2022年3月20日日曜日

イゾンツォの戦いの戦いで、オーストリア・ハンガリー帝国軍は、トリエステ北方のカルソ盆地でイタリア軍兵士を殺害して、イゾンツォ川を見下ろす山上に死体が横たわった。

第一次世界大戦で、イタリア北東部のイゾンツォ川沿いにて、イゾンツォ(Isonzo)の戦いが勃発した。イタリア軍兵士が、オーストリア・ハンガリー帝国軍により、トリエステの北方のイゾンツォ川東岸のカルソ盆地で殺害された。イゾンツォ川を見下ろす山上にイタリア軍兵士の死体が横たわった。イゾンツェの戦いの当初からのイタリア軍は、イタリアとオーストリアの境界線にあるアルプス戦線に配備されました。1916年5月と1917年5月にオーストリア軍を撃破した。逆に1917年10月には、オーストリア・ハンガリー軍に敗退した。イゾンツォの戦いは、1915年5月23日から1917年10月27日まで長期に11回も戦闘を繰り返して、最終的にオーストリア・ハンガリー帝国軍が占領した。イタリア軍の死傷者は約645,000人で、オーストリア・ハンガリー帝国の死傷者は約450,000人にも達した。

 イゾンツォ方面にも難関があり、イゾンツォ川は氾濫しやすく、戦争中は記録的な大雨と雪解け水が続いた。北部の山岳地帯では、イタリア軍が解決できないジレンマに直面した。川をうまく渡るには、見下ろす山上の部隊を無力化する必要があった。その山を占拠するためには、まずイゾンツォ川を渡らなければならなかった。海岸沿いの下流域は侵攻の可能性が高くても、防衛軍には有利な特異な地形があった。イゾンツォ川の数多くの戦闘の犠牲者は膨大となった。イタリア軍全体の戦死者総数の約半分、約60万人のうち約30万人がイソンゾ川沿いで戦死傷した。オーストリア・ハンガリー帝国軍の損失は、それでも約20万人(全体の死傷者数約120万人のうち)であった。約3万人以上の死傷者はスロベニア民族で、その大半はオーストリア=ハンガリー軍に徴兵された。ゴリツィアやグラディスカ地方のスロベニア民間人も、スロベニア難民がイタリア人から国家の敵として扱われて、イタリアの難民キャンプで数千人が栄養不良で死亡して、難民キャンプに再定住させられ何千人も犠牲になった。

  イタリア戦線は、第一次世界大戦中の1915年から1918年にて、オーストリア・ハンガリーとイタリアの国境での一連の戦闘である。1915年に連合国のロンドン条約のトルコ分割の密約に従って、イタリアはオーストリアのリトラル地方、ダルマチア北部、現在のトレンティーノと南チロルの領土の併合を目指し参戦した。イタリアは奇襲攻撃で、領土を手に入れようとしたが、戦線はすぐにフランスの西部戦線と同じように、標高が高く冬が非常に寒い塹壕戦に陥った。戦線での戦闘により住民の多くが離散して、イタリアやオーストリア・ハンガリーの難民キャンプで数千人の市民が栄養失調や病気で死亡した。ヴィットリオ・ヴェネトで連合軍の勝利、ハプスブルク帝国の崩壊、イタリアのトレントとトリエステの占領により、1918年11月にイタリア戦線はは終結した。ヴィラ・ジュスティの休戦協定は1918年11月4日に発効し、オーストリア・ハンガリーの統一体は解体した。イタリア統一の最終段階を完了した第4次イタリア独立戦争と呼称された。アーネスト・ヘミングウェイの『武器よさらば(A Farewell to Arms)』は、第一次世界大戦中のイタリア戦線の背景で作成された。




2022年3月19日土曜日

1973年5月に広島大学医学部資料館に、アメリカから発送された広島原子爆弾の写真、ホルマリン漬けの解剖資料、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が返還された。

