戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年10月3日水曜日
北朝鮮軍は、アメリカ軍兵士の両手を有刺鉄線で背中に縛って射殺して、後頭部に弾丸が炸裂した。
アメリカ軍には、北朝鮮が1950年7月9日に捕虜して翌日に処刑したアメリカ軍兵士の死体を発見したのは衝撃的であった。4名の死体は路地に散在して、両手は有刺鉄線で背中の後ろで縛られて、後頭部に弾丸が炸裂していた。アメリカ軍が北朝鮮に侵攻中には、鉄道のトンネルに約100人の処刑されたアメリカ人捕虜を見出した。アメリカ軍は激怒して、北朝鮮捕虜に対する無差別の復讐的殺人行為が激化した。
2018年10月2日火曜日
鞍山鉄鉱公司の大石橋マグネサイト鉱山の跡に、虎石溝万人坑を掘り出し、塹壕に膨大な白骨が積み重なっていた。
主に満州を中心として中国各地に存在する日本人の鉱山や工事現場で使役できず不要となった多数の中国人労働者を生き埋めにした万人坑が存在した。万人は犠牲者の数、坑は生き埋めを示唆して、万人坑と呼称した。日本軍が満州を占領して、中国人市民は南満州鉄道や大連港の荷役、鉱山の坑夫、土木建築、工場から農畜産などの労働者として、満州に中国人を強制連行した。日朝満漢蒙民族の平等繁栄を目指す五族協和は夢想となった。日本の富国のために、民族差別をされて中国人は土地を奪われて、低賃金で苛酷に使役された。虐待や拷問により、中国人労働者は虐殺されて死体が各地で山積みとなった。
鞍山鉄鉱公司の大石橋マグネサイト鉱山の跡に、虎石溝万人坑があった。掘り出した塹壕には膨大な白骨が積み重なっていた。囚人を強制労働させる監獄も鉱山に設置された。万人坑は、拷問や事故などの死者だけでなく、飢餓や重篤な疾病で労働不能者も、虐殺されて土中に埋められた。監獄や矯正院に、入所した中国人は虐待と虐殺された。埋める土中の代わりに、古井戸にも中国人の死体を遺棄した。朝日新聞による「中国の旅 第2部万人坑」などの連載記事に対して、昭和史研究者らは万人坑から韓国・済州島での女性狩りの慰安婦も虚偽とした。
中国人による強制労働により、中国から日本に強制連行された約4万人もの中国人が、花岡鉱山鹿島事業所などの約135カ所の事業所で強制労働させられて、約7,000人が虐殺された。日本への強制連行と虐殺は周知の事実である。中国本土における強制連行と強制労働は、犠牲者の実態が特定し難い。日本が中国東北地方に建国した満州国では、1934年から1945年までに徴用され、鉱山などの現場で強制労働させられた中国人は約1,640万人と考察した。割り当てや強制連行により満州国で徴用された犠牲者は約850万人、華北など中国各地から満州国に強制連行された犠牲者は約790万人と想定された。
各地の事業所に連行された中国人労工は、日本人から長時間の過酷な労働を強制され、栄養失調となり、飢餓と疾病等で、多くが過労死あるいは病死した。膨大な数の犠牲者の死体は、事業所近くの山間地などを人捨て場としての万人坑が形成された。
2018年10月1日月曜日
ドイツ親衛隊の銃殺班であるアインザッツグルッペンが、パルチザン容疑の民間人を、ソビエトのヴィヤジマで銃殺した。
