2019年10月23日水曜日

ナチス・ドイツは、ストラッパド拷問を、強制収容所の囚人に対して執行した。

ナチス・ドイツの親衛隊であったカート・フランツ(Kurt Franz)は、中世の異端審問の拷問室では、逆さ吊りとパレスチナ吊りとも呼ばれるストラッパド拷問を、強制収容所の囚人に対して執行した。被拘禁者の肩に負荷を与え、耐え難い痛み、脱臼、時には神経や靭帯の損傷を引き起こす。長時間に拘束すると肺が収縮し、呼吸困難となる。ポーランドのワルシャワ北東のトレブリンカ絶滅収容所の所長(1943年8月から11月)として安楽死プログラム(Akyion T4)を管理した。彼は囚人をピストルを取り外して、地面で撃って、ホルスターに戻すように見える。1943年8月2日にトレブリンカ絶滅収容所で囚人蜂起が勃発が勃発するも鎮圧されて、カート・フランツが所長となった。
 フランツは1937年に親衛隊髑髏部隊に加わった。最初にテューリンゲン州のワイマールで訓練を受け、その後ブッヘンヴァルト強制収容所で警備員を務めた。フランツは、異常なほどの残酷さとサディズムで知られた。軽微な罰でも囚人を射殺や拳殴した。しばしば馬に乗ってキャンプを回って、彼のセントバーナードの犬であるバリーを連れて行った。フランツの犬への命令により、囚人の性器または、腹部や臀部をしばしば噛ませた。
 1965年のデュセルドルフの戦争犯罪裁判所におけるトレブリン裁判では、フランツは殺人したこと、犬をユダヤ人に噛ませたことを否定し、「私はそれについて何も知らない。」と囚人を一度だけ殴ったと主張した。9月3日に、彼は少なくとも約300,000人の集団虐殺と、少なくとも139人の虐殺に関与した35件の殺人、および殺人未遂で有罪判決され、最低は15年の終身刑を宣告された。79歳の彼は健康上の理由で1993年7月に釈放されて、1998年にヴッパータールで死亡した。ドイツには死刑はなく、戦争犯罪者として裁判を受けれません。法律は1945年以降の連合戦争犯罪法廷によって制定され、ドイツの法律では先例がない。


2019年10月22日火曜日

硫黄島を守備した2人の日本軍兵士は、砲撃弾の炸裂で吹き飛ばされて爆死していた。

太平洋戦争における硫黄島の戦いで、アメリカ軍の硫黄島への上陸前に猛烈な艦砲射撃をした。硫黄島の海岸周辺の日本軍の防御陣地は崩壊した。守備した日本軍兵士は、砲撃弾の炸裂で吹き飛ばされて2人の日本軍兵士が1945年3月1日に爆死していた。その後に上陸用艦船から、アメリカ軍兵士と重装備が陸揚げされた。巨大な人材と物量で、最終的に日本軍を圧倒して全滅させた。特にアメリカ軍は硫黄島に、3月1日にのべ約1,000機に及ぶ飛行機の銃爆撃と、約60隻に上る艦隊の砲撃を加えて、日本軍の海岸陣地は壊滅した。
 戦争の犠牲と悲劇は、戦争に巻き込まれて、戦争に駆り出された兵士や市民を襲った。大量虐殺まで追い込まれた兵士と市民らは、生活も生命も軽視されて、連合軍の膨大な武力で大量虐待と大量虐殺されて、常に最大の被害者となった。家を焼失して、肉親も殺害されて、飢餓状態に追い込まれ、悲惨な悲劇を苦悩して慟哭するのも、常に兵士と市民らである。兵士と市民は、自らが求めて太平洋戦争を引き起こしたのでは決してない。全兵士と市民は、否応なしに致し方なく、無差別に引き起こされた戦争に巻き込まれた。世界大戦に至ると、すべて世界の兵士や市民が無差別に戦争の悲惨と悲劇を耐え忍んだ。
 アメリカ軍は、硫黄島に対して1945年1月までに機動部隊で約12回のべ約1,269機、基地航空部隊で約69回のべ約1,480機による空襲して、海上艦艇でのべ約64隻で攻撃した。上陸直前の2月16日には、機動部隊でのべ約1,000機の空襲と、艦砲射撃により連日猛烈な砲爆撃を加えた。特に2月18日は大規模に海岸陣地と飛行場を破壊した。アメリカ軍は、2月19日午前8月30分に優勢な砲爆撃の援護下に約130隻の舟艇を持って上陸を開始した。午前1100頃には約10,000のアメリカ軍兵士と約200の戦車などを揚陸した。硫黄島の砂は非常に柔らかく、上陸した海兵隊員は膝まで砂に埋もれ硫黄島の戦いに多大な支障を伴った。日本軍の守備隊はアメリカ軍の猛烈な砲爆撃を受けるも、強烈な抵抗と火力反撃を行って。アメリカ軍に多大の損害を与えた。2月20日には海岸の鉄筋コンクリート陣地は全滅し火砲は半減した。硫黄島を海空から完全に包囲し、膨大な鉄量と火薬で日本軍陣地を逐次破壊した。3月3日頃には日本軍は僅かに約3,500人となり、後方陣地を死守して死闘した。3月17日に残兵約800名とともに突撃出撃して全滅して、3月26日に組織的な戦闘は終結した。硫黄島の戦いで、アメリカ軍は戦死傷者約28,686名(戦死者約6,821名)、日本軍は戦死傷者約20,933人(戦死者約19,900人)の犠牲を出して、攻撃側のアメリカ軍側が、防御側の日本軍の犠牲を上回った。



