2019年4月2日火曜日

日露戦争に向けた雪中行軍演習に巻き込まれて、積雪の中で日本軍兵士の凍死体が、八甲山の山中に散乱した。

八甲田山雪中行軍遭難事件に巻き込まれて、積雪の中で凍死した死体が、八甲山の山中に散乱した。1904年に勃発した日露戦争に向けて、青森県内で冬季寒冷と厳寒の軍事演習で甚大な悲惨な凍死者を出した。
 1902年1月に日露戦争の軍事演習として、耐寒雪中に行軍が挙行された。青森市街から八甲田山に向かう雪中行軍で遭難した。弘前連隊の兵士38人は1月20日から行軍して、約240kmを11日間で全員無事に踏破して帰還した。弘前連隊は、7人の村民に過酷な八甲田超えの道案内の酷使をさせられて、町が見えたとたんにその場に置き去りにした。村民は7人全員が凍傷を負い、うち1名は重度障害者となり16年後に死亡、うち1人は凍傷のため頬の穴で飲水困難となった。
 青森連隊は1月23日から行軍して、八甲田山の周辺で遭難した。雪中行軍兵士210人のうちで、山中で193人の凍死者を出して、救出後に6人が死亡して、11人のみが生存した生存率約5%の大惨事となった。193人の凍死者のうちで、発見されて死亡が確認できたのは135人のみで、最終的に58人の凍死体は発見できなかった。生存者のうち8人が凍傷のため四肢が切断された。体温は通常37℃前後で、約32℃まで下がると脳機能の低下により思考や活動ができなくなり、さらに体温が下がると昏睡から死に至る。将校は下士官に比べて装備が良く生還できた割合も高く、将校が脱いだフランネルの服を着れた伍長が助かった。
 青森連隊が予定日の1月24日にも帰還しないため、1月25日の捜索隊によって遭難が確認された。捜索は、厳寒のために困難をきわめて、2月7日には約3,000人もの兵士と地元民が投入された。捜索隊からも、多数の凍傷者が続出した。捜索には、厳寒の北海道のアイヌの人びとも加えた。陸軍は弁明のため歪曲した『遭難始末』を1902年7月23日に報告して、1971年9月に新田次郎が「八甲田山死の彷徨」でさらに陸軍を美談化して映画化された。




2019年4月1日月曜日

舞鶴港の引揚の先頭は、多数の無言の帰国となった死亡した人びとの遺骨が降りて来た。

ソビエト連邦や中国大陸からの引揚船が、最終引揚の前年となる1957年5月24日に舞鶴港に到着した。舞鶴地方の引揚援護局が設けたアーチの下に日本各地から多くの人びとが集まった。その引揚の先頭は、多数の無言の帰国となった死亡した人びとの遺骨が降りて来た。舞鶴港の大浦中学校の女子生徒の首から遺骨箱を白布よって引き下げた。緊張気味に両手で丁重に持ち運んだ。無念に遺骨を待ち迎える縁者は、摘んだ菊の花束を持って待ち受けた。
 次いで病人や戦傷者らが担架で緊急に護送された。待ち受ける関係者の歓声の中で、両手に荷物や子供を抱えた引揚者が降りて来た。実感をもって、しっかりと日本の本土を踏みしめた。引揚者は肉親の出迎えを受けて、再開を果たして手を握りしめて共に涙を流した。舞鶴港では、引揚船が入港するたびに家族だけでなく地元も心から歓迎して慰問した。いまだ帰れぬ我が子や夫を待つ母親の姿が、「岸壁の母・妻」と呼ばれて、人びとも歌や映画で悲嘆に暮れた。
 1945年8月15日に第2次世界大戦の終戦に伴って、海外に残留していた日本人は、兵士約350万人と民間人約310万人の約660万人以上にも達した。海外の残留者が日本に帰国する引揚げが始まった。日本政府は、中国大陸に近い舞鶴港を引揚港として指定した。1945年10月7日に約2,700人が乗船した第一引揚船「雲仙丸」が入港した。舞鶴港は1958年9月7日の約472人が乗船した最終引揚船「白山丸」の入港まで、13年間で、のべ約426隻もの約13年間の引揚事業を担った。
 日本政府は1945年9月に邦人引揚計画と引揚応急援護要綱を決定し、その施策の一部として引揚民事務所を開設させ、引揚者の援護などの事務を行わせた。9月28日に、舞鶴をはじめ浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司の10港を引揚港と指定した。1950年からは日本国内の唯一の引揚港となった舞鶴港は、主として中国大陸やソビエト連邦からの引揚者を、約13年間で約16,269柱の遺骨と約664,531人の生存者を受け入れた。終戦直後から約60万人の日本人がソビエト連邦に送還された。約472,000人が極寒のシベリア各地や北極圏からコーカサス等に悲惨な収容所に抑留されて強制労働を強要された。


