2019年6月5日水曜日

第2次世界大戦の東部戦線のクルスクの戦いにて、若いソビエト赤軍の兵士が戦闘する肢位で戦死した。

第2次世界大戦の東部戦線の最終期におけるクルスクの戦いにて、若いソビエト赤軍の兵士が戦闘する肢位で戦死した。ドイツ軍兵士約78万人において、約42万人が戦死・戦傷・捕虜などの犠牲が出た。ソビエト赤軍では191万人において、約86万人が犠牲となった。ドイツ軍隊はクリクスの戦いから後退に直面し、赤軍は猛攻撃を阻止して、両軍が受けた膨大な人的と物的な損害を受けた。
 ドイツ軍が東部戦線のスターリングラードの戦いで、ソビエト赤軍により壊滅的な敗北して、1943年2月2日に降伏した。敗北から行き詰まりに対抗するクルスクの戦いは、1943年7月5日から8月23日まで、戦線上に膨らんだ地域の中心であったロシア西部のソビエトの都市クルスク地域で勃発した。ドイツ軍は、第二次世界大戦の東部戦線での支配を取り戻すための最後の電撃戦攻撃となった。ドイツ軍はバルジ内のソビエト赤軍を取り囲み、南北両方からの突撃した。ソビエト赤軍は前もってドイツの突撃で脅かされる地域から主力を撤回した。ドイツ軍は北に約16km、南に48kmしか侵攻できず、その過程で膨大な犠牲を受けた。7月12日の戦いの最大期から、ソビエト赤軍は反撃を始めて際立って優勢になり、広範囲の侵攻をした。8月23日にクルスクの戦いは、ドイツ軍は史上膨大なる戦車戦をするも、東部戦線でのドイツ軍の攻撃能力を決定的に喪失した。




2019年6月4日火曜日

南北戦争の第3次ピーターズバーグの戦いにて、北軍の銃により塹壕と防御物に潜んだ南軍の兵士が銃殺された。

アメリカの南北戦争の第3次ピーターズバーグの戦いにて、1965年4月3日に北軍の銃により塹壕と防御物に潜んだ南軍の兵士が銃殺された。
 南北戦争も最終盤となった1865年4月2日には、バージニア州ディンウィディ郡のピーターズバーグの南西地域で、第3次ピーターズバーグ戦いが勃発した。1864年6月15日から292日にも及んだピーターズバーグ包囲戦が、この戦いで終結した。北軍は前日の4月1日にファイブフォークスの戦いで勝利した後に、ピーターズバーグの塹壕と防御物に潜む南軍の北バージニア軍に強襲を掛けた。北軍の強襲により、南軍の右側面から背面と残存した供給線が遮断された。北軍は約76,113人のうち約3,936人が犠牲となった。南軍は約58,400人のは、戦死、負傷、捕虜となって約5,000人以上もの戦死傷者が犠牲となった。
 ピーターズバーグで南軍の防衛線は、極限まで引き伸びて、守備兵を配備するのが困難となった。さらに3月下旬から続く戦闘により、脱走兵や戦死傷者が続出した。北軍は、ピーターズバーグの南軍の防衛線にも強襲を掛けた。南軍の守備隊の最後の砦が、北軍の突破を食い止めた。バージニア州に残存していた南軍のアメリカ連合国政府、南軍の陸軍とと海軍、地元の守備隊が、4月2日から3日の夜にかけて、ピーターズバーグと首都リッチモンドから脱出した。
 1865年4月3日には、北軍がリッチモンドとピーターズバーグを占領した。その後に北軍の大半は、南軍の北バージニア軍を追撃した。最終的に4月9日のアポマトックス・コートハウスの戦いで、南軍の北バージニア軍を包囲して、南軍は降伏した。



2019年6月3日月曜日

日本軍兵士らが、南京事件で南京市民を自分の埋められる穴を掘らせて、悲惨な生き埋めにした。

日中戦争にて日本軍は1937年12月13日に中華民国の首都である南京を占領した。日本軍兵士らが、南京市民を自分の埋められる穴を掘らせて、悲惨な生き埋めにした。日本軍は南京を占領して6週間以上にわたり、南京の市内と周辺地域にて、大量の虐待と虐殺が執行された。日本軍が南京を占領する約1ケ月前に、国民政府は南京から重慶に遷都していた。国民政府の降伏から蛮行に転じた松井石根元大将は、南京事件の首謀者として、東京裁判のA級裁判で死刑が執行された。
 神戸市内でタクシー会社を経営していた吉本さんが、レコード棚に保管してあった写真とネガ等が、遺品アルバムに貼られていた。吉本さんは、南京陥落した直後に、南京周辺を視察して、「南京市民が、自分が埋められる穴を掘っている」と伝言していた。南京侵略に参加した陸軍歩兵第36連隊の襟章の36数字の兵服を着用していた。
 墓穴の周囲に集合した日本兵士は、南京侵略に使用した武装具を着用している。1938年7月に、中国・国民政府軍事委員会政治部から『日寇暴行実録』で、方向の異なる写真が出版された。特定できるそれぞれの日本兵の服装と姿勢が一致している。国民党軍が退却中である時期に、『日寇暴行実録』に合成写真の掲載は困難とされる。しかし、撮影された日時や場所が特定できずに、中国側の合成写真と依然として論争されている。南京大虐殺の世論はさまざまであるが、南京事件はほとんど否定されていない。



