2019年7月8日月曜日

トゥラン・スレン 監獄で、多数の処刑されたカンボジア市民らと彼らの死体の写真が残存していた。

カンボジアのクメール・ルージュのポルポト政権により、膨大なカンボジア反活動市民らから幹部までも処刑された。189の監獄のうちで、最大であったトゥラン・スレン (Tuol Sleng) 監獄の写真室から、一部の処刑された人々の処刑日と名前と囚人番号のカードなどが発見された。さらに残酷な拷問から強要された自白などにより死刑になったカンボジア反活動市民らの絞殺などによる死体の写真も見出された。フランス人系あるいは中国系カンボジア市民などの写真も混在していた。一部の死体には、処刑の年月日などを記載した名札を付着していた。ポルポト政権の処刑担当者が、処刑された死体を撮影していた。
 写真撮影室には、多数の処刑されたカンボジア市民らと彼らの死体の写真が残存していた。死刑を執行すねる直前に、名前と処刑年月日を記載したカードを持たせて、生前の正面と横からの顔写真を撮影していた。写真室には、目印のカードや顔写真などがの残存していた。処刑された囚人の写真の中には、記念写真も含まれていた。さまざまな死刑後の死体の写真も残存していた。首吊りの縄が首を絞殺したり、大きな傷口のある死体が撮影されていた。ポルポト政権が、敵対勢力となる可能性のあるカンボジア市民や容疑者を徹底的に虐待と虐殺して、恐怖政治が支配した。
 トゥラン・スレン監獄は、クメール・ルージュ支配下のカンボジアにて設けられていた政治犯収容所であった。クメール・ルージュは、プノンペン郊外の高校を1976年にS-21 (Security Prison 21)と改名し、拷問、尋問の虐待と虐殺および執行のトゥラン・スレン監獄とした。入所した約14,000人のうち7人のみが生存した。クメールルージュは、囚人の大多数を撮影して、回収された約6,000人のS-21写真は悲惨な写真記録であった。その虐殺された死体の残酷な骸骨は集団墓地から発掘された。1979年1月7日にベトナム軍がプノンペンを侵略した時に、死体の悪臭からトゥラン・スレン監獄が摘発された。



2019年7月7日日曜日

オランダ人の父親はキーストーンで、路上に横たわる小さな娘の死体を恐怖に怯えてぼうぜんと見つめた。

ナチス・ドイツ空軍が爆撃機を編成して、1940年5月10日にオランダのアムステルダムを猛烈な空爆をした。オランダ人の父親はキーストーンにて、路上に横たわる小さな娘の死体を恐怖に怯えてぼうぜんと見つめた。父親自身も空爆により、頭、腕、足を重症に負傷していた。ドイツのオランダ侵攻するために、ドイツ空軍は、オランダ上空で一日中も爆弾を投下した。膨大な建物が破壊されて、多数の市民が空襲により戦死傷した。オランダのアムステルダムにある青色の橋(Blauwgrug)とヘロン運河の間を不意に空襲された。その当時は、オランダは、ドイツに対して中立宣言をしていた。ナチス・ドイツ軍はオランダに、1940年5月10日に突然に侵攻した。爆撃後から5月17日にオランダはドイツに降伏をした。
    1940年の春に、ナチス・ドイツは勇気にあふれ、征服者として地位を確立し、わずか約100日以内に6カ国を征服することに成功した。1940年4月に、ドイツはわずか6時間でデンマークの首都を侵略した。同時に、ナチスの戦艦と軍隊はノルウェーの海域に入り、船と歩兵を攻撃し、2ヶ月間にわたる対立が勃発した。5月10日に、陸上と空中から200万人以上のドイツ軍兵士が、ブリッツクリーク戦術を使用して、フランス、ベルギー、ルクセンブルク、オランダに侵入した。低地小国の首都は数週間で陥落した。しかし、フランスは6月22日まで耐えてから、その後休戦は署名された。また、この期間中、ソビエト連邦は、エストニア、ラトビア、およびリトアニアで侵攻して、強制的に併合した。夏の終わりまでに、ドイツ軍はイギリスのための戦いを深め、苛立たしく作戦をした。ドイツ軍はオランダ征服後に、他のドイツ占領地域と比較しても、厳しいユダヤ人狩りをした。当時のユダヤ人約14万人のうち約11万人以上が絶滅・強制収容所に送還されて、戦後まで生き延びたのは、わずか約6,000人であった。『アンネの日記』の作者であるアンネ・フランクもアムステルダムで摘発されて虐殺された。



