2019年8月19日月曜日

イスラエル軍による即決裁判で、5人のパレスチナ人警察官が死刑で銃殺された。

イスラエル軍兵士による即決裁判で、5人のパレスチナ人警察官が死刑に処刑されて銃殺された。ラマラ中心部の6階建ビルで、警察に扮したパレスチナ人の5人の武装集団が銃撃戦で死亡したと報じた(AP通信2002年3月30日)。
 イスラエル軍が、2002年3月29日から4月18日にかけて、イスラエル軍がジェノンをはじめとするパレスチナ人居住区に侵攻し、おびただしい数の市民を殺害した。ガザ地区とヨルダン河西地域での大量虐殺に対する国際的批判が沈静化すると、イスラエルは小規模のジェノサイド(大量虐殺)政策に戻った。パレスチナ人は、人間以下の「アマレク(聖書出エジプト記でイスラエル人を襲った永遠の敵)」として、虐殺が継続して、シオニスト(ユダヤ民族主義者)の供物となった。ナチス・ドイツによるホロコースト(大量虐殺)から、ユダヤ人国家の擁護と安全のために、パレスチナ人のホロコーストを正当化した。
 2002年3月6日から16日までにラマラなどで、約200人以上のパレスチナ人がイスラエルのパレスチナ占領軍によって虐殺された。3月8日だけで40人が虐殺された。ラマでは、15歳から45歳までの男性を尋問のために集合された。約500が連行されて、拷問を受ける虐待あるいは約150人が虐殺された。イスラエル軍はラマラを閉鎖軍事区域に指定して虐待と虐殺は隠蔽した。4月2日にベツレヘムのキリスト教生誕教会周辺で、イスラエル軍のヘリコプターが襲撃して約10人パレスチナ人をテロリストとして虐殺した。ベツレヘムでは救急車が侵入を阻止されて犠牲者が増大した。4月6日に、ジェノン北部を攻撃して、約30人のパレスチナ市民が虐殺された。4月10日に、イスラエル軍は、ジェニンとナブルスの難民キャンプが襲撃して、約1,000人が虐殺した。報道機関がイスラエル軍による検問を強制されて、閉鎖軍事区域を拡大して、パレスチナ市民に対する集団虐殺は隠蔽された。ジュネーブ条約では、軍事行動が一般市民を巻き込むことを厳しく禁止している。



日本平和の市民連盟
2019年8月20日にBloggerの投稿数は1,100回に達した。

2019年8月18日日曜日

広島原子爆弾の炸裂から放射された激烈な熱線により、男性は露出していた後頭部から背部にかけて重度の熱傷を被爆した。

広島原子爆弾の炸裂から放射された激烈な熱線を爆心地から約500mで被爆した。露出していた後頭部から背部にかけて重度の熱傷を被爆した。救護所に護送されて、1945年8月中旬にうつ伏せにのままに男性は苦痛に耐えていた。
 原子爆弾は非常に短時間で途方もない熱線を放出し、被爆者は甚大な熱傷を被爆した。爆心地から地面に到達した熱は、1平方センチメートルあたり約100カロリーと推定されて、爆心地から1 km以内で露出して、その熱線を直接に被爆した被爆者は、5度以上の熱傷を被爆した。爆心地から3.kmまでは、1度から4度の範囲の熱傷を被爆した。
 原子爆弾が炸裂して放射された直後のすさまじい高熱は、身体の皮膚などに最重度の熱傷を被爆した。爆心地からの距離が近いほど熱傷は重度になった。重度になると皮膚は焼けただれてズルズルとはがれ落ち、皮下組織や骨までが露出した。約1.2km以内では熱線は致命的な殺傷となった。爆心地付近では、一瞬のうちに身体が炭化して、水分さえ蒸発した。地上を襲った熱線による瞬間的な熱傷が、被爆死亡者の死因の約3割となった。