ヒトラーのドイツ親衛隊の銃殺班であるアインザッツグルッペンが、パルチザンとして逮捕した民間人を、1941年10月にソビエトのヴィヤジマで銃殺した。ナチス・ドイツ軍がソビエトに侵攻した後方では、一斉射撃による組織的虐殺が繰り返された。ナチス・ドイツの保安警察と親衛隊保安部から組織した銃殺部隊であるアインザッツグルッペンが、ドイツ軍の後方で、ユダヤ人やパルチザンの敵性分子を虐殺した。国家保安本部長官となったラインハルト・ハインドリッヒが、1938年のオーストリア併合時にスパイ部隊として創設した。ナチス・ドイツ軍の東部戦線の拡大するにつれて、保安警察と保安部から組織された。緒戦ではアインザッツグルッペンは、主に敵性指導者を銃殺していた。ドイツ・ソ連戦ではアインザッツグルッペンは、ユダヤ人・ロマ・赤軍幹部を銃殺した。侵略して占領した地域から、敵性分子の容疑者を駆り集めて、荒野や森林の中で銃殺して、死体は塹壕の土中に埋めた。敵性分子には、民間人の抵抗勢力のパルチザンだけでなく、ユダヤ人も含めて大量虐殺をした。
移動虐殺部隊であったアインザッツグルッペンは、主にドイツ親衛隊と警察官で構成された部隊であった。 保安警察と親衛隊保安部の部隊として、占領下のソ連にて、ドイツ戦線の背後で人種的と政治的な敵性分子の容疑者を銃殺した。ユダヤ人、ロマ族、ソ連政府やソ連共産党も含めた。アインザッツグルッペンは、精神障害者や身体障害者の施設でも数千人の収容者を殺害した。1941年6月に、アインザッツグルッペンはドイツ軍に続き、ソ連領に深く侵入した。1941年夏の後半になると、あらゆる年齢や性別に関係なくユダヤ人の男性、女性、子供を銃殺して、集団で塹壕に埋めた。受刑者は、自分自身の墓穴を掘り、貴重品を押収され、衣服を脱がされ、銃殺されて、塹壕に埋められた。1941年夏の後半から、ガストラックに搭載された毒ガス室で犠牲者を殺害した。アインザッツグルッペンの隊員は、親衛隊、武装親衛隊、親衛隊保安部、治安警察、およびその他の警察部隊から組織された。1943年春までに、アインザッツグルッペンは、約100万人以上のソ連のユダヤ人、数万人のソ連人民委員、パルチザン、ロマ、障害者を殺害した。移動虐殺の銃殺の非効率的と精神的負担から、ユダヤ人を大量虐殺する絶滅収容所に特殊なガス施設を建設し始めた。
2018年9月30日日曜日
エジプト軍事勢力がデモ隊を弾圧と虐殺して、ムスリム同胞団の多数の死体がモスク内に集積された。
カイロのラバア地区でデモ隊が2013年8月14日に弾圧された。イスラム主義者のデモ市民の死体は、モスク内に集積された。支援者が、死体に腐敗予防の氷を置いた。死体を巻いていた敷布からカーベットに、氷が溶け出した水分が溢れ出した。支援者は、その水たまりの中で素足で見守りながら立ち続けた。
アラブの春によるエジプト革命でムバラク政権が2011年1月25日革命で崩壊して、スンニ派のムスリム同胞団のムルシー大統領が2011年7日に就任した。中東戦争で活躍していた軍部は、ムスリム同胞団のムルシー大統領を軍事クーデターで2013年8月7日に追放されると、同胞団を中心としたイスラム主義運動が、モスクと周辺のテント村を拠点として、デモ抵抗運動をした。エジプトの治安当局は、カイロのモスク周辺におけるイスラム主義のデモ抵抗運動者を襲撃した。当局との相互の発砲によって、周辺の歩道の通行者などの多くの市民が流れ弾を受けて死亡した。2013年8月7日はエジプト暫定政権は、ムルシ支持派による座り込みの抗議デモに、地元住民からの苦情を受けたとして強制排除警告を発していた。8月14日に中央治安部隊が、ムルシー前大統領の母校で前大統領支持派の拠点となっていたカイロ大学前及びラーバア・アダウィーヤ広場の2カ所で抗議デモの強制排除を行って、多数のデモ隊などが死亡した。15日夜までの死者数は全土で638人以上とされた。警察は、「デモ参加者らの殺害は違法性のかけらもなく、非常に静かに行われた」と無視した。2014年6月からシーシー大統領による軍事政権は、反体制的言論や勢力の撲滅を全土で行った。テロリスト掃討運動の監視として、治安当局の権限を拡大して弾圧した。
