2018年3月12日月曜日

ルーマニアの食糧難と困窮から孤児が約20万人も発生し、極度の栄養失調にエイズウイルスの輸血されて多くは感染した。

ルーマニアでは、ニコライ・チャウシェスク政権が1965年3月19日に発足して、独裁政権となった。国家財政の破綻による経済低迷による飢餓輸出から貧困を伴った。1966年から人口政策で、出産奨励と中絶禁止政策による人口増加に対して、食糧難と困窮から捨て子が約20万人も発生した。その孤児は施設に収容されるも、極度の栄養失調に陥った。その孤児に処置として輸血されるも、エイズウイルスが混入して感染した。一般市民の生活を虐待と虐殺する政権となり、ソ連のペレストロイカの波及によるルーマニア革命にて1989年12月25日にニコライ・チャウシェスク大統領夫妻は銃殺された。1999年9月時点で約4,308人の感染した幼児、エイズ発症して子供が約5,179名にも達した。


2018年3月11日日曜日

アメリカ軍は突然にイラク領内を空爆して、防空避難所からも無差別空爆により膨大なイラク人が死亡した。

アメリカ軍は湾岸戦争にて、1991年1月17日から布告もせず突然にイラク領内を空爆した。1991年2月13日にバグダットの2ケ所のアメリア防空壕がアメリカ軍の空襲の砲弾で崩壊した。その防空避難所に子供や女性を含めた無差別空爆により約1,500人のイラク人が死亡した。イラク市民らは死亡したイラク人の遺体を運び出した。多くの遺体は熱症により黒焦げになったり、その他に爆風や窒息などでも死亡した。ほとんど原型を留めない崩壊した死体も多かった。それらのイラク市民の遺体は地上に積み上げて放置され散在していた。


2018年3月10日土曜日

フランス統治下からベトナム戦争ではアメリカと南ベトナムは、島民のいないコンダオ監獄で膨大なベトナム人を虐殺した。

ベトナムから南方約200kmの孤島であるコンダオ島では、フランスが1861年に独立派の政治犯をコンダオ監獄に収容した。フランス統治下から、ベトナム戦争時下はアメリカと南ベトナム(ベトナム共和国)によって、島民のいない流刑地としてベトナム人を虐待していた。その期間、実に113年間にも渡り、約20,000人以上も虐殺された。ベトナム戦争の終結時の1975年5月1日には、7,488人の囚人がコンダオ監獄に勾留されていた。



2018年3月9日金曜日

スペイン内戦でマドリードは砲撃や空爆により廃墟となり、膨大な虐殺されたスペイン市民の死体が市内に放置された。

スペイン内戦の緒戦にて、マドリードの市街地で1936年7月17日に蜂起した反乱軍に対してスペイン市民らは戦い抜きモンターニャ兵舎を包囲して、立て籠もる反乱軍に1936年7月20日に市民らが乱入して双方が虐殺し合った。市民らは銃器や鉄砲などの武器などを獲得して、モラ将軍の反乱軍による首都の制圧を阻止した。 マドリード市内は、その後も絶え間ない反乱軍の猛撃を受けた。マドリードは、激しい砲撃や空爆により、ほとんど廃墟となり、膨大な虐殺されたスペイン市民の死体が市内に放置された。


2018年3月8日木曜日

リトアニアの多くの人々も、ユダヤ人らをユルキシュク監獄などに収容して、パネリアイの森で大量虐殺をした。

第2次世界大戦で1941年6月22日からドイツ軍は、リトアニアを占領して、リトアニア人は洗脳されてユダヤ人虐殺に同調した。リトアニアにおけるユダヤ人の虐殺率は、90%以上にも及んだ。ドイツ軍とリトアニア人で混成した警備隊も集団でユダヤ人を大量虐殺をした。リトアニアには、大量のユダヤ人を虐殺したパネリアイ(Paneriai; リトアニア語)の森があった。リトアニアの多くの人々も、ユダヤ人らをユルキシュク監獄などに収容して、パネリアイの森で大量虐殺をした。射殺されたユダヤ人の死体がパネリアイの森に捨てられた。その当時リトアニアで、危険を冒してまでユダヤ人を救出した723人のリトアニア人や1940年7月18日から9月5日までに2,139人のユダヤ人に査証を発行し続けた杉原千畝は諸国民の中の正義の人と戦後に認証された。