2019年7月6日土曜日

袋町国民学校に救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、肉親を探し求めた多くの伝言が残っていた。(広島)

広島原子爆弾の投下して炸裂により、被爆者が袋町国民学校に救護された。救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、「ミチコどこへ行った、母が来た」というような肉親を探し求めた多くの跡が残っていた。被爆者の書き置きが、救護所の壁の左の上部に残った。当時救護所として利用されていた校舎の壁や黒板に、家族などの行方を捜す多くの伝言が残った。学校近くの病院に勤めていた娘を探す母が「田中鈴江 右ノモノ御存知ノ方ハお知らせ下さい」と書き残した。「高一 瓢文子ガ火傷シテ・・・治療ヲ受ケテヰマス・・・」と担任が、被爆した生徒を伝言した。 
 1873年から開校した袋町国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mにあった。炸裂後にほとんど教職員と疎開しなかった2年生以下の生徒らの約160人は広島原爆で即死した。すべての木造の校舎は倒壊して焼失した。第二次世界大戦の前に鉄筋コンクリートで作られた西校舎だけは、広島原爆投下した後も校内で唯一の建物として残った。外観だけ留めた西校舎は、被爆直後から救護所として使われた。家族や知人が、被爆者の消息を求めて西校舎に、連絡手段の代わりに伝言を壁に書いた。2000年に、西校舎の建て替えのために解体した時に、救護所であった壁の漆喰や黒板から多くの被爆伝言が発掘された。2002年に西校舎の一部が、平和資料館として残存されている。



2019年7月5日金曜日

スタリノゴルスクの戦いにて、ボロホフカ通りにてソビエト軍兵士がドイツ軍に殺害された死体が積雪して凍結して散乱した。

スタリノゴルスクの戦いにて1941年11月に、ボロホフカ通りにてソビエト軍の第413歩兵師団兵士がドイツ軍に殺害された死体が積雪して凍結して散乱した。スタリノゴスは、現在のロシアのトゥーラ州の頭部にあるノヴォモスコフスクである。ドイツ軍により、1941年11月25日から12月12日まで侵略されて、市街地は壊滅した。侵略されたスタリノゴルスクは、侵略後に約17日間かけて、ソビエト軍により解放された。
  第二次世界大戦にて、ドイツ軍は攻勢してソビエトの首都モスクワに接近した。その防衛のために、ソビエト軍にはシベリアから第413歩兵部隊が合流した。スタノゴルスクにて、ドイツ軍は、ソビエト軍を迫撃砲と戦車で包囲して爆撃した。ドイツ軍は、補給も途絶えて旧式な武力により弱体化したソビエト軍を直撃して壊滅した。約1週間の戦闘で、ほとんどのソビエト軍兵士は殺害されて、約16,000人のうち約6,000人が戦死傷した。ドイツ軍の侵攻により川中に挟まれたソビエト軍兵は、シベリア兵士は11月の寒気の中でも川に飛び込み、顔だけを水面に接して、数時間も水中で呼吸しながら潜めた。さらに撤退して残存した多くのソビエト軍兵士はドイツ軍の捕虜になった。ソビエト軍が12月5日にモスクワからドイツ軍を反撃して、12月12日にスタリノゴルスクを、12月16日にトゥーラを解放した。




