2019年2月13日水曜日

日清戦争で日本軍は旅順を陥落した時に、中国人らを清国軍の容疑者として射殺した。

日清戦争において、日本軍による旅順の陥落時に、清国軍の容疑者として中国人を射殺した。日本軍は旅順内に戦死した戦友のさらし首の散乱にも激怒して、無差別に中国人を出会う生命は射殺しながら、銃剣で突き殺し、日本刀で切り倒した旅順虐殺事件が勃発した。
  日本は1876年2月に、朝鮮に対して日朝修好条規の締結を強要した。1894年5月に朝鮮で暴発した農民による東学党の乱で、日本は支朝鮮を支配配するために参戦した。朝鮮と関係が深い清国は、日本の支配に対抗して戦乱となった。日本軍は1894月25日には豊島沖で海戦、29日は牙山で陸戦して清国軍を敗退させた。8月1日に両国が宣戦布告して本格的な日清戦争に突入した。日本軍は9月1日に平壌を侵略して、10月24日に国境の鴨緑江を渡河して、清国内の遼東半島に侵攻した。日本軍は、花園口に上陸して11月6日に金州城、11月7日に大連湾を攻略して、21日に旅順を陥落した。日本軍の侵略に対して、朝鮮国内の猛烈な反日暴動が頻発した。日本軍は、10月27日に河東、11月7日に金剛山、11月12日に晋州、11月17日に三峰山、11月19日に百城洞、11月30日に忠清道で約20,000人もの朝鮮人農民の暴動に対して、残酷な虐待と虐殺を繰り返した。





2019年2月12日火曜日

太平洋戦争で日本軍の守備隊兵士の死体が、アッツ島のマサッカル海岸一面に散乱した。

太平洋戦争にて、日本軍の守備隊の兵士の死体が、アッツ島のマサッカル海岸の一面に散乱した。北方軍の司令官は、日本軍の守備隊に全滅する玉砕を命じた。日本軍の約2,600人は5月28日に全滅して玉砕した。戦争で負傷あるいは自決せずに捕虜となった約29人を除く全員が、戦死あるいは自決した。
 太平洋戦争にて、アメリカ軍は北太平洋のミッドウェイ海戦で日本軍に大勝した直後から、日本軍は守勢に陥った。日本軍はアッツ島とキスカ島を侵略して、初めてアメリカ領土を占領した。北アメリカ大陸から北アジア大陸の間を弧状に連なった約2,000kmのアリユーシャン列島に点在していた。アメリカ軍はキスカ島を孤立するめに、まずアッツ島を先攻して1943年5月11日に海岸に上陸した。大本営は5月20日には、アッツ島からの撤退を内定するも、アッツ島の日本軍兵士は見殺しにされた。日本軍の約2,600人は5月28日に全滅して玉砕した。
 アッツ島より北部のアラスカ寄りのキスカ島は、7月28日にアメリカ軍艦が一時退避して、約5,000人の日本軍兵士は霧の晴れ間から逃避した。アメリカ軍が8月15日に上陸した時点で、日本兵全員は撤退して避難できた。



2019年2月11日月曜日

日本軍の将校が、日本刀により中国人兵士の首を切り落とした瞬間の写真が、南京軍事裁判の証拠資料となった。

日本軍の将校が、日本刀により中国人兵士の首を切り落とした瞬間の写真が、南京軍事裁判において南京虐殺事件の証拠資料として提出された。盧溝橋から快進撃した日本軍は、南京を1937年12月13日に侵略した。東京日日新聞の2人の記者が、大隊副官と歩兵砲小隊長は、中国人の「百人斬り」大接戦と百人斬り超記録(106対105)を達成したと報道した。江南戦線丹陽の2人の特派員が、架空の出来事を想像的に描いた記事であるフィクション(Fiction)を創作した。南京軍事裁判にて、新聞記者の創作と抗弁するも、2人の将校は1950年12月に銃殺された。
 日本は1931年に満州国を樹立した。満州の盧溝橋が1937年7月7日に暴発して、本格的な日中戦争に突入した。日本軍は中国大陸において終戦に至る15年間も侵略をして、別名で15年戦争とも呼称された。盧溝橋にて偶発的な発砲から、日本軍の現地軍である関東軍が反抗的に突撃して、中国大陸の侵攻が勃発した。日本軍は中国大陸の各地の戦闘に巻き込まれて、中国兵士だけでなく、中国人を無差別に虐待と虐殺を繰り返した。