2019年3月31日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した女子学徒動員は無表情に悲しみ、大村海軍病院の看護婦から処置を受けた。(長崎)

長崎原子爆弾に被爆した女子学徒動員は無表情に、1945年8月10日午後3時頃に、大村海軍病院の看護婦から処置を受けた。両腕と顔面から頭皮部の火傷に包帯を巻かれた。海軍看護師の周囲には、膨大な被爆者が殺到して、次から次へと手早く救護した。重態の被爆者は、道ノ駅から北東約20kmの大村市内の大村海軍病院に8月9日午後3時頃から護送され始めた。
 長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に長崎市内に投下されて炸裂した。アメリカ軍爆撃機B-29ボックスカーによって投下されたプルトニウム型原子爆弾ファットマンが上空約500mの地点で爆発し、付近一帯は一瞬にして壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。大村海軍病院から8月9日に直ちに第1次救護隊が派遣され、8月10日に第2次救護隊と交代した。


2019年3月30日土曜日

アメリカ軍兵士が亀甲墓の前で殺害した日本人の死体が散在して、さらに内部に散乱した死体も引きずり出した。

太平洋戦争の終局の沖縄戦で、アメリカ軍兵士が亀甲墓の前で殺害した日本人の死体が散在して、さらに内部に散乱した死体を引きずり出した。
 アメリカ軍は1945年4月1日から日本本土の侵攻の緒戦であるの沖縄戦の攻防が勃発した。アメリカ軍は、沖縄の海と空を制圧した。圧倒的な武力を持ったアメリカ軍に対して、劣悪な日本軍は、戦闘地域に散在してゲリラ戦で対抗した。そのために陸上戦に巻き込まれて、アメリカ軍からの無差別攻撃だけでなく、日本軍からも虐待から虐殺も受けた。
   沖縄住民らの防空壕となっていた亀甲墓を、アメリカ軍はゲリラ拠点として徹底的に掃討した。沖縄住民の避難場所であったが、被爆弾死、火炎放射器による焼死、手榴弾、銃殺死などで、無差別攻撃で膨大な沖縄住民が虐待と虐殺に巻き込まれた。甚大な銃弾、砲弾、火炎により、沖縄住民は、針の穴をくぐって避難した。
 亀甲墓は横穴式で、山の斜面や崖などを横から掘り出して、その入口部分に石や漆喰で塞いだ。亀甲墓の奥部分は山の斜面や崖の中に詰まっていた。特に明治時代から、沖縄戦争の中部から南部にかけて、亀甲墓は明治時代の中頃から増大していた。大きく独特に埋葬する沖縄の亀甲墓は、結局、沖縄戦で壊滅して、戦後にて亀甲墓は撤去される対象とった。亀甲墓は女性の子宮を象ったお墓に自分が回帰する信仰であった。安置している遺体の周りに石を積み上げたり、漆喰で入口を塞いで、破風墓や亀甲墓の形へと変化していた。



2019年3月29日金曜日

アメリカ軍は、太平洋戦争にて火炎放射器で洞窟やトーチカを焼き払って、追い立てた日本軍兵士を焼殺した。 

燃え尽きた洞窟やトーチカの付近から這い出した日本軍兵士の焼死体が散乱した。アメリカ軍の火炎放射器は、太平洋戦争中に日本軍兵士を丸焼けにした。火炎放射器で洞窟やトーチカを焼き払って、追い出した日本軍兵士を焼殺した。 
 太平洋諸島は島全体が緑の木々に覆われたジャングルで、日本軍はジャングルの茂みに潜んだ。太平洋諸島は、艦砲射撃や爆撃、火炎放射器で、森林が焼き払わて、茂みに潜む日本兵を狙い丸焼きにした。
 日本軍兵士は、荒野から洞窟やトーチカに潜み、ゲリラ攻撃を仕掛けた。爆弾では、洞窟やトーチカには入り組んだ内部まで攻撃が届かない。火炎放射器は、要塞を攻撃して日本軍兵士をあぶり出した。直接に当たれば焼死、避けても熱死亡、酸素不足で窒息死になり、内部は高温で焼死した。火炎放射器を使うアメリカ軍兵士は、特に狙い撃ちされて圧倒的に戦死率が高かった。



