2019年5月11日土曜日

23歳の日本軍衛生兵が、後方からの原爆の熱線により頭部に熱傷を被爆して、右の耳たぶは酷い火傷から耳翼は欠損した。(広島)

広島市に1945年8月6日午前8時15分に投下された広島原子爆弾の炸裂により、23歳の日本軍衛生兵が教育隊前の朝礼の集合中に、後方より被爆して赤十字病院に入院した。熱線により頭部に熱傷を被爆して、右の耳たぶは酷い火傷を合併して耳翼は欠損した。右耳は不聴で、左耳は難聴となった。広島原爆による重度の放射線障害を伴って、1945年10月上旬には、頭皮はほとんど脱毛して、下痢、発熱、斑点を伴った。熱傷と放射能障害を合併したが、奇跡的に生還した。
 原爆症とは、1つの病名ではなく、原子爆弾の被爆者に頻発する病態を総称している。疫学的に統計学的な有意差がある原爆症の発生の度合いが、顕著に高い。原子爆弾の炸裂による熱射や輻射熱による障害、破壊された家屋等の下敷きなどによる火傷や外傷が、治癒しないで残る場合がある。被爆した時には認められなかった原爆症が、原子爆弾の放射能を多量に浴びて、経時的に発病する場合がある。火傷では、瘢痕やケロイド、拘縮などを引き起こす。放射能による障害は、白血病 甲状腺がんなどが合併する。
 原子爆弾の被爆者に認められる白血病は 爆心地から約1,000m以内の至近距離の被爆では、発生頻度も死亡率も、一般市民と比較して、十数倍も高い。原子爆弾の放射能が血液を製造する骨髄に蓄積して、骨髄機能を侵害する。慢性の骨髄性の白血病が著しく頻発する。その他に動物実験、放射能の治療により、発生頻度が高くなるなど、証明された原爆症の根拠から、原爆症の代表的疾患として、白血病、原爆白内障、高度小頭症、肺・甲状腺・皮膚・卵巣がん、ケロイドなどが認知されている。






2019年5月10日金曜日

大同炭鉱にある廃坑は大同南郷の集団埋葬地となり、中国人労働者の死体が投げ込まれ、病人や負傷者も生き埋めにされた。

大同炭鉱にある廃坑は、大同南郷の集団埋葬地となった。飢えや病気、負傷などで死亡した中国人労働者の死体が投げ込まれ、病人や負傷者も生き埋めにされた。死体群が風化してミイラ化した。日本軍は山西省の石炭資源を捕食と採掘を行った。 日中戦争の期間に、山西省の大同炭鉱の鉱山労働者は、約6万人もの中国人が虐殺されて、万人坑と呼称された。
 主に満州の鉱山や大規模な工事現場で、中国人労働者を食事も与えずに酷使され、外傷や病気、栄養失調などで労働不可能となると、万人坑に生きながらも捨てたと日本軍の残虐ぶりを強調した。大同炭鉱付近には約20ヵ所余りの万人坑があり、犠牲者は約6万人とされた。大同炭鉱は北京の西方約300kmに位置して、1940年に蒙彊特殊法人として設立された。採炭事業は資本力、技術力をもつ満鉄・撫順炭鉱が推進役となった。1937年に撫順炭鉱の技術者を中心に派遣されて、同鉱の基盤を築いた。
 2005年1月11日付の人民網日本語版は、旧日本軍による万人坑の大同の犠牲者は約6万人から約15万人と格上げした。第2次世界大戦中に、山西省の大同市で旧日本軍による万人坑の犠牲者数が、推定数約6万人を上回る15万5千人以上と、大同炭鉱の研究成果として喧伝した。日中戦争中、旧日本軍は戦争遂行のために中国の石炭資源を略奪し、各地の炭鉱では中国人労働者に過酷な虐待と虐殺を強調した。



