ベトナム戦争の末期に、北ベトナム軍と解放戦線が1968年1月30日の旧正月から南ベトナム全土においてテト攻勢をした。サイゴン市の消防局が散在する死体を回収していた。少女の姉はアメリカ軍のヘリコブターから狙撃されて死亡した。弟はトラックの荷台に横たわるアメリカ軍に惨殺された姉の死体を発見して悲嘆した。
沖縄戦において、那覇市から西方に約35kmの座間味島には、アメリが軍は1945年3月22日に上陸して戦闘に入った。日本軍は忠魂碑に住民を集合させて玉砕による全滅の命令を下した。アメリカ軍の砲撃を逃げながら、日本軍は住民に集団自決と強制集団死を強要した。アメリカ軍の座間味島の病院に、集団自決のため喉を掻き切られた子供たちが4月21日に入院していた。
東アフリカのソマリアで1988年から内戦が勃発して無政府状態となった。暫定政府が国連に対して国際平和維持部隊(PKO)を要請して1992年12月から派遣した。首都のモディガッシオに派遣されたアメリカ軍のヘリのコブラ隊が1993年7月に攻撃をした。機関銃にて無差別に銃撃して、多数のソマリア人市民を悲惨な虐殺をした。1995年3月にはPKOは内戦の介入から完全に撤退した。
第2次世界大戦にて、1994年12月16日から25日までベルギーの南東部にてバルジの戦闘にて市民も巻き込まれて膨大な犠牲者を出した。ベルギーの東部のマルメディにて、多数のアメリカ軍兵士だけでなく市民もドイツ軍の虐殺により犠牲者となり、その遺体の身元が検証された。
第1次世界大戦において、1914年9月にベルギーを侵攻したドイツ軍を、9月4日にフランス軍がセール川の支流のマルヌ河畔で会戦をした。包囲されたドイツ軍は9月9日にエーヌ川に向けて全面撤退して、短期から長期戦の塹壕戦に至った。フランス軍の砲撃により、ドイツ軍兵士は塹壕で悲惨にも爆死した。
ベトナム戦争に参戦した韓国海兵隊も、1962年2月12日にベトナム中部のクアナム省フォン二ィ村で約80名のベトナム民間人を大虐殺した。その後に村に入ったアメリカ軍海兵隊は、韓国軍はベトナム人の約80名全員を至近距離から銃殺または銃剣で刺殺して虐殺したと報告した。
第2次世界大戦後にドイツから周辺にも散在していたナチス・ドイツの強制収容所を解放した。大戦中に強制収容所で凄まじく虐殺された者は合計で約1,000万人以上であり、ユダヤ人はその内約600万人に及んだ。放置されていた無数の死体の中には、やせ細った多くの子どもたちも含まれていた。
韓国で1991年4月から韓国で、ソウルで大学生が盧泰愚の軍事政権に対してデモ中に、警官に殴られて死亡した。それに対して韓国中の約60大学で抗議集会が開催された。この事件で7人が焼身自殺して、うち6人が死亡した。光州市では、1991年4月29日に女子学生が抗議の焼身自殺をした。
ベトナム戦争で使用された弾薬は約1,144万トンで、朝鮮戦争の3倍以上、第2次世界大戦の約2倍であった。ジョンソン大統領は1965年2月8日に北ベトナムへの報復爆撃が指令した。1972年4月16日にアメリカ空軍によるハイフォン爆撃で、北ベトナムのレー・ディン・バー家族の7人全員が犠牲となり無差別爆撃で爆死した。
太平洋戦争の沖縄戦にて、日本軍は1945年5月24日にアメリカ軍によって占領された飛行場に対して絶滅する特攻攻撃をした。読谷と嘉手納飛行場に向けて、熊本から136名が離陸した。一部は不良で帰還して、一部のみが胴体着陸できて多少の損害を与えて、69名の日本軍の死体が検証された。
太平洋戦争にて、日本の情勢が不利になり、満州の関東軍までも、早急に投入された。パラオのペリリュー島でアメリカ軍と1944年9月15日から11月27日までの悲惨な戦闘で全滅した。ペリリュー島に関東軍から派遣された日本軍兵士が虐殺された。
東ティモールは太平洋戦争後にポルトガルに占領されたが、1975年11月に独立革命戦線(フレテリン)が独立した。それに対抗してインドネシア軍が侵攻をして、1976年7月に占領した。2002年5月20日に国連の主導で独立するまでに、インドネシア軍の侵略において人口の約3分の1の約20万人の住民が絶命した。1983年7月には幼い児童も虐殺された。
中央アメリカのグアテラマに、アメリカ情報局(CIA)は1954年に軍部を支援して新政府を樹立した。1960年から地域ゲリラとの内戦が1996年12月29日の和平まで勃発し継続した。1980年代から軍部は、農村部等を抵抗勢力として弾圧と虐殺した。政府軍の射撃隊員が、抵抗勢力に対して1996年9月3日に銃殺刑を執行した。
日本は朝鮮に侵攻して日清戦争の勝利した後に、1910年8月29日に韓国併合した。それに対抗して、1919年3月1日から独立運動が勃発した。農民による独立と自衛組織であった馬賊が、朝鮮と国境に接する満州で間島の琿春を1920年9月に侵攻した。日本軍は鎮圧するために、馬賊であるとした多数の朝鮮人農民を斬首して処刑した。
太平洋戦争においてフィリピンのレイテ島に取り残された日本軍兵士は、1944年10月20日に上陸したマッカーサー司令官のアメリカ軍と終戦まで残酷な戦闘で全滅した。アメリカ軍兵士は、密林の中でどぶ池に倒れた3名の日本軍兵士の遺体を引き上げて検証した。日本軍兵士は補給も武器も食糧も絶えて餓死も含めて約8万人もレイテ島で戦死した。