2019年7月4日木曜日

沖縄戦において、神風特攻隊が駆逐艦ブレインに突入し船体に激突して爆発して破砕されて甲板にめり込んだ。

沖縄戦において、日本軍の特別攻撃隊(特攻)の航空機が、アメリカ軍の戦艦に自殺的行為となる自爆攻撃を敢行した。1945527日に神風特攻徳島第三白菊隊、陸軍振武隊が、午前744分に駆逐艦ブレインの船体に突入した。駆逐艦ブレインには2機が命中にて大破して、アメリカ軍兵士は約50人が戦死して、約78人が戦傷した。
 必死となる神風特攻機が船体に激突して爆発してこなごなに破砕されてめり込んだ。船体内には、自爆した特攻機は甲板を貫通して、原型を留めないで、発動機が粉砕して散乱した。飛行機を操縦していた日本軍兵士の身体はばらばらに破裂して戦死して粉砕して焼失した。航空機による体当たり自爆攻撃は、19441019日に特攻を指令された江田島の海軍兵学校卒らにより1020日に零戦を改修した神風特攻隊が編成されたのが始点となった。
 太平洋戦争の末期となった沖縄戦にて、日本軍は194546日から622日まで断続的に特別攻撃隊による自爆攻撃をアメリカ軍の戦艦に突入させた。沖縄戦の特攻により、日本海軍兵士は約2,045人、日本陸軍兵士は約1,022人の総計約3,067人が戦死した。アメリカ軍の戦死者は約4,907人と戦傷者は約4,824人と上回った。日本軍の大本営は、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した41日に陸海軍全機特攻化を厳命した。特攻機は次第に、アメリカ軍からの徹底した猛烈な対空射撃により、撃墜されて操縦不能となり海中に水没死する頻度が高くなった。海軍は約940機と陸軍は約887機の総計約1,827機に対して特攻を指令して敢行させた。命中したのは、わずか133機であり、命中率は約7.3%に過ぎなかった。



2019年7月3日水曜日

第二次上海事変にて、日本軍に対する中華民国軍の爆撃により、大世界で上海市民が大量虐殺された。

日中戦争における第二次上海事変にて、日本軍に対して1937年9月3日に上海の大世界において中華民国軍の爆撃により、上海市民が大量虐殺された。上海の路上には、上海市民の死体が散乱して、死屍累々たる惨状となった。
 日中戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件により勃発して上海まで波及した。8月12日に中国民国軍が、上海共同租界の日本軍を包囲して上海事変に陥った。1937年8月14日に中華民国の爆撃機が、上海市内の日本海軍陸戦隊の本部などを爆破した。上海市内の繁華街で約200人以上の上海市民が死傷して大惨事となった。中華民国軍からの爆弾は、大世界の入り口や南京路外灘にも投下された。日本軍の攻撃による中華民国軍の破損による誤爆と逆説もされている。
 国際的にアメリカの写真通信社のACME(UPI通信社の前身)が発信して、日本軍に対する国際的批判が巻き起こった。ACMEによれば、上海市民が数百人死亡した現場である。日本軍の猛烈な対空砲火から逃れようとして、大混乱に陥った上海市民に対して、中華民国の爆撃機から爆弾が投下された。上海の大世界は、歓楽街であり、多数の上海市民が集合していた。イギリスやアメリカから発信されて、中華民国軍の爆撃ではなく、日本軍の非人道的行為のみが強調された。日中戦争により、中国の各地での死闘により、多くの市民が巻き込まれて悲惨な犠牲者となった。日本と中国の全面戦争に拡大して、時期尚早に対米戦争への突入の起因ともなった。



