2019年7月28日日曜日

沖縄戦で夜間にアメリカ軍の砲兵陣地に一斉に突撃した日本軍兵士が殺害された死体が散乱した。

夜間にアメリカ軍の砲兵陣地に一斉に突撃した日本軍兵士が殺害された死体が散乱した。夜襲に対して、アメリカ軍は照明弾と武力で対抗していた。悲惨な戦場には、累々と腐敗して死臭が立ち込める死体が散乱した。
 沖縄戦は4月30日に日本軍の地下司令部内には、再び大攻勢をかける狂風が吹き始めて決済された。同日には、ナチス・ドイツのヒットラーが自爆死した。日本は、全世界を相手に戦況は日々に悪化した。5月4日午前4時50分に、日本軍は一斉な射撃から反転攻勢の突撃をした。午後になるとアメリカ軍から大打撃と膨大な犠牲を受けて崩壊した。5月5日には、総突撃の完敗から中止にして持久戦に復帰した。
 陸軍の自然の洞窟の分室で、戦傷者の四肢をのこぎりで切り落としても、傷口からすぐにウジがわき出て膿が立ち込めた。5月9日に分室に迫撃砲を受けて、腹部を破裂した少女は、痛い痛いと叫びながら死亡した顔に薄化粧された。食糧の飯上げのために、炊事場から醤油樽を砲弾と射撃を受けながら這い戻った。5月11日からアメリカ軍は首里に対して総攻撃をした。アメリカ軍兵士も、首里の総攻撃で約2,662人が戦死した。日本軍は5月21日に、首里にとどまらず降伏しないで、死に場所を求めて、巻き込まれた住民と混在して南部に撤退して全滅する最後まで抗戦に転換を決裁した。残存する戦傷者には、非人道的な青酸カリを混ぜたミルクが配られた。5月23日に雨中を南部の喜屋武半島への撤退を開始した。5月26日にアメリカ軍は、南部に撤退する住民に混じった隊列を察知して、撤退道に銃砲撃の犠牲で約15,000が死亡した。



2019年7月27日土曜日

太平洋戦争で、スコップを装着してヘルメットが脱げた海兵隊員が、ロイ=ナムル島のジャングルの中に倒れて戦死した。

太平洋戦争のロイ=ナムル島(Roi-Namur)の戦いで、アメリカ軍の海兵隊員が殺害された。スコップを装着してヘルメットが脱げた海兵隊員が、ロイ=ナムル島のジャングルの中に倒れて戦死した。ロイ= ナムル島はマーシャル諸島のクウェゼリン環礁から北部の島である。日本軍が1941年1月からクウェゼリン環礁を占領して委任統治していた。アメリカ軍の海兵隊が、1944年2月2日にクウェゼリン環礁のロイ=ナムル島に上陸して侵攻した。残存した少人数の日本軍兵士が、樹林が茂った椰子の丸太に潜伏してアメリカ軍の海兵隊員と戦闘した。アメリカ軍海兵隊は2月3日に日本軍兵士を全滅して、ナムル島を占領した。
  アメリカ軍は、1944年1月30日にマーシャル諸島に爆撃、1月31日に空爆と射撃した。日本軍はほとんど壊滅したロイ=ナムル島に、2月1日に上陸した。ロイ=ナムル島では激しい砲撃から生存した少数の日本軍兵士が、アメリカ軍兵士に対して僅かな反撃をして殺害した。日本軍兵士の塹壕を爆弾で爆破して、火炎放射器で焼き払って焼死させた。2月3日に日本軍兵士は数回の夜襲をかけて全滅して、アメリカ軍はロイ=ナムル島を制圧した。ルメット島とナムル島の戦いで、日本軍兵士は約2,540人が戦死して約11人が捕虜となった。アメリカ軍兵士は戦死者は約195人以上、戦死者は約545名以上が犠牲となった。



