2020年8月13日木曜日

日中戦争に向かう済南事件にて日本軍により、済南後方病院に入院していた中国軍の負傷兵が虐殺されて死体が散乱した。

日中戦争に向かう済南事件にて日本軍により、済南後方病院に入院していた中国軍の負傷兵が虐殺されて死体が散乱した。済南事件による中国人の犠牲は、国民革命軍と民間中国人を合わせて、約3,000人から約6,123人、負傷者は約1,450人から約1,701人と中国側の資料に記録された。日本人の犠牲は、日本人居留民の被害者は約400人で、死者は14人、虐待約30人、略奪戸数約136戸、生活困窮者約280人と日本軍参謀本部は記録した。
 済南事件(五・三惨案)は1928年5月3日午前9時半頃に、中国山東省の済南にて発生した虐殺事件である。国民革命軍の一部による日本人襲撃事件から、さらに日本の権益と日本人居留民を保護するために第二次山東出兵された日本軍と、北伐中であった国民革命軍(南軍)と武力衝突事件である。日本軍は旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16人を殺害した。中国側は重大事件として、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。済南事件から、日本軍は第三次山東出兵を派遣した。武力衝突はいったん収まったが、日中軍事当局間の交渉が決裂した。1928年5月8日早朝に、日本軍は済南城への攻撃を開始した。安全地帯と避難路を指定して、国民革命軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。1928年5月11日、日本軍は済南を占領した。1929年3月に日本軍と国民革命軍の合意が成立して、日本軍が撤退した。

 1928年春に国民革命軍は、イギリスとフランスに支援されて、北上して奉天系の軍閥である張作霖を攻撃した。日本軍は、国民革命軍が北方に侵攻するのを阻止するために、日本人移民を保護する名目で、済南を占領した。5月1日に、国民革命軍は済南に入城した。日本軍が発砲して、中国人の兵士と民間市民を大量に虐待と虐殺した。5月3日に、日本軍は再びに大挙して国民革命軍を攻撃した。国民革命軍は、反撃もできずに済南から撤退した。国民革命軍の撤退後に、済南にて日本軍による虐待と虐殺が横行した。中国人兵士と民間市民の約5千人以上も虐殺して済南大虐殺を執行した。
  日本外務省は、済南事件を次のように概説している。北方軍閥を打倒する北伐により、蒋介石が率いる国民革命軍が北上すると、日本政府はこれに対抗して、1927年から1928年にかけて、居留民保護の名目で、3度にわたる山東出兵を挙行した。特に、第2次出兵をきっかけとする両軍の武力衝突は「済南事件」として周知された。済南事件は、外務省記録「済南事件」をはじめ、50冊に及ぶ関係記録があり、アジア歴史資料センターでも公開され、『日本外交文書』(昭和期I第一部第二巻・第三巻)などにも史料が採録された。
 第2次山東出兵にて、日本軍(陸軍第六師団)の先遣部隊が済南に入った一週間後に、蒋介石の国民革命軍も同地に到着した。済南の治安維持を国民革命軍が引き受けることを日本軍側に申し入れた。日本軍側がこれに同意して、済南市内は一旦平和裡に明け渡された。しかし、1928年5月3日、国民革命軍兵士による済南商埠地の邦人店の舗略奪事件をきっかけに、両軍は衝突した。この衝突は即日に停戦となるも、日本軍は5月8日から済南城の占領行動を開始して、再度に戦闘を誘発した。4日間にわる済南城攻撃は極めて激しく、中国軍側に数多くの死者を出した。さらに、済南事件中に、第三次山東出兵により日本軍の増援部隊が派遣されたこともあり、中国軍の排日感情を煽った。6月に開始された両軍による事件解決交渉は、蒋介石の陳謝を強く求める日本軍側に対して、国民革命軍側が態度を硬化させて妥結せず、事件解決は外交交渉に委ねられた。日本側の上海総領事と中国側の外交部長との3回の会談でもまとまらなかった。翌1929年に至り、南京と上海で日本側公使と中国側外交部長との会談で、3月28日に解決諸文書への調印となった。