2019年7月2日火曜日

沖縄戦にて日本軍兵士が夜襲をかけて突撃して、アメリカ軍により殺害されて、死体が荒野に散乱した。

沖縄戦にて1945年4月11日に、日本軍兵士がアメリカ軍に対して突撃する夜襲をかけて、アメリカ軍により殺害された。多くの日本軍兵士が壊滅した戦死体が、荒野の路上に散在した。
 日本軍兵士は、4月4日夜からの突撃の命令に基づき、日本軍は壊滅して戦死者数が増大した。突撃によりほぼ全滅状態に陥って、突撃して一時的に占領するも、夜明けとともにアメリカ軍の集中砲火をうけて壊滅した。アメリカ軍の猛烈な反撃により日本軍兵士は撤退に追い込まれた。軍司令部は、4月13日に総突撃を中止して、玉砕ではなく、持久戦の展開を決定した。なお残存する日本軍兵士と足腰の立つ沖縄住民とをもって、最後の一人まで、沖縄の島の南の崖、尺寸の土地の存する限り、死闘を続ける方針となった。日本軍の総攻撃の中止と戦力が極度に低下したことで、沖縄戦の敗北は確実となった。これ以降、沖縄住民を兵力として使用し、沖縄島の南の端まで追い詰められても持久戦を継続すると決定した。沖縄戦は市民を巻き込んだ沖縄での死闘となった。
 この最終攻撃では、浦添や西原の村々に留まっていた女性や高齢者、子どもが多数戦闘に巻き込まれ死傷した。日本軍による食糧強奪や壕からの追い出しも多発して、戦場に残った市民が犠牲となった。特に、浦添村の安波茶で約157人(人口の約75%)、宮城で約309人(約70%)、前田で約551人(約60%)、仲間で約316人(約62%)が殺害されて、住民の過半数以上が犠牲になった。日本軍内にて、異常な狂気となる精神状態や疑心暗鬼、極度の住民に対する恐怖から、住民に対する虐待と虐殺が多発した。沖縄市民に対する多分な人種・民族的な差別・蔑視・偏見に基づいた虐待と虐殺がも散らされた。日本軍司令部が6月23日に摩文仁で自決して、日本軍の統制が消滅して、沖縄戦の死闘は終結した。



2019年7月1日月曜日

日本軍兵士らは、朝鮮市民による義兵を見せしめにする公開死刑の刑場に連行した。

日本軍が1894年8月1日に勃発した日清戦争にて1895年4月17日に清国に勝利した後から、1910年8月29日に韓国併合する前後まで、朝鮮市民による反日武装闘争が拡大した。とりわけ1907年の日本の統監府による韓国軍隊の解散をきっかけに義兵運動は全国的規模で激化した。日本軍は大規模な部隊を送り、朝鮮市民による厳しい義兵運動の鎮圧にあたった。日本軍兵士と警官らによって、朝鮮市民らに見せしめにするために、義兵を公開死刑する刑場に連行した。
 義兵は、政府の正規軍ではない朝鮮の伝統敵な民兵である。朝鮮の国家や民族の存亡の機器に、自主的な民族の義兵闘争が勃発した。豊臣秀吉が朝鮮出兵をした1593年から1598年の文禄・慶長の役でも、義兵が最も奮闘した。共同日清戦争の終結した1895年から、第一次義兵闘争は、反侵略と反封建を目指して、弱体化した軍隊に代わり闘争した。第二次義兵闘争は1905年の第2次日韓協約の締結から激化して、1907年に日本が強制解散させた朝鮮軍が義兵闘争に合流して、朝鮮は動乱となった。1907年12月から分散していた義兵が集結した闘争となった。日本軍は1909年9月から、義兵を根絶する南朝鮮大討伐をして掃討した。捕獲された義兵は、強盗・殺人罪として、各地に死刑にされた断頭が散乱した。1909年10月26日に明治政府の伊藤博文初代首相は、義兵闘争した安重根に暗殺された。一気に義兵闘争を鎮圧した日本は、ついに1910年8月26日に大韓帝国と韓国併合条約を締結し、韓国併合を措置した。



