2020年9月7日月曜日

朝鮮戦争の長津湖の戦いから、アメリカ軍が撤退するヘルファイヤー峡谷に、北朝鮮軍と中国人民志願軍の膨大な戦死体が散乱した。

アメリカ軍は、朝鮮半島の北東端で中国国境付近の人工湖である長津湖(Battle of Chosin Reservoir)で、1950年11月27日に初めて中国人民志願軍と衝突した。突然の奇襲を受けたハガルリ基地を全面撤退しながら体制を立て直した。朝鮮戦争の線局が不利となり、アメリカ軍司令部は、コドリ基地を経てフンナム港から38度線以南への全面撤退が決定した。アメリカ軍は、この時点で約7,000名以上の損害を出した。氷点下の気温、雪に覆われた山々、凍った道路、風にさらされた断崖が、あらゆる戦闘に襲った。

 12月3日からアメリカ軍は、ハガルリ基地からコドリ基地に向けて撤退した。約80Kmの間は とても撤退路が狭小であり、北朝鮮軍と中国人民志願軍には絶好の待ち伏せ地点となるヘルファイヤー峡谷(Hell Fire Valley)があった。アメリカ軍は、危険を伴いながら、コドリ基地を目指して退却を始めた。ヘルファイヤー峡谷で、双方は激烈な戦闘となった。撤退路を確保しないと、壊滅する危険も伴った。アメリカ軍が、山岳の北朝鮮軍と中国人民志願軍に下方から這い上がって突撃を敢行した。ヘルファイヤー峡谷には、北朝鮮軍と中国志願軍の膨大な戦死した死体が散乱した。アメリカ軍は撤退しながらも、北朝鮮軍と中国志願軍は山岳地帯からの攻撃を受けた。苦闘してコドリ基地に12月4日に到着した。その後にさらに南方に撤退して、12月11日にフンナム港に到着した。その途上では海からのアメリカ軍の艦砲射撃で、北朝鮮軍と中国志願軍の犠牲者は増大して、中国国境から遠方となり補給が枯渇して、追撃は停止した。アメリカ軍はフンナム港を破壊しながら、輸送船で38度以南に向けて撤退した。
 長津湖の戦いで、主にアメリカ軍は約1,029人が戦死して、戦病死は約7,338人、戦傷者は7,338人、行方不明が約4,582人と、犠牲者は約17,843人にも達した。北朝鮮軍と中国軍志願軍は、戦死傷者は約19,202人、戦病死が約28,945人と犠牲者は約48,147人以上にも達した。

 


2020年9月6日日曜日

重症の被爆者をトラックの荷台に横に並べて、富国生命の周辺の緊急救護所に搬送され、重度な火傷にはガーゼや布で応急処置がされた。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて広島市内で炸裂した。生命保険を取り扱う富国生命の広島支店の富国館のビルが残存して、その周辺に緊急救護所が設置された。1945年8月12日には、特に重症の被爆者をトラックの荷台上に横に並べて、富国生命の周辺の緊急救護所に搬送された。重度な火傷に対して、ガーゼや布で応急処置をされた。救護隊員は搬送の準備をしながら、心配そうに見守った。

 広島富国館は、広島市袋町に1936年に建設された地上7階、地下1階のビルであった。その当時では、広島市内で最も高層ビルであった。ビルには、保険会社である富国徴兵保険や、レストランの精養軒などが入館していた。1945年6月、NTT西日本の前身である広島電信局が地下から地上5階までを使用した。空襲警報の伝達や電報、電話業務をしていたために、日本軍部が頑丈なビルに移るよう要請した。爆心地が約330mの富国館の建物の内部は焼き尽くされたが、外部は倒壊しなかった。強烈な爆風によって、鉄骨の柱が大きく湾曲した。原爆資料館では、広島原子爆弾で電信局では約117人中で約107人が被爆死して、約10人が生存したと推定された。強固な鉄筋ビル内部で、熱線の直射を避けて、致死量の放射線被爆を免れた。戦後は富国ビルは、改修を経て1982年に解体されるまで使用されて、同じ場所にフコク生命ビルが建設された。

 近隣の袋町国民学校は木造校舎は全焼して消滅したが、広島富国館が防御壁となり、コンクリート3階の西校舎は外形のみを残して内部の被災を免れた。被爆直後から、袋町西校舎は避難所と救護所となり、階段室の壁面には被爆者の消息を知らせる多くの伝言が残っている。1999年に被爆した西校舎を建て替える時に、壁に記された文字が発見された。2002年4月に、袋町小学校の西校舎の一部が、広島市立袋町小学校平和資料館が開設された。