2020年8月12日水曜日

ワルシャワゲットー蜂起の鎮圧中に殺されたユダヤ人の遺体を通り過ぎる2つのウクライナ人のアスカリが戸口を覗き込んだ。

ワルシャワ・ゲットー蜂起の鎮圧中に殺されたユダヤ人の死体を、通り過ぎる2つのウクライナ人のアスカリ(Askari)が戸口を覗き込んだ。ドイツ軍の作戦には、「戦闘中に使用されたウクライナのアスカリ」と記載された。  第二次世界大戦中に、ドイツ軍は赤軍との戦いや東部戦線で、赤軍などから脱走した兵士に「アスカリ」という名称で部隊を結成した。彼らは主にウクライナ人とロシア人であった。アスカリ部隊はナチス親衛隊の一部ではなく、単なる補助部隊であった。アスカリという単語は、アラビア語で「兵士」を意味する借用語であり、ペルシア語で「軍 (lascar)」を意味した。

 1943年4月19日から5月16日まで、第二次世界大戦中に、ナチス占領下のポーランドのワルシャワに住んでいたユダヤ人ゲットーの住民は、再開された絶滅収容所への強制送還に対して武力反乱となるゲトー蜂起を起こした。1943年4月19日に、ワルシャワゲットー蜂起はドイツ軍と警察がゲットーに侵入して、生存している住民を強制送還した後に勃発した。約750人の戦闘員が重武装してよく訓練されたドイツ軍と戦った。ゲットーの戦闘員はほぼ1か月間持ちこたえることができたが、1943年5月16日に反乱は鎮圧された。ドイツ軍はゆっくりとワルシャワーゲトーのユダヤ人の抵抗を押しつぶしていた。捕獲された約56,000人を超えるユダヤ人のうち、約7,000人が射殺されて、残りは収容所に強制移送された。この蜂起は第二次世界大戦中のユダヤ人による単一の最大の反乱であった。

 1942年7月23日からユダヤ人を国外強制収容所に移送した直後から、ユダヤ人の地下組織内が密かに集まり、ドイツ軍に対する武力抵抗を提唱した。ユダヤ人には武器がなく、軍事訓練もなく、ドイツ軍との戦いは自殺であり、ゲットー自体は外部の援助から切り離された孤立した。1942年7月28日に長老たちの助言を無視し、全員が若者の約200人が過激組織であるユダヤ人戦闘部隊(ZOB)を地下組織した。ZOBは極秘の過激組織で、秘密が漏れてナチスに逮捕され拷問と虐殺される絶え間ない危険もあった。ZOBは武装なしで結成されたが、8月上旬までに、ポーランドの共産主義の地下軍部隊から5つのピストルと6ダースの手榴弾を手に入れた。ZOBは、反ユダヤ人主義のポーランドの軍から武器を入手できなかった。ポーランドの地下組織は、大規模なゲトー蜂起によりポーランドが、ロシア軍からの独立を望んだ。ワルシャワ・ゲットーの国外強制移送が1942年9月に一時的に休止したとき、ゲットーの外にいた地下のユダヤ人過激派たちがワルシャワに戻りもまもなくZOBに加わり、ワルシャワー・ゲトーの蜂起の準備をした。



2020年8月12日 Japan No War (JNW) 
日本平和の市民連盟 視聴回数 430,000回

2020年8月11日火曜日

フィンランドとソビエト連邦の間の冬季戦争中に、サラ戦線で貧弱な装備のロシア軍兵士が、積雪の中で凍りついて死亡した。

ロシア軍兵士は1940年1月に冬戦争の犠牲者となった。フィンランド軍とソビエト軍との冬季戦争中に、フィンランド軍がフィンランドのサラ戦線でロシア軍と戦った。貧弱な装備のロシア軍兵士が、極寒の積雪の中で殺害されてて凍りついてた死亡となった。極寒の冬戦争であり、最も寒期に戦い、雪に覆われた森の中で戦い、日光は数時間しか続かず、気温は常に氷点下を大幅に下回った。露出した身体はすぐに凍傷に冒されて、積み重ねも数分で凍り、壁の堅さを獲得した。荒れ狂う吹雪と暴風が定期的に無線通信を妨害して、空中偵察を妨害し、砲撃の軌道を逸らした。

