2017年8月13日日曜日

太平洋戦争のタラワ孤島でァメリカ軍の火炎放射器により焼きただれ黒化した日本兵の死体が散乱した。

太平洋戦争にて1943年11月21日から23日にギルバート諸島のタラワ環礁のペティオ島で、アメリカ軍の戦闘により日本軍の約97%が戦死した。アメリカ軍も膨大な死傷者に達して恐怖と悲劇のタラワと呼称した。立て籠もる日本軍兵士に対して、強力な火炎放射器と爆薬で焼死と爆死させた。火炎放射器により生焼けにされ黒化した日本兵の死体が散乱した。




2017年8月12日土曜日

日露戦争で要塞の戦地で撮影された写真から折り重なり散乱した凄惨な日本兵士の死体が集積されていた。

日露戦争において、1904年8月19日から1905年1月1日までロシア帝国の旅順を攻略した。その前哨戦で、標高119mの東鶏冠山のロシア要塞に対して日本軍は8月21日から12月15日まで激戦をして膨大な死傷者を出した。第3軍参謀本部の「戦地に於イテ撮影したる写真」が残存していた。日本軍の軍装をした兵士の折り重なり散乱した凄惨な死体が集積された。



2017年8月11日金曜日

日本軍はサイパンの戦闘末期には民間市民にも入水自殺を強要するため両親を銃殺するも子供たちが海岸を逃げ回った。

太平洋戦争にて、1945年6月15日から7月9日まで日本軍とアメリカ軍が厳しい戦闘し日本軍はバンザイ攻撃をして全滅した。戦闘の末期になると多くの日本人の民間市民は、マッピ山北面の崖から飛び降り入水自殺をした。ある家族が海岸で約45分間ためらっているうちに、日本軍兵士が両親を銃殺した。その子供らは恐怖から必死に海岸から逃げ回った。





2017年8月11日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 50,000回

2017年8月10日木曜日

長崎原子爆弾の爆風と熱射により路面電車は脱線して完全に圧壊して即死した乗車員の死体が散乱した。

長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日における爆心地から南西約200mにて路面電車が被爆した。路面電車は、原子爆弾の爆風と熱射により脱線して完全に圧壊した。その崩壊した車内の乗車員はほんど全員が即死した。衣服は黒焦げになり、はみ出た身体が重度の壊死性の火傷で黒化した死体で散乱した。



長崎原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。


2017年8月9日水曜日

長崎原子爆弾の熱線や爆風から放射能により爆死した死体が腐乱して異臭を放ち白骨状態となった。

長崎原子爆弾が炸裂した被爆実態を、長崎市原爆史料保存委員会は1949年に爆死者は約73,900名、傷病行方不明者は約76,800名と推定した。爆心地から東に約600mの長崎医科大学は壊滅的に崩壊した。その玄関の付近で約1ケ月間は経過しても重度に被爆した死体が放置された。熱線や爆風から放射能により爆死してから腐乱して異臭を放ち白骨状態となった。


(長崎原子爆弾から2017年8月9日午前11時2分で72周年、死没者名簿数 175,743名)



長崎原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。

2017年8月8日火曜日

長崎原子爆弾が炸裂して14歳の女子が全身の熱傷と放射能の被爆をして入院するも急速に重篤となり死亡した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に炸裂して14歳の女子の学徒が長崎市内にて全身の熱傷と放射能の被爆をした。爆心地より約17km離れた大村海軍病院に8月10日に搬入された(写真上)。重傷な壊死したやケドであるも十分な手当もできずに、8月12日には重篤となりベッド上で点滴するも死亡した(写真下)。




長崎原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。



2017年8月7日月曜日

国民学校の学生が広島原子爆弾で全身に重傷の火傷と放射能を浴びて苦悶して死亡した。

広島原子爆弾の炸裂によって、国民学校の学生が全身に重傷の火傷と放射能を浴びた。特に着衣していなかった頭部から顔面さらに四肢にかけて拘縮して黒化して壊死に陥った。救護所に搬入されるも、十分な手当もできずに、苦悶しながら数日で衰弱して死亡した。


広島原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。


2017年8月6日日曜日

広島原子爆弾により女子学生は顔面がただれた重傷の火傷と全身に放射能に被爆して広島日赤病院に搬入され数日で死亡した。

広島原子爆弾が72年前の1945年8月6日の午前8時15分に炸裂した。学徒勤労動員であった女子学生は、顔面がただれた重傷の火傷と全身に放射能に被爆して広島日赤病院に搬入された。8月10日まで放置されて治療も受けられずにゴザに寝たきりとなった。「水! 水!」と叫びながら、傍らの水も飲めず、やがて衰弱して数日で死亡した。