2018年3月7日水曜日

日清戦争で旅順の近郊にて、日本軍は清軍の残兵を掃討するために無差別に虐殺した。

朝鮮半島にて、1894年(甲後)に朝鮮人農民が4月に全土にわたる内乱を起こして、甲後戦争が発生した。それに東学の信者が関与して、東学党の乱と別称される。朝鮮の反乱に対して、清国軍と大日本帝国軍が李王朝の援軍として出兵するも、厳しく対立して日清戦争が7月25日から勃発した。日清戦争にて、日本軍が旅順を11月に侵略した時に、旅順の市内と近郊にて、日本軍が清軍の残兵を掃討するために無差別に虐殺した。



2018年3月6日火曜日

太平洋戦争で、サイパン島の各地には、ほとんど放置された全ての日本軍兵士の死体がるいるいと散在した。

太平洋戦争において、アメリカ艦隊の猛烈な艦砲射撃から援護を受けながら、アメリカ軍は1944年6月15日にマリアナ諸島のサイパン島に上陸した。6月19日には、マリアナ沖の洋上では、6月19日にアメリカ機動部隊により日本機動部隊の航空母艦の9隻のうち3隻が撃沈された。サイパン島の中心地のガラパン町にあった日本軍司令部は、膨大なアメリカ軍の上陸で地獄谷に撤退した。7月3日に日本海軍の守備隊は壊滅して、アメリカ軍はサイパン島をは占領した。7月7日に日本軍は全滅する最後の突撃をして玉砕した。アメリカ軍により、日本軍の守備隊は全滅して、サイパン島の各地に、ほとんど放置された全ての日本軍兵士の死体がるいるいと散在した。



2018年3月5日月曜日

アメリカ南北戦争でスポットシルヴェニアは激戦地となり、南軍は戦死者の死体を埋葬するために長い列に集積した。

アメリカの南北戦争は、1861年から1865年の4年間の内戦が勃発した。第二次世界大戦での約40万人の戦死者を超える約62万人が戦死した。首都ワシントンD.C.の南方で南部連合に属したヴァージニア州内が約6割の主戦場となった。その主戦場内であったスポットシルヴェニアでは1864年5月に激戦地となった。生き残った兵士のために、味方の戦死者は見えないようにして、敵の犠牲者は見えるように放置した。南軍のほとんどの戦死者の死体を、長い列に集積して埋葬した。次第に余裕がなくなり、遺体を回収するのに危険をおかす事は回避されて、放置されて白骨化した。残忍な戦争は生存者だけのものになり、死者は死をもって葬られた。



2018年3月4日日曜日

グアテロマにて軍と自警団は、ダム建設のためリオ・ネグロ村の全女性と子供らは無差別に虐殺した。

グアテロマにてダム建設により水没するリオ・ネグロ村は抵抗運動をした。それを鎮圧するため、1982年3月13日朝6時頃、12名の軍隊と15名のショコク自警団はリオ・ネグロ村に来た。彼らは住民を集め、丘への3kmの道のりを歩かせ、パコショム頂上で、軍と自警団は非武装の女性と子供に拷問して無差別に殺害した。午後5時頃に生き残った18人の子供だけを連行した。虐殺数は山腹に潜伏した男性を除いて在住した177名(女性70名、子供107名)で、非武装の一般市民であった住民数と一致した。リオ・ネグロ村の女性の遺体と首飾りとウィルビルが発掘された。


2018年3月3日土曜日

イラク戦争にて13歳の男子の右眼は失明して全身に鉄の破片も迷入して、重症となった。

イラク北部のキルクークは、約100億バレルもの油田地帯であった。2003年からのイラク戦争にて、アメリカ軍に支援されたクルド人民兵によって占領された。民族浄化のためにに、アラブ人に対する報復の虐殺をした。2007年10月にキルクークの警察署に対してアラブ人による自爆テロ攻撃がされ、10人が死亡し、25人が重軽傷を被った。頻発するテロにより、13歳の男子の右眼は失明して、全身に鉄の破片が約13個も迷入して、テロも受けた病院で包帯された。報復テロで虐殺されるのは、兵士でも警官てもなく、ほとんど一般市民であった。クルド自治政府と争う油田都市キルクークは、2014年10月にイスラム国に、2017年10月にイラク政府軍が占領した。 







2018年3月2日金曜日

プラハ近郊のリディツェ村は、ナチス幹部のの暗殺事件の報復としてドイツ軍は完全に破壊と虐殺と強制収容された。

第二次世界大戦中に、チェコスロバキアのプラハ北西約15kmのリディツェ村は、1942年5月27日のナチス幹部のラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件の報復としてドイツ軍により完全に破壊と虐殺された。親衛隊大将でもあったラインハルト・ハイドリヒは、ユダヤ人や少数民族の絶滅政策の推進者でもあり、プラハの虐殺者として無差別に市民を処刑した。ナチス・ドイツ軍は、暗殺者を隠匿したと断罪されたリディツェ村では、6月10日に成人男性の全員の約192名は虐殺され、その他の全ての約80人の女性や約88人の子供たちは強制収容所などへ送られて虐殺された。