2019年10月21日月曜日

カンボジアのオスオデイ川に向かう途上の道のど真ん中に、地雷の信管が飛び出した。

2011年8月にカンボジアのオスオデイ川に向かう途上の踏みしめられた道のど真ん中に、地雷の信管が飛び出していた。ジャングルの中にも道なき道に地雷が現れては消えた。地雷の被害は、車両など物体の破壊や人畜が殺傷する直接的な被害と、地雷が埋まった土地が価値を失う膨大な経済被害が出る。地雷には、残虐性、残存性、無差別性の被害を伴う。一度埋められて踏むと殺傷するまで待ち続けて地雷は半永久的に作動し、無差別に住民を苦境に追い込む。 
 カンボジアには1970年代以降の混乱や内戦により多数の地雷・不発弾が埋められままである。特に武力衝突が激しかったカンボジア西部・タイ国境バタンバン州などでも撤去作業が連日続いている。地雷による年間死傷者数は、1996年に約4,320人と過去最多に達した。年々減少や増加を繰り返している。2000年には859人から2013年には111人にまで下がった。しかし、2014年には再び154人(死者21人と負傷者約133人)に増加した。主な要因は農業の近代化でトラクターなどの農機が普及して被害が増えた。カンボジア地雷対策・被害者支援庁によると、2015年に撤去された地雷・不発弾は約23,000個であった。地雷除去された地域は拡大するものの、まだ約1,640平方kmの地雷汚染地があり、除去には今後10年間で約36,000万ドルが必要と算出された。2016年には世界における地雷・不発弾の被害者が8,605人にのぼり、1999年の9,228人に次ぐ犠牲者となった。
 オスオディスとは、タイとカンボジアの国境のジャングルの中にあるポル・ポト直属の秘密司令部であった。ポル・ポト政権は、1975年4月1日から1979年1月7日までの3年8ケ月20日の期間に、約200万人にも達するカンボジア住民が虐殺されて餓死や病死した。ベトナム軍のカンボジアへの侵攻によって、ポル・ポト政権が崩壊した。カンボジアを占領したベトナム軍は、ソ連と傀儡のヘム・サムリン政権を樹立した。ポル・ポト政権は、タイ・カンボジア国境のジャングルに潜伏して、ベトナム傀儡政権と対立した。アメリカ西側諸国と中国が、ポル・ポト派とソン・サン派とシアヌーク派を合体した民主カンボジア連合政府を国境のジャングル一体に樹立した。カンボジアは、ベトナムとソ連、アメリカ西側諸国と中国との代理する内戦に陥った。 


2019年10月20日日曜日

広島原爆で頭部に受傷して、母親と看護師からケアを受け、不安に怯えて見つめた。

広島原子爆弾によって犠牲となった子どものの母親は、広島での原爆の被害者である負傷した子供を世話した。頭部にガーゼを巻いた子どもは、側にいる母親と看護師からケアを受けた。子どもと母親が、不安に怯えながら見つめ合った。広島第一陸軍病院の宇品分院の救護所の看護婦は、子供の頭部の傷をケアした。被爆者の親子は、救護所内で、ござやすのこの上で布団をまとい寝込んでいた。1945年9月中旬に、アメリカ軍海軍が調査のために撮影した。
 広島原子爆弾の人体への影響を研究する米国の調査団が、1945年9月11日に広島市宇品町の広島第一陸軍病院の宇品分院に調査に入った。爆心地から南に約4,200mで達する。マンハッタン管区調査団が、米国の調査団初めて広島市内に入った。被爆地が安全かどうかを確認し、原爆の影響、特に放射線に関する影響を調査するために、多くの情報を収集した。
 大和人絹が1934年10月に、広島市宇品町に広島工場を創業した。1943年2月に陸軍に接収されて、工場の約3分の2が陸軍船舶練習部に使用された。建物の多くは木造であるが、広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂しても、爆心地から約4kmも遠方のため、爆風の被害はガラス窓の破損と屋根瓦の飛来と軽傷であった。被爆直後から被爆者たちは続々と難を逃れて混雑と混乱をした。応急処置をして収容する状況ではなかった。午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運び込まれ続けた。停電の中で、ロウソクと懐中電灯で徹夜の救護活動が続いた。8月7日朝には約4,000もの被爆者が集積した。8月9日に臨時陸軍野戦病院に転換して約6,000人以上を収容した。8月25日になって広島第一陸軍病院宇品分院に改組となった。


