2021年8月7日土曜日

太平洋戦争にてマリアナ諸島のサイパン島に、アメリカ軍が破損した日本軍戦車の前で、日本軍兵士が殺害された死体が荒野に横たっていた。

太平洋戦争にて、マリアナ諸島のサイパン島にアメリカ軍が上陸した翌日である1944年6月16日に、破損した日本軍戦車の前で、日本軍兵士が殺害された死体が荒野に横たっていた。日本軍兵士と戦車は、アメリカ軍の戦線を攻撃した後に、殺害と壊滅された。6月17日の夜中に、日本軍は再びアメリカ軍に約44台の戦車を使った大規模な攻撃を仕掛けた。戦闘は、騒音、トレーサー、点滅するライトの狂騒に発展した。日本軍戦車が撃たれて炎上すると、他の戦車が輪郭になって前方に突撃した。アメリカ軍は、大砲と戦車で騒音を立てながら砲撃を続けた。夜が明けたとき、戦闘は終結して、約24両の日本戦車が粉々になって、残骸が煙を上げて、多数の死体も横たわった。6月18日に日本軍の洞窟に向けて発砲した時には、有害なガスの濃い雲が流れ出てきて、ガス警報器が鳴って、日本軍が洞窟に貯蔵していたピクリン酸と認定した。

 アメリカ軍の上陸した部隊は、内陸部の高台にいる日本軍からの絶え間ない砲撃により死傷者を出した。海岸に向かう途中で日本軍の狙撃手から猛攻撃を受けた。水陸上陸船は。方向を見失い、直撃を受け、日本軍の攻撃で横倒しになり、装備や人員を岩礁に置き去りにした。両軍の死傷者は急速に増加して、陸上に設置された救護所も、散発的な日本軍の攻撃を受けた。アメリカ軍の代償は大きく、6月18日の夜までに約5,000人以上の死傷者を出した。

 アメリカ軍の約7万人がサイパン島に1944年6月15日に上陸した。サイパン島には約31,000人の日本軍の駐屯軍によって防御され、多くの民間人が居住していた。すべての洞窟には、日本軍の狙撃兵、大砲、または戦闘からの避難を求める民間人が潜伏していた。日本軍は、民間人を待ち伏せの餌として、または人間の盾として使用した。アメリカ軍の戦闘員を悪魔化して、多くの日本の女性と子供たちは、サイパンでアメリカ人と対峙するのではなく、自殺を選んだ。

 6月末には、日本軍は島の岩だらけの北部に追い詰められた。7月7日に、海に背を向けて、日本軍は最大のバンザイ突撃を開始した。約15時間のバンザイ攻撃の後、最後の約5000人の日本軍兵士が絶滅して、死体が散乱した。1944年7月9日に、組織化された日本軍の抵抗が終わり、アメリカ軍はサイパン島に安全宣言を出した。約4か月後の11月1日から、サイパンから東京行きのB-29爆撃機が約100機が離陸して、日本国土に無差別の空襲が勃発した。




2021年8月6日金曜日

学術調査団は10月1日から広島原子爆弾の爆心地付近で放射線を測定したが、9月17日の強烈な枕崎台風による流出のため、低値で無害の測定値が報告された。

広島原子爆弾の爆心地である島病院の南側で、学術調査団が1945年10月1日より残留放射能を測定した。理研が、同一地点を約3回にわたり、ローリッツェン検電器により、土地の放射能の強度を測定した。測定の結果は、広島の土地の残留放射能が、すでに人体に害を及ぼすほどのものはないと報告された。しかし、学術調査団は10月1日から爆心地付近で放射線を測定したため、9月17日の強烈な枕崎台風によって表土が流されたためか、測定値は以外に低かった。(枕崎台風による死者・行方不明は全国で約3,800人、広島県では約2.000人)残留放射能が流出して、「広島では70年間何も育たない」という説を覆す結果を報告した。

 しかし、原爆投下後の広島で活動していた京都大学医学部の研究グループが、大野陸軍病院に滞在していた。9月17日夜、中国・四国地方を襲った枕崎台風による土砂崩れで、病院は壊滅状態となった。この台風により、広島県では被爆者を含む1,199人が亡くなり、897人が行方不明となり、1,297棟の家屋が流され、さらに2,101棟の家屋が倒壊しました。