2019年3月28日木曜日

ソマリアの内戦の激化によりバイドアにて餓死した子供の死体にハエが群がった。

ソマリアの内戦の激化により、1992年8月頃にバイドアにて餓死した子供の死体にハエが群がった。ソマリアで最も人口が集中して流動も高く多様な民族的地域であるバイドアに、大量の難民が殺到した。 多くの難民は飢餓状態となり、無表情に座り込み、横になり、やがて動けなくなった。死体からは糞尿と血の匂いの入り混じった悪臭である死臭が漂った。死体は汚物としてしばらく放置されて、まとめて捨てられた。
 アフリカ北東部のソマリアは、1977年からエチオピアとのオガデン戦争により、1980年代初頭から内戦が勃発して継続した。1991年1月に、統一ソマリア会議の反政府勢力が首都モガディシオを制圧した。6月には北ソマリアのソマリランド共和国が分離独立して、統一された政府が樹立されず無政府状態となった。各部族を中心とする軍閥が、群雄割拠した内戦状態に陥った。
 1992年になると、内戦の戦闘が激化する一方となった。その夏期には大量の難民も発生した。飢餓による餓死や病死が膨大となり悲惨な状況に至った。1992年に国連から平和維持活動(PKO)が派遣された。1993年10月にアメリカ軍が首都モガディシュの戦闘の惨敗から撤退して、1995年3月には国連PKOも撤退した。2000年8月 にジブチの仲介で,暫定国民政府が成立するも、2003年に崩壊した。2005年1月に周辺諸国の仲介で,暫定連邦政府(TFG)が成立した。2006年6月にイスラム法廷連合(UIC)が中・南部ソマリア地域を制圧し、2006年12月にTFGの要請を受けたエチオピアがソマリアに侵攻した。2012年9月に連邦議会により新大統領に選出されて、21年ぶりに統一政府が樹立した。新政府がソマリアの統合を実現して、秩序の回復は予断は困難である。



2019年3月27日水曜日

ベトナム戦争でアメリカ軍はナムディン縫製工場に無差別な北爆をして、3歳と7歳と10歳の子供が殺害された。

北ベトナムの重要な生産拠点の一つだったナムディン縫製工場は、ベトナム戦争時代に数度にわたって米軍による空爆を受けた。ナムディン省は、ベトナム北部のデルタ地帯に位置して、トンキン湾まで最短で35km程度である。アメリカ軍は1965年7月27日にナムディン縫製工場を北爆した。その無差別な北爆によって、3歳と7歳と10歳の子供が殺害された。10歳の女子の頭蓋骨と脳みそが飛び散って虐殺された。
 トンキン湾事件により、1965年2月7日からベトナム戦争にてアメリカ軍による北ベトナム爆撃が勃発した。3月26日から最初の大規模な限局的的な北爆をした。5月5日から最初のアメリカ陸軍の戦闘部隊の約3,500人が沖縄から派遣それて、ビエンホア空港を南ベトナムの軍事基地として強化した。初期は地域限定的攻撃であったが、次第に軍事基地だけでなく村や町など無差別爆撃を行った。6月18日から戦略爆撃B-52が南ベトナム解放戦線の支配区に大量の爆弾を炸裂させた。南ベトナム解放戦線に対抗するために、南ベトナムにも北爆と呼称された攻撃が繰り返された。アメリカ軍は、1965年には約13,000波わたる爆撃により、約250,000トンの爆弾を投下した。7月12日にアメリカ軍が地上戦闘部隊を大量投入して、ベトナム駐留のアメリカ軍兵士の総員は約125,000人にも達して、ベトナム戦争が泥沼化した。





