2018年12月2日日曜日

長崎原子爆弾の炸裂で、トンネル状に掘られた防空壕は、付近の母親や子供たちの死体と白骨で一杯となった。(長崎)。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された炸裂により、長崎市内はほとんど完全に崩壊した。崖の下にトンネル状に掘られた防空壕は、付近の母親や子供たちの死体と白骨で一杯であった。防空壕の奥からは叫び声が聞こえ、土砂や抗木で埋まり生き埋めになった。庭の防空壕に避難して小さな防空壕ではさらに危険となり壊滅した。地上で熱線を浴びた被爆者は露出した部分が重度の熱傷、爆風による飛来物、ガラス片などと強烈な放射線が身体に刺って苦しみながら泣いて被爆死した。


2018年12月1日土曜日

アメリカ軍の捕虜になった日本軍兵士が、全滅した一木隊兵士の死体をタンカで運んでは、塹壕の中に投げ込んでは埋葬した。

太平洋戦争にて、日本軍の一木隊兵士はガダルカナルの戦いで1942年8月21日に玉砕して全滅した。アメリカ軍に既に捕虜になっていた日本人捕虜が、戦闘があった翌日の8月22日に海辺に散乱した戦死の遺体を埋葬した。捕虜になった日本海軍の兵士が、アメリカ軍から水を飲ませる誘いで動員された。一木隊の日本軍兵士の死体をタンカで運んでは、塹壕の中に投げ込んで埋葬した。
 ダルカナル島に派遣された一木隊は1942年8月19日に上陸していた。8月21日から戦闘が始まったが、アメリカ軍は残存兵を包囲して全滅して、21日に一木隊は壊滅した。一木隊の約917名のうち、生存者は約128名だけであった。


2018年11月30日金曜日

レバノンのサブラとシャティーラの難民キャンプの路地が、悲惨なパレスチナ人の死体置き場となった。

レバノンのサブラとシャティーラの難民キャンプの路地が、悲惨なパレスチナ人の死体置き場となった。異臭がする腐敗して肉親の死体を親族が探索した。
 イスラエルがレバノンに侵攻して、次期に当選させたレバノン大統領のバシール・ジェマイエルが1982年9月14日に爆殺された。マロン派キリスト教のファランジスト党首の爆殺に対する報復により、9月16日午後6時から9月18日夜明けまで、党員とイスラエル国防軍がサブラとシャティーラの2つの難民キャンプで大量虐殺をした。約3,000人ものパレスチナ人難民が虐殺された。1948年から生活の場である難民キャンプの路地に多数のパレスチナ人の死体が散乱した。


2018年11月29日木曜日

北軍と南軍はメリーランド州のアンティータム川で、戦闘して南北戦争で1日に最多の戦死傷者を出した。

アメリカ合衆国の南北戦争で、最多の戦死者を出したアンティタームの戦いで、南軍兵士の多数の死体が大地に散在していた。
   アメリカ合衆国にて、1861年4月12日に南部連合軍がサウスカロライナ州チャールストン港のサムター要塞の連邦軍駐屯地を砲撃して南北戦争が勃発した。アメリカ史上最多の戦死者を出して、南北戦争が1985年4月9日に南部連合軍が降伏して終結した。北軍と南軍は、1862年9月17日にメリーランド州シャープスバーグ市に近いアンティータム川で戦闘して、南北戦争で1日に最多の戦死傷者を出した。双方で4000人以上が戦死し、負傷者は1万8000人にのぼった。南軍は、再びポトマック川を渡って後退して、軍事的な勝敗はつかなかった。アンティータム戦闘後に、1863年1月1日から北部自由州は、予備的な奴隷解放宣言をして、連邦の維持と奴隷制廃止を掲げた。


