2018年11月7日水曜日

メキシコ市トラテロルコ地区で、政府の軍隊や警察が反政府集会を鎮圧して、学生や市民らに約30人から300人の死者を出した。

メキシコシティ・オリンピックの10日前の1968年10月2日にメキシコのメキシコ市でトラテロルコ地区の三文化広場で、学生とさまざまな職業の市民による反政府集会が軍や警察によって鎮圧されて約30人から300人の死者を出した。トラテロルコの虐殺は、エレナ・ポニアトウスカの著作「トラテロルコの夜」により国際的に周知された。「誰がこんなことを命じたのか? こんなことを命じることができたのは誰か? これこそが重罪である。」
 1968年はアメリカ合衆国におけるベトナム反戦デモやフランスのパリの5月革命、日本の大学紛争など、学生デモが頻発した年でもあった。メキシコは高度経済成長の成果を国際的にアピールする初のオリンピックを直前に控えていた。メキシコ政府は「平和の祭典」の準備しながら、治安を乱す恐れのあるデモに反抗した。メキシコ軍により治安維持を名目に大量虐殺が執行された。
 1968年7月にメキシコ国立自治大学に軍隊を侵入させ、無差別に教師や学生を逮捕した。学生側が民主的な要求をするほど、両者間の緊張は高まった。8月27日には医療総合団体が学生側と連帯した。学生たちは市の中心部の大聖堂に「赤と黒の旗」をかかげ大衆にデモ活動を誇示した。8月31日に政府は過激活動を弾圧する声明を公表した。9月13日に学生側は弾圧を避ける「沈黙のデモ」を決行した。このデモは大衆の支持を得て、250,000人もの参加者が静かに街をデモ行進した。膨大な市民の異議に対抗して、政府はより強硬な弾圧によってデモの鎮静化した。1968年10月2日にメキシコ市トラテロルコ地区三文化広場で、政府の軍隊や警察は予告もなく反政府集会に銃撃して、学生や市民らに約30人から300人の死者を出した。1968年にはクーデターによりペルー、パナマに軍事政権が樹立された。ラテンアメリカ及びカリブ核実験核兵器禁止条約は調印した地名からトラテロルコ条約と呼称した。


2018年11月6日火曜日

ベトナム戦争にてアメリカ軍の北爆再開で、集合や睡眠中の時間帯の空爆により膨大な女性や子供が虐殺された。

ベトナム戦争にてアメリカ軍による北爆再開により、1972年8月14日に睡眠していた時間帯と集合した建物の空爆により膨大な女性や子供が虐殺された。
 ベトナム戦争におけるアメリカ軍による北爆により無差別に殺傷されたベトナム人女性や子供の犠牲者数は、ジョンソンよりもニクソン政権の方が膨大となった。ベトナム北部の湾口都市であるハイフォンでは、1972年4月16日から約半年間の北爆による殺傷者は約1,500人に達して、女性の約650人と子供の約350人が含まれた。アメリカ軍は、無差別に女性や子供が集合する建物や時間帯に集中爆撃した。北ベトナムの大都市ナムディンでは、1972年4月16日から9月26日までに、約33回にわたり空爆されて、約188人が殺害されて、多くの女性と子供が含まれ犠牲となった。首都ハノイには4月16日から9月30日までに約57回の空爆により、約150人が殺害された。女性は約52人と子供は約39人が含まれ犠牲となった。
 ニクソン大統領は1972年に北ベトナムに講和を迫るために、北爆再開を決定した。空爆で圧倒してホーチミン・ルートを遮断し、アメリカ軍の削減と南ベトナム軍事化して、北ベトナム軍を徹底的に壊滅した。アメリカ空軍は第2次世界大戦の日本空襲以来の本格的な空爆をした。兵士や市民を問わない無差別に集中的な空爆した。約15,000機の爆撃機が約60,000トンの爆弾を投下した。12月18日には、首都ハノイとハイフォン港に、2週間で約20,000トンの爆弾が投下された。ハノイやハイフォン区域は完全に焼滅して、軍事施設だけでなく社会生活資源にも甚大な被害を与えた。中越国境地帯にも大規模な空爆がされて、北ベトナムへの軍事援助が途絶えた。アメリカ軍の空爆により、北ベトナムは甚大なの死傷者を出して大打撃を受けた。北爆再開により、北ベトナム軍は戦闘が困難となり、北ベトナム政府は1973年1月にパリ和平会議に追い込まれた。