2019年7月26日金曜日

ユーゴスラビアのパルチザンは、ナチス・ドイツの野戦憲兵隊の命令により、セルビアで吊り下げられて絞首刑された。

ユーゴスラビアのパルチザンは、ナチス・ドイツの野戦憲兵隊(Feldgendarmerie)の命令により、1941年にセルビアのウジツェ地方のポジェカで吊り下げられて絞首刑された。ナチス・ドイツの野戦憲兵隊は、ドイツ国防軍の侵略した最前線の占領地域を治安を維持した。市民を統制して、パルチザンや敵敗残兵を探索して処刑して掃討した。1943年以降に、ナチス・ドイツ軍の撤退とともに、残酷な軍規律の治安と維持も任務となった。脱走兵などは即時に銃殺して、戦傷者を探索して、詐病や逃亡の容疑者も即刻に処刑した。
 第2次世界大戦で、戦前のユーゴスラビア王国の領土は、ナチス・ドイツなど枢軸国やファシスト勢力によって分割された。チトー書記長が率いる共産党のパルチザン勢力は、ナチス・ドイツのユーゴスラビア侵攻などに対して1941年に武装蜂起をして、ユーゴスラビア人民解放戦争が勃発した。ユーゴスラビアのパルチザンは多民族で構成されていたが、1943年には壊滅状態まで追い込まれた。戦闘による犠牲者は、約100万人以上に達した。徐々に連合軍やソ連軍の支援を獲得して、自力で全土を掌握した。終戦後の1945年11月にユーゴスラビア連邦人民共和国の独立を宣言した。 


2019年7月25日木曜日

ソビエト軍との残虐行為に対する報復として、SSヴァーキングはガリツィア在住の約600人のユダヤ市民を大量虐殺した。

ナチスである国家社会主義ドイツ労働者党の独自の武装親衛隊(SS-Waffen)は、ポーランドならびにロシアでも残虐行為を行った。SSヴァーキング(SS-Wiking)も、一部の残虐行為に加担した。ソビエト軍による虐待と虐殺に対する報復として、SSヴァーキングはガリツィア(Galicia)在住の約600人のユダヤ市民を大量虐殺した。ガリツィアのユダヤ人は、ポーランドとウクライナの間で、徹底的に排除され、囲い込まれ、搾取され、破局した。
 ナチス・ドイツは深刻な人員不足となった武装親衛隊は、ドイツ軍の占領地域から志願兵を募ってSSヴァーキングを組織した。弱体化した自国政府を失望したオランダ、フランス、デンマーク、ノルウェーなどが、純粋北欧人種国の実現を希望して入隊した。1939年の約8000人から1940年には約15万人にも達した。
 ポーランド軍は、ソ連軍との紛争で1919年にガリツィア占領した後に、ウクライナ人を弾圧して、巻き込まれたユダヤ人を大量虐殺した。1929年に対抗するウクライナ民族主義者同盟(OUN)を結成して独立を目指した。ソ連の秘密警察とユダヤ人らによって、ウクライナ人が弾圧されて、1932年には人為的な飢餓テロルにより、約500万人のウクライナ農民が餓死した。ウクライナ民族主義者同盟は、ポーランドとソ連への対抗するために、ナチス・ドイツを味方に引き入れた。1941年6月22日からのドイツ・ソ連戦争が勃発すると、ナチス・ドイツ軍がガリツィアを占領した。ウクライナ人とナチス・親衛隊の特殊部隊は、ガリツィアのユダヤ人を集団的迫害をした。迫害された約57万人ものガリツィアのユダヤ人は、ナチス・ドイツのベウジェッツからヤノフスカ絶滅収容所に強制連行されて、大量虐殺された。第2次世界大戦後にポーランドは単一民族国家となり、ガリツィアはポーランド人とユダヤ人が消滅してウクライナに併合された。


