2019年1月22日火曜日

ベトナム戦争にて、1965年9月18日に南ベトナムのアンケ周辺の戦闘でアメリカ軍と北ベトナムの解放戦線の戦死体が散乱した。

ベトナム戦争にて、1965年9月18日に南ベトナムのアンケ周辺の戦闘で戦死した死体が散乱した。中部高原地帯のアンケで、アメリカ軍と北ベトナムの解放戦線が激突した。アメリカ軍兵士約200人が戦死して、10月10日から14日までに約363人が戦死して、10月27日には約583人が戦傷して、10月30日から11月18日で約1,700人が戦死した。
 アンケの周辺の散乱した死体には、アメリカ軍兵士だけでなく、北ベトナムの解放戦線の兵士も含まれていた。ベトナム戦争までは、軍隊に所属したカメラマンのみが、戦死した死体の撮影は許可された。ベトナム戦争になってから、軍隊のカメラマンだけなく、民間のカメラマンにも撮影が許可された。ベトナム戦争では、戦死した死体の公開には全く制限がなかった。
 第1次世界大戦から太平洋戦争等まで、全ての戦争が終結するまでは戦死あるいは虐殺の写真は厳重に秘蔵されて不許可となった。朝鮮戦争になって、初めて戦死あるいは虐殺の死体が公開された。しかし、1960年代から戦死あるいは虐殺の公開は、戦闘における敗北であり、死者の冒涜と国民的な非難を受けた。それ以後も地球上で多数の戦争や紛争が勃発しているが、戦死や虐殺の死体の公開は漸減した。人間として最も悲惨で、隠したい悪、不正義な倫理と道徳などに蓋をして自覚することを避けた。日本平和の市民連盟は、悲惨な戦争を繰り返さないために、思い出の戦争の真実を直視して市民に公開している。


2019年1月21日月曜日

イラク戦争後に、イスラム教の宗派対立とテロ等とアメリカ軍の掃討の内戦に巻き込まれて多数のイラク市民が虐殺された。

イラク戦争後に、2005年1月に内戦に巻き込まれて、多数のイラク市民が虐殺された。アメリカ軍が2003年3月の開戦からフセイン政権が崩壊して、5月1日に戦闘集結宣言した。しかし、イスラム教スンニ派とシーア派の宗派対立と、国外から流入したテロリスト等によるイラク市民への虐待と虐殺も増大した。多国籍軍やイラン治安部隊への攻撃も激化して、イラクは内戦状態となった。
 イラクの国内は、シーア派・スンニ派間の宗派対立、反米・反政府勢力による攻撃、国際テロ組織の活動、シーア派の内部抗争などの複雑な内戦となった。アメリカ軍は、イラク人口の約60%を占めるシーア派政権に転換して、2004年6月に暫定政府を樹立した。政権の移行にて各宗派・民族が利益や権力を確保する対立が激化して、治安が悪化して、武力を伴う内戦となった。
 イラク国内の民間人死者数は2007年3月28日には約65,880 人にも達した。アメリカ軍も死者約3,191人、戦傷者23,924人に達して、イラク国内でテロの発生数やアメリカ軍兵士の戦死者数が増大し続けた。イラク暫定政府の下で 2005 年1月の移行国民議会選挙が実施され、シーア派主導下でイラク政権が樹立されると強い反動が勃発した。



