2018年1月13日土曜日

ジャカルタの5月暴動で黒焦げになって発見された娘の死体に母親が泣き崩れた。

インドネシアのジャカルタで1898年5月12日の学生運動に対して、スハルト政権の政府軍兵士がトリサクティ大学生4名を射殺した。翌日の追悼式には市民も参加して市内が暴動で内戦化した。各地で暴行や放火が華僑や市民にも向かいに巻き込まれて多数が死亡した。ジャカルタの5月暴動で黒焦げになって発見された娘の死体に母親が泣き崩れた。5月21日にはスハルノ政権が崩壊した。



2018年1月12日金曜日

エルサルバトル政府軍は虐殺した反政府勢力や市民の死体をトラックに積込み処理した。

中部アメリカ大陸のエネサルバドルの首都サンサルバドルにて、1980年3月24日にロメロ大司教暗殺され、その告別式の市民を政府軍が無差別に銃殺と虐殺した。10月に反政府のファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)が結成され、PKOによる1992年の和平至るまで長期間にわたる内戦状態に陥った。1981年1月からアメリカ軍と政府軍が干渉してFMLNに対抗して弾圧と虐殺をした。政府による1982年3月の制憲議会選挙を阻止するために、反政府勢力と激戦となり、市民を含めて大量の犠牲者が出た。政府軍は虐殺した反政府勢力や市民の死体を集めてはトラックに積み込んで処理した。



2018年1月11日木曜日

日中戦争にて、日本軍は小部落にて中国人の土匪だけでなく農民を含めた捕虜約75名を虐殺した。

日中戦争にて、1938年3月3日に中支那派遣日本軍の後備歩兵大隊は、上海市郊外の松江区で、中国人の抗日ゲリラ(土匪)の抵抗勢力に対して警備と掃討した。銭家草の小部落にて、土匪だけでなく農民を含めた捕虜約75名を虐殺した。「何てしぶとい奴だろう。未だ死にあがらない早くくたばれと四方からズブリ良く通るでしょう。」と興奮しながら叫んだ。銃剣や機関銃で殺害して、土葬や焼却した。日本軍が土匪の掃討の記念日に写真班の助手が命がけ撮影した48枚の写真を焼きまわして極秘に家族に送付した。



2018年1月10日水曜日

イラクのファルージャでイラク人に虐殺された焼き焦げのアメリカ人4名の死体が橋に吊られた。

イラク戦争が2003年3月20日からの5月1日にアメリカ軍は終結宣言した。その後も2004年3月から、占領後ファルージャで戦闘が勃発した。2004年3月31日に、イラクのファルージャでアメリカ人4名が、イラク人によって虐殺された。焼き焦げにした死体を、市内を引きずり回して、橋に吊られた。アメリカ5大新聞であるニューヨーク・タイムズが、2004年4月1日の第1面に、イラク人が歓喜して吊り下げた黒焦げのアメリカ人らの焼死体を公表した。報復からアメリカ軍は大規模な掃討をして膨大な犠牲者が出した。


2018年1月9日火曜日

アメリカ軍に追い詰められて、日本軍兵士は無差別にフィリピン人住民らを後手に縛って銃剣と日本刀で虐殺した。

太平洋戦争の後期におけるフィリピン戦では、アメリカ軍が1944年10月から1945年8月に日本軍が侵略したフィリピンを奪還した。アメリカ軍の上陸によって日本軍は追い詰められて、ルソン島のバタンガス州のリパ市付近で、多数のフィリピン人住民を無差別に虐殺した。日本軍兵士は1945年4月13日にフィリピン人住民らを後手に縛って銃剣と日本刀で殺戮していた。



2018年1月8日月曜日

ガダルカナル島の山腹には、多数の日本兵の死体だけでなく、海兵隊のも散在して血染めの高地となった。

太平洋戦争のガダルカナル島の戦闘にて、アメリカ軍の海兵隊員は日本軍からの狙撃によって仰向けにて即死した。1942年9月12日から14日のガダルカナル島のエドソンの丘やムカデ高地が血染めの高地となった。小道が繋がっている山腹には、多数の日本兵の死体だけでまく、海兵隊のも散在して、飢餓に追い詰められる緒戦となった。アメリカ軍には野戦医療が整備され、その他の海兵隊らは一命を留めた。



2018年1月7日日曜日

アメリカ軍の砲弾でくり抜かれて、どろ水が溜まった池に、2人の日本軍兵士の死体が浮かんだ。

太平洋戦争にて、日本の約2倍もある広大なニューギニア島にて、ジャングルと飢餓にて苦闘となった。日本軍は初めて、ニューギニアに1942年3月8日から侵攻していた。アメリカ軍は初めて首都のポートモレスビーに近い日本軍のブナ地域を制圧して、緒戦にて日本軍は全滅した。アメリカ軍の砲弾により、くり抜かれて雨が溜まった池に、1943年1月8日に2人の日本軍兵士の死体が浮かんでいた。兵士1名は頭部が破砕されて上向きに浮かんだ。