2019年2月10日日曜日

虐殺されうつ伏せのパレスチナ老人の死体が放置されて、膝の下に手榴弾が隠蔽された。

レバノンのベイルートにあるパレスチナ人の難民収容所にて、親イスラエルのレバノン軍団が多数のパレスチナ人を大虐殺した。1982年9月16日から18日かけて、ベイルートのパレスチナ収容所で殺戮事件が勃発した。キリスト教右派の親イスラエルであるレバノン軍団が、サブラ・シャティーラ難民収容所を完全に包囲して、レバノンの右派民兵も加わり、数千人もの市民を殺害した。
 うつ伏せとなったパレスチナ老人の虐殺死体が放置され、老人の膝の下には、安全ピンを外した手榴弾が隠蔽されていた。死体を動かす人々に対して爆発して、自爆テロの犠牲となる。虐殺と虐待の対象となったのは、多くの老人や子どもや女性など無抵抗なパレスチナ市民が犠牲となった。
  1975年から15年続いたレバノンの内戦も、パレスチナ難民に大きな災禍をもたらしました。内戦に巻き込まれた犠牲者の他、1982年にはイスラエル軍のレバノン侵攻があり、ベイルートの難民キャンプでパレスチナ人とレバノン人の約千人以上が殺害されるなど、合計約2万人以上の犠牲者が出た。難民キャンプの包囲などが起き、パレスチナ人と疑われて多くの市民が殺害された。



2019年2月9日土曜日

第2次リベリア内戦により、テーラー政権に反武装勢力LURDはモンロビアに3度の攻撃をして、身の毛もよだつ残酷な内戦となった。

第2次リベリア内戦が勃発して、1999 年頃から武装勢力のリベリア民主和解連合(LURD)やリベリア民主運動(MODEL) のが蜂起し勢力を拡大した。2003年の初めにLURD から分離したMODEL がリベリア南東部地域を支配した。内戦による新たな虐殺、 略奪、レイプの暴力の嵐が、その地域を席巻した。戦闘は続き首都モンロビアに近づき、2003 年には首都モンロビアへ侵攻した。
 殺人とレイプの渦が巻き起こり、町中で激しい戦闘が勃発した。何日もの砲撃により多くの建物が炎上して、がれきやゴミ、壊れた家具の破片などが歩道に散らばった。どの家も、どの店も、略奪され破壊された。人々は弾丸の薬きょうのカーペットの上を走って逃げ、犠牲者を手押し車や背中に載せて運んだ。シエラレオネとギニアに続く道路、モンロビアから西に向かう道路は封鎖された。
 国連安全保障理事会のアナン事務総長はアメリカに介入を依頼した。8月14日、反政府勢力はモンロビアの包囲をやめ、アメリカ軍がアフリカの平和維持軍を支援するため上陸した。3日後、LURD、MODEL、テーラー政権が「アクラ包括和平合意」を締結した。2003年10月に暫定政府が発足して、2005年に暫定政府の下で11月8日の大統領選で、11月8日にアフリカ初の選挙によるサーリーフ女性大統領が誕生した。