1973年5月に、広島大学医学部資料館のロビーに科学者、医師、要人らが集まり、大きな木箱がいくつも開封された。アメリカから返還された箱には、写真、解剖記録、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が収納された。ホルマリンに浸した心臓、肺、肝臓、眼球、脳など、1945年8月6日の広島原爆の放射線等で傷ついた臓器全体を二重に密封していた。アメリカ陸海軍合同委員会は1945年9月から12月にかけて、少なくとも218件の剖検資料と、皮膚生検、骨髄、血液塗抹など約1,400件のスライドと組織標本を収集していた。これらの遺体の一部は約28年間、ワシントンDCの地下壕の中で国家機密として扱われた。戦争が終結して、死傷を受けた身体はすべて勝者の象徴とされた。広島と長崎に投下された原子爆弾によって死傷した人々から採取された身体資料は、何千もの科学論文の根拠となってきた。放射線の生物学的影響に関する科学的評価は、これらの試料に依存している。

 1947年に広島と長崎に設置されたABCC(原爆傷害調査委員会)は約7,500人の被爆犠牲者の遺体を解剖し、その臓器をアメリカに送った。原爆投下後の数週間で死亡した被爆者や、原爆投下後10年間にわたりアメリカの医師や科学者によって、病気や癌の臓器が摘出された。被爆者の死産児や、家族がアメリカの科学者に被爆者の遺体を提供して、被爆者の臓器が摘出された。アメリカで検査後、1973年に広島大学に返還された。ABCCは、日本の科学者と研究結果を共有することなかった。日本人の被爆者の死傷体をデータ化し、その後に被爆者の被験者を加えた非人間化の実験した。人間をバラバラにし、断片化することで、傷害ではなくダメージを計算した。アメリカが日本の被爆者の痛みや苦しみを考慮することなく合理的な科学的言説を可能にした。

 放影研は残留放射線と内部被曝の影響を無視し、過小評価している。また、遺伝的な影響がないことも主張しています。原爆の長期的な人体への影響を調査するため、1947年にABCC(原爆傷害調査委員会)が広島と長崎に設置された。1951年、広島事務所は比治山公園の丘の上に移転した。この委員会の方針は、単に患者を診察し、病気を記録するだけで、治療は行わないという批判もあった。1975年、日米は施設の運営・管理を等しく分担することに合意した。委員会は改組され、放影研(RERF)と改称された。




2022年3月18日金曜日

1992年12月にカンボジアのコンポントム州ストーン郡で、ポル・ポト派勢力の砲撃により、カンボジア人の少年は大量出血して、若者が抱えて病院に搬送するも死亡した。

1992年12月にカンボジアのコンポントム州のストーン郡で、ポル・ポト派勢力の砲撃に巻き込まれて、カンボジア人の少年は大量出血して重態となる。ストーン郡の青年たちが、至急に両手で担いで病院に護送した。病院に着いた直後に絶命して死亡した。突如に砲撃が炸裂した後に硝煙が立ち込み、大量出血した少年が倒れ込んだ。意識を消失した少年は、鼻と口から出血して、胸部から血液が流出した。少年の母親が近寄って叫び声が響いた。その付近にいた若者が、少年を抱えて病院に搬送するも死亡した。1993年3月3日と5月20日にも、ストーンは共産主義のクメール・ルージュから激しい侵攻を受けた。コンポントム州の戦場では、日本の高田警視が虐殺され、日本人ボランティアの中田厚仁も殺害されたが、極秘に扱われた。カンボジアでは、パリ和平条件である停戦は頓挫して、武装解除されなかった。

 カンボジアのコンポントム州は、ポル・ポトの出身地であり、その軍隊であるクメール・ルージュが潜伏して、政府軍と猛烈な戦闘が勃発していた。コンポントムから約50mのストーンでは、政府軍、ポル・ポト派のクメールルージュ・ラナリット派のアンキが激突した。ストーン郡の周辺地域には、地雷が散在して、吹晒小屋内には骸骨や人骨が積み上がっていた。砲撃や襲撃しながら、地雷を埋めた。その状況下で、1992年2月に設置された国連暫定統治機構(UNTAC)の46カ国のPKO活動する文民警官が選挙権の有資格者の登録を継続した。1993年5月に総選挙、7月に暫定政権、9月には憲法が採決して、明石康は合法政権を樹立して、国連事務総長のガリはUNTACを終結した。

