2021年3月1日月曜日

太平洋戦争のマニラの戦いにて、手作りの木製の護送車で、看護婦らが手押しながら重態の犠牲者を救護所に移送した。

太平洋戦争のマニラの戦いにて、手作りの木製の護送車で、看護婦らが押しながら死にかけた犠牲者を救護所に移送した。1945年2月3日から3月3日のマニラの戦いは、最も血なまぐさい1ケ月間となった。日本軍兵士は生きたまま戦いから抜け出せず本国にも戻れないないことを知っていた。日本軍兵士は、マニラの不幸な市民に怒りをぶつけて巻き込んだ。日本軍兵士は、建物を燃やし、橋を渡るすべての橋を爆破した。日本軍兵士は、マニラ市民に対する強姦と殺人に熱狂した。マニラ戦いの終わりには、マニラのほとんどは廃墟になった。戦闘で約10万人のマニラの民間市民が殺害された。
 アメリカ軍とフィリピン軍のゲリラ部隊が、マニラの各町を日本軍から解放するにつれて、他の町の日本軍兵士は、すべてのフィリピン人を敵のスパイと見なして、より多くの虐殺と残虐行為を犯した。バタネスでは、日本軍兵士は、強力なゲリラ作戦に対抗するのために、イヴァタン人を大量虐待と大量虐殺した。その他の大量虐待と大量虐殺は、バタンガスのいくつかの町でも発生した。リパ、タール、バウアン、タナウアン、カラウアンなどでも大量虐待と大量虐殺が発生した。ラグナでは、カランバのベイでも大量虐待と大量虐殺があった。そしてタヤバスでは、ティアオンとインファンタの市民が大量虐待と定量虐殺された。町は焼かれ、民間人市民は銃撃され、機関銃で撃たれ、女性らは強姦された。
 日本人が殺戮を続けている間、フィリピン軍のゲリラ部隊は可能な限り反撃して、復讐を強要した。残忍な扱いを日本軍兵士は恐れて、降伏した日本軍兵士はアメリカ軍に服従することを求めた。これらの日本軍兵士の何人かはゲリラがなぜこのように反応したかを知っていました。他の日本軍兵士は彼らが犯した残虐行為を忘れようとした。
 同様に悲劇的な、アメリカ軍の爆撃機は、日本軍兵士が都市を放棄したというフィリピン軍のゲリラ部隊の報告にもかかわらず、バギオを無差別に空爆して民間市民も掃討した。アメリカ軍は、カビテ、イロイロ、セブ、サンボアンガの各都市で無差別の空爆を繰り返した。アメリカ軍を支援することに加えて、フィリピン軍のゲリラはまた彼ら自身の復讐で戦った。
 1945年2月3日の夕暮れ時に、アメリカ軍がフィリピン軍のゲリラ部隊の支援を受けてマニラに侵入した。日本軍が占領の開始以来、連合軍の民間市民が収容されていたサントトーマス大学に到着した。散発的な機関銃の発砲により、さらに侵攻しようとした他の車両が停止した。マニラの日本軍が対抗して、血なまぐさい1ヶ月間の戦いの始まりとなった。犠牲者は、日本軍兵士は約14,300人のうち約84%に相当する約12,000人が戦死した。アメリカ軍とフィリピン軍のゲリラ部隊は、約1,010人は戦死して、約5,500人が戦傷した。フィリピンの民間市民は、両軍の戦死者数の約7.7倍に相当する約100,000人が殺害された。

 