2018年9月29日土曜日
カリフォルニア州ブロデリックにおいて、無職の父親と子供兄弟は一緒にホームレスで飢えた困窮の生活に陥った
カリフォルニア州ブロデリックにおいて、1989年にマーレイ家は、無職の父親と子供兄弟は一緒にテントで飢えた困窮のホームレスに陥った。アメリカ合衆国では、果てしない貧困と戦う貧困戦争が頻発している。普通の市民も、アメリカの過去の繁栄から坂を転げる落ちるように、ワーキングプアやホームレスに転落した。貧困戦争により弱肉強食の社会になり、強者に甘く弱者に厳しい格差社会が到来した。どん底の生活で生存しているアメリカ人もまぎれもなくいる。脱工業化時代となったアメリカでは、アメリカ工業時代の普通の市民が犠牲者となった。1960年代には世界で最も豊かな国であったアメリカでも限られた分野に貧困は存在した。特定の地域的に集中した貧困地区を撲滅する諸活動を貧困戦争とした。
1984年12月5日に、カリフォルニア州サンタバーバラでは、ホームレスで35歳のケネス・パーが虐殺された。その周辺には、高級住宅街・ホームレスの殺人・警察の暴力・自衛団などが混在した。生活の基盤を失った息子らを、貧困徴兵に応じて一兵卒として戦場に駆り出している。長いあいだ貧困に苦しむ普通の市民層は救われず途方に暮れていた。貧困と戦争は切っても切れない関係がある。戦争の根底には貧困問題が潜在している。貧困と汚職が戦争に駆り立てていると「戦争の代償(The Cost of War)」を2009年11月18日に公表された。アフガニスタン戦争の主な要因として70%が「失業」と「貧困」を挙げ、48%が「汚職」と「機能していない政府」と回答した。アメリカ合衆国には、1960年以降に生まれた男子は18歳の誕生日を迎える30日以内に兵役登録の責務がある。
2018年9月28日金曜日
ヨルダン川西岸から投石するパレスチナ人の18歳青年の右目から後頭部に、イスラエル軍の射撃が炸裂して虐殺された。
イスラエル軍に向けて2000年10月20日午後3時に投石中に、ヨルダン川西岸のラマラ自治区において、パレスチナ人の18歳の青年のサイール・アリ・ダウドがイスラエル軍により射殺された。パレスチナ人の青年は、頭部に銃撃をうけて、右目から後頭部に炸裂して即死していた。イスラエル軍の銃撃を避けながら、多数のパレスチナ人同志が、頭部から多量の出血しているサイール・アリ・ダウドを救護するために、死体を持ち上げながら小走りで救急車に運搬した。イスラエルのシャロン・リクード党首・外相(後に首相)が約1,000名の武装したイラク軍とアル・アクサモスクに入場して武力衝突が勃発した。2000年9月30日には、アル・アクサ・インティファーダ(第2次)発生して、PLO(バレスチナ開放機構)との和平交渉が決裂した。パレスチナ軍のインティファーダとはイスラエルによるパレスチナ軍事占領に対する市民抵抗運動の衝突が勃発した。