2019年6月30日日曜日

イラク戦争で路上にて敗退したイラク人兵の死体は、棺桶にも入れずに、ブルドーザーで廃棄処分された。

イラク戦争が終結した後に、イラク軍の敗残兵の多数の死体が、バクダット市内に散在していた。路上にて敗北したイラク人兵の死体は、棺桶にも入れずに、ブルドーザーで廃棄処分された。路肩の壁にある弾痕は、アメリカ軍による激しい銃殺の跡となった。アメリカ軍は、敗軍となったイラク人兵士を弾丸で蜂の巣にした。イラク人兵の頭部に巻いたバンダナは、サダム・フセイン軍兵士の忠誠の証となり、アメリカ軍兵士に銃殺された。アメリカ軍は、軍服を着用したイラク人兵士だけでなく、軍服を着ていない市民を含めて無差別な銃撃も伴った。
 イラク戦争は、2003年3月20日から勃発して、アメリカ軍はB-52による大空襲によりバクダットに爆撃をした。バクダット市内は、アメリカ軍によるピンポイント爆撃だけでなく誤爆も頻発した。大空襲の爆撃から多量の犠牲者により、バクダット市民は恐怖から狂気に陥った。2003年4月13日からアメリカ軍は、バクダット市内に侵略した。イラク軍だけでなく、近隣のイラク市民にも狙撃した。不信に動くと見える人影は、全て敵として銃撃した。イラク戦争には、何も知らないで軍隊の命令だけを信じて、イラク市民から徴兵された忠実な若いイラク軍兵士も犠牲になった。




2019年6月29日土曜日

長崎原爆からの放射能の影響による重度の脱毛症状により、少女はほとんど毛髪が抜けた。(長崎)

長崎原子爆弾にによる被爆によって、少女は長崎市興禅寺町の新興善国民学校の救護病院に救護された。長崎原爆からの放射能の影響による重度の脱毛症状により、収容された少女には1945年8月下旬には、ほとんど毛髪が抜けた。放射能の影響は、初期の放射能被爆だけでなく、大気中に燃え残りの死の灰や混ざった雨となった黒い雨などの残留放射能でも被爆して、急性放射能症状を伴った。放射能は、物体を通過して、人体を透過して、細胞や遺伝子に障害を伴った。
 脱毛は、早期には原爆の被爆後の1週間後から始まり、第3週頃までに発現した。そのほかに、皮下出血もしばしば合併して、生存者の多くでは、12~14週で元に戻った。特に脱毛部は、毛髪の毛母基が重度に障害された。脱毛の重症度は、爆心地からの被爆距離にも強い相関があった。至近距離ほど高頻度に被爆直後から2週間の急性期から発症した。被爆して3から4月以上に生存した頃から、脱毛部からの発毛が出現した。



2019年6月28日金曜日

イラク戦争にて、アメリカ軍兵士はイラク人兵士の頭部を狙撃して、弾丸が頭頂部を貫通して、即死した。

イラク戦争において、アメリカ軍兵士は反政府のイラク人兵士の頭部を狙撃して即死させた。弾丸が頭頂部を貫通して、脳出血と脳髄が流出した。砕けた頭蓋骨から、噴出した脳内からの多量の出血により、顔面から上半身を血溜まりにした。頭部に弾丸が貫通した時は、脳内の血液と組織が飛び散った。
 イラク戦争は、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が、イラク人市民を解放して、イラクの大量破壊兵器を抹消となり、サダム・フセイン独裁政権を打倒した。イラク戦争の戦場では、アメリカ軍兵士は、攻勢できない反政府勢力を殺害した。敵対するイラク人勢力を侵略するために、故意的に殺人をした。
 戦場で殺害する兵士は、死刑執行人、裁判官と刑事などの役目を引き受けている。市民と兵士の判別もできずに、無差別に生命を瞬時に奪い去ることは、戦場では犯罪ではなく、無実となる。奪った生命により、名誉と勲章を拝受する。正義感を伴って死体を見ても、虐殺と虐待を後悔もしないで、正義感を伴う。戦場では、殺害することが兵士の努めであり、敵の戦死傷が代償である。殺害は当たり前の任務となる。戦場での狂気から、戦後に心的外傷症候群(PTSD)に陥る兵士がいる。