2019年6月2日日曜日

第1次世界大戦のピアーヴェ川の戦いで、塹壕で潜伏したイタリア軍兵士は、オーストリア軍の襲撃によって虐殺された。

第1次世界大戦にて、1918年6月18日の第2次のピアーヴェ川の戦いに、ピアーヴェの塹壕で潜伏したイタリア軍兵士は、オーストリア軍によって襲撃されて虐殺された。多数のイタリア軍兵士の戦死した死体が、塹壕内に放置されて散乱した。
 第1次世界大戦において、ロシアのソヴィエト政権とドイツは1918年3月3日に単独講和のブレスト=リトフスク条約を締結した。ロシアはポーランドの占領大幅に縮小して、一次世界大戦の東部戦線を終結させた。ドイツ軍は西部戦線のイタリア戦線から引き上げた。イタリア北部のピアーヴェ川の戦いは、オーストリア軍によるトナーレ峠の攻撃を、イタリア軍など連合軍は撃退した。イタリア軍など連合軍は約8万人の戦死傷者と敗北したオーストリア軍は約15万人の戦死・戦傷者と約2万5000人の捕虜の膨大な犠牲を伴った。
 塹壕戦は、主に占領下の戦闘する陸上戦であり、武器の射撃や砲撃から防御するために塹壕に潜伏した。第1次世界対戦が最も残酷な塹壕戦となった。紛争の行き詰まり、損耗、戦争の無益の象徴となった。
 武力の革命が機動力の進歩と一致しなかったときに塹壕戦争が起こり、その結果、相互の防御側から攻撃する悲惨な塹壕戦が勃発した。第一次世界大戦では、両側は有刺鉄線によって攻撃から隔離して、正面に沿って相互に向き合った溝と掘削で構築した。塹壕間の地域は、無人の土地となり、両軍から完璧に砲撃にさらされた。攻撃はたとえ漸進しても、深刻な犠牲者を伴った。



2019年6月1日土曜日

広島原子爆弾による死没者の名前が過去帳に毎年記入され、1952年に肉親に見守られて慰霊碑の石棺内に過去帳は奉納された。(広島)

広島原子爆弾の1945年8月6日午前8時15分の投下から炸裂によって、死亡した被爆者のお名前が、毎年に過去帳に記入された。1952年に建立(設計:丹下健三)された慰霊碑の石棺内に過去帳は奉納された。過去帳の奉納時に肉親らが見守り悲嘆した。まず57,902人が死亡した原爆死没者の名前が記載された。それ以後から、毎年に新たに死亡と判明した原爆死没者のお名前が8月6日が過去帳に追加記入されて、広島平和公園内の慰霊碑に奉納された。1952年8月6日から広島平和記念公園内に建立された慰霊碑前で式典が挙行された。開催された式典は、8月6日の午前8時から開催されて、午前8時15分に広島原子爆弾の遺族関係者から一般市民や海外からの参加者が黙祷を捧げた。毎年に広島平和祈記念式典が挙行されて、1952年の第6回平和記念式典の時は、その参加者は約1,000人で少数の参加に留まった。
 広島に投下された原子爆弾により死没者やその後に死没者の氏名・死没年月日・死没時年齢を、1952年から過去帳である原爆死没者名簿に登載し、広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)に奉納する。2018年8月6日に奉納時は、総合の名簿登録は314,118で、名簿は115冊に達した。正面の碑文には「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから(雑賀忠義)」と刻印された。広島原子爆弾の平和記念碑(原爆ドーム)は、1996年にユネスコの世界遺産に登録された。