 ソビエト軍が第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍と対決する約2年前に、小国であるフィンランドは他の敵国と血なまぐさい戦争を繰り広げた。ソビエトと北欧諸国との対立は、ロシアが東ヨーロッパへの影響力を拡大する1939年11月30日に勃発した。ソビエト軍はドイツ軍による反撃を懸念して、フィンランドとソビエトの国境からカレリア地峡に約16マイル後方に移動し、レニングラード市の周囲に緩衝地帯を作った。フィンランド軍にフィンランド湾の島を引き渡して、海軍基地の建設のために、ハンコ半島にソビエト領土を貸借することを望んだ。協定の一部としてソビエトの領土の広い範囲を提供した。しかし、フィンランド軍はソ連軍の動機に疑いを持ち、1939年1月10日に断った。

「冬の戦争」で圧倒的に撃退されたが、フィンランド軍は本国で戦う利点があった。フィンランド軍は、カレリア地峡の塹壕、コンクリート製バンカー、野外要塞のネットワークの背後を探索し、ソビエト軍に攻撃を繰り返して撃退した。冬戦争の戦線では、スキー部隊が険しい地形を使用して、孤立したソ連軍に対してヒットアンドラン攻撃を行った。フィンランド軍のゲリラ戦は凍ったフィンランドの冬が有利になった。ソビエト軍を行き詰まらせ、雪の多い地形で容易に探索できた。

 1939年から1940年の冬の間に、フィンランド軍は活発な反撃を示したが、結局は、ソビエト軍の純粋な広大さに匹敵しなかった。1940年2月に、第一次世界大戦以来の最大の砲撃の後に、ソビエト軍は攻撃を再開して、カレリア地峡でフィンランドの防衛線を打ち破った。ナチス・ドイツにより連合軍からの援護が頓挫して、弾薬も少なく、枯渇の危機に瀕したフィンランド軍は、1940年3月13日のモスクワ和平条件に合意した。

 冬戦争を終結した条約により、フィンランドは領土の約11%をソビエト連邦に割譲を余儀なくされた。それでもフィンランドは独立を維持できた。その後の第二次世界大戦中に再びソビエト軍に対抗した。一方、ソビエト軍にとり、冬戦争の勝利は大きな代償を払った。戦闘のわずか3か月の間に、ソビエト軍部隊は約300,000人以上の犠牲者を出した。フィンランド人は軍は約65,000人の犠牲者であった。冬戦争はまた、第二次世界大戦に重要な影響をもたらして、ソビエト軍軍の不振な戦績は、1941年6月22日からのナチス・ドイツ軍のソビエト連邦侵攻につながった。


2020年8月10日月曜日

2歳のイギリス人少女は、ナチス・ドイツ空軍によるロンドン大空襲の爆撃により、重態に陥って、母親の身体で娘を保護されていた。

2歳のイギリス人少女は、ナチス・ドイツ空軍による1940年9月9日のロンドン大空襲の爆撃により、重態に陥った。少女の母親は、自分の身体で娘を保護していた。しかし、少女の父親と祖母は、ロンドン大空襲で殺害された。重態の少女だけでなく、少女の8歳の兄も、頭部に外傷を受けて、失語症を伴っていた。脳外科の治療によって、脳機能傷害が改善した。