2019年5月9日木曜日

ナチス・ドイツ軍の親衛隊兵士が、アルザス地方北部のバルジの戦いで戦死して、雪の中で凍結した死体が散在した。

ナチス・ドイツ軍の親衛隊兵士が、アルザス地方北部のバルジの戦いで戦死して、1945年1月26日に雪の中で凍結した死体が散在した。
 第2次世界大戦の西部戦線にてアルザス地方北部のバルジの戦いは、1944年12月31日に連合軍とドイツ軍の戦闘が勃発した。アルザス・ロレーヌ地方は、長年にわたりフランスとドイツの係争地域であった。両国だけで、第2次世界大戦以前の100年間だけで、約5回ほど占領国が入れ代わった。1940年にナチス・ドイツ軍に再占領されて、1944年にアメリカ軍が再占領した。フランス軍にとってアルザス・ロレーヌ地方の首府であるストラスブールも過去1870年から1918年までドイツ軍に占領されて、1940年から1944年までドイツ軍に再占領された。
 1944年12月16日にドイツ軍は、連合軍に対して、アルデンヌ地方を駆け抜けてアントワープへと突撃した。アメリカ軍はドイツの侵攻を阻止するために悲惨な戦闘となった。ドイツ軍が、ミューズ川の西側の重要な橋頭堡を確保するために、アルデンヌ地方の奥深くに侵攻した。連合軍の戦線が大きな突起または膨らみを帯びて、「バルジ(突出部: Bulge)」の名称が生まれた。
   ドイツ軍はアルデンヌの凍った森で戦って重大な燃料不足となり、アメリカ軍とは少なくとも講和は不可能となった。連合軍がロレーヌから包囲されていた要所であるバストーニュの町を解放して、ドイツ軍は撤退して戦闘は1945年1月27日に終結した。アメリカ軍の戦死傷者等は約76,000人、イギリス軍の戦死傷者等は約1,408人、ドイツ軍の戦死傷者等は約67,675人以上に達した。


2019年5月8日水曜日

ナチ党のSS-TV部隊長は、親衛隊の監視兵をより残忍にさせる手段として、囚人に対して殴打することを強要した。

ナチ党のドイツ軍親衛隊髑髏部隊(SS-TV : SS-Totenkopfverbände)は、ダッハウ強制収容所の囚人の両手を後ろで縛って吊り下げた。SS-TV部隊長は、親衛隊の監視兵に、囚人を嫌悪して、囚人は国家の敵であると思い込ませるように教化して洗脳した。SS-TV部隊長は、親衛隊の監視兵をより残忍にさせる手段として、囚人に対して殴打することを強要した。
 SS-TV隊員は強制収容所の習慣に従うことで、囚人らに過酷な拷問と虐殺することに順応した。さらにSS-TV部隊長は、SS-TV隊員らに絶対的な服従と忠誠を尽くさせて、盲従させた。SS-TVは、毎日毎晩毎時休むことなく、鉄条網の内側に強制収容された危険な敵である囚人を監視して、虐待と虐殺する専門兵士となった。
 SS-TVは、ナチス・ドイツの強制収容所と絶滅収容所の管理を担当する親衛隊部隊であった。SS-TVは、他のナチス・ドイツ軍と区別するために、右衿タブに死の頭蓋骨(Totenkopf)の記章を身に着けていた。もともと1933年に創設されたSS-TVは、SS内の独立した部隊であった。1938年からSS-TVは特別条項により、国防軍や警察隊ではなく、ナチ党に所属する特殊任務部隊として編成された。ドイツ軍が占領されたヨーロッパ地域で強制収容所を運営した。ナチス・ドイツの死の強制収容所は最大限の秘密裏に運営した、絶滅収容所の機能は大量虐殺であり、大量殺害施設を備えた。第二次世界大戦の勃発時に、武装親衛隊(Waffen-SS)の最初の戦闘部隊の1つであるSS-TVは、SS要員によって結成された。 