2019年1月20日日曜日

ボーア戦争にて南アフリカのモダー川の主戦場で、イギリス軍兵士は射殺された犠牲者の側から銃撃をした。

ボーア戦争において南アフリカのモダー川の主戦場にて、イギリス軍兵士は1900年12月18日で射殺された犠牲者を伴い銃撃をした。
 イギリス連合王国は、1815年のウィーン会議にて、オランダから南アフリカのケープ植民地を獲得した。1652年からケープ植民地に移住して植民地化していたオランダ系ボーア人らと対立した。ボーア人は北隣のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国に侵攻した。トランスヴァール共和国からの金鉱とオレンジ共和国のダイヤモンドが発見された。イギリス連合王国は、両国の併合と植民地政策に乗り出した。
 イギリス軍の露骨な侵略政策により、ついに1899年10月11日から南アフリカで本格的なボーア戦争が勃発した。ボーア人の原住民による抵抗により、ボーア戦争は長期化した。近代で初めてイギリス軍は強制収容所を設置してボーア人の少年少女を含めて約34,000人を強制収容して、約20,000人が虐殺した。最終的には、イギリス帝国が膨大な犠牲を伴って1902年5月31日にボーア人が降伏して終結した。ボーア戦争の緒戦には、ナタール植民地のレディスミスにて、イギリス軍はボーア軍に包囲されて、甚大な犠牲を伴いながら、1900年2月28日に撤退させた。イギリス軍は、トランスヴァール共和国のヨハネスブルグを撃破した。ボーア人の多くは困窮して、敵国人であるイギリス人と協調して、人種隔離政策であるアパルトヘイトによりアフリカ黒人からの徹底的な収奪を通して困窮を脱出した。






2019年1月19日土曜日

広島原子爆弾により成人男性が特に身体の露出部があった顔面から両上肢に重度の熱傷を被爆して、比治山国民学校で救護された。

広島原子爆弾に被爆して、熱戦と放射能による熱傷により比治山国民学校の救護所に収容された。比治山は爆心地から東に約1.8kmに位置して、爆心地側の西側は壊滅したが、東側は比治山が遮って被災が少なかった。成人男性が、特に身体の露出部があった顔面と両上肢に重度の熱傷を被爆した。左顔面から頸にかけて重度の熱傷も伴った。両前腕の被爆創に包帯が巻かれていた。被爆者は、安全な場所となる救護を求めて比治山の救護所に避難や護送された。比治山に救護所が設置されるも、すぐに被爆者で詰まった。
 1941年に国民学校令が施行され小学校は国民学校になる。同年、広島市永年防空計画により広島市内の国民学校33校が、300 人から 5,000人を収容とする救護所にされた。 近隣の多聞院には1945年8月6日の当日に壊滅した広島県庁が臨時に避難した。1949年から比治山の頂上付近にアメリカ合衆国が開設した原爆傷害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casuality Comission)が移設され、原爆症の長期的調査研究が行われた。



2019年1月18日金曜日

カンボジア人の母親が、タイに向かう列車から転落死して、息子が母親の死体の側で悲嘆して呆然となった。

カンボジアのポル・ポト政権が崩壊して逃亡した。まもなくベトナムの影響下のヘン・サムリン政権によるカンボジア人民共和国が成立した。経済政策の転換により、プノンペンからタイ国境のバッタンバンに列車やトラックで群衆が大挙した。その喧騒にて、カンボジア人の母親が、列車から転落死した。息子が母親の死体の側で悲嘆して呆然となった。
 ベトナム国内に避難していたカンボジア人により結成されたカンプチア救国民族統一戦線がベトナム軍と、1978年12月25日にカンボジア国内に侵攻した。クメール・ルージュのポル・ポト政権は、国民の粛清と弾圧の影響による混乱により、わずか2週間で崩壊した。カンボジアはベトナム軍によって、大量虐殺を招いたポル・ポト政権からやっと解放された。1979年1月7日に、ベトナム軍がプノンペンに入り、ベトナムの影響を受けたヘン・サムリン政権によるカンプチア人民共和国が樹立された。ベトナムはカンボジアを長期間にわたり影響下に置いた。クメール・ルージュ軍およびポル・ポト政権はタイの国境付近のジャングルへ逃れて潜伏した。