 その他に、ロンドン大空襲により、自宅が襲撃された。瓦礫に埋もれていた6歳のイギリス人少年が、這い出した。一緒にいた3歳の妹を、突き刺している破片を取り除いて救助した。そして、母親の救済を求めた。北イングランドにも大空襲があり、地域が荒廃した。その地域にて、少女が犠牲となっり、救護所で加療を受けて荒廃を見つめているイギリス人少女の写真は、アメリカでのプロパガンダの戦争ポスターに流用された。

  1940年7月10日、イギリスの戦闘機を発見したドイツ空軍が、基地から破壊せよと無線が入った。1940年9月7日の約348爆撃機から1941年5月10日まで夜間空襲によるロンドンと都市部の大空襲(The Blitz)が勃発した。ロンドンは76日連続で夜間の空襲を受けた。ロンドン市民は、どこでも避難所を探した。多くの人が、夜間に約177,000人も避難させた地下鉄まで逃避した。大空襲で、総計で約18,000トンが投下された。総計で約18,629人の男性、約16,201人の女性、および約5,028人の子ども、身元不明の黒焦げの約695人が殺害された。イギリス空軍とドイツ空軍は、1940年7月10日から10月31日まで約4カ月にわたり航空機のみで戦闘した(Battle of Britian)。1940年9月9日の爆撃で、ドイツ爆撃機は約1トン以上もの爆弾を投下した。イギリス空軍兵士は約500人、ドイツ空軍兵士は約2,600人、一般市民の約6万人が犠牲となった。


2020年8月9日日曜日

26歳の女性は、長崎原子爆弾の爆心地から約1.2kmで、木造建ての家屋内の窓際で座って被爆して、新興善国民学校の救護所に入所した。

長崎原子爆弾が、1945年8月9日の午前11時2分に投下して炸裂した。26歳の女性は、爆心地から約1.2kmで、木造建ての家屋内の窓際で座って被爆した。新興善国民学校の救護所にて救護された。薄下着を着付けて、靴と靴下は脱いで、茶色かかた黄色のもんぺを通じて、両方の下肢が火傷した。女性は、中等度の第2度の火傷を顔面から首に被爆した。下腿と足に重度の第2度の火傷を被爆した。ガラスの破片によって、多数の小さな裂傷を被爆した。女性は、中等度の原爆放射能も被爆をして、頭皮とまゆげが脱毛した。さらに被爆した皮膚に紫斑とケロイドの瘢痕を左膝と足背に被爆した。被爆写真は、長崎原子爆弾が炸裂してから約1ケ月目の1945年10月11日に撮影された。 

 

原子爆弾の火傷は身体の片側が特に火傷した。被爆者が火傷しない側で休んでいる状態で治療を可能にする。火傷の部位は、生存者の3591人の火傷症例では、頭や手足が98%に、手足に火傷が87%、わずか9%で顔と首に火傷が約9%に限定された。閃光熱傷からの直接の症状は、爆心地から同じ距離でも、被爆者によって異なった。小胞は、0.6マイル以内にいた生存者の方が、遠方よりも頻繁に出現する傾向があった。この距離の被爆者は、水疱がすぐに出現したが、翌日まで痛みはなかった。0.6マイルと0.9マイルの間の2人の患者では、痛みと水疱の両方が5分以内に発生した。0.9マイルの被爆者は2時間以内に痛みがあったが、水疱は翌日まで現れなかった。他の患者では、1.2マイルであっても、10分以内に小水疱がみられた。ほとんどの火傷と同様に、最初の数時間は痛みが激しく、その後は治まった。第1度のやけどを負った患者の症状と経過は、通常は紅斑がより早く現れたことを除いて、日焼けの症状と似ていた。