2019年5月7日火曜日

アメリカ軍はブルドーザで土豪を掘って、サイパン島で全滅した膨大な日本軍兵士の死体を埋め込んだ。

太平洋戦争のサイパン島の戦いの終末に、「バンザイ突撃」で約2,000人も全滅した日本軍兵士の死体が散乱した。1944年7月7日にサイパン島で玉砕した日本軍兵士の死体を処理して始末した。アメリカ軍は、ブルドーザで土豪を掘って膨大な死体を埋め込んだ。
 アメリカ軍の陸上、海上および空軍力に閉じ込めらて、日本軍は1944年7月上旬までにサイパン島の北部に撤退した。後援する日本海軍は、1944年6月19日から20日のフィリピン海の戦いで壊滅的な敗北により、サイパン島に到着できなかった。日本本土に最も近いサイパン島に、アメリカ軍は新しいB-29長距離爆撃機(呼称:スーバーフォートレス)が連合軍の侵攻に先立って、日本本土を攻撃する重要な空軍基地を設立できた。
 残存した日本軍は自殺せずに、皇帝の名誉を称えて突撃をした。1944年7月6日早朝、推定約4,000人の日本兵が「バンザイ!」と叫んで、タナパグ港近くのアメリカ軍兵士と海兵隊に対して手榴弾、銃剣、刀とナイフで突撃した。日本軍は、一部のアメリカ軍大隊と、白兵戦と無謀な機関銃の射撃で全滅するまでに、約1000人以上のアメリカ軍兵士が戦死傷した。太平洋戦争の最大の万人罪であり、ほとんどの日本軍は自らの戦死のために戦った。
 7月9日に、アメリカ軍はサイパンで勝利して占領した。勝利宣言した7月9に、アメリカ軍により虐殺されると警告した日本軍のプロパガンダに恐怖を感じて、何千人ものサイパン市民が島の北端の高い崖から投身自殺した。多くの民間人は戦いに巻き込まれて死亡して、アメリカ軍は洞窟やジャングルの中では、常に非戦闘員と戦闘員を区別できず、無差別に殺害した。




2019年5月6日月曜日

ナチス・ドイツの武装親衛隊の衛生兵はダンケルク地域にて戦死した2人のイギリス軍兵士の遺体を検死した。

武装親衛隊(Waffen-SS)の衛生兵は1940年6月にダンケルク地域にて戦死した2人のイギリス軍兵士の遺体を検死した。武装親衛隊は1940年5月27日には、ルパラディを通過してダンケルに撤退するイギリス軍部隊を大量虐殺した。防御して弾薬が尽きたイギリス軍部隊は、武装親衛隊に降伏した。約97人のイギリス軍兵士を壁に導き機関銃により大量殺害した。
   ダンケルクの戦いは、第二次世界大戦の西部戦線にて、ドイツ軍のフランス侵攻の1940年5月24日から6月4日の間にイギリス軍とフランス軍をダンケルクに追い詰めた。ダンケルクから避難中に、約1,000人のイギリス軍兵士と約16,000人のフランス軍兵士が死亡した。イギリス軍兵士の約226,000人とフランス・べルギー軍の約11 2,000人はイギリス本土に生還した。
   1933年にナチ党の親衛隊の一部が軍隊に沿って武装され訓練されて武装親衛隊となった。武装親衛隊は、当初は厳格的な人種選別と政治的強化から戦局により次第に他国を緩和した。親衛隊の強化するために、武装親衛隊は当初の4軍事部門からは結局20以上の軍事部門を担当した。約50万人の武装親衛隊が編成され、ドイツ軍の軍事的撤退によりさらにドイツ軍の権限を獲得した。
 武装親衛隊は、親衛隊の軍事部門である。武装親衛隊の部隊は第2次世界大戦の主要な軍事作戦のほとんどに参戦した。武装親衛隊は、大量砲撃、反党派的戦争、ナチス強制収容所への警備員の補給などを通じて、大量虐殺から他の多くの戦争犯罪にも関与して戦争責任が追求された。