2021年2月28日日曜日

広島原子爆弾に1945年8月6日に伝馬町で、被爆した少女は、約2年経過しても両上肢、背中、頸部にケロイドを形成した。

広島原子爆弾に1945年8月6日に被爆した少女(T.Kuwabara, 伝馬町)は、両上肢、背中、頸部にケロイドを形成した。それから約2年経過した1947年7月7日に、少女は名簿を記載した看板にて背部を撮影された。戦時中および戦後の劣悪な生活環境条件も、原子爆弾の被爆者の長びく治癒に関与して、火傷の化膿、創傷の修復の遅延、および皮下組織の厚い瘢痕の形成につながった。その後に、瘢痕組織が収縮し、変形または機能障害も引き起こした。ケロイドの後遺症は、顔、首、指に最も顕著であった。
 広島原子爆弾と長崎原子爆弾が炸裂した中心部である爆心地近くで、顕著な一次熱傷または閃光火傷を患った被爆者は、同時に、途方もない爆風と放射線も被爆した。炸裂日に被爆者のほとんどは即死するか、少なくともステージIの熱傷で死亡した。爆心地から約1,000〜2,000mの地域で熱傷を患った被爆者は、衣服を加熱または焦がして、さまざまな程度の二次的熱傷を伴っていた。中程度の閃光火傷に加えて、接触性火傷や炎上火傷などの熱傷を伴った。これらの二次的損傷は、火炎による熱傷の場合の損傷と性質が類似した。真皮の深部および皮下組織に大きな損傷が発生するグレード3またはグレード4の熱傷に類似した。これらの病変は、しばしば閃光火傷によって複雑化して、治癒するのに長時間がかかった。
 爆心地から約2,000〜3,000m以内の地区で、頻繁に発生する閃光火傷(一次熱傷)の大部分は、最初は比較的短時間で治癒して、単純な薄い瘢痕が形成された。しかし、閃光火傷によって引き起こされた瘢痕から、約3〜4か月以後にケロイドを著しく形成した。 
 瘢痕とケロイドの発生は、1946年12月に、広島での原爆投下の調査で、小学校から中学校までの学生に、ケロイドの発生率が高かった。生存した被爆者のうち、実際に診察された症例は、熱傷は388例、放射線疾患は63例、外傷は39例、外傷なしは5例、熱傷の表面からケロイドが発生した247例を含む、合計426症例であった。約1.6kmの距離で屋外で被爆した学生のケロイドの発生率は約89.1%であった(46人中41人が熱傷)。約2.1kmの距離で約94.5パーセント(55人中52例)および約87.1パーセント(109人中95人)であった。そして約2.3kmで約32.6%(156人中51人)。約1.2kmで屋内で火傷した一人はケロイドを持っていた。約1.3kmの屋外の日陰で熱傷された19人のうち、7人はケロイド(36.8%)を形成していた。そして、約2.1kmの日陰にある2つのうち、ケロイドを形成した症例はなかった。屋外で熱傷を受傷した後にこれらの状態を発症した239例のケロイドと熱傷の合計は、それぞれ屋外697と屋内2,128でした。
 1946年8月、長崎原子爆弾の調査では、熱傷瘢痕のある158例のうち106例(67.1%)と外傷性瘢痕のある114例のうち24例(21%)でケロイドを発見した。ケロイドは男性よりも女性でより頻繁に発症して(女性は74.3%, 男性は62.0%、最も一般的には十代は特に男性で発症した。症例の大部分は爆心地から約1.6kmから約2kmの距離にいた(男性55.5%;女性56.6%)。

 