2019年7月24日水曜日

シベリアに抑留された日本軍兵士では、重篤な栄養失調が、死亡者数の約92%を占めた。

ソビエト軍は1945年8月9日により、終戦直前に満州から朝鮮半島北部と北方四島などに侵攻した。終戦で戦地で降伏した約65万人もの日本軍兵士の約81%がシベリア、約14%が中央アジアの強制収容所に抑留された。シベリアでは、沿海地方に最大の約14.6%となる約66,470人が収容された。
 シベリアに抑留された日本軍兵士では、重篤な栄養失調が、死亡者数の約92%を占めた。1日は500カロリー以下で、飢餓による低栄養とシベリアの過酷な厳しい酷寒、さらに重労働から、活動も体力も失って、やせ衰えた。低栄養が重篤になると、顔から前身の浮腫、ひどい痩せ、無気力や無感動の精神機能の低下に陥る窮極の栄養失調者(ドハジャーガ)から餓死に至る。特に飢餓こそが起源となり、重労働と酷寒が追い打ちして、多大の日本軍兵士である囚人が犠牲となった。
 抑留された日本軍兵士は、1946年1月には約6,881人と最大の月別の死亡者数となり、約4割が栄養失調よる死因であった。ソ連は、日本軍兵士の囚人が食糧が不足していても放置して、日本に帰還させなかった。強制労働のノルマによって約80%以下になると、食糧の配給が増減した。1947年12月11日の内務省令でノルマ給食制度が廃止されるまで、営倉に収容されて懲罰が科された。虚弱にや病弱になるほど、逆に一層の低栄養に陥った。抑留者を牛馬のように死するまで酷使されて、ノルマ達成するために。働くほど体力を失って早期に死亡した。シベリア抑留者数の内訳は、捕虜収容所に約386,972人、作業大隊に約53,521人、特別病院には約142,000人を配置された。


太平洋戦争の終結後の1945年9月15日に、マーシャル諸島におけ日本軍病院で、日本海軍兵士が窮極の栄養失調者(ドハジャーガ)の飢餓に陥っていた。

2019年7月23日火曜日

朝鮮戦争の多富洞の戦いで、破壊された北朝鮮軍の戦車の側に、殺害された北朝鮮兵士の腐敗した死体が散乱した。

朝鮮戦争の多富洞の戦いで、1950年8月13日に多数の北朝鮮軍兵士が殺害されて、戦車が破壊された。その破壊された戦車の側に、殺害された北朝鮮兵士の死体を9月22日に検証した。戦場には腐敗して食いつかされて兵士の死体や牛馬の屍体も散乱していた。
 朝鮮戦争は、1950年6月25日午前4時に北鮮軍の砲撃から30分後には約10万の北朝鮮軍兵士が38度線を越えた。北朝鮮軍は韓国軍を圧倒し、6月28日にソウルを占領した。アメリカ軍と国連軍が7月7日から軍事介入するも敗走を重ねて、8月5日には釜山にまで追い詰められた。釜山の周囲を固めたアメリカ軍と国連軍に対して、多富洞という谷間の村に、北朝鮮は8月13日に集中攻撃した。韓国軍の白師団長の突撃から逆襲して、形勢を挽回して、北朝鮮軍の攻勢を止めた。釜山橋頭堡が破綻を免れて、朝鮮戦争の転機となった。
 1950年から1953年まで続いた朝鮮戦争中に、アメリカ軍は北朝鮮の町や都市を爆撃した。さらに農村部の襲撃は農地の洪水と作物の破壊をもたらした。南北を分ける38度線および中国と北朝鮮の国境の間では、すべてのものの上に立っている建物を爆撃した。アメリカ軍は、北朝鮮と中国の国境を越えて、世界初のジェット戦闘による空中戦を集結した。1980年代に空軍は北朝鮮を焼夷弾で襲撃した。北朝鮮のあらゆる町、韓国のいくつもの町も全焼した。アメリカ軍は戦争中に約635,000トンの爆薬を落とし、焼夷弾のナパーム弾を32,557トン投下した。朝鮮戦争により、朝鮮市民の惨めさ、病気、痛み、苦しみ、飢餓は激烈に悪化した。
 朝鮮戦争の総死傷者数の想定は、韓国軍は約217,000人、北朝鮮軍は約406,000人、中国軍は約60万人、そしてアメリカ軍は約36,000人である。約300万人以上の朝鮮半島の市民は戦闘で殺害されて、特に国境の両側で大虐殺された。朝鮮半島の戦前の人口の約10%も虐殺された。北朝鮮における死傷者数は人口の約12%から15%であった。3年ほどの間に、韓国の人口の20%が直接の戦争による犠牲者として、あるいは飢餓と被爆により戦死した。北朝鮮の金日成は朝鮮戦争による北朝鮮市民の犠牲を逆用して、「戦争のための我々の準備で最も重要なのは、全国民に米国帝国主義を憎むように教育することだ」と宣告した。



