戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年6月29日金曜日
2018年6月28日木曜日
ニカラグアの1人の若い男性は、1978年9月にソモサ独裁の国家警察隊により、マサヤのモニンボ地区にて血まみれで虐殺された。
ニカラグアでは、ソモサ (Somoza)一族 は、アメリカ合衆国の武力干渉により1909年から創設された国家警備隊の基で、3代にわたり1936年から1979年まで独裁政権を継続した。ニカラグアの国内総生産の約半分をソモサ一族の系列企業などが独占した。ソモサ政権の抑圧的な国家警備隊により、多くの人々の犠牲者となった。1人の若い男性は、1978年9月に国家警察隊により、ニカラグアのマサヤのモニンボ地区にて、血まみれで虐殺された。左壁の落書きからモニンボから国家警備隊は出て行け」、右壁の落書きから「ソモサ一族のために人々は虐待と虐殺される」と読めた。ソモサ一族は、1979年のニカラグア革命で倒された。1961年のキューバ革命から結成されたサンディニスタ民族解放戦線(FSLM)は、1979年7月19日にソモサ一族をマイアミに追放して政権を樹立した。アメリカ合衆国は対抗するために、反政府勢力に軍事参入して1979年から1989年までコントラ内戦を主導した。アメリカ合衆国でイラク・イラン戦争へ武器売却した資金を、コントラ内戦の秘密裏の転用が発覚した。1990年に国連監視団の基での選挙で、ビオレータ・チャモロ女性大統領が誕生した。
2018年6月27日水曜日
マーケット・ガーデン戦で散在して戦死した多数のアメリカ軍の兵士の死体を埋葬するために集積した。
ナチス・ドイツ軍はV2ロケットにより、1944年9月8日からロンドン空襲を開始した。連合軍は発射地点であるオランダ国内に河川を越えるために、地上と空挺部隊で多くの橋を奪取するマーケット・ガーデン作戦を強行した。連合軍は途中のナイメーヘンのライン橋は占領したが、アメヘルムで撤退した。空挺部隊の強引で短絡的な降下、補給の途絶などの悪条件が重なり、膨大な戦傷者と損害に拡大した。戦死して散在していた多数のアメリカ軍の兵士の死体を埋葬するために集積した。6月6日のノルマンディー戦以後に、不敗の進軍を続けた連合軍は、この撤退により侵攻は大幅に後退した。V2ロケットと補給問題を強引に解決する作戦だった上に、空挺部隊の降下地点のアルンヘム周辺に、ドイツ軍の協力な実戦部隊などが駐留していた不運も重なった。連合軍が9月21日に撤退するまでに、連合軍は約11,000人、ドイツ軍は約8,000人の膨大な戦死傷者が犠牲となった。
2018年6月26日火曜日
ドイツ革命の臨時政府は、皇帝に忠誠し続けた旧軍人に、スパルタクスの労働者らに発砲させ虐待と虐殺して弾圧させた。
第1次世界大戦中に出撃命令を拒否した水兵らが逮捕され、1918年11月3日にキール軍港で水兵たちが出撃拒否した仲間の釈放を求めたて蜂起した。労働者と兵士の代表者からなる「レーテ」評議会が組織された。ドイツ各地に広がり11月9日に首都ベルリンもデモが拡大した。戦争の協力者であった社会民主党右派は豹変して「共和国宣言」をした。11月10日に皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命して、11月11日に連合国との終戦した。ドイツ革命で、社会民主党右派は臨時政府の政権を握った。戦争に反対していた社会民主党左派の「スパルタクス団」は、君主制の打倒だけではなく、レーテの革命を求めた。臨時政府は、皇帝に忠誠を続けた軍人に、スパルタクス団を弾圧させた。臨時政府軍隊が労働者らに発砲する事件が相次いだ。1919年1月5日に臨時政府は旧プロイセン国家の担手を復活させた。スパルタクス団が蜂起を決行し、臨時政府は、砲兵隊員と親衛隊を集結して、1月10日にスパルタクス団の本拠地を次々と弾圧して虐待と虐殺した。戦闘の直後の1月19日に選挙が行われ、ワイマール共和国が成立した。ワイマール憲法は、自由権と世界で初めて「社会権」(国家に人々の生存を保証させる権利)を定めた。