2021年2月27日土曜日

日露戦争における遼陽会戦において、ロシア軍の攻撃により、日本軍兵士が塹壕の中で殺害された死体が散乱した。

日露戦争における遼陽会戦において、ロシア軍の攻撃により、日本軍兵士が塹壕の中で殺害された死体が散乱した。その日本人兵士は、塹壕の周囲から死体群を覗き込んだ。ロシア軍も、日本軍の絶え間ない攻撃が、塹壕での犠牲の増大を招いた。
 日露戦争における遼陽会戦は、1904年から8月24日から9月4日からまで、中国の遼寧省遼陽(Liaoyang)の荒野にて勃発した。荒野の丘斜面の周辺で激しい戦闘が起こった。日本軍とロシア軍が満州から朝鮮半島などの利権を奪い合った。日本軍とロシア軍の両軍が激突した最初の戦闘である。日本軍兵士は約125,000人とロシア軍は約158,000人の合計約28,3000人が相互に攻防した。ロシア軍は、遼陽を3重に要塞化していた。ロシア軍の広大な要塞と大砲の威力で、日本軍は甚大な損失を伴った。
 日本軍は満州の遼陽でロシア軍を包囲するも、日本軍は甚大な損失を伴って、ロシア軍は9月4日に全軍が未然に北部の瀋陽まで撤退した。満州の各都市は、日本軍とロシア軍、中国軍により、占領されて略奪された。遼陽会戦における犠牲は、日本軍は約5,537人が戦死して、約18,000人が戦傷して、ロシア軍は約3,611人が戦死して、約14,301人が戦傷した。
 ロシア軍兵士は、日本軍から絶え間なく襲撃されて、休息も取れず、脅迫されて、空腹で喉も渇き、熱狂的な精神からほとんど士気を失った。日本軍がより近づくほど、戦争の手段はより悪魔的なものになった。白兵戦で以前は使用されていたダイナマイト爆弾が、その後には手榴弾に変わった。終局的には、最大約200mも離れた迫撃砲から砲弾が放出された。両軍は、お互いに兵士を爆破する地雷戦も開始した。日露戦争の中で、数量的には不利でもなく優秀であったロシア軍は、決着を成し遂げることはなかった。常に山地の中で両軍の兵士が最大の決意を持って会戦をしても、何度も投げ捨て、数時間の白兵戦、時には数日もの間、両軍が向かい合って対峙して、決して両軍ともに圧倒さなかった。ロシア軍は、卓越したエネルギーで要塞を防衛して、日本軍の攻撃を受動的に待つこともなく、常に新たに積極的な攻撃で対抗した。日本軍に包囲された要塞で、ロシア軍は本当の試練にさらされて、ロシア軍は北部に撤退した。

 

2021年2月26日金曜日

朝鮮戦争中に国民防衛軍司令部の幹部らが不正に横領して約9万人も虐殺された事件で、銃殺刑による死刑が執行された。

国民防衛軍事件は、朝鮮戦争中の1951年1月に、韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給された軍事物資や兵糧米などを横領した事件である。不正により9万名余りの韓国軍兵士が餓死したとされる。1951年4月30日、国会は国民防衛軍の解散を決議し、5月12日に解体された。7月19日に中央高等軍法会議が開かれ、司令官の金潤根と副司令官の尹益憲と会計・調達・販売課長など5人に死刑判決された。8月12日に大邱郊外の端山で銃殺刑が執行された。李承晩政権は当事者だけを罪人に仕立て、速やかに粛清して、幕引きされて隠蔽して終結した。
  国民防衛軍は、1950年12月21日の国民防衛軍設置法に基づき、学生でない14歳以上から40歳未満の第2国民兵の該当者を強制的な徴兵によって組職された韓国の軍事組織である。韓国政府は約50万人の兵士を徴兵して、約51個の教育連隊に分散・収容して国民防衛軍を編成して韓国軍を補強した。1951年1月4日に北朝鮮・中国両軍の攻勢を受けた韓国軍は、1・4後退と呼称する戦線から後退を敢行した。約50万人余りの国民防衛軍の兵士は、軍務が乏しい司令部の命令により、後方の大邱や釜山へと集団で強制移動させられた。国民防衛軍の司令部は、軍歴の無い白色テロ組織である青年団幹部で構成された。
 極寒の中を徒歩で後退する兵士に対して食料・野営装備・軍服などの物資供給の欠乏により、約9万名余りの餓死者・凍死者と無数の病死を出す「死の行進」の国民防衛軍事件となった。生存者の約80%の約20万人が切断などの重度の身体障害者となった。1951年1月30日に国会で国民防衛軍を約50万人と推定して、3ケ月分で約209億ウォンの予算を策定した。国会調査で、兵員数の水増しにより国庫金から約23億ウォン、糧穀が約5万2000石が着服・横領されて、食料品費の計上額と実際の執行額・調達額の差が、約20億ウォンに上ることが明らかとなった。着服金の一部が、李承晩大統領や国会議員の政治資金と賄賂して使われた。国連からの救援物資も、国民防衛軍は韓国正規軍でないので、割当はなかった。
 1950年12月時点で韓国軍は、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けて、洛東江戦線で兵力の約45%を損失した。さらに1950年3月の徴兵制廃止により兵員招集ができない状況にあった。仁川上陸作戦で有利な戦局も、10月19日の中国義勇軍の参戦によって悪化し、長津湖の戦いから国連軍は北朝鮮からの撤退していた。1951年1月4日には、北朝鮮軍と中国義勇軍がソウルを再奪還して、1・4後退から国民防衛軍は南方に死の撤退に向かった。