2020年9月5日土曜日

太平洋戦争で日本軍兵士が、アメリカ軍の捕虜になった恥辱から舌を噛んで自殺し、アメリカ軍の軍医が舌の手術をした。

太平洋戦争において日本軍兵士が、1944年6月にアメリカ軍に敗北して捕虜になった恥辱から、自殺をするために舌を噛んた。アメリカ軍の軍医が命を取り留めるために舌を手術した。アメリカ軍に捕虜になる直前に日本軍兵士は、「英雄としての死」あるいは「生き恥さらす」 しか選択肢がなかった。大本営は、日本軍兵士に投降して捕虜になる選択肢を消滅して、自殺する自決を厳命した。捕虜になることは、最も恥辱であると洗脳された。日本人捕虜が帰還した場合は、軽蔑されて死刑に処されて、さらに家族にも危害が及ぶと喧伝された。日本軍兵士は容赦なく突撃して、捕虜を拒否して死守した。

 アメリカ軍には、排日主義から日系アメリカ人を強制収容して、緒戦では日本軍兵士を報復のために憎悪して虐待と虐殺をした。太平洋戦争中に捕虜になった日本軍兵士は、わずか約35,000人であった。多くの日本軍兵士は命令される集団で捕虜となるよりも、戦死を選択した。但し、孤立して生存すると生命の保持を渇望した場合があった。第二次世界大戦にて、ドイツ軍の捕虜が約945,100人、イタリア軍の捕虜が約496,000人と比較して皆無に等しい。ソ連軍の場合は、1945年8月8日に満州に侵入してから、約60万人もの日本軍兵士を捕虜にした。抑留と監禁されて、重労働と飢餓から約6万人も死亡した。

 江戸時代の武士道の精神では、降伏よりも切腹による自害を選択した。明治になると1882年に「軍事勅語」が発布された。日本帝国に対する忠誠を絶対化した。国体の保持のために、軍事教育によって戦死を賛美して、奉安殿を設けて御真影を収めた。戦死すれば、「兵として最もすばらしい死にざまである」と名誉になった。1941年1月8日に「不名誉よりも死を選ぶ」とする戦陣訓を公布して、戦争思想を流布した。大本営は、太平洋戦争では、全員が戦死する玉砕を最終通告した。日清戦争では、日本人捕虜は一人のみであり、日露戦争では、日本人捕虜はわずか約1,626人であった。1864年から赤十字国際委員会(ICRC)が、「戦争時の捕虜に対する扱いを人道的にする必要がある」とするジュネーブ条約を提唱した。日本帝国は1886年に加盟して批准した。日本軍内では俘虜は厳罰の対象であり、1929年のジュネーブ条約の俘虜の待遇に関する条約を批准しなかった。

 

 

2020年9月4日金曜日

ポーランドのカテキス地域で、ウクライナ反乱軍により、左から3歳の男子、真中は5歳の女子、右は2歳の男の子が残酷に虐殺された。

1943年5月7日および8日に、ポーランドのカテキス地域の住民が、ウクライナ反乱軍(UPA)により虐殺された。無差別の虐殺による子供の犠牲者は、左から3歳の男子で、腕と足を骨折されて殺害された。真ん中は、5歳のポーランド人とウクライナ人の女子で、腹は鍬で引き裂かれて殺害された。右は、2歳のポーランド人で、銃剣が身体に突き刺さっていた。真ん中の女子は、父親がポーランド人だったために殺害された。母親も殺害された。その夜には、約28人のポーランド人と約2人のポーランド系ウクライナ人の家族が残忍に殺害されて、約25か所の農場が焼失した。

 1943年6月2日には、ウクライナ反乱軍はハービー村のポーランド人住民に対して恐ろしい虐殺をを犯した。多くの子供や女性を含む約250人が、今日は存在しないハービー村に攻撃されて殺害された。 ウクライナの右翼組織であるバンデライト(Banderites)は、かつてのウクライナの友人さえも殺害した。 虐殺の後には、ポーランド人の遺体は墓から掘り取り出され、野畑に散布された。

