戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年7月25日水曜日
2018年7月24日火曜日
第4次中東戦争で、シリア軍の空爆と砲撃により、「涙の谷」と呼ばれたゴラン高原北部で、多数のイスラエル軍兵士の死体が散乱して、鳥類が食い漁った。
第4次中東戦争が、1973年10月6日にユダヤ教で最も神聖な日「ヨム・キプール(贖罪の日)」に勃発した・エジプト・シリア軍が、6年前の第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土を奪回するために侵攻した。シリア軍はゴラン高原、エジプト軍はスエズ運河、のイスラエル軍)を奇襲した。第三次中東戦争で過信したイスラエル軍はアラブ側から奇襲を受け、かなりの犠牲と苦戦を強いられた。イスラエル軍の予備役部隊とアメリカの支援等から、次第にイスラエル優位な戦果となった。10月24日に国際連合による停戦決議で停戦が成立して、イスラエル軍は逆にエジプト・シリア領に侵攻した。アラブ側が緒戦でイスラエルを圧倒したという事実は「イスラエル不敗の神話」を崩壊させた。イスラエルに対して対等な立場ったエジプトは1979年に平和条約を締結し、1982年にシナイ半島はエジプトに返還された。同年に元シリア領であったゴラン高原はイスラエルが一方的に併合した。戦争時中のアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は石油禁輸措置と石油価格引き上げで、第1次石油危機を引き起こし、諸外国は多大な経済混乱に至った。ゴラン高原方面はシリア軍の空爆と砲撃から、「涙の谷」と呼ばれたゴラン高原北部で激戦で、イスラエル軍兵士の多量にな戦死した死体が散乱して、鳥類が食い漁った。ゴラン高原中部・南部にシリア軍は侵攻して、イスラエル軍を囲した退却させた。6日夜にイスラエル軍は予備役部隊をゴラン高原に投入して、10日までにシリア軍を撤退してゴラン高原を再占領した。
2018年7月23日月曜日
サイパン島でバンザイ突撃の翌日に、アメリカ軍兵士が岩場に逃げて隠れ日本軍兵士を銃殺して平然と死体を見下した。
太平洋戦争のサイパン島の戦闘で1944年6月15日から7月9日に、アメリカ軍より日本軍は全滅した。最後的な戦闘において、アメリカ軍兵士により撤退した日本軍兵士は最北端のマッピ岬の約5km南方のマタンシャ周辺まで追い込まれた。1944年7月7日未明に約3,000人以上もの日本軍兵士が最後の突撃した。約10km先のガラパンを目指してアメリカ軍にバンザイ突撃を強行した。「天皇陛下万歳!」と叫びながら、全身を伏せることなくアメリカ軍兵士に突撃した。アメリカ軍は、事前に察知した日本軍の最終的なバンザイ突撃に対して、照明弾を放ちながら、無差別に重砲爆撃を浴びせほぼ全員を虐殺した。日本軍兵士が戦死した約4,301人の死体数をアメリカ軍は検証した。バンザイ突撃をした翌日の7月8日には、アメリカ軍兵士が岩場に逃げて隠れていた日本軍兵士を銃殺して、満面に自慢げに死体を見下した。サイパン島の戦闘の犠牲になった戦死者数は、日本軍兵士が約41,000人、アメリカ軍兵士は約3,216人に及んだ。サイパン島に在留していた日本人市民は、約8,000以上が戦闘に巻き込まれて虐殺されたと推定された。
2018年7月22日日曜日
韓国軍兵士は、強姦して両目を抉って虐殺した若いベトナム人女性の死体を取り囲んで、快感しながら見下した。
ベトナム戦争にて、北ベトナムはソ連などが支援して、南ベトナムに最大で約540,000人のアメリカ軍が派遣された。アメリカ軍には、韓国軍、タイ軍、フィリピン軍、ストラリア軍が派兵されるも、ベトナム戦争は泥沼化した。特に韓国の朴正煕大統領は自ら1964年から約30,000以上の猛虎部隊と呼称した韓国兵士をベトナムに派遣して、約5,000が戦死して、約10,000が戦傷した。韓国軍は、ベトナム中南部のビンディン省において、ゴダイ集落を1966年2月26日に襲撃して約380人以上もベトナム人市民を無差別に1時間以内に大虐殺した。さらに近日中に韓国軍は、タイヴァン村で約1,200人のベトナム人市民、タイビン村で約65人のベトナム人市民、ハミで約135人のベトナム人市民、フォンニィ・フォンヤット村で約69人以上のベトナム市民を大虐殺した。韓国軍兵士は、強姦して両目を抉って虐殺した若いベトナム人女性の死体を取り囲んで、快感しながら見下した。当時の韓国軍は、ベトコンによる陰謀と公表して隠蔽した。韓国では、ベトナム戦争による特需を、三星、現代、韓進、大宇などの大財閥が独占した。韓国政府は現時点でも隠蔽して、ベトナム戦争での大量虐殺と虐待を公式に認めない。アメリカ軍も、1968年3月16日にクアンガイ省ソンミ村で、ベトナム人市民の約504人を無差別に大量虐殺した。