  皮膚が露出した屋外の被爆者に、炭化と壊死を伴う重度の第3度のやけどが発生した。この火傷は0.6マイル以内でよく見られた。 一方、軽い衣服でもかなり保護して、重い衣服はさらにより多くの保護を果たした。火傷の程度と関連する身体領域の両方が減少した。この被爆者は、露出部分に第3度のやけど、衣類の下に第2度または第1度のやけどを負う可能性があった。 第3度の火傷は、火傷の組み合わせがあった部位でも発生した。感染、栄養失調、または放射線障害による全身への影響によって遅延した場合を除き、治癒は通常の経過をたどった。生存者の大部分の火傷は第1度または第2度であったため、治癒は通常迅速でした。しかし、重度の2度以下の火傷のほぼすべてが感染し、真皮のより深い部分が破壊され、特に放射線障害のある患者では治癒が遅れました。傷のいくつかは、原子爆弾の4か月後には治癒できず、この時までに患者は白血球減少症から長い間かけて回復した

2020年8月8日土曜日

ヘルメットの十字架で識別できるアメリカ軍衛生兵が、ドイツ軍に射殺された死体がベルギーのマルメディ虐殺で雪に覆われた野原に散在していた。

ヘルメットの十字架で識別できるアメリカ軍衛生兵が、ドイツ軍に射殺された死体がベルギーのマルメディ虐殺で雪に覆われた野原に散在していた。1944年12月17日にドイツ軍の親衛隊は、マルメディの南東約3.2kmのバウネズ交差点で、アメリカ軍の後衛部隊の輸送隊に発砲して、縦列の車両を固定して停止させた。小銃や他の小火器で武装したドイツ軍に対して、アメリカ軍は降伏した。残存していたドイツ軍は、アメリカ軍の捕虜の約130人を野原に集めた。未知にドイツ軍親衛隊が突然と、捕虜に対して機関銃で射撃した。逃避するアメリカ軍兵士に対して、ハーフトラックの後から機関銃が開いて、野原に立って脱出しようとしたアメリカ軍兵士を撃ち殺した。機関銃が発砲して、パニックとなったアメリカ軍捕虜は、立っていた場所で射殺された。親衛隊の1人が負傷した兵士にアメリカ軍衛生兵が包帯をするのを許して、その後にドイツ軍兵士が2人の男性を射殺した。まだ生きている者は、ドイツ軍が死体の中を検死して、生存しているようであれば、頭部を近距離射撃で射殺された。約43人の生存者が潜伏して逃走してマルメデアに戻った。

 第二次世界大戦の最終に至る血まみれの戦いであるバルジの戦いで、1944年12月16日にドイツ軍はベルギーのアルデンヌの森を通って侵攻が勃発した。アルデンヌ森は百年に一度、気温が0°F/-17°Cを下回る最悪の冬の天候となった。バルジの戦いで、アメリカ軍は約19,000人の死者を含む約81,000人の犠牲者を出した。ドイツ軍は約70,000人の犠牲者を出し、1か月にわたる戦いで約2万人が殺害された。バルジの戦いにより、マルメディの虐殺が執行されたバウエズ交差点は、連合軍が攻勢する1945年1月まではドイツ戦線の背部にあった。1945年1月14日になって、アメリカ軍はバウエズ交差点の虐殺現場に到着した。凍って雪に覆われたアメリカ軍兵士の死体の写真を撮影して、検死して人物を特定した。1945年1月14日と15日で、雪原に約72人の死体を発見した。2月7日から4月15日に、野原から離れた牧草地に約12人の死体を発見した。ドイツ軍の虐殺首謀者は、1946年5月16日からダッハウで裁判されて、数年の懲役だけで解放された。1976年7月14日のフランス革命記念日に未知の暗殺者がドイツ軍親衛隊の指揮官の自宅を放火して殺害した。



2020年8月7日金曜日

ベトナム戦争にて、アメリカ軍の北ベトナムへの北爆により10歳のベトナム人少年が、ドンホアの道路で攻撃機に殺害された。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍の北ベトナムに対する北爆により、1965年3月3日に10歳のベトナム人少年が、ドンホアの道路にて、アメリカ軍の攻撃機に殺害された。頭部と腹部に銃弾を受けて、破裂した即死した。それらの死体がドンホアの道路に散乱した。1964年7月までのアメリカ軍の空襲で約21,000人のベトナム人の死者を含む約52,000人の死傷者の発生が推定された。死傷者の約75%は軍事作戦に起因した。作戦に起因する民間人の死者数は3万人と推定された。撃墜されたアメリカ軍の搭乗員は約745人、255人が殺害、222人が捕虜、約123人が行方不明となった。