(広島原子爆弾から2017年8月6日午前8時15分で72周年、死没者名簿数 308,025名)

広島原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。


2017年8月5日土曜日

広島原子爆弾で西練兵場付近は2名の兵士が一部に火傷あるも内蔵の脱出もない爆圧による即死と記録された。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に大爆発により炸裂して、広島市内は一瞬に壊滅して全滅した。凄まじい爆風、熱射、放射能でほとんどの広島市内の約140,000人の住民らは死亡した。爆心地から約500mにて中国軍管区司令部がある広島城の南側の西練兵場付近で、兵士は眼球が飛び出して、強烈な爆圧で急激な気圧の変化による即死と記録された。2017年8月6日で72年目を迎える。


広島原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。


2017年8月4日金曜日

第1次世界大戦のドイツ軍がロシア大軍を膨大に虐殺した勝利が、第2次世界大戦の誘因に繋がった。

第1次世界大戦の東部戦線において、ドイツ軍のパウル・フォン・ヒンデンブルグ司令官は、ロシア大軍を膨大に虐殺して勝利した。対戦の勝利の記録では波状攻撃して撃退された死に行くロシア兵の死傷者は数え切れていない。ロシア戦死者の死体は集団埋葬するまで放置されて散乱した。戦後に司令官は大統領になり、政権をヒトラーのナチスに譲った。ロシア軍の撤退は精神的衝撃となり、ロシア革命から政権はスターリンに繋がり、第2次世界大戦の誘因となった。


2017年8月3日木曜日

ナチスドイツ親衛隊が無抵抗のユダヤ人の母親と子供に狙撃銃で狙いを定めて銃殺した。

第2次世界大戦にナチス・ドイツ軍はユダヤ人を、神前に供える生贄とするホロコーストとして大量虐殺をした。東部の占領領域にて、ナチス・ドイツ親衛隊の戦闘員が、平原上にて無抵抗のユダヤ人の母親と子供の頭部に狙撃銃で狙いを定めて銃殺する直前であった。その付近の住民らには、彼らの近辺では親子の埋葬用するため墓穴を強制的に掘り込ませた。


2017年8月2日水曜日

沖縄戦にて米軍の空母に特攻機が激突してガソリンの火炎と煙に巻き込まれた多くの水兵らが火傷して窒息死した。

太平洋戦争の沖縄戦中の1945年5月11日にて、米軍の空母バンカー・ヒルの甲板に、日本軍の特攻機の約250kgの爆弾を搭載した2機体が激突した。空母の中央から船尾まで火炎の地獄となり365名の米軍兵が死亡した。船尾に取り残された米軍兵士らは、燃えて漏れ出すガソリンの火炎と煙に巻き込まれて、大破した格納甲板にて火傷して窒息死した。


2017年8月2日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 40,000回

2017年8月1日火曜日

ウクライナの住民らはドイツ軍に殺害された多数の悲惨な死体の中から家族を探した。

第2次世界大戦のウクライナでドイツとソ連の戦闘にて、両国はウクライナを弾圧した。一時的にドイツにより1941年6月に独立宣言するも、ナチスは直ちに逮捕して解体した。ウクライナは4分割されて、住民らを追放するため、最初にユダヤ人、次にウクライナ人を餓死、強制労働から殺戮した。住民らはドイツ軍に殺害された多数の悲惨な死体の中から家族を探した。その後にはドイツ軍だけでなく、ソ連軍、民族主義者らも復讐の殺戮を繰り返した。


2017年7月31日月曜日

第1次世界大戦のヴェルダンでは無謀で無意味な戦闘で甚大な死傷者と新兵器を生み出した。

第1次世界大戦の西部戦線であるフランス内の国境付近のヴェルダンで、ドイツ軍とフランス軍で1916年2月21日から12月16日までに両軍の激戦により約70万人以上の死傷者が出た。両軍は合図で塹壕から無謀な突撃を何度も繰り返して砲弾と機関銃の掃射で死傷した。ある兵士はレイス周辺の砲火で戦死した。戦況を打開するために、ドイツ軍は毒ガス、イギリス軍の戦車や飛行機の近代兵器を生み出した。




2017年7月30日日曜日

日本兵士はインパール作戦から敗走して全滅し白骨化した死体で埋め尽くされた白骨街道となった。

2次世界大戦にて日本軍はビルマ国境の近隣における194438日から710日までのインパール作戦の失敗により甚大な戦死者を出した。補給線を軽視した作戦から敗走した日本軍兵士は、89日にタングニ付近で全滅して白骨化した死体で埋め尽くされた「白骨街道」となった。