2018年7月21日土曜日
クメール ルージュによる大量殺戮した処刑場のチェーン・エックに犠牲者の頭蓋骨などの遺骨が敷き詰め分別された。
カンプチア (旧名: カンポジア)のチェーン・エック(Choeng EK)には、クメール ルージュによる大量殺戮した処刑場および被害者の墓地であった。1988年になっても処刑された犠牲者の頭蓋骨などの遺骨が敷き詰められて分別された。クメール・ルージュ政権は、強制労働や飢饉により、カンボジア人が大量虐殺に至った。クメール・ルージュによる大量殺戮や国内難民の死者数は、1962年から1975年まで人口動態が皆無で不明である。フィンランドは、ポル・ポト以前の内戦の死者数を約600,000人、ポル・ポト以後の死者数を約1,000,000人と推定した。クメール・ルージュは、反シアヌーク勢力で、赤いクメール(カンボジア人)と呼称された。1951年に北ベトナムから分離して、1960年9月にカンボジア共産党を設立して、1963年からポル・ポトが指導者となった。アメリカ軍が侵攻して、1970年4月に反米・非同盟のシアヌーク政権が排除され、親米・反北ベトナムのロン・ノル政権が樹立した。1964年から1975年のベトナム戦争からアメリカ軍が敗退して、クメール・ルージュがロン・ノル政権を軍事制圧した。1976年4月にポル・ポト政権を樹立した。カンボジア全土を虐殺刑場(Killing Field)とするジェノサイド(集団虐殺)を執行した。1978年12月にベトナム軍が侵攻して、親中国・反ベトナムのポル・ポト政権を打倒し、親ベトナム派のヘン・サムリン政権を樹立した。1989年に冷戦構造が崩壊して、1991年にベトナム軍は撤退し、1991年10月にパリ和平協定により、1993年の国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の総選挙で、シアヌークを国王とする「カンボジア王国」が成立した。クメール・ルージュは1998年のポル・ポト死去を経て1999年3月に崩壊した。
2018年7月20日金曜日
ハンガリーの矢十字党により虐殺された市民や膨大なユダヤ人の死体が発掘された。
ハンガリーには、1939年から1945年まで、ファシズム政党である矢十字党(ハンガリー主義運動)政権がハンガリー王国を帝国主義化した。サーラシ・フェレンツが指導する反ユダヤ的なハンガリー主義(Hungarizmus)を掲げた民族主義政党となった。ナチス・ドイツの支援を受けて、1944年10月15日にナチス・ドイツ軍と矢十字党員はブダペスト市内を占領して、1945年1月までハンガリーを統治した。サーラシ政権はドイツの反ユダヤ主義に協力し、国内に居住する約100,000人以上ものユダヤ人を虐殺して、約80,000人のユダヤ人市民をアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移送した。サーラシは首相兼国家元首に就任して、ソビエト軍およびルーマニア王国軍と戦って、東部戦線のナチス・ドイツ軍と同盟した。矢十字党の虐殺部隊が闊歩して、ユダヤ人市民らを捕まえては銃殺して土中に埋め込み、凍りついたドナウ河にも投げ込んだ。ブダペストの戦いが1944年12月に始まり、矢十字党政権はナチス・ドイツ軍と共に1945年4月30日の終戦までハンガリーの西端で戦い続けた。大戦後には、矢十字党により虐殺されたハンガリー市民の犠牲者の死体が発掘された。大戦後にはサーラシらの矢十字党の指導者は、ハンガリーの法廷で戦犯として処刑された。
2018年7月19日木曜日
