戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年3月1日木曜日
2018年2月28日水曜日
メキシコオリンピック開催直前にトラテロルコ広場で大規模な学生と市民運動に対して、軍隊や警官は数千発の銃弾で虐殺をした。
メキシコ政府はメキシコシティで1968年10月12日から10月27日までのオリンピックの開催に向けて膨大な支出とそれを不満とする国民を抑圧をしていた。ディアス・オルダス政権は、特にオリンピック開催に向けて反対派のデモなどを1967年7月頃から鎮圧をしていた。北部のトラテロルコ広場にて、1968年10月2日に約1万人に及ぶ大規模で自発的な学生運動と市民グループが集会をした。彼らに対して、軍隊や警官らは数千発の銃弾により悲惨な虐殺をした。300人程度の死者と多数の逮捕者を出した。その多くの遺体は密かに遺棄されてしまい行方不明になって証拠も隠滅された。しかし、メキシコオリンピックは平和の祭典だけでなく、学生や市民らには密かな弾圧の象徴となった。
2018年2月27日火曜日
ロシア軍に虐殺されたチェチェン人の大量の虐殺死体は、チェチェンの首都であるグローズヌイの土嚢に集積されて埋められた。
ロシア軍は、1994年からチェチェンの独立抵抗勢力に対する紛争を繰り返して制圧していた。チェチェンのダチヌイ村などにて、ロシア軍が2001年1月頃から地域市民を掃討してから、抵抗勢力とされたチェチェン人は収容所に拘束してから拷問した上で大量虐殺した。ロシア軍は駐留しているハンカラ基地から約1kmに存在して、1999年末から閉鎖されて廃村になっていたダチヌイ村に遺棄した。ロシア軍により虐殺されたチェチェン人の大量の虐殺死体は、チェチェンの首都であるグローズヌイの土嚢に集積されて埋められた。チェチェン紛争以降にはチェチェ人による2002年モスクワ劇場事件や2004年のべスラン学校事件などテロリズムが過激化してきた。
2018年2月26日月曜日
アメリカ軍のクラスター爆弾などで、両足を失った幼い少年が、アフガニスタンの市内を這いながら物乞いをした。
アフガニスタン紛争により、2001年10月7日からアメリカ軍らは空爆を開始した。アメリカ軍がカブール空港に投下した爆弾が炸裂した。その破片が、約1kmも離れた市民の家を突き刺した。自宅にいた子供の下肢を貫き、大量の出血とともに下腿が吹き飛んだ。彼の断端の創部も、アフガニスタンでは治療もできずに放置された。そのために義肢を装着すると激痛などで使用が不可能になった。アメリカ軍のクラスター爆弾などで、両足を失った幼い少年が、2003年8月23日にカブール市内を這いながら生きるために物乞いをよく見かけた。2011年9月11日の同時多発テロから、アメリカ軍には史上最長のアフガニスタン紛争に終結が見込めていない。
2018年2月25日日曜日
2018年2月24日土曜日
2018年2月23日金曜日
南ベトナム軍は解放戦線のテト攻勢後に、北ベトナム軍のアジトを襲撃して銃殺した。
ベトナムの共産化主義化を阻止する口実でアメリカは1964年8月のトンキン湾事件から本格的に軍事介入して南ベトナム軍を支援した。1965年2月から北爆を行って地上軍を投入し、北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線との戦闘が勃発した。戦争は長期化したが、1968年1月からの北ベトナム解放戦線によるテト攻勢から南ベトナム軍とアメリカ軍が劣勢となり、1973年1月からアメリカ軍は撤退し始めた。1975年4月には南ベトナム政府の首都サイゴンが陥落し、北ベトナムによるベトナム統一が行われ完全に終結した。テト攻勢で急襲を受けた南ベトナム軍とアメリカ軍は、混乱状態に陥ったものの、体勢を立て直し反撃を開始した。解放民族戦線は壊滅状態に陥り、南ベトナム軍は解放戦線の北ベトナム軍のアジトを襲撃して銃殺した。
2018年2月22日木曜日
韓国軍憲兵により、慶尚北道市民は共匪の大邱附逆者として土豪の中で集団銃殺された。
朝鮮戦争は1950年6月25日から緒戦で北朝鮮の人民軍が突如に急南下した。撤退していた地域の韓国軍は、1951年2月頃から残留していた市民の中のパルチザンの完全な抹殺と地域の焦土化を展開した。韓国軍は市民を包囲しては、村落を焼き尽くし、無差別に共匪とした市民に向かって子供・女性・老人を含めて集団銃殺や刺殺をした。アメリカ軍も、無差別な空襲と機銃掃射の虐殺を繰り返した。李承晩政権は共匪を軍法会議に委ねた虐殺として隠蔽した。1951年4月に、ヘルメットの韓国軍憲兵により、慶尚北道の市民は共匪の大邱附逆者として土豪の中で集団銃殺された。朝鮮戦争の前後の大量虐殺は、完全に隠ぺいされ、北朝鮮人民軍の虐殺のみが強調された。
2018年2月20日火曜日
2018年2月19日月曜日
2018年2月18日日曜日
2018年2月17日土曜日
2018年2月16日金曜日
ラオスに駐留していたベトナム軍が無差別にモン族に復讐するために掃討して無差別な虐殺をした。
ベトナム戦争において、アメリカ軍は北ベトナムの補給ルートがあるラオスに対し1965年からラオスに膨大な空爆をした。アメリカのCIAは、共産主義政権となったラオス愛国戦線に対して、バン・パオ将軍に指揮される山岳地帯のモン族に戦闘をさせた。アメリカ軍が全面撤退して、南ベトナムが1975年4月30日に消滅した。そのためモン族は、ラオスから悲惨な陸地系難民として無差別に膨大なモン族は虐殺されながら逃避した。ラオス愛国戦線は、アメリカ軍に加担したモン族を復讐として絶滅する攻撃をした。ラオスのフレスノにて、1998年12月27日にもラオスに駐留していたベトナム軍が無差別にモン族に復讐するために掃討して無差別な虐殺をした。
2018年2月15日木曜日
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