2019年8月17日土曜日

イギリス連合軍の兵士らが、インパール作戦にて手榴弾で自爆した日本軍兵士の死体を検死した。

大東亜戦争におけるインド(現在はミャンマー)のインパールからビルマまで約470kmも敗退する日本軍兵士は、途中で力尽きて自爆した死体が散乱していた。イギリス連合軍の兵士らが、手榴弾で自爆した日本軍兵士の死体を検死した。腐敗して強烈な悪臭が漂う死体には、蛆虫、アブ、蝿、蟻、山蛭などが群がった。
 大東亜戦争の劣勢により、イギリス軍らの連合軍のインドからの進撃に対して、1944年3月8日から日本軍がビルマとインドの国境のインパールを最も無謀に攻略した。約10万人もの日本軍兵士は、約3週間の食糧と弾薬だけで補給もなくインパールに進撃した。約4カ月間もの戦闘に、7月8日から8月12日まで激しいビルマの雨期に約2,000m級のアラカン山系の泥沼を乗り越えた。チンドウィン河に沿った敗走路である「白骨街道」には、甚大な犠牲を伴う悲惨な死体の山が散乱した。イギリス連合軍からの爆撃の上に、熱帯の炎暑と猛烈な豪雨により、日本軍は食糧も弾薬も尽きて、やせ衰えて栄養失調や伝染病で次々に戦死した。撤退中にビルマの農村部は食糧を略奪して、弱肉強食されて荒廃した。
 インパール付近の4月5日コマヒ基地を占領するも、6月1日には遂に日本陸軍初として上官の命令に従わずに撤退する抗命事件が勃発した。ビルマ方面の日本軍兵士は約33万人のうち、生還者は約13万人で、約20万人が戦死して行方不明となった。1945年3月にビルマ国民軍が連合国側に寝返り、日本軍に対して攻撃を開始して、日本はビルマを失った。日本軍への反撃を指揮したのが、「ビルマ建国の父」のアウンサンであり、娘のアウンサー・スー・チーが後にミャンマーの国家顧問を務めた。



2019年8月16日金曜日

東京大空襲で丸焦げして炭素化した死体を、証拠品などから身内を見出して悲嘆した。

東京大空襲によって、ほんど見分けがつかないほど、死体は丸焦げして炭素化した。証拠品となる入歯などから身内を見出しては悲嘆した。吹き飛ばされた建物や破片が散乱して、被爆市民が逃げ惑った。空襲による大火災と噴煙が充満して犠牲者が甚大となった。空襲を受けた市民の恐怖、家族の喪失感や悲嘆に暮れた。市民らは長い棒を突き刺しながら、瓦礫の山に埋もれた死体を探索した。大勢の市民は、空襲で火災した住宅を取り囲み見守るしかできなかった。瓦礫の下で人体が破壊されて、衣服は散乱して焼き焦げた。戦時下の厳しい情報統制により、空襲の実態は市民には極秘にされた。
 東京大空襲により、1945年3月10日が最も無差別に東京の都心や下町が爆破されて、最悪に約10万人に及ぶ市民が戦死した。アメリカ軍のB-29大型爆撃機による市民に対する無差別攻撃の大空襲は、最初の1944年11月24日から終戦の直前まで約100回以上に昇った。海上の空母から発進したB-25による小規模な空襲は、1942年4月に勃発していた。アメリカ軍による大空襲は軍事施設地点だけでなく、市街地域を爆撃の目標とした。11月24日は、B-29の24機体が中島飛行機製作所に約50トン、B-29の64機体は市街地に約3倍もの約150トンの爆弾を投下した。最初の東京空襲から市民への広範囲にわたる無差別爆撃が指令された。市街地への無差別空襲を実施すれば名誉の功績となった。太平洋戦争が勃発する直前の1944年11月に、アメリカ軍の司令部は、焼夷弾による都市焼き払いを構想していた。焼夷弾は、ゼリー状のガソリンを付着させて、消火は困難となり、火力の威力は拡大した。対ドイツ戦では、特定地点を精密爆撃して、対日本戦では都市全体を焼き尽くした。真珠湾の恨みを晴らすために参戦したアメリカ軍は大空襲で日本を復讐した。B-29大型爆撃機は、約5,000kmの飛行距離と約10,000mもの高度を飛行した太平洋戦争に集中して空爆した。