アメリカ軍兵士が、歩兵連隊の軍服を着服してアメリカ雑誌も携帯した中国人義勇兵を処刑して死体を見下した。
朝鮮戦争にて、中華人民共和国が1950年10月25日に参戦して、北朝鮮を支援した。中国義勇軍と北朝鮮軍は、南下に侵攻して12月5日には平壌を制圧して、1月4日には、ソウルを再奪還した。1951年初頭に、第5歩兵隊に所属したアメリカ軍歩兵士が、処刑した中国人義勇兵の死体を見下した。中国義勇兵の死体には、アメリカ軍の一般歩兵連隊の(General Infantry : GI)の軍服を着用して、アメリカ雑誌も携帯していた。アメリカ軍の治安維持活動の一環として、中国人義勇兵を秘密裏の窃盗として処刑した。アメリカ軍の地上軍の優位な武力とアメリカ韓国軍の強力な空爆により、中国人義勇兵と北朝鮮軍の南下に対抗した。最新兵器で態勢を立て直して反撃を開始して3月14日にはソウルを再奪回した。戦況は38度線付近で膠着状態となる。全戦線に塹壕を掘られ、中朝軍はさらに兵力を増強した。トルーマン大統領は4月1日にマッカーサーを解任した。1951年7月から休戦会談を繰り返すも不成立となり、最終的に1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印された。
2018年7月18日水曜日
日中戦争の南京にて、日本軍兵士が日本刀で便衣隊と嫌疑者の首などが切断した中国人の死体が散乱した。
日中戦争にて、南京に入城した日本軍は、中国人の若者を根拠もなく便衣隊と嫌疑をかけて虐殺した。日本軍兵士は、日本刀で便衣隊の容疑者の首などを切断して、中国人の死体が散乱した。便衣隊は、日中戦争にて一般市民と同じ私服や民族服などを着用した市民に偽装して敵対行為をする軍隊を呼称した。国際法違反であり、捕虜となっても裁判にかけずに処刑するのは、国際法上違反であった。 1937年12月13日に日本軍に南京城は陥落して、城内では約6週間に及ぶ大量虐殺と破壊がされた。虐殺は無抵抗の捕虜や非戦闘員の市民を殺害することで、国際法上違反であった。東京裁判では約200,000人以上の虐殺が認定され、中国では約300,000から400,000人以上と推定した。大虐殺や数値には根拠がないとして否定する日本人の批判論者も多数いるが、しかし日本側の多く研究者も約300,000人と想定している。日本軍による集団的虐殺は、下関煤炭港・魚雷営・漢中門外・下関上元門・下関中山碼頭・下関草鞋峡・漢西門・上新河一帯・四条巷・三汊河河岸・燕子磯江辺などの地域で執行された。
2018年7月17日火曜日
独ソ戦において1942年2月にロスラヴリで、ナチス・ドイツ軍は捕虜にしたソ連軍兵士を残酷な大量虐殺をして死体を廃棄した。
ナチス・ドイツ軍は独ソ戦争で、1942年2月19日にモスクワ州の西側のスモレンク州南部であるロスラヴリの土中に、捕虜にしたソ連軍兵士を残酷な大量虐殺をして死体を廃棄した。ナチス・ドイツ軍は1941年6月22日にバルバロッサ作戦が発動され、枢軸軍はソビエト連邦へ侵攻した。緒戦にはソ連の赤軍は各戦地で大打撃を被り、敗走して孤立した兵士の数百万人以上がナチス・ドイツ軍の捕虜(POWs : Prisoners of War)となった。ジュネーブ条約等国際条約の捕虜に関する保護・待遇規定は何ら適用されず、即戦場で処刑され、最前線からの死の行進、生存者も完全な根絶のために強制収容所へ送られて、非人道的に虐殺された。約3,300,000人以上ものソ連兵士が死亡して、捕虜となったソビエト兵の約57%であった。連合軍では死亡したのは3.6%の約8,300人であった。戦争初期から捕虜虐殺は横行して、屋外での完全な放置と飢餓と伝染病、即時処刑を執行して、1941年6月から1942年1月だけでも約2,800,000人のソ連軍の捕虜が虐殺された。ソ連軍は報復して約374,000人以上ものドイツ兵捕虜をソビエト強制収容所で虐殺した。
2018年7月18日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 700回
2018年7月16日月曜日
一人の歩兵軍隊のドイツ人が連合軍に虐殺され、悲惨な死体が塹壕に落ち込んでいた。