2019年1月17日木曜日

イラクに対する湾岸戦争で使用された劣化ウランによる放射能汚染が、弱者である幼児に被爆症を引き起こした。

イラクに対する湾岸戦争で使用された劣化ウラン(DU: Depleted Uranium)による放射能汚染が、弱者である幼児に被爆症を引き起こした。2ケ月前までは健常に家族と暮らしていた5歳の男児が、突然に死に至る重症の白血病を引き起こした。サダム中央教育病院の小児科病棟では、アメリカ軍が湾岸戦争で甚大な劣化ウラン弾による被爆により、多数の小児に癌や肉腫から特に白血病を発症していた。
 劣化ウラン弾に含まれるウラン238の放射能の半減期は約45億年である。劣化ウラン弾で貫通して破壊されて放置されていた戦車の穴からは、放射線測定器が極大値を示した。湾岸戦争直後から、特に小児に癌から肉腫の白血病、さらに異常児の出産が多発した。発症した。湾岸地域だけでなく、それ以外の非武装地域に放置された劣化ウラン弾に被爆した戦車や装甲車の車輪などの部品が、戦後の貧困の代償として各地で使用され劣化ウランの被爆がイラク各地に分散した。
 劣化ウラン弾は湾岸戦争、イラク戦争などで使用され、戦後に市民だけでなく、アメリカ軍兵士にも、癌、白血病、免疫不全など湾岸戦争症候群を発症した。劣化ウランの放射線毒性や化学毒性による危険性を指摘されている。しかし、世界保健機関(WHO)やアメリカ国防省などは科学的根拠が不十分と否定的主張をしている。



2019年1月16日水曜日

文学作家である小林多喜二は、特別高等警察に治安維持法で逮捕され、拷問と虐待で虐殺された。

文学作家である小林多喜二は、1933年2月2日に東京の赤坂の街頭で警察庁スパイからの通報により特別高等警察に逮捕された。直ちに、東京築地警察署に勾留された。官憲による拷問と虐待によって29歳の若さで虐殺された。同日には、獄中の囚人らは小林多喜二の虐殺を察知した。拘置所にて裸にした全身が強打されて、遺体には特に両方の大腿部には青黒い大量内出血が認められ、両足には刺し傷があった。通夜や告別式に参列した市民らも検挙された。
 小林多喜二は、1928年頃からプロレタリア文学作家として代表作『蟹工船』で、家畜のように弾圧される船員の実態から、国家権力の本質を暴露した。1928年3月28日に日本全国で数千人の反戦主義者を弾圧するために逮捕された。「一九二八年三月十五日」を執筆した。1930年8月には治安維持法による不敬罪で逮捕されて勾留された。1932年3月頃から文化団体は特別高等警察から狙われて思想犯として大弾圧を受けた。逃避して、潜伏して非合法な活動と執筆を継続していた。拷問から虐殺されてからも、太平洋戦争中も、市民が小林多喜二の作品を所持しただけで検挙された。



2019年1月15日火曜日

太平洋戦争にてアンガウル島の海岸の水際に、日本軍に殺害されたアメリカ軍兵死士の死体が波打ち際を漂った。

太平洋戦争にて、パラオ=マリアナ諸島では最後にアンガウル島に侵攻して、アメリカ軍は1944年9月17日に上陸した。持久戦となるも10月19日になって、日本軍兵士が全員が玉砕して全滅した。アンガウル島の海岸の水際にて、アメリカ軍兵死士は殺害されて死体が波打ち際を漂った。
 アウンガル島に配置された日本軍は約1250人に対して、アメリカ軍は約21,000人と圧倒的な武力差があった。アメリカ側の海から艦砲射撃と空からも爆撃も日本側には犠牲を伴った。水際作戦による障害物や地雷もアメリカ軍に対して一部の被害を与えた。広範囲にわたる空爆や艦砲射撃により多くの犠牲が出た。アメリカ軍の武力を前に多くの日本兵が戦闘不能になった。日本軍は生存兵を再編した夜襲をかけたが、戦車や爆撃等で、日本軍の攻撃部隊は全滅した。残りの守備部隊は持久戦に変更、島の洞窟壕に籠って抵抗を続けた。10月9日に最後の斬り込みを行って玉砕された。日本側の犠牲は戦死 1,191人と捕虜 59名、アメリカ側の犠牲は戦死 260人と負傷 2,294人にも達した。アンガウル島で行った水際作戦から持久戦に持ち込む作戦が後の硫黄島や沖縄戦へも継続された。