 バンディライトは、1929年に結成されたウクライナのファシストであるウクライナ民族主義組織(OUN)であった。ソ連に敵対して、ウクライナ人による死の部隊を結成して、ナチス・ドイツと協調して、集団的虐殺を実行した。体系的に民族浄化を拡大するために、反ユダヤ主義、人種差別主義、ファシスト主義をウクライナ地域な喧伝した。様々な残虐行為に関与して、犠牲者は少数民族を含めたユダヤ人やロマであった。1941年6月30日、ナチス・ドイツがウクライナを占領すると、OUNはリヴァで独立宣言をするも、拒否されて弾圧された。1943年から1944年には、OUNから派生した過激組織のウクライナ反乱軍(UPA)が、ポーランドのヴォルヒニアと東ガリシアで、ウクライナ民族浄化のために、女性や子供も含めた約10万人ものポーランド人を大量虐殺した。UPAによるポーランド人に対する残虐行為は、無差別に無制限に実行された。犠牲者は、年齢や性別を問わず、日常的に虐待を受けて虐殺に至った。

 


 

2020年9月3日木曜日

大東亜戦争にてビルマのミッチーナ飛行場から、連合軍のC-47輸送機が離陸した際に、射殺された日本軍兵士のうつ伏せの死体が飛行場に放置された。

大東亜戦争において、1944年5月にビルマのミッチーナ飛行場から、連合軍のC-47輸送機が離陸した際に、射殺された日本軍兵士のうつ伏せの死体が飛行場に放置された。左側には、別のC-47輸送機が炎上した。その約5分前に4機の日本軍のゼロ式戦闘機に攻撃された。アメリカ軍と中国軍も厳しい戦闘と気候や環境に苦闘して、連合軍の空軍の支援の下に総攻撃を開始したが、日本軍の防戦と連合軍の誤爆で大混乱するも、次第に日本軍は圧迫されて撤退した。
 日本軍は1942年5月8日に、ビルマを征服中にミッチーナを占領した。ミッチーナはビルマを北から防衛するための日本軍の主要な航空基地であった。ミッチーナ飛行場は、日本の戦闘機がアメリカ軍が中国に輸送する飛行機を攻撃した。ミッチーナは、日本軍の作戦地域の南端にある重要な輸送拠点であった。主要な航空基地ミッチーナの包囲戦は、第二次世界大戦の連合軍のビルマ戦略に関連して、1944年5月17日から8月3日に勃発した。連合国軍と中国軍はミッチーナを日本軍から奪還して占領した。北ビルマと雲南省の古くから道路を開通して、インドから中国への供給ルートを大幅に効率化化した。
 ミッチーナの包囲戦は、ジャングルの山腹での戦闘が激しく、物資が不足し、地形が困難で、伝染病が蔓延して、ミィッキーナに対する作戦は、過度の死傷者のため、特に中国軍は戦闘部隊として壊滅した。ミィッキーナ飛行場の占領により、古いビルマと中国を結ぶ道路が開通した。中国軍兵士の犠牲者数は、ビルマへの中国介入によ全戦闘の中で最も高かった。日本軍兵士は約2,400人が犠牲となった。連合軍はアメリカ軍兵士は約272人が戦死、約955人が戦傷、約980人が行方不明と中国軍塀は972人が戦死、3,184人が戦傷、約188人が行方不明であった。
 日本軍は、8月3日から撤退して、すでに約5,000人は約1,500が残存した。日本軍は深夜の闇に紛れて、粗末な丸木舟や筏を使って川を渡り始めた。日本軍兵士たちに、「生きる」渇望が蘇った。我先へと渡し舟に群がる兵士が続出した。「恥を知れ。お前たちはそれでも神軍の兵隊か!」と上官が怒鳴る。それでも殺到して、船に手を掛ける日本軍兵士たちの手指や手首を、上官は日本刀で斬り落とし、射殺された兵士が続出した。阿鼻叫喚の後に、約650人だけが生存した。


2020年9月2日水曜日

ナイジェリアのビアフラ内戦による飢饉で、約7,000人の子供たちが集まっては食物に手を伸ばし、日常で餓死に直面していた。

ビアフラ戦争が、1967年7月6日から1970年1月12日まで、ナイジェリアのイボ人を主体とした東部州が、ビアフラ共和国として分離・独立を宣言して戦争が勃発した。ナイジェリア内戦による厳しい飢餓と、栄養失調から来る病気、北部州における虐殺などにより、少なくとも150万人を超えるイボ人が死亡した。特にビアフラ共和国は、1968年の食糧危機により飢饉が悪化して、日常で餓死に直面していた。