第2次世界大戦末に、連合軍は1944年6月6日のノルマンディ上陸からフランス・ベルギーを解放して約3ケ月でドイツ国境まで侵攻した。1944年月9月14日から1945年5月8日の無条件降伏までの約8ケ月間が、ドイツ本土を侵略した最後の大決戦場となった。連合国の圧倒的な武力により膨大な犠牲者の死体が散乱した。歩兵軍隊のドイツ人が連合軍に虐殺されて、悲惨な死体が塹壕の中に落ち込んだ。各地で敗退を続けたドイツ軍は、1944年12月16日から西部戦線のバルジでの反抗戦も敗戦した。1945年3月28日から連合軍はドイツ国内の865kmの最長の河川であるライン川を渡河した。東部戦線ではソ連軍が東プロイセンを占領して、オーデル・ナイセ戦線を越えた。1944年4月にはソ連軍によるベルリン総攻撃が勃発して、5月2日にはベルリンはソ連軍によって占領された。5月8日に連合国に対する降伏文書に署名して終戦した。
2018年7月15日日曜日
ウクライナでは、ソ連により小作農が大飢餓の犠牲となり、ハルキウの路上で、多数の餓死の死体が転がり、路上の周辺に散乱して死匂が漂った。
ウクライナでは、1933年4月に小作農が大飢餓の犠牲となって、北東部の都市であるハルキウにて、多数の餓死による死体や瀕死状態者が転がり、各地の路上の周辺に散乱して死匂が漂った。ウクライナでは1919年の独立から、1922年にソビエト連邦に編入された。ウクライナの小麦による外貨獲得のため、ソ連は飢餓になっても、小麦を徴発して、食糧不足となり飢餓が発生した。1930年代初頭から農業集団化で収穫減から厳しい食料徴発されて飢餓が深刻となり、ソ連は反抗者は容赦なく処刑した。1932年12月27日から通行手形により、小作農らを集団農場に縛り付けた。1933年春には飼料を悪用するば10年以上も強制収容所へ送還さた。ソ連系オルグ団のスパイは農場を監視して、肉親を告発した家族には食物を賞与した。食料を没収された小作農は下手物まで食べた。遂にウクライナ人は病死馬や人間の死体も食べた。通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂って、飢餓の犠牲者は約2500,000人以上に達した。ウクライナは反ソ・反共感情が高まり、独ソ戦のナチス・ドイツ軍を「解放軍」として歓迎し加担した。しかし、スラヴ系諸民族の撲滅を目指すナチス・ドイツも、ウクライナ人に残酷な政策を実施した。ソ連はウクライナ飢餓を1980年代になり承認した。2014年2月からロシア軍による軍事干渉クリミア自治共和国の住民投票から、3月17日にロシア軍の支配下で編入が決議された。ウクライナの東部2州(ドネツィク州、ルハーンシク州)の抗議運動が、武装した分離主義勢力による反乱へと広がり、暫定政権が軍事的弾圧をした。
2018年7月14日土曜日
アメリカ軍等による激しい空爆等によるイラク戦争の犠牲となった瀕死イラク人児童を母親が側で見守った。
アメリカ軍は、2003年3月20日にイラクの首都バグダードへの空爆からイラク戦争が勃発した。42日間の戦闘で,有志連合軍の死者は172人,イラク人死者数は約100,000人以上と推計された。2001年9月11日のアメリカ同時テロ事件からイラクの大量破壊兵器を敵視した。ジョージ・W.ブッシュ大統領は2003年3月20日にアメリカ軍は国連を無視して、イラク攻撃を先制攻撃した。4月9日にアメリカ軍がバグダードを陥落させてフセイン政権は崩壊した。2003年5月1日の戦闘終結宣言したが、連合軍による占領が 2004年6月のイラク暫定政府まで続いた。イラクに駐留を続けて、2005年12月にアメリカ系イラク政権を成立させた。駐留や宗派偏向的政権に、住民の反発と反米・反政府勢力による攻撃が増加した。2006〜07年には宗派対立から内戦が悪化し,駐留軍とイラク民間人ともに死者が急増した。イラクの不安定化とアメリカ軍の犠牲や,大量破壊兵器が未確認などから,アメリカ国内ではイラク戦争反対のバラク・オバマ政権が2009年1月に成立した。2010年8月18日にアメリカ軍はイラクから撤退をした。開戦以来のアメリカ兵の死者は 2010年4月までで 4,000人に上った。2009年10月にイラク政府は 2004〜08年のイラク人犠牲者数を,市民と兵士で終結後から85,000人以上と推計した。最後のアメリカ軍約 500人が 2011年12月18日に完全撤収した。