2019年5月5日日曜日

列強の首切り役人は、北京の街頭で公開して義和団員を斬首して断頭により惨死した。

八か国連合軍は、1900年8月14日に清国の首都である北京を占領した。八か国連合軍は、北京の各所を焼き払い、中国人から略奪して、虐待と虐殺した。北京の街頭で、列強の首切り役人は、公開して義和団の団員を断頭した。1人の団員の首を断頭して惨死させた。首から多量に出血して周囲に散布した死体がうつ伏せになった。もう一人の団員の首を、首切り役人らが背部から押さえつけて、断頭して惨殺する瞬間である。
 1894年に4月に日清戦争に敗北した清国に対して、海外からの半植民地化が殺到して、困窮化した中国民衆は海外諸国に反発した。義和団は当初に宗教秘密結社であった。1989年3月にドイツの鉄道施設工事に反発して爆破し、1900年に山東省で蜂起した。キリスト教への反感から、激烈な外国人の排斥活動と鉄道・電信を破壊した。義和団の反乱は、1900年4月から5月に北京や天津も占領した。清朝は1900年6月21日に列国に宣戦布告した。1900年6月に、清国軍と義和団ともに各国の大使館を襲撃した。義和団は1900年8月に西什庫教会を包囲して爆破した。義和団を鎮圧するために、1900年7月にイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ロシア・アメリカ・オーストラリア・日本の八か国は、連合して、中国に侵攻した。日本軍の派遣は、約22,000人に達して八カ国連合軍の80%に相当した。連合国は1900年7月に天津と北京を占領して、清朝の西太后と光緒帝は西安に逃避した。1901年9月7日になって、清国の李鴻章は、八カ国連合と仲介したスペイン・オランダ・ベルギーを含めた11か国と北京議定書(辛丑条約)の講和条約を締結して、賠償金と各国の駐在権を認めた。



2019年5月4日土曜日

満州の遼寧省の鉄嶺龍尾山における日本軍は大量の子供らも殺害した後に、死体を集めて焼却した。

遼寧省における鉄嶺に山地で、満州八景の龍尾山にて、日本軍は大量の子供らも殺害した後に、死体を集めて焼却した。1910年8月29日の韓国併合から1931年9月18日の満州事変(一・一八事変)まで、日本軍は中国東北地方に3回侵入した。日本軍は中国の約半分を占領するまで、中国に対する侵略戦争を必死に繰り広げた。中国人の居住地域の人々に対して、長期間に流血と涙を流させた。
   日本軍が侵略した地域に居住する中国人には政治な自由が無かった。日本軍は至る所で中国人を捜索し、逮捕し、侮辱し、殺害することができた。日本軍は擦り付けてしばしば無差別に民間人を虐殺した。管轄下の郵便および電気通信当局は無作為に監査され続けた。いわゆる敵思想を保持した中国人は、しばしば厳しく虐待されて、死刑に処された。日本軍の強奪と焼却により、経済的に食料品が不足し、穀物価格が高騰し、穀物比率が大中規模の都市で麻痺した。中国人市民は、飢餓状態に陥り、無数の人々が餓死した。文化的には、日本軍は中国人に奴隷的教育政策を積極的に推進し、中国の宣伝と出版機関、学校、図書館を破壊または再編成した。さらに反日に固執した学生、教師、その他の知識人を殺害した。不適切な教科書を強制的に使用し、歴史や地理などの愛国中国人の内容を削除した。中国人若者を侵略者の支配下に試みながら、あらゆる学校の必修科目として日本語を採用した。日本軍はまた、あらゆる時代からの大量の中国の文化財と貴重な文化遺物を略奪して日本に持ち帰り、中国文化に多大な損失をもたらした。
 中国人の居住地域では、市民の抵抗を抑えるために、日本侵略軍は爆撃、射撃、燃焼、喫煙、飢餓、中毒、ナイフ切断、刺すこと、釘付け、拷問、水没を執行した。生きて埋葬その他の残虐な中国人の絶滅の手段は、北東、中国北部、中国東部、中国中央部、中国南部で悲劇を引き起こした。日本帝国主義による残虐行為により、無数の若女性から老婦人至るまで、屈辱的に強姦され、または集団的に輪姦された。
  侵略の戦争を保持するために、中国の人的資源および物的資源を浪費した。事業が完結すると密かに殺害された。中国の工場や鉱山の労働を強要して、あるいは日本に移送されて強制労働させられた。日本軍は中国人々に鉱物資源の採掘を完全に強制した。日本軍によって開始された全面的な侵略戦争により、中国は大破滅に至った。中国は鉄蹄で破壊されて、豊かな地域の大部分は占領されて崩壊した。不詳な推計では、中国の約930以上の都市が侵略されて、大都市が約80%以上を占めた。中国内で直接の被害を受けた被災地の人口は約2億6,000万人を超えた。それ以外の避難民や飢餓被害を受けた難民の数を数えることは困難である。中国の人々はこの戦争で合計約3,500万人の犠牲者と約600億米ドル以上の財産の損失を被った。