 9月19日に、撮影スタッフの生物班が東京から広島へ向けて出発した。続いて物理班が東京を発ち、最後に土木建築班と医学班の撮影スタッフが広島へ入った。現地では、食糧などの物資が不足するなど、苦労が伴ともなった。しかし、各班の撮影スタッフは焼け跡やけあとを丹念に歩き、学術調査団の活動を追いながら広島の被害をカメラに収おさめて、広島での撮影は、約1ヵ月間に及んだ。

 原子爆弾のドキュメンタリーを作りたいと思っていた科学調査チームとカメラマンの調査記録員が、9月27日に広島に入り、29日から作業を開始していた。日本フィルム株式会社のスタッフが調査記録を撮影した。しかし、この時に撮られた写真と映像は、アメリカ軍の占領当局(GHQ)によって没収された。幻の映画と写真として、日本に公開されるのは約28年後となった。




 
















2021年8月6日 Japan No War NGO (JNWN)
日本平和市民連盟 視聴回数 500,000回, 1817投稿

2021年8月5日木曜日

白軍と連合軍が、何万人もの共産主義者、労働者、農民が虐殺して、刑務所の地下室では革命勢力の人々が射殺されて、死体が散乱した。

ソビエト政権が1917年10月に誕生して、対抗する白軍と連合軍が1918年初頭から占領した地域では、ソビエト権力が転覆し、残酷な恐怖政治が敷かれた。あらゆる革新的勢力が最も残忍な手段で弾圧された。何万人もの共産主義者、労働者、農民が虐殺された。刑務所の地下室で、革命勢力の人々が射殺されて、死体が散乱した。連合軍は恥ずかしげもなくロシア市民の財産を略奪して、国土を荒廃させた。ソビエトの反革命権力は、食料、原材料、燃料の主要な供給源から切り離して、ロシア市民は飢えた。

 連合軍は、内部の反革命の助けを借りて、反乱を組織して、陽動作戦を実行した。外国の外交官たちは、ソ連政府幹部の逮捕とレーニンの暗殺により、ソ連の政権に対する陰謀を企てた。社会革命的なテロ集団が、党や国家の要人に対して、いくつかの攻撃を行った。1918月1月30日に、社会革命家たちがレーニンの暗殺を試みたが未遂に終結した。

 レーニン暗殺未遂のニュースは、ソ連の国中に憤りを与えた。労働者たちは総力を挙げて反革命勢力を殲滅することを誓った。労働者や農民は、党にさらに結集し、赤軍への援助を増やしていった。1918年9月2日に、ソビエト共和国はトロツキーを長とする革命軍事評議会を設立した。ペトログラードの共産主義者が前線に送られ、赤軍は大きな成功を収めた。反革命である連合軍を粉砕した。赤軍は9月にはカザンとシンビルスクを、10月初めにはサマラを解放した。

 ロシア中央部でソビエト権力が確立されると、反革命の拠点となったのは旧ロシア帝国周辺の諸民族地域が反革命の拠点となった。1918年1月以来に、ドン、クバン、ウクライナなどでソビエト軍と反革命軍との戦闘が勃発した。1918年5月にウラル、シベリアで起こったチェコ軍団の反乱が、全面的内戦の起点となった。第一次世界大戦中にチェコ軍団は、革命後にはヨーロッパ戦線へ移動するためにロシア国内で編成された。チェコ軍団の反乱はシベリア鉄道沿線に展開して、ソビエト政権に深刻な脅威を与えた。シベリア各地には、反ソビエト政権が生まれた。連合軍はこれを契機に全面的な干渉戦争を開始して、1918年8月にはチェコ軍の救援を根拠に、日本軍、アメリカ軍を主体とする大軍部隊がシベリアに侵攻した。




2021年8月4日水曜日

満州事変後に関東軍と中国軍が洮南の付近の大戸屯の戦いにより、殺害された中国軍兵士の死体が荒野に放置され散乱した。

満州事変が1931年9月19日に勃発して、日本帝国側は、満州鉄道の利害に影響する洮昂鉄道を占領するために、関東軍は四平から大興の南約220kmの洮南に向けて侵攻した。関東軍と中国軍が洮南の付近の大戸屯の戦いにより、殺害された中国軍兵士の死体が荒野に放置され散乱した。洮昂鉄道は、中国の奉天軍閥が1924年9月に満州鉄道と請負契約を締結して、1925年から満州鉄道が敷設して、1933年に満州国が占領した。

