2019年10月8日火曜日

金鉱の荒野で無差別にデモ行進の労働者に射撃して、約250人のレナの労働者が虐殺されて約500人以上が負傷した。

ロシア帝国軍の憲兵隊が1912年4月17日に、ナデディンスキー金鉱の荒野で、無差別にデモ行進の労働者に射撃して虐殺して、少なくとも、約250人のレナの労働者が虐殺されて、約500人以上が負傷した。死体安置所だけでは、処刑された死体を収容することができなかった。
 シベリア南東部のレナ川に沿った巨大な金鉱地は、ロシア帝国で最も収益性の高い地域であった。地域の大部分の金鉱は、レナ・ゴールド・マイニング合資会社が所有して、(レンゾロト)は、年間約7,000,000ルーブルの利益で経営した。経営者の利益のために、レナの鉱山労働者とその家族は厳しい生活に耐えなければならなかった。約16時間の労働を強要された、鉱山労働者の事故は約1000人ごとに約700件の外傷事故が多発した。鉱夫が乏しい仕事と監視されると、多くのお金が罰金として搾取された。鉱山労働者に腐った食肉を配給したことから、1912年2月29日にストライキが勃発した。3月中旬には、他に約6,000人もの労働者も加わった。約30%の賃上げ、罰金の廃止、1日約8時間労働、食事の改善を要求するも、3月22日に経営者と決裂した。
 鉱山労働者のストライキを撲滅するために、4月17日にロシア帝国軍から憲兵隊が派遣されて、ストライキの指導者が逮捕された、約2,500労働者が、検察庁にデモ行進して釈放を要求した。レナ金鉱の労働者に対する残酷な弾圧と大虐殺の情報は、ロシア国内に拡散した。ペトログラード、モスクワ、そのほか産業地帯でも大規模な抗議ストライキが勃発した。約30万人もの労働者を巻き込み、大規模なデモが1912年5月にロシアの都市を包囲した。ペトログラードだけでも、約1,000回ものストライキが発生した。レナ金鉱の虐殺は、ロシア市民の怒りと不満を強めで、1912年にはストライキの数が約1,918件と、1911年の約468件から約4倍にも達した。8月末には、レナ金鉱から約9,000人の労働者と家族が避難した。



2019年10月7日月曜日

大学から勃発した8888蜂起は、武装したビルマ軍によってビルマ国民まで集結した抗議デモは弾圧された。

1948年にイギリス連邦から独立したビルマ連邦では、1958年から継続する軍事政権に対して民主化を求めて1988年に8888蜂起が勃発した。ビルマ連邦は、1988年に経済が破綻して、後発開発途上国(LLDC)にまで転落した。ビルマの軍事政権に対して、1988年8月8日に大学から勃発した8888蜂起は、ビルマ国民まで集結して抗議デモを挙行した。武装したビルマ軍によってビルマ市民は弾圧された。人々が篤い尊敬を寄せる僧侶の青年の隊列が最も注目された。僧侶の青年たちは、軍人や家族が営む宗教儀礼では読経を拒否して、布施や托鉢を拒否して抵抗を続けた。1988年8月から9月の1ケ月間に約600人の僧侶が殺害された。1988年の1年間では、約10,000人の死者に達した。海外では、犠牲者数は数千人のみと報道された。
 1988年8月25日から9月18日にかけて軍事政権が混乱をした。8月8日に蜂起したビルマ市民の多数を拘束して投獄した。暴動の指導者して容疑者が、逮捕されて長期間の勾留と拷問による殺害が示唆された。8月27日は、軍事政権はヤンゴンの中央刑務所に拘束された受刑者を一部開放した。1989年6月18日に軍事政権は、ミャンマー連邦に国名を改変した。1988年9月18日には、将校らが軍事クーデターを挙行して、改変した軍事政権は戒厳令を宣告した。軍隊は、デモ抗議者を殺害するために殺害すると警告をした。新たな軍事政権は、民主的選挙を公約するも、1990年5月に圧倒的に勝利した国民民主連盟(NLD)には、2011年3月まで権力の譲渡を履行しなかった。2011年3月まで軍事政権下でミャンマーを統治した。