辽宁铁岭龙尾山的日军刺杀我幼童之后, 集薪待焚。

2019年5月3日金曜日

ソビエト連邦のスターリン独裁にて、大量虐殺の遺骨がウラル地方のチェリャビンスクの集団墓地から1989年に発掘された。

ソビエト連邦のヨセフ・スターリン独裁において、大量虐殺された膨大な犠牲者の遺骨が地中から発掘された。1989年にウラル地方のチェリャビンスクの集団墓地から採集された。1930年代に、チェリャビンスクだけで約80,000人も虐殺されたと推定された。金の丘と呼称される集団墓地は、国家保安人民委員部(NKVD)の処刑部隊は、金鉱の坑夫により大規模な塹壕を掘り起こさせて、秘密裏に虐殺の処理をさせた。
 ソビエト連邦の全地域におけるスターリン独裁による犠牲者数は、約2,000万人とも推定された。冷戦時代の鉄のカーテンにより、情報や根拠が乏しく交錯して、一定の犠牲者数は不詳である。革命の正当性を敵から守るために、状況により粛清(テロル)を正当化した。革命の利益を、党の利益と同一視するために、数百万人もの市民を無差別に粛清した。市民は無知な状態に置かれて、人民のための党を裏切るのは、人民の敵と烙印を押し付けて粛清された。反対勢力に残酷な弾圧をして、強制収容所には約100万人以上も収容して虐待と虐殺した。ソ連軍内においても、司令官と将校らの約半数となる約35,000人が粛清の犠牲となり、旧赤軍内は廃棄と壊滅して、スターリン独裁の赤軍に改組された。
 スターリン独裁によって1938年末までに、全都市部の人口の約半数がNKVDの監視下に陥った。市民の約20人に約1人が逮捕された。支配下の国家機関紙「プラウダ」によりスターリン崇拝を高めた。海外の有識者であるジャン・ポール・サルトルやジョージ・バーナード・ショウらが、情報も無く根拠も乏しく粛清を無視して、スターリン独裁を熱狂的に支持した。敬愛する指導者である偉大なスターリン独裁を先頭にして、ソ連に進軍して支配した。スターリン独裁の秘密警察に雇われた殺し屋が、ソ連の粛清から逃避してメキシコに在住する敵対者のトロツキーを、ピッケルで虐殺して暗殺した。