2018年6月25日月曜日
ニューギニア島で頭部と全身を銃撃され虐殺された日本軍兵士の死体と血痕が散在した。
太平洋戦争のニューギニアの戦闘にて、1944年4月22日にはアメリカ軍はホーラジアとアイタペに上陸した。アメリカ軍の猛烈な艦砲射撃からの上陸により、湾岸各所の拠点はと周囲は壊滅した。後方部隊であった日本軍の約14,600人は混乱して抵抗もできず、アメリカ軍の約50,000人に分断されて包囲された。日本軍は、兵器や食糧も置き去りにして、散り散りに密林のジャングルに逃避した。上陸した中間地点にセンタニ湖があり、その北岸に3つの飛行場があった。アメリカ軍は飛行場を侵略をした。退却した戦闘部隊ではない後方部隊で抵抗するも、アメリカ軍の圧倒的な武力で壊滅した。近隣に飛行場があるニューギニアの海岸とセンタニ湖の路上で、頭部から全身を銃撃されて虐殺された日本軍兵士の死体と血痕が散在した。撤退するために、日本軍はシクロップ山脈の密林に逃げ込み、密林を抜けきれずに飢餓と病死で、日本軍兵士の白骨のみが、各所に残り撤退した道標を示唆した。敗戦後に日本に帰国できた生存者は約400人に過ぎなかった。
2018年6月24日日曜日
トルコ人傍観者たちは、ケアル暗殺失敗者を反逆者として絞首刑を公開処刑された死体を取巻いて見物した。
第一次世界大戦の英雄として、戦後のトルコ革命に乗じて、ムスタファ ・ケマルは軍事力でトルコ共和国を1923年10月29日に建国して初代大統領となった。宗教裁判所、宗教省、学校の宗教教育の廃止などを決めた。宗教法を無効として、刑法、民法、商法など次々と改革した。宗教法の干渉を排除し、男女平等などの法律を制定した。反ケマル派はケマル暗殺してクーデターを起こして、カリフの立憲君主国家を工作した。1926年に暗殺計画を事前に察知して、 反ケマル派を逮捕した。全員を国家反逆罪により処刑した。好奇心の傍観者たちは、ケアル暗殺失敗者を反逆者として公開で絞首刑を処刑された死体を取り巻いて見物した。処刑実行の翌日には「私は数えきれないほど戦場で死と直面したし、必要とあらば明日にでも再び命を戦場でさらすつもりでいる。現在の時点は、私がトルコだ!」と宣告した。西洋の度量衡制度や太陽暦の導入、近代的な教育制度の整備、トルコ帽やヴェールなどのイスラム的な服装をやめ、女性の参政権を認めた。ローマ字を基調とするトルコ文字の改革を、軍事力で独裁的に押し進めた。 議会は"父なるトルコ人"の意味を持つ"アタテュルク"という姓を1934年6月に贈呈した。ムスタファ・ケマル・アタテュルクの改革の途上で、 1938年11月10日午前9時5分に57歳で死去した。
2018年6月23日土曜日
ノルマンディから上陸したアメリカ軍は火炎放射器で、ドイツ軍の兵士を虐殺して、顔面からまる焦げした悲惨な死体も散在した。
第2次世界大戦にて、連合国軍は1944年6月6日にノルマンディーに上陸した。戦争好きで戦争狂のパットンは、1943年7月にシチリア島の軍病院で、砲弾神経症の兵士を軽蔑して殴打して虐待した事件を起こし、司令官を解任された。アイゼンハワーにて、第3軍司令官の前線指揮官に復帰した。パットンは狂気した魚のように第3軍でドイツ軍の戦線を突破して大進撃した。ドイツ軍は、戦死者約10,000人と戦傷者約50,000人が犠牲となった。弱体化したドイツ軍は後方に回り込まれ、補給路も途絶えて、攻略された。1944年8月には、フランスのロレーヌ地方にてドイツ軍が敗退して潰走状態となった。連合軍はドイツ軍を追撃してドイツ国境付近まで進撃した。アメリカ軍は、大量の爆薬武器の発砲だけでなく火炎放射器も発射した。フランス中東部のブレスト地方にて、アメリカ軍は火炎放射器で、ドイツ軍の兵士を虐殺して、顔面からまる焦げして悲惨な死体も散在した。戦後の1970年2月にパットン大戦車軍団として映画化と英雄化されるも、アカデミー最優秀主演男優賞のジョージ・C・スコットは戦争狂の「肉のパレード」として受賞を拒否した。
2018年6月22日金曜日