2019年8月15日木曜日

硫黄島の元山第2飛行場の南東端にて、日本軍兵士が手榴弾で上半身を爆破して自殺した。

太平洋戦争にて、1945年2月19日から3月26日までの硫黄島の戦いは、日本軍とアメリカ軍ともに凄絶で苛烈な戦闘となった。日本軍兵士は水分の極度の不足と身体的苦痛を患いながら、生と死の間を彷徨した。地熱と硫黄の臭気がたちこめる洞窟の中で、地中潜伏を強制されて、死へ追いつめられた。硫黄島の元山第2飛行場の南東端にて、1945年2月に日本軍兵士が手榴弾で自決した。左胸部から腹部が破裂した内蔵と左上肢が吹き飛ばされて硫黄島の砂上に散乱した。
 小さな孤島である硫黄島にて持久戦から玉砕戦までが混在して、双方ともに膨大で悲惨な犠牲を伴った。日本軍の約20,933人は、全く硫黄島に孤立した。日本軍は約19,900が戦死して、約1,032人が戦傷した。アメリカ軍は、艦艇は約800隻、航空機は約4,000機、上陸部隊の総数は約111,000人など総兵力は約250,000人も参戦した。アメリカ軍の戦死傷者は約28,686人に昇り、戦闘は36日間にも及んだ。アメリカ軍は、戦死者約6,821人、戦傷者は約21,865人、総計約28,688人で、日本軍よりも総計で約7,753人も上回った。わずか20平方kmの孤島にアメリカ軍は、艦砲射撃約14,250トン以上、投下爆弾約8,360トン以上に及ぶ砲爆撃を加え、上陸からも約450,156発の砲弾を発射して、戦禍を及ぼした。
 日本大本営は、いずれアメリカ軍の攻勢によって、硫黄島は占領されると推定していた。アメリカ軍は硫黄島の占領により、日本本土を爆撃して被弾したB29を約2,400機と総搭乗員の約27,000人を救出した。硫黄島から戦闘機を直接に日本本土に向けて大規模な爆撃により、無差別に市民も空襲に巻き込んだ。
 太平洋戦争の終戦後には、硫黄島は日米間の防衛基地に変貌した。海上自衛隊が硫黄島を管理して、防衛庁は1979年度から硫黄島を自衛隊の防衛基地化した。現在ではアメリカ合衆国と結んで、再び日本の防衛軍事基地として活用された。日本大本営の防衛にとって重要な軍事基地を演じた硫黄島が、戦後になっても、同様に再び軍事の重要性ために軍事基地に復興された。


【閲覧留意】
2019年8月15日 

Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 270,000回

2019年8月14日水曜日

カトリック教徒の有名人である永井隆は、長崎原爆の荒野を散策して、原爆を神に感謝すべきと信者に説教した。

長崎医大で、放射線医学を専攻し、助教授、物理的療法科部長、医学博士となった永井隆が、1945年8月9日に長崎原子爆弾の炸裂により崩壊した長崎市内の爆心地の周辺の荒野を1948年4月に散策していた。その数日後に原爆症で死亡した。
 永井隆は、被爆前の1945年6月に白血病にて余命3年と診断された。長崎原子爆弾の炸裂によって、爆心地から約700mの長崎医大で診療中に被爆した。受傷した直後から、長崎市三山町木場を拠点とした救護班から巡回回診をした。1948年8月に長崎市浦上天主堂の付近に如己堂にて白血病の療養した。1951年5月1日に長崎大学附属病院で病死した。
 永井隆は、長崎原子爆弾の救護活動を『長崎の鐘』を1949年1月に出版して欧米のベストセラーとなり有名人となる。永井隆は、カトリック信者として、原爆投下を「神の御摂理」と解釈し、さらに、原爆死没者を「汚れなき小羊の燔祭(ホロコースト)」、生き残った被爆者は「神が与えた試練であり、神に感謝」すべきと原爆を肯定した。『生命の河―原子病の話(1948年8月)』では、ナチス・ドイツがドイツ民族の血の純潔を保つホロコーストに対して、難民となったユダヤ人の原子力科学により、アメリカで原子爆弾が案外早く出来上り、戦争を引き起こした日本の長崎市民の血が求められたと説教した。宗教思想の有名人になれば、戦争も大量虐殺も原子爆弾も神に感謝すべきであると信者に説教した。