 関東軍により中国側鉄道の軍事的奪取をした。満州事変後在満の中国系諸鉄道は満州国の国有鉄道(満州国線と略す)とされ、その経営は満鉄に委託された。しかし、その実態は関東軍が戦時下で獲得した鉄道に対する支配権を、事変終了後にも継続するために、関東軍の軍事的観点からの要求であった。実際様々な措置を通じて満州国線に関しては関東軍が指揮監督権を持つことが認められたのである。満鉄が満州国法人となった場合、日本政府の影響力は低下して、満州国が満鉄に対して発言権を拡大し、その結果軍の管理権に影響が出た。独立国家として満州国が満鉄への発言権を拡大した。

 満州国籍への変更が日本の諸監督機関の影響を低下させて、関東軍が在満の鉄道の指揮監督を独占した。1932年4月19日に関東軍と満鉄の協定により、満州国線等の管理権が関東軍にもたらされた。関東軍は満州国の交通等につき管理権を持ち、さらに関東軍は、満州国の国家の行政権限まで含めた。関東軍は、満州国を明確に植民地と見なした。関東軍は軍事力によって支配を拡大し、自らに都合の良い主観的な主張に基づいた。関東軍が必要だと判断すれば、必要な措置を講じれた。

 1919年4月に日本が日露戦争の勝利後に、清国からロシア帝国が租借した遼東半島の関東州を、日本は割譲された。関東州と南満州鉄道の守備隊がのちに関東軍となった。1931年9月18日に柳条湖事件が勃発して、満州事変が勃発して、1932年2月には関東軍は満州全土を占領した。その直後に、関東軍は1932年3月1日に満州国を設立した。




2021年8月3日火曜日

レバノン内戦にて1976年秋期に、パレスチナ・コマンドのイスラム教徒の左派パレスチナ人が、右派のキリスト教徒の多数のレバノン軍兵士を襲撃した。

レバノン内戦にて1976年秋期に、パレスチナ・コマンドのイスラム教徒の左派パレスチナ人が、右派のキリスト教徒の多数のレバノン軍兵士を襲撃した。その射殺されて虐殺された右派レバノン軍兵士の死体が、レバノンの荒野に散乱した。レバノン左派連合とパレスチナ・コマンドが、キリスト教右派の間でレバノン内戦が1975年4月13日から1990年10月13日まで勃発していた。レバノン内戦により、約120,000から約150,000人が死亡した。

 1949年にイスラエル建国して以来に、ヨルダンからレバノンにパレスチナ人は避難した。支配派である富裕層で人口少数派の右派キリスト教徒が、レバノン政府の権力を保持して、左派連合のイスラム教徒を弾圧した。1967年六日戦争にてアラブ側が敗戦して、パレスチナ人はパレスチナ解放組織(PLO)を結成した。レバノンでは、弾圧された人口多数派で貧困層であるイスラム教徒を、パレスチナ人解放機構が支援した。レバノン人の左派グループとパレスチナ解放機構である左派連合のイスラム教徒が、右派キリスト教徒のレバノン政府に反発した。

フェダイーンと呼称されるパレスチナ・コマンドが、イスラエルに対する攻撃や1970年に飛行機乗っ取り事件を引き起こした。

 それに対抗したイスラエル軍や爆撃機がレバノンの左派連合を侵攻した。イスラエル軍は、1968年にレバノンのベイルート空港で約13機の飛行機を爆破した。イスラエル軍は、レバノンの南部の村を襲撃して占領し、民間市民を無差別に射殺した。レバノン政府軍は、イスラエル秘密組織とアメリカCIAと連携して、パレスチナ・コマンドを攻撃した。

 1975年2月にレバノンの南約40kmのサイダ(シドン)港町で、イスラム教徒の幹部が暗殺された。左派連合が右派のレバノン政府に反発して、レバノン全土でデモや発砲事件が頻発した。右派によるバス襲撃事件が勃発して、銃を持たない左派イスラム教徒の乗客が暗殺された。

レバノン左派連合が、右派レバノン政府を糾弾して反発した。レバノン左派の支援を受けたパレスチナ・コマンドと、キリスト教右派の間で戦闘が勃発した。ベイルート市内では、右派レバノン政府は、検問所で無差別に左派連合の容疑者を掃討した。1976年6月に右派レバノンから要請されシリア軍がレバノンに侵攻して、レバノンの左派連合のイスラム教徒が劣勢となった。