2019年3月26日火曜日

太平洋戦争で硫黄島の浜辺一帯にアメリカ軍の海兵隊の殺戮された死体が散乱した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、アメリカ軍の海兵隊は史上で最も多数の激烈な戦死傷を伴った。浜辺一帯に散乱したアメリカ軍の海兵隊のアメリカ人の死体が、すべておよそ可能なかぎり最大の猛威によって殺戮された。
 海兵隊は、1945年2月19日に上陸した最初の50時間だけで、戦死傷者は約3,000人に達した。上陸からはじの5日間には、毎日平均1,200もの戦死傷者を伴った。硫黄島での総計の戦死傷者数は、海兵隊が日本軍よりも約7,753人も上回った。
 硫黄島の戦いでは、アメリカ軍の海兵隊の戦死者数は約6,821人、戦傷者は約21,865人で、総計の戦死傷者数は28,686人にも達した。日本軍は戦死者数は約19,900人、戦傷者数は約1,033人で、総計の戦死傷者数は約20,932人と海兵隊より下回った。しかし、戦死者数は、日本軍が海兵隊よりも、約13,079と膨大な戦死者数が上回った。戦死傷数のうちに戦死率は、海兵隊が約23.8%であり、日本軍は約95.1%にも遥かに上回った。日本軍はほとんど全滅して戦死した玉砕に陥った。1945年3月26日に、最終的に日本軍からの戦闘は終結した。
  1944年6月19日のマリアナ沖海戦で、マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領して、西太平洋の制海権と制空権は完全にアメリカの手に陥ち、太平洋戦争の大局は判明されていた。その後は、一死をもって国に殉じて、一人十殺主義で、自分が死んでアメリカ軍兵士を多数を殺戮する算術上の絶望的な戦いに陥った。




2019年3月25日月曜日

沖縄戦で、特攻隊員は確実に命を投げ出し激突して絶命するためにセメントを担いだ。

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年4月24日に戦死を覚悟した特別攻撃隊の操縦兵士が沖縄本島の崖に激突死した。その身体には、確実に戦死するために約25cm角のコンクリート・ブロックを体に結びつけていた。特攻隊員の多くは、ひきょう者を恥じ命令だから死にますと出撃していった。特攻隊員が生きて帰るのは名誉をけがす、死ねないのは、国賊でツラよごしと非難された。特攻隊員は確実に命を投げ出して絶命するためにセメントを担いだ。
 沖縄戦の特攻作戦には、鹿児島県の知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、当時日本が占領していた台湾など多くの基地から出撃した。4月6日から九州の複数の航空基地から飛び立った航空機による特攻攻撃で、6月22日の作戦終了までに約11回にわたり約1,800機が特攻に出撃して約2,600人が戦死しました。本土最南端の知覧基地からは全特攻戦死者のうち約439人が知覧基地から出撃した。特別攻撃は82日間と連続的に行われたが、昼夜にわたる攻撃により、アメリカ軍の大艦は一隻も沈まなかった。特攻攻撃は、空母の撃沈に自らの命と引き換えた。しかし、巡洋艦と駆逐艦で護衛されて、空母からは戦闘機が特攻機を撃墜した。中心部の空母に辿り着くまでには、熾烈な対空砲火を受けて、特攻機が巡洋艦以上の大型艦、正規空母と軽空母は1隻もなかった。