2019年1月14日月曜日

無差別爆撃による報復で空襲が泥沼化して、1943年のベルリン空襲で悲惨な市民ら親子が死亡した。

ドイツ空軍は1940年8月24日にロンドンに対して無謀な市民への無差別爆撃をした。イギリス空軍は直ちに報復として8月25日にベルリン空爆をした。被害は軽微であったが、市民への無差別爆撃を激怒して空襲が泥沼化した。
 1943年にベルリン大空襲が勃発した。ベルリン爆撃は1943年3月24日の夜に開始され、1944年3月24日に終わるまで約16回にも達した。イギリス空軍が1943年3月1日夜にベルリンを空襲して甚大な被害を与えた。悲惨な空襲により、約500名を越す市民が犠牲となった。イギリス空軍は3月27日夜と29日夜にも、再びベルリン空襲を行った。
 ベルリンの攻防における1943年の最後の2ヶ月は8回にも渡る空襲で、イギリス空軍は延べ3,656機から約14,074トンの爆弾をベルリンに投下した。この空襲によるベルリン市民の死者は約6,000名で、約470,000人を超す人々が家を失った。1944年には連合軍の空襲も新たな凶悪な段階へと至り、ドイツ全土に爆弾が通り雨のように降り注ぐことになった。



2019年1月13日日曜日

広島原子爆弾の被爆者の収容者名簿の掲示板に、被爆者の親族や関係者が群がり名前を捜した。(広島)

広島原子爆弾で、行方不明になった肉親をや被爆者を捜すために、焼け残った日本銀行のビル前に親族が群がった。そこには多数の収容者名簿が掲載されていた。そこで抹消されていた我が子の名前を見出して、その場に泣き崩れる母親の姿も多かった。肉親の名前が見い出せなかった親族は、その他の焼け残りのビルや、国民学校などの収容所や救護所の掲示板や収容所内に肉親の名前や生存を捜し巡った。
    焼跡には親類や縁故者の安否を探ねる多く人々が、広島市街から広島市内に入って来て、収容所はいずこも混雑をきわめた。収容所でも、発見できずむなしく帰っていく人々も多くあった。原爆爆発直後に被災者が避難するだけでなく、家族や親族の安否を気遣って逆に爆心地に向かった。救援と救護のために被害の中心地へ赴いた人々もあった。



2019年1月12日土曜日

ボスニアのNATOから支援されたムスリム人は中東の聖戦として、ボスニア人の首断して虐殺して頭部を右足で押さえつけた。

ボスニア紛争にて民族浄化の名目のもとに、敵対する民族が他の民族の虐殺が横行した。ボスニアの西部から支援されたムスリム人は中東のムジャヘディーン(聖戦)として、1992年にボスニア人の囚人の首を切断して虐殺して、その頭部を右足で押さえつけた。NATO軍はセルビア人を囚人と悪魔化して戦闘行為を正当化した。
 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、1991年からユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで内戦が継続した。1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。ユーゴスラビアは約430万人が、約44%がボシュニャク人(ムスリム人)で、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と異なる民族が混在した。セルビア人は反対し分離を目指した。ボスニア内戦で、クロアチア内戦と同様に厳しい民族浄化が勃発した。セルビア勢力・クロアチア勢力・ムスリム勢力の3つの民族が、各々に民族浄化で対立した。市町村で、勢力の多い民族が、支配してその他の民族を追放・虐待・虐殺が頻発した。プリエードルでは、セルビア勢力が幹線を挟んだムスリム勢力を追放・虐待・虐殺した。逆にムスリム人が支配するゴラジュスやスレブレニッッツアなどではモスリム人によってセルビア人が追放・虐待・虐殺された。ムスリム人の傭兵や私兵部隊も民族浄化を遂行した。ムスリム人から逃避できなかったセルビア人は、民族浄化による追放・虐待・虐殺を受けた。
 民族浄化するために、セルビア人の人家には☓印、クロアジア人には十字架を、イスラム教徒には緑の印章が付けた。ボスニア内戦の緒戦では、その印章を目印に民族浄化による追放・虐待・虐殺が横行した。ボスニアの北東部の町でも、セルビア勢力にイスラム教徒が共存した。セルビア勢力が反乱分子と決め付け、イララム教徒も反抗して。敵対攻撃をした。オジャッツ町では、クロアチア勢力が突然にセルビアの人家を襲撃して焼き尽くした。




