2018年5月21日月曜日

エジプト人ゲリラが、絞首刑にしたイギリス人兵士を吊るしスエズ運河占領を警告した。

スエズ運河地域におけるイギリス軍の1882年からの継続的な占領に対して、エジプト人は激怒した。イギリス軍隊に対するエジプト人のゲリラ攻撃が頻発していた。イギリス人兵士が、1952年1月にカイロ通りに絞首刑されて高くに吊るされた。この声明文には「イギリス人の絞首刑」と警告した。エジプトのナセル大統領が、1956年7月にスエズ運河国有化を宣言した。イギリスがフランスとイスラエルの協同で出兵しエジプトに侵攻した。スエズ運河をめぐるイギリス軍とエジプト軍の対立は、パレスチナ問題と結びつき中東戦争を拡大させた。10月30日にアメリカは安全保障理事会の緊急会合開催を要請、イスラエルの撤兵を求める決議案を提出した。翌31日に1950年の「平和のための結集」決議を利用し、停戦・撤兵決議案を提出し採択した。イギリスとフランスとイスラエルは国際的に孤立して撤退した。




2018年5月20日日曜日

アメリカ軍の空爆と内乱で、アフガニスタンの農村部は疲弊して、水と食糧が不足して弱者の子供らが大量に犠牲となり死亡した。

アフガニスタンで、ソ連が1989年に侵略から撤退した後に、1992年のムジャヒディン勢力が無差別な内戦を激化して、無政府状態に陥った。農村部の代表勢力であったタリバン(イスラム神学生)政権が1994年に突如に成立して内乱を制圧した。そのアフガンを混乱させたビンラディンに対して、タリバンは巻き込まれ、2001年からアメリカ軍は理不尽な空爆と侵攻をした。動乱と標的に残されたのは貧民層と崩壊した農村部から流入した飢餓難民であった。シリアやイラクでの過激派組織「イスラム国(IS)」の戦闘が峠を越し、アフガニスタンを占領するアメリカ軍は、2018年2月から空爆による掃討を強化した。内乱と空爆によって、農村部は疲弊して、水と食糧が不足して栄養失調となった弱者である子供らが大量に犠牲になり死亡した。




2018年5月19日土曜日

強制的にペルシャ改革のために、ペルシャ人の囚人を足を丸太に縛って、公開にて拷問して虐待しながら処刑した。

ペルシャ人の囚人を足を丸太に縛って、公開にて拷問して虐待しながら処刑した。パフラヴィー王朝の1代目は、強制的なペルシャの変革を、1934年からイランに国名を変更することを含めて、しばしば厳罰的な処刑によって強要した。 イスラム教会も砲撃することを命じて、イランをイスラム教徒の聖職者が支配する教育制度と法制度を攻撃して廃止しようとした。2代目のモハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)は1979年1月16日までパフラヴィー朝イランの最後の2代目皇帝となった。「白色革命」を推進して、イランの近代化を進めた。フランスに亡命していたルーホッラー・ホメテニーが引導するイラン革命で失脚して脱国した。ホメイニーは、2月11日にイスラム革命評議会を唯一の政権として、4月1日に「イラン・イスラム共和国」の樹立をして独裁者となった。1980年から死去する1989年まで、イラク・イラン戦争を主導した。



2018年5月18日金曜日

連合国が解放した元ナチス・ドイツ人らに強制収容所の悲惨なユダヤ人の虐殺に直面させて死体処理を強制した。

第2次世界大戦が1945年に終結して、連合国により解放されたドイツ軍兵士たちを、ナチス・ドイツの強制収容所における悲惨なユダヤ人の虐殺に直面させた。元ドイツ人市民らを、ベルゲン・ベルゼン強制収容所における死体処理を強制した。1945年4月15日にイギリス軍は無抵抗でベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放した。埋められた囚人の遺体を掘り返しては死体を処置した。イギリス軍が収容所を解放した4月15日から6月20日にも1万5000人もの囚人が死亡した。ナチス・ドイツの親衛隊が解放直前に書類などを焼却処分して、正式な犠牲者数は不明である。解放直前の数カ月だけで約5万人に達して、収容所開設から約17万人以上が虐殺されたと推定された。逆に、イスラエル建国前に、ナチスに追われたユダヤ人を締め出すイギリス軍に対して、メナヘム・ベギンは地下組織 「イルグン」でレジスタンスの総指揮をした。1979年には首相として、イスラエルとエジプトとキャンプ・デービットの和平交渉に合意した。