2018年11月5日月曜日

アメリカ軍によるマニラの集中砲火が、日本軍のトラックを直撃して全員が吹き飛ばされてが爆死した。

アメリカ軍がマニラ市街に集中砲火して、日本軍のトラックに直撃して乗車した兵士が吹き飛ばされて全員が爆死した。
 太平洋戦争にて、アメリカ軍は1945年2月4日から日本軍が占領したフィリピンの首都マニラに侵攻して、マラカニアン宮殿を急襲して破壊した。日本軍を南北からの市街戦により、マニラ市街は壊滅的に破壊された。激烈な戦闘がマニラの東部地区から勃発して、2月中旬には日本軍はマニラ湾の周囲にまで撤退した。マニラ市内に取り残された日本軍兵士に2月17日になって全面撤退が指令された。アメリカ軍に取り囲まれた約20,000人の日本軍兵士は、全面撤退する突破口も皆無となり、次第に戦況も悪化して、全滅する玉砕に追い込まれた。アメリカ軍は、発煙弾で地下壕の日本軍を集中砲火した。
 アメリカ軍は、マニラ市内を無差別に砲撃して、2月20日からイントラムロス地区の城内の日本軍を掃討して、城内は壊滅的に破壊されて廃墟になった。ルネタ広場の建物に潜伏した日本軍兵士を個別にビルを撃破した。日本軍は2月26日に死ぬ気のバンザイ突撃で玉砕して、農商務省ビル内の司令部は自決した。財務省に残された日本軍は、3月3日に全滅して、アメリカ軍はマニラの戦闘の終結を宣言した。



2018年11月4日日曜日

ナチス・ドイツ武装親衛隊は、しばしば攻撃の先頭や最も困難な戦況下に置かれて、犠牲となる戦死傷者数は膨大となった。

ナチス・ドイツ軍の東部戦線においても、多数のドイツ武装親衛隊が戦死した。ドイツ武装親衛隊は、しばしば攻撃の先頭に立たされた。さらに最も困難な戦況下に配置された。ドイツ武装親衛隊の戦死傷者数は、ドイツ国防軍に比較しても膨大に拡大した。
 ナチスの突撃隊(SA)が、1921年に勢力拡大をしたナチ党の防衛で組織化された。SAは街頭での闘争や示威行進などで市民に恐怖感を与えた。SAは元陸軍大尉のエルンスト・レームが司令官になった。SAは無制限に隊員の受け入れ、ドイツ国防軍をしのぐ勢力に膨れ上がった。レームはSAがドイツ国防軍に代わる新正規軍を画策した。ドイツ国防軍は職業軍人の集団で、ナチの私的軍事組織SAを危険視していた。ヒトラーはSAを党の統制下に置くため、「長いナイフの夜」の1934年6月30日にヒトラーは、ミュンヘンでレームらSA幹部らを急襲し情け容赦なく処刑した。レーム事件で国民はヒトラーの断固たる措置を崇拝した。 代わって親衛隊(SS)が台頭した。SSははヒトラーの身辺警護を任務で、ハインリッヒ・ヒムラーはレーム事件を主導して実績を上げた。SSは1934年7月20日にSAから独立してヒトラー直属の機関となり、ナチ党の軍事部門の地位を確固した。SSの機能はナチス党の組織防衛の私兵的性格が強く、ドイツ国防軍とは分離した。SSはま保安諜報部SDを設け、党内外の反ナチス的人物の監視と摘発をした。
    西部作戦に向けて1940年4月22日に親衛隊特務部隊は、親衛隊作戦本部の司令で武装親衛隊と改変した。大戦を通じて武装親衛隊は38個師団で約90万の兵力を有した。武装親衛隊は、崩壊の危機にさらされる最前線の火消し役として犠牲者になった。実践戦闘訓練を十分に受けれず戦死者も多かった。 第2次世界大戦では前線に立たされた武装親衛隊は犠牲者が膨大となった。