2019年8月13日火曜日

日本軍の731部隊は、中国人らの囚人の約4人にペストノミを散布して、全員が感染してベットに苦しみ横たわった。

日中戦争中に、日本軍の731部隊が1936年から終戦まで、最も極秘に、国際的に禁忌である人体実験と細菌攻撃の研究をした。中国人らの囚人の約4人にペストノミを散布して、全員感染させてベットに苦しみ横たわった。チフス菌の砂糖水を強制的に飲水させて細菌感染をさせて、約12人が死亡した。チフス菌を注射器で果物に注射して、中国人の約5人に強制的に食べさせ、全員が感染した。人体ワクチン実験は、約50人の囚人で実験した。大量感染を引き起こす細菌爆弾の研究は約10人以上の囚人で実験した。チフス菌の細菌弾を空中や杭上で爆破して、頭から菌を落下して、約半数が死亡した。731部隊で関東軍の凍傷研究で、極寒期の零下約20度に囚人を外に出して、扇風機をかけて凍傷を人工的に作った。1940年12月頃に約5人の中国人の囚人の両手が全て壊死して黒化していた。絶食約3日や一昼夜不眠などで、零度の氷水に指を約30分浸けて凍傷にした。 日本軍は日本に反発する中国やソ連の人を匪賊と呼び、スパイや思想犯を人体材料にした。日本軍は日本に反発する中国やソ連の人を匪賊と呼び、スパイや思想犯を人体材料にした。囚人は頭を丸坊主に刈られて、「マルタ」と呼ばれた囚人は頭を丸坊主に刈られて、悲惨な人材実験をされた。 
 日中戦争に細菌兵器の開発を行った日本軍の秘密部隊ある関東軍防疫給水部である通称731部隊が、1936年に編成された。終戦から4年後に、旧ソ連の軍事ハバロスク裁判により、細菌兵器開発のために、生きた人間実験が証言された。731部隊が人体実験を、中国東北部ハルビンの郊外約20kmに、731部隊の本部跡周辺で実施した。3階建ビルには中央には周囲から遮断した牢獄が設置され、人体実験材料の囚人が収容された。人体実験の死亡者は、約3,000人以上とされる。表向きは防衛目的の研究開発を進めるため、全国の大学から医学者を集めて最大約3,000人に達した。石井式無菌濾水機を開発して、731部隊となった石井四郎の出身大学である京都大学が最も多く、次いで東京大学であった。約1年間の医学教育を受けた少年隊員も招集された。1937年に、日中戦争が勃発して、中国側の激しい抗戦で日本側の犠牲も増えた。日本軍は反抗する中国人らを匪賊として、掃討作戦を行った。匪賊に対する敵意が高まり、世論は軍による処刑を支持した。戦争が泥沼化していった1940年代に、731部隊は中国中部の複数の都市で少なくとも約3回、細菌を散布した。戦争末期の1945年8月9日に、ソ連が満州に侵攻して、731部隊はただちに撤退を始めて、証拠隠滅のため、全囚人を殺害して焼却して、実験施設を徹底的に破壊した。一部は、ソ連軍の捕虜となり、ハバロスク裁判で審判された。



2019年8月12日月曜日

ペリリュー島でアメリカ軍の砲撃と火炎で、焼け焦げて殺害された多数の日本軍兵士の死体が折り重なり散乱した。

太平洋戦争において、ペリリュー島で74日間の死闘にて、日本軍兵士は全滅した。アメリカ軍は山々に散在する日本軍陣地は、火砲の集中砲火とガソリンを注入した火炎放射器で粉砕して、草木は焼け付くし露呈した。連日の砲撃と火炎で、焼け焦げて殺害された多数の日本軍兵士の死体が折り重なり散乱した。洞窟や塹壕には、砲弾を打ち込まれて、反対側から逃げようとする日本軍兵士は火炎放射器で焼き揚げられて銃殺された。タンク車からガソリンを洞窟や塹壕に注ぎ込まれて、火を放たれて焼き殺された。日本軍兵士をいぶり出す煙弾も砲爆撃した。さらにブルドーザーで、出入口を土砂により埋没した。
 最後には、11月20日には弾丸も打ち尽くして、小銃のみとなった。飲料水が欠乏して、食糧もなくなり絶食となった。重軽傷者も戦闘しながら、その中で戦闘不能者は自決させた。うめいて動けぬ重傷者は壕に集積されて、手榴弾の束を投げ込み轟音とともに肉片が飛び散った。11月24日夕方から残存した約56人の日本軍兵士が斬り込み隊となって突撃して、アメリカ軍は照明弾の中で全員を殺害した。11月27日にアメリカ軍はペリリュー島の戦いを終結宣言して、残存兵を掃討した。ペリリュー島の戦いで、日本軍兵士の戦死者は約12,000人、アメリカ軍は戦死者は約1,684人、戦傷者は約7,160人に昇った。
 約40人の残存の日本軍兵士は、1945年8月15日の日本の無条件降伏を知らずにペリリュー島に潜伏し続けた。1947年3月に生存した日本軍兵士が銃撃した。生きて虜囚の辱めを受けずと、元日本軍少将からの呼びかけや終戦のビラにも応じなかった。日本から家族や知人からの手紙を取り寄せて読み上げた。最終的に1947年4月22日に洞窟から34人が投降した。  