 1963年3月2日から、アメリカ軍は本格的な北ベトナム爆撃であるローリング・サンダー(Rolling Thunder)作戦が開始した。約6ヶ月にわたり月間に平均5,000機の爆撃機が参戦した。ベトナムの北緯19度線の以南の北ベトナム軍事施設、軍港、レーダー基地などを約10数回にわたって爆撃した。当初は、市街地から遠方の軍需工場や兵器・物資集積所、港湾施設、飛行場、空軍基地に対して攻撃した。北ベトナムは、ソ連からの多数の戦闘機や地対空ミサイルで対抗した。さらに南ベトナムの解放戦線の拠点の爆撃も激化して、繰り返して爆撃した。アメリカは陰に隠れてベトナム戦争ができずに、侵略者をより一層にベトナム人民に印象づけて、憎しみと怒りが沸騰した。

    ベトナム北部の持続的な爆撃は3年以上も続き、時折短い中断があった。アメリカ政府は、1968年3月31日に19度線の北の爆撃作戦の中止を公表した。アメリカは北ベトナムとの交渉による和解を追求して、1968年11月2日に中止した。北ベトナムに約864,000トンの爆弾とミサイルを投下した。朝鮮戦争の3年間に投下した約653,000トンと、第二次世界大戦の太平洋戦争での約503,000トンよりも増悪した。


2020年8月6日木曜日

サイパンでの戦いで日本軍兵士と住民は、最北端のマッピ岬のバンザイ・クリフから「天皇陛下万歳」と叫びながら海に自ら身を投じて集団自殺した。

サイパンでの戦いの戦況が悪化し、島の北部へ追いやられた日本軍兵士と住民は、1944年7月9日までに日本本土に一番近いサイパン島の最北端のマッピ岬のバンザイ・クリフ(Banzai Cliff)ら「天皇陛下万歳」と叫びながら海に自ら身を投じて集団自殺した。女性や子どもを含む民間人が投身自殺した。投身自殺で海は血液で真っ赤に染まり、死体が海に浮遊した。
 アメリカ軍はサイパン島の上陸から住民を巻き込んでの激しい戦闘で多数の犠牲者を出し、バンザイクリフやスーサイドクリフの山崖などサイパン島の北部に住民は追い詰められて、崖から身を投じた。この戦いでサイパン島に生存していた日本人住民の約1万人が死亡した。サイパン島北端のマッピ岬に追い込まれた住民は、アメリカ軍の投降勧告に耳をかさず、約5,000人が断崖から約80下の海に身を投げた。サイパン島守備隊の約43,700人は大勢力のアメリカ軍に対し粗末な兵器で、圧倒されて7月7日に世に言う“バンザイ突撃”を最後に玉砕した。
 1944年6月11日に続き、12日もアメリカ軍は延べ約480機におよぶ空襲して、13日からは艦砲射撃も行われた。サイパンの街はことごとく灰塵に帰した。6月15日は夜も明けぬうちからアメリカ軍の激しい艦砲射撃が始まり、チャランカノアの市街をはさんで北と南の海岸に、アメリカ軍が殺到して上陸した。1944年6月11日から4日間でアメリカ軍は砲弾・爆弾を3千5百トンも炸裂させた。これ以降、在留邦人の本格的な本土引き揚げは皆無で、サイパン島には約20,000人前後の日本人が残されて、日本軍とともに米軍の上陸を迎えた。7月6日の早朝に、追い込まれた約4,000人の日本軍兵士が「バンザイ!」と叫びながら、タナパグハーバー近くのアメリカ軍の野営地に対して、手榴弾、銃剣、剣、ナイフで突撃した。次々と突撃して、榴弾砲と機関銃で撃退された。太平洋戦争で最大のバンザイ攻撃となった。アメリカ軍は、約3,426人が戦死して、約10,364人が戦傷した。日本軍は、約24,000人が戦死して、約5,000人が自殺して、捕虜は約921人であった。民間日本人は、主に投身自殺により約22,000人が大量自殺した。