2019年10月6日日曜日

第1次世界大戦でドゥナジェツの悲惨な野戦病院に護送されたロシア軍兵士を老司教が見舞った。

第一次世界大戦。ロシア軍兵士がドゥナジェツで戦死傷者が野戦病院に護送された。カトリック教会の老僧が戦死傷者を慰めた。司教が戦地の野戦病院を見舞った。東部戦線の両側に塹壕が掘られ、戦局は膠着して固定化した。新兵器である航空機の空爆、毒ガスによる虐殺が塹壕戦に犠牲を拡大した。1916年末からのロシア革命によりる完全なる危機に直面した。
 ロシア帝国ニコライ2世は、1914年7月20日に第1次世界大戦の詔書を読み上げた。皇帝は、神につかわされた専制君主であり、絶対的な長であり王であった。ロシア軍は、総動員令により、1914年に約311万5000人から1915年末に約830万3000人も動員させた。皇帝は、家族から父と息子を奪い、戦場で残酷な運命に追い込んだ。ドイツ帝国の東プロイセンに速攻で侵攻した。ドイツ軍は、8月17日にタンネンベルクの戦いで、ロシア軍を分離させて包囲して壊滅した。ロシア軍には、約3万人が戦死傷と約9万2000人の捕虜の犠牲が出た。
 ロシア軍は第1次世界大戦の開戦から1915年末までに、約12万4987人が戦死して、戦傷者は約61万2119人、捕虜・行方不明は約44万4996人で、総計119万2102人が犠牲となった。1914年末には、あらゆる物資の補給が滞り、戦場は悲惨な墓場に陥った。ロシア軍は、1915年4月19日にガリツィア、5月20日にプシェミシル、6月9日にリヴォフ、7月23日にワルシャワ、8月5日にコヴノ、8月19日にグロドノから完全に大撤退した。1915年5月から7月だけで、戦死者は約6万3519人、戦傷者は約27万7110人、捕虜・行方不明は約5万2231人、総計約39万2906人の犠牲が昇った。さらに8月の1月間だけで、戦死者は約3万3054人、戦傷者は約14万6820人、捕虜・行方不明は約40万5057人で、総計は約58万4931人の犠牲となった。開戦以来からの犠牲者総数は、約216万9939人の犠牲に達した。ロシア軍には、悲惨で残酷な大量犠牲を強要した。ロシア軍が撤退したポーランドとガリツィアに残されたロシア人は、ドイツ軍から避難して難民化した。
 

2019年10月5日土曜日

テト攻勢が勃発して、アメリカ大使館内で殺害されたベトコン2人のテロリストの死体が、壁に横たわった。

ベトナム南部のサイゴンでテト攻勢が勃発した。アメリカ大使館内で殺害されたベトコン2人のテロリストの死体が、アメリカ大使館の壁に横たわった。 テロリストは大使館の周囲の壁に穴を開けて、敷地内を突破して占領した。ヘリコプターで大使館の屋根に上陸したアメリカ陸軍の空挺部隊が、彼らが殺害されるまでに約6時間にわたりベトコンは大使館を占領した。侵入して殺害された18人のベトコンの死体は、大使館のコンクリートの箱庭などに転倒した。負傷した1人のベトコンが捕囚された。アメリカ側は、4人のアメリカ軍の警備兵と1人の国会議員が死亡した。
 1968年1月末に、ベトナムの旧正月であるテトの休暇中に、北ベトナム軍と共産主義のベトコン軍は、南ベトナムの多くの標的に対して、奇襲して攻勢を挙行した。アメリカ軍と南ベトナム軍は、テト攻勢を終結するまでに、多大な犠牲を伴った。1月30日と31日から、南ベトナム開放戦線(NLF)が、人口の多い地域やアメリカ軍が駐留している地域を同時に攻撃した。南ベトナム解放戦線は、サイゴンにあるアメリカ大使館の外壁を破壊して侵攻した。第2期は、5月4日から小規模な都市や町に同時多発の攻撃が、6月まで継続した。第3期は8月に開始されて、約6週間継続した。その後の数ヶ月で、南ベトナム解放戦線が占領した地域を完全に排除して確保した。最終的に、36州都、5自治体、72地方都市、約100以上もの町を攻撃した。1968年3月31日に、ジョンソン大統領は2期目の立候補を辞退した。1966年から1967年までに、北ベトナムは、大規模な死傷者、戦場での膠着状態、およびアメリカ軍の空爆により北部経済は破綻して追い詰められていた。