それまでにパレスチナ自治政府は、ヨルダン川西岸地区およびガザ地区に存在したパレスチナ人による自治機関であり、1994年に成立した。第1次インティファーダは、1987年に4人の死亡者の衝突事故から勃発して、暴力行為は1993年8月のオスロ合意および1994年5月のパレスチナ自治政府で沈静化した。同時に1887年からイスラエル人とパレスチナ人双方の市民には平和運動や交流活動、イスラエルでの徴兵拒否や予備役兵の赴任拒否などの運動もあった。パレスチナ自治政府は和平を進めることを公式方針としたが、武力の弱点をおぎなうためテロ戦略の武装組織も存在して、若者や女性を頻繁に自爆テロ攻撃に駆使していた。一方で、イスラエル政府は占領中のヨルダン川西岸地区に入植者を送り込み、市民を不法な領土拡張政策に加担させた。イスラエル人の入植者達やイスラエル軍が、パレスチナ人地区をイスラエル人の地区として植民地化した。
2018年9月27日木曜日
連合軍がノルマンディーに上陸してから猛撃して、虐殺されたドイツ軍兵士の死体が対空砲の側で散在した。
連合軍が1944年6月6日にノルマンディーに上陸してから猛撃した。虐殺されたドイツ軍兵士の死体が対空砲の側で散在した。1944年6月6日から7月11日までフランス国内において、ナチス・ドイツ軍は、約2,000人の将校と約85,000人兵士の戦傷者が犠牲となった。7月17日までには、ナチス・ドイツ軍は、約2,360人の将校と約97,640人兵士の戦傷者が犠牲となった。ナチス・ドイツ軍は、フランスにおける兵力損失は12%以上に達して、戦力を補充することは不可能となった。
連合軍は侵攻を開始するために、まずフランスのノルマンディ地域のヘッジエルから突破した。まずクタンス地域に向かって進軍すれば、ナチス・ドイツ軍は瞬時に崩壊すると想定した。連合軍は軍事力とスパイ情報から、ナチス・ドイツ軍は、士気が消失して武力の深刻な不足に陥っていると過信した。しかし7月初旬になると想定外となり、ナチス・ドイツ軍は再編成と補給されて強化された。連合軍の侵攻の勢いは頓挫して、7月11日から逆にナチス・ドイツ軍が反撃を開始した。連合軍はノルマンディーで明らかな軍事的膠着に陥った。攻略するために、ナチス・ドイツ軍の背後にある水陸両用または空中着陸を考慮した。連合軍はコブラ作戦で7月25日から31日までの約2,000機による殺人的な絨毯爆撃を実行した。サン=ロー・ペリエの戦場は辺り一面がクレーターの様になり、ドイツ軍は壊滅状態となり屍の死体で溢れた。ドイツ軍兵士は皆、死んだか負傷して埋もれたか、発狂した。
2018年9月26日水曜日
日本軍が北間島の村落を放火し、ピョン農民が大極旗を振り大韓独立運動と叫び、日本刀により両腕を切断した。
日本軍が韓国を併合した時代に、朝鮮近辺における北間島の和竜県の全村落を放火した。その最中に、村民の30歳台のピョンと名付けた農民が、大極旗を振りながら、大韓独立運動と叫んだ。日本軍がピョンを検挙した。その処罰として、日本軍兵が、日本刀を振りかざして、ピョンの両腕を切断した。両腕から大量に出血して、直後に大地に倒れた。
1902年10月に、日本軍がシベリアから撤退して、東南にソ連、西南に豆満江を挟んで朝鮮に接していた間島を侵略した。1920年10月に間島の日本領事館の琿春分館が2度に襲撃事件を引き起こして、朝鮮独立運動の容疑者を大量虐殺をした。朝鮮独立運動勢力は、北間島の周辺に潜伏した。日本軍は、北間島地方を無差別に弾圧した。1931年9月18日から満州事変が勃発してから、朝鮮独立運動は抗日闘争が過激化した。1934年に朝鮮人が土地を奪われて間島に流刑されて、人口が増大して約570,000人にも達した。間島を拠点とする独立武力勢力は強化されて、東北人民革命軍に合流して、中国共産党の支配下に入って、抗日統一戦線が結成された。
2018年9月25日火曜日
2018年9月24日月曜日
南北戦争の南軍兵士の死体を葬儀するため、1864年にスポットシルベニア郡に集積した。