2019年1月11日金曜日

イラク戦争後にもアメリカ軍はサマラ北東部の無差別攻撃をして、子供や女性を含む一族11人のイラク人が機銃掃射された。

イラク戦争にて、アメリカ軍はバクダット北方約100kmのサマラ北東部に対して2006年5月16日に猛烈な無差別の攻撃をした。手始めに子供や女性を含む一族11人を集めて機銃掃射した。その虐殺された子供の死体を父親が悲しみながら抱いた。「イラクを解放するのに、何人の子供が死なねばならないのか?}とイラーキ・リーグが6月28にに広報した。アメリカ軍は、攻撃はアルカイダの外国人同士を連絡調整する幹部の拘束と対抗した。
 皆殺しにあった家族の隣人のムハンマド・ムジユマイは、「アメリカ軍のヘリコプターに援護されたアメリカ軍部隊が2006年5月16日午前1時半に、イスハーキ小学校の教員のファイーズの自宅を急襲した。周辺の自宅も制圧し、家族をしばり、殴打した。主人夫妻と子供3人、主人の妹とその子供3人、主人の父親、親族の女性の1族を全員を射殺した。子どもたちの年齢は2ケ月から6歳であった。」一族殺害後にアメリン軍部隊は、この自宅に爆発物を仕掛けて犠牲者もろとも爆破は、ヘリコプターが爆撃した。
 駐留部隊がアメリカ人軍兵士にイラク人に対する蔑視、暴力的傾向と差別感を助長した。サマラ事件に対して、4人のアメリカ軍兵士が有罪となった。当初に、民家の窓ぎわに立っていた老人を虐殺した。民家の中の3名を外で殺害した。殺害を実行した兵士が、公報すると殺すとアメリカ兵を脅迫した。



2019年1月11日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 190,000回

2019年1月10日木曜日

発煙煙で演出された映画で上海南駅で泣き叫ぶ赤ん坊の虚偽写真が世論形成による対日反抗宣伝となった。

中華民国政府の宣伝担当者が、1937年8月の上海付近の片田舎の駅のプラットホームで焼けただれた1歳半の赤ん坊の写真を世界に向けて発信した。中華民国の一片の騙し写真による騙し視覚的対外宣伝の活動が拡充された。真実は発煙煙で演出された映画の1シーンであった。視覚的喧伝に特に注意すべきは、虚偽の写真は、真実を解明して暴露する必要がある。
  "LIFE"の1937年10月4日号に、日中戦争の状況を示す写真が掲載された。「海外からの写真: 上海南駅を約1億3600人が見聞した。その写真の中に、日本軍によって空襲された後の駅で、1人泣き叫ぶ赤ん坊が報道された。膨大な人々が見聞した写真は、「ニュース映画」の1シーンと記事に記載され、ニュース映画の35mmフィルムの1コマを転写した。それに反応して、日本の大量虐殺を停止せよ、対日ボイコットのために、日本製品の輸入制限、日本とドイツを侵略国家の非難する隔離演説と喧伝された。中華民国は、反日宣伝で日本に対抗した。
  1936年1月23日にアメリカで絶大な人気を誇ったグラフ週刊雑誌"LIFE"が創刊された。報道写真と戦争は、物語を語り納得させる報告の位置を示した。報道写真と戦争は世論の革命だけではなく、世論の形成され方の革命となった。日本平和の市民連盟は、わずかな戦争の真実と虚偽の写真を暴露することで解明する。 