 病院、宣教所、道端でも、どこでも餓死に至る。オビンツェ西約130kmにあるオクパラ宣教所では、夕暮れ時になると約7,000人の子供たちが集まり、食物に骨のような手を伸ばした。付近には餓死した子供の死体が散乱した。ケンド・ヘニー牧師は泣きそうになる。子供たちは毎晩に小さなスープ、牛乳、豆を求めて宣教所に来ていた。「今は何も残っていません。これは子供たちの戦争です。彼らはすべての運命から見捨てられた。」ビアフラの救援隊員は、政治と欲望に阻まれたナイジェリア内戦により、大量の食料の空輸のみが、蔓延している飢餓からビアフラの人々を救うことができると信じた。

 夜間に着陸して封鎖された飛行機に乗って、ナイジェリア東部の飢饉の地域に、食物と薬のほんの少しの物資が到達した。バケツの中の一滴である。ラゴスのナイジェリア政府は、飛行機がビアフラに直接に飛ぶことを、毎日拒否していた。最前線の北にあるエヌグからビアフラへの陸上通路が必要であった。ビアフラの死者数は、世界教会協議会のハーマン・ミドルコープは、「飢饉は次第に加速している。それは絶望的な状況である。私が言えることはそれだけです。」ビアフラ南部のこの泥だらけの小さなタウンオビンツェ付近の道端では、8人の年配の女性が、雨の中で動かずに座ったままで、衰弱して歩行困難となった。友人の腕に抱かれている9人目の女性は死亡した。しかし死亡した彼女の友人は、彼女がまだ生きているかのように話し続けた。子供の死を1日あたり約200から400人に達した。 
 赤十字国際委員会は1968年7月29日に、ビアフラへの医療および食料供給の慈悲深い飛行機が、技術的な障害により中止したと発表した。ナイジェリアの反乱地域の領土に上陸するための手配が困難であった。その直前に委員会はチャーターされた4エンジン飛行機をジュネーブから派遣して、ナイジェリア沿岸のスペインの島であるフェルナンドポーから、包囲されているビアフランへのシャトル便を続けた。1967年4月から援助活動を開始してから、合計16便が飛行したが、人道支援機関のロジャー・ギャロピンは、フェルナンドポーからの緊急救援物資の空輸は、常に一時的なものであると強調した。 

 


 

2020年9月1日火曜日

日露戦争の遼陽会戦の後に、日本軍兵士は塹壕の中で殺害された日本軍兵士とロシア軍兵士の多数の死体の処理をした。

日露戦争の遼陽会戦(Battle of Liaoyang)の後に、日本軍兵士は塹壕の中で殺害された日本軍兵士とロシア軍兵士の多数の死体の処理をした。遼陽会戦は、日露戦争で満州、朝鮮半島などの権益を巡り、1904年8月24日から9月4日まで勃発した。両軍の主力がはじめて衝突した戦闘であった。日本軍は約12万5,000人で攻撃して、ロシア軍兵士は約15万8,000人で防御して、合計約28万の兵が衝突して、日本軍には初めての近代陸軍による本格的会戦であった。犠牲者は日本軍兵士は約5,537人が死亡して、約18,603人が戦傷した。ロシア軍は約3,611人が死亡して、約14,301人が戦傷した。9月4日にロシア軍が撤退して終結した。