2019年10月4日金曜日

第1次世界大戦の東部戦線にてポスタウィの戦いが勃発し、ナロク湖の小道に、多大なロシア軍の死体が散乱した。

第1次世界大戦の東部戦線において、1916年3月18日から28日まで北ポーランドのナクロ湖北部でポスタウィの戦いが勃発した。ロシア軍は、ドイツ軍の陣地への攻撃したが、ロシア軍は大敗した。リトアニアとベラルーシの国境地帯にあるナロク湖の小道に、ロシア軍の死体が散乱した。ドイツ軍は劣勢にも関わらず、ロシアの攻撃が破滅的に敗退した。ロシア軍は、解凍したナロク湖を取り巻く低地の泥だらけの溝、沼地、沼地、および森林で壊滅した。ポスタウィの戦いは、数日間の温暖の気候と大雨により、ナロク湖の氷結が融解して解凍した。泥沼と湿地の戦いから死者の戦いとなり、ロシア軍を甚大な損失を被った。ロシア軍は、最初の約8時間で約15,000人、約3日間で約40,000人、3月30日の終結では約100,000人もの戦死傷者が犠牲となった。ドイツ軍は、約20,000人もの犠牲を伴ったが、ロシア軍はより損害を受けた。
 フランス軍は、西部戦線にて1916年2月21日からのヴェルダンの戦いを軽減するために、皇帝ニコラス2世からロシア軍に対して東部戦線のナロク湖攻勢を要求した。ロシア軍にどのような犠牲を払っても、連合国を支援することを命じた。大撤退に伴う大敗によって、ロシア軍は第1次世界大戦の開戦時から1915年末までの間に、約200万人は下らない犠牲者を出した。ロシア軍の作戦全体が完全な失敗であり、広く知られた第一次世界大戦の方法である人間の波の犠牲を強制した。敵の前線の同じ場所に、大量の人々が何度も何度も戦いに送り込まれた。最終的に3月30日にも決定的な終結に至らず、ロシア軍は、沼地領域のドイツの陣地への攻撃は中止した。



2019年10月3日木曜日

アフガニスタンのナジブラ元大統領は、去勢され、射殺され、弟と一緒に、街灯柱に吊るして公開の絞首刑にされた。

1996年9月26日は、アフガニスタン共産党大統領のナジブラ医学博士の人生の最後の日没となった。タリバン派はカブールを制圧すると、国連事務所に入りナジブラ元大統領を捜索して、彼を連れ去った。ナジブラは、去勢され、射殺され、通りのトラックの後ろに連れて行かれた。9月27日朝、弟と一緒に、街灯柱に吊るして公開の絞首刑にされた。ナジブラと弟の死体の横で、タリバン派の民兵らが喜びのポーズを取った。2日間にわたり、大統領と弟の死体はカブールの中心部の街灯柱に吊るされた。タリバン派はカブール制圧後にアフガニスタン・イスラム首長国として独立宣言をして、1998年8月には、アフガニスタンの約90%を制圧した。ナジブラは1980年に秘密警察長官に任命され、残忍で冷酷な手法でイスラム聖戦士ムジャヒディーンのゲリラ活動を封じて、タリバン派に恨みで報復された。
 ソビエト連邦が1979年にアフガニスタンに侵攻して、1989年にアフガニスタンから8万人ほどの軍隊を撤退させた。ナジブラのマルクス主義政府はすぐに崩壊すると予想された。ナジブラは権力の獲得によって粘り強く体制を維持した。1987年から1992年までアフガニスタン大統領であった。即時の没落しないで、ソビエト連邦が支援して体制は3年続いた。1992年4月15日にイスラム教のムシャヒデーィンのクーデターにより、体制から追放されて、カブール市内の国連事務所に留置された。イスラム教スンニ派の原理主義者のタリバン派は、1994年11月頃にアフガニスタン南部のカンダハルで派生した。ソ連は人民民主党政府を支援したが、パキスタンとアメリカは対抗して政府を打倒するタリバン派を支援した。タリバン派は1996年にアルカイダを保護することで、アルカイダは2011年9月11日にアメリカに対して同時多発テロを実行した。2001年10月から連合軍によるアフガニスタン攻撃で、タリバン政権は2001年12月に崩壊した。