2020年8月5日水曜日

イギリス王立空軍によるケルン空襲で、ヒトラー青少年隊が空襲により殺害された子供たちの死体を探索して処理した。

イギリス王立空軍(RAF)によるケルン空襲で、ヒトラー青少年隊が空襲により殺害された子供たちの死体を探索して処理した。1943年6月30日のケルンに対する空襲で、ケルンにおける学校が火災して、空襲から身守っていた2人の少年が犠牲者になり、かなりの数の生徒が死亡した。空襲の翌日の7月1日に、監視隊とヒトラー青少年隊は、彼らが働いていなかった場合も、不発弾や破片の落下の危険性に関係なく、清掃と救助活動のために、限定された部隊で使用された。ドイツ連盟とヒトラー少女隊は、爆弾の犠牲者の子供たちの死体を処置をして、子供たちの農村部への避難から、家や囲炉裏を失った人々に物資を提供する屋外給食を手伝った。
 ケルンドイツのケルン市は、第二次世界大戦中に連合国のRAFによって約262回の空襲で爆撃された。合計約34,711トンもの爆弾がRAFによりケルンに投下された。ケルンでの空爆により約2万人が殺害された。RAFの爆撃機は、1940年5月12日に最初の空襲を執行した。1942年5月30日と31日のケルンへの空襲は約1,046機の爆撃機で襲撃した。襲撃による荒廃で、ナチス・ドイツを戦争から駆逐するか、少なくともドイツ軍の士気に深刻なダメージを与えると予想した。火災は合体して火の嵐になり、爆風ではなく、被害の大部分は火炎であった。ケルン空爆の死者数は約474人と約5,000人の負傷者に達した。
 空襲の影響を受けた地域にて、毎晩ごとにヒトラー青少年隊(Hitlerjugent)は自分の生命を消火活動に当てて、負傷者を救出して、死体を埋葬した。拘束されていない青年の一部は、大胆にも突撃隊(SA)と対面した。戦争前には、ヒトラー青少年隊のすべての隊員に義務付けらた空襲の防衛のための火災訓練は、しばしば非常に深刻となった。空襲による爆弾がまだ落下している間に、消防隊の一員らはしばしば外界に出て、その町の全体に火災が広がるのを防止した。年長の青少年隊は毎晩ごとに学校の建物で火災を監視して、その場で火災を消火した。 
 戦争の空襲の犠牲になった子供と青年の人数が推定された。ハンブルクの空襲では、空襲で殺害された民間人の総数は約7,000で、そのうち19%が青年であり、約10,000人の子供が両方の親または片方の親を失った。カッセルでの空襲の約9,200人の犠牲者のうち、16歳未満の1881人が犠牲となった。16歳未満の少年の約252人と少女の約275人がフライブルクの空襲でで死亡した。少年と少女は、被害者総数の約19%を占めた。フライブルグ空襲には、1940年5月10日にドイツ軍の爆撃機が投下した誤爆により、遊び場で殺された約22人の子供たちも含まれる。