南北戦争において死んだ南軍の兵士の死体を葬儀するために、1864年5月にバージニア州北東部のスポットシルベニア郡に集積した。
150人以上の兵士の死体は、整頓するよりもむしろ投げつけて集積することが多った。腐った死体が破裂した悪臭が消滅するまで、致し方なく埋葬の担当者は他の場所で働かされた。南軍兵士たちは銃をならびに、死体の下肢と上肢をまっすぐに伸ばして、できるだけ多くの穴の中埋め込むように踏みつけた。時には、担当者が自力で押し付けて、大量の死体を埋葬することが必要になった。コネチカット州の牧師は戦争の最後の日に約23人関係者が虐殺された絶望的な場面に遭遇した。短期間の滞在でできることは、死者を共通の墓に急いで埋葬することであった。長い道のりを歩いて行こうとすると、役人たちが、近くにいる人々を徴兵していた。それを避けるために、明らかに自らの居住者の名前を抹消した。1862年9月17日のアンティタームの戦いで、虐殺して塹壕に埋葬された「80人の反逆者」を示す簡易な木製の標識つけた。通例では、北軍と南軍の兵士は別々に埋葬をした。軍事病院の戦死者を無差別に埋葬したことが発見された。自らの死亡した勇敢な兵士の墓と、無価値な侵略者の土壌の墓を区別しないと牧師は表明した。兵士の頭を地面に覆うために、金を得るだけの気遣いをしている葬儀屋が原因であると思えて、病院墓地の別々の墓地に埋葬して、南軍と北軍の死体は死体は分離した。疲れた兵士らは、自然の塹壕と既存の斜面を利用した。 2回目のブルランの戦いの後、鉄道発掘で作られた尾根の横に約85人の死者が埋葬された。その後に塹壕を平坦化する埋葬方法で覆った。バージニの戦闘では、死者を1863年の春に、兵士を道路の両側にある深い溝の下に落として、その上を土砂で覆うために掘った。
2018年9月23日日曜日
タイの左翼学生が絞首刑で虐殺され、右翼の学生が非常に興奮して、折り畳み椅子で頭部を拳打し続けた。
タイは、1976年10月に2年ぶりの第3政権は、右派の市民右派組織と左派の大学生の間の衝突によって揺れ動いた。一晩遅く、2人のリベラルな学生がリンチされて首吊りで虐殺された。右翼の学生は、大学近くで左翼の学生を虐待して攻撃した10月6日の朝に、彼らは極秘にジャングルで虐待した。ジャングルでは、右翼の学生たちは、ますます興奮して暴力的になった。ライフルを武装した政権勢力の軍隊が現れた。左翼の学生は武装しておらず防御できずに、大学の建物内に避難した。自動小銃の激しい爆発音がサッカー場を越えて放たれた。避難した建物は全てのガラスが破壊されて、左翼の学生が逃避する場所はなかった。最後に、左翼の学生は降伏した。木々の中でいくつかの騒動が勃発した。身体が首吊りで針金で樹木からぶら下がった。左翼学生は確実に絞首刑で虐殺されていた。右翼の学生集団は非常に興奮して激怒して、折り畳み式の椅子で頭部を拳打し続けた。
タンマサート大学虐殺事件または血の水曜日事件は、タイ王国で1976年10月6日クーデターの過程で発生した。タイ王国の首都であるバンコク市内タンマサート大学の構内で勃発した。左翼学生は、亡命先から強行帰国したタノーム・キッティカチョーン元首相の断罪を政府セーニー・プラーモート内閣に要求する約10,000人の集会運動をした。左翼の学生集団に、サガット・チャローユー国防相率いる国境警備警察、バンコク市警察と民間右派組織が攻撃した。集会参加者の約100人が検挙と拘束された。集会参加者の約2人は虐殺されて、約36人の負傷者が虐待された。さらに集会参加者の検挙拘束は約100人、集会参加者の犠牲者46人、負傷者167人を弾圧した。集会を制圧した午後6時に、サガット国防相は国家統治改革評議会の名の下に戒厳令と軍事クーデターを宣言して、セーニー・プラーモート首相は失脚して排除された。