2019年2月8日金曜日

被爆した少女は16歳になって、広島原爆病院で、顔面から頸部のケロイドの形成術を9回以上もの植皮手術を受けた。

広島原子爆弾により、4歳の少女が爆心地から約2kmの福島町の自宅の外で被爆した。被爆して気がついた時は、家の下敷きになっていた少女は、ご近所に助けられた。家内にいた家族は無傷であった。
 16歳の思春期になって、広島原爆病院に1957年5月12日に入院して10月21日までに顔面から頸部にかけたケロイドの形成術に9回もの植皮手術を受けた。手術して麻酔から覚める夜中になると、痛がって悲鳴を上げて暴れた。手術から帰ると、絶対安静させるために、帯紐で彼女はベッドに縛られた。8回目の手術の時に、彼女は「今夜はあばれないから、しばらないでね」と懇願した。我慢できずにあばれ始めて、植皮した左頬に出血したあざとなった。植皮のために、両大腿から皮膚を剥ぎ取り、傷だらけとなった。再々の手術を受けて12月14日に退院した。被爆しなかったら美しい少女が、原子爆弾により見るも無残な姿になり、被爆を人知れずに一生悩み恨み続けることになりましょう。



2019年2月7日木曜日

サンタクルス事件は、東ティモールの首都ディリで勃発して、インドネシア国軍が独立を求める市民のデモ行進に無差別発砲して大量の死傷者を出した。

サンタクルス事件は、1991年11月12日にインドネシア占領下の東ティモールの首都ディリで大虐殺が起きた。インドネシア国軍が、独立を求める市民のデモ行進に対して無差別に発砲して大量の死傷者を出した。死者はサンタクルス墓地に埋葬された。その殺害から2週間後に墓へ花を捧げる儀礼に参列していた群集が独立を求めてデモ化した。インドネシア国軍がデモの群集に向かって発砲した。多くの死傷者はディリ南部のウィラフサダ陸軍病院に運ばれた。インドネシア国軍は証言者を消すために虐殺した。
 東ティモールは、インドネシア・バリ島の東方にティモール島東部に位置する。国土は約1万4000平方km、人口は約106.5万人で、ほとんどがキリスト教徒である。1人あたりGDPは368.8ドルと低く、アジアの最貧国である。ポルトガルは1974年、自国の政権の崩壊で、東ティモールの植民地支配を放棄した。東ティモールでは独立に向けて、1975年に東ティモール独立革命戦線が独立を宣言した。直後にティモール島の不安定化に、インドネシアが東ティモールに軍事侵攻した。1976年に27番目の州として併合され、東ティモールではインドネシア政府から独立の活動が途絶えなかった。東西冷戦の終結過程へと突入し、小さな島の独立を巡る闘争が国際社会の注目は少なくなった。1991年に首都ディリのサンタクルス墓地で、若者の葬儀から独立派の抗議集会にインドネシア軍が介入し、多数の住民が殺害されました。国際社会ではインドネシアの人権侵害を強く非難した。流れを一気に加速させたのが、1991年のインドネシアのスハルト政権の崩壊から、東ティモールの自治・独立を容認に転換した、1999年に、東ティモールで独立の住民投票が実施され、住民の約8割が分離・独立を選択した。東ティモールは2002年5月20日に独立を達成して、21世紀最初の独立国家となった。





2019年2月6日水曜日

イラクのハラブジャ事件に化学兵器が使用されて、多数の子供たちを含めて約5,000人のクルド人が虐殺された。

ハラブジャ事件により、イラクのクルディスタン地域東部のハラブジャにて化学兵器が使われて、1988年3月16日に多数の子供たちを含めた約5,000人のクルド人が虐殺された。空軍が化学兵器を用いてハラブジャの町を爆撃した。
 イラン・イラク戦争の末期、クルド人が多数を占めるクルディスタン地域のハラブジャ住民に対して、イラクのサッダーム・フセイン政権が化学兵器を使用して住民を殺害したと報道された。化学兵器は、マスタードガス、サリン、VXガスなど複数の大量の毒ガスが使用された。毒ガスは空気より重いので、その場で倒れて折り重なって死亡した。
 アメリカ陸軍大学の戦略研究所は、イラクではなくイランがハラブジャ事件の主犯と1990年に報告した。シアン塩化物ないしシアン化水素の化学兵器は、イラクは製造する能力もなく、決して使用できなかった。イラン軍兵士はガスマスクと防護服を着用していた。逆にアメリカは化学兵器と大量破壊兵器として、毒ガス事件を湾岸戦争とイラク戦争に仕掛けた。