2019年7月23日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 240,000回

2019年7月22日月曜日

第1次世界大戦の東部戦線において、塹壕の内にロシア軍兵士の戦死者の死体が散乱した。

第1次世界大戦の東部戦線において、塹壕の内にロシア軍兵士の戦死者の死体が散乱した。第1次世界大戦は1914年7月に勃発した。ドイツ対フランス間の西部戦線と、ロシア対ドイツ・オーストラリアの東部戦線が主戦場となった。1916年には、西部戦線のヴェルダンとソンムの戦いで悲惨な戦闘が膠着して犠牲者が増大した。東部戦線は、バルト海のリガの西部から南下してて、黒海まで至った。1915年4月末までに、ロシア軍兵士の戦死は約12万5千人、戦傷者は約61万2千人に、行方不明は約45万5千人、全動員兵士の14.4%にも達する総計の犠牲者は約119万2千人にも及んだ。
 これらの戦線の両陣営には、大軍が塹壕を掘って突撃して潜伏を繰り返した。近爆撃機、戦車、毒ガスなどの近代兵器により、膨大な兵士が虐殺された。第1次世界大戦から両軍ともに戦線から回避できずに、兵士は悲嘆や憤慨を忍耐するしかなかった。1916年10月1日から、ロシア軍の一部隊が攻撃命令を拒否して、首謀者が銃殺された。11月に入ると、さらに西南方面で多数の攻撃の拒否が勃発した。軍法会議で、197人に死刑が執行された。次第に、ロシア市民は、戦争を嫌悪して、国家の信頼を失った。戦争を推進する国家、帝国からの疎外感、政府への反発、支配者である皇帝への不信感、幹部の横柄などにロシア市民は反発した。1917年2月23日の国際婦人デイで、首都ペトログラードの女子労働者のストライキを始点とした。2月26日にロシア軍が市民に発砲して、軍隊も反乱を起こして、ロシア10月革命が勃発して帝政ロシアは崩壊した。