2018年11月3日土曜日

生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到して手当を受けた。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月6日午前11時2分に投下されて、長崎市内は壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。直ちに、大村海軍病院から8月9日に第1次救護隊が派遣された。8月10日に第2次救護隊と交代した。重態の被爆者は、大村海軍病院に列車で護送された。8月10日の午後3時頃に、大村海軍病院の第2救護隊が、背部に重度の熱傷を受けた被爆者の背中に、薬液であるチンクオイルを医師と日赤看護婦が塗布した。海軍の甲板上の熱傷で使用していた。その間にも、続々とリヤカーで被爆者が道ノ駅に搬送されて、手当の順番を待ったその間にも、多数の被爆者が道の駅で死亡した。




2018年11月2日金曜日

ナチス・ドイツ親衛隊は、森林の野原でユダヤ人労働班に、裸にされて虐殺されたユダヤ人女性らの死体を焼却させられた。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所にて、1944年8月にガス室兼焼却炉(第5クレマトリウム)の前方にある森林の片隅で、ナチス・ドイツ親衛隊は、ユダヤ人の大量虐殺が執行された。森林に囲まれた野原で、ユダヤ人労働班は、裸にされて虐殺されたユダヤ人女性らの死体を焼却させられた。強制収容所内のユダヤ人抵抗グループが、秘密裏に写真を撮影した。
 大量虐殺を撮影された写真は、メモ書きとともに強制収容所の外に持ち出された。それらのメモ書きには、緊急、カメラ用のフィルム・ロールを可及的に早めに補給してくれ。この命をかけて撮影した写真は無駄にしないでほしい。ガス殺害の場面を送る。死体が焼いた薪を積み上げた写真がある。ガス室兼焼却炉では容量不足になり、死体を焼却している。死体を投げ込むために、死体を積み上げた。森の中で、シャーワーを浴びると騙して、衣服を脱がせて、ガス室だけでなく、森林へ向かわせて虐殺した。クラクフにおけるポーランド・ユダヤ人地下活動組織に渡ることを祈る。
  ナチス・ドイツ親衛隊は、アウシュビッツの第1収容所の被収容者増を補強するため1941年10月に、ポーランドのブジェジンカ村に絶滅収容所である第二強制収容所ビルケナウが開所された。総面積は1.75平方kmで、約300以上の施設があった。1944年には90,000人が収容された。そのほとんどはユダヤ人であり、このほかにロマ・シンティが介在した。ガス室は、農家を改造したガス室が2棟と複合施設(クレマトリウム)が4棟の計6棟があった。撤退時に証拠隠滅により壊滅して破壊された。 1945年1月27日にソ連軍がアウシュビッツ強制収容所を解放した。



2018年11月1日木曜日

ベトナム戦争で射撃を受けたベトナム人夫の側に、妻が児童を抱えて側に近寄り悲しみうなずいた。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍は1966年にベトナムのハウギア省の農村部を攻撃した。アメリカ軍は農村部を戦闘した。アメリカ軍兵士は、南ベトナム解放戦線のベトナム人兵士を狙撃した戦果に興奮していた。射撃を受けて重態で倒れた農民であったベトナム人兵士の妻が児童を抱えて、すぐさま側に近寄って来た。瀕死の状態の夫にうなずきながら何か話しかけていた。夫は自分の戦傷の宿命を悟ったように、息苦しさを耐えながら、一生懸命に妻と子供に話しかけた。おそらくベトナム人兵士の夫は死亡した後のベナム戦争中の生活を話し合っていた。妻と児童は悲しみに満ちながら、慟哭するのを抑えて、しきりにうなずきながら夫の声を何度も拝聴した。瀕死の父親を、少し離れたところで子供たちが見守っていた。子供たちは何も言わず、突然に襲われた父親の不幸にじっと耐えていた。
   アメリカ軍兵士は戦傷して重態の夫もさらに尋問するために、板の上に乗せて連行した。妻は子供を抱えながら、連行される夫を追った。ベトナム人妻はアメリカ軍兵士に、何度も一緒に連行してくれと必死に頼むようだ。アメリカ軍兵士は、ベトナム戦争の非情さから妻からの依頼を無視した。残された妻は子供達の手をとり悲しみながら、ふるさとの農村部にとぼとぼと戻った。