2021年2月25日木曜日

レイテ沖海戦にて、日本軍の神風特別攻撃機がアメリカ軍の軍艦に向けて、体当たりして自爆するために急降下した。

1944年10月25日のレイテ沖海戦にて、日本軍の神風特別攻撃機がアメリカ軍の軍艦に向けて、体当たりして自爆するために急降下した。レイテ沖海戦での3日間の戦闘末の10月25日に、日本軍の艦隊を救うために必死する神風特攻隊を発動した。最初は神風を「しんぷう」と呼称して、「それはいい、これで神風を起こさなくちゃならんからなあ」と賛同して命名された。
 1944年10月20日午前1時すぎに、フィリピンのマニラのニコルス飛行場で、201海軍航空隊司令部が正式に体当たり攻撃隊を編成して、神風特別攻撃隊と呼称する命令を発動した。


1. 現戦局に鑑み艦上戦闘機26機(現有兵力)をもって体当たり攻撃隊を編成す(体当り機13機)
   本攻撃はこれを4隊に区分し、的機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少なくとも使用不能の程度)を期す。
  成果は水上部隊 突入前にこれを期待す。
  今後艦戦の増強を得 次第編成を拡大の予定。
   本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す。


2. 201空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、なるべく10月25日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし。
  司令は今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし。