【閲覧留意】
Hans HALBERSTADT: TRIGGER MEN
Trident Media Group, 2008

2019年6月27日木曜日

多数のポーランド人のワルシャワ蜂起の抵抗組織の人質が、蜂起後に絞首刑により死刑が執行された。

多数のポーランド人のワルシャワ蜂起の抵抗組織の人質が、蜂起後に首吊りの絞首刑により死刑が執行された。ポーランド国内軍の約16,000人が殺害されて、約6,000人が重傷を負った。さらに、約15万人以上のポーランド市民が、大部分が大量処刑されて死亡した。ドイツ軍兵士の死傷者は約2,000人以上が死亡や行方不明となった。都市戦闘中に、ワルシャワの建物の約25%が破壊された。ドイツ軍による1939年のポーランドの侵攻と1943年のワルシャワのゲットー蜂起で被った初期の被害とともに、東部戦線の過程でドイツ軍がワルシャワを放棄した1945年1月までに、ポーランド都市の85%以上が破壊された。
 ワルシャワ蜂起は、第二次世界大戦の1944年8月1日に、ポーランド人の地下組織が、ワルシャワを解放するためにドイツ軍に対して蜂起した。ソビエト赤軍の侵略に先立って、ポーランドからのドイツ軍の敗退を目指した。緒戦では、ポーランド人はワルシャワ中央部の大部分を占領した。ドイツ軍は再編成して、ポーランド地下組織の抵抗を打倒して、報復として都市を破壊した。ワルシャワ蜂起は、外部からの支援がほとんどない状態で10月2日まで63日間行われた。第二次世界大戦中にヨーロッパの抵抗運動で最大の軍事的抵抗であった。
 ソビエト赤軍は、ワルシャワ東部の郊外に近づいても、一時的に侵攻を中止して、ワルシャワの境界を越境しなかった。ドイツ軍とポーランド人の間の激しい路上での戦いは続いた。9月14日までに、ポーランド蜂起のヴィスワ川の東対岸は、ソビエト軍の指揮下のポーランド軍が引き継いだ。約1,200人のポーランド軍兵士が川を渡ったが、赤軍は支援しなかった。ソビエト赤軍はワルシャワ蜂起を失敗させて、ポーランドの抵抗を鎮圧させるために、赤軍を戦略的に停止した。ボーランドは10月2日にドイツ軍に降伏して、蜂起は完全に鎮圧された。 



2019年6月26日水曜日

2人の黒人女性が、アーリントン国立墓地に参拝して、黒人と分離された墓地に埋葬された兵士墓に花束を飾って冥福を祈った。

2人のアフリカ系アメリカ人である女性が、1943年7月26日の軍隊の人種隔離禁止日にアーリントン国立墓地に参拝した。黒人セクションと分離されていた墓地に埋葬された身内の兵士墓に花束で飾って冥福を祈った。アーリントン国立墓地は、7月26日に大統領命令9981を発行するまで、人種による埋葬を分離していた。トルーマン大統領は、1948年7月26日に大統領令9981号を発令して、軍隊内での人種隔離が正式に禁止した。
 アーリントン国立墓地は、首都ワシントンの近隣のバージニア州にある国立墓地である。南北戦争の戦死者のために1864年から慰霊した。身元が不明な無名戦士の墓がある。アメリカ海兵隊が戦没した硫黄島の戦いで星条旗の掲揚した記念碑も附近にある。戦争で命や心体を失うことは、家族にとっても、辛い悲惨な戦死傷者となる。日本で初めて1959年に、戦死者の御遺骨を納める唯一の国立墓地千鳥ヶ淵戦没者墓苑が設置された。
 アメリカ軍は、1945年8月15日の終戦のニュースを受け取っても、信じられないほどの安心感と相まって、静かな不信感で、日本軍が降伏することは決してないと思っていた。多くの兵士が日本軍の降伏を信じることを拒んだ。 気絶した沈黙の中で、アメリカ軍兵は、膨大な戦死傷者を思い出した。戦争が過去の灰に委ねられて、戦争の狂気の中で、多くの生命と生活を失なった。広く散在する叫び声を除いて、奈落の底の生存者たちは、戦争のない世界を認知しながら、目がくらんで黙って座った。
