2018年10月31日水曜日

ハイチの警官らが1986年4月の抗議活動で虐殺した6人の市民うちの1人の死体の側にライフルを構えて警備した。

ハイチの首都ポルトープランスで、警官らが1986年4月の抗議活動で虐殺した6人の市民うちの1人の死体の側にライフルを構えて警備した。約10,000人にも及ぶ抗議活動者らは、デュヴァリエ親子の独裁政権による犠牲者を追悼した。市民らに対する政権の弾圧は、デュヴァリエ息子が脱国した直後からも再燃した。
 アメリカからの圧力で、1986年1月までに最悪独裁国家のハイチから外国の銀行、投資家、生産者は国外に引き抜かれ操業を停止した。エイズの高い発生率で傷ついた観光産業は廃墟になった。アメリカ国務省はハイチの援助を全面停止して、デュヴァリエ息子に政権の放棄を警告した。首都ポルトープランスで暴動が広がり、企業や工場が閉鎖し、ハイチ経済は低迷した。 「デュヴァリエ野郎!」と叫ぶ抗議活動者は、車を壊し窓を閉鎖して、タイヤを燃やしゴミで道路を塞いだ。デュヴァリエ息子は状況が悪化したために、父親から独裁政権でハイチ人を弾圧した。無秩序と無秩序が状況を悪化した。首都の死体安置所には、抗議中に虐殺された7人の死体があった。警官らは、死体をトラックで運搬して、土中に投げ込み、カルシウムを注入し、薄い土壌で覆った。警察は潮で舞い戻るので死体を海に投げ込まなかった。
 2月6日の木曜日の夜、デュヴァリエ息子はアメリカ大使館に政権の放棄を告げた、空港に向ってアメリカ空軍の貨物機に乗り込み、フランスに亡命して飛び降りた。しかし、デュヴァリエ息子はすでに誰が政権を運営するかを決めていた。脱国する前に、新大統領を選出し政権を引き継ぐ4人の軍人と2人の民間人からなる6人の与党評議会を選んだ。 6人のうち5人は軍事勢力のアンリ・ナンパフィ大佐を含む長年のデュヴァリエ政権支持者であった。


2018年10月30日火曜日

ソ連軍がブタペストに侵攻する直前に、ユダヤ人夫は妻と娘が撲殺された死体の側で路地に座り込み悲嘆した。

ソビエト連邦軍がブタペストに侵攻する直前に、ユダヤ人の妻と娘が撲殺された。その死体の側で、ユダヤ人の夫は路地に座り込み、悲しみに暮れて慟哭した。
 連合軍がノルマンディーに上陸した1944年6月6日には、ソ連の赤軍がハンガリーの首都であるブタベストに約数100kmに迫った。その頃に後方の支援を受けて、ドイツ親衛隊の虐殺者たちは、わずか12週間でハンガリー・ユダヤ人約43万5,000人を強制連行した。列車を毎日操業して、1日あたり約14,000人にものぼるハンガリー・ユダヤ人が強制連行された。
 1944年7月7日には強制連行されたハンガリー・ユダヤ人はすぐに虐殺された。それに報復するために、7月2日に連合国のアメリカ軍はブタペストに空爆した。それに逆ってナチス・ドイツ軍は7月14日にユダヤ人評議会を拘束して、さらに約1,500人も連行して輸送した。
 強制連行されたハンガリー・ユダヤ人は途中の中継もなく、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所のガス室に直送され虐殺された。焼却場による膨大な死体処理は困難となり、ガス虐殺された死体を集積して、戸外の穴で焼却した。強制収容所の周囲は炭化した死体の悪臭で満ち溢れた。
 1944年10月14日にハンガリーのファシストである矢十字党がクーデターを起こして、元首ホルティ・ミクローシュは失脚した。テロリズムは最後の瞬間まで続き、ソ連軍がブタペストまで約100Kmに迫った11月6日に、ハンガリー・ユダヤ人約40,000人は徒歩でオーストリア国境まで連行された。その行軍の途中で数千人のユダヤ人が絶命した。


https://drive.google.com/file/d/1H6FYqi_MgRpO239VeDrvCzp8VGOgyqdR/view?usp=sharing