3. 編成
  指揮官 海軍大尉 関行男


4. 各隊の名称を、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。



2021年2月24日水曜日

オーストリア系ナチスが、オーストリア首相であるエンゲルベルト・ドルフースを暗殺して、他国に対するナチス独裁化が勃発した。

突然、オーストリア系ナチスが、1934年7月25日にオーストリアの首相であるエンゲルベルト・ドルフースを暗殺して、他国に対するナチス独裁化が勃発した。10人のオーストリア系ナチスが、首相官邸に侵攻して、非武装の警備員を排除して、ドルフースを暗殺した。官邸を占領した時に、ドルフースは2発にわたり至近距離で銃撃された。1回目の弾丸は腹部から腰髄を貫通した。2発目が頸から喉を貫通して絶命した。
 1930年代を通して、ナチス・ドイツはドイツとオーストリアの併合であるアンシュルスのために熱烈に歓迎していた。しかし、1932年5月20日にオーストリアの首相となったエンゲルベルト・ドルフース(Engelbert Dollfuss)は、身長はわずか約150cmであるが、オーストリアの専制独裁を熱心に取り組んだ。1933年5月20日には、祖国戦線(Austrofascism)を結成して、イタリア系ファシズムをオーストリアで組織化した。1933年1月30日に首相に就任したヒトラーに対抗した。しかし、1934年7月25日のある蒸し暑い午後に、武装したオーストリア系ナチスは、オーストリアの首都ウィーンでドルフース首相を襲撃した。ナチス・ドイツが勇敢な小柄な首相を暗殺したことは世界に衝撃を与えた。ナチス・ドイツはオーストリア政府を掌握することにはイタリアの介入により失敗した。暗殺によるクーデターを鎮圧したクルト・フォン・シュシュニックは、ドルフースから首相を引き継いだ。
 最終的に、シュシュニックはオーストリアの将来を決定するために、1938年3月13日に国民投票の実施を公表した。ヒトラーは国民投票の結果を望まず、直後にオーストリアを攻撃した。1938年3月12日に、ナチス・ドイツはオーストリアの国境を越えた。翌日の3月13日には、ドイツ軍の戦車がウィーンを占領して、リングシュトラーセに沿って彷徨した。新たに4月10日に国民投票が実施されて、公式にオーストリアはナチス・ドイツに併合された。オーストリアのナチス・ドイツの傀儡であるナチス党員のアルトゥル・ザイス=インクヴァルトが新たな政権を率いた。ロスチャイルド邸宅が、ナチス・ドイツのゲシュタポの本部になった。ヒトラーは他国に最初の武装征服を行った。きらびやかなハプスブルク家の宝石であるウィーンは占領されて、もはやナチス・ドイツの一地方の町に過ぎなかった。オーストリアにとって、ナチス・ドイツの専制独裁政治が一早く到来した。

 

2021年2月23日火曜日

ベトコン解放勢力が、南ベトナム政府軍を崩壊させて、多数の犠牲者が出て、バーザの町並みには、南ベトナム軍兵士の死体が散乱した。

ベトナム戦争のアメリカ化の起点となったバーザ(BA Gia)の戦いが1965年5月29日から5月31日まで勃発した。ベトコン解放勢力が、南ベトナム政府軍を崩壊させて、多数の犠牲者が出た。バーザの町並みには、南ベトナム軍とベトコン兵士の死体が散乱した。

    ベトコン解放勢力は、1965年5月28日に中部海岸地方のクアンガイ省にあるバーザの南ベトナム政府軍の基地を攻撃した。ベトコン解放勢力は、バーザから約3kmのロックト駐屯地にロケット砲撃を加えた。5月29日の朝 バーサから南ベトナム政府軍が出動して、ベトコン解放勢力は待ち伏せして、約100人を殺害した。ベトコン解放勢力は、バーザ基地に大砲撃を加えた。5月30日には、ベトコン解放勢力は、バーザ基地とハタイン駐屯地にも猛攻撃を加えた。南ベトナム政府軍は、クアンガイ市から大隊を派遣するが、ベトコン解放勢力の待ち伏せで分断された。約3時間の激闘により、南ベトナム政府軍は甚大な犠牲を出した。

 バーザの戦いで、南ベトナム軍は膨大な損失を受けた。バーザの戦いが起点となり、アメリカ政府は7月22日にはベトナム戦争を南ベトナム軍だけでなく、アメリカ軍の主流化を決定した。アメリカ軍はさらに約125,000人に増員して、南ベトナム軍は約50万人にも達した。北ベトナム軍は南ベトナムにおける軍隊兵士数を増やした。バーザの戦いが、さらにベトナム戦争を激化させた。北ベトナムに対する空爆の増大により、爆撃機の基地防御のためのアメリカ軍兵士の増員が、ベトナム戦争においてアメリカの軍事的役割は、助言と支援から攻撃的な戦争へと一線を越えた。