2021年8月2日月曜日

サイパン島の北端に追い詰められた日本軍兵士は、1944年7月7日午前4時にタナバク海岸で悲惨な最後のバンザイ攻撃で全滅した。

サイパン島の北端に追いつめられた日本軍兵士は、1944年7月7日午前4時に猛烈で悲惨な最後のバンザイ攻撃に参戦した。約5,000から6,000人の自暴自棄な人間が、玉砕の栄光に洗脳されて、哀れな武器を手に取り、タナパグ海岸でアメリカ軍歩兵に向かって真っ直ぐに走ってバンザイ突撃した。体力のある日本人は真っ先に死に、負傷者は死の後を追おうとした。アメリカ軍は一切の妥協を許さず、日本軍を全滅させた。タナバク海岸には無数の日本軍兵士の死体が散乱して、死体の側にはアメリカ軍兵士から奪った銃が放棄された。

 日本軍のバンザイ攻撃は、狂信的で自殺的攻撃は、常に暗闇の中で行われ、アメリカ軍陣地に正面か攻撃した。日本軍兵士は、殺されるのは目に見えていた。日本軍兵士は、アメリカ軍に向かってまっすぐ突撃することを要求された。みんな突撃しているじゃないか。みんな突撃したぞ!突撃しろ!日本刀を抜いて激しい姿勢をとり、再び突撃せよと叫んだ。死んでも構わず、広い浜辺でバンザイ攻撃をした。

 日本軍兵士は、いずれは死ぬと真に信じていた。生け捕りでは、家族に顔向けできない。バンザイと見送られて、家に帰れない。バンザイ攻撃は自殺攻撃である。動けない者は、手榴弾あるいは青酸カリで死ねと言われた。女性や子供は青酸カリを飲んだ。あるいは崖から飛び降りた。洞窟で殺されるよりは、アメリカ軍兵士を道連れで死ぬことを選択した。日本軍は、アメリカ軍の戦線を突破し、支配した支援地域を奪還し、アスリート飛行場を破壊してナフタン・ポイントで再編成する見栄で無謀なバンザイ攻撃をした。

 日本軍は死の谷と呼ばれた窪地に、数百人の日本軍が集結した。走れる者、歩ける者、よろける者、這える者は攻撃に参加し、動けない者には手榴弾を渡して死ねと指示された。日本軍兵士は、祈り、泣き、歓声を上げ、酒を飲んで、声はタナパグ平原に響き渡り、アメリカ軍のる尾根にまで聞こえた。アメリカ軍兵士よ、お前は今夜死ぬんだ。日本男児はアメリカ人の血を飲むと叫んだ。次第に、天皇万歳!とっつぁん!と掛け声した。

 夜は最悪であり、日本軍は前線を突破して、照明弾があっても、何も見えない。の暗闇から狂人の大群が現れた。バンザイと叫び声が響き渡り、日本刀を抜いて頭上でぐるぐると振り回している。武器を撃ち、バンザイと叫んでアメリカ軍に突撃した。アメリカ軍は、迫撃砲と機関銃が絶え間なく発射した。目の前に日本軍兵士の死体が積み重なっても、その死体を轢いて突撃した。攻撃のたびに犠牲者が出ても、続々と突撃した。弾丸は周りを飛び交い、悲鳴は耳をつんざき、辺りは死の臭いが漂い、日本人の死体と火薬の臭いが空気中に漂った。日本軍兵士は、恐怖と憎しみに満ち、殺意を持って、野蛮な野獣となり、悪魔となり、全く人間性を失い、ただ殺す、殺す、殺すと叫んだ。アメリカ軍兵士は、一旦、接触して接近戦が始まると、恐怖を忘れて、至近距離で短い間隔にて両手で射撃した。バンザイ攻撃で約4,000人以上のほぼ全員の日本軍兵士が死亡した。約12時間に及ぶ戦闘で、約1,000人のアメリカ軍兵士が死傷した。