 1990年6月に、カンボジアの各派閥は、民主的な選挙の実施を促進するために新しい最高国民評議会を設立し、国連が監督する停戦に合意した。11月にシアヌークはカンボジアに帰国した。ポル・ポトは国境沿いのパイリン付近に新たな本部を設置し、クメール・ルージュに対し、カンボジアの村々で支持を得る努力を求めた。6月には、サムパンが以前の合意に反して、ベトナム兵がカンボジアに残る間は武装解除しなかった。クメール・ルージュはカンボジア国民連合党を結成するも、3月にポル・ポトは投票をボイコットした。1993年5月の選挙では、ノロドム・ラナリッドが第1党、フン・センのカンボジア人民党は2位であった。シアヌークは両党の連立政権樹立を交渉し、2人の首相を置く制度を導入した。8月までにプノン・チャットを占領し、ポル・ポトはタイに逃亡した。クメール・ルージュは反攻を開始し、1994年5月までに領土の多くを取り戻したが、1996年末までに、クメール・ルージュはカンボジア内陸部のほぼ全ての領土を失い崩壊した。




2022年3月17日木曜日

ウクライナの大飢饉によって、1933年にハリコフにて餓死者が路地に横たわり、通行人は同情も薄れて、死体を通り過ぎた。

ウクライナの大飢饉によって、1933年にハリコフにて餓死者が路地に横たわり、通行人は同情も薄れて、死体を通り過ぎた。都市や道路には、食べ物を求めて村を去った途上で、人々の死体が散乱した。写真は、1933年にオーストリアのエンジニアであるアレキサンダーウィーナーバーガーによって密かに撮影された。大飢饉により共食い、無法、窃盗、私刑の執行、田舎に集団墓地が掘られた。ウクライナ人の抗議活動は、ソ連の秘密警察(GPU)と赤軍によって弾圧された。膨大な農民が反ソ連活動として逮捕され、銃殺されたり、強制労働収容所に送還された。

 ホロドモール(Holodomor)は、ウクライナ語のhold(飢饉)とmor(死)に由来して、1932年から33年に発生したウクライナの大飢饉の名称である。ロシア革命と第二次世界大戦の間に起こったホロドモールは、ソビエト連崩壊のわずか数年前まで、ソ連政府によって否定された。西側諸国は1980年代になって、ウクライナ大飢饉をスターリン政権による人災と捉えた。1980年代の最初の調査から、国勢調査やソ連の記録などが分析されるも結論は出ていない。ウクライナの大飢饉の餓死は、約300万人から約1400万人と異なる。ヨシフ・スターリン政権のウクライナ人に対する武器としての大飢饉が焦点となっている。現代のウクライナでは、ホロドモールを虐殺行為と定義したが、現在のロシアは歴史の視点に反対している。

 1929年に、ソ連共産党のスターリンは農業の集団化を加速させた。ソ連は、集団化によりウクライナの豊富な穀倉を支配した。穀物危機が起因であったが、工業化の過程で資金を調達し、農村を支配する手段を強要した。ウクライナから約200万トン近い食糧を輸出し、生き延びるわずかな食糧も引き離した。ウクライナの人々が他の地域に避難することも禁じた。食料もなく、逃げることもできず、ただ死を待つしかなかった。恣意的に選ばれた農民が収奪され、遠隔地へ追放された。集団化に抵抗する者は、強制収容所に入所や銃殺された。農民たちは、1931年末までは、家畜を屠殺し、穀物を隠した。1932年から33年には、大飢饉が起こった。ソ連政府は有効な対策を講じなく、ウクライナなどの穀倉地帯で、何百万人もの餓死者が出た。




