも1950年代以降に純粋なアーリア人である証明が必要であった。


2019年10月18日金曜日

ウンデット・ニーの虐殺で、アメリカ先住民であるインディアンが悲惨に殺害された多数の死体が、豪雪の荒野に散在した。

1980年のウンデット・ニーの虐殺で、アメリカ先住民であるインディアンが悲惨に殺害された多数の死体が、豪雪の荒野に散在した。非武装のインディアンは、米国騎兵隊の無差別の砲撃と射撃により、約150人が虐殺された。その約150人の犠牲者うちで、約44人の女性と約16人の子供も虐殺された。1870年には、アメリカ合衆国には約4000万人もの入植者や金採掘者らが、農地や猟場を求める約30万人のインディアンを弾圧していた。
 アメリカ合衆国のサウスダコタ州南西部のパインリッジインディアン居留地にあるウンデット・ニーは、北米インディアンと米国政府の紛争地であった。1890年のウンデット・ニーの虐殺により、米国軍とスー族の分派であるラコタ族と最終的な衝突により、約150人のアメリカ先住民のインディアンが殺害された。1890年を通じて、米国政府はパインリッジでのインディアンのゴーストダンス信仰の拡大を懸念した。多くのラコタ族は、ゴーストダンス信仰を実践し、神は新たに世界を創造し、非インド人を含むすべての非信者を撲滅すると信じた。インディアンは伝統的な習慣を維持して居住地に留まった。1890年12月15日に、警察はゴーストダンサーと疑って、有力なラコタ族の首長を逮捕する過程で殺害して、パインリッジの緊張を高めた。約350人のインディアンが、パイン・ブリッジの特別保留地に向かった。その途中で、約500人の米国軍の騎兵隊が野営地をウンデット・ニーに変更させた。12月29日に、インディアンに武装解除をしている最中に、ライフルの発射から虐殺が勃発した。
 1980年12月29日に米国軍の騎兵隊は、ニークリークの近くにあるラコタ族の首長のよるゴーストダンサー運動を囲み、武器の投降を要求した。インディアンと米国騎兵隊の間で戦いが勃発し、砲撃と射撃が勃発した。どちら側から突撃かは不明である。残虐な虐殺が続いて、約150人のインディアンが殺害され、その半数近くが女性と子供であり、米国騎兵隊は約25人が殺害された。悲劇的で回避不可能な虐殺となった。重武装した軍隊に囲まれて、インディアンがが意図的な戦いの可能性はほとんどない。米国騎兵隊が1876年のリトルビッグホーンでの連隊の敗北に対して、意図的に報復したと推測されている。米国騎兵隊には名誉勲章が授与されて、ウンデット・ニーの虐殺をアメリカ国民は好意的に評価した。



2019年10月17日木曜日

南スーダンでは1歳半の男児が横たわり、顔に無数の蝿が追い払えず、瞳に蝿がたかり、涙から水分と栄養を奪い取った。

南スーダンは、2018年2月時点で、人口の約3分の2にあたる約700万人も飢餓状態に達して、5歳未満の子どもの約530万人も急性栄養不良状態に至る緊急事態に陥った。南スダーンの市民は、飢餓下で生活と生命をかろうじて維持している。首都のジュバの貧弱なマハド難民キャンプにス南ダーンの市民がなだれ込んだ。マハド難民キャンプでは、2018年5月には約7,800人が収容された。その難民キャンプには、多くの女性と子どもが収容されていた。テントの前で座り込み困窮した母親が、手を口に運び食糧を求めた。空腹で飢えた母親から母乳も出ない。何もないテントの中で、1歳半のルオーくんが横たわっていた。その顔には無数の蝿がたかり、追い払うことも困難であった。瞳に蝿がたかり、ルオーの涙から水分と栄養を奪い取った。気温40度を超える灼熱の中で、排水で汚染した水で下痢になった。雨期には、マラリアに感染した。いずれも、子どもから直ちに命を奪った。
 1956年にスーダンはイギリス・エジプトから独立した。その後から、イスラム教派のアラブ系住民が多い現在のスーダン共和国とキリスト教や伝統宗教が多い南スーダンは、北部と分離・独立を求める南部の内戦が頻発した。第1次スーダン内戦が1955年8月から1972年3月まで勃発した。第2次スーダン内戦が1983年3月から2005年1月まで勃発した。2011年7月になって、新たな南スーダン共和国が独立したが、内戦が頻発している。2013年12月と2016年7月には、2度にわたる戦闘が勃発した。2013年12月14日に、南スーダンの首都ジュバで、南スーダン人民解放軍の一部が反政府クーデターを引き起こして、内戦状態となった。2016年7月に首都ジュバで、大統領派と副大統領派が衝突して、再び内戦状態となった。



2019年10月16日水曜日

膨れ上がった2人のアメリカ人と1人のフィリピン人の死体が、バターンの死の行進に沿った排水路に散乱していた。

2人の膨れ上がった2人のアメリカ軍兵士と1人のフィリピン人民兵の死体が、1942年4月16日にオリオン市にてバターンの1つの排水路の中に、バターンの死の行進に沿って散乱していた。バターンからオーストラリアまで逃げ延びた3人のアメリカ兵が、「バターン死の行進」と名づけ惨状を伝えて日本軍の残虐性を示した。
 日本軍は、1941年12月22日にフィリピンのルソン島に上陸した。アメリカ軍とフィリピン軍は、1942年4月9日に日本軍に正式に降伏した。日本軍は占領したフイリピンのバターン半島から、1942年4月に降伏した約76,000人の捕虜(約10,000人のアメリカ軍兵士と約66,000人のフィリピン軍兵士)を約106km(約66マイル)も灼熱の中を強制的にバターンの死の行進をさせた。主にバターン半島の南端のマリベレスから1942年4月9日から行進が始まり、サンフェルナンドまで強制的に行進した。その後に不衛生な狭苦しい列車に乗って、北のカパスまで鉄道で移動した。さらに約11km(約7マイル)も歩いた。アメリカ人とフィリピン人の捕虜を抑留する元フィリピン陸軍訓練センターがあるオドネル強制収容所まで連行した。捕虜が連行した地点に応じて5〜10日間続いたバターンの死の行進中に、水や食糧も与えられず死亡した。水や食糧を要求した捕虜の中には、打撲され、射殺され、縛られて、銃剣で斬首された。強制収容所にたどり着いた多くの捕虜は、後に飢餓と病気で死亡した。強制収容所に到着した捕虜はわずか約54,000人である。行進中に約500人のアメリカ人と約2,500人のフィリピン人が死亡した可能性がある。さらに約1,500のアメリカ人と26,000人のフィリピン人が強制収容所オドネルで死亡した。