2019年10月2日水曜日

長崎原爆が大炸裂した瞬間を上空から捉えて、きのこ雲をカラーフィルムで約3分50秒の撮影された。

長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に、長崎市内の浦上天主堂の約500m付近の上空で大炸裂した瞬間を上空から捉えた。きのこ雲を16mmのカラーフィルムで、約3分50秒の映像として記録された。原爆搭載機のB-29(ボックス・カー)は、高度約9,600メートルの上空から、広島原爆に次ぐ約1.5倍の威力のある第2号の原子爆弾となるプラトニウム239型(ファットマン)を長崎市内に投下した。第1目標の小倉上空が空爆の煙などに覆われて、第2目標の長崎上空に変更して、雲量のために目視でなくレーダーによる爆弾投下を迫られた。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒に、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒のとき、雲の切れ間から長崎市街の浜口町と芝里町の一部をわずかに目視できて、急遽に投下する目標地点となった。爆心地は、目標地点より約500m北方にずれて、松山町171番地のテニスコートの上空約503mで炸裂した。キノコ雲は、一瞬にして長崎市内の全域を覆った。炸裂の瞬時に、数千万度の火球が出現して、体積が急激に拡大した。1万分1秒で直径約30m、温度は30万度に達して、火球は0.01秒から1秒の間に直径約280mにも達した。炸裂による巨大なエネルギーは、地上を吸い上げ、巻き上げて原子雲が刻々と変色しながら立ち上った。
 原子爆弾による被害と犠牲者は、想像を絶するほど甚大となった。死者は約73,884人、重軽傷者は約74,909人、被災人員は約120,820人(4km以内の全焼全壊の世帯員数)、被災戸数は約18,409戸に昇った。爆心地より1km以内は、強烈な爆風と熱線によってほとんど即死した。建物と木柱は粉砕して、爆心地は瞬時に焼失して、周囲の各所から強烈な火災を発生した。2km以内は、一部は即死し、大部分は重軽傷の原爆症を受けた。木柱は約80%倒壊して、次第に燃え移り火災が拡大した。4km以内は、輻射した熱線で一部は火傷、爆風による飛散物で一部は重軽傷を受けた。建物は半壊、一部の建物と木柱が焼失した。8km以内では、飛散物により一部重軽傷を受けた。建物は半壊あるいは一部損壊した。爆風は、風速約15kmで、窓ガラス・扉・障子などを損壊した。



2019年10月1日火曜日

イスラエネ軍は、アメリカ大使館の移転に抗議デモをしたパレスチナ人に対して、無差別に狙撃と銃撃をして約60人も虐殺した。

2018年5月14日に、エルサレムに移転したアメリカ合衆国大使館の開設式を挙行した。同日は、1948年5月14日にイスラエルが建国されて、パレスチナ人が追放されて難民となったナクバの大災厄の日でもあった。2017年12月にアメリカは、エルサレムを正式なイスラエルの首都と認定していた。今までの中東政策を転換して、現在のイスラエル大使館を、テルアビブからイスラエルの首都であるエルサレムに移転した。3大宗教の聖地であるエルサレムをイスラエルの首都として認定した。アメリカ大使館の移転に対して、イスラム教徒でエルサレムを追い出されたパレスチナ人が猛反発した。強制撤去されたガザ地区では、約4万人にも達する大規模な抗議デモが勃発した。それに対抗して、イスラエル軍兵士は、抗議デモに無差別に狙撃と銃撃をした。少なくとも約60人のパレスチナ人が射殺されて、約27,00人が負傷した。銃殺されたパレスチナ人の死体の周りに集まり慟哭した。
 聖地エルサレムは、1948年のイスラエル建国に伴う第1次中東戦から紛争の地域となっている。イスラエルは第一次中東戦争で西エルサレムを占領した。さらに1967年の第3次中東戦争では、パレスチナ人が大半を占めて三大宗教の聖地がある東エルサレムを占領して併合した。第一次中東戦争でパレスチナ人はガザ地区に避難と追放された。1980年に、イスラエルの国会はエルサレムを首都とするエルサレム基本法を制定した。しかし、国連は、イスラエルがエルサレムを首都と宣言するのは、国際法に違反するという国連安全保障理事会決議第478号を採択した。アメリカ連邦議会は1995年にエルサレム移転法案を可決していた。2017年12月6日にアメリカは、エルサレムをイスラエルの首都とすることを承認した。2018年3月からアメリカ大使館のエルサレム移転に対して、パレスチナ人による帰還の大行進である抗議デモが頻発していた。 