2018年10月29日月曜日

モロッコは植民地である 西サハラの独立活動家を、劣悪な監獄に押し込め悲惨な暴行と尋問で虐待と虐殺した。

西サハラの独立活動家の多数を、劣悪なモロッコの監獄に押し込められて、モロッコ占領当局から、悲惨な暴行と尋問を受けて瀕死の状態となった。
 アフリカ大陸で、未だに最後の植民地として西サハラはモロッコに占領され続けている。北をモロッコに国境を接して、西サハラの有用な国土の約80%を、地雷防御である砂の壁でモロッコに占領支配されている。残り20%の不毛な砂漠地帯を、アルジェリアのティドフに西サハラ難民政府が関与している。
 1884年にスペインはボハドール岬からブラン岬までの海岸を植民地とした。1958年にスペインは地域を併合してスペイン領サハラとした。1975年の11月に非武装のモロッコ人の約30万人が、タルファヤに集結して、国王ハサン2世の合図を待って西サハラへ進入する緑の行進が勃発した。遂にスペインは1975年11月14日に西サハラを手放した。
 モロッコは1976年から西サハラの北部2/3を併合し、 モロッコはモーリタニア共和国の撤退後1979年に領有地を占領した。1976年2月27日からポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国を建国宣言してアルジェリアに亡命政権を樹立した。モロッコに対してゲリラ戦を開始した西サハラ紛争は1991年の停戦まで続いた。停戦の合意であったモロッコからの独立か併合かを選択する住民投票は未実施で、西サハラはモロッコの植民地である。
 モロッコによる被占領民が、2010年10月10日から約2万人が、蜂起キャンプの抗議活動を起こした。11月8日に、モロッコ軍は非武装の蜂起キャンプを襲撃して、無差別に虐殺した。連行された被占領民には、暴行と拷問による虐待を受けた。国連や国際社会が蜂起キャンプの虐待と虐殺を非難するも、逆にモロッコは西サハラを戒厳令下で占領した。

https://drive.google.com/file/d/1ZjHp5Am6lqiF31HE8tLZSkavKjSyyU2n/view?usp=sharing

2018年10月28日日曜日

ソマリア人群衆は激怒してアメリカ軍兵士を死体を殴って汚くなり、下着だけに引きちぎり、部分的に局部まで剥ぎ取り露出させた。

 1990年代初め、ソマリアは一族戦争により荒廃した。飢饉が広がった。アメリカ主導の多国籍軍は供給ラインを回復したが、その存在が新たな緊張を生じた。1993年7月、4人のジャーナリストが怒っている暴徒によって殴られて虐殺された。ほとんどのヨーロッパのジャーナリストは逃げた。
  ソマリアの武装勢力が1993年9月下旬にアメリカ軍のヘリコプターを撃墜したとき、数人のジャーナリストが同乗していた。 目撃者によると、アメリカ軍兵士の死体の一部は袋に入れて展示された。アメリカ国防省は、アメリカ人の死体の一部が、ソマリアのモガディシュ通りを通り過ぎて見せしめになったことを平然に否定した。
  アメリカ軍部隊は1993年10月3日に、ソマリアの武装勢力であるモハメド・ファラ・アイディドと激しい戦闘に従軍していた。その結末に、ソマリアの武装勢力は一人のアメリカ軍兵士を抑留した。ソマリア人の暴徒は、アメリカ軍兵士の死体を引っ張って、群衆の暴徒が脅威となった。
  ソマリア人の群衆は激怒して、アメリカ軍兵士を死体を殴って汚くなり、下着だけに引きちぎり、部分的に局部まで剥ぎ取り露出させた。ソマリア人の群衆は恐怖に敏感に反応した。アメリカ軍は1994年3月にソマリアから完全撤退した。
    1988年にソマリア内戦が勃発した。1969年のクーデターからバーレ軍政権を1991年 1月に排除して、アリ・マフディ・ムハンマドが暫定大統領に就任した。1991年5月に反政府勢力統一ソマリ会議(USC)が首都を制圧した。USCの内部で、モハメッド・ファッラ・アイディード将軍派が、アリ・マフディ暫定大統領派と対立した。各勢力の内部抗争により南北は再び分裂した。1991年6月に北部の旧英国領地域が「ソマリランド共和国」として独立宣言した。
    1991年 アイディード将軍派に首都を追われたアリ・マフディ暫定大統領が国際連合に対しPKO部隊派遣を要請した。1992年6月にアイディード将軍がいくつかの軍閥を統合してソマリ国民同盟(SNA)を結成した。1992年12月にクリントン大統領が派遣するアメリカ軍を主体にして、国連は多国籍軍によるPKO部隊を派遣した。1993年5月に武力行使を認めた第2次国連ソマリア活動を展開した。アイディード将軍は国連に対して宣戦布告した。1993年10月にモガディシュの戦闘が勃発した。1993年にアメリカ合衆国は、ソマリアから撤兵した。