2021年2月22日月曜日

オーストラリア軍兵士に射撃された日本軍の狙撃兵は、潜伏していた高度なココナッツの樹上から転落して戦死した。

オーストリア軍兵士が、パプア・ニューギニア島のジャングルの中で、ココナッツの樹上に隠れていた狙撃兵の日本軍兵士を、銃撃した。射撃された日本軍の狙撃兵は、高度なココナッツの樹上から転落して戦死した。仰向けになった日本軍兵士の死体の側には、ココナッツの樹と狙撃銃や水筒などが散乱した。日本軍兵士の死因の多くは直接の戦闘ではなく、熱帯性の感染症と飢餓による栄養失調と餓死であった。熱帯の気候条件にあるため、穀物の畑作等の食料の生産には適さない。
 第二次世界大戦中に、1942年7月21日から日本軍がパプア・ニューギニア島の北部海岸のブナ村を侵攻して、ブナ飛行場の基地を設置した。オーストラリア軍とアメリカ軍は、1943年1月2日に日本軍が全滅するブナ・ゴナの戦いで飛行場を奪還した。ニューギニア島は、世界で2番目に広大で起伏に富み赤道直下の島で、日本の約2倍に達する。オーストラリア軍は、1942年12月中旬からミル湾に上陸してアメリカ軍を支援した。12月18日からブナ飛行場に侵攻して12月23日に占領した。
 ブナの戦いは、1942年11月19日から1943年1月2日まで、パプアの北海岸にある日本軍の海岸堡に対する連合軍の攻撃であった。海岸堡は、日本軍がココダ道を越えてポートモレスビーに陸上攻撃するために構築された。オーストラリア軍の反撃は日本軍をココダに沿って押し戻すために、ポートモレスビーから約48km以内で勃発した。
 1942年7月と8月に、日本軍はニューギニアの北海岸のブナ近くに約11,000人もの戦闘の経験豊富な日本軍兵士を上陸させた。日本軍兵士はジャングルの中をねじり寄り、ブナから南西約160kmに達するオーストラリアの州都であるポートモレスビーにある飛行場を目指した。オーストラリア軍はかろうじて日本軍を撃退して、ブナと近隣の村に間隙を開けるために日本軍を撤退させた。アメリカ軍は、日本軍を敗退させるために、ポートモレスビーに上陸して、オーストラリア軍を支援した。その後、アメリカ軍兵士とオーストラリア軍兵士により、約2か月間も日本軍と激しい戦闘と甚大な犠牲を伴った。日本軍兵士は死ぬまで抵抗を止めず、そのために連合軍は多くの損害を出した。連合軍は、約2,300人が戦死して、約12,000人が戦傷した。日本軍は、約6,000人以上が戦死して、約1,200人が戦傷して、生存した捕虜は約200人であった。

2021年2月21日日曜日

ロシア秘密警察であるチェーカーは、ロシア革命政府に農民から強制的に穀物の徴収のため、農村全体を弾圧して処刑した。

チェーカーはロシア革命政府に、農民から強制的に穀物の放出させるために、農民、家族、村全体を弾圧して処刑した。チェーカーは民間人も容疑者の対象となり、虐待と虐殺した。その長官代理であるラチスの部隊は、ロシア国内における約2年間にわたる内戦において、反乱同調者である多数の農民を銃殺した。労働者や農民による反乱や暴動も粛清した。チェーカーは、国家のイデオロギーに限定せず、革命が利益をもたらす農民の階級制度のを迫害した最大の犯罪と呼称された。強制的に穀物の放出させるために、農民、家族、村全体を処刑した。
 ウラジミール・レーニンによって、ロシアの十月革命による共産党政府を安定化するために、1917年12月20日に、人民委員会議の直属の秘密警察組織であるチェーカー(Cheka: 全ロシア臨時委員会)を設立した。ロシアのすべての反革命運動を監視して撲滅する赤色テロにも関与した。反革命分子を革命裁判にかけ、撲滅措置を取る。犯罪阻止に必要な予備審査を行うことを任務とした。1918年に司法委員会の通告を改変して、法の支配や適正手続きや容疑者の権利に対する義務を制限されるなかった。裁判所の判決しないで、反革命運動者の大量逮捕、強制収容、処刑などを執行した。チェーカーは、共産党に直属した監督下で、反革命運動因子を粛清した。
 1918年4月11日から12日に、チェーカーは約20軒の反革命容疑者を襲撃して約520人を拘束して、約20人を死刑で殺害した。貴族、富裕層、地主、聖職者、コサック兵士まで、証拠もなく無差別に逮捕されて処刑された。設立当初の約40人が、1921年までに、チェーカー約200,000人もの人員を要する秘密警察の巨大組織となった。1918年から1920年までに、約12,733人以上を死刑執行した。有刺鉄線で戴冠され、刺され、十字架に張付けられ、絞首刑にされ、石で打殺され、板に縛られ、炉や沸騰したお湯に押し込まれ、容赦のない拷問をしてた。生存者のほとんどはシベリアの労働収容所に強制送還された。
 ロシア内戦が終結した1922年2月8日に、チェーカーは改組して国家政治保安部(GPU)と改名した。1934年にはチェーカーは、内務人民委員会(NKVD)の一部となった。スターリンにより広大な懲罰組織となり、1930年代に大粛清をした。死後には、ソ連国家保安委員会(KGB)として独立した。KGBは、チェーカーの秘密警察組織を受け継ぎ、秘密裏な虐待と虐殺の文化を引き継いだ。