2018年5月17日木曜日

イラクに駐留したアメリカ軍兵士が、軍服を着ていなかったイラク人も敵として無差別に銃殺した。

イラクに駐留したアメリカ軍兵士が、軍服を着ていなかったイラク人も敵として無差別に銃殺した。アメリカ軍の駐留地の通用門の外側にいたイラク人が射殺された。イラク人は、背中にはサッカーのシャツを着て、足はサンダルを履いていた。彼は、身分証明書を保持していなかった。アメリカ軍兵士には、このような連中はだれなのか、どこから来たのかは不明であった。イラク戦争で敗戦した旧イラク軍は、隠した武器でアメリカ軍にレジスタンス攻撃を行った。イラクに侵攻をした占領軍に対して爆弾や自爆テロで攻撃をかけ、身分を隠したレジスタンス反抗のために阻止が困難であるために、無差別攻撃に巻き込まれて双方に大量の犠牲者が出た。開戦した2003年3月20日から撤退した2011月12月14日まで内乱となり、2014年6月29日にはイスラム独裁国(ISIS)が勃発した。




2018年5月16日水曜日

カンボジアのプノンペンにて、クメール・ルージュによる無差別の砲撃で、母子含め膨大な市民が犠牲者になった。

ポル・ポトに先導された共産主義勢力であるクメール・ルージュは、1970年代の初頭から、カンボジアの軍事クーデーによるロン・ノル政権は弱体化して侵攻された。カンボジアでの共産主義化は、ベトナム戦争による北ベトナムの共産主義化に影響を受けた。アメリカ軍が1973年の半年間に、カンポジア全域に539,126トンも無差別に空爆した。空爆等による膨大な市民の虐殺と困窮により、逆にクメール・ルージュは地域を占領し勢力は強化された。ベトナムでは北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線が、南ベトナムの首都であったサイゴンでの攻防で勝利して、アメリカ軍が撤退した。カンボジアの首都であるプノンペンに向けて、クメール・ルージュによる無差別のロケット砲撃により、母子も含め多数の市民が犠牲者になった。クメール・ルージュのゲリラは、約1年もの間に首都のプノンペンへ砲撃を続けた。1975年4月17日に、クメール・ルージュによりプノンペンは陥落した。逆にポル・ポト政権は、1979年1月7日にベトナム軍とカンボジア救国統一戦線により陥落するまでに、総人口800万のうち約200万以上の市民を虐殺した。







2018年5月15日火曜日

戦艦武蔵の乗組員の約2,400人が、撃沈時には1,000人以上も太平洋にむなしく戦死した。

太平洋戦争末期、戦艦武蔵はフィリピンのレイテ島に侵攻するアメリカ軍と戦闘するため、戦艦大和と出撃した。三菱重工業の長崎造船所で大和の二番艦として建造された武蔵は、アメリカ軍の爆撃機による1944年10月24日午前10時頃からの猛攻撃で、1944年10月24日午後7時35分にシブヤン海上で沈没した。武蔵の転覆と同時に積載した爆薬で2回大爆発して大破した。戦艦武蔵の乗組員は主に10代から20代の若者で約2,400人が乗船していた。撃沈時には1,000人以上も太平洋にむなしく戦死した。その上に沈没時に救助された乗組員は、直ちにフィリピン・ルソン島の戦闘に送還されて、アメリカ軍と激戦に投入された。陸上戦に投入された武蔵の生存者約430人のうち、生き残ったのは50人に満たない。2015年3月に、フィリピン沖1,200mの深海で眠り続けてきた武蔵が発見された。




2018年5月14日月曜日

南ベトナム人の農民らが、ナパーム弾の炸裂で死亡した母子の側でしゃがみ込み、重度の火傷を負った少女を抱えた。

北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線は、南ベトナム軍とアメリカ軍に対する1968年1月にテト攻勢で戦局が変化した。特にベトナム中部の都市のダナン市外では、激しく無差別に攻略された。幼い南ベトナム人の農民らが、ナパーム弾の炸裂で死亡した1人の母親と1人の子どもの側で、悲嘆に暮れてしゃがみこんだ。その隣の婦人は、泣きながらナパーム弾で激しい重度の火傷を負った少女を抱えていた。アメリカ軍と南ベトナム軍は、ジェリー状のガソリン混合物であるナパーム弾を、射程にしたベトコンの拠点に投下して炸裂させた。アメリカの局面的戦略の撤退に繋がり、アメリカは1968年5月からパリ和平会議の出席から、1975年4月30日のベトナム南部の完全解放・祖国統一に繋がった。