https://drive.google.com/file/d/1JbTTdOsltBUtLner6w5ZXENaLdYAdOt5/view?usp=sharing

2018年10月27日土曜日

日中戦争にて、日本軍は南京郊外で南京市民の青年や軍人の容疑者を大量虐殺して、塹壕に死体を集積して地中に埋めた。

日中戦争にて、日本軍は南京郊外で南京市民の青年や軍人の容疑者を大量虐殺して、塹壕に死体を集積して地中に埋めた。
 日中戦争にて、中国国民政府軍は1937年8月13日から10月36日までの第2次上海事変に敗退により、中国から南京の郊外に撤退して防衛を図った。中国国民政府は、中国軍の13個師の約11万人の中国人兵士を、南京の防衛のために終結させた。日本軍は、1937年12月8日に南京の郊外に接近した。中国国民政府は、日本軍と軍事衝突が勃発するも、中国軍の形勢が不利となった。中国国民政府は敗北する前に、12月12日夕刻には南京放棄を内定して、南京に中国国民軍を放置して揚子江北岸に遁走した。
 しかし、置き去りにされた南京防衛軍の大部分の中国人兵士らは、日本軍の南京の包囲網から敗退することが困難となった。そのために、突破を放棄した中国人兵士は、武器と軍服を捨てて、南京の国際安全区の周辺などに潜伏した。12月13日に日本軍は、南京城南の入り口の中華門を突破して南京市内に突入して、日本軍は南京を侵略して占領した後には、中国防衛軍は無力となっていた。日本軍は南京を占領した後に、潜伏した敗残兵を掃討する名目により、約6週間にわたり、民間市民も含めて大量の虐待と量の虐殺が執行された。日本軍は、無差別に膨大な人数の南京市民を取り調べては、青年や軍人らを容疑者として無差別に虐殺した。多数の青年や軍人の容疑者を捜査して逮捕して、南京郊外に連行して大規模に集団虐殺した。


https://drive.google.com/file/d/1v_xtJMligJHCro3iT2ECVd8WbmcQuklA/view?usp=sharing

2018年10月26日金曜日

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。(広島)

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン屋根であった。被爆者のわずかな応急手当てをして、生存可能者を後方の救護所へ護送した。トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。多くの火葬された白骨の一部が散在した。
 広島市に原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて、爆心地の周辺は完全に崩壊して全滅した。爆心地から約1.4km太田川に分流である本川の最も南側に住吉橋がかかっていた。原子爆弾が炸裂して約1週間後の8月12日頃に、住吉橋東詰めに被爆者を収容する臨時救護所があった。この救護所には、東地区の警備隊長が管轄して、軍医1名、衛生兵1名の体制で、重度の被爆者を収容した。近隣には住吉神社、中島国民学校、広島県立病院、広島県庁があり、広島市の東西を結ぶ繁華街であり、多くの被爆者が倒れて被爆死した。


https://drive.google.com/file/d/1qndgKoFcGvNjgNFMVB-ykToyWDt5lgYW/view?usp=sharing


