沖縄戦にて、海岸で日本軍兵士が1945年5月に銃殺された。2名のアメリカ軍兵士がタバコをくわえながら、その死体を眺めて見下ろしていた。沖縄戦は、1945年3月26日から6月23日に終結した。アメリカ軍の圧倒的な火力で、日本軍は5月27日に首里司令部を撤退して、6月23日に摩文仁の軍司令部が崩壊して消滅した。日米の膨大な犠牲により、太平洋戦争が終結に向けて始動した。
日中戦争の終結後の1946年1月には、アメリカの斡旋で、戦勝した国民党が中国共産党、中国民主同盟などと政治協商会議で平和建国を決議した。しかし、東北問題の競合から国民党内で3月に反対を決議して内戦の気運が高まった。1946年7月11日に中国民主同盟の李公朴は、中国の昆明で白昼に国民党の特務警察に暗殺されて死体が公表された。李公朴は1927年の国共分裂時に国民党を離党していた。さらに15日には聞一多を銃殺した。国民党の内戦政策と流血事件に対して、アメリカの斡旋が不利な状況に追い込まれた。
フィリピンのルソン島にて、日本軍は1942年4月9日から3日間以上にわたり、バターン死の行進を捕虜のアメリカ軍とフィリピン軍兵士に強要した。歩行困難となった同志をアメリカ軍兵士が、簡素な担架に乗せて、2人の肩に担いで長い行列を行進した。日本軍がルソン島に設けたオドンネル強制収容所にたどり着き、先方には外柵が見えた。強制収容所では栄養失調から感染症で死亡し、虐待でも多数のアメリカ軍とフィリピン軍兵士が虐殺された。
中国の清国にて、1911年から12年にかけて共和国である中華民国に至る辛亥革命が勃発した。武装蜂起に対して、清国軍隊は武漢の漢口等において、革命の関係者を逮捕して捕虜とした。捕虜となった多数の革命の関係者らは斬首等で虐殺された。武漢の漢口地区の租界に居住していた欧州人が、その虐殺の実態を視察した。その直後の10月11日には、清国の新式陸軍の内部にて革命同調者が武漢の武昌地域を占領して、辛亥革命が勃発した。
太平洋戦争のニューギニア島にてアメリカとオーストラリア軍と日本軍が1942年3月7日から戦闘した。北部のポエキンの村から東の密林にて、日本軍兵士が死亡した白骨の胴体から分離した頭蓋骨が土中に放置されていた。悲劇に死亡した際は歯を食いしばりつつあった。大多数の日本軍兵士は、感染症と飢餓による栄養失調で死亡した。日本軍兵士には、終戦まで引き揚げ命令もなく、約9割が死亡した。
ロシア軍の特殊部隊が、1995年3月にチェチェンのサマーシ近郊に突撃して、市民の約300名を無差別に殺害した。1995年4月にはチェチェンのグローズヌイにて、市民を含めて無差別攻撃をした。集積された約900の死体が土豪に放置された。遺族らは、これらの死体をかきわけては行方不明の家族を探していた。離脱と独立を目指すチェチェン自治共和国と阻止するロシア連邦軍とのチェチェン紛争が1994年12月11日から2009年4月15日まで勃発して膨大な犠牲者が出てからも、その後もテロリズム事件が継続した。
日清戦争において、日本軍は1984年10月24日に清国内の遼東半島の花園口に上陸した。11月6日には清国の大連付近の金州城を占領した。金州城は高家窟の南方の丘上に多数の虐殺された清国兵士の死体が畑の中に散在した。金州から旅順に到る所で、日本軍は清軍敗残兵を掃討するために虐殺を繰り返した。11月21日には旅順口の要塞を占拠して、日本軍が仇討ちとして中国人兵士から市民に至る4日間に及ぶ大量殺人の旅順虐殺事件が勃発した。
第2次世界大戦の東部戦線からソ連軍から1945年4月16日からベルリン総攻撃をした。ナチス・ドイツ軍によりロシアを蹂躙されたソ連軍は、22日にベルリン市内に侵攻して復讐として虐殺と蛮行に至った。平地で逃げ場のないベルリン市内でドイツ軍兵士や市民らが虐殺された死体が散在し、膨大な犠牲者が出た。4月30日にヒトラーは自殺して、ソ連ン軍は国会議事堂の頂上に占領した赤旗を掲げ、5月2日にドイツは無条件に全面降伏した。