2018年11月20日火曜日

第1次世界大戦で悲劇的に不十分な救護所にて、1日に戦死者は平均約6,000人に達して、戦傷者はその5倍にも上った。

第1次世界大戦で悲劇的に不十分な救護所にて、1日に戦死者は平均約6,000人に達して、戦傷者はその5倍にも上った。アメリカ軍兵士の戦死傷者は、一時的にヌヴイリーの荒れ果てた教会に隔離された。
 第一次世界大戦で、ロシア政府は新鮮な軍事力で戦争を押し進めるも、1917年11月に2回目の革命後に、ボルシェヴィキの過激勢力が支配権を確保した。中央同盟国に有利な休戦を呈示した。1918年3月に締結されたブレスト・リトフスク条約を締結して、ロシア軍は撤退した。味方を失う間に、連合国は別の強力な味方を得た。中央同盟の無制限の潜水艦の攻撃により、1917年2月に戦争領域に入る船舶のアメリカ市民の命を奪った。中央同盟国への敵意はアメリカで着実に増加した。連合国の宣伝と共感、連合国への貨物輸送を無分別に攻撃して、アメリカ参戦の機運を形成した。1917年2月3日にアメリカはドイツと国交を断絶して、4月6日に議会は戦争を宣告した。
  中央同盟国の軍事力は低下したが、ドイツ軍は勝利と攻撃の自信を持っていた。ロシアが崩壊して、アメリカは少なくとも1年間はヨーロッパに大規模な軍隊を派遣する準備が整わない。ドイツは潜在軍事力を選択と集中して、フランスとイタリアの戦線に数値優位を保持した。 1917年10月7日にオーストリアとハンガリーには戦争を宣告した。
 イタリアのカポレットの戦いで、イタリア軍は約75万人を犠牲にして敗退した。ドイツ軍は西部戦線で春の攻撃を準備した。すべての国は戦争に疲れていた。敗北主義の精神は兵士と一般市民に伝染した。フランス軍とイタリア軍は、即決の処刑により軍隊間で深刻な暴動を鎮圧した。1918年3月からドイツ軍は、決定的な勝利ではないが、アミンとリールの2つの重要地点で勝利したが、約50万人の戦死傷者を伴った。フランス軍に対戦してマルネ川まで約30km前進して、1914年の緒戦時と同様に近距離でパリに対峙した。連合軍は西部前線を転覆させた第2次マルヌの戦い(1918年7月15日〜8月2日)で、戦争の局面が変わった。
 数10万人に達するアメリカの援軍により、ドイツ軍は反撃を受けて、9月中旬までに約50万人の犠牲者を伴って、徐々に撤退して戦局は不可逆的に撤退した。連合国軍は、マケドニア・セルビアを崩壊して、ブルガリア・アストリアを侵略して、数週間後にトルコ帝国は崩壊した。イギリス軍は1917年8月にエルサレムに侵入して、アラブ首長国連合に加わって、1918年にシリアからトルコ軍を追放した。南部同盟諸国が戦争から脱退した。オーストリア - ハンガリー帝国は侵攻に抵抗できず、 1918年11月4日に連合軍と停戦協定に署名して崩壊した。

 ドイツ最高司令部は、戦争の真実を隠して、国民に勝利を約束し続けた。突然9月28日にドイツ軍は停戦を受諾を宣言した。ドイツ国民は幻滅に耐えれず、広範囲に反乱が起こった。反政府勢力となったミュンヘンとベルリン市民、キールの海軍艦隊の船員らの11月革命で、皇帝ウィリアム2世はオランダに逃走した。11月11日にドイツ代表団は、連合国と休戦協定を締結して第1次世界大戦は終結した。