2018年10月2日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 800回

2018年10月25日木曜日

カンボジアのタソー村の魔の森の処刑場で、ポルポト派により虐殺された親族の死体の人骨を土中から掘り出した。

カンボジアのタソー川に沿って、「魔の森」と呼称された森の地域があった。ポル・ポト政権は、南東部のスペイリエン省のタソー村の近隣にあった魔の森を処刑場とした。タソー村や近隣の大多数の住民は、魔の森に連行されて虐殺された。虐殺された死体は、地中に埋められた。タソー村の住民の約2,500人が連行されて、約1,800人が虐殺された。特に、1977年3月頃に、カンボジア住民らを親ベトナム派と疑われて、親類も含めてほぼ全員が摘発されて最大の大量虐殺が執行された。その頃にはカンボジア・ベトナム戦争が1975年5月から勃発して、ベトナム軍が侵攻した1978年12月25日から大規模な戦闘に転移した。魔の森の土中を掘り起こすと、多数の白骨が散乱した。人体が土中で腐って人骨となるために、表面の土砂は窪んだ。人骨だけでなく、黒い農民服であった衣服も絡んだ。カンボジアの各地には、魔の森のような処刑場が散在していた。スペイリエン省全体で、摘発され虐殺された知識人らは約5,000人以上にも達した。1976年初頭から1977年末までに住民から知識人も摘発されて虐殺された。
    大虐殺時代の当局の命令のすべてはオンカー組織からであった。オンカーとは何か、当局も誰にも知らされず、上層部からの命令系統であった。オンカーの命令は上位組織から下位の組織と一方的に伝令される。ポル・ポト派のカンプチア共産党を頂点とする極秘のオンカー組織であった。市民らには伏せられた支配者であるオンカーによる恐怖政治が君臨した。オンカーは市民らを摘発すると、市民自ら土中を掘らせて、後手に縛られて撲殺して虐殺して、土堀に落とし込んで埋めた。


https://drive.google.com/file/d/1lRxds0fKaMg_FhkJ2Uhdb3Z6PInkAhtO/view?usp=sharing


日本平和の市民連盟は2018年10月25日にBloggerの投稿数は700回に達した。


2018年10月24日水曜日

河北省の阜平県を打通した日中戦争により、中国軍兵士あるいは中国人ゲリラや民間人が犠牲となり、虐殺された。

太平洋戦争において、1943年後期頃から日本軍は総員壮烈なる戦死して、厳しく膨大なアメリカ軍の戦闘に広範囲に敗北して敗退に陥った。日中戦争中の関東軍の一部は、太平洋戦争への兵力が転移された。中国大陸にも浸出したアメリカ軍の爆撃機B-29による本土と近海の空襲を阻止して東シナ海に至る陸路を確保するために、大本営は1944年1月に関東軍に大陸打通作戦を指令した。公式には一号作戦として、華北から華中、華南などに至る中国大陸を約1,500Kmを突破する本土の都合主義による指令を出した。日本軍は1944年4月17日から12月10日にかけて中国大陸を縦断した。4月から大陸を縦断する京漢作戦と5月から鉄道と空軍基地を侵略する湘桂作戦により、華北から仏領インドシナまでの長大な地域を侵攻した。桂林、柳州、遂川などの航空基地を占領した。B-29はすでにマリアナ諸島の航空基地から日本本土に対する空襲が勃発していた。中国大陸打通作戦の戦果はすでに失われて、補給が困難となり日本軍に大量の戦死傷者と病死者が生じた。
 京漢作戦では北京周辺から漢口まで貫通して、食糧と資材を略奪して補給するために、膨大な地域住民が犠牲になった。河北省の阜平県を打通した日中戦争により、中国軍兵士あるいは中国人ゲリラや民間人が犠牲となり、虐殺された。大陸打通作戦では、戦闘は常に村や街であり、多くの住民が戦火に巻き込まれて、虐待と虐殺の犠牲者となった。


https://drive.google.com/file/d/1ZtK4lykpisgn8eZOlHkTjBprhQL0Y0Nw/view?usp=sharing