2022年3月16日水曜日

シリアのアサド政府軍の攻撃により、アレッポにて反体制派が腹部を銃撃されて、大量出血して、救護所に搬送された後に死亡した。

中東のシリア北部の反体制派が占領する都市であるアレッポに対して、シリア政府軍が無差別の空爆の標的になった。都市から、シリア住民は難民となって脱国していた。2014年5月25日に、アサド政府軍と反体制派が、アレッポ市街にて猛烈な掃討戦が勃発した。入り乱れた壮絶な戦闘が勃発した。反体制派の兵士が、アサド政府軍の攻撃により、腹部を銃撃されて、大量出血して、救護所に搬送された。怖いと弱音を呟きながら意識を消失した後に死亡した。アラ−以外の神はなし。ムハンマドはアラ−の使徒なり。イスラム教徒の兵士は、アラ−の神への忠誠を誓いを繰り返した。その死体は、アレッポからシリアの故郷のブズガル村に搬送されて埋葬された。死体と面会した家族は、泣き崩れた。シリアでは、殉教してまでアサド政権と対抗する反体制派から、シリアの故郷を追われる民間市民が続出した。

 シリア政府軍によるアレッポ攻勢は、2016年11月15日から12月22日にシリア軍と同盟国軍が、アレッポの反政府軍が占領する地域に対して軍事攻勢した。ロシア軍によるシリア北西部全域の反乱軍拠点に対する激しい空爆と巡航ミサイルの攻撃を行った。シリア政府軍は、アレッポ東部と南部の反体制軍の支配地域のすべてを制圧して、残りの反体制派軍を撤退した。約600人以上の民間人を含む約1,200人が、アレッポ市内の反政府軍支配地域で死亡した。約149人はシリア政府軍の支配地域に対する反政府軍の砲撃によって死亡した。

 シリア内戦(Syrian civil war)は、2000年に死去した父ハフェズの後を継いだアサド大統領もとで、内戦が始まる以前から多くのシリア人が高い失業率や汚職、政治的自由の欠如に不満を抱いていた。2011年3月、南部の都市デラアでは、近隣諸国での抑圧的な支配者に対するアラブの春に触発されて、民主化を求めるデモが発生した。シリア政府が反対派を鎮圧するために虐待と虐殺を行使すると、大統領の辞任を求める抗議デモがシリア全土で発生した。不安は広がり、弾圧は激化した。反対派の支持者たちは、最初は自衛のために、後には治安部隊を排除するために武器を手にした。暴力は急速にエスカレートし、国は内戦状態に陥った。何百もの反政府勢力が立ち上がり、内戦がアサド氏を支持するかしないかというシリア人同士の戦い以上に拡大した。外国勢力は資金、武器、兵士を送り込み、混乱が悪化するにつれ、イスラム国(IS)やアルカイダなど独自の目的を持った過激派ジハード主義組織が関与した。自治権を求めアサド軍と戦ったシリアのクルド人は、内戦に新たな自治地域をもたらした。

 国連は2011年3月から2021年3月までに少なくとも約35万209人の民間人と戦闘員が殺害された。約26,727人の犠牲者が女性で、約27,126人が子どもである。シリア人権監視団(SOHR)は、2021年6月までに約49万4438人の死亡を記録した。約15万9774人の民間人が死亡して、その大半はシリア政府と同盟国に起因した。シリア内戦の犠牲者は約60万6000人以上と推定し、約4万7000人の民間人がアサド政権の刑務所での拷問で死亡した。暴力文書センターでは、2022年2月時点で、民間人は約14万4956人を含む約23万8716人の戦闘関連の死者を記録した。そのうち約165,490人がシリア政府軍、約35,610人が反体制派による死者であるとした。