2018年3月1日木曜日

朝鮮戦争でアメリカ軍海兵隊が中国軍からの撤退で戦死した死体をトラックから下ろして埋葬した。


朝鮮戦争で国連軍は1950915日の仁川上陸から朝鮮半島を制圧するため北側に侵略し、北朝鮮軍を中朝国境まで追い込んだ。アメリカ軍は海兵隊第1海兵師団17,000人を北朝鮮の中北部の長津湖に分割配備した。1127日に中朝国境寄りに配備された海兵連隊が、中国軍の夜間奇襲を受けた。124日からアメリカ軍が南下する撤退の途中で中国軍の攻撃により、127日に南方の古土里に達するまでに海兵隊員は約3,000人が戦死した。膨大な戦死した死体を古土里で埋葬するためにトラックから下ろした

 


1950年12月に朝鮮半島における『12月の大撤退』の時に、虐殺されたアメリカ軍兵士の死体は全てが凍りついた写真であった。第2次世界大戦中では、撮影された戦争の真実の写真は、全て発禁不許可であった。朝鮮戦争の頃から、少しづつ写真週刊誌に戦争の真実の写真が掲載され始めた。しかし、上記の撮影写真に対する反対勢力から弾劾により、それ以後はアメリカ軍から再び発禁処分となった。



2018年2月28日水曜日

メキシコオリンピック開催直前にトラテロルコ広場で大規模な学生と市民運動に対して、軍隊や警官は数千発の銃弾で虐殺をした。

メキシコ政府はメキシコシティで1968年10月12日から10月27日までのオリンピックの開催に向けて膨大な支出とそれを不満とする国民を抑圧をしていた。ディアス・オルダス政権は、特にオリンピック開催に向けて反対派のデモなどを1967年7月頃から鎮圧をしていた。北部のトラテロルコ広場にて、1968年10月2日に約1万人に及ぶ大規模で自発的な学生運動と市民グループが集会をした。彼らに対して、軍隊や警官らは数千発の銃弾により悲惨な虐殺をした。300人程度の死者と多数の逮捕者を出した。その多くの遺体は密かに遺棄されてしまい行方不明になって証拠も隠滅された。しかし、メキシコオリンピックは平和の祭典だけでなく、学生や市民らには密かな弾圧の象徴となった。

2018年2月27日火曜日

ロシア軍に虐殺されたチェチェン人の大量の虐殺死体は、チェチェンの首都であるグローズヌイの土嚢に集積されて埋められた。

ロシア軍は、1994年からチェチェンの独立抵抗勢力に対する紛争を繰り返して制圧していた。チェチェンのダチヌイ村などにて、ロシア軍が2001年1月頃から地域市民を掃討してから、抵抗勢力とされたチェチェン人は収容所に拘束してから拷問した上で大量虐殺した。ロシア軍は駐留しているハンカラ基地から約1kmに存在して、1999年末から閉鎖されて廃村になっていたダチヌイ村に遺棄した。ロシア軍により虐殺されたチェチェン人の大量の虐殺死体は、チェチェンの首都であるグローズヌイの土嚢に集積されて埋められた。チェチェン紛争以降にはチェチェ人による2002年モスクワ劇場事件や2004年のべスラン学校事件などテロリズムが過激化してきた。



2018年2月26日月曜日

アメリカ軍のクラスター爆弾などで、両足を失った幼い少年が、アフガニスタンの市内を這いながら物乞いをした。


アフガニスタン紛争により、2001年10月7日からアメリカ軍らは空爆を開始した。アメリカ軍がカブール空港に投下した爆弾が炸裂した。その破片が、約1kmも離れた市民の家を突き刺した。自宅にいた子供の下肢を貫き、大量の出血とともに下腿が吹き飛んだ。彼の断端の創部も、アフガニスタンでは治療もできずに放置された。そのために義肢を装着すると激痛などで使用が不可能になった。アメリカ軍のクラスター爆弾などで、両足を失った幼い少年が、2003823日にカブール市内を這いながら生きるために物乞いをよく見かけた。2011年9月11日の同時多発テロから、アメリカ軍には史上最長のアフガニスタン紛争に終結が見込めていない。