2019年7月21日日曜日

ナチス・ドイツは、障害者(児)を灰色のバスで移送した6つの精神病院の毒ガス室で大量虐殺をした。

ナチス・ドイツによって障害者(児)の大量虐殺は、6つの精神病院に設置された毒ガス室の施設で執行された。ドイツのほとんど全ての精神病院から一酸化炭素の毒ガス室の施設に強制移送された。強制移送の実行会社は、「公益患者移送有限会社(Gevrat)」と呼称された架空会社であった。当初は「帝国郵便バス」に偽装していた大型バスで移送した。その後には、特別に調達されたバスの車体を灰色で塗り、客席のマドには白板で外界を塞いだ。それは、改装したバスは、残酷な「灰色のバス」と呼称された。1939年9月から終戦までの安楽死政策(Aktion T4)に基づき6つの精神病院で、約275,000人以上が虐殺された。
 Gervrat本部は、集積した精神鑑定医による調査票を集積して、生死を判別して障害児(児)の強制移送リストを策定した。リストの策定者名は、Gervratではなく、各精神病院を所管する各州の内務大臣名と印章した。Gervratは、死の「灰色のバス」で移送する障害者(児)の入所を早期入所を要求した。欠陥状態と判別された障害者(児)は、1人に約10kgまでの手荷物を携帯して、強制移送された。病院側は、Gevratに携帯品など記載した「受渡票」を提出した。入所している障害者(児)や関係者らに、死への旅立ちの様々な噂と不安が広がった。興奮した障害者(児)には鎮静剤を注射して昏迷して強制移送した。携帯品は、強制移送されたナチス・ドイツの安楽死作戦のT4職員により押収された。各地の精神病院からの強制移送数が、処理能力を越えた1940年秋頃から、さらに待機させる「中間精神病院」が指定されて、一部でも障害者(児)も抹殺された。額や前腕に青色で番号が記載された様々な老若男女の障害者で満杯となった。待機している期間には、毒ガスではなく、静脈注射によって虐殺された。



2019年7月20日土曜日

ソ連は1961年10月30日に人類の歴史上で、最も強力な核兵器である水爆をノーヴァヤ・ゼムリャー島で爆発させた。

ソ連は、1960年代初頭に連続して水素爆弾の核実験をした。1961年10月30日午前3時30分に、ソ連は人類の歴史上で、最も強力な核兵器を爆発させた。北極に浮かぶノーヴァヤ・ゼムリャー島で核実験された核爆弾は、TNT爆弾で約58メガトンに相当した。爆弾は核融合段階で、さらに強力なウラン238の代わりに、鉛タンパーを使う3段階の核融合した。空中投下され爆発して、少量の核分裂生成物が放出されて、何百マイルもの空間を照らした。重水素化リチウムと重水素化リチウムの核融合によって熱核エネルギーが生成された。順番に配置されたシリンダ内で、各段階が次の段階を発火した。1962年には、さらに20から30メガトン級のTNT爆弾に相当する4つもの水素爆弾が核実験された。アメリカ軍とソビエト連邦軍の冷戦における軍拡競争は互いの軍事行動に過激に反応して大きく軍拡された。
  他の原子力大国も水素爆弾の開発を追求した。第3番目のイギリスは1954年に、独自の水素爆弾の開発を決定した。1957年11月8日にクリスマス島で、TNT1.8メガトンに相当する水素爆弾を爆発した。第4番目の中国は、1967年6月14日に水素爆弾を爆発させた。最初の原子爆弾から32か月後にはTNT3.3メガトンに相当する熱核爆弾を爆発させた。最後にフランスが、水素爆弾の熱核融合装置を、1968年8月24日に太平洋のファンガタウファ環礁でTNT火薬2.6メガトンに相当した結果、環礁をひどく核汚染した。その他にインドとパキスタンの両国が、1998年の核実験に熱核装置またはブースト核分裂装置を実験したと推定された。イスラエルには核分裂に基づく核兵器があると推定された。世界の核兵器は、約6,000個以上もの核兵器があり、その大部分は熱核爆弾で構成した。既存の核の備蓄以外にも、核兵器計画を積極的に追求する国が他にもある。2006年に北朝鮮は限定核兵器を爆発させ模様である。イランの核実験計画の真意も未だに不明である。