2022年3月15日火曜日

ベルリンでエーベルトの反革命の最後の段階で、政府軍がスパルタシストらの反乱軍を一網打尽にして、処刑された囚人の死体、犠牲者の死体などが散乱した。

1919年のベルリン3月闘争(Berlin March Battle)は、1918年から1919年のドイツ革命の最後の決定的な局面で勃発した。ナチスへと由来するドイツ義勇軍は、勝利の後にしばしば捕虜に大規模な殺戮が行われた。ベルリンでエーベルトの反革命の最後の段階で、政府軍がスパルタシストの反乱軍を一網打尽にして、処刑された囚人の死体、衛生チームによる犠牲者の死体などが除去された。ベルリン労働者階級は、によるゼネストの結果であり、主要産業の社会化、労働者評議会と兵士評議会の法的保護、軍隊の民主化を実施するゼネストを執行した。ストライキ活動は、準軍事組織であるドイツ義勇軍の暴力に直面した。ベルリンのアレクサンダー広場とリヒテンベルク市周辺で、街頭戦闘と掃討戦が勃発した。スパルタクス派の蜂起が、1919年1月5日から1月12日にかけてベルリンで起こったゼネストと武装闘争が勃発していた。1918年から19年のドイツ革命の間に、第一次世界大戦の退役軍人から成るドイツ義勇軍が準軍事的な民兵組織が育成された。

 ドイツ義勇軍が群衆の中を車で通り抜けるのを、ストライキ参加者が妨害した。ドイツ義勇軍は、すぐに装甲車や戦車で介入して、デモ群衆に発砲して大虐殺となった。特に人口の多いベルリン住宅地で、ドイツ義勇軍による無差別な大砲は、多くの死者を出した。リヒテンベルク警察官の殺害事件を、犠牲者を誇張して、警察官全員の処刑を命じたと偽情報を流布した。政府軍に反抗する闘争で、武器を手に捕った者は、その場で射殺した。銃撃を受けたと称して無差別に住宅を攻撃し、地域が砲撃と空爆で完全に廃墟と化した。

 3月3日に、ニグスドルフAEGの労働者は、1918年12月にベルリンでドイツ帝国議会で承認された軍隊の民主化に関するハンブルク・ポイントを実施するために、ゼネストを決議した。ストライキは、ドイツ共産党とドイツ独立社会民主党の支持を得た。ドイツ政府は、ドイツ社会民主党の多数党の指導下に、国防大臣グスタフ・ノスケの命令で、政府軍によるベルリンとシュパンダウの包囲戦を実行した。スパルタシスト蜂起では、中立の立場であったフォルクスマリネディビジョンは、ストライキに武器を配給した。隊員が致命傷を負った後には、政府軍と戦闘を行った。ゼネストは3月8日に、リヒャルト・ミュラー率いるストライキ指導部の命令で終結した。労働者評議会との交渉の結果、ワイマール政府からいくつかの譲歩がなされた。ベルリン3月闘争は3月16日にノスケによる発砲命令が解除されて終結した。

 ベルリン3月闘争では約1200人以上の死者を出して、そのうち約75人は政府軍側であった。死者数は約2,000人から約3,000人とも推定された。政府軍当局による公式な集計はない。闘争による多くの流血は、ドイツ義勇軍司令官のヴァルデマール・パブストが、銃器を所持している者はすべて殺害する命令に起因した。その結果、ストライキに無関係だった多くの民間人や退役軍人が殺害された。その中には、虐殺された革命家ローザ・ルクセンブルクの元夫であった共産党指導者レオ・ヨギッチも含まれた。ベルリン3月闘争は、第一次世界大戦後のドイツの革命闘争の中で、最も血生臭い犠牲の一つである。























2022年3月14日月曜日

1968年8月20日からチェコスロバキアの首都プラハに侵攻したソ連軍の戦車に、チェコの旗をかけようとして、若いチェコスロバキア人が殺害された。

1968年8月20日からチェコスロバキアの首都プラハに侵攻したソ連軍の戦車に、チェコの旗をかけようとして、ソ連軍兵士に殺された若いチェコスロバキア人の死体が横たわった。チェコスロバキア人が、ソ連軍などのワルシャワ条約機構軍兵士を抗議と非難で迎え入れた。首都プラハなどでは、食糧や水の提供など、あらゆる援助をソ連軍などに対して拒否した。壁や歩道に書かれた看板やプラカード、落書きにより、ソ連軍の侵略者や指導者、協力者を糾弾した。プラハ市民はソ連軍兵士などに間違った指示を与え、道路標識さえも撤去した。ソ連軍と戦車の威嚇により、侵略に対する抗議は約7日ほどで鎮圧されて、レジスタンスは約8ヵ月間持ちこた。






