2020年8月4日火曜日

「黒い7月」の暴動で、スリランカの首都コロンボにて、シンハラ人集団によりタミル人を車から引きずり出してガソリンで焼却した。

「黒い7月(Black July)」と呼称される1983年7月23日から1週間にわたり、スリランカの首都コロンボで、シンハラ人集団による大規模な反タミル暴動が発生した。タミル人を車から引きずり出されて、ガソリンで焼却した。焼死して木炭となった死体が、首都の通りや他の街に並んでいた。暴徒がバスを塞いでガソリンを注ぎ約20人のタミル人が焼死するのを証言された。た。「黒い7月」のシンハラ人の暴動は、約371人のタミル人を殺害して、約10万人ものタミル人をホームレスにして、約13万人の難民を生み出した。その内の約78,000人は首都コロンボの12の難民キャンプに収容された。暴動が勃発した時は、首都コロンボには約162,000人のタミル人が居住していた。暴動に伴う商売と住宅の損害は、約1億6000万ドル、国内総生産の約4%に達した。スリランカ系タミル人を支援するインド系のタミル人も犠牲になった。
 「黒い7月」はジャフナ地域でタミル人により、最大の犠牲者となるスリランカ軍兵士の13人のシンハラ人が殺害された。シンハラ人の集団が、タミル人の財産を没収し、タミル人の通行人を襲撃した。暴動は直ちに首都コロンボのタミル人の人口が密集する周辺地域から南部まで拡散した。シンハラ人集団は、タミル人の家や店を放火した。路上や民家にいるタミル人女性を防寒して殺害した。黒い7月は、シンハラ人集団に有権者レストを譲渡するなど故意な計画的なスリランカ政府の関与を伴った。シンハラ人が略奪と放火をしても、スリランカ軍は傍観して、さらに治安部隊がタミル人への暴行に加担した。7月25日にはシンハラ人が当局を支配するウェリケード刑務所で暴動が発生して、シンハラ囚人がタミル人囚人を襲撃して、約35人を殺害した。7月27日に暴動が再発して、約17人のタミル人囚人が殺害された。7月29日にタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)のテロ組織が、首都コロンボに侵入した噂で大パニックとなり、約100人のタミル人が殺害されて、約3万人のタミル人が難民キャンプに逃亡した。暴動地域で活動するタミール人のLTTEテロ組織は、スリランカ軍のシンハラ人兵士を殺害した。 
 「黒い7月」の直後にスリランカ政府は、1983年8月5日に憲法修正第6条を可決した。全議員に単一のスリランカに賛同の忠誠を求めた。そのために分離派のタミル人議員や支持者を逮捕した。逆にタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)のテロ組織を助長することに至った。タミル人は、セイロン・タミル会議(ACTC, 1944設立)からタミル統一戦線(TUF)からタミル統一戦線(TULF)の組織的運動の変遷を経て、1975年5月5日にタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)のテロ組織を設立した。1977年8月に、タミル人の若者がも無作為に常連客を暴行した警察官を射殺し、警察は近隣までタミル人に報復して約100人を殺害した。1979年から1982年まで、裁判なしで拘留と拷問を含むテロ防止法が施行された。シンハラ人支配のスリランカ軍には、無制限の権限と免責を付与された。1983年に約65人のタミル人の幹部が不当に抑留された。5月18日の選挙日からタミル人過激派とスリランカ軍と警察が衝突と報復を繰り返して、多数の殺害が頻発した。
 スリランカは1948年2月4日にイギリスの植民地支配者から独立し、多数派である人口の過半数を占めるシンハラ人は、ほとんどの権力を掌握した。一方、タミル人は最大のマイノリティで約250万人で人口の18%)でもシンハラ人の支配下となった。シンハラ人は主にスリランカの南部と中央部、タミル人はスリランカの北部と東部に居住した。独立後にスリランカはシンハラ人が議会の過半数で、1956年にスリランカの公用語をシンハラ語に定めた。さらに北部と東部は開発プロジェクトで半植民地化された。1958年5月24日のタミル連邦党の不服従運動で、暴動により多数のタミル人と少数のシンハラ人の約159人が殺害された。タミル人は職業の選択や教育の平等から排除と差別を受けた。スリランカ政府は、1971年から1977年2月までタミル人の反乱を鎮圧する裁判なしで抑留と拷問する緊急事態宣言をした。