2021年8月1日日曜日

朝鮮戦争にて、アメリカ軍の基地に襲撃した中国義勇軍兵士が鉄条網に巻き付いて射殺された死体が荒野に放置された。

朝鮮戦争において、アメリカ軍の基地に襲撃した中国義勇軍兵士が鉄条網に引っかかり射殺された。鉄条網(trip-wire)が巻き付いた中国義勇軍の死体が放置された。中国義勇軍の1951年の春期攻撃に備えて、全長約800kmにもわたる鉄条網を貼った。1951年の春までには、アメリカ軍は朝鮮戦争の範囲と規模を拡大して、決定的な勝利を収めるのはもはや実行不可能と結論づけた。

 朝鮮戦争は1950年6月25日に約75,000人の北朝鮮軍が韓国に侵攻して勃発した。最初の6週間に、アメリカ軍と韓国軍は一連の遅延と撤退した。洛東江の背後に撤退して防御態勢を確立して、1950年8月1日に釜山境界線が編成された。その直後に1950年9月15日に仁川の水陸両用上陸の攻撃と同時に釜山境界線からの侵攻は、北朝鮮人民軍を崩壊させた。アメリカ軍と韓国軍は1950年10月1日に38度線に到達し、10月9日には38度の国境を越えた侵攻を開始した。10月19日に北朝鮮の首都平壌を占領し、11月24日に北朝鮮と中国の国境に向けて最終攻勢を開始した。

 11月25日に、中国人民義勇軍の全面的な介入により、戦況が逆転してアメリカ軍と韓国軍は防衛に移行した。数的優位性を持つ中国人民志願軍は、複数の攻撃を仕掛け、最終的に北朝鮮からアメリカ軍と韓国軍を追放して、1951年1月4日にソウを再占領した。防衛線から約443kmも撤退した。1951年1月中旬までに、アメリカ軍と韓国軍はより強力な戦力により占領した土地から、中国義勇軍と北朝鮮軍との距離を縮めては破壊した。1951年3月15日にソウルは4度目の奪還をした。3月下旬までに、アメリカ軍は38度線に到達し、その3週間後には約30km先に強固な防御陣地を築いた。

 中国義勇軍がソウルの最後の攻略を決行した。しかし、中国共産党は、最後に韓国の首都ソウルを占領して、停戦を提唱する予定であった。中国軍の1951年4月22日から7月8日までの侵攻は、朝鮮戦争で最大の地上戦となった。中国人民義勇軍は壊滅的な損失を被った。1951年の夏には、両軍ともに地上戦の防御戦に移行した。休戦交渉を開始し、膠着した軍事的状況を休戦会議に移した。朝鮮戦争の休戦交渉は1951年7月10日に始まり、約2年間にわたり複雑で冗長な会議となり、1953年7月27日にようやく休戦が成立した。




2021年7月31日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。大村海軍病院に入院して看護婦から救護を受けていた。女性の職業は行員をしていた。原爆症により、彼女の頭頂部にかけて著明な脱毛が認められた。1945年8月9日に長崎原子爆弾の炸裂によって、長崎市内は一瞬にして地獄化して、約73,000人が被爆死した。さらに約75,000人の被爆者には、その後に原爆症を発症して、深刻な後遺症の障害を伴った。

 1945年9月1日時点で大村海軍病院に収容された被爆者の概要は、収容患者総数は約758人である。そのうち約97%は直接に原子爆弾による受傷者であり、約3%が火災その他による関節の受傷者であった。屋内に居た者は約81%、屋外に居た者は約19%であった。着衣の者は約63%であり、半から全裸体の者は約37%であった。死亡者は総数は約155人である。

 被爆者の一般症状は、入院被爆者の大部分は、原子爆弾による熱傷ならびに爆風による爆傷である。原子爆弾による熱傷は普通の熱傷まては火傷と異なり、体表面の約3分1以上の広範囲の熱傷にも関わらず、予後良好なる傾向は注目された。

 特異被爆者の症状は、熱傷または爆傷は極めて軽微あるいは全く無い被爆者でも、被爆後の数日あるいは十数日を経過して、突然に光熱、著名なる脱毛、口腔粘膜の腐爛状態、口唇の部分的壊疽、嘔吐、血便、皮膚及び粘膜のうっ欠の病状を発現した。それから約2から約1週間後に病死するに至った。

 その血液所見は末期には、白血球数が約200程度、赤血球数は約100万から約200万、血色素は約30%、色素係数約1.0過ぎ、血小板はほとんど消失していた。血液の病理標本では、赤血球に非常に大小の不同にて、白血球はわずかに数個のみ、リンパ球は少し多かった。血液の凝固時間は、開始が約5分から完結するのに約20分も必要として、出血時間は2時間以上となった。