2019年7月19日金曜日

北朝鮮の人民裁判で反動分子と断定され、死刑を宣告されると、直ちに市民の面前で、棍棒で頭部を破砕して殺害した。

朝鮮戦争は1950年6月25日午前4時において、北緯38度線から北朝鮮軍が突如の侵攻して勃発した。北朝鮮の奇襲でパニックに陥った韓国に対して、6月28日には、北朝鮮軍が韓国の首都であるソウルを侵略した。1950年7月2日に、北朝鮮のソウル市民会館前の路上で、韓国のソウル警察所長が人民裁判された。人民裁判で反動分子として断定された。人民裁判が死刑を宣告すると、直ちに人民裁判の面前で、棍棒で頭部を破砕して殺害した。膨大なソウル市民は大混乱に陥り、土地と家や家族を失って、難民が発生した。
 北朝鮮の侵略地域に対する占領方針は、朝鮮労働党政治委員会が策定した。その方針は、1) 政治的・思想的な敵対者を粛清する。2) 韓国青年を徴兵して、義勇軍として北朝鮮の人民軍を補助させる。3) 道路や橋などのインフラの復旧に韓国市民などを使役して強制労働させる。4) 韓国の地下組織を掃討して、北朝鮮幹部が実験を握る。5) 食糧などを徴収する。6) 韓国農民の支持を得るために土地を早期に無償分配する。
 韓国軍は6月28日に北朝鮮の南方侵略を阻止するために、残存していた韓国軍と難民が避難していた漢江大橋をもろともに爆破した。膨大な韓国軍兵士と難民は、漢江の以北に取り残された。北朝鮮軍は7月3日に漢揚江を渡河して南方に向けて急侵略した。アメリカ軍は6月26日の韓国軍の支援から6月27日から韓国への武力支援して朝鮮戦争に参戦を指令された。アメリカ軍が仁川の上陸してから攻勢に転じる9月16日まで、韓国南部の各地では、鮮血で染める悲惨な朝鮮戦争の戦闘により、兵士だけでなく市民も巻き込まれ、膨大な犠牲者出しながら、その死体が散乱した。





2019年7月18日木曜日

太平洋戦争のニューギニアのギルワの戦いで、ジャングル内の塹壕の入口で、連合国軍が殺害した日本軍兵士の死体が散乱した。

太平洋戦争におけるニューギニアの最終となるギルワの戦いで、ジャングル内に備えた塹壕の入口で、連合国軍により殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。ニューギニアは、日本の真南の約5000kmの赤道直下にあり面積は2倍で、ジャングルに覆われて、中央に約4,000mの山脈が連なった。1942年3月から悲惨な残酷な戦闘が勃発していた。日本軍兵士は、近隣のラバウル基地の防衛のために、日本軍兵士の約15,000人が北東のバザブアに上陸した。支離滅裂な大本営の命令により、日本軍兵士は8月から連合国の南東のポートモレスビー基地に向けて侵攻させられた。急峻なオーエン・スタンレー山脈を越えられても、連合軍の封鎖により補給が途絶えて9月から悲惨な撤退をした。再び山脈を越える退却の途上で、栄養失調による飢餓と伝染病などで到るところで餓死に陥った。
 日本軍の基地であったブナ地区のバサブア、ブナとギルワの拠点に残存兵が帰還した。約10倍もの連合国軍のブナ地区に対する11月からの猛攻撃により、最初にバサブアが12月8日に壊滅した。次いで、ブナが1943年1月2日に壊滅した。最終的に残存したギルワの日本軍が、連合国軍の総攻撃により1月17日に全滅した。ニューギニアを脱出した約1,000人を除いて、ニューギニア各地のジャグルの中に日本軍兵士の死体が散乱した。1943年2月9日に、大本営は「ブナ付近に挺進せる部隊は寡兵克く敵の執拗なる反撃を撃攘しつつありしがその任務を修了せしにより、一月下旬陣地を撤し他に転進せしめられたり」と、ブナ地区の日本軍守備隊は全滅して虚偽の公表をした。