泥濘の路上にて、ある兵士の死体を、ドイツ軍の重量車両が踏みつけ圧壊して、その上を軍用バイクが通過した。
第2次世界大戦にて、ドイツ軍は1941年6月22日からソ連を突如に奇襲した。ドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、北方軍はレニングラードを包囲して、中央軍は開戦1ヶ月でスモレンスクを侵略した。ソ連の赤軍は分断され、多くの部隊が投降して捕虜となった。8月にはスモレンスクを侵略した中央軍は南部に向かい、南方軍を支援して、ウクライナ地方の数十万のソ連赤軍を壊滅して、キエフ、ハリコフなどを侵略した。9月には首都モスクワを侵攻した。ドイツ軍はクレムリンまで十数キロまで迫った。早い冬による泥濘の路上にて、ある兵士の死体が、ドイツ軍の重量車両などが踏みつけられ圧壊して、その上をさらに軍用バイクが通過した。降雪と厳寒における赤軍の猛抗で、ドイツ軍の侵略は頓挫した。冬季装備の配給が滞ったドイツ軍は各地の進撃が頓挫した。ドイツ軍の死傷者はすでに投入兵力の35%の約100万人におよび、1941年だけで戦死者は20万人に達した。ソ連側は12月初旬から冬季に大反攻して、ドイツ軍はモスクワ近郊から後退した。ヒトラーが撤退させないドイツ軍は必死の抵抗により、ソ連赤軍は撃破され攻勢できず、ドイツ軍は辛うじて崩壊を回避した。ソ連側は国民と国土を焦土化して、ドイツ軍の現地調達の手段を奪った。ドイツが占領した地域の住民に対しパルチザンを組織させた。
2018年6月21日木曜日
マルコス政府軍は権力を掌握して鎮圧するため反対派のフクバラハップの4人を虐殺した。
フィリピンは1946年にアメリカから独立をした。1940年代末から50年代に、中部ルソンで1942年に結成された抗日ゲリラ軍であったフクバラハップ(Hukbalahap)が反乱した。フクバラハップは農民を取り込み、共産主義勢力を拡大して、国内は不安定となった。フェルディナンド・マルコスはフィリピン大統領に1965年に初当選し、69年には再選された。戒厳令を発布して強引に3選の新憲法を制定して74年に3選を果たした。マルコス独裁政権は、反対派を沈黙させ権力を掌握するために、政府軍がフクバラハップの4人を小戦して虐殺した。ベトナム戦争中のアメリカも巧妙に利用し、基地提供等から体制を固めた。政権の長期化で腐敗と貧困が進行するも、マルコス夫妻はマラカニアン宮殿で豪華な生活を謳歌した。マルコスは1971年に学生の反マルコスデモの戒厳令からベニグモ・アキノを逮捕し裁判で死刑を宣告した。国際世論からアメリカ出国を認めた。1970年代には北部では共産党系の新人民軍の反政府活動、南部のミンダナオ島でイスラム教徒のモロ民族解放戦線の分離独立活動が激化した。1983年にアキノは帰国したマニラ国際空港で暗殺された。一気にマルコス体制への反発が強まり、1986年に未亡人のコラソン・アキノが大統領に当選して、ピープルパワー革命が勃発して、マルコス夫妻はハワイに亡命して独裁体制は崩壊して、マルコスは1989年亡命先のハワイで死亡した。
2018年6月20日水曜日
第一次世界大戦後の内紛により黒人の若者がリンチ暴動により絞首刑で吊り下げた。
黒人の若者の遺体が1920年のリンチ暴動により、アメリカ合衆国のケンタッキー州のパリスにて樹木から絞首刑により吊り下げた。より過激な暴力による人種暴動のリンチが、第一次世界大戦中から勃発して深刻化した。1918年までに黒人男性約2,472人と女性約50人がリンチ殺人を受けた。第一次世界大戦後にアメリカ軍から黒人の除隊により、赤い夏と呼称される暴動が深刻化した。36以上の都市で1919年5月から人種間暴動が起こり、初秋にかけて人種暴動事件が拡大した。白人が黒人を襲ったが、一方で黒人も反抗して、多数の死傷者が出た。第一次世界大戦の軍隊動員と移民の激減により、北部の工業都市は深刻な労働力不足となり、黒人を大量に募集し、労働力が南部から流出した。1919年までに約50万人の黒人が南部から北部の都市に移民して、白人と黒人が職業を奪い合った。1917年に白人ストライキ破りとして黒人が雇われた。労働力市場への影響を軽視した黒人の軍人除隊と、価格統制を失った失業とインフレから、白人と黒人の就職競争が増大した。1919年から1920年までの第1次赤狩りにて、共産党勢力が新たな政府を建国すると危惧した。当局は黒人による人種の平等、労働権、正当防衛の権利を不安に恐れた。地獄の戦争は終わり、目覚めた黒人の元軍人が社会生活に帰り、更に厳しい長い内紛に至った。