2019年5月2日木曜日

ベトナム戦争で、銃撃され重態の若いアメリカ軍兵士の四肢を持ち上げて、救護兵士は必死の形相で運搬した。

ベトナム戦争において、若いアメリカ軍兵士が銃撃されて出血して瀕死の重態となった。4人の同部隊のアメリカ軍兵士らが、それぞれが戦傷兵士の四肢を両手でつかんで、必死の形相で持ち上げて、救護のために運搬した。ベトナム戦争の徴兵されたアメリカ軍兵士の戦争犠牲者の戦争の真実が、アメリカ市民に伝わるに従って、大規模な反戦運動と公民権運動に、アメリカ社会が次第に混乱を招くようになった。
 ベトナム戦争は、アメリカ合衆国の資本主義とソビエト連邦の共産主義との冷戦下で勃発した。アメリカ軍は圧倒的な大量の物量と技術力、高度先端の武力をベトナムに注ぐも、北ベトナム軍と南ベトナム民族開放戦線による長期にわたる残酷な戦闘の末に完全に敗北した。ベトナムの統一に向けて、ジュネーブ協定で1956年に南北統一選挙の実施を定めた。しかし、アメリカ合衆国は、共産主義が東アジアに蔓延する選挙を阻止するために、一方的に1955年に南ベトナムにベトナム国に代わり、ベトナム共和国を建国した。北ベトナムは国家統一を目指して、南ベトナムにおける反政府勢力が、南ベトナム解放戦線の配下で武力闘争をした。
 1964年8月にトンキン湾事件が勃発して、宣戦布告もしないで、8月7日に南ベトナム防衛のために本格的な軍事介入を挙行した。1969年4月にアメリカ軍約543,500人、韓国から約32,000人、オーストラリア約47,000人に上る最大の軍事介入がされた。ベトナム戦争の犠牲者数は不詳であるが、南北ベトナム人兵士は約100万人、アメリカ軍兵士は約58,000人と重戦傷のアメリカ軍兵士は約153,000人に達した。北ベトナムに対して大規模な無差別の空爆、隠れたジャングルに対して膨大な枯葉剤の散布、爆発して四方八方に飛び散るナパーム弾など、非人道的な侵略が逆に南ベトナムのベトナム人およびアメリカ本国の市民からの大義と信頼を失墜した。



2019年5月1日水曜日

張作霖爆殺事件の現場では、日本軍により殺害された2人の中国人が焼死体として散在した。

中華民国の奉天周辺で、1928年6月4日に特別列車の客車が爆破されて、乗車していた張作霖が爆死して暗殺された。満州鉄道の橋脚にて列車は大爆発した。奉天周辺を警備していた日本の関東軍は、張作霖爆殺事件の犯人を中国人であると断定した。現場では、日本軍により殺害れた2人の中国人が焼死体として散在した。その列車に同乗したとして、乗務員の焼死した乗務員の焼死体を、関東軍の特務機関員は正確に場所と時間を合わせて撮影した。
 関東軍は、張作霖爆破事件を口実にして、日中戦争を勃発させて中国の満州外に侵略を想定していたが、失敗に終わった。それから3年後に、関東軍は柳条湖事件を引き起こして、満州事変が勃発した。日本の関東軍により、それから15年間もの長期間にわたる日中戦争が引き起こされた。張作霖の息子の張学良により、満州軍閥は中華民国と提携した。1936年12月12日の西安事件を主導して、第2次国共合作を策略した。
 第二次世界大戦後の極東軍事裁判の東京裁判では、関東軍の独自犯行 が公表された。張作霖爆殺事件の現場で撮影された一連の写真が、1985年7月に元特務員の山形県鶴岡市藤島町の自宅で連続写真が発見された。列車から吹き上げる黒雲、アメのように折れ曲がった線路などの61枚の記録写真が公表された。



2019年4月30日火曜日

長崎原子爆弾に被爆した福田須磨子は生涯をかけた原子爆弾の禁止に向けて、長崎原爆の証言を続けて原爆症で絶命した。(長崎)

長崎原子爆弾に被爆した福田須磨子は生涯をかけて、終末期になるまで原子爆弾の禁止に向けて、長崎原爆の証言を続けた。1974年4月2日に52歳で、ついに絶命した。
 福田須磨子は、1922年3月23日に長崎市浜口町43番地に生誕した。1945年8月9日に、長崎男子師範学校会計課に勤務中に、長崎原爆に被爆した。1955年に、原爆被爆の後遺症状による紅斑症(SLE)を発病して、病院に入院と退院をくり返した。原子爆弾の非人道性、被爆の怨念と平和の探求、反原爆の闘いに生涯をこめた「われなお生きてあり」を刊行した。
 1955年8月8日に、長崎市の平和公園に平和祈念像が完成した。その3日後の11日に、「ひとりごと」と題された投稿が朝日新聞夕刊ひととき欄に掲載された。反響は大きく盛り上がり、詩人として反戦運動に活動と参加する起点となった。1959年に『長崎の証言』創刊号にエッセイを執筆した。1969年に第8回田村俊子賞を受賞して、怨の女、愛の女となり、福田須磨子は火玉或いは阿修羅となり、原爆の危機と核兵器に対する文筆で抵抗をして訴え続けた。