2018年1月6日土曜日

【閲覧留意】アメリカ軍兵士は反占領活動の対抗に、車中にいるイラク人運転手の頭部に狙撃して即死した。

イラク戦争が、アメリカ主体連合軍が2003年3月20日からイラクに強行に侵攻して、5月1日に一時的に戦闘終結を宣言した。占領するも、多くのイラク市民らが占領反対勢力に加わり、過激な破壊活動が勃発した。治安が悪化して、車による自爆テロや突撃爆弾が激化した。2005年5月27日にアメリカ軍兵士は、反占領勢力が車中にいると想定して、車中にいるイラク人運転手の頭部に向けて、頭部を狙撃して上半分が吹っ飛んで即死した。2006年6月頃からは反占領勢力の無差別な攻撃で、多数のイラク人市民が巻き込まれ犠牲者が発生した。



2018年1月5日金曜日

アメリカ軍は特にコレヒドール島の奪還に執着した戦闘で、日本軍は壊滅して約9名のみ生存した。

太平洋戦争の緒戦において、マッカーサー司令官はフィリピンのマニラ湾に面したコレヒドール島に司令部を配備した。日本軍は1941年5月6日に制圧した。"I shall return"と宣言してオーストラリアに撤退した。コレヒドール島の奪還に執着したアメリカ軍は1945年1月20日から1月28日まで本格的な空海軍による戦闘した。約5,000名の日本軍兵士は断末魔には肉親の名前を叫けびながら完全に壊滅した。生存者はわずかに約9名であった。


2018年1月4日木曜日

ベトナム戦争中に875高地の激戦で、アメリカ軍兵士の多数の死体が散在した。

ベトナム戦争中の1967年11月19~23日に、南ベトナム国境付近のコントゥム省の中央高原地帯である875高地(Dak To)で激戦が勃発した。アメリカ軍は、北ベトナム軍と激戦となり、約4分1の戦死傷者を受けた。南と南東部の875丘の大部分で勃発した戦闘は、ベトナム戦争でも膨大な死傷者を出した。ダック・トー戦闘により、875高地にはアメリカ軍兵士の多数の死体が散在した。




2018年1月3日水曜日

ソビエト赤軍よる鎮圧により、クロンシュタットの氷結したフィンランド湾上に多数の水兵が砲撃による死体が散乱した。

ソビエトのペトログラードの近隣のクロンシュタット基地の水兵が、ソビエト独裁政権ではなく、自由選挙によるソビエト権力を求めて、1921年2月に最後の最大の反逆が勃発した。バルト海艦隊の拠点に対して無条件降伏を要求して、3月16日にソビエト赤軍は総攻撃による鎮圧に入った。氷結したフィンランド湾上では、多数の水兵が砲撃による犠牲となった死体が散乱した。深夜であるも白夜のため周囲は昼のように明るかった。



2018年1月2日火曜日

沖縄戦の首里攻防戦後に、アメリカ軍兵士が多数の日本軍兵士の死体を検死した。

太平洋戦争の末期の沖縄戦は、アメリカ軍が圧倒的な戦力で1945年4月1日に沖縄本島中西部から上陸した。1945年5月23日からの首里攻防戦後に、その周辺には多数の日本軍兵士の死体が散在していた。アメリカ軍兵士が、多数の日本軍兵士の死体の検死を確認していた。6月23日には日本軍本部が壊滅して、アメリカ軍は嘉手納基地で終結の星条旗を掲げた。


2018年1月1日月曜日

アヘン戦争でイギリス・フランス軍は天津の大沽砲台を制圧して、清国軍兵士の死体が散在していた。

清国はアヘンを密輸したアロー号を拿捕した外国人排斥事件を発端にして、アロー戦争が勃発した。イギリス・フランス軍と1856年から1860年まで戦闘した。1860年8月21日に天津にある大沽砲台が制圧されて、城壁内側には、清国軍兵士の死体がごろごろ転がっていた。大砲の周辺には13人がまとまって倒れていた。その後10月13日には清国は北京まで侵略され、10月24日から不平等条約である北京条約を締結した。




2017年12月31日日曜日

シンハラ人系要人を狙ったタミル系LTTEのテロに巻き込まれて死亡した女子校の校長が葬儀された。

スリランカは人口の約7割がシンハラ人(仏教系)であり、約2割が原住民のタミル人(ヒンズー教系)である。1948年にイギリスから独立後に、シンハラ系政権となり、タミル人は抑圧された。タミル人は北東部に分離独立を目指すタミール・イーラム解放の虎(LTTE)を1975年5月に設立した。1983年から民族紛争が激化して多数の市民まで犠牲となる内戦状態に陥った。1997年7月にはトリンコマリーで、シンハラ人系要人を狙ったLTTEのテロに巻き込まれて死亡した女子校の校長が葬儀された。2009年5月18日にシンハラ系政権がLTTEを制圧して内戦が終結した。




2017年12月30日土曜日

アメリカ軍兵士が婚約者に送付した日本軍兵士の頭蓋骨の写真が、1943年のライフ誌に掲載された。

アメリカ軍兵士が、1943年にアメリカ合衆国の母国の婚約者に、日本人の遺物を送付した。婚約者に送付した日本軍兵士の頭蓋骨の写真が、1943年のライフ誌に掲載された。1944年にシンガポールのシ・レンゴ抑留所でも、アメリカ兵が自分たちの家族に日本兵の骨をお土産として送ったという新聞が回覧された。日本ファシズムに対する狂気じみた戦争宣伝となった。ライフ誌は、1936年に11月23日から1972年12月29日休刊まで写真を通じたアメリカからの視点の週刊誌が発刊されていた。


2017年12月30日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 500回