2018年6月19日火曜日
アメリカ軍兵士は、横たわる沖縄住民の死体の側で、模造品の武器を見上げては卑下してあきれて爆笑した。
太平洋戦争の末期に、アメリカ軍は1945年3月26日に沖縄本島に上陸して6月23日に終結した。沖縄戦において、膨大で圧倒的な武器や物資を保有するアメリカ軍の侵攻に対して、貧弱な日本軍や沖縄住民らはなす術も物資も無かった。アメリカ軍の進撃を少しでも阻止するために、アメリカ軍の目を欺くために、おとりの武器や要塞や洞窟などをカモフラージュした。全く役立たずの装飾した竹製の飛行機、板製戦車、丸太の大砲、岩を積み込んだ戦車などを偽造して仮設した。結局は、アメリカ軍にはありあわせの模造品で全く約に役立たずとなった。単なる岩を積み上げて、丸太を差し込んで戦車に見せかけた。アメリカ軍兵士は、横たわる虐殺された沖縄住民の死体の側で、模造品のおもちゃを見上げては卑下してあきれて爆笑した。沖縄戦では、多数の沖縄住民が、飛行場建設や陣地構築など軍事活動に参加させた。沖縄守備隊として沖縄住民を人的・物的資源の戦力化した。太平洋戦争期の日本には、国民徴用令や国民勤労報国協力令(1945年3月からは国民勤労動員令)に基づき大本営政権が国民を徴用して兵士、工場労働から農作業などにも重労働に従事させた。
太平洋戦争末期の沖縄戦は、2013年6月23日に日本軍は敗戦終結した。民間人を含め200,000人超が虐殺された「慰霊の日」を戦後73年目を迎えた。最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園で「沖縄全戦没者追悼式」が営まれた。沖縄県知事は平和宣言で、平和の緊張緩和の流れに逆行していると戦争阻止の決意を示した。
2018年6月18日月曜日
日露戦争の旅順で、ロシア軍は単純突撃した日本軍兵士の大量の死体を除去し廃棄した。
日露戦争の激烈な戦闘があった旅順にて、ロシア軍は大量の日本人兵士の死体を片付けて処理した。日清戦争により、日本軍が1895年に旅順を占領した。日本帝国は三国干渉により、下関条約による旅順を含む遼東半島の割譲は破棄された。1900年の義和団の乱の鎮圧により、ロシア帝国は旅順を租借地となり軍港の要塞となった。ロシア帝国から朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯の要請を拒否して、日露戦争が1904年から1905年まで勃発した。ロシア軍は約42,600人、日本軍は約115,600人が犠牲となり戦死した。ロシア帝国では、1905年1月9日に血の日曜日事件などが勃発して、日露戦争から退却となった。ポーツマス条約で1905年9月5日に講和して、日本軍は遼東半島の南端の関東州が租借地となり、南樺太が割譲された。日露戦争は限定戦争であるも、戦闘と軍事力の高度な殺傷力は、日露戦争が陸上戦にて単純突撃を反復して屍の山を築いた。戦闘が短時間に大量の犠牲者を生み、戦闘の加速度を増し、戦争地域が拡大した。
2018年6月18日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 700回
2018年6月17日日曜日
バングラディッシュ解放軍のゲリラ主導者は、西パキスタン協力者も容赦なく即決裁判により公開処刑で銃剣で刺殺した。