 死亡後の死体の病理剖検(8事例)で、共通なる所見は、内蔵主として消化器の著明なるうっ血の散在して、肝臓破裂が3事例、脾臓破裂は1事例、直腸粘膜に舌苔様あるいは水疱様物が2事例、軟脳膜に苔状物が2事例を認めた(大村海軍病院に収容せる原子爆弾遭難患者の調査概要、1945年9月1日時点)。





2021年7月30日金曜日

ドイツ中部のガルデレーゲンで1945年4月13日に、ナチス・ドイツ親衛隊が約11,000人の政治犯を納屋に押し込めて焼き殺した。

ドイツチ中部のガルデレーゲン(Gardelegen)で1945年4月13日に、ナチス・ドイツ親衛隊が約11,000人の政治犯を納屋に押し込めて焼き殺した。生存者は、そのうちで約12人のみであった。連合軍が1945年4月16日にミッテルバウ・ドーラ(Mittelbau-Dora)強制収容所を解放して、その悲劇と残酷を見出した。

 1945年4月13日金曜日に、アメリカ軍への差し迫った占領に備えて、ドイツの親衛隊はドイツ中部のガルデレーゲンにあるミッテルバウ・ドーラ強制収容所にて、約1,000人以上の宗教的、政治的、軍事的囚人を殺害して、彼らの存在を隠滅した。囚人たちは、ガソリンを染み込ませたわらが床に散布された大きな石積みの小屋に連行された。親衛隊は手榴弾を使用して、わらを燃やした。燃えている納屋から逃げようとした囚人は射殺された。残りは火事で焼死した。ドイツ軍は集団墓地に死体を隠そうとしたが、地域がアメリカ軍に占領される前に、約700体のみしか埋葬でなかった。アメリカ軍は、納屋で約300体以上の死体を発見した。動いたり反応したりした生存者の囚人は射殺された。アメリカ軍が到着したとき、射殺された囚人の死体の山の下に隠れて生き残った。

 1945年4月4日に、ロットレーバーオーデ強制収容所から1600人の囚人は、ガルデレーゲンの強制収容所に強制疎開させられた。ニーダーザックセン州まで歩行した後に、鉄道貨車に積み込まれてガルデレーゲンに運ばれた。それから6日目までに、ナチス親衛隊員はすでに約300人を射殺した。ナチスの地区指導者の命令で、残りの1,000人の囚人はガルデレーゲン近くのイゼンシュニブル野原の納屋に強制連行されて放り込まれた。親衛隊はガソリンに浸した藁に火をつけ、逃げようとした囚人を皆殺しにした。ミッテルバウ・ドーラ強制収容所への強制送還に伴う最も残酷な虐殺で、生き残ったのはわずか約12人であった。1945年4月15日に、ミッテルバウ・ドーラ強制収容所はアメリカ軍によって解放された。生き残ったのは、輸送に適さない数百人の囚人だけだった。その生存者の一部は、アメリカ軍によってボエルケ兵舎の死体の中で発見された。

 ソビエト軍が1944年から1945年の変わり目にポーランドに急速に侵攻した。親衛隊は東の大きな収容所から囚人を避難することを余儀なくされた。アウシュビッツ、グロースローゼン、マイダネクからの数千人の囚人を乗せた輸送機関が、ミッテルバウドラ強制収容所に収容された。輸送だけでも非人道的な方法で行われて、すでに何百人もの囚人の命が失われた。約100〜130人が、凍るような約-15°Cで食物や液体がほとんどないオープンコールワゴンに詰め込まれた。旅行は約7-10日かかりました。かなりの数の強制避難者が途中で親衛隊に射殺されて、死体は電車から投げ出された。

 ミッテルバウ・ドーラ強制収容所に到着した囚人は、収容者の数が約40,000人に急増した。完全に超過したなキャンプでは、毎月最大約5,600人の囚人が死亡した。東部の収容所が解散する前は、毎日約2.5人の囚人が死亡した。受刑者の数が大幅に増加すると、1日あたり平均11人の囚人が死亡した。非常に多くの死者が出たため、死体の火葬場は過負荷になった。ドラには毒ガス室がなかったため、一度に多数の囚人を消滅できなかった。したがって、組織的な虐殺が執行され、病気や障害のある囚人を絶えず弱体化させて、その結果彼らのほとんどを虐殺した。