2019年2月5日火曜日

ベトナム戦争の起点におけるナム・ドンの戦闘で、アメリカ軍が多数の北ベトナム兵士とゲリラを殺害した。

ベトナム戦争におけるナム・ドンの戦闘において、アメリカ軍が多数の北ベトナム兵士とゲリラを殺害した。アメリカ軍は、散乱した死体を集積して地面に並べた。
 ナム・ドンの戦闘は、アメリカ軍がベトナム戦争に大規模に軍事介入する起点となった1964年8月2日と4日のトンキン湾事件の直前に暴発した。1964年7月6日に南ベトナム北部のナム・ドク基地で勃発した。ラオス国境付近のナム・ドン基地は、国境に沿う北ベトナムのホーチミン・ルートを妨害した。アメリカ軍は、午前2時頃に、基地内で大爆発が突然に起こった。北ベトナム兵士とゲリラが基地に侵攻した。猛烈なアメリカ軍の攻撃で、大多数の犠牲を伴って北ベトナム兵とゲリラは撤退した。アメリカ軍と南ベトナム軍兵士は、約55人が戦死して、約65人が戦傷した。
 ナム・ドンはチュオンソン山脈の山岳地帯で、地形が複雑な地域である。ナム・ドン山岳地帯は、ベトナム戦争では、南ベトナム解放軍とゲリラ拠点であった。ベトナム戦争時に多数の山岳地帯に、アメリカ軍は数万トンの爆弾や枯葉剤を投下した。ナムドンの戦闘は、アメリカ軍が南ベトナム政府軍やベトナムの中央高地に住む少数民族に軍事訓練の起点に、北ベトナム軍とゲリラの約900人がナム・ドン基地を侵略した。人数で圧倒的に劣るアメリカ軍のナム・ドン部隊が勝利して、ベトナム戦争に軍事介入の士気を誘発した。



2019年2月4日月曜日

日中戦争にて、日本軍は河北省北坦村で毒ガスにより村民を無差別に殺害した

日中戦争にて、日本軍は1942年5月27日に、河北省北坦村で毒ガスにより子供たちを殺害した。
 日本軍は、抗日根拠地と容疑した中国の河北省北坦村を、1942年5月27日に襲撃した。日本軍の侵攻された約1,227人が居住した中国人の村民は、掘りつないでいた坑道に逃避した。日本軍は毒ガスを坑道に投入して無差別に村民を虐殺した。坑道内では約800人以上の村民が毒ガスの中毒死、刺殺や銃殺により虐殺された。
 北坦村事件を引き起こした指揮官であった大江芳若少佐による回想録には、毒瓦斯と銘記された。「2 定縣南方召村附近の川に添ふ地区特に安國縣境に添ふ地区は治安殊に悪く、民衆は日本軍に親しまず。再々附近を掃蕩せるも空室清野戦法にて敵の姿を見ずに終われり。3 斯くする内に南坦、北坦二両村に敵の大部隊あり。當部落には坑道を掘りある状況を知り、大隊は現駐屯地より夜間行動を起し特に道路を避けて行動し払暁同村を包囲攻撃せり。4 午前五時頃同村を完全に包囲し敵の銃声と共に射撃戦を開始し、漸次包囲圏を圧縮し部落に突入せり。然るに今迄猛烈射撃ありし敵の敵の姿全然なし。部落中にて屋根より手投弾を受け又入り口にて地雷の爆発を受く。直ちに部落外周の坑道を捜索せしめ又部落中の井戸其他坑を捜索せしめ毒瓦斯を投入せしむ。然る所漸く共産軍の騒く声聞きぬ。村より隣村に通ふずる坑道を遮断せしめ坑道内にて共匪の約百名を窒息殲滅せしめ、小銃軽機等約百二十丁鹵獲し、我方にも特曹以下数名の死傷ありたり。爾来定縣南方河川流域の治安急速に良好となれり。之かやかて縣政にも極めて良好結果を来たしたり。」(日本防衛省戦史研究所は2003年から大江回想録を閲覧不可とした。)