2019年3月24日日曜日

ワルシャワ・ゲトーで蜂起したユダヤ人の抵抗者の死体が、ナチス親衛隊によって破壊された建物の廃墟の前に散乱した。

ナチス・ドイツ軍に対するユダヤ人の抵抗者の死体が、ワルシャワ・ゲットー蜂起の抑圧する親衛隊によって破壊された建物の廃墟の前に散乱した。ドイツ軍は「無法者が戦闘で殺害された」と記録した。
 ナチス親衛隊と警察部隊が、1943年4月19日にワルシャワゲトーに生き残ったユダヤ人を移送するためにゲットーに侵入した直後に、ワルシャワのゲットー蜂起が始まった。ゲットーのユダヤ人ほとんど全員が隠れ家や地下壕に身を潜めた。強制移送の再開が、ゲットーの武装蜂起の合図であった。1943年5月16日までにドイツ軍はユダヤ人の反乱を武力で粉砕した。生き残ったゲットーのユダヤ人は強制収容所や絶滅収容所に移送されて虐殺された。
 蜂起して3日目から、ナチス親衛隊と警察部隊は、ゲットーの徹底捜索をして、建物をひとつひとつ破壊して隠れているユダヤ人を地上に叩き出した。ユダヤ人戦闘員も要塞から反抗するも、ドイツ軍の組織的な攻撃でゲットーは崩壊した。その後は小さなグループおよび個人戦闘員が、身を潜めて約1か月近くも抵抗した。個人になったユダヤ人はゲットーの廃墟に隠れ、ドイツ軍や補助部隊のパトロールに攻撃を続けた。ワルシャワゲットーの蜂起は最大規模であり、最大なユダヤ人の蜂起であった。ドイツ占領下のヨーロッパで最初に起きた都市の武力蜂起であった。


2019年3月23日土曜日

似島検疫所に救護された被爆者は、広範囲に火傷面が化膿して膿瘍を形成した。(広島)

広島原子爆弾より、広範囲に重度の火傷を顔面から両方の上肢に被爆して、似島検疫所に救護された。その後に放射能被爆による免疫機能の低下も伴って、広範囲にわたり火傷面が化膿して膿瘍を形成した。
 原子爆弾の火傷は、光線や熱線による高熱により、屋外にて爆撃に暴露した。特に裸体になるほど高度の火傷を受けて。火傷の特徴は爆心方向面のみ被爆した。原子爆弾の炸裂によりできる火の玉の温度は、中心部では100万℃をこえ、大きさは1秒後に最大直径280mにもなった。放出された非常に強い熱線によって、爆心地では地表の温度が3,000~4,000℃にも達した(太陽の表面温度は5,700℃、鉄がとける温度は1,500℃)。



2019年3月22日金曜日

ニューギニアの戦いで補給が絶えて飢餓と風土病に苦闘して撤退した日本軍兵士の膨大な死体が、山林や山道に散乱していた。

ニューギニアの戦いに、アメリカ軍とオーストリア軍の連合軍が侵攻して、補給が絶えて飢餓と風土病に苦闘して撤退した日本軍兵士の膨大な死体が、山林や山道に散乱していた。
太平洋戦争で、1942年3月に日本軍はニューギニアの北東海岸のサラモアとラエに上陸した。ニューギニアの東半分はオーストラリア領であった。連合軍の最終防衛拠点がある南東部のポートモスレビーの攻略は、日本軍は海岸からの上陸は困難となり放棄した。北東海岸からポートモレスビーを攻略するために、日本軍兵士には約4,000mのオーウェンスタンレー山脈を越える無理な行軍を強要された。片道分だけの食料と物資を背負って残酷な登山を強いられた。オーウェンスタンレー山脈を越えた時点で、食糧が尽きて飢餓と風土病で壊滅状態となった。
 ポートモレスビーから、連合軍による猛烈な攻撃を受けて、日本軍は撤退して追撃された。1942年10月17日には食糧が完全に枯渇して、木の根や草を食いながら悲惨な後退をした。大本営はガダルカナル島を優先して、ニューギニアを無視した。連合軍は、1943年1月に圧倒的な武力で北東海岸の拠点を攻略して、日本軍は壊滅した。ニュギニアから日本軍の艦艇や輸送船が、連合軍の爆撃機により次々に沈没して、膨大な人命や物資を喪失した。日本軍兵士は約180,000人が戦死して、わずか10%の約20,000人のみが生還した。連合軍の戦死者もオーストラリア軍は約8,000名、アメリカ軍は約4,000名に上った。



