人種隔離政策であるアパルトヘイトを強制するために、南アフメカ政府は1952年のパス法で18歳以上のアフリカ系黒人に身分証の携帯を義務化した。パン・アフリカニスト(PAC)は、1960年3月21日にトランスバール州ヨハネスブルグ付近のシャープビルで抗議活動をした。警察官は、身分証明書を持たずに警察署の前で抗議するPACに対して、警察隊は装甲車を配備して、黒人市民を虐殺した。69人が死亡して、200人弱が負傷した。ますますアフリカ系黒人の抗議や暴動が頻発した。ネルソン・マンデラも、対抗する武装闘争をして反逆罪で1964年に終身刑となり27年間の投獄後に、1994年の全人種参加選挙で大統領となった。
太平洋戦争の本土決戦の緒戦となった沖縄戦では、アメリカ軍は1945年4月1日に沖縄本島に無血上陸した。大量の物資を駆使して、砲撃しながら岩盤を砕き切り崩した侵攻路を、まずは戦車隊が突進して、歩兵部隊が追尾した。上陸して2日目には、沖縄本島を横断して、北部と南部に分断した。緒戦から非常に不利な日本軍兵士を、戦車から砲撃と射撃しながら死滅させた。その後を膨大なアメリカ軍の歩兵隊員が、散乱している日本軍兵士の死体の側を、迅速に走りながら激しく沖縄本島を侵略した。
沖縄では、中学校学徒の動員による軍隊編成は1944年12月から実施された。男子生徒には戦闘に、女子生徒は看護で軍隊に所属した。1945年3月24日から男子は「鉄血勤皇隊」に、女子は学徒看護婦に配属された。県立第一高等女学校200名と師範学校女子部122名は共同従軍して、最期の摩文仁にて6月20日にアメリカ軍のガス弾で、多くの少女らは家族を叫びながら絶命した。残存した少女の班は脱出の時に砲弾で虐殺され、断崖に追い込まれ捕虜を拒絶して自決した。各部隊は86名、122名が若き犠牲の死体となり、校友会誌「しらゆり」「おとひめ」から「ひめゆり部隊」と呼称された。
沖縄戦において、1945年5月22日に首里から撤退した摩文仁(まぶに)の第32軍の洞窟司令部で、6月23日に司令官、参謀長、経理部主計大佐、高級副官、中佐以下、多数の日本軍兵士が自決した。アメリカ軍兵士が、その洞窟司令部の内部で検死をした。摩文仁は、陸軍第32軍の最後の砦となった。この地ではアメリカ軍に対する日本軍兵士との死闘など、沖縄では太平洋戦争の終局の悲劇が繰り返して散乱した。沖縄県糸満市にある「平和の広場」が摩文仁の遺跡として整備された。
太平洋戦争にて、ガダルカナル島で1942年8月7日から1943年2月まで、日本軍と連合国の戦闘があった。日本軍の仙台で設置された第2師団が10月3日に西北のタサファロング海岸から上陸するも、すでに死臭のする死の島に変貌した。食料の補給が困難となる餓島となり、日本軍兵士の膨大な死体や白骨が散乱していた。内陸部に向かうアメリカ軍兵士によって、日本軍の前線司令所で、5人が戦死していた。その死体には蝿が群がって腐敗していた。
シリア内戦は、2011年3月15日から勃発したアサド政権軍と反政府軍の戦闘が勃発して、国際的な内戦として戦闘が継続していたる。2014年4月5日にドゥーマにおいて政府軍と自由シリア軍と交戦した。戦闘地域と非戦闘地域とが混在して、銃声が断続に強烈に響いていた。略奪から放火もされて、路上には破片や薬莢が散らばった。19歳のソルナータが通りの軒下を歩いているだけで、監視している政府軍の狙撃兵に銃殺された。鮮血に染まった死体をお棺に納められた。屋外では、お棺の死体を担ぐ群衆は、殉教者として次々に墓地に埋葬された。
ニジェール共和国は、サハラ砂漠の南側で、内戦が頻発する地帯にある。連続する軍事クーデターにより、1974年4月にはクンチェ軍事政権が、1996年1月にはマイナサラ軍事政権が、2010年2月にはジボ軍事政権が樹立して、世界でも最貧国となった。軍部のママドゥ政権下で、2004年の大雨で2003年から2005年にサバクトビバッタが大量発生と、2005年から2006年にニジュール食料危機が、2007年にはトゥアグレ人が反政府の武装闘争を展開した。2005年9月に難民キャンプで、無残に肋骨と骸骨が細った幼児らが瀕死の栄養失調で餓死に陥った。長期の下痢と嘔吐が継続して摂食が不可となった。生き残れず神のおほしめしのままになった。