2019年10月19日土曜日

親衛隊医師であるヨーゼフ・メンゲレ大尉は、囚人を選別して毒ガス室の監視もした。

親衛隊医師であるヨーゼフ・メンゲレ大尉は、堂々としてアウシュビッツ強制収容所の貨物駅に立って、ガス室送りになる数万人にも及ぶ囚人の選別をして、毒ガス室の監視もした。アウシュビッツに連行された囚人を選別して人体実験を繰り返した。小人症も残酷な研究対象と選別されて、アウシュビッツ強制収容所に強制送還た。1943年5月30日から約13万人を収容したアウシュビッツで勤務したヨーゼフ・メンゲレは終戦後も、1947年にニュルンベルク裁判で、戦争責任の刑事訴追を追求から免れた。1945年7月18日に南アメリカに失踪した。戦犯としてメンゲレは、終生まで国際的に指名手配された。
 親衛隊医師らは、残酷な人体実験を囚人に処置した。女性囚人の子宮を病原菌で汚染して、安上がりに断種と不妊するために、卵巣と清掃に強度のXp線を照射して、生殖能力を奪う実験をした。特にメンゲレは、双子の目に化学薬品を注入、失血死するまで血液を抜き取る。薬剤を注入して殺害した。ユダヤ人、ロシア人、ポーランド人にも強要して、生殖能力を絶滅をさせた。
 人種差別主義を掲げるナチス・ドイツは、ダーウィニズムを由来して、生物学的に欠陥があれば、生きる価値がなかった。生殖過程に関与して、優れた人間のみが生存すべきである。ユダヤ人や障害者は、生殖や生きる価値もないとした。アーリア人以外の人種は劣等であるとした。1934年1月に遺伝的疾病予防法が施行されて、精神障害者・てんかん・盲・聾・身体障害者、知的障害者、アルコール中毒者などに強制不妊、断種手術が処置された。遺伝的疾患患者を抽出するために、警察、医療福祉系書類、カルテが検閲されて、警察権限で強制連行した。人種台帳に登録されるには、少なくとも1950年代以降に純粋なアーリア人である証明が必要であった。


2019年10月18日金曜日

ウンデット・ニーの虐殺で、アメリカ先住民であるインディアンが悲惨に殺害された多数の死体が、豪雪の荒野に散在した。

1980年のウンデット・ニーの虐殺で、アメリカ先住民であるインディアンが悲惨に殺害された多数の死体が、豪雪の荒野に散在した。非武装のインディアンは、米国騎兵隊の無差別の砲撃と射撃により、約150人が虐殺された。その約150人の犠牲者うちで、約44人の女性と約16人の子供も虐殺された。1870年には、アメリカ合衆国には約4000万人もの入植者や金採掘者らが、農地や猟場を求める約30万人のインディアンを弾圧していた。
 アメリカ合衆国のサウスダコタ州南西部のパインリッジインディアン居留地にあるウンデット・ニーは、北米インディアンと米国政府の紛争地であった。1890年のウンデット・ニーの虐殺により、米国軍とスー族の分派であるラコタ族と最終的な衝突により、約150人のアメリカ先住民のインディアンが殺害された。1890年を通じて、米国政府はパインリッジでのインディアンのゴーストダンス信仰の拡大を懸念した。多くのラコタ族は、ゴーストダンス信仰を実践し、神は新たに世界を創造し、非インド人を含むすべての非信者を撲滅すると信じた。インディアンは伝統的な習慣を維持して居住地に留まった。1890年12月15日に、警察はゴーストダンサーと疑って、有力なラコタ族の首長を逮捕する過程で殺害して、パインリッジの緊張を高めた。約350人のインディアンが、パイン・ブリッジの特別保留地に向かった。その途中で、約500人の米国軍の騎兵隊が野営地をウンデット・ニーに変更させた。12月29日に、インディアンに武装解除をしている最中に、ライフルの発射から虐殺が勃発した。
 1980年12月29日に米国軍の騎兵隊は、ニークリークの近くにあるラコタ族の首長のよるゴーストダンサー運動を囲み、武器の投降を要求した。インディアンと米国騎兵隊の間で戦いが勃発し、砲撃と射撃が勃発した。どちら側から突撃かは不明である。残虐な虐殺が続いて、約150人のインディアンが殺害され、その半数近くが女性と子供であり、米国騎兵隊は約25人が殺害された。悲劇的で回避不可能な虐殺となった。重武装した軍隊に囲まれて、インディアンがが意図的な戦いの可能性はほとんどない。米国騎兵隊が1876年のリトルビッグホーンでの連隊の敗北に対して、意図的に報復したと推測されている。米国騎兵隊には名誉勲章が授与されて、ウンデット・ニーの虐殺をアメリカ国民は好意的に評価した。