2018年5月13日日曜日

イラク・イラン戦争にて、虐殺したイラク軍兵士の死体が砂漠に散在するも、イラン軍兵士も膨大な犠牲を受けた。

イラン・イラク戦争は、ルーホーラー・ホメーニーによるイラン革命直後に、サダム・フセイン独裁下のイラクとが1980年9月から1988年9月の長期間にわたり戦闘した。イスラム教の宗派対立(イランのシーア派とイラクのスンニ派)さらにペルシャ湾の石油資源をめぐる対立が要因になった。緒戦はイラクが優勢であったが、シリアがイランを支援して石油パイプラインを閉鎖した。イラクは劣勢に陥り、イラン軍が国境を越えてバスラに迫った。アメリカとアフガン侵攻のソ連はイラクに軍事援助を行ってフセイン独裁政権を強化した。イラクがペルシア湾のイラン原油積出港のカーグ島などを空爆して、国連の停戦調停で終結した。イラク・イラン戦争にて、虐殺したイラク軍兵士の死体が散在した。ホメーニシの聖戦は、長引く戦争と経済疲弊さらに約100万人以上ものイラン兵士の戦死傷により、頓挫した。




2018年5月12日土曜日

第4次中東戦争でによりゴラン高原にてシリア軍兵士の死体が、破壊された戦車の側に遺棄された。

第4次中東戦争が、ユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール」(贖罪の日: Yom Kippur)である1973年10月6日に勃発した。エジプト・シリア両軍は、第3次中東戦争でイスラエル軍が占領したスエズ運河とゴラン高原を奇襲した。ゴラン高原にてシリア軍兵士の死体が、破壊された戦車の側に遺棄された。アメリカ軍の仲裁等を伴って10月24日に国際連合の停戦決議が成立した。イスラエル不敗の神話が崩壊して、エジプトは1979年に平和条約を締結し、1982年にシナイ半島はエジプトに返還された。ゴラン高原はイスラエルが一方的に併合した。戦争中のアラブ石油輸出国機構(OAPEC)の石油禁輸措置による第1次オイルショックで世界経済を低迷に陥った。シリアのハーフィズ=アサドは軍事クーデターで、1971年から大統領となり、多数派のスン二派の独裁的権力を獲得した。第4次中東戦争はゴラン高原の奪回は不可であったが、1975年からレバノンを侵攻した。2000年に死去して、息子のバッシャール=アサドが世襲で現大統領となった。




2018年5月11日金曜日

ベトナム戦争で、イア・ドラン渓谷にて、ヘリコプターで派遣されたアメリカ軍兵士らが、戦死者の死体を抱えながら回収した。

1964年8月2日のトンキン湾事件からアメリカ軍はベトナム戦争に突入して、当初は年内にベトナムを平定する戦略であった。しかし、北ベトナム軍は、カンボジア領からベトナム中部高原に侵攻、海岸部も一部占領して南ベトナムを中央で分断した。1965年1月の旧正月(テト)末までに、北ベトナム軍と解放戦線は沿岸部の一部も占領した。3月にはダナン空港基地が、解放戦線の攻撃を何度も受け、各地で散発的な戦闘が発生した。7月には中央高原で北ベトナム正規軍と最初の大規模な戦闘が9月まで続いた。中央高原のイア・ドラン(Ia Drang)渓谷に撤退していた北ベトナム軍が、1965年11月14日から11月18日までアメリカ軍を総攻撃した。ベトナム軍兵士は約1,519人が戦死して、アメリカ軍兵士も305人が戦死して、大規模な犠牲者を出した。イア・ドラン渓谷で、ヘリコプターで派遣されたアメリカ軍兵士らが、戦死者の死体を抱えながら回収した。