 8月20日午後11時頃に、約20万人近いソ連、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア軍がチェコスロバキアに侵攻した。チェコスロバキアのデモ隊は直ちに街頭に出て、街路標識を壊し、侵略者を混乱させた。プラハでは、ワルシャワ条約機構の軍隊が、テレビ局やラジオ局を占拠した。ラジオ・プラハでは、ジャーナリストが放送局の譲渡を拒否して、約20人ほどが殺害されて、占領された。他の放送局も地下に潜伏して、数日間で放送は集結した。1968年8月21日に、プラハの街頭ではデモが続き、チェコスロバキアの旗を持ち、火炎瓶を投げるプラハ市民がソ連の戦車を止めようとした。ワルシャワ条約機構軍によって約100人以上が射殺された。約7万人ものチェコスロバキア市民は、一斉に西側へ逃亡した。




 

 







 チェコスロバキアの侵略は綿密に計画され、地上軍による国境越えと同時に、ソ連のスペツナズ任務部隊(GRU)がルジーン国際空港を早期に攻略した。私服姿の約100人以上の工作員を乗せたモスクワ発の飛行機が、エンジン故障のため空港に緊急着陸を要請して勃発した。空港を占領して、軍用輸送機が到着し、大砲と軽戦車を装備したソ連空挺部隊が着陸した。戦車や機動小銃部隊はプラハなどの主要都市に向かって、ほとんど抵抗を受けなかった。チェコスロバキア人民軍は指揮系統を持たず、ワルシャワ条約機構軍に完敗した。

 プラハの春(Prague Spring)は、1968年1月5日、改革派のアレクサンドル・ドゥブチェクがチェコスロバキア共産党(KSČ)第一書記に選出されて、政治の自由化と大衆の抗議行動が勃発した。それに対して、ブレジネフ書記長のソ連からワルシャワ条約加盟国が改革を弾圧するために侵攻した1968年8月21日まで継続した。チェコスロバキア 137人の民間人と兵士が殺害されて、約500人が重傷を負った。ワルシャワ条約機構軍は、ソビエト軍が約96人が死亡して、約87人が負傷して、約5人が自殺した。ポーランド 軍は約10人が死亡して、ハンガリー軍が約4人死亡して、ブルガリア軍が約2人死亡した。

2022年3月13日日曜日

サイパンの戦いで首都ガラパンの至る所に、アメリカ軍に殺害あるいは自死した日本軍兵士や民間人の死体と武器が散乱していた。

太平洋戦争にて、アメリカ軍はサイパン島の戦いで、中心部の首都ガラパンを侵攻した。アメリカ軍の猛烈な攻撃にて、1944年7月3日にガラパン町は崩壊して壊滅して荒廃して瓦礫が散乱した。ガラパンの町附近の砂糖黍畑から日本軍陣地を砲撃した。ガラパンの町では、猛烈に掃討する市街戦により、激しい戦闘が繰り広げられた。火炎放射器により、潜伏した日本軍兵士の家屋を焼き払った。日本軍の必死の抵抗にもかかわらず、侵攻はゆっくりだが着実に侵攻して約5日間でガラパンは陥落した。ガラパンの至る所に、殺害あるいは自死した日本軍兵士あるいは民間人の死体と武器が散乱していた。

 日本は1920年に、国際連盟から南洋委任統治領を獲得して、カラパンをマリアナ諸島の首都に選定した。南洋開発株式会社により、学校、病院、裁判所、銀行、新聞社、映画館、その他多くの公共建築物が建設され、ガラパンは急速に発展した。1930年代半ばには、ガラパンの人口は、日本人、朝鮮人、台湾人、沖縄人で主に構成されて約1万4千人に達して、南海の東京と呼称された。ガラパンの繁栄は、第二次世界大戦の 