2019年2月3日日曜日

タイ王国にて28歳の女性がデモ行進で路上の瓦礫の中に、催涙ガスで吹き飛ばされ即日に死亡した。

 タイ王国では政変や軍事クーデターによる政情不安、軍による民主化運動の弾圧などが多発していた。冷戦後の1992年以降は一時安定したが、軍が政治関与を再開して2006年に軍事クーデターが発生して、タクシン・チナワット首相は失脚した。親タクシン派で農村部が支持する反独裁民主戦線(UDD、赤服軍団)と反タクシン派で都市部で王室を養護する民主市民連合(PAD、黄服軍団)の2つの政治集団が形成され、鋭く対立するようになり情勢は極めて不安定な状態となった。 
 2008年10月7日にソムチャーイ首相の就任に対して、PADが国会議事堂に向けて抗議デモを行進してバリケードを構築した。警察隊が、解散しないPADに対して催涙ガスを投げ込み爆発させた。催涙ガス弾は、密集したデモ隊には衝撃力と殺傷能力が高まった。PADの数人は下肢を吹き飛ばされて切断された。PADはデモ行進を止めて、警察隊はゲートを開いた。警察隊は催涙ガス弾を、デモ隊はパチンコ弾を投げあった。28歳の女性であるノーン・バーンが路上の瓦礫の山の中に、催涙ガスで吹き飛ばされて、即日に死亡した。彼女の遺体は、デモ隊と警察が激突した前線で、埋もれていた。法医学の検死では、直接的な死因は催涙ガス弾の直撃であったが。2009年月2日に、警察は催涙ガスによる死亡原因を否定した。
 2011年の総選挙でタクシン元首相の妹インラック・シナワトラが首相に就任して、UDDとPADの活動も沈静化した。2014年5月にインラックが親族登用で退陣して、政治情勢の混迷して、直後に16度目の軍事クーデターが勃発した。タイ王国軍が全土に戒厳令を発令し、憲法を停止して基本的人権を制限する軍政に移行した。軍政は国王の支持を得て、プラユット陸軍総司令官が首相に任命された。 


2019年2月2日土曜日

多数の日本軍兵士が、関東大震災の混乱に乗じて橋の上で虐殺された朝鮮人を見下した。

多数の日本軍兵士が、混乱に乗じて橋の上で虐殺した朝鮮人を見下した。大震災に伴う大火災に関連して、在日朝鮮人が混乱に乗じて放火して井戸に毒を投入していると奇怪なデマが新聞から流布された。 
 関東大震災が、1932年9月1日午前11時58分32秒頃に関東大地震により甚大な自然災害が勃発した。その犠牲者は、約190万人が被災して、約105,000人が死亡あるいは行方不明に上った。内務省は9月7日に戒厳令を発して、警察と日本軍隊が出動して朝鮮人を虐待と虐殺をした。内務省は「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」と下達した。それらに同調して、地域市民の自衛団が民兵化して、大量虐殺するホロコーストを朝鮮人に処刑した。約6,700人もの在日朝鮮人が虐殺された真相は隠滅された。




日本平和の市民連盟は2019年2月2日にBloggerの投稿数は900回に達した。

2019年2月1日金曜日

フランスのサンナゼールに対する襲撃には、着岸が困難となり帰還する船艇が壊滅してイギリス軍は多数の犠牲者を伴った。

第2次世界大戦にて、イギリス王国海兵隊員は1942年3月28日に、フランスのサンナゼールにあるドイツ軍が占領した船舶ドック施設を襲撃した。サンゼナールは、イギリス本土から最も近いフランスの港町であった。ドイツ海軍のテルピッツ戦艦の基地の使用を不可能にした。約622人の襲撃には、着岸が困難となり帰還する船艇が壊滅して多数の犠牲者を伴った。イギリス軍兵士の約169人が戦死して、約215人と捕虜となり、生還は約215人のみであった。サンナゼールの犠牲者に勲章された。兵士たちは、ドイツ軍に決して降伏しないことを厳命された。上陸と帰還するための多数の機動艇は炎上して沈没していた。1940年6月17日にサンナゼール港からランカスタ船で約9,000人が撤退するも、ドイツ軍により撃沈されて、約4,000人が犠牲者となった。  