  日露戦争にて戦死に関する日本軍兵士の文章に、戦場での詳細な死の陰惨な記述があった。多くの場合、戦闘後の虐殺という言葉で表現された。日本軍兵士たちはしばしば彼らの仲間の死体が処分された方法に衝撃をを受けた。 1904年5月23日に、九里城周辺で激しい戦闘を目撃した歩兵中隊長の山本松太郎は、「一人残されたロシア兵の死体を片付けた者は誰もいなかったし、彼らを埋めるためにすぐに掘られた穴でさえ、野良犬によって掘られて掃除された。その光景は見るには恐ろしすぎる。谷間に埋められていた死んだ日本軍兵士の死体もそれほど深くなく、手足が突き出ていた。」
  ロシア軍兵士の死体は埋葬されたが、日本軍兵士の死体は火葬された。特に、中沢一太郎の日記は、内密の移送部隊であり、死体の整理を任されることが多かったため、悲惨な場面で一杯であった。1904年12月初旬に203高地を攻防した後に、医師らも大虐殺に驚嘆した。「山頂に向かって丘を登るとき、野蛮さを言葉では説明できない。見たことがなければこれを想像することは不可能である。私はかなりの数の戦いを経験し、かなりの数の死体を見てきたが、203高地の攻防ほどの大虐殺に遭遇するのは初めてである。涙が出ないほど悲惨である」
  道徳的な嫌悪感が戦時中に日常的に起こり、兵士たちはすぐに残忍になり、恐ろしく暴力的な多数の死を目にする。澤田は内密な死者の埋葬の事実を説明した。「すでに一度は埋葬されたが、犬や鳥によって掘り出された敵の戦死者の死体を埋葬しなければならなかった。ジャガイモのように頭を並べて埋葬した。臭いので鼻が落ちそうであった。目はすべて抜けていて、穴が空いていた。臭いがひどいので、土で覆うのは本当に大変であった。1つの穴に約8人から9人を埋めた。少しの水で手を洗ってから、夕食をとり寝た。」秘密裏な戦争の残忍化は、上記の澤田の説明のように、彼が日常の現実の恐怖に対処することを可能にした。同志の多くがほとんど精神的な浄化として日記に書き続けた。
 中澤の日記には、死んだ兵士の記念碑の建設に関与した。1905年4月7日に、中沢と仲間は、戦死者の埋葬地の地図に従って兵士の埋葬地を見つけるように命じられた。彼らはこれらの死体を火葬し、司令部から配給された箱に灰を保管した。彼らは2日後に掘り始めた。彼らは死体のひどい死臭によって妨げられた。次の数日の間、記念碑の道路を敷設して、記念碑の彫刻に取り組み、また死体を掘り続けた。
 

 


 

2020年8月31日月曜日

ベトナム人女性の未亡人となった妻が、南ベトナム人民軍である夫の死体を見て泣いた。

ベトナム人女性の妻が、夫のベトナム人の死体を見て泣いている。ベトナム戦争にて、1965年にベトナム南部における南ベトナム解放戦線(ベトコン)との戦争に巻き込まれて殺害された。夫は南ベトナム人民軍の犠牲者の1人であり、夫の遺体を求めて検死したベトナム人女性が遺体の前で慟哭した。1965年からアメリカ軍は本格的な北ベトナム爆撃をして、大量のアメリカ軍兵士が投入された。ベトコンは南ベトナムのサイゴン周辺にテロ攻撃をした。

 ベトナム戦争によって引き起こされた民間市民の死亡は、全死者のかなりの割合を占めた。民間市民の死は、迫撃砲と大砲、広範囲にわたる空爆、および人口密集地域で実施された軍事作戦における武力の行使によって引き起こされた。民間市民の死亡の一部は、暗殺、虐殺、テロの作戦によっても部分的に引き起こされた。アメリカ軍が関与した期間中に、ベトナム戦争の結果として、約627,000人のベトナム人の民間市民が推定されいる。そうちで、成人女性は約14,3000人、子どもは約84,000人が死亡した。アメリカ軍と南ベトナム軍は約282,000人、北ベトナムとベトコンは約444,000人と想定された。戦争中には民間市民を故意に標的して虐殺して、ソンミ村の虐殺やフエの虐殺、ダクソンの虐殺などの事件が発生した。アメリカ軍兵士の死亡は、約50,441人と推定された。
 多くのベトナム人が非常勤のゲリラまたは制服を着ていない労働者であったため、多くの場合、民間市民と軍人を区別することは困難であった。農村部と都市部の間の不均衡、および高い死亡率の集団を見落とす可能性がある。1954年から1975年の間にベトナム南部で約164,000人と北ベトナムで約50,000人の民間市民が殺害されたと推定した。ベトナム人の大量抑留、難民危機、サイゴン陥落後脱出による民間市民は含まれない。南ベトナムでは浸入、捕獲、テロ対策、尋問、暗殺を介して民間市民が虐殺された。アメリカ軍の北爆による北ベトナムの民間市民の死者数は、約30,000人から約65,000人と推定された。ベトナム戦争中の除草剤のダイオキシンの投下と汚染で、数十万人が死亡あるいは後遺症を伴った。さらに不発弾と地雷によって民間市民が数万人殺害された。

 


 

2020年8月30日日曜日

ライン川のニーベルンゲン橋の対岸にあるナチス・ドイツ軍の狙撃兵が狙いを定めて、3人目のアメリカ軍兵士を射殺した。

第二次世界大戦の終末期に、ライン川の対岸にあるナチス・ドイツ軍の狙撃兵が狙いを定めて、1945年3月28日に3人目のアメリカ軍兵士を射殺した。その後に、アメリカ軍はライン川に架かるニーベルンゲン橋を占領した。ナチス・ドイツ軍は、1945年4月23日に連合軍の侵攻を遅らせるために橋を爆破した。