 1944年6月15日に勃発したサイパンの戦いで、首都ガラパンは崩壊して何千人もの民間人も犠牲になった。アメリカ軍は、6月23日に戦線の中央部で日本軍の激しい抵抗に遭って、ほとんど侵攻が停止した。6月24日には、アメリカ軍は攻撃を再開して、限定的な侵攻して、日本軍の抵抗に対抗してガラパン郊外に到達して、カグマン半島を占領した。その頃から、日本軍は急速に勢力を失って、6月25日にはサイパンの戦いの敗北を悟っていた。6月27日には日本軍は中央の重要な防衛戦線を後退を始めて、アメリカ軍はタポチャウ山の頂上を占拠した。

 7月初旬には、日本軍にとりサイパン島が喪失したことは明白となった。7月6日に、日本軍兵士は最後のバンザイ突撃を命じられた後に、自決攻撃した。最後の組織的抵抗は7月8日から9日にかけて行われ、サイパン島の北端にあるバンザイクリフで、日本軍兵士と民間人が集結した集団自決で幕を閉じた。サイパンの戦いが集結したときに、日本軍兵士の死者は約23,811人を数え、捕虜はわずか736人であった。民間人は約8,000人以上が巻き込まれて犠牲となった。アメリカ軍側は戦死者約3,225人、負傷者約13,061人、行方不明者は約326人であった。サイパン島はすぐにアメリカの主要な爆撃基地となった。サイパン島の占領からわずか4ヶ月後に、最初のB-29が日本本土に向けて離陸して、大規模な爆撃作戦が開始された。




2022年3月12日土曜日

2002年8月22日に高濃縮ウラン約45kgの核兵器用ウランが、旧ユーゴスラビアのビチャ核科学研究所からロシアの国立原子力研究所に搬送された。

2002年8月22日午前1時すぎに、高濃縮ウランを搭載した輸送大型トラックが、旧ユーゴスラビアのセルビア・モンテネグロのベオグラードの高速道路上を、東方のロシアに向けて突っ走った。高速道路は、警官や特殊武装部隊が全面封鎖して、高濃縮ウランの運送を警備した。高濃縮ウランを載せた輸送トラックは、ヘリコプターならびに護衛の警備車に先導された。約45kgもの核兵器用ウランをユーゴスラビアの旧式の原子炉からロシアに搬送された。ユーゴスラビア軍に護衛されて、ベオグラードから約15km離れたビチャ核化学研究所から、秘密裏にベオグラード国際空港に搬送された。 



 



約45kgの核兵器用ウランで、濃縮度は約80%で少なくとも広島原子爆弾2個が製造できる。1999年にコソボ紛争が勃発して、ベオグラードはNATOにより空爆を受けていた。ビチャ核化学研究所は、1948年に設立されて核兵器開発が1987年で頓挫した。1970年代にロシアから購入した高濃縮ウランが、老朽化したビチャ核化学研究所に無防備で放置された。未使用の高濃縮ウランは、国際原子力機関(IAEA)が監査していた。旧ソ連下の濃縮ウランが管理が曖昧となり、拡散する危険性が高まった。

 2002年8月22日午前8時に、ベオグラード国際飛行場から、ロシア軍の輸送機でロシア中部のディミトログラード市に空輸された。ロシアのディミトログラード市にある巨大な核関連施設であるロシア国立原子力研究所に、運搬された。高濃縮ウランはIAEAとアメリカ側が立ち会って移管された。8基もの実験用原子炉があり、旧ソ連では核兵器の開発にも関与して、プラトニウムや高濃縮ウランを保管している。




 










  