2018年7月13日金曜日
無差別大空襲で完全に黒焦げになったハンブルグ市民の焼死体が、街路地に大散乱した。
第2次世界大戦において、連合国がドイツのハンブルグに無差別空襲をして壊滅した。1947年9月7日から1942年5月10日までロンドン大空襲を受けたイギリス軍は、ドイツ軍を「悪事を犯した奴らが今こそ酷い報いを受ける番だ」とゴモラ作戦の空爆で復讐した。特に1943年7月27日は、異常に乾燥し温暖であり、地域に爆撃が集中し、消防隊が火災の現場へ到達できなかった。空襲は甚大な被害をもたらし、爆撃は「火災旋風」を引き起こした。家屋の石炭やコークスなどの燃料が火災の規模を拡大し、炎を伴った竜巻が発生して、屋外は溶鉱炉様となった。最大風速は240km/h、気温は800℃に達し、市街は21kmに渡って焼け落ち、防空壕に避難した市民もしない市民も無差別空襲を受けた。無差別大空襲で、完全に黒焦げになったハンブルグ市民の焼死体が、街路地に大散乱した。ハンブルグの犠牲者は民間市民であり、約50,000人の多くが空爆で死亡した。第二次世界大戦が終結するまでハンブルクは7月24日から1945年4月14日にかけて約69回空爆を受けた。最も甚大な空爆を受けたハンブルグは、イギリス政府は「ドイツのヒロシマ」と大戦後に宣告した。
2018年7月12日木曜日
塹壕からフランス軍兵士が、鉄条網が視界に入らずに絡まって動けなくなったドイツ軍兵士を銃殺した。
第1次世界大戦の西部戦線では、緒戦の突撃肉弾戦から、全長で約700kmにも及んだ塹壕に立てこもる長期の消耗戦に至った。イギリス・フランス軍とドイツ軍ともに網の目に鉄のワイヤーを張り巡らせた。重ねた鉄条網の柵を塹壕の前に構築した。双方ともに、敵兵の侵入を阻止するために、鉄のワイヤーの鉄条網をいたる所に設置した。フランス軍兵士が、鉄条網が視界に入らずに絡まって動けなくなったドイツ軍兵士を銃殺した。塹壕を鉄条網から銃身と周辺の地雷で防御した。北はドーバー海峡からスイス国境まで塹壕が繋がった。張り巡らした鉄条網は、約300,000kmにも達した。進撃と反撃の繰り返しによる消耗戦で、膨大な犠牲者を出した。1916年2月から12月に、ドイツ軍とフランス軍とのヴェルダン戦では、数キロの進退戦で、フランス軍は約360,000人、ドイツ軍は約340,000人の死傷者は犠牲となった。戦場は砲火で焼き尽くされ、砲弾による夥しい戦死者の死体と兵器が散乱したまま放置された。
2018年7月11日水曜日
激しい戦闘があったブーゲンビル島で、多数の日本人兵士の死体が散乱して、アメリカ軍兵士が戦車上から眺めた。
太平洋戦争にて、1942年3月に日本軍はソロモン諸島のブーゲンビル島を占領して、飛行場を整備した。日本軍は、砲火力が低く対戦車装備も不足していた。島内の交通路の整備も不十分で、迅速な部隊機動も難しかった。アメリカ軍は、1943年11月1日にタロキナ岬に上陸した。 激しい戦闘があった105高地とアオギリ丘で、多数の日本人兵士の死体が散乱して、アメリカ軍兵士が戦車上から眺めた。湿地帯で膠着状態になったが、11月9日にアメリカ軍が日本軍を撃退して、日本軍は補給も続かず11月11日に撤退した。アメリカ軍は12月までにタロキナ岬に飛行場を完成した。ジャングルに潜む日本軍は激しい空襲を受けて犠牲が続出した。圧倒的な火力でのアメリカ軍の1944年3月8日の反撃により3月25日に攻撃停止をした。日本軍の死傷率80%を超え、死傷1万3千人で、4,000以上は病死して壊滅的であった。アメリカ軍は、日本兵を捕虜とせずに射殺するよう命令して多数が虐殺された。日本軍は1944年2月には補給は途絶えて食料は減少した。現地自活体制から、大多数の餓死者を出したガダルカナル島には至らなかった。ガダルカナル島の「餓島」に対して、ブーゲンビル島の「墓島」と呼ばれた。1945年8月15日に日本が降伏して、ラバウルからの停戦命令で日本軍は戦闘を停止し、9月3日に武器を引き渡して降伏した。
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