2019年9月30日月曜日

柳条湖事件の鉄道爆破地点の付近に、中国人を容疑とした死体が放置されていた。

柳条湖事件の鉄道爆破地点の付近に、中国人の死体が放置されていた。この事件現場の写真は、1931年9月26日に公表された。中国人が爆薬を仕掛けて、日本軍兵営方向から逃げたように倒れた向きを見せかけたとの示唆もある。しかし、9月18日午後10時20分の爆発は軽微であり、レールの一部が損壊したのみであった。長春からの列車は、損壊したレール上を問題なく通過して、瀋陽に到着していた。
 1931年9月18日午後10時20分頃に、満州の奉天(現在の瀋陽市)の北方約7.5kmの柳条湖の付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路の一部が爆破された事件が勃発した。関東軍はこれを中国軍による犯行と公表して、満州に対する侵攻と占領の口実とした。翌日9月19日午前6時30分には、関東軍は約7,000人の中国人兵士が駐屯する北大営を占領して、約300人の中国人を殺害した。日本政府は9月5日から関東軍決行を牽制して、9月19日に不拡大方針を出した。9月24日には関東軍の自衛行為と正当化した。1932年1月には関東軍の忠烈を讃えられた。関東軍が主要都市を制圧した1932年3月に、傀儡政権である満州国を建国した。1931年9月21日に中国は抗議して国際連盟に提訴した。国際連盟はリットン調査団を柳条湖に派遣した。その報告書は関東軍の自衛を非難しつつも、強い制裁措置を取らない融和的であった。しかし日本は不満として国際連盟を脱退し、国際的孤立を巻き込まれた。柳条湖事件から1945年8月15日の終戦日まで、日中戦争は中国全土で15年間も泥沼化した。


2019年9月29日日曜日

広島日赤病院は、医師約6人と看護婦約10人のみで殺到する広島原爆の被爆者を外来診療した。(広島)

広島赤十字病院は、爆心地から南に約1.5kmにあり、甚大な被害を受けた。病院内部は崩壊したが、3階建て鉄筋コンクリート製の外郭だけは残存した。戦争管理下で1939年陸軍病院に改修されて、兵士のみを入院させていた。正面玄関前の外来部門のみが市民の治療ができた。多くの医師・看護婦などの医療職は被爆してわずかに医師約6人と看護婦約10人のみで診療した。殺到する約1万人以上もの膨大な被爆市民を、外来部門のみ治療した。病院には比較的大量の医薬品と備品が備蓄されていた。その在庫は無限大の新しい患者の波ですぐに使い果たされた。医師と看護師は被爆者を正面玄関の前で治療した。医師も被爆して左上肢が負傷して、三角巾で支えて左上肢で、8月10日に被爆者を治療した。
 1939年5月に開院した日本赤十字社広島県支部病院は8月には陸軍指定の広島陸軍病院赤十字病院、1943年に広島赤十字病院に改称した。看護師は、日本赤十字病院に救護看護婦養成部の看護婦生徒もいた。大本営派遣調査団が被爆直後に、日本赤十字病院を訪問した。原爆調査感光したレントゲンフィルムからガンマー線の原子爆弾の放射能と8月10日付の広島爆撃調査報告で認定した。被爆により、2階のレントゲン撮影室に保管していたレントゲンフィルムが、真っ黒に感光していた。同日の陸軍海軍合同会議にて、特殊爆弾は原子爆弾であると認定された。1956年に被爆者医療に特化した日本赤十字社広島原爆病院が開院された。