 アメリカは、9.11テロ事件以後2002年からテロ攻撃に対して、核兵器の先制攻撃も提唱した。アメリカは、モスクワのロシア原子力省もと水面下で交渉している。旧ソ連から独立した東ヨーロッパ諸国には、旧ソ連製の高濃縮ウランが拡散して放置されている。ウクライナ・ベラルーシ・ウズベキスタンに残存した高濃度ウランは、自国の防衛のために核兵器を製造できるように核物質の保存を継続している。9.11テロ事件やチェチェンテロ事件から、核テロリズムにより核物質の拡散を防止するために、アメリカは1990年代から世界に分布した核物質を回収していた。高濃縮ウランから低濃縮ウランに転換した。アメリカは、核大国であるロシアに対しても、核の不拡散を求めた。

2022年3月11日金曜日

コソボ自治州のブリズレンの病院に、1999年4月14日にNATOの空爆による誤爆により、虐殺されたアルバニア人の死体が収容された。

コソボ自治州のブリズレンの病院には、1999年4月14日にNATO(北大西洋条約機構)の空爆による誤爆により、虐殺された犠牲者の死体が収容された。その死体置き場(モルグ)の床には、6つの死体が白い袋に包まていた。死後硬直を来した死体の中から、黒い血液が大量に滲み出ていた。射殺ではなくて、空襲の誤爆による爆死であった。最も小さい白袋は、血まみれのわずか7歳の少女の死体を包み込んだ。虐殺された少女は、アルバニア人の難民であった。セルビアにて難民となり、NATOの誤爆に巻き込まれて虐殺された。

 コソボからマケドニア、アルバニア国境を越えて、セルビアまで逃げて来たアルバニア難民は、セルビアにて猛烈な虐待や虐殺を受けた。そのアルバニア人に対する虐待と虐殺が、NATOの空爆を強烈にして、アルバニア人難民が誤爆に巻き込まれて逆に虐待と虐殺された。アメリカ軍は、高速で飛ぶ戦闘機が、爆撃する誤爆は避けられないので、多数を救うためには、少数を犠牲にするのは当然とした。イギリス軍は、コソボ紛争で巻き込まれる市民の犠牲は、すべてユーゴの責任に転嫁した。ブリズレン地域は、NATOは確実に軍事目標と民間目標の鑑別は、当然に可能な天候と見晴らしであった。NATOの戦闘機は、3台の民間耕作機を軍事目標として爆撃した。ブレズレン地域は、至る所にミサイルの瓦礫が散乱していた。

 NATOによるコソヴォ紛争に対するユーゴスラビア空爆は、1999年3月24日から開始されて、6月20日まで約78日間にもわたり勃発した。NATOの空爆には、13ケ国が参戦して、約26,614個が投下された。NATOは国連の明確な指導を受けずに、ユーゴスラビアの弱小軍事力を圧倒した。ハイテクの爆撃機で空爆して、NATOはほとんど犠牲者は皆無であった。コソヴォで多数を占めるアルバニア人に対して、セルビア民族主義のユーゴスラビアから抑圧と弾圧された。1998年2月から、ユーゴスラビア軍とセルビア軍が、コソヴォに侵攻して、次第に紛争が激化した。9月23日に国連の安保理決議は、ロシアにより拒否された。

 NATOは9月24日に警告行動を発令し、コソヴォでアルバニア人の虐殺事件でユーゴスラビアに警告した。ロシアと中国の安保理決議の拒否権の発動に対抗して、10月13日にNATOは行動命令を発令した。コソヴォ紛争が再燃して、1999年1月15日にラチャク村虐殺事件が勃発した。3月19日にユーゴスラビアとアルバニアの和平協議が頓挫した。NATOは、国連は武力行使は支持しない声明を排除して、3月23日に空爆の開始命令を発令して、3月24日からNATO空爆が勃発した。

 NATOは1995年に軍事力によりボスニアを迅速に圧倒できた過信から、コソヴォ紛争に対する空爆が長期化する誤算を引き起こした。ユーゴスラビア側は、和平案を拒否続けた。逆にユーゴスラビアが、アルバニア人国外追放で反撃した。NATOの圧倒的な軍事力が、逆にセルビア人の大量虐殺に至った。軍事力による勝利で解決する戦争ではなくなった。NATOは勢力を東方拡大するために、バルカン全体の領土の確保を追求した。