バングラデシュ解放戦争は、東パキスタンのベンガル人の民族主義の台頭により武力紛争が勃発した。解放戦争は西パキスタンの軍事政権が1971年3月25日に、東パキスタンのべンガル民族を配下にした。西パキスタン軍は、イスラム教主義者の支持を得て、地元住民の襲撃に急進的な宗教民兵も動員した。西パキスタン軍隊と支援民兵は、数々の大量殺人、追放、 大量虐殺をした。約1,000万人のベンガル人難民がインドに避難し 、約3,000万人が国内難民となった。西パキスタンからバングラデシュへの独立宣言は 、ベンガル軍、準軍事 や民間人により形成されたバングラディッシュ解放軍であるムクティ・バヒニ解放軍により宣言された。バングラデシュ解放軍は、 西パキスタン軍に大量ゲリラ戦を行って、紛争の最初の数か月で数多くの町や都市を解放した。ゲリラ主導者は、西パキスタン協力者も容赦なく即決裁判により公開処刑で銃剣で刺殺した。 バングラデシュの暫定政権は 1971年4月17日にムジブナガルで形成され、亡命政府はカルカッタに撤退した 。インドは、バングラデシュに外交的、経済的、軍事的な支援を提供した。 東パキスタンが北インドでの先制攻撃を開始した後に、インドは1971年12月3日に解放戦争に加担した。バングラデシュとインドの連合軍の急激な侵攻により、西パキスタンは 1971年12月16日にダッカで降伏した。 国連の加盟国の大部分は、1972年にバングラデシュを主権国家として認識した。
2018年6月16日土曜日
シリア内戦によりコバチは倒壊して、建物の下からイスラム国兵士がミイラとなった白骨化した頭蓋骨が散在していた。
シリア内戦は、2010年12月17日からアラブの春により2011年3月15日から勃発したアサド政権軍と反政府軍のシリア内戦の戦闘が継続している。シリア内戦でアサド政権と反体制諸派との間に、2013年6月から急速にイスラム国(IS)が台頭した。国内外から参戦した過激なイスラム主義者たちが侵略して、破綻国家のシリアの一部を支配して、2014年6月にはラッカ首都の建国を宣言した。イスラム法により統治するイスラム国家となった。2014年7月から2015年1月までシリアのコバニの都市は、アメリカ軍の空爆、イスラム国の自爆テロと残虐な市街戦にて、ほとんど約7割が全半壊した。アメリカ軍の無差別の空爆による荒廃したコバニから、イスラム国が撤退して解放された。倒壊した建物の下から、イスラム国の兵士がミイラとなった白骨化した頭蓋骨が散在していた。コバチは、イスラム国だけでなく、アメリカ軍のミサイルによる空襲で甚大な犠牲を伴った。アサド政府軍とクルド人民防衛隊(YPG)の自由シリア軍は交戦して、戦闘地域と非戦闘地域とが混在して、爆撃が断続した。2017年10月17日にイスラム国は、首都ラッカ市をYPG主体のシリア民主軍に完全制圧され消滅した。
2018年6月15日金曜日
ソビエトの赤軍は熾烈な内戦で、反革命の白軍を虐待と虐殺した死体に群がり、内戦は3年にも及び約700万人も死者を出した。
第一次世界大戦前年の1917年10月に、ロシア帝国内で労働者や農民らのロシア革命が勃発し、帝政ロシアは崩壊した。ソビエト連邦でレーニンが主導したボリシェヴィキ勢力は拡大した。レフ・トロツキーが徴兵制で新軍隊である赤軍を創設して、武力革命により中央独裁政権を樹立した。反抗するコサック人らの白軍は反革命闘争をした。赤軍は熾烈な内戦により、反革命の白軍を虐待と虐殺して、白軍も過激に対抗した。赤軍は、虐殺した膨大な白軍の死体に参集した。内戦は3年にも及び、約700万人もの死者を出した。革命政府は反体制派の粛清を強めて、KGBとなる秘密警察が、4年間で約12,000人以上を殺害した。白軍も連合国側からの援助を受けて、各地で独立政権を樹立した。1919年に第1次世界大戦が終結して連合軍の援助が途絶えた白軍は勢力が急速に低した。赤軍は約500万を超え、南部の白軍は虐殺されて、クリミア半島からトルコに脱出した。東部では約25万人がシベリアを徘徊して、バイカル湖で絶命した遺体は湖底へ沈んだ。白軍の敗北でソ連は統一されたが、国内は混乱と荒廃を極めて、共産党の独裁体制となった。
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