2021年7月29日木曜日

ビルマのイラワジ会戦で、イギリス連合軍により殺害された日本軍兵士の死体が木材に寄りかかりあるいは河の流れに浮き沈みした。

ビルマにおけるイラワジ会戦で、イギリス連合軍により日本軍は壊滅した。イラワジ河に、日本軍兵士の死体が木材に寄りかかりあるいは河の流れに浮き沈みした。さらにイラワジ河の路傍または車の中で座り込んだ死体が散乱していた。日本軍の死体は、モンスーンの雨期の最盛期には、日本軍兵士には悲惨な退却における大量虐待と大量虐殺に至った。

 日本軍はコヒマでの戦い(1944年4月4日から6月22日)は約7,000人に及ぶ大損害に終わり、最終的には悲惨な撤退を余儀なくされ、インパール作戦と同じような運命をたどった。インパール作戦(1944年3月8日から7月3日)では、日本軍とそのインド同盟軍は少なくとも5万人の死者を出した。連合軍は、日本軍の中枢を狙った攻撃をした。連合軍は、コヒマとインパールの平原で敗走する日本軍を追撃した。ビルマ中央部、マンダレーまでの南側を占領してさらに南下し、イラワジ河の北にあるシューボ平原の日本軍を壊滅した。連合軍はチンドウィン河渡り、連合軍は、絶滅の決意を固めた日本軍が覆う大きなイラワジ河に直面した。イラワジ河の中央部の幅は約1,800mで、移り変わる危険な砂州が点在して、直接渡ろうとすれば、非常に犠牲を伴った。イラワジ会戦は1944年12月から1945年3月28日まで、日本軍とイギリス連邦軍との戦いがビルマのイラワジ河で勃発した。

 インド軍がパコックを攻略した後に、1945年2月14日に、イギリス連合軍はビルマの古都パガンの北にあるニャウン・ウーでイラワジ河を渡った。イワラジの渡河は広い戦線で行われた。ニャウン・ウーでの主な攻撃も、かつてのビルマ首都で、多くの仏教寺院があるパガンでの副次的な渡河も、当初はイラワジ会戦で悲惨な犠牲者を出した。日本軍は2月16日からカラカン陣地に毎夜に斬り込みを繰り返し、戦死傷者が増大して、死体も放置された。イギリス連邦軍の戦闘機から銃砲弾、迫撃砲弾、機銃掃射が河原一面に撃ち込まれた。パガンとニャウングは、日本軍のインド国民軍が守り待機した。インド軍は、イワラジ河を流れる機関銃の射撃で突撃艇が故障し大きな損害を被った。最終的には、イラワジ河を渡って射撃するの戦車と大規模な砲兵隊の支援により、ニャウングの日本軍の守備隊は崩壊した。パガンでは、防衛部隊であるインド国民軍が抵抗して、日本軍は大きな犠牲を出してポパ山に撤退した。

 2月20日までに大部分の連合軍イラワジ河を渡り、メンティーラを占領した。パコックの占領は、インド軍による更なる侵攻をした。2月19日、連合軍はパンコック沖のイラワジ河ある長さ約8.0km、幅約4.8kmの島を通過した。2月24日に、連合軍はパコックの南方に移動して、イラワジ川を渡って、ニャウン・ウー橋頭堡の一部を占領した。2月25日には、インド軍がイギリス軍の突撃を支援した。すぐに村を確保した。日本軍約7名を殺害した。4月中に、連合軍はこの地域で日本軍との戦闘を続けて、レッツェとセイビクを占領した。4月24日の朝、連合軍は、金塔と僧院が目立つ尾根から日本軍の激しい砲撃で釘付けになった。この日本軍陣地は、連合軍が重砲隊の支援を受けて攻略した。約39人の日本軍兵士の死体が検死された。4月30日までに連合軍ははプウィンプを占領して、その後パカン村の日本軍の陣地を攻略した。5月5日から5月8日にかけて、南側から環状に配置された日本軍の陣地に連合軍が攻撃をした。5月6日には日本軍の後方の道路封鎖して、5月7日には日本軍を包囲して、5月8日にはパガン村を占領した。イラワジ会戦(メイクテーラ会戦を含む)で、日本軍とインド国民軍は約12,913人が犠牲となり、イギリス軍とインド軍は約18,000人の犠牲を伴った。