第2次世界大戦後に、タイではピブン政権から、軍事クーデーターによるサリット政権、クーデターによる政権の成立で、軍事政権の勃発から新憲法制定して、政党政治の復活するも、政治権力が腐敗を起こした。市民集会やデモに軍が軍隊が発砲して犠牲者が出る事件も相次いだ。軍事クーデターよる軍事政権の樹立する悪循環が現在まで何度も繰り返された。
2018年9月22日土曜日
日本軍兵士はアメリカ軍海兵隊に正面突撃してガダルカナルのムカデ高地台上で草生す屍となった。
太平洋戦争において日本帝国軍とアメリカ軍の海兵隊が、1942年9月12日から14日までソロモン諸島のガダルカナルで激闘した。海兵隊は1942年8月7日にガダルカナルに上陸して、ヘンダーソンフィールド飛行場を防御するためにルンガ河周辺で守った。日本軍は、海兵隊の上陸に応じてガダルカナルに、約6,000人の日本軍兵士を投入して、9月13日の夜間にアメリカ軍の防衛網に正面突撃を行った。主な日本の突撃は、ヘンダーソンフィールド飛行場のルンガ南部の尾根周辺で発生した。海兵隊の防御網により、日本軍はは全面的に壊滅して敗退した。
日本軍はガダルカナルのジャングルを突破して大きく南に迂回して、海兵隊の後方を狙った。大砲などの重火器は運べず、刀や銃剣による突撃になった。迎え撃つ海兵隊は、鉄条網に高圧電流を流し、多量の地雷を設置した上に、機関銃と大砲で射撃した。ムカデ高地南部は「血染めの丘」と呼ばれて、日本軍兵士は「突撃!」と叫びながら、刀や銃を振り回しながら、海兵隊の防衛戦に激突した。約800人もの日本兵が即死して、ジャングルと急峻な地形の中を撤退して、多数の日本軍兵士が外傷から飢餓や感染症などで死亡した。
2018年9月21日金曜日
日本軍により武漢を追われた中国人老婆は、病気の老夫らを抱えながら揚子江からボート難民として途方に暮れて逃避した。
日中戦争において、日本軍が武漢を1938年10月26日に占領した。武漢を追われた中国人老婆は、病気の老夫らを抱えながら揚子江からボート難民として途方に暮れて逃避した。1938年に南京を追われた蒋介石は、武漢に仮首都を置いた。日本軍は武漢攻略作戦で猛烈な総攻撃を加えた。日本軍の戦力は最大規模の約300,000もに達した。日本帝国は戦力調達のために1938年5月に国家総動員法を施行した。武漢攻略作戦は1938年8月に開始した。中国軍は兵員数は約4倍もあり、日本軍はマラリアや中国軍の激しい抵抗と犠牲を伴うも、10月25日に武漢を陥落した。日本軍の犠牲者数は戦死者約7,000人、戦傷者約25,000人に達した。蒋介石は占領の直前に政府をさらに奥地の重慶へと移転させて、 日本軍は中国国民党を降伏するのにまた挫折した。
1931年に中国・奉天(現在の瀋陽市)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道の線路上で柳条湖事件が発生して満州事変が勃発した。1931年の暫定総動員計画は戦時の軍需品供給を優先する応急総動員計画iに移行した。1938年の第73帝国議会に国家総動員法案を提出、4月1日に公布され月5日より施行された。日本国民にとり非常に厳しい戦時下体制に至った。
2018年9月20日木曜日
ロシア帝国のオデッサでは、約400人ユダヤ人と約100人の非ユダヤ人市民が殺された。