福田須磨子詩集 『原子野』(現代社)より
「生命を愛しむ」
新しき年の始めに
しみじみとわが生命愛しむ
原爆の傷痕胸にみちしまま
絶望と貧苦の中で
たえだえに十年
げにも生きて来しかな
悲しみと苦痛の十字架をおい
ほそぼそと生命かたむけ
生きて来しこの現実を
奇蹟の思いでかえりみる
“吾尚生きてあり”
ここに座し 一切を観ず
ふきちぎれた魂は
未完の生を夢み
一片のわが生命を愛しむ


福田須磨子の詩碑
「1945年8月9日
 午前11時2分、第二次世界大戦末期、世界第2の原子爆弾が広島についでこの地、長崎の上空に炸裂した。
 一瞬に死傷者は十数万人に達し生存者はその後30年にわたって原爆後遺症と生活苦に呻吟しつづけた。福田須磨子もその一人である。
 しかし彼女は黙することなく生涯かけて原爆の非人道性を訴えつづけた。この碑は福田須磨子の不屈の生涯をしのびあわせて世界の恒久平和を祈念するために全国の有志920名の御芳志をもって建立するものである。
1975年8月2日詩碑建立委員会(長崎市の爆心地公園に詩碑)」



2019年4月29日月曜日

フランス軍兵士はヴォージュ山脈の塹壕から前進するドイツ軍に岩を投げつる下に、苦悩して戦死傷した兵士が仰向けで倒れた。

フランス軍はフランスの北東部のヴォージュ山脈で、丘の中腹の塹壕から前進するドイツ軍に対して岩を投げつけた。塹壕の中では、苦悩して戦死傷したフランス兵士が仰向けで倒れた。フランス軍は突撃して来るドイツ軍に対して、より高い位置から岩塊を投げつけた。
 フランス軍は第一次世界大戦の間に、1916年のヴェルダンの戦いの間にヴォージュ山脈の塹壕からドイツの兵士を追い払うために大きな石と岩を投げた。 左のフランス兵士が銃をライフルしている間、右のフランス兵士が下の敵のドイツ兵士らに石を投げつける間に、別のフランス兵士が彼の後ろに別の石を持って待った。フランス兵士たちは、ドイツ軍を山腹から撤退させるために際に最も原始的な兵器を使用した。
 第1次世界大戦を通じてヴェージュ山脈は、標高956mという戦略的な地位のために、始終ずっと戦場となり、砲弾やガス弾や火炎放射器で徹底的に破壊された。ドイツ軍は、ヴェージュ山脈に、退避壕やトーチカや塹壕などの巧みな要塞を作り上げていた。フランス軍兵士は約1万人とドイツ軍塀は約7,000人のドイツ人が殺害された。膨大な犠牲を伴うも、ヴェージュの最前線は1918年11月の第1次世界大戦の終結までほとんど変化しなかった。約1万2千人の名もなき兵士たちの遺体が治める納骨堂の記念碑が設置された。