2019年7月17日水曜日

アメリカ軍は極度の栄養失調なって飢餓から餓死になりかける日本軍兵士の捕虜をサンダカン保領収容所に護送した。

太平洋戦争が終戦を迎えていた1945年10月に、北ボルネオのサンダカンの捕虜収容所に、アメリカ軍は極度の栄養失調なって飢餓から餓死になりかける日本軍兵士の捕虜を護送した。補給品を運搬する日本の船舶は、アメリカ軍により入港できないように封鎖された。
 逆に日本軍は1945年1月から、捕虜にした連合国兵士をサンダカン捕虜収容所からラナウまで虐待と虐殺のサンダカンの死の行進を強制した。約1,000人の捕虜のうち 約99.3%が飢餓に陥ると虐殺されて餓死して、わずか約7人のみが生存した。戦後にBC級裁判で、日本軍の幹部は極刑に処された。
 太平洋戦争において各地で日本軍兵士に食糧の供給が完全に停止して、多数の悲惨な餓死の犠牲になった。餓死した死体があちこちに散乱して、腐敗した死臭が漂い、ウジ虫などにたかられて、骸骨やミイラなどに変態した。栄養失調で移動できない日本軍兵士には、手榴弾や拳銃での自殺を迫った。特に太平洋諸島では、自家栽培や略奪による自給自足は困難を極めた。
 太平洋戦争のガダルカナル島では、日本軍兵士の全戦死者数の約20,000のうち、餓死者数は約4分3の約15,000人を占めた。ニューギニア島では、派遣された日本軍兵士の約157,646人のうち生存者はわずかに約6%の約96,000人のみであった。戦死者のほとんどは餓死あるいは伝染病である熱帯熱やマラリアなどで死亡した。フィリピンの戦いでは、日本軍兵士の約498,000人のうち約400,000人の約80%を占めた。太平洋戦争の期間中である1941年から45年に、総計で約1,740,000人が死亡して、その内で約1,000,000以上が栄養失調に伴う餓死あるいは疾病で死亡した。大本営は食糧の供給をせずに、日本軍兵士に敵国の軍隊が奪い取り自給自足を指令して、悲惨で膨大な餓死者を見捨てた。



2019年7月16日火曜日

沖縄南部の戦いの悲惨で容赦のない戦闘に、アメリカ軍と日本軍兵士さらに沖縄住民が巻き込まれた。

太平洋戦争の末期に、沖縄の戦いにて、本島南部で最終的な悲惨で容赦のない戦闘に、アメリカ軍兵士と日本軍兵士さらに沖縄住民が巻き込まれた。1945年5月27日から、約3万人の兵士が沖縄の首里を撤退して、沖縄住民が従った。5月下旬の梅雨による泥川の中を日本軍兵士と沖縄住民の集団が南部に向けて逃避した。5月27日にアメリカ軍の観測機が、日本軍と沖縄住民の南下して後退を発見した。直ちに、アメリカ軍の砲兵隊と戦艦からの砲撃して、容赦なく襲撃して、膨大な日本軍兵士と沖縄住民が殺害された。さらに南風原の山川橋付近の死の十字路では、砲弾と射撃により、殺害された死体が石垣山のように重なった。
 アメリカ軍は6月7日には、南部の喜屋武半島を包囲して、容赦のない総攻撃をした。摩文仁丘の周辺に逃げ惑う約3万人の日本軍兵士と約10数万人もの沖縄住民が混在と混乱を来した。あらゆる砲撃や射撃をさけるために、地下のガマや民家から森やアダン林、岩陰に潜伏した。無差別に掃討するためのアメリカ軍の砲撃と射撃から火炎放射や手榴弾などで焼け尽くし崩壊した。日本軍兵士と沖縄住民の死体が散乱した上を、地獄のような戦場から日本軍兵士と沖縄住民が逃げ惑った。沖縄本島の南部の戦場に巻き込まれて、沖縄の戦いの犠牲者の約8割以上を占めた。沖縄の戦いの犠牲者の推定では、日本軍兵士の戦死者数は約94,136人で沖縄住民は約94,000と総計で約200,666人にも達した。アメリカ軍兵士の戦死者数は約12,520人に及んだ。最終的に1945年7月2日に沖縄の戦いは終結した。