2019年5月31日金曜日

ロシア内戦でタンボフ反乱を起こした農村の農民は、1920年代にボリシェビキを首吊りで虐殺した。

ロシア内戦によって、タンボフ反乱を起こした農村部の村人たちは、1920年代にボリシェビキ派を首吊りにて虐殺した。ボリシェビキは、モスクワの南400kmにあり、豊かな土壌を保有し、農業が盛んなタンボフに、約50回も食料徴発部隊を派遣して、農民を追い詰めた。飢え死なく穀物を自由にする共和国の独立のために、遂に農民蜂起をした。1920年から農民の反乱は頻発して、反乱軍は約3万人に膨れた。
 だった。タンボフも日照りが続き、農民は飢えに苦しんだ。レーニンは約10万人の赤軍をタンボフに派遣した。ボリシェビキは農民たちを弾圧して、都会市民は飢えに追い込んれ、農民への憎悪が暴発した。ボリシェビキ政府は対立を利用して、反革命勢力の撲滅をした。農民は赤軍に逮捕され虐殺され、死体は放置され腐敗した。蜂起した農民と家族は連行されて、拷問と虐待を受けて虐殺された。ボリシェビキ政府は、追い詰められた農民が隠れた森に毒ガス攻撃が行われ、あぶり出され呼吸困難で絶命した。約14,000人の農民が殺され、反乱は鎮圧された。タンボフ県は分割され、近隣の州に付けられ、地図から抹消された。
 ボルシェビキに対する農民の反乱は、1920年から21年のタンボフ反乱に対して、ボルシェビキ政府は容赦なく対抗して、強制収容所と毒ガスの使用により何十万人もの農民が殺害された。農民の蜂起と弾圧の下で、ボルシェビキ指導者たちは農民に対する政策を改変した。ボルシェビキの支配に対する農民や市民からの脅威が減少しても、共産党の独裁政権または抑圧を放棄しなかった。ソビエト内戦時代には、ジョセフ・スターリンが後になって残虐行為の作戦を遂行した。虐殺するために使用する収容施設が設置された。農業社会から現代の工業国を急速に創出するために何百万人もの農民を虐殺した。



2019年5月30日木曜日

ミャンマー軍兵士が夜間に少数民族のカレン民族の農村を襲撃して、約12人のカレン人を山林で虐殺した。

ミャンマー南東部に居住しているカレン民族は、2002年にミャンマー軍兵士により夜間に農村が襲撃された。約12人のカレン人がミャンマー国軍により山林で虐殺された。虐殺されたカレン人の死体は、山林に運搬されて横並びにされた。
 日本軍が1942年にビルマに侵攻して、1948年にビルマはイギリスから独立した。ビルマは、イギリスを支援したカレン民族やシャン民族などの少数民族を含めなかった。カレン族は約500万人で、ミャンマーの総人口の約7パーセントを占めた。多数のカレン民族は、タイとミャンマー国境に避難した。主にカレン民族のカレン国民連合(KNU)は、1949年からビルマ政府に国境地域で独立戦争をした。KNUは、1976年から独立ではなく連邦制を求めた。1990年から天然ガスパイプラインが追加させるため、カレン民族を強制移住させて、KNUの掃討作戦が開始された。多くの難民が発生して、1995年にKNU本部は占領された。1998年には国連によりタイの西側2か所に難民キャンプが設置された。タイに脱出したミャンマー難民のうちカレン族は約20万人規模に及ぶ。
  ミャンマーでは1947年の独立以来、カレン民族同盟(KNU)のカレン民族解放軍及びカレンニー民族進歩党のカレンニー軍が、軍事政権国家平和発展評議会及び民主カレン仏教徒軍に対して国境地域にあるコートレイ解放区で独立闘争を行っている。KNU傘下の難民委員会の援助によって戦乱を避けて、1984年からタイに流入した難民は、1980年から90年のタイ経済の好調に乗って安価な労働力を提供した。マヌプロウのKNU本部の陥落後に難民は急増した。1998年には国連によってタイの西側2か所に難民キャンプが設置された。国外に脱出したカレン族の中には、国際社会にミャンマーの現状を伝える外部圧力団体として活動している。