2019年3月21日木曜日

南北戦争のゲティスバークの戦いで、南軍兵士が銃殺されて悪魔の巣窟に倒れた戦死体などが散乱した。

南北戦争のゲティスバークの戦いで、南軍陣地の右翼にて南軍兵士が銃殺されて悪魔の巣窟に倒れた膨大な戦死体などが散乱した。
 アメリカ合衆国の南北戦争の最大で最終局面でゲティスバーグの戦いが、1863年7月1日から3日まで勃発した。集団密集による突撃戦のあとで、北軍が約3, 155の戦死体と南軍が約3,903戦死体が、ゲティスバーグ周辺の野原や森林に散乱した。ほとんどの死体は、戦場に大きな共同墓地に墓穴を掘って埋められた。戦死傷者、捕虜、行方不明等の犠牲は、北軍は約23,000人、南軍は約27,000人に達した。激烈な戦闘地域は、悪魔の巣窟、桃畑、小麦畑と呼ばれた。ゲティスバーグの戦いに巻き込まれた女性は20歳のジェニー・ウェイドが流れ弾による背中の致命傷で死亡した。
 南軍は約75,000人から約27,000人の犠牲を伴って、兵員や物資の補給が得られずに、アメリカ独立記念日であった7月4日から退却した。南北戦争の転機となり、南軍の侵攻が退却に転換して、北軍が優勢となった。11月9日にリンカーン大統領がゲティスバークでわずかに約2分15秒の演説した。「市民の市民による市民のための政治 (government of the people, by the people, for the people)」を地上から決して絶滅させないために、われわれ がここで固く決意することであると宣言した。




2019年3月20日水曜日

リトアニアのコーヴノで、ナチス・ドイツの治安警察は刑務所から出獄した囚人に、多数のユダヤ人を鉄棒で殴り殺させた。

第2次世界大戦にて、ナチス・ドイツは東部戦線で占領した地域の治安警察が、ユダヤ人を迫害した。次第にエスカレートして、迫害だけでなく虐待から虐殺に至った。リトアニアのコーヴノでは、1941年6月28日に治安警察は刑務所から出獄を解く代わりに、牢獄の囚人に、数百人ものユダヤ人を鉄棒で殴り殺させた。
 その後には、ユダヤ人集団たちを家屋から追い出して、路上に集結させて、収容地域となるゲトーに集団移住を強制した。ゲトーには鉄条網で外部から遮断されて、出口には武装した兵士が見張った。すでに満員状態のゲトーに、ユダヤ人集団を次々に収容した。ゲトーは経済的困窮に陥り、無法地帯となった。謀略、収容、殴打、略奪、銃撃、公開処刑された。飢餓で栄養失調となり、餓死した幼児を抱いて母親が慟哭した。
 ナチス・ドイツが占領した1941年から1944年の間にリトアニアのユダヤ人口約21万人のうち約196,00人の約98%が虐殺された。リトアニアの暴徒や軍隊は、ナチス・ドイツ軍と警察が殺害する前に、ユダヤ人を一斉に殺害し始めた。リトアニアの森林で、約3万人が処刑された。戦時中のリトアニアは、「ホロコースト・バイブル」と呼ばれ、ユダヤ人大量虐殺の起点となった。ソ連により1940年に併合されたリトアニアは、解放者のナチス・ドイツを歓迎して、ダヤ人大量虐殺でソ連の復讐を果たした。




2019年3月19日火曜日

米比戦争にてフィリピン人ゲリラの革命軍が、暗殺した一人のアメリカ人の死体の周りを囲んだ。

米比戦争では、フィリピン人ゲリラがアメリカ人に対する最悪の虐待と虐殺者となった。彼らの革命的な脅威は、アメリカ軍や民間人に虐待、性的虐待、およびその他の迅速かつ恐ろしい処罰を執行した。フィリピンの革命軍が、暗殺した一人のアメリカ支持者の死体の周りを囲んだ。
 フィリピンは、1898年にアメリカとスペインとの間で勃発した米西戦争の最中に、独立を果たしたつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカに譲渡された。1899年1月21日にフィリピン第一共和国がフィリピン人によって建国された。フィリピン第一共和国の建国を承認しないアメリカは、フィリピンを植民地化した。フィリピン人は猛烈に抵抗したが、アメリカとフィリピンとの間の米比戦争で約60万人のフィリピン人がアメリカ軍によった無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。1901年にアギナルドがアメリカ軍の捕虜になり第一共和国は崩壊した。フィリピンは旧スペイン植民地のグアムやプエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けた。
 1900年初頭から革命軍はゲリラ紛争を主導して、アメリカ軍による群島占領により、米比戦争は、当惑する複雑な一連の地域戦争となった。戦争を継続するのに十分な資金と物資を集めたが、革命軍たちは効率的に分配できなく、欠乏して士気を失った。フィリピン群島の大部分では、法と秩序は事実上崩壊していた。