2019年6月26日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 230,000回

2019年6月25日火曜日

長期独裁軍事政権のフン・セン首相に対して、敵対的批判をした政治評論家のケム・レイが暗殺された。

カンボジアにおいてフン・センが、世界最年少の32歳で首相に就任したて、長期独裁の軍事政権を構築した。フン・セン首相に対して、敵対的批判をした政治評論家の43歳のケム・レイが、2016年7月10日に暗殺された。首都のプノンペンの中心部内にある通っていた喫茶店で、背後から接近した男性により銃殺された。男性の射撃で、ケム・レイの左側頭部と心臓附近に弾丸が打ち込まれた。独裁政治による抹殺であると嫌疑された。
 ケム・レイが暗殺された直後から、暗殺されたニュースを受けた支持者らが、暗殺現場に殺到した。取り囲むカンボジア市民から、叫びと嘆きから慟哭、激しい怒りが、現場に渦巻いた。市民らは、ケム・レイの死体を奪おうとする独裁政権と対立して、必死に死体を確保した。その後に、支持者らは、ケム・レイの死体を車に載せて、追悼の行進をした。寺院で葬儀をされて、プノンペン南部のタケオ州の生家に埋葬された。ケム・レイの妻と子供らの家族は、葬儀した直後に、身柄の危険性から、特別人道ビザを発給したオーストラリアで難民となった。
 実行犯の男性容疑者を、しばらくして逮捕された。最初は、会って殺す名称と白状したが、捜査により軍事政権の元兵士のエース・アンであることが判明した。その経緯について、警察も裁判所も追求しないで終身刑で終審した。フン・セン独裁政権は、暗殺ではなく事件は解決済みであると断定した。暗殺をフン・セン政権に嫌疑をかけるカンボジア市民には弾圧を繰り返した。



2019年6月24日月曜日

レイテ島の戦いで、アメリカ軍が塹壕を奪取した時に、守備していた日本軍兵士は仰向けに殺害された。

太平洋戦争のレイテ島の戦いは、日本軍兵士はアメリカ軍兵士の膨大な武力に圧倒された。日本軍の塹壕をアメリカ軍が奪取した時に、塹壕を守備していた日本軍兵士は仰向けに戦死していた。アメリカ軍は、奪取した塹壕を基点にして、さらに侵攻を継続した。フィリピンの戦いは、レイテ島の戦いから勃発した。
 総指揮官マッカーサーは、約10万人ものアメリカ軍兵士を、レイテ島に1944年10月20日から上陸させた。日本軍の大本営は1944年10月20日にルソン島ではなく、レイト島の戦いを命令した。ルソン島からレイテ島への増援は、輸送船が次々と撃沈されて、多くの犠牲者を伴って武器や食糧の約8割を喪失した。そのために、レイテ島の日本軍兵士は、敗残兵として惨めに山中を彷徨した。レイト島の戦いでの日本軍の犠牲者は、戦死者が約79,216人にも達した。アメリカ軍は戦死者は約3,504人、戦傷者は約11,991人さらに民間市民も巻き込まれて多数の戦死者を伴った。マッカーサーは10月20日に膝まで海水に浸しながら、タクロン海岸から上陸した。太平洋戦争の緒戦にて、マッカーサーは"I shall return"と コレヒドール島から撤退してから、オーストラリアで発言した。当時は、敵前逃亡と批判されてから、約2年7カ月後にレイテ島の戦いが勃発した。