 


2021年2月20日土曜日

アメリカ軍が設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)は、被爆者の診察のみを行って、治療はしないで、来所させて人体データだけを集積した。

アメリカ軍が設置した原爆傷害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casualty Commission)は、被爆者の診察はするが、治療はしない。被爆者を呼び出しては、診察のみを行って、原子爆弾のデータだけを集積した。時には、被爆した女性を呼び出して、裸にまでして診察をした。出産した赤ん坊まで、ABCCまで来所させては、人体データだけを集積した。原子爆弾が人体に与えた影響を追跡調査した。
 ABCCは、沖縄の米軍基地、本土の米軍基地だけでなく、占領軍により1946年11月26日の大統領令により設置された。原子爆弾と被爆者からの批判や非難も受けても日米対等のパートナーシップと喧伝した。ABCCの本質は、アメリカ軍の加害による日本人の被害の調査が本質である。ABCCの車両がすっと玄関に着けては、看護婦が「いらっしゃいませ」と最敬礼をする。白衣に着替えさせて、血液検査、検便、レントゲン、聴診をする。被爆者の批判や避難を避けるために、精密検査の合間に弁当を出して、帰りには救急箱のおみやげまでつけた特別な接待しては、約2年に1回は診察した。ABCCで「成人健康調査」を被爆者の市民らは、ABCCをお上の"女王さま"とも呼んだ。
 太平洋アメリカ軍総司令部の軍医などの主張により、終戦直後に、アメリカ軍ははいちはやく被爆地の広島に学術調査団を送り込んだ。その調査団が継続調査の必要から、広島と長崎に研究所を設立した。その後1949年に、厚生省の国立予防研究所と協力して設置したのがABCCである。ABCCはいまも広島と長崎に2つあるが、調査研究の主体は広島で、規模の上からもABCCといえば広島が主体になっている。
  このABCCの調査は、最初のころは被爆者の心理や感情をよく考えずにトラブルを起した。しかし、だれかがやらなければならなかったことを、ABCCが終戦直後の混乱期に大規模な調査はやはりアメリカには意味があった。ABCCが終戦直後の医学の暗黒時代にも貴重な資料が保持された。しかし、その資料の一部しか日本側に渡されていない。ABCCは既に公表された統計調査資料だけを提示している。1946年10月28日に設置されたアメリカの原子力プログラムの文民統制をする原子力委員会(AEC: Atomic Energy Commission)が資金を提供していた。アメリカの原子力発電が低迷して、規制を撤廃するために原子力規制委員会(NRC: Nuclear Regulatory Commission)に改変された。1975年11月19日にABCCも1975年4月1日に放射線影響研究所(RERF: Radiation Effects Research Foundation)に改組されて、研究資金は米国と日本によって折半されている。