2019年8月11日日曜日

沖縄戦にてアメリカ軍兵士は、即座にハエがたかり、ウジが湧いて死臭が漂った日本人の死体を検死した。

沖縄戦にて、アメリカ軍兵士が殺害した膨大な日本人の死体を検死した。死体には、即座にハエがたかり、ウジが湧いて死臭が漂った。日中の気温は30度に昇り、衛生状態の悪化して、降雨で泥と炎の戦場となった。
 太平洋戦争では、日本軍兵士の捕虜の数が極端に少なかった。沖縄戦でも、日本軍兵士はほとんど全滅して、わずかに約220人だけが捕虜になった。捕虜になったのは、主に重態な戦傷者であった。沖縄戦で戦死者数は、日本人は約244,136人とアメリカ軍兵士は約12,520人に上った。日本人の戦死者約244,136人の内訳は、兵士が約94,136人(約39%)と沖縄住民は約94,754人(39%)と戦闘協力者は約55,246人(23%)となった。沖縄戦は、市民を巻き込んだ悲惨な無差別の虐待と虐殺の戦闘になった。
 1945年4月19日から、アメリカ軍は首里周辺に総攻撃した。日本軍は丘陵地帯や洞窟から攻撃し、沖縄住民は軍と行動を共にした。突入するアメリカ軍の戦車に対して砲撃だけだなく、日本軍兵士と沖縄住民の防衛隊や少年兵の鉄血勤皇隊も、特攻のように爆弾を抱えて突撃する肉弾戦法で、戦車もろともに自爆した。アメリカ軍は全ての洞窟をしらみつぶしに崩壊して掃討した。首里の戦いでは、多くに兵隊も住民も死ぬまで戦い果て、生き埋めにもなった。5月末までの首里の戦いで、戦死は約6万4000人に達した。アメリカ軍の死者・負傷者は約5,000人以上にのぼり、墓穴をブルドーザーで掘った。最大の犠牲者は沖縄住民で、首里周辺での死亡率は50%にのぼり、一家全滅が全世帯の約4分の1を占めた。
   中部・首里戦線の戦闘では、約6万人もの日本軍兵士が戦死した日本軍に対して、アメリカ軍は、掃討戦により日本軍兵士・沖縄住民・日本人戦闘協力者を追いつめていった。南部一帯は、那覇・首里・中南部などからの避難民と敗走する日本軍兵士とが混乱する悲惨な戦場と化した。アメリカ軍は、艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などあらゆる近代兵器を使って攻撃した。さらに日本軍兵士兵や沖縄住民などが隠れている壕に対しては徹底的な「馬乗り攻撃」を行って、膨大な人々が犠牲となった。1945年6月23日に沖縄司令官部の崩壊によって日本軍の組織的戦闘は終結して、最終的には8月15日の日本降伏後の9月7日なって降伏文書に調印して最終結した。



2019年8月10日土曜日

青年被爆者は、帽子から露出した顔面が、広島原爆で焼き尽くされて帽子の跡が残った。

広島原子爆弾の炸裂により、青年被爆者は皮膚の色素が脱出した顔面の火傷を被爆した。帽子から露出した顔面から頸部の皮膚は、広島原子爆弾からの熱線と原爆放射能によってすべて焼き尽くされて、帽子をかぶっていた跡が残った。
 原子爆弾が人体に与える障害や損傷を、原子爆弾症(傷)と呼称した。これらの障害は、(1)熱や光線、(2)爆風、(3)放射能の影響などで発症する。熱や光線は、人体の露出部を熱傷する。爆風により、建物や家屋の倒壊による圧死や外傷を受傷する。放射能は、増殖組織である骨髄、脾臓、リンパ線や生殖線などに損傷を受ける。爆心地からの距離にも相関して、障害を伴った。
 1946年の初頭から原爆放射能によって、熱傷の傷口の皮膚から瘢痕組織が不規則に盛り上がってケロイドが生じて、皮膚が拘縮した。ケロイドは爆心地から約2km以内の地域で、1945年8月6日に原子爆弾の熱線を皮膚に直接に受けた被爆者の約5割程度に発生した。この広島原子爆弾の写真記録などは、終戦後からアメリカ陸軍病理学研究所に保管されて、1973年に日本に返還された。































2019年8月10日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 260,000回