2019年1月31日木曜日

第二次上海事変における南京路の虐殺の惨状が毎日新聞への掲載が不許可写真となった。

第二次上海事変における1937年8月の南京路の惨状が、日本軍により毎日新聞への掲載が不許可の写真となった。多数の上海市民が上海事変に巻き込まれて南京路で虐殺された。日中戦争にて、第二次上海事変が1937年に8月13日から10月26日まで勃発した。
 国民総動員法が新聞報道を完全に発禁させた。その新聞事業令が最悪の言論統制法規であった。言論面と新聞用紙、営業、業務へ全面的な統制から、違反すると「発禁」を超えた「廃止」で脅迫した勅令により、日本の言論統制体制が確立された。
 毎日新聞大阪本社には、他の新聞社にはない戦時中に使用された報道写真が残されている。大量の戦時中の写真が残されているのは大阪毎日新聞社のみである。終戦間際には膨大な写真は空襲などで消失した。さらにアメリカ軍主体の進駐軍の手に渡るのを避けるために、日本軍部は報道資料を含む戦時資料の焼却を命じた。当時の毎日新聞社内は拒否して、危険が迫りながら生駒山に隠した。多数の貴重な戦争写真真が残存した。「不許可写真」は、当時の日本軍部がすべての発行物を検閲する中で、不適当とされた不許可の写真である。「不許可」の印が押され、そのまま社内の倉庫送りとなる。「不許可写真」には、明らかに「不許可」になる写真も多い。「不許可写真集」の写真にも、新聞社と検閲官との駆け引きがあった。

  

2019年1月30日水曜日

シーア派であるイスマーイール派の信徒とされる市民に対して、スンニ派のイスラム国では背教罪で打首の死刑を執行した。

イスラム国では、イスラム教に対する他宗教・他宗派には敵対した。イスラム教に対する背教罪は死刑に相当する。イスマーイール派の信徒とされる市民に対して、イスラム国では背教罪で打首の死刑を執行した。イラク戦争により、イラクはスンニ派政権からシーア派政権に転換された。イスラム国が2014年6月にイスラム教のスンニ派の過激組織がイラクの北部のモスル地域を制圧した。その後12月にイラクとシリアの国境地帯に国家の独立を宣言した。2015年1月に支持者の各地で攻撃を呼びかける声明を出し、世界中にテロが多発した。2017年11月に撲滅された。
  イスラム教社会の約90%はスンニ派と約10%のシーア派構成される。比率ではスンニ派がシーア派を大幅に上回っている。スンニ派は、ムハンマドの死後、その後継者であるカリフが信者から選ばれた。シーア派は、預言者ムハンマドの後継者問題から、多数派のイスラム共同体から分離して第4代目の血脈を導く正統カリフをアリーとした信徒である。第十二イマーム派は、イスラム共同体の指導者である第12代目ムハンマドが、お隠れになり、将来に救世主として再臨する信徒である。シーア派に対して、イスラム国やイラク・シリアのスンニ派の過激組織が激しく嫌悪して敵対した。シリアのアサド大統領派閥は、シーア派の一派であるアラウィー派である。シーア派の一派で、7代目のイマーム以降の継承が異なるのがイスマーイール派である。キリスト教徒は、イラクでは人口の約3%、シリアでは約8%を占める。キリスト教徒しユダヤ教徒は、啓典の民として人頭税で統治した被保護民となり、イスラムの改宗を強要された。イスラム国を撲滅したクルド人は、イラク北部やアナトリア南東部に居住したゾロアスター・マニ・キリスト教やその他の要素も混在したヤジード派である。イスラム国からは、悪魔崇拝として虐待され、迫害を受けた。