明治政府は、1871年2月に薩摩藩・長州藩・土佐藩の武士による御親兵が組織された。しかし旧薩摩藩の反乱である西南戦争などに対抗するため、中央政府は独自の強大な兵力の整備を求めて、1873年1月10日に徴兵令を施行した。地租改正による定率の金納と長男相続制度から、戸主に代わる総てを兵役の対象として徴兵した。市民のような平民階級に課せられた賦役となり、次第に近代的な大衆軍隊を構成した。徴兵検査を受ける義務があった装丁となり、軍役を課せられる20歳以上の日本人男子が初めて集合した。
アメリカ軍は、イラク戦争の2003年5月2日の終結宣言後の7月25日に、その後に死刑になった故フセイン大統領の息子2人(長男左にウダイ、次男右にクサイ)の死体をAP通信社から公表した。戦闘により虐殺された衝撃的な残酷な死体であったが、アメリカ軍の死体や捕虜の一切は未公表であった。アメリカ軍の治安悪化の隠蔽と功績、イラク市民の混乱などを象徴させた。大部分のマスコミは死体に対する尊厳と冒涜として自粛して隠蔽するも、日本では毎日新聞が「国民に死亡確認させる狙い」と、2003年7月25日朝刊に2.5段組で掲載した。無修正の残酷な真実が、ベトナム戦争からイラク戦争、内戦干渉に対して、アメリカ軍の撤退と厭戦へと導いた。
イラク紛争により首都のバグダッドのアルウイア病院では、劣化ウラン爆弾からの残留放射能による多数個の無脳症の新生児が出産された。出産には最悪の障害を伴う無脳児となり、近日中に死亡に至った。アメリカ軍は、原子力発電所の廃棄物でもある劣化ウラン弾をイラク紛争で使用した。イラク紛争後も、放射能による遺伝子の影響で、先天性障害だけでなく白血病など悪性腫瘍も増加した。アメリカ軍は1991年の湾岸戦争と2003年のイラク戦から、ボスニア・コソボ紛争からアフガニスタン紛争に、さらに2015年にはイスラム国にも劣化ウラン弾が使用された。しかし、アメリカ政府から世界保健機関(WHO)までもが、劣化ウラン弾の後遺症を否定している。
中国の一般市民を含めた学生が、1989年4月より独裁から民主化を求めて集会をした。5月にソビエトのペレストロイカの民主化に影響を受け、次第に集会が拡大して、国内にも波及した。それに対抗するために6月の第一日曜日に軍隊が学生らを無差別に武力弾圧をした。民主化の支持者らを連行して、報道統制して厳格に統制をした。大量の犠牲者の内容は不詳となった。
沖縄戦にて、海岸で日本軍兵士が1945年5月に銃殺された。2名のアメリカ軍兵士がタバコをくわえながら、その死体を眺めて見下ろしていた。沖縄戦は、1945年3月26日から6月23日に終結した。アメリカ軍の圧倒的な火力で、日本軍は5月27日に首里司令部を撤退して、6月23日に摩文仁の軍司令部が崩壊して消滅した。日米の膨大な犠牲により、太平洋戦争が終結に向けて始動した。
日中戦争の終結後の1946年1月には、アメリカの斡旋で、戦勝した国民党が中国共産党、中国民主同盟などと政治協商会議で平和建国を決議した。しかし、東北問題の競合から国民党内で3月に反対を決議して内戦の気運が高まった。1946年7月11日に中国民主同盟の李公朴は、中国の昆明で白昼に国民党の特務警察に暗殺されて死体が公表された。李公朴は1927年の国共分裂時に国民党を離党していた。さらに15日には聞一多を銃殺した。国民党の内戦政策と流血事件に対して、アメリカの斡旋が不利な状況に追い込まれた。
フィリピンのルソン島にて、日本軍は1942年4月9日から3日間以上にわたり、バターン死の行進を捕虜のアメリカ軍とフィリピン軍兵士に強要した。歩行困難となった同志をアメリカ軍兵士が、簡素な担架に乗せて、2人の肩に担いで長い行列を行進した。日本軍がルソン島に設けたオドンネル強制収容所にたどり着き、先方には外柵が見えた。強制収容所では栄養失調から感染症で死亡し、虐待でも多数のアメリカ軍とフィリピン軍兵士が虐殺された。
中国の清国にて、1911年から12年にかけて共和国である中華民国に至る辛亥革命が勃発した。武装蜂起に対して、清国軍隊は武漢の漢口等において、革命の関係者を逮捕して捕虜とした。捕虜となった多数の革命の関係者らは斬首等で虐殺された。武漢の漢口地区の租界に居住していた欧州人が、その虐殺の実態を視察した。その直後の10月11日には、清国の新式陸軍の内部にて革命同調者が武漢の武昌地域を占領して、辛亥革命が勃発した。