2018年11月19日月曜日

悲惨な独ソ戦争により、ドイツ軍兵士は雪の中で堆積した同僚の死体を見つめた。

 ドイツ軍は1941年6月22日ドイツ・ソ連国境で一斉にソ連に侵攻が開始された。開戦当初は奇襲により各戦線でドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、北方軍集団でレニングラードを包囲し、中央軍集団は開戦1ヶ月でスモレンスクを占領する快進撃を続けた。赤軍は各地で分断され、多くの部隊が投降・捕虜となった。ドイツ側の損害も甚大であり、1939年から1940年6月までのドイツ軍は死傷者数を上回ることもあった。
 8月にはスモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊を南部に向けて、南方軍集団を支援することでウクライナに展開した数10万のソ連赤軍部隊は壊滅して陥落した。首都モスクワへの進撃は約1ヵ月遅延した後の1941年9月にモスクワ攻略を開始した。ドイツ軍はクレムリンまで10数kmまで迫ったが、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃を止め、赤軍も猛抵抗してドイツ軍の攻勢は頓挫した。電撃戦を続けたドイツ軍には初めての撤退であった。ドイツ軍は補給路が延び切って冬季装備の前線部隊への配送が滞り、各地で進撃の停止を余儀なくされた。
 ソ連側は、日本軍が参戦しないと確信し、10月以降に満州やシベリア地区の軍隊をモスクワ周辺に投入した。ドイツ軍の損害はすでに投入兵力の約35%、100万人におよび、1941年だけで戦死者は20万人に達した。ドイツ国防軍はモスクワ前面からの撤退を訴えも、ヒトラーの厳命により戦線は無理に維持させた。ソ連側は1941年12月初旬から反撃を開始し、ドイツ軍をモスクワ近郊から撤退させた。ヒトラーの死守命令により撤退できないドイツ軍は、必死の抵抗と稚拙な作戦により、ソ連赤軍から各個に撃破され攻勢は失敗し、ドイツ軍は辛うじて戦線の崩壊を回避した。ソ連側は焦土作戦で、ドイツ軍の現地調達の手段を奪い、更にドイツが占領した地域住民に対しパルチザンを組織させ、後方撹乱でドイツ軍の補給を妨害した。軍事的工場や労働者をドイツの手の届かない内陸部にまで疎開させた。


2018年11月18日日曜日

フランス軍兵士は国民解放戦線のゲリラ軍(フェラガ)と容疑してアルジェリア人をカビリア山間で射殺して死体を検証した。

アルジェリア戦争において、フランス軍兵士は国民解放戦線のゲリラ軍(フェラガ)と容疑してアルジェリア人をカビリア山間で射殺した。射殺してから死体の検証をして、証拠として財布の中の国民解放戦線の旗の絵柄を見つけてからフェラガであるとして断罪した。2人のフランス軍兵士がアラブ人の死体を探索して、ゲリラ用のブーツと幼稚な旗の絵から、アラブ人集落にて射殺して、フェラガに間違いないと断定して死体を埋めずに放置した。
 アルジェリア戦争は、1954年11月1日の民族解放戦線(FLN) によるテロ行為(蜂起) による30件の襲撃から始まり、1962年3月18日のエヴィアン協定の締結 を経て停戦に至った武力紛争である。アルジェリアは1830 年からフランス本土の内務省の管轄下にあった。アルジェリア戦争には約40万人の職業軍人に加えて約150万人の若者が召集され、戦死者は約2万4267人、戦傷者は約6万5000人と推定された。他方アルジェリアの国民解放戦線の軍事組織(ALN)兵士の死者は約14万1000人に達した。
 アルジェリアにいたフランス軍人の一部はアル ジェリアの独立にあくまで反対し、秘密軍事組織(OAS) を 結 成し、テロに訴えてアルジェリアの独立を阻止しようとした。アルキは、現地でフランス軍に雇われたムスリムの補充兵をいう。彼らは最後までフランス側についたために、アルジェリアの同胞からは裏切者と見られ、FLN により虐殺されるという悲惨な目に遭っている。
 アルジェリアがフランスに地理的に近く、多くのヨーロッパ系入植者がおり、独立戦争時にはアルジェリアのみならず、フランス本 土でもテロなどが勃した。が見られた。フランス本土でも、アルジェリアでも多くの人々の心に植民地支配と独立戦争は傷を残した。とりわけ独立戦争に敗れたフランス政府にとってアルジェリアとの過去を振り返ることは、あまりにも多くの人の感情を刺激するため困難だったと推測できる。