2019年1月9日水曜日

アーカンソー州のジェローム日系人収容所に収容された23歳男性が悲観して鉄道自殺にて列車により頸が切断された。

第2次世界大戦にて、アメリカの日系人は強制収容された。父親、継母、結婚した姉とともに、アーカンソー州のジェローム日系人収容所に収容されていた23歳男性のジョン・ヨシダが悲観して鉄道自殺にて、列車により頸が切断された。
 1941年12月7日の真珠湾攻撃に引き続いて、アメリカ合衆国は8日にルーズベルト大統領は宣戦布告した。直後からアメリカ西海岸に居住していた4万人以上もの日系人は、アメリカ市民であった7万人子供達とともに、自宅から追放されて、転住収容所に収容された。ル1942年2月9日に日系人の西海岸からの強制退去の行政命令9066に大統領は署名した。日系人種だけは、世代を超えても薄まらない敵国人種と宣告した。西部防衛軍司令部はすべての日系人を、市民権の有無に関わらず、西海岸から退去を命令した。3月19日に議会は、日系人に刑事罰を下す公法503を成立させた。
 日系人全体の共同体はショック状態に陥った。日系人は静かに長い列に整列して、首に家族を特定する番号札をぶら下げて、子供をあやし、軍司令部に身を任せて、列車で未知の収容所に移送された。強制収容所には最小は約8,000人を、最大は約20,000人を収容させた。1943年初頭から陸軍が10ケ所の収容所での日系人を軍隊に入隊させる命令に反動が勃発した。
 1944年12月に連邦政府は日系人の集団退去命令を撤回したが、1945年8月の終戦時になお約44,000人の収容者が残存した。財産を喪失した日系人には帰るべき土地もなく、外界での敵対行為を恐れるも、強制的に望まれていない地域社会に押し戻された。



2019年1月8日火曜日

日露戦争の奉天会戦で、ロシア軍が敗退した満州の荒野に散在したロシア人兵の膨大な死体群が集積した。

日露戦争における奉天会戦で、ロシア軍が敗退して後に、満州の荒野に散在したロシア人兵の膨大な死体群が集積した。果てしない荒野には、見渡すかぎりの死体の山、焼け落ちた民家、煙がくすぶり続ける物資が散乱した。
 日露戦争の奉天会戦が1905年3月に行われた日露戦争最後の大規模な陸上戦となった。1905年1月に日本軍が旅順攻略したのち、日本の満州軍総司令部は日本軍兵士の約250,000人を終結し、ロシア軍を殲滅して戦局を決定することを意図した。現在の瀋陽である奉天を拠点とするロシア軍も約320,000人のロシア人兵士を集結して対峙した。3月1日に両軍は全線で戦闘が勃発した。戦局は容易に進展しなかったが、ロシア軍は3月7日までに約8,705人の戦死者と約51,438人の戦傷者と総計で約90,000人もの死傷者を出したた。次期に反撃できるロシア軍兵士を保持するために伝統的な戦略的撤退をした。3月10日に日本軍は奉天を占領した。日本軍も約15,892人の戦死者と59,612人の戦傷者と総計約70,000人もの犠牲を受けた。追撃の戦力を失って、特に戦闘の前線の先頭を侵攻する下級将校が犠牲となり、ロシア軍の追撃は達成できなかった。奉天会戦の犠牲で、日本軍は戦力の低下から、これ以後大規模な会戦は困難となった。ロシア軍も打ち続く敗戦が、ロシア革命の機運を醸成した。奉天会戦を機に日露講和が議論に上るも頓挫した。日本軍は戦勝を記念して奉天占領の3月10日を陸軍記念日とした。