2019年7月15日月曜日

ビルケナウ第二強制収容所から、ユダヤ人の少年と女性の2人の生存者が解放され、周囲には多数の子どもの死体が散乱した。

アウシュヴィッツのビルケナウ第二強制収容所から、ユダヤ人の若い少年と中高年の女性の2人の生存者が解放された。その周囲には多数の子どもの死体が散乱していた。ソ連軍により、オシフィエンチム市のブジェジンカ村のビルケナウ第二強制収容所は、1945年1月27日に約7,000人の囚人が解放された。その中には、約200人の子どもたちも含まれた。アウシュヴィッツ第一強制収容所は1940年5月20日に、ナチス・ドイツ軍が占領したポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語: アウシュヴィッツ)に、ビルケナウ第二強制収容所は1941年10月8日に、近隣であるブジェジンカ村(ドイツ語: ビルケナウ)、さらにモノヴィチェ村に1942年10月に、モノヴィッツ第3強制収容所(ドイツ語: モノヴィッツ)が開所した。
 ナチス・ドイツ軍は、ソビエト連邦に対する1941年夏と秋のバルバロッサの戦いに勝利して、ナチスの反ユダヤ人の過激主義とアウシュヴィッツに搬送される囚人の要件に変化をもたらした。アウシュビッツ第一強制収容所の混雑を緩和するために、約3km離れたビルケナウ第二強制収容所の建設が1941年10月に開始した。強制収容する約5万人のソ連兵の捕虜を収容することを意図した。ビルケナウ第二収容所には当初は約15万人が、最終的には約20万人もの囚人の収容が求められた。1941年10月に最初の約1万人のソビエト軍の捕虜がアウシュビッツ第一収容所に到着したが、1942年3月までに約945人のみ生存した。彼らのほとんどはビルケナウ第二収容所に移送されて、1942年5月までに死亡した。ナチスはユダヤ人を全滅させために、ビルケナウ第二収容所は強制労働から絶滅収容所となった。
 戦闘にはかかわらず、ビルケナウ第二収容所は必要な建設を遂行した。ビルケナウ第二収容所には、4つの火葬場、新らたな収容所ビル、その他何百ものビルが建設された。死の門から強制収容所内まで延びる鉄道引込み線は1944年5月に完成した。各兵舎のために当初は約890万RM(1924年-1948年はReichsmark)の予算に基づいて、約550人の囚人を保持した。その後に各兵舎を約744人に変更した。収容所は約97,000人から約125,000人を収容できた。親衛隊は兵舎を破壊するほど人々を収容した。約174の兵舎があり、各約35.4×11.0mの面積で、約62平方mを約4平方mに分画した。最初は3人の収容から、4人の寝所に分画された。生存するために必要な最低限の空間に、受刑者は強制収容された。


2019年7月14日日曜日

長崎原子爆弾により這って出る姿のまま黒焦げになった骸骨が瓦礫に埋もれていた。(長崎)

長崎原子爆弾「ファットマン(Fat Man)」が1945年8月9日の午前11時2分にアメリカ軍の爆撃機B-29「グーレート・アーティスト」から投下されて炸裂した。8月10日に爆心地から南約300m付近の長崎市浜口町北端に、這って出る姿のままの黒焦げになった骸骨が瓦礫に埋もれていた。民家の屋内防空壕から逃避するも、家の崩壊して脱出できずに、まる焦げになり焼死していた。跡形も無くなり、何も見分けもつかない死体が散在していた。原爆が炸裂した直後から焼ける猛煙で一面が真っ黒になった。家の下敷きになって生きたまま焼け死ぬ多数の悲鳴が響いた。下敷きになり焼け死ぬ者の救出は、猛火の中を逃げ回る被爆者らにはとても不可能となった。
 原子爆弾は、炸裂時に猛烈な熱線を放出する。熱線により、爆心地付近は一晩中にわたり燃え続けてほとんど焼失して全滅した。何千度の高熱で、人も建物も何もかもが炭化した瓦礫になった。爆心地から約2km付近までは、非常に重態の火傷を受けた。爆心地から約4km付近までは、露出した皮膚に火傷を受けた。