2019年5月29日水曜日

アメリカ軍の爆撃によるイラク人の少年の重症の火傷の処置で、激痛で苦しみ悲鳴を上げ、父親は泣きながら少年の手を握った。

イラク戦争におけるアメリカ軍の爆撃により、2004年3月にイラク人の少年が、顔面から肩にかけて重症の火傷を受傷した。カルラバの病院で火傷の処置のために、イラク人の少年は、病院の職員が包帯を取り替えるたびに、激痛により苦しんで悲鳴を上げた。少年の父親は、泣きながら少年の手を握って忍びながら嗚咽した。
 イラク戦争によって、無差別にイラク人の子どもたちも、巻き込まれて犠牲となった。イラクの病院や救護所では、悲鳴を上げている子供、泣きじゃくる子供、意識を失いかけている子供、血まみれになった子供、重態となって死にかけている子供が、生き地獄をさまよった。イラク戦争によってイラク全土は、最も危険な地域となり、治安も悪化して、さらに占領軍と政府軍は、イラク市民を横暴に支配した。イラク戦争する正義は皆無であり、平和の破壊者に対するイラク市民の憎悪と応酬により、さらに平和を崩壊することになった。2014年以降には紛争の激化は壊滅的な被害をもたらした。
 ユニセフ報告書「子どもたちへの重い犠牲(A Heavy price for Children, UNICEFF, 2016年10月)」によると、イラク戦争により、人道支援を必要とする子どもは、イラクの子どもの3分の1に相当する約470万人に達した。ファルージャやモスル周辺の軍事作戦によって、多くの家族が崩壊した状況に直面した。イラクの子どもたちは、イラク戦争の最前線に立たされ、繰り返し、容赦なく標的にされ、地雷や爆発物により絶えず危険にさらされた。戦闘員や自爆テロなど最前線での活動の支援を余儀なくされた。 すべての戦争の当事者たちは、暴力を止め、子どもたちを守り尊重しなければならない。子どもたちが戦争の恐怖から立ち直り、より平和で豊かなイラクに貢献するのに必要な支援を提供しなければなりません。



2019年5月28日火曜日

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、日本軍兵士が戦死や病死した死体に蝿が集り腐敗していた。

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、日本軍兵士が戦死や病死して、1943年1月30日に死体に蝿が集り腐敗していた。ガダルカナルの戦いでは、戦闘だけでなく、飢餓とマラリアや赤痢などの病死から膨大な日本軍兵士の戦死者の死体が放置されて散乱していた。
 ガダルカナル島の戦いで、日本軍兵士は食料と武器の供給が途絶えて「飢餓による死の島」となった。ガダルカナル島は、日本から約5,000km離れた南太平洋のソロモン諸島で最大の島である。日本軍は1942年7月に島に飛行場の建設して、1か月後に連合軍が占領した。日本軍が1942年8月27日に奪還のため島に上陸した。
 日本軍兵士は、食料も武器も捕獲できず、すぐに枯渇した。連合軍からの激しい射撃で、日本軍兵士はジャングルの中へ逃避した。限られた食料で殺害され、重病になり、理性を失い、何もかも食べ尽くし、人間性が崩壊した。立つことができる人は約30日、起きることができる人は約3週間、立つことができない人は約1週間、寝転ぶ人は約3日、話すのを止めた人は約2日、まばたきを止めた人は明日までに死亡すると死期を日本軍は予測していた。
 約60,000人のアメリカ軍と連合軍は約6,842人が戦死したのに対して、日本軍は約36,402人の兵士を派遣し、約22,493人が戦死した。死者の4分の3が非戦闘死亡者で、飢餓と病気が主な死因となった。日本本土に帰還して生き延びた日本軍兵士は、さらに警察や軍隊からガダルカナル島の悲惨な戦争を極秘にするように脅迫された。




2019年5月28日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 220,000回

2019年5月27日月曜日

イラク戦争後に、反政府ゲリラの若い青年のイラク人は、約5発以上も身体に被弾して、多量の出血を伴って戦死した。

イラク戦争後に、アメリカ軍が反政府ゲリラのイラク人を銃殺した。反政府ゲリラの若い青年は、アメリカ軍兵士に対して狙撃していた。アメリカ軍から銃弾をすくなくとも約5発以上も身体に被弾して、上半身から腹部から多量の出血を伴って戦死した。
 戦争社会では、殺害し合って生命を奪い合うことは戦場と軍組織の目的でもあり、殺害者には名誉と称賛を与えられる。平和社会では、どのような状況であろうとも、殺人は最高の犯罪であり、裁判官と弁護人の裁判で量刑が裁定される。戦争の真実を可及的に守秘して避けている。戦争の暴力が、どのよな惨劇を引き起こすのかを省略してぼやかしている。
 軍人らは、人間性に疑問を持たずに、やがて人間の良心との呵責も無視して、人を殺した高揚感から罪悪感や後悔も抱かない。戦場では、瞬間に戦闘員と民間人を判断して、殺人を実行する。戦場には、道徳的、倫理的、法的、戦術的、技術的な見地を消失していた。自分が相手から殺される理由から、自分の判断で相手を撃つ。
 古代のイランには紀元前30世紀からアケメネス朝ペルシャ王国があり、その都のスーサから、ハンムラビ法典碑が発掘された。「目には目を、歯には歯を」は、ハンムラビ法典196・197条にある。195条は子がその父を打ったときは、その手を切られる。205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られる。犯罪に対して厳罰を与えた。195条は子がその父を打ったときは、その手を切られる。205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られる。犯罪に対して厳罰を与えた。戦争では、戦場の犯罪も、人には人、武器には武器で、平和市民に対しても厳罰を与えた。