2019年10月17日木曜日

南スーダンでは1歳半の男児が横たわり、顔に無数の蝿が追い払えず、瞳に蝿がたかり、涙から水分と栄養を奪い取った。

南スーダンは、2018年2月時点で、人口の約3分の2にあたる約700万人も飢餓状態に達して、5歳未満の子どもの約530万人も急性栄養不良状態に至る緊急事態に陥った。南スダーンの市民は、飢餓下で生活と生命をかろうじて維持している。首都のジュバの貧弱なマハド難民キャンプにス南ダーンの市民がなだれ込んだ。マハド難民キャンプでは、2018年5月には約7,800人が収容された。その難民キャンプには、多くの女性と子どもが収容されていた。テントの前で座り込み困窮した母親が、手を口に運び食糧を求めた。空腹で飢えた母親から母乳も出ない。何もないテントの中で、1歳半のルオーくんが横たわっていた。その顔には無数の蝿がたかり、追い払うことも困難であった。瞳に蝿がたかり、ルオーの涙から水分と栄養を奪い取った。気温40度を超える灼熱の中で、排水で汚染した水で下痢になった。雨期には、マラリアに感染した。いずれも、子どもから直ちに命を奪った。
 1956年にスーダンはイギリス・エジプトから独立した。その後から、イスラム教派のアラブ系住民が多い現在のスーダン共和国とキリスト教や伝統宗教が多い南スーダンは、北部と分離・独立を求める南部の内戦が頻発した。第1次スーダン内戦が1955年8月から1972年3月まで勃発した。第2次スーダン内戦が1983年3月から2005年1月まで勃発した。2011年7月になって、新たな南スーダン共和国が独立したが、内戦が頻発している。2013年12月と2016年7月には、2度にわたる戦闘が勃発した。2013年12月14日に、南スーダンの首都ジュバで、南スーダン人民解放軍の一部が反政府クーデターを引き起こして、内戦状態となった。2016年7月に首都ジュバで、大統領派と副大統領派が衝突して、再び内戦状態となった。



2019年10月16日水曜日

膨れ上がった2人のアメリカ人と1人のフィリピン人の死体が、バターンの死の行進に沿った排水路に散乱していた。

2人の膨れ上がった2人のアメリカ軍兵士と1人のフィリピン人民兵の死体が、1942年4月16日にオリオン市にてバターンの1つの排水路の中に、バターンの死の行進に沿って散乱していた。バターンからオーストラリアまで逃げ延びた3人のアメリカ兵が、「バターン死の行進」と名づけ惨状を伝えて日本軍の残虐性を示した。
 日本軍は、1941年12月22日にフィリピンのルソン島に上陸した。アメリカ軍とフィリピン軍は、1942年4月9日に日本軍に正式に降伏した。日本軍は占領したフイリピンのバターン半島から、1942年4月に降伏した約76,000人の捕虜(約10,000人のアメリカ軍兵士と約66,000人のフィリピン軍兵士)を約106km(約66マイル)も灼熱の中を強制的にバターンの死の行進をさせた。主にバターン半島の南端のマリベレスから1942年4月9日から行進が始まり、サンフェルナンドまで強制的に行進した。その後に不衛生な狭苦しい列車に乗って、北のカパスまで鉄道で移動した。さらに約11km(約7マイル)も歩いた。アメリカ人とフィリピン人の捕虜を抑留する元フィリピン陸軍訓練センターがあるオドネル強制収容所まで連行した。捕虜が連行した地点に応じて5〜10日間続いたバターンの死の行進中に、水や食糧も与えられず死亡した。水や食糧を要求した捕虜の中には、打撲され、射殺され、縛られて、銃剣で斬首された。強制収容所にたどり着いた多くの捕虜は、後に飢餓と病気で死亡した。強制収容所に到着した捕虜はわずか約54,000人である。行進中に約500人のアメリカ人と約2,500人のフィリピン人が死亡した可能性がある。さらに約1,500のアメリカ人と26,000人のフィリピン人が強制収容所オドネルで死亡した。