ツァール・ニコラス2世が1905年10月に声明文を発行した後に、反ユダヤ人によるユダヤ人虐殺の波が席巻した。革命期の帝国ロシアの民族的と政治的な緊張と暴動を反映した。基本的な市民権と政治的自由をロシア人に付与した数週間後に、主にユダヤ人に向けられた虐殺だけでなく、何百人もの市町村で学生、知識人、その他の少数民族が数多くの市町村で反乱が勃発した。港湾都市オデッサだけ、少なくとも約400人ユダヤ人と約100人の非ユダヤ人市民が殺され、ユダヤ人を中心に約300人が負傷したと警察は報告した。約1,600以上のユダヤ人の家屋、アパート、店舗が破壊されて、その被害は膨大となった。1905年のロシア帝国では、他のどの都市も、オデッサのユダヤ人に匹敵する虐殺は発生しなかった。ロシア帝国後期の反宗教主義とユダヤ人虐殺は過剰となった。オデッサはロシア帝国で4番目のに大都市で、人口約40万人で、約138,000人のユダヤ人が居住していた。19世紀から20世紀初頭にかけて、西ヨーロッパやロシアの多くの地域で、民族的差別により、民族宗教的対立と政治経済的危機が影響した。19世紀の大半の間は、ユダヤ人は特にオデッサで歓迎されていた。オデッサのユダヤ人は、一般的には潜在したままであった。度重なる戦争が始まった19世紀になり、愛国主義や民族主義が勃発して、ユダヤ人は反ユダヤ人主義に巻き込まれた。戦争によるオデッサからの穀物輸出をユダヤ人が仲介して敵対主義が扇動された。
ロシア帝国は1905年1月22日に血の日曜日事件で市民を虐殺した。6月14日にロシア海軍の戦艦ポチョムキンの乗組員が反乱を起した。ポチョムキン号はウクライナ南部のオデッサ港に入港して、反乱兵士を迎えた市民がコサック兵に大量虐殺された。反乱の発端は、スープの肉が腐ってウジ虫を乗組員が訴えても、肉を食べない乗組員を士官が命令違反で銃殺しようとした。乗組員は、6月27日に艦長以下の士官を殺害し、艦を占領して、商業港オデッサに入港した。6月28日にロシア帝国軍はコサック兵を派遣して反乱は鎮圧した。
2018年9月19日水曜日
アメリカ軍がダバオ捕虜収容所に再来したとき、死んだアメリカ軍捕虜の遺体が分解して白骨化していた。
ダバオ刑務所が1932年にフィリピン南部のミダナオ島に大規模に設置された。太平洋戦争直後の1941年12月20日から日本軍侵攻によるダバオを侵略した。ダバオ占領期間中には、日本軍はアメリカ軍兵士の捕虜収容所として転用した。約2,000人のアメリカ人捕虜が太平洋戦争中にダバオ捕虜収容所に監禁された。日本軍が占領したほとんどの捕虜収容所では、アメリカ人捕虜に対して厳しく取り扱われて、虐待と虐殺から過酷労働や飢餓と感染症などで多数が死亡した。アメリカ軍がダバオ捕虜収容所に再来したとき、死んだアメリカ軍捕虜の遺体が分解して白骨化していた。1943年8月にパラオ島において日本軍はアメリカ軍に敗北した。次いで米軍機による最初のダバオ空襲は1944年8月と9月の空襲によりダバオ市は全焼した。1944年9月7日には、ミンダナオ沿岸の潜水艦が、劣悪な地獄船であった移送船を沈没した時には、何百人も乗船した元ダバオ囚人のアメリカ人捕虜が水没した。1945年の4月17日にミンダナオ西部のコタバトから上陸したアメリカ軍は、ミンダナ島を横断して南からダバオに5月3日に侵攻した。ダバオは日本軍にとって島内の最大の軍事拠点ではあったが、約1ヶ月間の激しい戦闘の後に、日本軍は北西部方向のダバオ川上流部のタモガン渓谷に撤退した。
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