2019年4月28日日曜日

白いバラのメンバーは、ナチス・ドイツの非人道的な無差別な大量虐殺の真実を、ドイツ市民に認知させようとした。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所におけるユダヤ人の大量虐殺による死体の山が散乱した。少なくとも約55,000人もの限界を超えた囚人が収容されたために管理がほとんど行われず、1944年以降は戦争末期のために食糧が絶たれて、ほとんど囚人は飢餓状態に置かれ餓死や病死に陥った。
 若年ドイツ人による抵抗グループである白いバラのメンバーは、ナチス・ドイツの非人道的な無差別な大量虐殺の真実を、ドイツ市民に認知させようとした。白いバラは東部戦線からの帰還兵であったミュンヘン大学の学生らで構成されたグループであった。ナチス・ドイツによる残虐行為をドイツ市民に認知させる非暴力な抵抗運動を遂行した。結成時のメンバーの一部は、東部戦線におけるユダヤ人の大量虐殺を目撃した。1942年6月にミュンヘンの郵便受けにわずか100枚の「白バラ」と書いたビラを入れた。
 彼らはユダヤ人大量虐殺の実態を示すビラを配布する抵抗運動をした。ビラを手動印刷機で印刷して、1942年6月から7月に無作為に封筒で主要な南ドイツ市民に郵送した。ビラには、ユダヤ人大量虐殺に対する理路整然と反抗を示した文章を掲載した。「ドイツによる占領の後、ポーランドで30万人のユダヤ人がとても残酷な方法で殺されました。これは人間の尊厳に対するもっとも恐ろしい罪でしょう。歴史上例を見ない罪でしょう。ユダヤ人は、われわれと同じ人間なのですから。」
 白いバラは次第に過激な抵抗運動を伴った。1943年2月14日と16日にミュンヘンの大通りに、反ナチス・ドイツをペンキで誇大に広報した。2月18日に、トランクにビラを詰めて、講義室に置いて、中庭にバラまいた。ゲシュタポに目撃されたハンス・ショルとゾフィー・ショルの兄弟とプロープストの3人は、2月22日に人民法廷で斬首刑の死刑を宣告されて、午後にギロチンで処刑された。関係者メンバーとその他80人も投獄された。死刑が執行された妹であったゾフィーが死刑の処刑場に向かう前に最後の言葉を放った。「今日はとてもよいお天気ね。でもわたしはもう行かなくてはならないわ。戦場でいまもたくさんの人が死んでいる。未来のある若者が死んでいる。そしてわたしも死ぬけど、惜しくないわ。わたしたちは、たくさんの人に警告できたのだから」



2019年4月27日土曜日

日本軍は、日中戦争の南京事件で中国人の首を切断した後に、南京城内の道端に並べて、吊り下げて見せしめにした。

日本軍は、日中戦争において1937年12月13日に中華民国の南京城に入城して占領した。その後に南京虐殺と虐待が、南京城の中国人の虚構となった。日本軍は、中国人の首を切断した後に、南京城内の道端に並べて、吊り下げを見せしめにした。日本軍のは虐殺と虐待を、首都である南京で誇示して、中国人を恐怖におののかせ、おびえさせて、中華民国の降伏と占領に追い詰めた。
 日本軍の大本営発表により、南京における報道管制下にて、南京の戦況から日本国民は提灯行列に浮かれた。海外の一部の報道機関では南京虐殺と虐待を直後から公表した。銃後の日本国民には、戦後に初めて極東軍事裁判で公表された。東京裁判のA戦犯の1人と南京裁判のB・C級戦犯の3人が死刑となった。日本軍兵士による無差別な南京虐殺と虐待は事実と裁定した。法廷では、十分な解明もなく終結して、南京虐殺と虐待の量的と質的実態は未知となった。正確な数値や正確な根拠には食い違いが生じることから、大なり小なり南京虐殺と虐待を否認する論理が続出した。戦争に伴う無差別の虐殺と虐待の真実は、いかなる時代の戦争にも必発しており、南京事件以外にも繰り返され続けている。おり、全面否認する一部の論理は破綻した。日本政府も公式に1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている(2006年6月22日)。

南京大虐殺の再検証に関する質問に対する日本政府答弁書(2006年6月22日)
 1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている。南京大虐殺事件は、新たな研究成果を含め、種々の議論があることは承知している。既に検証された記録は、文献等から総合的に判断すれば、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている。証言録は、外務省として当時直接聞き取り調査を実施したことは確認されていない。記念館にて展写真の中に、事実関係に強い疑義が提起されているものが含まれている旨を指摘している。