アフガニスタン人の家族はザブール州のカラート郊外の広大な山地で羊の放牧をしていた。2009年10月6日の深夜に就寝した時に、アメリカ軍の爆撃機が不審なテントをタリバンの拠点として爆撃した。砲弾によりテントは一瞬にして燃え上がった。父親が必死で大火傷した娘らを救出した。アメリカ軍の空軍は誤爆として、カンダハールまで彼らを空輸して去った。自力で病院に駆け込むも重度の火傷のまま耐え忍んだ。10月9日にノーベル平和賞のバラク・オバマ大統領は、アメリカ軍に追加派兵で約10万人規模にした。
日中戦争にて、日本軍の侵攻により、南京城内の国民党軍の中国人兵士が1937年12月12日午後から撤退し始めた。11日からの撤退命令が届かずに散乱して敗走した。唯一の脱出路となった船着場の下関に向かうも、不法脱出として同士撃ちともなった。日本軍は13日に城内に入り侵攻した。南京城内には、日本軍に撃滅された多数の中国人兵士と市民の死体が散乱した。南京戦における双方の犠牲者の詳細な史料は残されず裁判と論争となった。
太平洋戦争のニューギニアの戦いにて、アメリカ連合軍はギルワナの戦場で日本軍を追い込んだ。日本軍は緒戦のバザブアとブナでは全滅した。日本軍兵士が1943年1月12日にギルワ地域から撤退して脱出するために、アメリカ連合軍の橋頭堡を強奪を試みた。しかし、強奪できずに失敗して、銃殺されて死体は浮かびながら太平洋にも流れた。
日本軍は朝鮮半島をめぐり、ロシア軍と1905年2月8日から1904年9月5日まで日露戦争が勃発して権益を支配した。日本軍は、朝鮮半島から京釜鉄道の用地を略奪して、その鉄道の敷設や電信線を妨害した朝鮮人を銃殺した。「武威半島を圧す 鉄道線路妨害者の死刑執行」日本人の支配により朝鮮人が完全に被支配されて銃殺刑にされた。緒戦では韓国・清国を防御するとした日露戦争が、進展するほど逆に両国の支配権を一方的に拡大した。
インドネシアのジャカルタで1898年5月12日の学生運動に対して、スハルト政権の政府軍兵士がトリサクティ大学生4名を射殺した。翌日の追悼式には市民も参加して市内が暴動で内戦化した。各地で暴行や放火が華僑や市民にも向かいに巻き込まれて多数が死亡した。ジャカルタの5月暴動で黒焦げになって発見された娘の死体に母親が泣き崩れた。5月21日にはスハルノ政権が崩壊した。
中部アメリカ大陸のエネサルバドルの首都サンサルバドルにて、1980年3月24日にロメロ大司教暗殺され、その告別式の市民を政府軍が無差別に銃殺と虐殺した。10月に反政府のファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)が結成され、PKOによる1992年の和平至るまで長期間にわたる内戦状態に陥った。1981年1月からアメリカ軍と政府軍が干渉してFMLNに対抗して弾圧と虐殺をした。政府による1982年3月の制憲議会選挙を阻止するために、反政府勢力と激戦となり、市民を含めて大量の犠牲者が出た。政府軍は虐殺した反政府勢力や市民の死体を集めてはトラックに積み込んで処理した。
日中戦争にて、1938年3月3日に中支那派遣日本軍の後備歩兵大隊は、上海市郊外の松江区で、中国人の抗日ゲリラ(土匪)の抵抗勢力に対して警備と掃討した。銭家草の小部落にて、土匪だけでなく農民を含めた捕虜約75名を虐殺した。「何てしぶとい奴だろう。未だ死にあがらない早くくたばれと四方からズブリ良く通るでしょう。」と興奮しながら叫んだ。銃剣や機関銃で殺害して、土葬や焼却した。日本軍が土匪の掃討の記念日に写真班の助手が命がけ撮影した48枚の写真を焼きまわして極秘に家族に送付した。