 転倒しているアメリカ軍兵士は、間違いなく戦死した。戦死者の1つタグの認識票は紛失しても、墓地に詳細の記載にもう1つ認識票がまだ残存していた。アメリカ軍兵士が、ナチス・ドイツ軍の狙撃兵から発砲されて、一人の兵士に命中して、他の兵士は拘束されて身動きできなかった。彼らは死体を捕まえるには、戸外まで走らなければならなかった。その後に、他の衛生兵が応急処置を提供している間にも、兵士らは壁を引きずりながら防御した。この時点で生存した兵士らは何もできないことに気づいた。戦死した兵士のタグの認識票を使って本部に報告した。その壁の後ろで、おそらく長期間にわたって行き詰まった。西部戦線では、この時期までに、アメリカ軍がドイツ国内に確固たる足場を得て、兵士たちをそこで強奪して占領させた。これらの偵察隊員のパトロールを蔓延させた。雑嚢などで堅固な前方防御線が必需であった。
 ルーデンドルフ橋は、ライン川に架けられた鉄道橋で、ドイツのラインラント・プファルツ州にあった。。レマーゲンとエルペルを結んでいたのでレマーゲン橋とも呼称されて、第二次世界大戦末期にライン川で唯一全壊されずに残存していた。西部戦線での重要な鉄橋となり、ドイツ軍とアメリカ軍の間で争奪戦が行われた。ドイツ軍は橋を1945年3月7日に爆破したが、ルーデンドルフ橋は爆薬の量が不十分で、アメリカ軍に橋を確保してドイツ国内に侵攻した。ドイツ軍は、あらゆる弾薬や爆撃機とV2ロケットで破壊をするも、連合軍は最大の対空兵器で対抗して、3月17日に崩壊した。特にV2ロケットは不正確であり、その他の地域でドイツ軍と市民も殺害した。レマーゲン橋の奇跡により、ライン川の東側に構成をかける起点となった。戦後、橋は再建されなかった。立っている塔は保存されて、ラインの西側にある塔は記念博物館に改造された。



2020年8月29日土曜日

住友銀行の開店前に階段に腰掛けていた被爆者は、広島原子爆弾が近距離で炸裂し、その場で死亡した人影の石と推定された。

 

人影の石 (Human Shadow Etched in stone)

住友銀行広島支店の入口階段を切り出して、1971年に広島平和記念資料館に移設した。銀行の開店前に階段に腰掛けていた被爆者は、広島原子爆弾が近距離で炸裂し、逃げることもできないまま、その場で死亡したと推定された。広島平和記念資料館に移設されるまでに1959年に柵を設け、1967年に強化ガラスで薄くなる影を覆っていた。風化等で人影の石は薄くなっている。原子爆弾の記憶が風化して薄れないように、人影の石の保持を継続している。

 原子爆弾の強烈な熱線により階段は白っぽく変色し、腰掛けていた部分が影のように黒くなって残存した。この人影が自分の親族のものではないかという申し出が、複数のご遺族から寄せられている。 石段の人影だけでなく、壁、路面に焼き付く欄干の影、ガスタンクに残るハンドルの影などにも現れた。1人の婦人が銀行の開店を待って、右下肢を伸ばして、左下肢は立膝をして、石段にうずくまって腰掛けていたと推定される。たとえ炸裂直後に約4,000度に達しても、人体は気化することなく、骨と炭化した器官は残る。

1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した爆心地から約260mに階段は存在していた。原子爆弾の約4000度もの熱線が、その周りの花崗岩の石段の表面を白く焼いて人の影の部分が残った。「死の人影」とも呼称された。石段に座った被爆者は、その場で即死した。 住友銀行は、ビルの外観だけを残して内部は崩壊した。8月6日には従業員は約29人が被爆死して、負傷者は約40人であった。

   These stone steps were at the entrance to the Hiroshima Branch of the Sumitomo Bank. Exposed to the atomic explosion at close range , the person sitting on the steps waiting for the bank tp open is thought to have died on the spot with no possibility of escape. The intense heat of the A-Bomb turned the steps whitish; the stone under the sitting person remained dark, like a shadow. Several families have suggested that the person killed on the steps may have been one of their own.


広島平和記念資料館で強化ガラスで覆われた人影の石

 

アメリカ戦略爆撃調査(USSBS)が1945年11月20日に撮影した。