2019年10月15日火曜日

セルビア人武装勢力がボスニア人と呼ばれるボスニア人イスラム教徒を民族浄化のためとして大量虐殺した。

東ボスニアでは、1992年冬にセルビア人武装勢力兵士が処刑した約6人のボスニア人の死体が雪上に転がっていた。正統派キリスト教徒であるセルビア人武装勢力がボスニア人と呼ばれるボスニア人イスラム教徒を民族浄化のためとして大量虐殺した。セルビア人武装勢力は、村に潜入していたボスニア政府軍の斥候部隊のスパイと疑わった村のボスニア人を、雪上戦が勃発するまでに虐殺した。セルビア人兵士を防衛するためとして、村のボスニア人は斥候部隊のスパイとして虐殺された。但し、処刑されたボスニア人が斥候部隊のスパイであるとは確証されていなかった。その中にスパイ容疑をかけられて、処刑された無実の村人も含まれる。
 ボスニア戦争は1992年に始まり、1995年まで続いたが、ボスニア戦争の原因は第二次世界大戦に由来して、その影響はまだ2017年にも継続している。戦争は約10万人の市民と兵士の死をもたらした。ボスニア人とも呼ばれる少なくとも25,000人のボスニア人イスラム教徒の大量虐殺を引き起こした。1992年4月から、セルビア人はすべてのボスニア人イスラム教徒を体系的に排除するで、ボスニア領土を「民族的に浄化」することが勃発した。セルビア人は旧ユーゴスラビアの軍事装備で、ボスニア人を攻撃して、首都サラエボを包囲した。多くのボスニア人は強制収容所に追い込まれ、女性と少女は組織的に強姦され、他の市民は拷問され、飢え、殺害された。ボスニア政府軍は、1992年冬に東ボスニアのセルビア勢力地を攻撃した。ボスニア軍兵士が最前線を越えて突撃して、雪上戦を果敢に戦闘した。しかし、精強なセルビア人武装勢力が、ボスニア軍兵士を一網打尽にして、ほとんどひとり残らず射殺した。セルビア人武装勢力の兵士たちは、雪上の死体群から意気揚々と引き上げた。




2019年10月14日月曜日

沖縄戦における南風原陸軍病院の穴壕から死体の8柱と備品が発掘された。

沖縄戦の南風原陸軍病院の穴壕から死体の8柱が1989年3月3日に発掘された。その他に注射液のアンプルや薬品瓶、印鑑、万年筆等も発掘された。それらを新たに埋葬した。
 沖縄戦に至るまでに、1944年10月10日の大空襲により那覇は壊滅した。沖縄陸軍病院も巻き込まれて、琉理後方の南風原国民学校に移転した。国民学校を活用して、軍医と衛生兵と看護婦の約350人体制で開設した。
 1945年4月21日からのアメリカ軍の上陸を防衛する準備のために、黄金森に横穴壕を掘削して、三角舎をを丘に整備した。アメリカ軍の空襲が猛烈になるに従って、戦傷者が増大した。さらに黄金森に本部壕、第一外科壕、第二外科壕、第三外科壕などが掘削されて、約20横壕が貫通した。約4,000人もの戦傷者が収容できた。3月24日にアメリカ軍による沖縄本島への艦砲射撃が勃発した。その直前に、師範学校女子部とひめゆり学園の併設校である県立第一女学校の女学生の約200人が配属された。3月29日に、女学生の卒業式を挙行してから、各分院に配属された。県下の女学生を徴収して、約550人が従軍して、そのうち死亡率が約62%に達する約339人が戦死した。
 横穴壕にはの二段ベット上で、戦死傷者のうめき声と血・海の匂いと死臭が充満した。アメリカ軍の戦勝が近づくと、激増した戦死傷者で郷内は膨れ上がった。女学生は、看護、糞尿の処理、死体の埋葬、水汲み、食事運搬などを強要された。5月25日に、日本軍の撤退とともに、南風原陸軍病院も撤退が指令された。戦傷者を運搬する余裕も、食糧も医薬品も枯渇していた。沖縄群司令部から、重度の戦傷者に対して、青酸カリや手榴弾などで自決させて、横穴壕を埋没させた。