2018年5月10日木曜日

東京大空襲で、路上や水路などには焼死した膨大な死体が散在して、民間市民らは惨状に目をそむけながら通行した。

太平洋戦争の末期に、アメリカ空軍は1945年3月10日に東京大空襲を遂行した。真夜中の午前12時8分に東京深川本町2丁目の第1発から約2時間にわたり、296機のB29から約1,700トン、約100万発もの焼夷弾などを無差別に落下した。東京大空襲空を受けた地域は完全に燃え尽きた。東京の民間市民の焼死者は約10万人、戦災者は約100万人にも達した。3月10日の東京大空襲による犠牲者数は、広島原子爆弾の約14万人に次いだ。東京の下町は、木造家屋が密集して、北風を伴った火事嵐が襲って、周辺の市民も建物も燃え尽くした。路上や水路などには焼死した膨大な死体が散在して、民間市民らは惨状に目をそむけながら通行した。



2018年5月9日水曜日

バルカン半島にてナチス・ドイツ軍兵士は、ユダヤ系市民を無差別に拳銃で公開して処刑により虐殺した。

ナチス・ドイツ軍は、1941年4月からバルカン半島を南下してユーゴスラヴィアに侵攻し、同盟したルーマニアやブルガリア軍も参戦して、直ちに占領した。同時にイタリアの要請からギリシアにも侵攻し、ギリシア軍は降伏して、イギリス軍はクレタ島からアレキサンドリアまで敗退した。ドイツ軍はバルカン半島全域と、アドリア海、イオニア海まで占領した。1942年1月20日に正式にユダヤ人絶滅がドイツ帝国の国家戦略となった。アドルフ・ヒトラー総督の側近として、ハインリッヒ・ヒムラー長官は、ナチズムの思想と規範を、支配したドイツ軍の親衛隊や秘密警察(ゲシュタポ)に強制した。1942年からドイツ軍が無差別の市民虐殺からユダヤ人を大量虐殺して絶滅するホロコーストを指揮した。バルカン半島にてドイツ軍兵士は、ユダヤ系市民を無差別に拳銃で公開して処刑により虐殺した。


2018年5月9日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 110,000回

2018年5月8日火曜日

済南事件により、中国の国民革命軍により、日本人も市民を含めて無差別に虐殺された。

日本政府は蒋介石の国民革命軍の北伐が侵攻するため、日本国民の邦人保護を名目に第2次山東出兵を行った。山東省の済南に、日本軍は占領した。1928年5月3日から11日にかけて、両軍の戦闘が勃発して、日本軍は23名、中国側の国民革命軍は約1,000名の戦死者を出した。日本軍は、国民革命軍に謝罪を求めるも、容れられないと中国人を無差別に兵士と市民を含めて虐殺した。中国の国民革命軍は「済南惨案」として、中国人側は憤激するも、蒋介石は日本軍との前面衝突を避けて、済南を迂回して、北京を目指した。済南城を占領した日本軍は、1923年3月末の和平交渉して、5月末に済南を撤退した。日本軍は日本人の保護のために出兵したが、最終的には日本の民間市民12名が死亡して、約50人が負傷した。日本軍は約500人、国民革命軍は死者約3,600人、負傷約1,400人の犠牲者に達した(中国側の発表、日本側と中国側で見解が異なる)。済南事件により、中国の国民革命軍により、日本人も市民を含めて、無差別に虐殺された。済南事件は日清戦争以来の軍事衝突であり、1931年の満州事変から日中戦争の起点となった。



2018年5月7日月曜日

朝鮮戦争にて、韓国南西部の全羅道で、韓国軍が朝鮮人のゲリラの死体を、棒に吊るして廃棄した。

朝鮮戦争にて、韓国南西部の全羅道で、韓国軍が朝鮮人のゲリラの死体を、棒に吊るして廃棄した。韓国軍は、1950年10月19日から中国が参戦した頃から、次第に戦闘するだけでなく、虐殺も始めた。北朝鮮によるゲリラ活動は、1951年1月に絶頂に拡大して活発化した。それに対抗して、韓国軍は大量虐殺として、1951年9月に韓国南部の居昌の市民を溝に追い込み、無差別に約600人を機関銃で虐殺したことが周知された。韓国軍とアメリカ軍はゲリラに対する「ねずみ退治作戦」で、1951年に数千人を虐殺したが、一掃することは不可能であった。1952年12月「ライフ雑誌」に女性写真家のマーガレット・バーク=ホワイトが「朝鮮における野蛮な秘密戦争」を公表した。